――――第五章
      第十八話 追憶は双銀の軋み







――視界の中を、紫の靄がちらついていた。



『お父さま。どうして私には魔法が使えないのですか? もっと勉強の量を増やさなければいけないのですか? それとも、お祈りの時間を増やさなければいけないのですか?』
『ティルトよ。人間には、その人間に見合った歩むべき速度というものがある。……わかるな?』
『わかりません。お姉さまは既に初等と類される反流魔法の全てを使えるではないですか』
『お前の努力は知っている。……だが人の能力が開花するには、それだけでは足りないのだ』
『では何が必要なんですか? 才能? 時間? それとも……運?』
『何故それ程までに急ぐのだ? お前はまだ子供だ。ゆっくりと学べば良い』
『私が魔法を紡げるようになれば……きっとお母様も私を見てくれる』
『!』
『お母様の目に映っているのは、お姉さまだけ。きっと魔法の使えない私は、お母様にとって見る価値すらないのでしょう』
『……そんな事は、無い』
『いいえ。お母様だけでなく一族の殆どの人、使用人もそう……同じ冷たい眼をして私を見てきます。こうやって普通に接してくれるのは、お父さまとお姉さまだけです』
『お前は……聡明だな。残酷な、までに』
『お父さま?』
『不甲斐無い父を、許してくれ……』



 何度目かになる聖刃同士のぶつかり合い。薄暗い室内に飛び交う蒼白く清涼な火花。
 聖剣と聖槍の織り成す剣戟は、澄み切った鐘声として狭い空間に染み渡り、緊張と興奮を大きく扇動する。
 アズサは真正面から、それも自らの間合いの外より猛然と迫り来る穂先を半身で躱しつつ、剣をぶつけてその力の矛先を逸らそうとする。だがティルトは巧みに槍を操る為それは叶わず、刃と刃の擦り合いによる火花が飛散する中、自らが槍の外の間合いに退かざるを得なかった。
 バックステップで大きく間合いを開き、滑りながら着地したアズサは、すぐさま聖剣を構えるもその切先を相手に定める事ができない。
(こやつ……また腕を上げおったな)
 ティルトの領域を侵犯しないように、慎重に距離を測りながらアズサは思う。
 蝶のように舞い、蜂のように刺す。華麗にして剛毅なる武術に対して古来より使い回されてきた称讃だが、ティルトの槍技は正にそれに該当する。右回し、左回し、そして刺突。この三つこそが槍を扱う上での基本動作だが、ティルトのそれは彼女の質実剛健な気質を現すように基本を忠実に、鍛錬を重ねて極められた技だった。
 イシス軍で主流の兵装といえば直剣、曲刀、刺突剣といった刀剣類である。無論槍も扱う者はいたが、それは剣と併せて用いるという形で、己が一の武器として選んでいる者はまずいない。……ただ一人、ティルト=シャルディンスを除いては。
 槍の特性として挙げられる利点は剣よりも間合いが長く、剣よりも破壊力に秀でている。その事実は女性にとって男性と比べ体格でどうしても表出してしまう差を補って有り余る。だが同時に不利な点も内包していた。苛烈な環境である砂漠で槍を扱う際、足場の悪さ故に砂地では攻撃動作、反応速度がどうしても剣に比べて見劣りしてしまう。その初速の遅れは否応無く死という終焉に直結する為、自然と兵達の意識は槍から離れていくのがこの国では普通だった。
 だがティルトはあえて異端である槍を唯一として選び、今ではその錬度は国随一に到っている。
 元々ティルトはアズサと同じ師である先代“剣姫”に師事していた剣の使い手で、その才には非凡なものがあった。その腕前より、いずれはイシスきっての使い手になるだろうと同門の者達から囁かれていたが、ある時・・・唐突に剣の路を棄て、槍に転向していた。
 共に同じ道を歩んでいた現“剣姫”たるアスサは、自分と互角かそれ以上だといつも感じていた為、その事をとても惜しんでいたのだが、結局ティルトは二度と剣を手にする事はなかった。口頭での理由は聞いているが、心中での真実は例え親友といえど推し量れるものではない。だがそれでも、お互いがお互いの存在を認めている事実だけは何の変わりも無いと信じていた。……その筈だった。
「“剣姫”! 逃げてばかりでは、敵は倒せませんよ!」
「……くっ」
 視界を蝕む紫の靄と、揺らぐ感情に窮するアズサに対して、いつでも間合いに飛び込める意思を知らしめるように、隙無く槍を構えたままティルトが挑発に叫ぶ。厳しい叱咤を受けるも、やはりアズサは苦渋と迷いを表情に色濃く浮かべるだけで、その双眸からは平時の溌溂とした意志の煌きが霞んでしまっている。
 そんな両者の気勢が、そのままこの戦闘における両者の優劣を代弁していた。



『イシスの人間は、須らく七歳までには何らかの形式で魔法を顕現します。それがこの国にとっての常識です』
『そうですね』
『私は、先日十二歳になりました。ですが、未だに初等を紡ぐはおろか簡易魔方陣すら起動する事ができません。……私には、その才能が絶望的に無いのでしょう』
『焦ってはいけません。人の成長、才能の開花には往々に差があります。貴女はきっと晩成なのでしょう』
『そのような文言は聞き飽きました。姉上は、今の私と同じ歳で火炎メラ系、氷刃ヒャド系、爆裂イオ系の中級反流魔法を習得し、最高魔導府ダーマに招かれて勉学に励んでいます。次期“魔姫”の最有力候補と周囲から仄めかされ一族の者は姉に多大なる期待を掛ける。反面、妹である私を見る眼は汚物に向けるそれと同じ……』
『ティルト……』
『私は……家を出ようと思います。比べられる事に……いえ、シャルディンスの汚点として見下げ果てられる事に疲れてしまいました』
『出奔してどうするのですか?』
『実は、私は二ヶ月程前から“剣姫”様に師事しています。寝食も殆どそちらで』
『まあ、セクメト卿に?』
『はい。魔法大国において武の中心であらせられる“剣姫”様。その門下になれた事は、私にとってとても嬉しい事です。初めて自分の力で、誰かに認めて貰えたと思えました……それに』
『それに?』
『同門の方々は、差はあれど魔法が不得手な方々ばかりですから……私のように完全に使えない、という訳ではないのですが』
『同病相憐れむ、ですか』
『傷の舐め合いである事は否定しません。ですが一人だけ……とても私と似ている方がいます。その方も、私と同じで魔法が全く使えないとの事なんです』
『まあ……それはどなたなの?』
『イスラフィル様もご存知の、司教補佐官のレティーナ神官長の御息女です』
『……アズサね。確かに、彼女は貴女と似ているかもしれませんね』
『はい』
『……セクメト卿の所にお世話になっている事を、貴女のお父様はご存知なのですか? いえ、ご家族の方も』
『今ここで、イスラフィル様にはじめて話しました。……そして、父や姉はダーマに出向いているので知りません。一族の者達…いえ、シャルディンスに組する全ての者達は、私が何処で何をしているかなど、決して知りもしないでしょう。私は、彼らにとって消し去りたい汚点に過ぎませんから!』
『どうして、まず初めに私に話してくれたのですか? 貴女の父君は、貴女の事をとても心配しているのに』
『……父の立場というものもあります。如何に十三賢人に数えられているとはいえ、父はシャルディンス家の入り婿。古より続く魔道の大家の名を継ぐ為にも、私よりも姉の近くにいた方が良いと勝手ながら判断しました』
『それ故に自ら離れる……貴女は、聡明ですね。悲しくなる程に』
『……嘗て、父にも同じ事を言われました。ですが私はそれほど今を悲観しているわけではありません。私には夢ができましたから』
『夢、ですか? それは良い傾向ですね。訊いてもよろしいですか?』
『はい。……私は“剣姫”になりたい。いえ、ただ願い待つのではなく、そうなれるように自らを高める努力を怠りません』
『“剣姫”……その路は、並大抵の努力では至れませんよ? 特に、貴女で在ればこそ尚の事』
『今更です。ですが、もしもその地位に至れればきっと周囲も、一族の者も……既に亡くなった母も私を認めてくれる……そう思いたいんです』



「……どうして私達が戦わねばならぬ!?」
「まだ言いますか……貴女はもう私にとって敵だから。それ以外に理由など不要です」
「私にとっておぬしは敵などではないっ!!」
「そう主張したまま死ぬつもりですか! 私は、こうして貴女を殺そうと言うのにっ!!」
 軽く跳び上がって回転し、その威力を捲き込んで大上段から振り下ろされた槍を、アズサは頭上に水平に構えた剣で受け止める。だがティルトの一撃が余りに強烈だったのか、圧されまいと床を強く踏み締めたまま次の行動に移る事ができなかった。
「く、ティルト……信じていたのに、何故じゃっ!」
「信じる、信じない。この局面に到った以上、そのような問答に最早意味などありません!」
 ティルトも槍を退く事はしなかった。この拮抗した状態で、少しでも力点をずらせばアズサに反撃の機会を与えてしまう事を理解していたからだ……実際にアズサがそうするかは、意図的に考えない事にして。
 僅かな距離で、正面から二人は視線をぶつけ合う。
「何故、おぬしなんじゃ? 何がおぬしを駆り立てた!?」
「私がイシスに牙を剥く……その理由を、貴女は既に存じている筈です」
「……魔法が使える使えない、か。それはそんなに大事な事なのか!? 私には判らぬ!」
 叫びと共に剣を抑えるアズサの力が僅かに強まった。
「以前も貴女はそう言いましたね。貴女にとってはそれが是でしょう……ですが、イシス人という逃れられない血潮の柵が世界に在る以上、それは生きている限り切っても切り離せるものではない!」
「だから自ら切り離そうと? おぬしはそれが正しい事だと、本気で信じているのか!?」
「常に正しい事のみが国の、世界の為になる……なんて事は在り得ない! 現実には、正しい事はただ只管に厄介な時もあり、正しくない事を切に求める時もある。世界…いいえ、人間の社会とはそういうもの! 現に、イシスにあらざる血の貴女が“剣姫”に就いているように!!」
「!」
 吐き棄てるように叫んだティルトの言葉に、アズサの眼が大きく見開かれる。微かに撓んだ拮抗の刹那を逃さず、ティルトは退く事を放棄して逆に前に踏み出した。
「私は若かった。そして世界の何たるかをまるで理解していなかった。……持たざる者は、持たざる世界いまを根底から覆し、瓦礫の上に築いた新たな場所でしか持つ者には成り得ない!」
 ティルトは片手を滑らせて穂先の根元を自重を込めて強く圧す。それは完全に防御を棄て、攻撃一辺倒の体勢になった顕れだ。
 アズサはそんなティルトによる猛追の負荷に耐え切れず、支点をずらし力の方向を変える事で一瞬の間を生み出し、その隙に逃げるように後退した。
 それ程に体力の消耗は無いのに、息切れが激しい。心臓の動悸が強かで視界がぐらつく。アズサは剣を持っていない左手で胸を掴み、声を荒げた。
「そんなもの、ただ満たされぬ今に反発しているだけじゃ! あの時交わした言葉は、現在を内側から変えていこうと私達が共に目指していた意志は同じだった筈じゃ!」
「その結果が私達の今っ! 貴女は“ラーの化身”の“剣姫”、私はイシスに仇為すあの方の一刃!」
 追撃にティルトは深く踏み出し、下段から掬い上げるように槍を薙ぎ払った。



『明日の試合は互いに全力で戦いましょう。手を抜いたら許しませんからね、アズサ』
『当たり前じゃ。ライバルとの決着に、無粋な真似などできんよ』
『……ちょっと待って下さい。いつから私は貴女のライバルになったんですか?』
『ふ、つれない奴じゃ。んなもん出会った瞬間に決まっておろう』
『初めて会った時って……確か、貴女が師の所に道場破りに来た時でしたか? ああ、思い出してきました。貴女は師にあっさりと返り打ちにされていましたね』
『師匠は子供であろうと容赦が無いから徹底的に踏み躙られたのぅ……後から聞いた話なんじゃが、あの後怒り狂った養父上が師匠の所に殴り込みに行ったそうじゃな』
『……その様子が妙に鮮明に想像できてしまうのが、貴女の辛いところですね。正直言って、レティーナ補佐官のあなたに対する溺愛ぶりは見ていて空寒いものがあります』
『そーゆー本音は自分の中に閉まっておけ! まぁ…あの後、師匠に何て無礼な事を! とか叫んで挑みかかってきた奴がいたが……のぅ?』
『……よく覚えてますね』
『うむ。結局、最後の方は剣どころか不恰好な取っ組み合いの喧嘩になって、二人揃ってやかましいっ、と師匠にオアシスに放り込まれたな』
『覚えています。……それが尾を退いて居る所為で、未だに私は水に顔を着けるのに懼れを感じますから』
『ん、お主ひょっとして泳げんのか?』
『……人は、泳げなくても生きていけます』
『そ、そうか。……まあ、何であれあの時予感がしたんじゃ。こやつは私の生涯の好敵手になるとな』
『どの辺りをどう曲解したらそのような結論になるんでしょうか……大体、私達の対戦成績を覚えているんですか? 三五七戦中、一五二勝一二六敗七九分けですよ。明らかに私が勝ち越しているじゃないですか』
『ふっふっふ……じゃが、最近は私の二十連勝中じゃからな。引っ繰り返る日も近いぞ!』
『どうしてそう楽観的な解釈が生まれるんでしょうね? そのお気楽さは見習うべき処でしょうか』
『そんな手放しで誉めるでない。照れるではないか』
『……付き合っていられません』



「うぐっ……」
 追撃に繰り出された刺突の連撃を躱しきれなかったアズサは、左肩に裂傷を受ける。反射的に身体を捻った為か掠めた程度で傷口は大事には到らないが、ここが墓所である事の衛生と出血による体力の消耗によりこの戦闘に時間制限が与えられてしまった。
 元を糺せば自らの不覚が元凶なのだが、こうなった以上、剣を向けて戦う他はない。そうでなければ自分が死ぬだけなのだ。そして自分はこんな場所で死ぬ予定もつもりは毛頭無い。“剣姫”として、双肩に背負ったものがあるのだから。
 だが、その剣を向ける相手は自分の親友ティルト。大切な、昔からの理解者。自分が生きる為に、その友を斬らなければならない。斬らなければ、自分が穿たれ未来への路は閉ざされる。
 二律背反で、どちらかしか選べない別たれし現実。生か死か、その岐路に望まぬまま立たされてしまったアズサは、最早自分はどのように立ち回ったら良いのか判らなくなっていた。
 一方。ティルトは槍を隙無く構えたまま平静を装っていたが、内心では苛立ちを募らせていた。
 剣士として互いに同じ師に学んだ身で、切磋琢磨しあってきた戦友。戦士として尊敬するところもあるアズサを誰よりも良く知るが故に、今のような戦意の喪失しかかっている不甲斐無い姿を見せる彼女が、ティルトには許せなかった。
 ティルトは切先を下げ、深く長く溜息を吐く。
「……どれだけ言葉と敵意を連ねようとも貴女に届かないのなら、簡潔に言いましょう。アズサ、私は貴女を許さない」
「なに?」
 眉を寄せ、怪訝にアズサが問い返す。ティルトの表情は冷え切っていた。
「“剣姫”選定の御前試合……貴女はわざと私に敗れた」
「! それは……その方が、良かったと思ったから」
 ぎくりとしてアズサは表情を強張らせる。その様子を見て、ティルトは諦念を深めた。
「……でしょうね。イシス人ですらない貴女が“剣姫”の座に就く。古き慣習を重んじる枢機院、神殿府の老人方はきっとそう望んでいたでしょう。イシスの血脈に在らざる者を据える位ならば出来損ないであれイシスの血を持つ者を、とね。それがイシスの常識にとって正しい流れだったのでしょう」
「……」
「ですが、イシスという古き葛に捕われし国に新しき風を入れんとして師は貴女を推した」
 流暢に過去を語るティルトの言を、アズサは表情を蒼白にしながら聞き入っていた。既に二人の間で決着が着いていた話だったが、この場でティルトが語る事、そしてそれを聞いて言い様の無い罪悪に苛まれている自分がいる事を改めて自覚して、アズサは総身を震わせる。
 ずっと恨んでいた、と面と向かってはっきり言われるのを恐れ、アズサは言葉を発せなかった。だが、そんなアズサの心情を見透かしたのか、他ならぬティルトがその懸念を否定する。
「ああ、勘違いしないで下さいね。師の判断には間違いは無い、と私は今でもはっきりと思います。貴女こそ“剣姫”に相応しい人格である、とあの時言った言葉に嘘はありません。……ですが、その結果師は殺されました」
 安堵を零すのも束の間。告げられた信じ難い言葉に、アズサは眼を大きく見開いた。
「ちょっと待て! 師匠は病で……」
「真実は異なります。……毒殺されたんですよ。高官達の手によって秘密裏に」
「う、嘘じゃ!」
 ティルトの言が真実ならば、国の、ラー教の象徴ともいえる双姫を利権の損得、国是の如何で殺めたという事になる。自分の仕える国がそんな薄汚い真似をするなど、信じられなかった。いや、信じたくなかった。
 だがティルトは、そんなアズサの未熟な意識に鋭すぎる冷徹な現実の楔を打ち付ける。
「しかもその理由は聖王国の品位を落した、だからだそうです。実に馬鹿馬鹿しい理由ですが、その最終的な決定を下したのは王夫殿下です。もとより彼は貴族枢機院議員の筆頭貴族。アスラフィル様が彼に制裁を下すまで、議会は権謀術数の巣窟とは名ばかりの我欲と我執に澱む醜悪な浅ましい、神聖から遠くかけ離れたこの上なく人間的な場でしたから」
「……」
 何も言えなくなってしまったアズサを捉えながら、その話は終わりだと言わんばかりに、間合いを保ったまま数歩移動する。槍の切先はアズサの正面に向けられていた。
「貴女は、私にとって唯一人の友人にして互いに切磋琢磨できる人間だとして信じていました。舞台など私にとっては別にどうでも良かったのですし、周囲の心象もまた同じ。今だから言いますけど、あの時の試合……私は次代“剣姫”の選定という題目は忘れ、ただ一人の戦士として自分の持てる力の全てを賭して挑みました」
 成長するにつれ、自分と他人の距離感、自分と社会の折り合いを学んでいたティルトは、自分なりにシャルディンスの名を備えた者としての在り方を形成しつつあった。そして長くそれを助けてくれた唯一の対等者であるアズサを超えて初めて、自分と言うありのままの心身でイシスという砂礫の地に堂々と一人立ちできるのだと考えていた。何の劣等感や蟠りも無く父や姉の前に立てるのだと思っていた。……初めて、自分を好きになれるような気がしていたのだ。
 叶わなかった想いが面に現出したのか、ティルトは悲嘆を載せて小さく呟く。
「ですが……」
「ティルト、私は――」
「貴女は、最も卑劣な理由で私を裏切った!」
 アズサに二の言を継げさせず、ティルトは激情のままに叫んだ。



『……アズサ、あなた。怪我をしていたんですか』
『す、すまぬ……ちょっと実践的な修行をしようと外にでたら、魔物に囲まれてしまってな』
『馬鹿ですかあなたは! 鍛錬で怪我を負っていざ実践に尾を引かせるのは支離滅裂でしょう!!』
『そうでもせねば、おぬしには勝てんからな』
『だ、だからと言って……』
『それに、結果がどうであれ次の“剣姫”はおぬしに決まっておろう。イシスの血脈にあらざる人間が、あの御位に立てる訳が――』
『あなたです』
『へ?』
『次代の“剣姫”はあなたに決定しました』
『ど、どうして?』
『あなたが他人を思いやれる人だからです。私は、自分の事ばかり考えて周囲の眼を気にして……結果を見るまでも無く、その御位に相応しい精神を持っているのはあなただった。……それだけの事です』
『てぃ、ティルト……私は』
『誤解しないで下さい。別に恨むつもりも、妬むつもりもありません。実を言うと、師の裁決に私が一番納得しているんですから。ほら、聖剣だってあなたを主と認めているようですよ』
『これが“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”……何と言う、美しい輝き』
『おめでとうございます、アズサ』
『む、おぬしはこれからどうするのじゃ?』
『軍に所属して、あなたの助けに慣れればと思います。……ただ』
『ただ?』
『……もう、剣は手にしません』
『! ど、どうしてじゃ』
『未練は残したくないからです。あなたのライバル……いいえ、友人でいたいからです』
『じゃが、イシス軍の基本兵装は剣じゃ。剣を捨てて入団し、何を得物とするつもりじゃ?』
『槍にしようかと考えています。幸い、扱い方は心得てますし』
『や、槍? 冗談にしては余りに笑えぬが……』
『私は冗談が嫌いです』
『そ、そうじゃったな……いや、納得している場合ではなくて、イシスで槍は最も敬遠されている武器じゃろうが』
『そうですね。まるでこの国に在る自分自身の姿を見ているようです』
『おい……冗談は嫌いなのじゃろう?』
『それに、槍は剣に対して有利に戦えますからね。アズサ』
『そ、それは誰対策じゃ!!』



 思いの他に強い感情を浴びせられてアズサはたじろぐ。嘗て、これ程までに面に感情を載せた親友を見た事があったかと自問するも、否定しか出てこないのが現状だ。
 ティルトが感情を面に出さないようになった経緯はアズサも本人や姉であるユラから聞き及んでいるし、何より似た境遇に在ったからこそ持ち得る共感があり、それが確かな繋がりになっているのだと実感していた。だからこそ、ここまで拒絶の意思を露にされると、心が苦しさに潰されてしまいそうだった。
 だがアズサも既に子供ではなく、感情と理性のおりあいを繕って言った。
「……私を憎むのはいい。じゃが、ユラは……執政官様はどうするつもりじゃ!? 血を分けた家族じゃろう!」
 その言葉を待っていたかのように、ティルトは至極自然にぞっとする冷笑を浮かべた。
「確かに……私はいつも二人が羨ましかった。ですが、それももう直ぐ終わります。私を縛り続けてきた忌まわしき蔦を、漸く断ち切る事が出来ます」
「家族が、忌まわしい蔦……私の前で、それを言うのか?」
 愕然としてアズサは目を見開く。最早、肩に受けた傷から血が流れていようが、傷口から屍毒が入ろうがどうでも良かった。ティルトの言葉を心中で反芻し、咀嚼する事に全意識が傾いていたからだ。
 立ち尽くしたアズサを見据えたまま、ティルトは肯く。孤児であるアズサに向けて最も言ってはならない事だと解り切っていても、ティルトは口を噤まなかった。
「……はい。それで貴女が私に剣を向けてくれるのならば、幾らでも言いましょう。シャルディンス家は、何かと私に気を使ってくるあの二人は、正直この上無く煩わしかった」
「っ!!」
 普段感情が面に載る事が欠しいティルトの、酷く不快そうに吐き棄てる言葉とその表情に、アズサは胸が裂かれんばかりの傷みを感じる。先程から視界にちらついている紫の靄が、一層強く滲み出て眼前を侵食しつつあった。
 そんなアズサを煽るように、ティルトは淡々と告げる。
「誰よりも持つ者二人が、持たざる者である私に優しくする……憐れみを与える方はさぞ気分が良かった事でしょうね。正直言ってそれが私にはとても屈辱で、苛立ちを覚えない日はありませんでした」
「ティルト! おぬし、本気で言っておるのか!?」
「私は冗談が嫌いです。それは貴女が一番良く知っている筈です」
「!」
 冷然と告げられた宣言に、アズサは言葉を詰まらせた。



『アズサはどうして師の下に?』
『どうしてと聞かれると困るのぅ……見ての通り私は生粋のイシス人では無いし、魔法なんぞ全く使えん。けど養父には育てて貰っておる恩義はあるからの。ならばせめてもの親孝行じゃよ』
『親孝行? ……私には、わかりません』
『簡単な事じゃと思うがなぁ』
『私も、ご存知の通り魔法が全く使えません。シャルディンスの名を継ぐ者であるにも関わらず……』
『それはそんなに大切な事か?』
『ですが、イシスでは……』
『んなもん、気にする事でもなかろうよ。私とて魔法のの字も知らんぞ』
『それは、いつも貴女が司祭の講釈の時に寝ているから……“剣姫”としての最低限の教養を身に着けておかなければ、その御位に立つ者の威厳が他の者に示せませんよ』
『う、うるさい! 別に魔法が使えようが、使えまいがどうでも良い! おぬしはおぬしじゃ。そこに変わりは無かろうがっ』
『っ!』
『……親孝行と言っても、結局は私がそうしたいと思っておるに過ぎん。悪く言えば自己満足に近いのぅ』
『そんな事は、無いと思いますが』
『いいんじゃよ。一歩を踏み出す前に、その方向を定められればな。師匠も良く言っておったじゃろう? 常に自らの心に正直であれ、とな。自分が正しいと思った事を是とすればな』
『自分が、正しいと思った事……』
『家に戻り辛いのは解らんでもないが、ユラもナフタリ様もいつも心配しておる。たまには帰ってやれ……帰りたいのじゃろう?』
『……良いのでしょうか? 私が、あの敷居を跨いでも』
『……帰れる家があるのは良いものじゃ』
『あ、アズサ』
『勘違いするでない。私の家はあそこじゃ。あそこで帰りを待ってくれている養父が、私の家族じゃ。……まあ、ちと暑苦しすぎて鬱陶しいときもあるがな』
『それは……愛されているという事ですね』
『おぬしに対してユラやナフタリ様も、きっとそう思っておるよ』



「ま、迷いは……無いのじゃな? 後悔は、していないのじゃな?」
「くどいですよ。私は……自らの選択を後悔などしていない。これが、私が正しいと思い、選び進んだ路!」
 俯いたアズサは、小さく肩を震わせながら問う。それは崩れ往く理性から搾り出したかのような声だった。
 聞き様によっては懇願調にも聞こえるそれに、ティルトは決然と連ねる。槍を大きく振りかぶっては周囲の空気と共に、差し出された見えざるその手を引き裂いた。
「! い、いいじゃろう。こ、こまでっ……ここまでおぬしが頑固で、馬鹿者とは思わなかったっ!!」
 激昂に叫び、アズサは携えていた聖剣を強く握り締める。すると昂ぶる彼女の意思に呼応したのか、その刀身が清冽な白き光を燈した。それを見とめ、アズサは勢い良く切先をティルトに向けて掲げる。鋭く奔った切先の軌跡は薄暗い空気を切り刻み、清浄に討ち払った。
「この“不死絶殺”の切れ味…そして“剣姫”の名の重み……お主自身で思い知れっ!」
 顔を上げたアズサの緑灰に戦いへの意志が増すのと共に、聖剣の光もまた真昼の太陽の様に燦然と輝きを増す。陰鬱な玄室の闇は圧倒的な光の降臨に残らず駆逐され、在るのは光に圧されて生じる煌きの風。
 涼やかで澄み切った風韻が髪を梳く。その事象を前にして、ティルトは薄っすらと笑った。それは微かな悲しみを秘めた歓喜の笑み。だがそれも光に掻き消されて誰に見られる事は無い。
 柄を掴む手に己の迫真の力を込めて、ティルトは叫んだ。
「来なさい、“剣姫”っ!」
「ティルト! 張り倒して無理やりにでもイシスに連れ帰ってくれるわ!」
 床を力いっぱい蹴り、アズサはティルトに向かって疾駆した。
 剣を持つ手は、もう震えてはいなかった。








 どれだけの不死魔物を屠ったのか、もう数など不毛な事なので数えてはいない。
 去り際に残されたティルトの言葉通り、動きが普通の不死魔物の緩慢なそれとは異なっていた嘗てイシスの王族達も、“破魔の神氣”を有するミコトにとってみれば大差無い単なる不死魔物でしかなかった。
 倒れ伏した仲間達の身体には、攻撃の合間を縫って聖水を降り掛け、そして彼らの周囲にも散布してある。その為、不死魔物が彼らを襲うような事は無かった。もしかすると自分だけを狙うようにティルトの指示を受けたのかと邪推してしまうも、真意を量る事は既に叶わない。
 祖国を裏切ったティルトは既にここにはおらず、在るのは害意意志を剥き出しにした亡者の群れ。
 生前の記憶の賜物なのかそれなりに武術の嗜みがあった様子で、剣戟にしろ殴打にしろイシス伝来の型に則り無駄なく繰り出される攻撃が次々と多角から迫って来たが、闘氣が現在の自分の限界にまで活性化し、躍動する全身の筋肉と神経によって五感が極限まで高められていたミコトには酷く鈍重な動きで、それら全てを見切る事など造作も無い事だった。
 だが戦況は一向に良くなる気配を見せなかった。
 不死魔物一体一体の迎撃は容易いが、群として襲ってくる為にミコトは消耗戦を余儀なくされていたからだ。
 聖都で対不死魔物用に加工調整してもらった『鉄の爪』も、度重なる力の負荷と魔物の血肉、骨格を引き裂き続けた為か既に刃は毀れ、所々あらぬ方向に拉げている。既に切れ味は喪われ、爪牙としての本分を真っ当出来なくなった以上、これに拘り続けるのは愚の骨頂だ。
 長年の経験からそれを覚っているミコトは、早々に本来の有用性を失くした武器に見切りを付け、敵に向かって投擲する。それは真っ直ぐに正面から迫っていた魔物の眉間を貫き、打ち砕く。最後まで武器としての役割を演じる事のできた爪は、満足げにバラバラとなって敵群の足元に散って行った。
「私は、ここで死ぬ訳にはいかないっ」
 武器を手放した事による不利を否定するように、ミコトは敵に向かって吼える。どんな窮地に立たされようとも、己が意志を曲げないのがミコトの美点であり、緑灰の中に宿る畏れや不安とは真逆の感情は、この戦場においての何より優れた点だった。
(朔夜、出雲、弥生……)
 自分にとって大切な人達の事を思い並べながら、生への意志を高める。そしてミコトは懐から、艶やかな朱塗りと白塗りの鞘に納められた二振りの小刀を取り出した。
(日向……姉者!)
 決然とした意識の下に、凛とした佇まいの鞘から刀身が抜き放たれる。それは常に水が滴っているような清涼な輝きを載せる緩やかな曲刃。機能美と造形美の両立を追及し、究極に至ったと思わせるまでに完成された刃は、美しさの余り息を呑む程だ。そんな美術品さながらの小刀をそれぞれ順手に構え、両腕を開く。
 精神を集中させる為に大きく息を吸っては吐き、昂ぶる闘氣を整え、己の意識を束ね、やがて開眼する。
「私は、何も果たせないまま死ぬ訳には、いかないっ!!」
 決然とした眼差しで、ミコトは正面で両の峰を打ち鳴らす。一度ではなく数回、一定の規則性に則ったリズムを以って奏でられる韻律は煩雑にぶつかり合う事無く、見事なまでの調和の波と化す。それは単純に金属と金属がぶつかり合っただけ以上に趣があり、清冽で澄みきった囃子はやしとして荘厳に室内に響き渡った。
 するとどういう訳か、その旋律を浴びた魔物達はたじろぎ苦しそうに悶絶し始めた。
(『陰陽扇』は無いけど……“天照アマテラス”と“月読ツクヨミ”でもいけるっ!)
 それを好機と解したミコトは、楽器の役割を演じていた双刀を器用に掌でくるくると回し、扇のように翻らせては伏した魔物達が犇く敵陣の只中に躍り出て、華麗な演武を舞い始めた。








 夜風が冷たく砂塵を立ち昇らせ、恐々と往く中。
 周囲の景色は白ばみ、地面には空気はおろか夜闇さえも捕えて貪らんと盛る炎が、壁のように立ち塞がりながら粗雑な咀嚼音を生々しく広げていた。
「……炎の、壁だと?」
 突如として現れた圧倒的光量で視界を灼く炎壁を前にして、屍王は虚空に向けて呆然と呟く。平坦な声調で半ば擦れるまでに低くなったそれは、魔族という存在である屍王でさえその瞬間・・・・に何があったか理解できていない事を意味し、指先一つ硬直してしまい動かない身体は、現状の認識と理解を何よりも最優先に処理しようと試みている為だ。
 周囲が暗闇に落ちている所為か眩いばかりの光に、凹凸の激しい骸の鎧が陰影を増し、髑髏の仮面が朱に染まりながらその輪郭を浮き彫りにさせている。有機的な表装に変貌させられたその姿は、裡にある人間らしい感情の発露を周囲に開示しているようだった。



(何が、起こった?)
 屍王はそう自問せざるを得ない。
 ナフタリが最後の足掻きを見せていたが、自らの放った氷刃驟雨の方が確実に早く無慈悲に地面に降り注いだ。
 展開した中級氷刃魔法ヒャダインの有効範囲は標的に据えたナフタリを中心に、成人男性が十数歩を進んだ距離を半径とした円状だ。その円を力の許す限り均一に、隙間無く氷の槍刃を降らせた筈だった。それは、動揺による隙を突いて喰らわせた一度目の氷刃魔法を受けて満身創痍で横臥していたナフタリには、仮に立ち上がったとしても一踏で逃れる距離ではない。
 そう、あのタイミングでは如何なる回避行動も効を奏さない、とこの戦場を彩るあらゆる因子が物語っていた。
(ならば……この現状は一体何だというのだ!?)
 屍王は心中で叫びながら、眼前の現象に仮面の下で目を剥いた。険しく細められた視線の先には、夜を切り裂いてなお煌々と照る朱の光が、ナフタリを包む周囲の空間を覆うよう天球状に燃え盛っている。
 辺り一面を覆う重みある白の靄は、氷と炎がぶつかった時に生じた水蒸気なのだろう。轟然と空気と砂塵を焼く炎幕によって、自らが生み出した氷刃の雨霰も無惨に全て焼失してしまっていると理解せざるを得なかった。
(この炎……ただの炎ではない)
 必勝を確信していたが故に、屍王はその事象を覆した炎の壁を解そうと思考を巡らせる。
 多岐にわたる不確定事象の中で明瞭なのは、魔法という霊素エーテルを紡いで顕現した氷刃を消滅させたのだから、あの炎も同様に霊素から構成された魔法によるものだと言う事だ。例え、世に流布するいかなる大系にも見られない顕現効果を示すものであっても。
(……まさか、これは音に聞く変容魔法か?)
 屍王はその可能性を脳裡に描き、警戒を強める。
 変容魔法とは、魔法学の基本定理で一般的に“属性”、“系統”として類される魔法発現時における素事象を、その形を崩さずに外殻となる顕現形態を変容させる魔法技巧の事だ。
 通常、魔法を発動し顕現する事象の形態は、術者個々による程度の差はあれど普遍的に定められている。それは世界を律する法則に沿う深域での定理であり、往古よりダーマという魔導統督機関によって大系化され、連綿と伝授されてきたからだ。
 この技巧を自在に扱える者は、世界にも一握り…数多の“賢者”が帰属するダーマやガルナにすら限られた者しかいない。何故ならば、魔法の変容を実現するにはより深く精密に魔法の原理を理解しなければならない事と、従来必要な魔力の倍にする魔力を込めなければならない事。そして、現在に普く形態形式こそ最も安全で且つ効率が良い形態であると、先人達の血の滲む試行錯誤と努力の末に到った確かな結論があるからだ。
 それらの理由が、魔法の道を志す者達から変容魔法を遠ざける。合理的に物事の判断を進める類の人種にとって当然の意識の遷移だが、運用によっては変容魔法は、人間にとって“階級”という絶対的な柵さえをも脅かす可能性を秘めていた。そもそも変容魔法そのものが、人間よりも高位種族が扱う“連環級エヴィヒカイト”や“神韻級セイクリッド”に対抗する為に考案され、密やかに研究が進められてきたものだからだ。
 炎を顕現する魔法は、メラ系だけだ。ギラ系とイオ系も火炎という事象を齎すが、それは魔法顕現の結果として副次的に発生しているに過ぎない。だが眼の前の現実はという要素が絡む以上、これら三系統の何れかの魔法を変容させたという事になる。
 余りにも現実味が在る仮説を前に、未だ抜け切らぬ驚愕を貼り付けたまま屍王は佇む。
 その時。夜風が周囲の砂塵を舞い上げ、瓦礫を容赦無くなぶる。それに混ざり声だけが深々と響いた。
「これが本来在るべき“ギラ”の容です。世間一般に広まっている閃熱状のそれは、ギラ系の素事象である“熱”をより合理的に取り扱い、収束効率や霊素減衰力、威力といった利便性を追求した物に過ぎません。“熱”を拡散させて大気との摩擦反応によって広域を焼く炎波と為す。これこそが、真の意味での“ギラ”です」
 夜の空気で声は良く通り、軽やかに風に乗っている。だが相変わらず、見渡せる一帯は静謐に満たされていて、この声の主で炎を使役したであろう人影は全く無い。
 やがて闇に少年の声が浸透すると同時に、炎の壁も共に消滅する。そしてそればかりか、その中で横臥している筈のナフタリの姿も完全に消え失せていた。
「ふ、既に在る事象こそが偽り……逆転の発想という訳か!」
 半ば予想していた事実に周囲を一瞥した屍王は、傍らの倒壊した家屋の残滓に向けて振り向き様にイオの光球を放つ。単発ではなく休む暇なく連続で放たれるそれらは、触れる障害物を次々と粉砕し、けたたましい爆音を夜空に轟かせた。
 舞い上がる煙、そしてその下で燃え上がった炎。それらは次々と打ち込まれる光球を貪って肥大し、夜は次第に朱光に侵害されていく。
 その盛大な篝火の先を睨み据えながら、屍王は唸るように呟いた。
「やはり動いていたか、“焔の申し子”」
 屍王の視線の先で、圧力さえ以って周囲を灼く高熱の煙と、煌々と闇を劈く光の中に薄っすらと影が浮かんだ。虚空と地面の両方から輻射される熱波の中で、その形は紛れも無く人間のもの。屍王の直感を肯定するように、煙幕を掻き分けて紅蓮の少年がゆっくりと現れた。
「初めまして、不死者の王。歓待の準備に手間取って、出迎えるのが遅れてしまい申し訳ありません」
 爆風の余韻にはためいていた深緑の魔導士のローブを正し、紳士的な仕草で腰を折って頭を垂れるスルトマグナ。幼い少年の醸す堂々たる不調和さを、屍王は冷笑を浮べて迎える。
「小童が空々しいな」
「それはお互い様でしょう?」
「……ふ、口も達者ときたか。だが、何時の間にそんな所に?」
「別に不思議な事では無いですよ。単にルーラを変容させて、超短距離間の移動を繰り返しているだけですので。因みに視界に映る範囲全てが、僕の移動可能領域です」
 屍王は笑みを崩さぬまま、平静に問う。戦闘中に対峙している者同士での問答にそぐわないが、魔を繰る者としての興味が擽られたのだ。対して、スルトマグナもその事を気にするでも無しに、あっけらかんとした様子で返していた。その言葉にやはり、と屍王は仮面の下で息を呑み込む。
 スルトマグナが変容させたという瞬間移動魔法ルーラは、通常に用いる時でさえ深い集中力による着地点の記憶と、魔法を支える為に膨大な魔力の消耗を促すのだ。しかもこの魔法の真価は超長距離を一瞬にして移動する事にあり、視認できる範囲で且つ戦闘という局地的運用では連続使用を前提とする以上、やはり魔力消耗量の大きさが仇となってメリットを最大限に発揮できない、というのが魔法を少しでも齧っている者ならば往々に至るべき見解だろう。
 それを覆す少年の精神に屍王は驚いていた。
「……そんな大それた事を実践する者がいるとはな。若さ故の冒険とするには少々火遊びが過ぎるな」
「そうでもありませんよ、変容にも限度がありますしね。開錠魔法アバカムを神韻級で紡げれば最良なんですが…これは余りに現実的じゃない。別の観点からルーラとリレミトの魔法合成も研究しているんですけど、異なる二種の魔法を同時展開する事だけでも難航しているのに、その上合成は……中々課題が多すぎて骨が折れますよ。でも、だからこそ魔法は奥が深い」
 嘆息交じりに継がれた言葉は、その点においては常識的だった屍王の皮肉だ。だが少年はそれをさらりと聞き流し、小さく肩を竦めて微笑さえ湛える。口元に描いた不敵に歪められた笑みと、異端の力の一部を見せ付けておきながらこれ見よがしに自らの未熟を呈する姿が、屍王の皮肉に対して反された皮肉であるのは明確だった。
 髪同様に煌然と佇まいを崩さない紅蓮の双眸は、屍王を見据え、そして月の浮かぶ夜空に向けられた。
「解放の儀式は始まりました。本起動まで後僅か……開扉が為されれば、不安定な不死者達は須らく消滅しますので、もう少しこの場で遊んで頂きますね」
 丁寧に不遜を掲げるスルトマグナに、屍王はさも愉快そうに上体を大きく揺らして笑った。
「ふ、はははは! 大きく出たな。幼さゆえの蛮勇か? それとも――」
「どちらでも構いませんよ。敵と対峙したのならば、取るべき行動は討つだけです。べギラマ」
 笑みを消し、無表情に敵意を纏った紅蓮の少年は手にした杖を持つ右手で真横に宙を凪ぐ。たったそれだけの行為で、瞬間に少年の腕から杖にかけて纏わり付くように炎の帯が現れる。炎はまるでそれ自体が意思を持っているかのようにうねり、顫動し、言うなれば蛇の如き動きで宙を奔り、屍王に襲い掛かる。
「来るがいい! イオラ」
 鷹揚と切り刻まれた闇色の外套を鎧から剥ぎ取ると、屍王は迫り来る炎蛇に向けて眩い光球を解き放った。




back  top  next