――――第五章
      第十六話 壊変する砂礫の杜







『聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー』を携えたまま立ち尽くしていた“剣姫”アズサ=レティーナには、その瞬間、眼前で何が起こったのか理解できなかった。

 ユリウスは流麗な足捌きで敵を翻弄し、剣とナイフの二刃を巧みに操り、間髪を入れる暇なく剣技と剣技を連ねていた。
 斬撃、刺突、殴打は元より牽制フェイントだろうと、急所攻撃だろうと、剣を繰るという事象から導かれる凡そ全ての行動を連撃に取り入れて放っている。そこに明確な型は無く、そのどれもが闘氣によって強化された苛烈な一撃である無限の剣閃……それは舞とも言えるべきものだった。
 代々『聖剣・滅邪の剣』と共に“剣姫”に継承されてゆく剣技、神舞踊式剣闘術…俗称“剣の舞”。そして剣舞終曲“魔鬼破斬”はアズサの師である先代剣姫が得意としていた奥義であったが、彼女が初めてそれを目の当たりにした時は、その緩急鮮やかに縦横無尽に走る幾筋もの澄み切った剣閃に全身が震えたのを、年月が経った今でも色褪せる事無く明瞭に覚えている。
 剣術にしろ体術にしろ優れた武術は芸術で、それは荘厳にして優雅な舞踊である、とは師の口癖であり教えでもあった。アズサはそれを己の中で師の姿と共に投影し、師の高みに至れるように日々ひたむきに研鑽を積んでいるつもりだった。
 そしてアズサは今。初めて“剣の舞”を目の当たりにした時と同じく全身を戦慄かせていたのを、手から伝わる刀身の軋み音で気付き実感した。

(な、何なのじゃ!?)
 傍らで、半ば強制的に完全な観戦者にされてしまったアズサは、ユリウスの豹変振りを目の当たりにして呼吸をするのを忘れ、ただ刮眼していた。
 休む暇なく流れる動きで連撃を繰り出すユリウスの動きは嘗て見た“剣の舞”のようだった。もっとも技としての流儀も理念も違うので似通っているという事は無く、師程の巧みな技術からくる繊細さと滑らかさ、精巧さは無かったが、力強さより齎されるしなやかさと躍動がある。そして何より寒気がせんばかりの冷酷さがあった。
 純粋に戦いを生業にする者の興奮か、或いは自らが到る事の出来ない境地に立つ者への畏怖か。それともまだ自分が体得さえしていない“剣の舞”に近い位置に立つユリウスへの嫉妬か。その何れかは定かではなかったが、小刻みに震える拳をきつく握り、アズサはただユリウスを見つめていた。
 剱の聖隷――それはアズサも時折耳にした事のある、ユリウスにとって何か意味があるであろう厳かな祝詞。それを告げた後の彼は彼であって、僅かな間であったが見知ったユリウスとは別人の様だった。
 突飛な感傷に過ぎないが、無表情で剣閃乱舞を繰り出すユリウスの姿にアズサはそんな事を思わずにはいられない。
(これ程とは……こやつ、一体?)
 ユリウスの変貌をアズサには理解できなかった。否、ユリウスの事を『アリアハンの勇者』という表層の情報しか知り得ない者には理解しようが無い。何故なら今、眼前で剣を振るっているのは、あらゆる意味での『アリアハンの勇者』であり、それへの如何なる探求も眼の前の現実で終結しまうからだ。
 それはアズサも例外ではなく、狼狽を隠せない彼女に判ったのは、今彼の眼前で肉片よりも細かく粉砕された敵が、その存在を世界に繋ぎとめる楔を崩され、砂となって虚空に消えたと言う事実だけだった――。




――動揺が払拭しきれないアズサを余所に、薄闇掛かった暗がりの円舞場の静かな均衡を破り先に動いたのはユリウスだった。
 凄絶な殺気を放ちながら、ユリウスは眼前で腕を交差させたまま二振りの刃を構えていた。それらの清澄なる水が滴る切先を動かし、聖なるナイフを逆手に持った左手は敵に向けて真っ直ぐに伸ばし、右手の剣の切っ先をまるで弓に矢をつがえるようにナイフの柄に添え構える。そして身体を低く沈めて地を滑る如く疾駆し、これまでに無い速さを以ってユリウスは魔族に殺到した。
 闘氣を全身に行き廻らせているのだろうか、傍から見ていたアズサにはその初動を見切る事はできなかった。だがアズサとは違い、真正面から殺気をぶつけ合っている敵はユリウスの挙動に敏感に反応し、一切の無駄を省いた滑らかな動きで腰を落し、拳に力を篭める。
 交錯はその直後。先に光が真横に一瞬生じ、続いて敢然とした激音が注意を引き寄せる。
 玄室の中央で正面から交差するユリウスと魔族。魔族によって迎撃で放たれた正拳突きに対し、ユリウスはその雷速を乗せて疾風の刺突を繰り出していた。
 衝突は刹那の間。
 切先と拳、力と力の真っ向からのぶつかり合いはどちらにも軍配が上がらず、接触点より火花と共に二人は後方に押し返されてしまった。
(速く、正確な集気法……)
 こちらの行動を見極めてからの対応の早さ。刹那で闘氣を拳に集約できるのだから闘氣を操る練度はこちらより上である事を意味する。
 眼を僅かに細めたユリウスは後退の最中に冷静に敵を分析しつつ、次動作の為に体勢を整えて着地する。そして間を置かずに再び敵に向かって跳躍した。
 並外れたユリウスのバランス感覚と反射神経が異常なまでの速さで次動作を起こしたからなのか、武闘家としての能力が著しく高いと思われる魔族ですらその反応に一瞬の遅れが生じた。ユリウスはその隙を逃さず、落下の勢いを乗せて鋼鉄の剣で袈裟斬りを繰り出し、その場で身を翻して真一文字に切り払う。剣の軌跡をそのままに逆手に構えた左手のナイフが追走し、同じ傷を二度切り裂いた。
 続いてユリウスは床を力強く踏み込み回転の勢いを一旦貯める。そして振り抜かれた剣の重心移動を利用して一気に身体を反転させてナイフを左に薙ぎ、その先端で敵の腐肉を真横に削った。そればかりか、更に勢いに乗せるよう高々と掲げた剣を天頂から一気に振り下ろし、敵を縦に斬り付けた。
 それら十字を描いた剣閃の瀑布に対処しきれなかった魔族は全身を深々と斬り裂かれ、その勢いのまま柩を囲うように立つ台座の一つを砕きながら床に横臥する事となった。



 魔族と冠すべき敵との戦いの最中。適度な昂揚を覚える居心地の良さをユリウスは感じていた。
 それは野に広がる魔物と対峙した時の緊張など比較にならないまでに躍動する意識。足元を這い上がってくる確実な“死”の気配。自分の選択一つで、如何ようにも容易に転ずる細い細い綱渡りの路。
 そこが本来在るべき冷たく暗い、灰色に染まった自分の戦場。
 ゆっくりと色彩が喪われつつある世界で、ユリウスは思考だけを尖鋭化させてゆく。あらゆる無駄な情思を排し、冷徹で合理的な数字と戦略のみを以って敵を刈り取る算段を築き上げる。
(この魔族は確かに強い。だが、それだけだ)
 眼前の敵から、以前アッサラームで見えたアークマージ程に絶対で絶望的な力の差を感じた訳ではなかったが、それでもこの魔族が“魔”に属する者の中でも強力な部類に位置しているとユリウスは覚る。存在の凄みこそアークマージやロマリア闘技場で闘った魁偉の魔族のように完成されたものではなかったが、それでも野に在る魔物などとは比べ物にならない。
 しかし、繰り出される敵の攻撃の一つ一つから微妙な違和感を覚えていた。
 熟練の武闘家を思わせる蹴撃や殴打は重く的確で、注意に値するものではあるが、ここぞというタイミングで繰り出される決定的な一撃は、右腕を我武者羅に振り回すだけのお粗末なもので、それがユリウスにとっては大きな隙となっていた。
 ふとユリウスは、“武闘家”という共通項から同行者の誰かが鉄の鉤爪で魔物を引き裂く姿を敵より連想させ、とある仮説を思惟に突き立てる。
 徒手空拳である敵は、攻撃の要である右腕に、何か・・を嵌めている事を前提に攻撃を繰り出している。そのため若干間合いに誤差が生じてしまっているのだ、と。
(……そう考えると微妙な間合いの誤差も納得がいく。そして、敵はその事実を認識していない)
 頭脳より発せられる命令は少しの滞りなく全身に行き渡り、骨、神経や筋肉は一振りの刃に昇華して遂行する。ユリウスの思考は行動に直結し、起き上がろうとしていた敵に向けて爆ぜた。



 台座を破壊した時に舞い上がった砂塵が紗幕のように漂っている。それは敵の姿全てを覆う程に濃密なものではなかったが、表面の変化に対しての目晦ましにはなる。普通ならば一旦躊躇を覚える場面であるが、ユリウスの中にそんな言葉は存在していなかった。
(相手の姿が見えないのはお互い様だ)
 ユリウスは早々に結論付け、先手を奪取する為に敵に向かって高々と跳躍した。
 ゆっくりと砂塵が晴れて顕になる影目掛けて、大空を往く隼が地面の獲物に狙いを定め急襲し再び空に舞い上がるが如く、鋭い上下からの二連撃を閃かせた。
 だが敵も魔族という存在である為か、一方的に打ち据えられたまま屈する訳ではない。切り裂かれ、怯んだのも束の間。体勢を崩したままであろうとも身体を翻し、鞭の様に撓り空気を劈く回し蹴りをユリウスに向けて繰り出す。
 始めの蹴撃をユリウスは上体を横に反らしてやり過すも、紙一重だったのか頬が浅く引き裂かれ赤い鮮血の筋が宙を舞う。しかしユリウスはそんな事を少しも気にする様子は無く、頭蓋を砕かんと眼前に迫った猛追の二撃目を半身を敵の真下に滑り込ませる事で躱す。そして起き上がる反動をもって、海鳥が海面すれすれから大空に優雅に舞い上がる如く下段から斬り上げた。
 技の性質上発動後の隙が大きい回し蹴り。魔族はその僅かな間を狙ったユリウスの一撃をがら空きとなった背に受ける事になり、バランスを崩してよろめき、自らが現出した石柩に覆い被さる様に落着した。
(これで――)
 成り行きを静観する程ユリウスは悠長ではなく、無防備のまま背を曝している魔族に向けて力強く地面を踏み出し、前宙返りで自重と回転力を乗せた大上段からの一撃を放つ。技としての隙が大きく、回避或いは反撃されやすい危険性を孕んだ諸刃の斬撃だったが、それ故に威力はユリウスが振るう剣技の中でも最大のものだ。
 最後の足掻きか、その肉体に染み付いた反射行動なのか。魔族は柩に前のめりに寄りかかった体勢のままユリウスの姿を見ずに右腕で裏拳を繰り出していた。それは縦方向に特化したユリウスの攻撃にとって致命的とも言える真横からの奇襲。まともに決まればこれ以上無い程のカウンターになるだろう。
 相手の姿を確認せずに放たれた技であったが、狙いとタイミングは正確だった。だがユリウスの追撃の方が一瞬速く、その一撃は敵の振り上げられた右肩共々右半身を切り落し、更にはその下にあった柩の蓋を半壊させていた。
 肩口から肉片と皮で僅かに繋がっている右腕はピクピクと激しく痙攣しながら砕けた柩を紫に染めているが、反して胴体の方は荒かった呼吸を整えて立ち上がろうとさえしている。不死ゆえの特性なのか、体の一部が欠けても何ら差し支え無く、実際に活動を再開しようとしていた。
 だが既に終局への道筋を弾き出しているユリウスを前にしては、余りに無意味で儚い反抗だった。
 ユリウスは逆手に構えた聖なるナイフを敵に向けて投擲する。空気を引き裂いて迫る聖銀の風は、無防備に曝された敵の背中中央に深々と突き刺さる。人型の生物ならばそこは心臓の近くで急所なのだが、流石は不死者といったところか、微かに身じろいだ程度の反応だ。
 冷然とその事実を確認したユリウスは、その突き立ったナイフの柄尻を剣の切先で射抜く。それは釘を打つ槌のように、深々とナイフを敵の深奥にまで到らせ、その躯体を下にある柩に縫い付けた。
(――王手チェックだ)
 そしてユリウスは宣告した。
「靜空に鎮まりし光の粒子。猛り震天の咆哮を揚げ、狂威の瀑布とならん。吼えろ、光の怒号を。……イオラ!」
 敵と接触している剣の刀身が一瞬煌いたかと思うと、より強い輝きが剣根元から刀身を伝わり、敵の中心部にへと移って次の瞬間に炸裂する。
 内側からの凄烈な外への圧力、そして爆散する数十数百からなる聖銀の破片によって、元々朽ちていた腐肉は細かく切り刻まれ、木っ端微塵に飛散しては黒ずんだ紫色の血潮を床にぶちまける。爆発の余波で石柩も無惨に粉砕され、柩の下に隠されていた奇妙な幾何学紋様がキラキラと降る銀片の星霜の中、その姿を現していた――。








(支流が活性化している……予定通り、開扉の儀式が始まった、か)
 スルトマグナは城下の街並みを見下ろしながら、そう思った。
 あちこちで家屋から火が立ち上り、幽然と静まり返っていた地も慌しく昂揚を見せ始めている。だがそれは地上で人と魔物が争い広がる戦火によるものではなく、寧ろ大地の奥底で微かに脈打っていた慟哭が、確実に地表に近付きつつある為のようであった。
(糸の調子は悪くないか。あとは、ライズバード殿次第……)
 スルトマグナが周囲を睥睨している場所は、ラー大神殿の屋上鐘楼塔。その高さは、聖都イシスにあっては最大のもので、これを超える高さの建造物といえば王の住まう宮殿以外にはない。従来ここは立入禁止されている封鎖区画で、進入許可が下りるのは敬虔な教団の者であっても極僅かしかいないという畏れ多き場所との事だ。
 スルトマグナが立ち入り許可を頂いた際、その許可を出してくれたイスラフィル司教に純粋にその疑問を呈してみた所、太陽かみに連なる者以外、軽率に空から地を見下ろしてはいけない、との事だった。それを訊いて少年は成程と深く納得する。徹底してラー教団、そして聖王国イシスという組織は、王…即ち“ラーの化身”を太陽と等価の頂点に、それ以外の人々を見渡せる位置に据えようとする意識が強いのだ、と。
 悠久より培われたそんな意識を否定も、肯定もする気が無いスルトマグナは、ただ無機的に城下の状勢を眼に捉えていた。
「余計な枝葉が無いから割と見晴らしがいいわね」
 何の前触れも無く背に声が掛けられた。だがスルトマグナにはそれが誰なのか改めて問い質す必要は無い。今ここに来る可能性があるのは、自分と共に許可を頂いたミリアとソニア=ライズバードの三人だけ。そして今の場合は前者だ。
「どの建物も似たり寄ったりで面白みも無い……まるで団栗の背比べね」
 情緒も何もあったものでは無い辛辣さに、流石のスルトマグナも苦笑を零した。だが同時に内心で頷く。
 この場所からこうして地上を見渡して見ると、白き街並みは一定以上の高さを超えないように計算されて築かれている。まるでこれ以上太陽に近付くのを畏れ憚っている様子だった。
 振り返り、塔の欄干に背を預けてスルトマグナは言った。
「この国はね、知っているんだよ」
「何を?」
「太陽に近付きすぎて、焼かれ堕ちてしまったという者の逸話を」
 反応はしたもののミリアは興味無さ気に両腕を組み、鷹揚に佇みながら僅かに藍青の眼を細める。
「……どこかで聞いた事のある童話ね」
「童話、逸話、諺は嘗て在った事実に対しての教訓を語っていんだ。宗教国家と言えどもそれは例外じゃない」
 スルトマグナは上を仰ぐ。暗闇で更なる闇を蓄えている大鐘が視界に映った。
 吸い込まれるように収束した黒…言うなれば黒き太陽だ。だがそれを見慣れた者にとっては何て事の無いもので、逆に光輝こそ畏れの対象になるのだろう。
(所詮は価値観の基点による差異。それを念頭においている以上、こんな“夜”は畏れるに値しない)
「さっきの女と何を話していたの?」
 少しばかりらしくない情緒にスルトマグナが浸っていると、ミリアの澄んだ声が酷く深々に響いてきた。
「イスラフィル司教と? ちょっとした情報収集さ。全体状況を常に把握していなければ適切な指示が飛ばせないから」
「なら何で神殿に? そんな事は、宮殿を護る軍に訊くのが人の国で言う筋というものでは無くて?」
「イシスの場合、ここが正解なんだよ。眩し過ぎる太陽の下では眼が眩んでしまうから、適度な闇が蠢いているここ・・がね」
「?」
 不思議そうに首を傾げるミリアに一つ笑みを向けて、スルトマグナは再び眼下を見下ろす。
 曖昧に話を逸らして沈黙したその小さな後姿を見つめ、ミリアは小さく嘆息した。
「……ねぇスルト」
「何?」
「こんな時に聞く事では無いんでしょうけど、いい?」
 声色が変わり、彼女の心中も別の事に遷移したのだと何となく察し、うん、と一つ頷いてスルトマグナはミリアを促した。
「貴方は何故、このイシスに力を貸しているの?」
「ダーマ神殿からの要請。そしてジュダ様に頼まれたから……なんてミリアに言っても無駄だよね」
「何か悪意を感じるけど……まあ、そうね。今回の貴方のやり方は余りに回りくどく手を重ね過ぎていて、何ていうか貴方らしくない」
 スルトマグナの能力はミリアも充分に知っている事だ。純粋な魔力の高さで比べれば、純エルフの自分に勝る筈も無いが、悔しい事にその扱い方は自分よりも遙かに上。ミリアがこれまでガルナで見てきた賢者達…恐らくは十三賢人の中でも首座と呼ばれる三人と頂点たる師“魔呪大帝”に次ぐのでは無いかと密かに思っていた。自分も魔法を学び始めて経験は十五年程度だが、スルトマグナの尋常ならざる成長振りを目の当たりにしてきた以上、この見解は確かだと実感している。
 そしてだからこそ解る。スルトマグナは後方で玉石混交の机上の空論を弄するより、最前線で敵と刃を交えながら対策を考案する能動型の筈。実際に彼の戦闘スタイルは、魔導士であるにも関わらず敵陣を駆け巡って魔法で最善を創り出して切り拓く、魔導士にあるまじきものだからだ。
 親しいが故に余りにも遠慮無い物着せぬ言い様に、逆にスルトマグナは嬉しそうに笑った。
「参謀顧問として招かれているから、策を弄するのは当然だよ。……このイシスという国はイシスの民の国。可能なら、彼ら自身の手で解決の道を見出して欲しかったんだ。自分で熾した灯火ならば、大切に守りいつまでも続けようとするだろう? この国で古くから培われてきた体質でもあるし……それに、僕達はあくまでも協力者で所詮は他所者だからさ。助言はしても、それを強要する訳にはいかないよ。ダーマは中立だけど、それ故に外交的に面倒な事が色々と出てきちゃうからね」
「スルト……」
「とまあ建前としてはそんなところ……本心を言うならば、僕はこの国が栄えようが滅びようがどうでもいい」
 はっきりと宣言された無関心に、質問した側のミリアも流石にあんぐりと口を開けた。
「だけどここにはシャルディンス先輩がいる。先輩は以前ダーマでお世話になった方だし、彼女が守ろうとしているものは守りたいと思う。手が貸せるなら貸そうと思うよ」
「あの小娘の為? 随分と微笑ましい理由じゃなくて」
「いいや、先輩だけじゃないよ。ナフタリ様も」
 からかうように笑うミリアの口調に、スルトマグナは真摯に返した。
「……人から少しでも逸脱した能力を持つ者は得てして孤独の檻に囚われる。そこに例外は無い。どうしたら周囲に溶け込めるか、どうしたら自分の居場所を創る事ができるのか……他人に貢献して自分の場所を認知してもらう為に尽力しても、その普遍理解を超えた力は人々に恐れられ疎まれる結果しか齎さない。切ない循環だけど、それが人間の世界なんだよ。まあ別の見解があるのも事実だけど僕にとっては、ね」
「……」
 スルトマグナが語る冷絶な世界像に、何か言いたそうにしてミリアは口を噤んだ。自分も故郷のライトエルフからすれば特異な存在で、それに付き纏う傷みを知り尽くしてきたからこそ、何も言う事が出来なかった。そしてスルトマグナという少年を知る者として、少年の裡に根付いている意志の育まれる過程を慮ったのだ。
 ミリアの沈黙を他所に、スルトマグナは続ける。
「見ず知らずの大多数なんてどうでもいいんだよ。僕にとっては、僕の見知ったごく少数…僕という存在を認知し、定義してくれた方を守れる事の方が重要さ。僕の能力……人の形としてこの世界に生まれた僕は、その為に存在しているのだから」
「……それが、貴方の導いた答え」
「うん。僕は恐らく人の世には溶け込めない。ミリアは知ってるだろうけど、僕は少し人とは成長の速度が違うから。今はまだ良いとしてもこの先は……だからこそ僕は、自分をそう定義する事にしたんだ。それは永い闇の時間の中で、漸く見出したひかり。大きすぎる力を持って産まれた、僕の宿命だと今では実感しているよ」
「……尻に殻を付けたままのガキが、生意気な事を言っているんじゃなくてよ」
 ふっ、と息を吐いたミリアは、言いながらスルトマグナの紅蓮の髪を撫でる。言葉は刺々しいが、その韻と眼差しは肯定の温かさに満ち溢れていた。
 照れ隠しなのか、それを年齢相応に顔を歪めて厭そうに手で払い、スルトマグナは横目でミリアを一瞥して咳払いする。そしてこの場所に続く階段を上る音を聞き止め、表情を引き締めた。
「さて……ライズバード殿の準備も終わったみたいだし、始めるよ」
 再びスルトマグナは城下町を見渡し、視線を竜巻が消え去った方角へと定め、細めた。








 幽冥なる玄室に在る人影シルエットは二つ。それは壁際に佇むアズサと、破壊された柩の前に立つユリウスのものだ。
 ユリウスは剣をダラリと携えたまま、単調なリズムで呼吸を繰り返している。凄まじいばかりの攻勢であったが、それはやはりユリウスにとっても負担が大きく消耗したのだろう。先程の変貌から一転して、そんな安心できる様を見て驚愕から脱したアズサは、周囲を見やりながら彼に歩み寄る。
「……やった、のか?」
「……」
 狼狽を隠せないアズサは恐る恐るといった様子でユリウスに問い掛ける。だがそれにユリウスは答えない。ただ呼吸の感覚が深く長くなっていた。
 無反応なユリウスに業を煮やしたアズサは、取り敢えず当て嵌まりそうな単語を連ねてみる。
「お主何をした? 今のは……魔法剣という奴か?」
「……そうだが、厳密に言えば違う」
「?」
 どうやら上手くユリウスの意識を惹いたらしいが、本来の彼らしくない曖昧な返事にアズサは眉を顰めた。
「魔法剣の原理を応用して、魔法を徹しただけだ。……気は進まなかったが、選択肢は限られていたからな」
「限られていたとは、どういう事じゃ?」
「この玄室で魔法が使えなかった」
「な、……何じゃと!? どういう事じゃ!」
 抑揚無く綴られた言葉で起こったアズサの動揺は無理もない事だった。この玄室の魔力濃度は異常に高いとは、ユリウス自身が言葉にしている事象。それを彼自らが覆すのだから、状況に翻弄されっぱなしのアズサは最早唖然とする他は無い。
 アズサの心の動きなど知る由も無く、ユリウスは平素に続けていた。
「あの魔族が具現したと同時に、この部屋の霊素は亡失していた。正確な現象は判らないが、状況から鑑みて恐らく全て敵に吸収されたのだと見るべきだろう……今でこそ玄室には既に監禁されていた霊素が戻っているが、戦闘中は“昏黒の領域”と同じで魔法は通常顕現しなかった」
 ユリウスが敵に向けて中級閃熱魔法を放とうとした時、掌に収束した魔力が行き詰るのを感じて咄嗟に中断したのもその為だった。もしもあの時構わずに魔法を行使していたら、収束した魔力が逆流して内部で暴発、被害を蒙っていたのは自分だっただろう。
 それが真実ならば危険極まりない現状だったが、語るユリウスの口調は明日の天気を語るように素っ気無く、少しの物怖じも感じさせない。無感情無表情故にふてぶてしく聞こえるそれが、問うたアズサの心に大きな憤りの感情を呼び起こした。
「お、おぬし……そういう大事な事はさっさと言わぬかっ!」
「お前は魔法が使えない。故に、言う必要など無い」
「そういう問題では無かろうが!」
 地団駄を踏みながら叫び、尚も抗議を続けるアズサに、ユリウスは鬱陶しそうに嘆息を零す。それがアズサの更なる憤慨を煽っているのだが、ユリウスにそんな情思は理解できなかった。
「ったく、では最後のは何なのじゃ? おぬしの話からするに、魔法の通常行使が不可能であったにも関わらず、おぬしはそれを実行したという事じゃろう?」
「次から次へと……まるで尋問だな」
「良いから答えよっ!!」
 半ば意固地になって追求を止めないアズサに辟易しつつも、深呼吸をしたユリウスは視線を手にしている剣の柄に落とす。そして険しく目を細めた。
「言った筈だ。魔法剣の原理を応用して魔法を徹しただけだと。……これは剣の終わり・・・を著しく早めるからあまり敵陣でする事では無かったが」
「?」
「物体の中にも、霊素エーテルは満ちている。だが顕在する割合は元素フォースに比べて微々たるもの……もっとも、その割合こそが物質マテリアルを物質たらしめる所以では在るが」
 言いながらユリウスは床に転がっていた瓶の残骸を拾ってアズサに放る。アズサは慌ててそれを両手で受け止めた。
「それには『魔法の聖水』が満たされていた。その霊素水で刀身表面…いや、刃を包む極小領域を薄い霊素の膜で包み込む。気化したものより液状の方が霊素の散逸性は少なく抑えれるから、その性質を利用して刀身を限定的に連鎖励起が通れるトンネルにした。その中で魔法を伝達し、剣の切先にある異物を起点に発現させる……確か闘氣を用いて似たような現象を起こす技が東洋の武術であると聞き及んでいるが」
「……」
 相変わらず理解し難い理をスラスラと言うユリウス。魔法剣の理論は扱える本人以外にとっては荒唐無稽な話に聞こえてならない。きっと魔法を行使できる者程、その振幅は大きくなるのだろう。“剣姫”として人並み程度にはその方面への知識を備えているアズサはそう思った。
「だが、正直ここまで威力が高いとは思わなかった」
「へ?」
 瞑目し、小さく嘆息するユリウスにアズサは間の抜けた声を上げる。
「想定していた破壊力では、半身を消し飛ばす程度だと思ったんだが……、奴の体内では元々在った霊素を原色のままに保存されていた事になる。やはりこの玄室内にあった霊素は魔法文字に吸収されたのではなく奴に喰われていた、という仮説の実証にはなったな」
「……」
 つまらなそうに一人納得するユリウスをやや唖然と見上げていたアズサは、これ以上話の難解さに着いていけないと判断し、質問した側であるにも関わらずその手綱を手放す。
 些か無責任ではあるが、相手はあのユリウスだ。そんな些細な事などきっと気にも留めないだろうと結論を出し、手にした聖剣を腰に佩いてある鞘に収めて戦闘で乱れた髪を梳いた。
「ま、まあなんであれ、敵の親玉を討ったのじゃからもう良いわ! 早速聖都に戻って殿下に――」
 言葉途中でアズサは背後に気配を感じた。それは氷でうなじを撫でられたかのようなぞくりとする怖気。
 反射的に半身で振り返ると、そこには首から上の頭蓋だけになった魔族の残滓が宙に浮かび、消え往く虚ろな光を眼窩から昂然と解き放ったまま、大口を開けてアズサの首筋に噛み付かんとしていた。
「なぬっ――!?」
 完全に虚を突かれたアズサは硬直してしまい、防御も回避も追いつかない。
 研ぎ澄まされた鋭い歯牙がアズサの頚動脈に殺到する。
 アズサは思わずきつく眼を閉じて身体を強ばらせた瞬間。空気を裂いて飛来し、耳元を通過する何かの気配を感じた。
 それは敵のこめかみを貫いており、頭蓋を引き摺るように壁に勢い良く突き立っては、鋭い振動音を玄室に響き渡らせる。宙吊りにされた敵の残滓は瞬く間に崩れ去って砂に還った。
「あ……」
 恐る恐る眼を開いたアズサが改めて音源に視線を移すと、ユリウスの直ぐ前で壁に突き立っている槍があった。その下の床には、敵の残骸であろう砂が小さな山を成しており、瞬の間に空気に溶けて消え去っていた。
「……甘いな。仕損じていたか」
 一歩間違えれば自身も串刺しであったろうに、ユリウスは声を揺らせる事無く無感情に眼前の現実を見つめ、自らを省みている。その手に携えられた刃が、やはり彼と同じく冷静な輝きを燈していた。
「な、何があったのじゃ!?」
「敵を前に雑談とは余裕ですね」
 狭い玄室を幾度も反響して冷たく凛とした声が駆け回る。
 その冷笑染みた韻を耳にして、混乱の渦中に叩き落されていたアズサが背後を振り返る。部屋中の灯りに反して廊下は暗い為か、薄闇に覆われた玄室の入口からゆっくりと人影が浮かび上がっていた。
 整理しきらぬ頭で、アズサは漸く理解した。突然の第三者であるその影が今、自身…正確には倒したと思っていた敵の残骸に向けて刃を投擲したのだろう。
 その影が一歩また前へ進み、完全に玄室の中に立ち入った。
「勝利を確信した時こそ最も敗北に転じる瞬間である、と師から口を酸っぱくして言われたでしょう?」
「お主は……!?」
 その姿が顕になると、アズサは愕然として目を見開くだけだった。








 轟音が去り、静寂を告げる風の音が辺りに漂い始めていた。
「……何とか、倒せたか」
 浅く何度も呼吸を繰り返しながら、杖の石突を再び地面に突いてナフタリは身体を支える。消耗しきった表情は、魔力の枯渇よりも寧ろ体力の方が限界に来ている事を示していた。
 ナフタリも、そして恐らく屍王も。この戦いで上級に類別される魔法を使う事は無かった。それはこの“屍の生地”においての上級魔法展開の難解さ、そして消耗度合いの激しさを理解していたからだろう。
 その認識を逆手にとっての奇襲攻撃。
 正流封鎖の“夜”の下で、少々強引な手法で真空魔法を紡いだが確かな手ごたえは感じていた。法則の隙間を無理矢理広げた為かこちらにも反動は大きかったが、それは寧ろ敵を討った事実の確信を後押しするものだ。
 数回深呼吸をして、憔悴のあまり鈍重となった身体を持ち上げる。竜巻が交錯した場所は深く広く、ナフタリの側から見て数個の渦が一つの大きな螺旋を描く様に抉れており、屍王が立っていた場所に至ってはそこから更にきりもみ状の痕が深々と大地に刻まれている。
 この有り様では、普通に考えて渦の中心に立っていた者など粉微塵に粉砕されて然りだろう。
 踵を返し、ナフタリは周囲の瓦解している街並みを見渡す。
「……市街の損害状況と復興費用の捻出には骨が折れるな。それに伴う人員、難民被災者の当面の生活保護に復興費用。周辺村落への援助物資に――」
 賢者にして思わず頭痛を感じてしまう程の事後処理であるが、市街をここまで破壊するに到ったのは、自分にも責の一端がある故に嬉しい悲鳴としておこうとナフタリは自らに課す。
 より正確な惨状を認識しようと周囲を見渡したナフタリは、ここでふと気が付いた。
 自分と屍王を囲うように陣取っていた不死魔物達が一匹もいない事に。
(今のバギクロスにすべて捲き込まれた、などと希望的観測などできぬな……一体何処に?)
 あの魔法は屍王一人に集中させたものだ。二次災害を抑える事も念頭に入れた為、岩石などの落下物による撃破は全く以って望めない。
 冷たい風が流れているのをナフタリはその背に感じていた。
 その時。
『ふははは! まさかこんな事を狙っていたとはな。恐れ入ったナフタリ殿』
「なに!?」
 何処からか、酷く楽しげに昂揚している屍王の声が高々と響いてきた。
 注意して聞き入っていると、凡そではあるがその発信源が特定できる。そしてそれは竜巻の経路上のど真ん中……つまり、直撃させた場所から屍王は一歩も動いていないという事だ。
『今のは余も肝が冷えた。賢者とはつくづく恐ろしい事を思い付くな。侮辱した非礼は詫びさせて頂こう』
 そう言い切ると、抉られた地面が小さく爆ぜる。舞い上がった砂塵をすぐさま内側から起きた風が掃い退け、やがて屍王が舞台の昇降装置によって登場するように優雅に、厳かに現れた。その身は深長な赤紫の霞を纏っており、それは新鮮な空気に触れると静かに消え失せていた。
「ば、馬鹿な……何故!?」
「これが無かったら、余も終いであった」
 驚愕に後ずさるナフタリを見据えながら、敢えて見せ付けるようにゆっくりと右腕を上げ、そこに嵌めている金色の手甲を曝した。
 闇色の外套はあちこち切り裂かれ、禍々しい鎧の到るところに裂傷が走っている。だが、屍王本人にダメージを受けた形跡は全く無い。しかしそんな事実よりも、ナフタリは屍王の右腕で金色に輝く物に注視せざるを得なかった。
「そ、それは……まさか『黄金の鉤爪』だと!? イシス創始から伝わる禁忌の呪物を貴様は持ち出していたのか!?」
 その声は完全に狼狽しきり、そればかりか確かな懼れを孕んでいた。
 イシスの歴史、神学に通ずる者ならば誰もが一度は耳にする代物。そしてナフタリは執政官として、“賢者”としてそれを一般とは一線を画した領域での事情も知っている。何故それが禁断の呪物として封印されていたかもだ。その為、『黄金の鉤爪』という解り易すぎる解を目の当たりにして、ナフタリは屍王が無事だった理由を否応無しに覚る事になった。
 不浄なる者を自身の意思で強制的に繰る事ができる『黄金の鉤爪』の力を用い、周囲で待機させていた不死者達を瞬時に自らの前に集結させ、壁にしたのだ。無惨に切り刻まれる不死者達はその身を挺して上級真空魔法の威力を削ぎ落としたのだろう。
 思考を正そうとするナフタリの耳に、屍王の冷酷な声が届いた。
「思惟に浸る暇は無いぞ……猛襲爆燦! イオナズン!」
 屍王から放たれた等身大の光球はナフタリの眼前の中空に融ける。そして直ぐにその一点に周囲の空間が圧縮される兆しを感じ、ナフタリは反射的に賢者の杖を前に翳した。
「マ、マホカンタ!」
 杖の前に薄い輝く鏡壁が顕れるのと同時に、凝縮された空間が一気に膨張し、収束されていた光の粒子が熱と風を伴い瀑布となって解き放たれる。その圧倒的な光の奔流は、残る最後の魔力を燃焼してナフタリが展開した半透明の鏡壁を圧しながら、勢いを緩めぬまま周囲の市街を無慈悲に蹂躙する。
 反射鏡壁魔法マホカンタは放たれた魔法を術者にそのままに反す防御魔法だ。理論上、この世の全ての魔法を在るがままに反す事ができる為、魔法戦においては絶対的な防御力を誇る。だが反面、向けられた回復、補助の魔法ですら跳ね返してしまう為、使い所が術者に問われる戦略的に高度な魔法だった。
「ぐぅ……は、反射しきれないっ!?」
「逸らすのが精一杯と言った様子だな」
 この局面、咄嗟の判断と集中でこの魔法を用いたナフタリは、流石は“賢者”の職に就く者だといえよう。だがそれでも集中が足りず精度が低かったのか、或いは敵の魔力が高すぎたのか、鏡壁は瀑布を敵に反射する事無く周囲へと逸らしているだけだった。
 やがて二つの魔法の効力が失せ、ナフタリは力無く地面に膝を着いた。
「馬鹿な…魔力が、上がっているだと!? そんな事が……!」
 容易に上級爆裂魔法を使った事にナフタリは愕然とする。己が数合の魔力衝突の残滓を用いて何とか行使した上級魔法を、難なく単独の魔力だけで行使している。正流と反流の差異はあろうとも、その事に驚嘆を禁じえない。
 圧されながらも思考を廻らせその原因を探る。そしてナフタリは屍王の有機的な甲冑に身を包んだ姿を見検めて気が付いた。
「その鎧……かっ!」
「ほぅ、賢しいな」
「……消滅した不死魔物の怨嗟を喰らい、己が力とする……それが貴様の“印”の特性か」
 先刻、彼が現れたと同時に周囲に犇いていた赤紫の霞…それは盾として亡んだ不死者達の魂魄の残骸。あれは空気に溶けて消えたのではなく、屍王の纏う鎧に喰われたのだった。
「いかにも。智魔将エビルマージ様より賜りしこの印の銘は『冥鎧・死屍の鎧ゾンビメイル』。“魔”の因子が解放された不死者達が滅する度に、その澱んだマナを喰らい自らの力に換える。この地に広まった“力への意志”は須らく我が糧となり、その意志は継がれるのだ」
 鷹揚に屍王は語る。周囲一帯に居た数多の亡者を喰らった為か、彼が放つ圧迫感は苛烈を極めていた。
 その時。地面が一つ鳴動した。
(! この鼓動……最後の歯車が動き始めたか――)
 髑髏の仮面の下で、屍王は喜悦に口元を歪ませる。
「そして我が糧は、この旋律によって幾らでも産み出せる! 『死のオルゴール』よ。その冥き旋律にて、迷える人の裡に穿たれし楔…『魔法の鍵』を解き放て」
 屍王は雄々しく左手を高く掲げる。そこには木製の小箱が握られていた。
「! これはっ……」
 小箱から何かが発せられたかと思うと、おどろおどろしく空気が腐敗していくのを感じナフタリは険しく顔を歪める。身体の奥底から疼く言いようの無い慟哭に全身が総毛立ち、意識が何かに浸食されていくのを実感した。
 必死で自らを保っているナフタリを見下ろし、屍王は純然に称えた。
「ほぅ、間近でこの歌を聴き、意識を取られないとは……」
「呪殺魔法ザキ程度で魂が揺さぶられるのでは、到底『悟りの書』とは付き合えぬっ!」
「ふっ、効力にまで気付いたか……だがその余裕の無さ。魔法耐性の秀でた貴殿と言えど『魔法の鍵』を抱懐する身。絶えず流れ続けるこの旋律は耐え難いようだな。一度構えた思考を空にして、ゆるりと聞き入ってみるが良い。楽になれるぞ」
「戯言をっ」
 甘言を吐き捨てるようにナフタリは叫ぶ。最早それは虚勢によるものに過ぎなかったが、現実にこうして耐えていられる時間は余り長くは無い。少しでも気を逸らせてしまえば、嘆きの怨嗟に取り込まれてしまいそうだったからだ。
 ここでナフタリを保たせていたのは、屍王に対しての敵愾心唯一つだった。
「この韻律は“夜”に普く広まる。音を媒介にしているが故、発信源より遠く離れた場所には強くは届かぬがな。“夜”の下に在る限り、この韻律から逃れる事はできぬのだよ」
「何を……」
 今、こちらが手を出せないのを良い事に、雄弁に自らの道具の効力を語っている。そんな敵の意図が判らなかった。だが怪訝と同時に娘のユラの顔が浮かんだが、この旋律に呑まれる事は無いと確信を持っている。オアシス付近は真の意味での聖域で、尚且つ彼女の持つ『聖杖・復活の杖』の自衛機能が働くだろう。その場に居る筈の王女や民達を防護するには充分な筈だ。
 そう思い至った時、それは告げられた。
「……“魔”の因子を生来持ち得ない者が耳にすれば、どうなるかな?」
 その人物・・・・に思い切り心当たりのあるナフタリは、大きく目を見開いた。
「! テ――」
「揺らいだな……隙だらけだ。ヒャダイン」
 酷薄に笑って屍王は唱える。手掌を振り下ろし、屍王は氷刃の雨を降らせた。それは無慈悲にナフタリの四肢を刻み貫き、その身体を大地に縫い付ける。
「ぐわああああああああああ!」
「最後の最後で情が漏れ出たか。冷徹な執政官にはあるまじきものだが、それこそが人故の業。親故の性。……恥じる事は無い。それこそが貴殿が人である事の確たる証明だ」
(こ…こまで、か)
“賢者”を職としている自身の魔法抵抗力の高さの為か、奇跡的に頭部や胸部、生存に主要な器官は無傷だった。その為か、既に指一本動かせずとも思考はいくらでも働かせる事ができる。もっとも、肉体的痛みが大きすぎて怜悧さは期待できそうになかったが。
 先立たれた妻の顔、今を生きている娘達の顔。そして走馬灯のように浮かんできた同じ十三賢人に列せられていた仲間達の顔を次々と思い出す。
 その中で一人、自身に多大なる影響を与え、苦楽を共にした友の顔が強く浮かぶ。嘗ての戦役で命を落した彼が、清廉な心に従って自身の生命の灯を賭して多くの人々を護ろうとした意思を思い出す。
(かくなる上は、ジョセフと同じ手で……)
 どのみち、己の魔力は殆ど尽きている。手段は、既に一つしか無い。その意志は、その心は遠く過ぎ去った泡沫の記憶より受け継がれた。
「さらばだ、執政官殿」
 ナフタリの決死の意識を嘲笑うように、屍王は再度腕を天に向けて振り上げる。それに伴い冷惨なる死の臭いを漂わせた無数の氷剣が、宙空を埋め尽くさんばかりに列を為して具現した。
「メ、ガ――」
「ヒャダイン」
 号令に、空を埋め尽くしていたそれらは驟雨の如く降り頻った。




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