――――第五章
      第十七話 廻天







「やはり、“星胎の間ここ”に辿り着いてしまいましたか……いえ、貴女は“不死絶殺”。滅ぼすべき不死者がいて初めてその存在は定義され、聖澄なる輝きを増す。その輝き故に彷徨える不死者を否が応にも強く惹き付け、そして亡びを与える為に自ずと不死者を求める……そう、この場所に至るのは必然ですね」
 現れた女は軽やかに言った。
「ティルト! お主、無事だったか!」
「はい。貴女達も」
 相好を崩して駆け寄るアズサに反してティルトは無表情のまま、だがそれでも声調は柔らかく返していた。
「ですが危なかったですね。……アズサ、油断大敵という言葉を知らない訳ではないでしょう?」
「うぐっ」
 再会の和やかな空気もそこそこに、ティルトは毅然とアズサを見据え、諌める。すると途端にアズサは渋面を浮かべた。
「以前より度々注意してきましたが、貴女には危機感や緊張感というものが少々欠如しています。いかに不死者に対して絶対の威力を誇る“不死絶殺”を持っていようとも、その体たらくでは剣に笑われてしまいますね」
「か、返す言葉も無いのぅ……反省しておる」
「刹那的な感情に起因する反省など誰にでも出来ます。私が聞きたいのは表面化した欠点に対してどのように向き合い、具体的に解決へと導いていくかと言う合理的判断と論理的な説明です」
「……かんべんしてくれぇ」
 抑揚無く連ねられる無遠慮な鋭すぎる指摘に、アズサは思わず情けない声を上げていた。
 確かにティルトの諫言は今の戦闘を経てまざまざとアズサが実感した事で、これからの課題として胸に刻んだばかりだった。故に自覚を抱いたばかりでの容赦無い追撃には、気丈なアズサとて無闇に反発する事はできず、お陰でその意識に深々に楔として突き立つ事となったようだ。
 だが同時に、淡々とした声の端々から伝わるティルトの心配を感じ、アズサは肩身が狭くなる思いも抱いた。
 一方は眉間に指先を当てて疲れたように嘆息し、もう一方ただただ身を小さくしている。その様子はまるで世話の掛かる妹に手を焼いている姉と、その姉に頭の上がらない妹のそれだった。殺伐とした場にはそぐわない微笑ましい応酬であるが、それに安堵を零す者は当人達以外にはここにいない。
 いつしかぐったりと項垂れて悄然としたアズサを見て、ようやくティルトはその表情を無から緩めた。
「……いずれにせよ、無事で良かった。もしあのまま噛み付かれていたら、貴女の精神アストラルが根こそぎ奪われてしまうところでしたから」
「どういう事じゃ?」
 思いもよらぬ物騒な事にアズサは眉を寄せる。
「今、砂に還ったのは力を求めすぎたが故に摂理から見限られた愚かな王の亡骸。喪われし裡に有るべき欠片を求め、彷徨い足掻く哀れな亡者です」
「成程……つまり自身を構成する魂魄マナの欠損部分を補う為に、この玄室内に満ちていた霊素をそのままで貪っていたという訳か」
 ティルトの説明に納得を示したのはアズサではなく、これまで沈黙を保っていたユリウスだった。唐突に現れたティルトにも、それからのやり取り、今しがた告げられた言葉の内容にも驚いた様子を見せず。淡白な佇まいのままユリウスは眼前に刺さった彼女の愛槍…ホーリーランスを抜き去り、ティルトへと放る。彼女は器用にそれを受け取り、恭しく一つ会釈してから肯定した。
「その通りですユリウス殿。そしてその亡者の名はラーウケプリ=イテム=ソティス……嘗て憎み合う数多の人間と魔物が織り成す狂気で満ちていた戦乱の地を平定し、光輪王ファラオと呼ばれた者です」
「ファラオ? ど、どういう事じゃ? 神祖が眠るのは、太陽に最も近い最上層では無かったのか?」
 眼を見開いて驚くアズサの言葉を聞き流し、知らん顔でティルトは静かに続けた。
「ファラオは一応魔族という領域に足を踏み入れた者ですが、完全に変異しきれなかった中途半端な存在なんです。その為に摂理から、世界からも弾き出され、あのような亡者に成り果ててしまった……滑稽ではありませんか。“ラーの化身”として囃され、神に連なると謳われ続けた王家の始祖が、その実は醜き半端な不浄なる者に堕しているのですから。……綺麗に額面を整えられた表層ばかりに眼を囚われ、裡の真相に気付かないこの国と同じです」
 嘲笑うでも無しにただ静かにティルトは連ねる。その単調さがかえって酷烈で、普段より彼女が下しているラー教の批判に比べて余りに深刻で仄昏い蔭が漂っているとアズサには感じられた。
 そんな感想を抱いた為か、初めて見るそんな親友の表情を前に、思わずアズサは怪訝そうにその名を呼んでいた。
「……ティル、ト?」
「他の連中は?」
 だがその声も、ユリウスの冷然な声に掻き消される。その相変わらず感情の篭らない無機的な調子に、ティルトはゆるりと笑った。
「気になりますか? ……意外でした。ユリウス殿は周りの事など歯牙にもかけていないご様子だったので」
「上層と下層が内部では繋がっていない。それがあんたの言葉だ」
「……そうですね。確かに、私はそう言いました」
 双眸に少しも感情の揺らぎを載せないユリウスを見つめ、寧ろ笑みを深くしてティルトは頷く。
 この玄室に現れてからというもの、どうにも捉え所の無い、普段らしからぬティルトの様子に戸惑っていたアズサはユリウスの言葉の意味にはっとして息を呑み込んだ。
 大きく眼を見開いて、微かに震えたまま自分を見上げてくる緑灰の瞳。心の動きが判り易く載っているその追求の視線を余さず受け止めながら、ティルトは表情を無に戻す。
「……少なからず“魔”の因子をその血潮に内包した彼らが、“天臨の間”から生きて出れるとは考え難い事象ですね」
 その落ち着いた慎ましやかな声は、まるで朗読でもしているかのように抑揚が無かった。








――ユリウスとアズサが最下層でファラオの肉体と戦闘に突入する少し前。
 ミコト達は長い回廊や階段を越えて、漸く目指していた“天臨の間”の前に辿り着いた。一行を先導する王墓守衛隊のティルトの言では、現在イシスに対し侵略を仕掛けている不死魔物を統べる“王”と呼べる存在がいるとの事で、このピラミッド侵入の唯一の目的地である敵の本陣。そして彼女らが捕らえられ、仲間を失った悔念渦巻く怨恨の場所でもあった。
 心なしか王墓守衛隊の者達が思い詰めた表情をしているのは、仕方の無い事だろうとミコトは思う。
 敗れ倒れた人間が不死者に転じている、とは参謀顧問の言。その少年は年齢不相応に達観していて油断なら無い、きっと自分とは気質が合わないのだろうが、その魔力と智謀は信頼する従者…サクヤの折り紙付だ。十三賢人を兄に持つサクヤでさえ彼の言葉を重く受け止めているのだから、年齢という上辺だけの事物など最早問題ではなく、自分の感情だけでそれに反発するなど立ち位置の見えていない子供でしかない、と自らの意識を戒める。
 これまでの階層を往く中で度々魔物との遭遇があり戦闘を経験してきた訳だが、そのいずれもが砂漠で対峙したものと同等であり、中には人間の形をした不死魔物も数多くいた。参謀の言葉を肯定する限り、それらの源流について遡って思考を進めるとどうにも気が滅入ってしまう。いずれも特に恐怖や危惧を覚えるような力を備えていなかったが、元々が人間であっただろうと言う事実は心に重く圧し掛かってきていた。
 それが微かに意識の尾を引いてはいたが、こうして敵が座して居るであろう場所の前に到達した以上、意識は切替えねばならない。それが出来なければ死ぬだけだ。
 冷酷かもしれないが、その切替は冒険者には必須要項で、一国の命運を背負って居るのであれば尚更だった。
 ユリウス程極端な事を言うつもりは無かったが、この場において既に躊躇いは不要なので脳裡の隅に押しやる。
 ミコトは心身に気合を入れる為、大きく一つ深呼吸した。




 眼前に聳える重々しく閉ざされた鋼鉄の扉。総てが岩石で構成されているこの王墓において、その佇まいは異様極まりなかったが、その真意を追求している場合ではない。
 王墓守衛隊の者達が左右に立って泰然と座す扉に手を掛ける。堅牢に施錠されているかと思ったが、予想に反して扉はすんなりと押し開けられた。
 金属と岩が擦れ合う耳障りな摩擦音と緊張に顔を強張らせながら、開かれ行く扉の先に向けて他の者達は松明を一斉に投げ入れた。
 薄暗い中で灯りを手放す事は愚行ではあるが、ここには探索に来た訳ではなく、戦いに来たのだ。奇襲には相手の不意を突き、また相手を浮き足立たせる為の奇抜さを要する。閉じた空間に敵が席捲しているのならば先制して虚を生み出す方法はいくらでもあり、この場合最善はこれだ。投じられた鮮烈な灯は先の視界を開かせ、暗闇に馴染んだ相手側からすれば急激な明かりは視界を焼く。またこちらは松明を掲げる手間が省け、何より火炎は敵である不死魔物にとって最も効果が有る威嚇になるのだから。
 松明を投じ、近接戦闘に長けた武闘家ミコトや近衛隊隊長の騎士ティトエスが煌々と浮き彫りにされる内部に率先して侵入し、他の者達も連なっては雪崩込む。警戒と迅速さを最大限に、足元に闇と共に広がる怖れを振り払いながら静謐の中を投じた松明の集る場所へ向かって駆け抜けた。だが――。
「……誰も、いない? どういう事だ?」
 勇んで突入したものの、敵の影さえ無い閑散とした場に気勢を殺がれ、足を止めると共に呆然と呟くミコト。そのまま戦う意志さえ亡失してしまうのは非常に好ましくないので、後ろから続いていたヒイロは注意を喚起した。
「ミコト。何処に敵が潜んでいるか判らないから、注意を怠っては駄目だ」
「わかってる!」
 焦燥する意識が強く胸中で渦巻いているのか張り詰めたミコトの声を聞きながら、鎖の鞭を構えたヒイロはこの状況に言いようの無い危惧を覚えて忙しなく部屋の中を観察する。夜闇の中で微かな変化さえも逃さず見極める猛禽の如く、琥珀の双眸が鋭く煌いた。
 扉の先は、薄暗い中で幾つもの石柩が群立している大広間だった。四方は広く見渡せる程で、天井も外観に沿うように四隅から天頂に向かって収束している為か酷く高く感じる。その壁面には階下で見たものと同じく抽象的な二次元図紋が幾つもあり、ラー教の根本原理を厳粛に見る者に掲示していた。
 また、これまでの回廊と異なり床は部屋全体に至るまで丁寧に舗装されており、壁沿いに規則正しく整列している柩の群が簇柱のようで、厳かな神殿を髣髴させる。否、このピラミッドという場所そのものが長久の時間に埋もれる事無く連綿と受け継がれて来たラー教にとって、至高にして荘厳なる神殿なのだろう。入口から吹き入る風が広間を駆け抜けていて、それが賛美歌を奏でているかのような錯覚を一瞬だが覚えた。
 ピラミッドそのものを凝縮したかのような四角錐の大部屋の中心には横臥している一つの大きな石柩があり、他のそれとの配置関係、王城で読み解いた埋葬の形式を鑑みて恐らくこれこそがイシス開祖を葬った柩だと思われる。歴史的な発見を前にしたヒイロは、だがその裡から込み上げてくる興奮に浸る事ができなかった。
 敵の本営の只中に居るという現状、そしてその中に敵影が全く無いという異常事態が、眼前の史跡に気を止める暇さえ許さなかったのだ。
 数個の松明が一つの大きな篝火となって乾いた空気を焼いている。それを背に囲うようにヒイロ達は立ち構えていた。灯明によって引き伸ばされる彼等の影が、斜壁に細長く映り一点に集められていて、一種の鳥籠の中に捕えられたかのような既視感にヒイロは襲われる。
 自分の心臓の鼓動がやけに大きく感じ取れる中、並び立つ誰かがゴクリと唾を呑み込む音がはっきりと部屋の中に響き渡った。
(さて……この状況。どうやって切り抜けたものか)
 鈍重な緊張と、息苦しい沈黙が漂いそれぞれの意識に蔭を縫い付ける。ヒイロはあからさまにならぬよう、周囲に立つ者達を見回した。
 眉間に皺を寄せて表情を険しくしているミコトは、敵の本陣に敵の姿が無かったという想定外の事に動揺しているのだろう。逆にティトエスをはじめイシス騎士達は幾分か緊張した面持ちだったが、この場所が開祖ファラオを葬ったと云われる彼らにとっての聖域であるならば畏れ憚るのも無理は無い事だ。そして守衛隊の者達は、こちらの退路を確保する為に扉付近を固めている。一度ここで死に瀕する体験をしている彼らに立ち入らせるのは酷だと考え、そういった配置を計画した。
 奇襲を含め、それぞれの立ち回り方は“天臨の間”到達前にヒイロが提案していた。それらが受け容れられたのは誰しもが納得し、それ以上に良策が浮かばなかったからである。
 ヒイロは油断無く眼を細めて、闇を掻き分けて壁際に群立する石柩の蔭を見据えていた。




「本当に、ここに敵の王がいるのか――っ!?」
 どれだけの間、その緊縛に曝されていたのだろうか。恐ろしく心身に圧し掛かる緊張に疲れたのか、誰かが今まで誰も口にしなかった思いを吐露する。その言葉にそれぞれの意識が集った時。不意に扉が勢い良く閉ざされる音が室内に響いた。
 予期せぬ大音に、何事かと眼を剥いて真っ先にミコトが振り返る。
 その瞬間。一陣、背筋を這うような生温かい風が振り返った先から流れる。その際に一瞬だけ背後の灯りが失せ、完全な真闇に陥ってしまった。時を置かずして室内の灯りは元に戻ったが、飛び込んでくる景色はがらりと変容しきっていた。
「な、んだ……これはっ!?」
 次から次へと起こる予想外の事象に軽い混乱のままに眼を瞠り、ミコトは声を震わせて現実を認識する。
 まず目に飛び込んでくるのは光の色。今の今まで闇を裂いていたのは炎の暖色であったにも関わらず、視界は昏い蒼茫に染まっていた。どのような理によるものなのか、猛る炎が闇の深長さを増幅するよう青々と燃えていたのだ。
 そして瞬き一つの間に何処から現れたのか、床から立ち上がっている無数の屍達の姿があった。怨嗟を深々と地鳴りのように轟かせながら、恐々とした姿は薄闇から脱し鮮明になっていく。
「皆、無事か!?」
「ううっ」
「うぐっ……あ、ああ」
「何と、か……」
 ミコトは手に汗を握りながら気丈に声を張り上げていた。だが返って来るのは地に伏す音と、幾つもの呻き声。
 それらにミコトは初めて自分の周囲で崩れ落ちているイシスの騎士達、倒れ臥した旅仲間のヒイロの様子に気が付いた。
「どうしたんだ? 皆、何があったんだっ!?」
「ぐぐ……」
「……ぁ」
「な、何かの音色が、急に流れて…きて……か、身体が」
 ミコトの悲痛な叫びに答える者は聖王国イシス王室近衛隊隊長ティトエス。だがその彼も苦悶混じりに自己を保っているのがやっとの様子だ。
 二本の足で平然と立っていたのは最早ミコトだけで、何とか剣を床に突き立てて戦闘態勢を保とうとしているのはティトエスのみ。他の騎士達は往々に地面に崩れ落ち、裡からの慟哭に胸元を抑え喘いでいる。そんな中、先程から他の者達は苦悶ではあるが生の反応を返していたが、ヒイロだけは横たわったままピクリとも動かない。不審に思ってミコトはその名を呼んだ。
「おい……ヒイロ?」
「…………」
 返事が無い。その事にミコトは怪訝を深める。
 非常に厭な予感が胸中に渦巻き、それを否定したくてミコトは石床にうつ伏せに身体を投げ出したヒイロに駆け寄り、その口元に手を近付けて呼吸を確かめた。
「っ!?」
 そこにあるべき筈の鼓動は無く、重く閉ざされた瞼は呼びかけにピクリとも動かない。
 それら事実に背筋から血の気が引くのをミコトは実感し、眼窩がはち切れんばかりに大きく眼を見開いた。
「そんな……息、していない?」
 悄然とした意識から紡がれた脳裡に浮かぶ単語と口から零れる言葉。二つの導きによってその先の事象を考えようとしたミコトは、慌ててそれを拒み自らの思考に制動を掛ける。思考を無視して内から込み上げてくる感情も浸る暇は無いと無理矢理に戒めた。
 何故なら、こちらの陣営の瓦解を嘲笑うように、敵がこれみよがしに一歩一歩ゆっくりと床を進み、遂に眼前まで迫っていたのだから。
 右側から襲い掛かってきた薄汚れた包帯に身を包んだ人型の不死魔物…ミイラ男を鉄の鉤爪で三連に裂き、左から迫る不愉快な腐臭を撒き散らす腐った死体の胸に蹴りを喰らわせる。六閃を翻す骸骨剣士を打撃で粉砕し、蒼茫に染まった包帯に身を包んだミイラ男…マミーを手刀で断ち切った。
 次々と襲い掛かってくる不死魔物だったが、それらの防御力が“破魔の神氣”を擁するミコトの攻撃力を圧倒的に下回っているのか、焦り、動転する心であってもミコトは何とか単独で対処する事ができていた。
「くそっ! どうして……どうしてこんな事にっ!!」
 一撃で確実に敵を一体屠る。既に十を数える程の不死魔物を撃破したミコトは、憤りの余り身体の中で沸騰する血潮に、全身の闘氣が荒れ狂って昂ぶるのを感じていた。
 そんな時。冷や水を被せるように暢達な声がミコトに降ってきた。
「おや、貴女は無事でしたか。意外、でしたね」
 蒼茫に堕ちた空気から染み出るようにティルトは現れた。その蒼い髪は水にでも濡れているかのようにしっとりと闇に流れていて、暗青の眸はその氷静さを増してる。深海の如く蒼く輝いた銀の胸当ての上で、何時の間にか垂らしていた禍々しい髑髏の首飾りが唯一紅黒の煌きを燈していた。
 薄闇の中でそれが誰なのかを確認すると、ミコトは表情を歪めて叫んだ。
「ティルト殿! これは一体どういう事だっ!?」
「現状をあるがままに捉えて下さい。それが答えです」
 激昂するミコトを冷やかに見据えながら、ティルトは自らの背後を手で指し示す。
 ティルトの背後に控えていた守衛隊の者達が、次々とその姿を醜き不死者へと身を変容させている。それは人が一瞬にして老化し、朽ち往く様を早回しで見せられたかのような尋常ならざる光景だった。
「人が、不死魔物に!?」
「魔物とは、世の普遍的生物が“魔”によって生体汚染され変異した存在。人間とて、その因果からは逃れられません。そしてイシス人とは元来、その血潮に秘めし“魔”の因子…“魔法の鍵”による影響で“魔”への親和性が非常に高い。世間的には、イシス人が魔法発現率の高い人種として認知されているようですが、それは真実から零れる一握りの砂に過ぎない事実です」
 急変する場に穿たれた楔の如く、周囲に静寂を齎しながらゆっくりと丁寧にティルトは続けた。
「真実は今の彼らをご覧下さい。汚染侵食による変異現象には色々な方向性があると聞き及んでいますが、彼らの場合、『死のオルゴール』による冥韻の旋律で、その矛先を不死魔物へと誘われているのでしょうね」
「そんな事が……」
「遙か東のダーマ神殿で行われし“転職の儀式”。“職”とは“魔”を御する為に与えられた器のかたち。その儀をより一般化しようと編み出された似て非なる秘儀…“進化の秘宝”。“進化の秘宝”の研究過程で生み出されし『死のオルゴール』は、イシス人が内包する魔の因子を刺激し、発露させる。心身が惰弱なれば醜き不死者に。強ければ、やはり裡からの蝕みに苛まれ彼らのように苦悶に堕するのが道理」
 無表情を強めながらティルトは饒舌に語る。その暗青の双眸からはより昏い陰鬱な影が滲み出ている様だった。
「今、彼らが悶え苦しんでいるのは、寧ろその心の強さの裏返しです。素直に自らの弱さを認め、受け容れてしまえば楽になれたものを……」
「つ、強くありたいと願う意識こそ、我らが志……」
 惜しむようにティルトは崩れ落ちたティトエスを見下ろす。それに額から脂汗を滲ませて耐えていたティトエスが、毅然とした眼差しでティルトに吼えた。
「ラーの恩寵に報いる為にも、その光に寄り添う為にも決して心を折る事など、闇に屈する事など在ってはならないっ!」
「神の威光を前面に押し出し、その蔭でほくそ笑む低俗なる愚物ばかりかと思っていましたが……成程。ラーの教えの伝わり方は、そう腐ったものばかりではないのですね。ですが……その眩すぎる意志の顕れは持たざる者の視界を焼く。決して相容れるものではないのです」
 ティトエスの、苦しみながらもその迷い無い意志の輝きに僅かばかりに目を見開いたティルトは、自嘲的に笑う。そして再び項垂れて葛藤に苦しむティトエスを視線から外し、この場で唯一戦闘態勢を整えているミコトを捉えた。
「しかし、貴女は不思議ですね。『死のオルゴール』の補助増幅器である『死の首飾り』を通して発せられる負陰の旋律は、“魔”の因子を内包しない外来の者にとって肉体と精神を繋ぐ銀の鎖を断ち切る呪殺魔法に等しい。私自身“魔”の因子は持ち得ていませんが、この首飾りを身に着けているので平気なんですが、貴女はまるで平然としている。やはり……」
「ザキ!? じゃあ、ヒイロは……っ」
 擦れ消えたティルトの疑念よりもその言葉の内容を耳にして、絶望を顔に貼り付けてミコトは倒れ臥したヒイロを見やった。ヒイロは相変わらず倒れ臥した時のまま体勢で、その事切れた様子にミコトは表情を歪める。
 ティルトは倒れたヒイロを悼むように小さく首を横に振った。
「……申し訳ありませんが、彼の肉体と精神は既に断裂されています。それがザキが齎す効力で結末ですから」
「そんなっ……」
 ミコトは悲憤に声を震わせた。苦楽や死線さえをも共にしている仲間の死がこんなにも呆気無く訪れたのだから。そしてそれを齎したであろう眼前の女性の単調さに対し、沸々と怒りが湧いてきた。
「ティルト殿! 貴女は何が目的なんだっ!? 貴女達がここで襲われたというのは狂言だったのかっ!?」
「貴女の姿は、アズサに似ている……それこそ他人の空似以上に。……貴女が、アズサの」
「?」
 こちらの問いに答える事無く、別の言葉を以って返すティルト。最後の辺りは口腔で呟いたかのように擦れていたが、アズサという名を出していたのは何となく判った。
 だが何故ここにアズサの名前が連ねられるかミコトには理解できない。初めて出会ってからというものの周囲からとても似ていると言われ続けていたが自分の認識ではそうは思わなかったし、世の中に三人自分に似た人間が居る、と故郷の謂れを信じている為、深く考えない事にしていたからだ。
 神妙な面持ちで自分を見つめてくるティルトに、ミコトは戸惑いを覚えた。
「……いえ、これは私の胸の裡に永遠にしまっておくべき事。貴女に直接私怨はありませんが、私達の悲願の為にもここで大人しくして貰いましょう」
「すべてが自分達の思い通りに行くと思うなっ!!」
 ミコトは戛然と吼え、ティルトに向かって突進する。
 電光石火の速さで接近したミコトの正面からの蹴撃を、ティルトは咄嗟に身体の正面で構えたホーリーランスの柄で受け止める。その充分に速さの乗った蹴りに聖銀の槍は撓み、圧されるティルトは顔を顰めた。だがそのまま圧倒されるでもなく反撃に転じたティルトは、ミコトの足を支点として槍の柄底で下段から顔面に向けて威嚇を放ち、怯んだ隙に穂先を反して上段から袈裟に薙ぎ払った。ミコトはその虚を穿つ一撃を、逆に支点に利用された足で槍を押し出す事で反動をつけ、一気に全身で飛び跳ねて後方宙返りで躱す。
 ミコトの急な回避行動で槍の重心をずらされたティルトは、小さく舌打ちして虚空を裂いた槍を即座に引き戻し、ミコトを追い詰める様に前へと踏み込む。舗装された床を踏み砕かん勢いで雷速の三段突きを繰り出し、最後に大きく身体を翻しては回転ざまに真一文字に薙ぎ払った。ミコトはそれら息を吐かせぬ尖撃を上体を逸らして躱し、摺り足で後退しつつ右手の鉄甲で弾き、床を強く蹴って後方へと大きく退がり間合いを取った。
 一見するとその戦いは、徒手空拳と槍とでは間合いの差でミコトが攻めあぐねていて、ティルトの方が俄然有利に見えるのだが、現実は異なる。傍目からは有利に映るティルトは表情を険しくし顰め、ミコトは少しも臆した様子を見せず両側で結われた髪束を揺らしている。二人の湛えた真逆の雰囲気が、両者の優劣を物言わず語っていた。
(槍の扱いが巧いな)
 ミコトはティルトを油断無く見据えながらそう評した。
 だが実際のところ、ミコトは槍のように剣よりも長い間合いを有する得物との戦い方はその身に厭と言う程に染み付いていた。故郷に居た時、サクヤが振るう故郷独特の槍…薙刀を相手に散々稽古を重ねてきたからだ。薙刀は槍の間合いでの斬撃を主体とし、その軌跡は広範囲で曲線を描く。だが通常の槍は刺突に傾倒している為に直線的で、攻撃範囲も狭窄されている。その為、通常の槍は刃の筋道が薙刀に比べ読み易い。身体の姿勢、向きからでも次動作の予測がミコトにとっては掴み易かったのだ。
(っ、速い!!)
 何度か交錯する中で、ティルトは槍の連撃を次々と潜り抜けて間合い内に進入してくるミコトの様子からそれを覚り、内心で驚愕しながら大きく後退した。
 一撃を喰らった訳ではないが、このままやり合うには体力と集中力の著しい消耗は避けられない。ティルトは頬を流れる汗の筋を手の甲で無造作に拭う。
「まったく……“癒しの乙女”といい、貴女といい。アリアハンの勇者一行というのは、ユリウス殿だけが特出している存在という訳では無いのですね。まぁ、まだ世界にその存在さえ公にされていない魔王に挑もうと言うのですから、それは蓋然ですか」
「答えろ。何故皆を欺いた? 貴女の目的は何なんだっ!?」
「……予定を変えましょう。貴女に直接手を下すのは、彼らの方が相応しい」
 憤慨するミコトの問いには答えず、ティルトは胸元に垂れる髑髏を模した首飾りを強く握った。するとその両の眼窩が妖しく光り、続いて彼女が槍の柄底で床を強く打ち付けると簇柱と化していた柩の群れが重々しく開く。部屋の中心に座す柩以外の全ての内側から、数十もの紅い光球が一斉に発せられた。
 それらが不死魔物であると即座に察知したミコトは、ティルトに向けて叫ぶ。全身に漲る闘氣が、清冽な奔流として緑灰の意志を際立たせていた。
「無駄だ! 不死魔物など今の私の敵にはならない」
 それは虚勢では決して無い。活性化する“破魔の神氣”が自覚させるただの事実に過ぎなかった。
 だがティルトにも落ち着いた様子を乱すような素振りは無かった。
「彼らはただの不死魔物ではありません。彼らは歴代の王族…つまり、その当代で最も強く“魔”の因子を秘めていた者達です。もっとも、開祖であるファラオはこの地の最下層“星胎の間”で眠っているのですが、ね」
 瞼を半ばほど伏せては言葉を意味深に溜め、抑揚無くティルトは続ける。
「伝え聞いた限りでは、貴女の力は破魔の力。仰る通りこの程度の不死者など障害にも成り得ません……ですが、何時まで保つのでしょうね」
「くっ……」
 語尾を高くして挑発的に発せられた言葉に、ティルトの言わんとしている事を直感で解ったミコトは小さく歯噛みする。確かに単体では脅威には成り得ないが、それが大多数で長期的に襲ってくるとなると、それは考えるだけでもぞっとする。悠然たる川の流れを棒切れ一つで塞き止めれる道理は無いのだ。
 壁のように連なる魔物の群影は、ある意味死の具象だった。
 ティルトは槍の穂先をゆっくりとミコトへと向けると、応じて現れた不死魔物が一気に動き出す。
 敵の粗雑な攻撃を躱し、間合いに入り込んでは殴り、蹴り、打撃中心で敵を打ち倒していくミコト。だがそれでも魔物の数は一向に減る事は無い。死壁に遮られる先で、ミコトはティルトがこの玄室から立ち去ろうとする後姿を見止め、叫んでいた。
「待てっ! 皆を、故郷を謀っていたのかっ!?」
「…………」
「! そうなんだな。裏切り者っ」
 憎悪が滲んだミコトの必死の叫びに、足を止めたティルトは一瞬だけ表情を緩め、哂った。
「……そうです。私は裏切り者。天で燃え盛る太陽に弓を引き、放たれた矢と同じ」
 そして“天臨の間”の扉は厳かに、固く閉ざされた――。








「ティルト、お主……皆を見捨てたのか!? 答えよっ!!」
 アズサは手を打ち震わせながら叫んでいた。その表情、その仕草。それら全てが、信じられないという彼女の心中を体現していた。
 だが、激しい怒号のような追及にもティルトは冷静さを失わせず淡々と反す。
「……アズサ。貴女も私と共に来ませんか?」
「何?」
「貴女がここにいるのは、私があの方にお願いしたからです。誰の邪魔も入らない場所で、貴女と話をする為に」
 抑揚は無かったが、それ故に真摯なティルトの眼差しにアズサは小さく頭を振った。
「馬鹿なっ。そんな事が……」
 今回の作戦が国家存亡の危機を回避する為に紡がれたものだと言うのに、その中に個人の意思を先んじて組み込む事など常識的にできる訳が無い。仮にそれが容易に罷り通るのであれば、それは既にイシスという国家組織の深い部分に叛乱因子ともいえる意思が潜んでいるという事だ。
「不審に思いませんでしたか? 何故、国そのものの存亡が問われているこの緊迫した情勢下、王と共に在るべき砂漠の双姫の片翼“剣姫”が王の側を離れ、こんな遠く隔たれた場所にいる今に」
 被せ言われたティルトの言葉は、今正に自分が脳裡で否定しようとした事だと気付き、アズサは眼を大きく見開いて声を震わせた。
「! ま、まさか……」
「そうです。全てとはいいませんが、既にこの国の上層部の大多数も、あの方の意志の下にあります。それは既に国家であれ教団であれ、内部から分裂、転覆、瓦解させる事が出来る程に肥大しています」
「そんな……」
 磐石だと信じていた自分達の足元が揺らぐのを感じ、アズサは軽く眩暈を起こす。
 そんな判りやすい反応を示したアズサに、ティルトは一つ苦笑を零した。
「それ程驚く事ではありませんよ。こちらに協調を示した顔ぶれを見たら貴女だって納得します。いずれもそれなりに権力を持ち、傲慢で横暴で、王や神に対して面従腹背なる愚昧な輩だらけですから……そういえば父が彼らの動向を探っていましたね」
 軽やかに毒突くティルト。湛える笑みはとても綺麗だったが、同時に言いようの無い寒気を感じた。
 アズサがそんな心象を抱いて表情に困惑色を強めていると、ティルトの相貌が誠直に引き締まる。
「アズサ……あの方と共に、この国に真なる秩序を齎してはみませんか? 偽りの幻光に眩んだ人々の眼を、真なる意志の輝きによって醒ましてあげませんか?」
「その為に私にイシスを裏切れと言うのか?」
「はい。数年前より陛下は枢機院の傀儡に成り下がり、愚劣極まりない俗物者共が席捲するようになってしまった。厳かな神政分離の意識は密やかに廃れ、枢機院と神殿の癒着による利権と欲望の影がこのイシスを足元から蝕んでいる。ですが、自らの立ち位置が崩れかけている事にすら気付かない人間がこのイシスには多過ぎました。判りやすい綻びが注意すれば眼に見える場所に在ると言うのに、天に浮かぶ太陽を崇める事に傾倒する余り、自らの足元を疎かにし省みようともしていない……いえ、その破綻の兆しさえ神の意志だと受け容れてしまってさえいる」
 訥々と語るティルトは、その声調を荒げて続けた。
「貴女も私と同じものを見続けてきたでしょう? ならば歪みきり誤った路を進むこの国の行く末を想起できる筈です。歪みは大いなる流れに澱みを引き起こし、すでに修復不可能な領域にまで達してしまっている。それは人ばかりか砂漠を構成する大地、周囲にある大地。その上で生きる全ての生命を脅かす事となる」
 心身共に昂ぶって口早になっている事に気付いたティルトは、一つ息を吐いて自らの熱を鎮める。
 ティルトの言葉も判らなくは無かったが、どうにも一つ一つが突飛過ぎてアズサは理解に苦しんでいた。だがその言葉の羅列をそのままに受け容れてしまえば、結果は惨憺たるものになるだろう事は容易に想像できてしまった。するとそのイメージに牽引されるように養父の顔や亡くなった師、王女フィレスティナと司教イスラフィル。そしてもう一人の親友のユラの顔が浮かんできた。
 今も感じている手の中の剣の鼓動。その路を志した理由が脳裡ではっきりと再生された。
「……断る! 私は“剣姫”としてそのような妄言を受け容れる事などできぬ。お主こそ――」
「そうですか……では、話は終わりです」
 寧ろアズサならばそう返すのだろうと確信を持っていたティルトは、心底残念そうに名残惜しげな嘆息を零し、次の瞬間には鋭い眼差しを放ち槍の切先をアズサに向けて構えた。
「構えなさい“剣姫”」
 声は冷徹に、暗青の双眸は無感情にアズサを睨み据えている。それは紛れも無く敵を見る眼だった。
 スラリとした槍の穂先の如く、鋭く伸びるティルトの眼光。それに伴い鳥肌が立つような凄烈な敵意…殺気が向けられた。
 その気概に気圧されながら、狼狽したアズサは眼を剥く。
「!? 何の真似じゃ、ティルトっ!」
「私は、私の意志を貫く為に己が宿業を全うするのみ。障害になるのであれば、アズサ……いえ、聖王国イシス砂漠の双姫“剣姫”。貴女であろうと排します」
「待てっ!」
 叫呼しながらアズサは直感で剣を真横に薙ぐ。すると瞬時に直進してきたティルトの槍の穂先とぶつかり、けたたましい金属音を玄室に反響させた。
 今の刺突が本気であった事に唖然としたまま立ち尽くすアズサに、ティルトは構えを解かずに深々と嘆息した。
「……何をしているのです。呆けたまま死ぬつもりですか?」
「私は……お主とは戦えぬ!」
「何を情け無い事を……袂は既に断たれた。私はイシスにとって卑劣な裏切り者で、貴女の敵です。“剣姫”として在らんと豪語したのであれば、障害などさっさと排除するべきです。私は他ならぬ貴女を裏切って国に刃を向けました。国を護り導く切り拓く者…“剣姫”である貴女が謀叛者を前にそのような醜態でどうするというのです?」
 私を失望させないで下さい、とティルト。
「今頃あの方が死霊軍を率いて聖都イシスを侵略しています。こんな所で愚図ついていると、護るべき大切なもの全てを失う事になりますよ。姉上の魔力が空になっている今、聖都は既に安全では無いのですから」
「何故じゃ!? 何故、お主がこんな事をする必要がある? 何か……何か理由があるのじゃろう!?」
「言った筈です。全てを変える為、この呪われた砂の大地に壊変を成す為に」
「壊変じゃと? そんな事が可能だと思うておるのか!?」
 イシスという国は巨大だ。現人類最古の王国は国土、国民という表面的な領域でもあれば、長久の歴史からくる精神的な繋がりの深さまで。その全てを変える事など到底できる事では無いとアズサは実感していた。外側からの壊変を、内側からの改変を敢行するにはイシスという共同体は余りにも巨大過ぎていた。
“剣姫”という御位に着いてから、その事をまざまざと実感していたアズサにはティルトの言葉が荒唐無稽に聞こえてならなかったのだ。
 そんなアズサの内心を見透かしたようにティルトは告げる。
「水面を揺らがせる為には、誰かが石を投げ入れなければならない……それは砂面でも同じ事。私達の行動がたとえ無謀であろうとも、それは小さく確実な波紋となって水面を伝わり、やがて全体にまで影響を及ぼす波となる」
 ティルトは槍を握った右手を前に掲げ、その意思を全面に強調させる。誠実に、その手にあるスラリとした槍の如き真っ直ぐな意志を言葉にした。
「結果を出す事は重要ですが、その為に自らの足で動き立つ事はもっと大切な事です。何故なら、人間は自らの意志の輝きを持って初めて人間に成り得ます。存在していない神に縋り、その奇蹟を待つだけの人間に生きる価値などあると思いですか? 輝きを亡くした宝石はただの石礫に過ぎません。それに同じく享受する事に耽溺し、自ら輝く事を忘れた人間などただ血肉の詰まった皮の人形。輝きを忘れたこの国に、私は終わりを齎さなくてはならない。この砂漠…ひいては世界の為にも、イシスは滅ぼさねばならない」
「ティルト……」
 ひしひしと伝わる言いようの無いティルトの気迫にアズサは圧され、只その名を呟くだけ。
 張り詰めた表情でティルトは突き出した右手を引き寄せ、額に当てる。それに左手を添えて半ば祈るような姿勢で、厳かに粛然に宣告した。
「剱の、聖隷」
「それは、ユリウスの……」
 眼を瞬かせ呆然とアズサが反応すると、ティルトはここで艶やかな女の笑みを浮かべる。
「ふふ……眼の色が変わりましたね。私は、彼からこの言葉を頂きました」
 言いながらティルトは満面の笑みを浮かべて、沈黙を保っていたユリウスを見据える。それにアズサが露骨に顔を歪めた。
「こやつが!? ユリウス、どういう事じゃ!」
「…………」
 二者二様の視線を受けてユリウスは鬱陶しそうに嘆息し、小さく肩を竦めている。そこに否定が無いのは一目瞭然だった。
「おい、何とか言わぬか!」
「そんなに声に感情を乗せないで下さい。……まるで嫉妬しているみたいですよ」
「はぁ!? な、何でそうなるんじゃ。私はこの超絶無関心無感動の唯我独尊一匹狼男が誰かの求めに応じるなどという天地が引っ繰り返るのでは無いかと思える事実が信じられないだけであって決してそれに不公平感を感じるとかそういう事ではなくてじゃな――」
「慌てすぎですよ、アズサ」
「う、五月蝿い! お主が妙な事を言って私をからかうからじゃ!!」
「ふふ。からかわれている自覚はあるんですね」
「くっ……何時も何時もそうやって」
 子供のように憮然とするアズサに、思わず苦笑をティルトは漏らす。
 どんな殺伐とした場であっても。互いに武器を携えていても。決別を宣言した直後であっても。二人の間に流れていた空気はやはり互いに互いを認め合った、親しい者達のそれだった。
 そんな他愛ないやり取りで心が満たされたのか、やがて愉しげに躍らせていた声と悪戯っぽい眼差しをティルトは表情の内側に潜ませる。そして最後の余興をここに完遂させ、それを自らの心の奥深くに封じ込めては溢れ出て来ないように杭を打ち付ける。
「決して諦める事の無い頑なな貴女の姿と、ユリウス殿の孤高に自らの路を歩もうとする姿……私はこの二つの姿に、私自身のあるべき姿を見出しました」
 自らの胸中を吐露する中でティルトの様相は、ただ切なる無へと変わってゆく。心身が自分でも恐ろしく感じるまでに平静に満たされていた。
「私が刃を向けるは、埃の被った慣習に縛られしこの国そのもの……イシスの民の誰しもに在りし“魔”の因子を持たずして生まれた私の、それが宿命だと信じています」
「ティルト……っ!」
「剱の聖隷……それが私にとっての力への意志!」
 大きく振りかぶった聖銀の槍が薄闇の玄室に燦然と光る。それは彼女の揺ぎ無い意志の顕れだった。




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