――――第五章
       第十五話 冥韻の輪舞







 砂漠という虚に支配された地は、開けた空を映す鏡である。
 いつかどこかで、流れの吟遊詩人が綴った詩が遺されているが、その荒涼とした情景は退廃を極めているようで、実に美麗な側面も数多く秘めていた。
 地平の彼方まで続く悠久の黄砂は、時には灼熱の細波に弄られ紅く染まり、時には極寒の息吹に抱かれ蒼く染まる。天の配色によって、普く砂礫の大地は鮮やかな彩りの宝石を飾り着けられた。
 また、大空を往く自由気侭に流れる風は軽やかなリズムを刻んでは、大地に犇く砂の手を取り優雅な舞踏へと誘う。溌剌と躍る風と砂の円舞は、水面を揺らす波紋の如くその環を拡げ、瞬間瞬間でその表情を変えてゆく。
 だが、どれだけ空の移ろいに添い遂げて仮面を着け変えようとも、その下に在る砂漠としての真実の姿は決して変わる事は無い。純粋無垢に創始の姿を保ったまま、その上で生きる生物達の淘汰と繁栄の行く末を、終焉の刻まで無為に見守り続けている。





 聖都を見渡せる少し離れた小高い丘にて。
 数多の点影に蝕まれている白き街並みを眺望するのは、今このイシスに進攻している不死魔物の長、屍王ワイトキング。幾つもの生物の骸を繋ぎ合わせて造られたような禍々しい鎧を身に纏う姿は、輝けるラーと対極の位置に立つ負陰の権化とさえ思える。神話上に登場する悪魔のように、山羊角よりも凶悪なうねりを持つ角を額から生やした髑髏の仮面の下で、屍王は鷹揚な輝きを眸に燈した。
「聖都を完全に包囲したか。……ここまでは予定通りだな」
 月によって蒼茫に塗り替えられた白き聖都の外壁を、無数の黒点が病魔のように侵食している。それらは全て配下の不死魔物で、言い換えれば元イシスの人間達である。死の影に取り込まれた彼らは、それ故に生への渇望が強くただ我武者羅に生者に引き付けられ、判りやすい生への嫉妬にその命を蹂躙する。イシス人としての矜持が高ければ高い程、ラーへの執着が強ければ強い程、不死者は暴虐の輪舞に生者を招きいれていた。
 聖都のあちこちで家屋から炎が立ち昇る煌々とした光が見えた。
(“焔の申し子”がどこまでこちらの動きを読んでいるかが気掛かりだったが、この盤面に到った以上、最早どう風が吹き変わろうが筋道は違わぬ……過大評価し過ぎたか?)
 背後をオアシスに遮られて閉ざされている以上、円形の聖都を囲う事は実に容易い事だった。それは後方への退路が無い故に、単純に正面から数に任せて攻め入れば充分に事足りるからだ。仮に背後に座したオアシスの中に逃れようとすれば、確かに不死魔物では追撃は不可能となるだろう。太陽神の加護という名目に囚われる訳ではないが、実質的に陽の力を秘めたオアシスは言わば不死魔物にとっての鬼門で、触れるものならば瞬く間に消滅してしまう。
(だがその可能性は無い。……ラーからの寵愛の証を踏藉出来る不信心な者など聖都に居る筈も無いからな)
 それぞれの胸に強く大切に秘めた信仰心が今、自分達を窮地に立たせている。敬虔に光に縋った挙句、闇の浸食を前に下がる事はできず、だが前に出る事もままならない。
(ならば、民を護る為に取り得る手段は一つだけ……そうだろう、“ラーの化身”よ)
 屍王は小さく嘲笑を浮かべ、『死のオルゴール』を虚空へと高く掲げる。
 その禍々しい旋律は、前線で跋扈する不死者達に力を与え、抵抗するイシスの騎士兵士達を力無く地に平伏させていった。
「同胞達よ。我らが悲願の為に、いざ光を堕さん!」








 聖王国イシス執政官、ナフタリ=シャルディンスは白混じりのくすんだ蒼髪を風に靡かせ、一人市中に佇んでいた。だがその周囲に人々の姿は無く、少し前まで生活を営んでいた痕跡が生々しく残っているだけ。
 民は既に強固な結界の張られたラー神殿と王宮へと避難させている。そんな中、主無き閑散とした夜の街に立っていると、その幽冥な様は墓標とそれ程大差無い印象を覚えずにはいられない。
 自らの裡から生じた陰鬱な心象にナフタリは辟易して深く嘆息し、ゆっくりと閉ざしていた瞼を持ち上げる。
 砂塵と風に揺られる清廉な白を基調に高貴さを醸す濃紫の繊細な刺繍が施された外套ローブは、“賢者”という御位に立つ者のみが纏える厳粛な代物だ。普段は執政官として決して己を強く主張する事の無い暗色系のローブを身に着けている彼がこの外衣を羽織っているのは、彼が持つもう一つの名…十三賢人“四華仙・律”としての側面が強く出ている事に他ならない。額に座した金のサークレットと手にする木製の杖。それぞれに埋め込まれた赤と青の宝玉が、僅かな夜光でも清冽な輝きを燈している。
 壮年の賢者は、油断無い怜悧な視線で薄暗い虚空を射抜いていた。



――時を少し遡る。
“剣姫”率いる決戦部隊が王墓に向けて出陣して数日。
 予め練った綿密な行軍予定ならば彼女らは既に王墓への侵入を果たしている頃合だろう。それに合わせて強化していた国軍による聖都防備。そして教団所属の騎士団先導による市民の避難が着実に進められており、最も強固な結界の張られている王城と神殿へと聖都に住まう全ての人々の退避がほぼ完了するに至っていた。

 その日。王宮仕えの数多くの魔導士達から、今日という日にこの地で何かが起こるのではないかという訴えの声が数多く上がっていた。
 それは予兆か、あるいは予感か。
 魔を御する術を持った人間達が往々に感じる予感を、例に漏れず覚っていた聖王国イシス執政官ナフタリ=シャルディンスは、一人泰然と収容された国民が犇く城内を歩いていた。
 人々は今や神の恩恵が色濃いオアシスの岸辺や、結界が強固である安全な城内の奥に避難しており、入口付近は反して伽藍堂としている。そんな城門へと続く侘しい正面回廊に差し掛かった時。ふと誰もいない筈の回廊で、何か…例えるならば猫が側を通り過ぎたような気配を感じてナフタリは周囲に視線を走らせるも、ただ薄闇の中を廊下が続いているだけ。気でも急いているのだと結論付けたナフタリは自らを律し、歩みを再開する。
 門番の兵士達に一言、二言注意を喚起しては扉を開けさせ、寒空の下に静かに踏み出した。
 夜空の下に幽然と広がる城門前広場には、騎士の如く建ち並ぶ尖塔や守護獣像が整列しており、それはこれからその道を進む者へ向けての葬列のようでもあった。
 それら像の一つの影から、一つの人影が夜に馴染みながらしっとりとナフタリの眼前に現れる。それは焔のように猛々しい髪を持つ紅蓮の参謀顧問、スルトマグナだった。
「ナフタリ様、行くのですか?」
 開口一番、スルトマグナは抑揚無く言う。不要な言葉の一切を殺いだ、実に真に投げ掛けられた問いだ。こちらの胸中を察している少年に、ナフタリ足を止め感情を揺らがせず淡々と返した。
「無論だ。こう後手を取る事になった責は私にもある。敵をまず初めに歓待するのは執政官たる私の務めだ」
「……戦略上、貴方が最前線に出張る必要性は無いんですけどね。既に網も張り巡らせてありますし――」
「スルトマグナ」
「はい?」
「お前も感じている筈だ。今、この“夜”に満たされた不快なまでに濃密な死の気配を」
「ええ。だからこそ、詰みの一手を編み出す為の時間を稼げさえすれば良いと思うのですが……」
 言いながらスルトマグナは視線で城を越えた場所にあるオアシス、つまり儀式の中心である祭壇を指し示す。怜悧な少年が何を言わんとしているのかを察し、ナフタリは小さく嘆息した。
「弱気な発言だな。お前らしくも無い」
「慎重と言って下さい。実際のところ、僕自身“死者の門”の効力が何なのか把握しきれていませんので頼るのは良くないと思うのですが、王女殿下の今後の為にも“扉”は必要不可欠なのでしょう? 不確定要素を王手チェックに据えるならば、それまでの手順は綿密に練らねば戦況はいかようにも転じてしまいます」
「その“扉”を開く為にも、今暫し掛かる。……敵はそれを悠長に待ってくれると思うか?」
「思いません」
 ナフタリの懸念をきっぱりと断ち、スルトマグナは両腕を組んだ。
「数千年前の遺物を起こそうというのです。たとえ解放に必要な鍵が揃っていようとも、錆び付いた鍵穴にそれらを通す為にはどうしても時間を要してしまいます。そして何より、この手の儀式に重要なのは機に他なりません」
「その通りだ。だからこそ、その機が満ちるまで時を稼がねばならない。どんな手段を用いてでも、な」
「…………」
 二人は幽静なる市中を遠目に眺めながら、沈黙を踏み締める。風靡に地面を蠢く砂塵が何かを告げるようにそわそわと囁いていた。
「……教団や枢機院の方はどうなりました?」
「あちらはイスラフィル司教が“懐刀”を動かして頂けた。彼らの仕事は迅速且つ的確だ」
「そうですか。それならば後方の憂いはありませんね」
「ああ」
 この場に立つ彼等にしか解らない応酬。ただ一言だけで互いが何を問い、求めているかを充分に理解できていた。
 ナフタリは歩みを再開させ、ゆっくりとスルトマグナの脇を通り過ぎる。
「ともかく第一陣は私の役目だ。こればかりはお前にも譲らん」
 去りしなに置かれた言葉に、スルトマグナは内心で苦笑を浮かべる。彼の二人の娘の融通が利かなくて頑固な性格の源流は間違いなく眼前の人物なのだろう、と思ったからだ。かといってそれを口外するのは余りにも彼らの領域に立ち入った事なので、自らの胸の内にしまっておく。
 振り返り、スルトマグナはナフタリの背に向けて言った。
「わかりました……ですが死なないで下さいね。僕の関与する事ではありませんけど、貴方に亡くなられると戦後この国を建て直すのが非常に困難になる。国際情勢を鑑みるに、魔王に付け入る隙を与えるのは得策じゃない」
「まったく、相変わらず口の減らない奴だなお前は」
「そういう性分ですから」
 この状況の中でも戦後みらいの事に思考を回す事が出来るのは、現在の危機をどう捉えているかの意識による。スルトマグナのそれが決して今を過小評価していない事を、その様相の端々から見て取れるナフタリは密かに感心していた。が、余りにも慇懃で全く以って遠慮の無い言繰りに、呆れ混じりの嘆息を零さずにはいられなかった。
 多様な意味で肩から力が抜けたナフタリの後姿に、スルトマグナは屈託無く笑った――。



 聖王国イシスが誇る美麗の街並“光煌の都”は今、完全に不死魔物の軍によって包囲され、内への侵入さえ許してしまっていた。元来本陣にまで攻め込まれれば篭城には向いていない聖都の造りであったが、ここまで深く懐に攻め入られるのは、恐らく建国史上初と言ってもいいだろう。
 世界最大と謳われる砂漠地帯の深奥に在るこの聖都の侵略価値の有無は不問にするとしても、厳戒態勢の中で布いたこちらの守りの手段を無力化されたのだ。聖都襲撃を実行した敵の将には賛辞の一つでもくれてやりたい気分だった。
 勿論実際に口にするつもりは無いが、そんな取るに足らない感傷に浸った己を叱咤し、ナフタリは目を細めた。
「来たか」
 小さく呟くのと同時に、一陣。これまでに無い強さの風がその場を駆け抜け、砂塵を大きく舞い上がらせる。
 突如下ろされた紗幕。そこに間を置かず人ではない異形の影がひっそりと、だが泰然と姿を現した。
「十三賢人が一人、“四華仙・律”ナフタリ=シャルディンス……まさか貴殿程の御仁が早々に出て来られるとは思わなかった」
 その声は男のようで女のもの。そして大人のようで子供のものだった。性別も年齢も不明瞭な声は、幾人もの人間が同時に発しているように輻輳していて酷く無機質で聴覚に障る。
 ナフタリは不快さを潜めた怜悧な眼光を強め、砂に映りこんだ影を見据えた。
「貴様がこの不死軍の首領か?」
「いかにも。我は“屍王”。この地を永く蝕み続けてきた内なる宿業から解放し、新たなる秩序を齎す為に参じた」
 ナフタリの誰何に、屍王は恭しく片手を胸に片手を虚空に掲げて浅く腰を折る。その仕草は舞台役者の優雅さで、礼節が身に染み込んだ洗練された動きだった。
「調和崩壊から混沌を撒き散らす不死者共を用いておいて秩序を貴ぶか……笑止」
 使い古されたお題目を鼻で哂い、浅く小さな息を吐いた瞬間。ナフタリは最小の動作で杖を屍王に突き付けて一瞬で熾した火球を放つ。生まれた火炎は成人男性を丸々呑み込んでしまう程の大きさに刹那で肥大し、その威力は大地を強かに打ち据え地面に大穴を穿った。
 轟音と共に舞い上がる砂煙と焼音は、夜を切り刻む強かな光を街に燈した。
「……避けたか」
 何の感慨も無く、ナフタリはただ事実を確認するよう呟いた。
 風に流れて煙が晴れると、何時の間に移動したのか穿たれた穴の直ぐ側に屍王は悠然と立っていた。やがて小さく肩を竦め、再び芝居掛かったわざとらしい動作で屍王は悲嘆を零す。
「問答無用でメラミとは、その精神に恐れ入る。だがそれは、話途中の相手に対して些か無礼に値するのではないかな?」
「魔物と交わす言葉など元より無い。無辜なる民を恐怖の坩堝に堕した罪は、消滅を以って償え!」
 ナフタリは静かに、だが烈々とした気迫と共に言葉を告げると、手にした杖で虚空を真一文字に凪ぐ。次の瞬間、その軌跡に幾つもの光球が浮かび上がり、胎動を始める。
「べギラマ!」
 そして続いた解放の言葉。その号令を受けた光球の群れは、それぞれ一条の閃光と化して空を滑る。先頭を切っていた閃光の一つが螺旋を描いて宙を疾駆し、それに連なるように幾つもの光もまた螺旋の軌跡を走る。
 まるで多くの支流が一つに束なり、大きな一つの本流を形成するが如く、凄烈な奔流は瞬く間に屍王に殺到した。
「ヒャダルコ!」
 遅れる事、数瞬。屍王の足元からきざした氷花が瞬く間に成長し、降り迫る彗星を迎え撃つ。
 両者の丁度中程で炎が氷を、氷が炎を互いを喰らい合い相殺し、爆ぜる。
 けたたましい炸裂音と、瞬時に場に広がった噎せ返る真白の蒸気に夜の静寂が一瞬退いた。
 擾乱する風が鼻腔を圧す蒸気を払拭していく中。攻撃魔法を放つと同時に移動していたのか、両者の立ち位置は既に逆転していた。だが両者はそのまま悠長に佇む訳でもなく、即座に互いが互いに向けて杖や掌を翳して魔法を放つ。
 ナフタリが熱線の流星群を撃ち出せば、屍王は氷花の群で巨壁を造りそれらを阻み、大火球を投じれば、氷槍で貫く……ナフタリは主に不死者に対して特効である火炎魔法を用い、屍王は氷刃魔法でそれに抗していた。
 拮抗を保った両者の魔法がぶつかり合う度に、轟音と共に高熱の蒸気と圧力が街に放散され、それらは情け容赦無く大地を抉り建物を倒壊させる。戦闘当初は聖都を攻めている不死魔物達の一群が数回ナフタリの隙を狙って急襲してくるも、十三賢人に列せられる彼は難なく魔法でそれらを薙ぎ払い、そればかりか対峙している屍王に付け入る隙を与えない。
 やがて屍王からの指示なのか、生きていた時の本能が甦ったのか、慎重になった不死魔物達は横槍を入れる事無く、魔法に狙い撃ちされない射程外で様子を窺うようになっていた。




 イシス大砂漠の中に在って比較的霊素減衰が緩やかな聖都は、こうして瞬く間に惨憺な戦場と化した。
 舞台を華やかに飾るのは片や賢者で、片や魔族。共に一般の魔導士、魔物から一線を画した力の充実した存在で、“夜”の影響もあってそれらが持つ力は破壊的で脅威そのものだ。現に二人の攻防を前に聖都に舗装された石畳は吹き飛び、地面のあちこちに大穴を抉り、家屋は倒壊し戦火は広がる。
 街中に掲げた篝火が霞むまでに燦然と輝く火災の光が、無機なる夜会を煌々と彩っていた。
 魔力の質と量では、“魔族”という存在状態にある屍王に分が在り、反流魔法の展開速度と技術は“夜”の後押しもあって、“賢者”を職とするナフタリの方が有利だ。
 押しも押されぬ一進一退の、互角の魔法戦が白砂の街並みで展開していた。
 だが――。
魔力エーテルの収束効率、魔法の構築、展開速度は流石というべきだが……威力も精度も随分と落ちてきている。そろそろ底が見えたかな」
「……侮るな」
 強かな光でその陰影が浮き彫りになった屍王は悠然と立ち、抑揚無く言う。その声色に疲労は無い。反してナフタリには地面に杖を突いては身体を預け、憔悴が現出していた。
 屍王にも言える事だが、絶えずほぼ連続で魔法を繰り続けてきた事。そしてそれを有用に行使する為には相手の裏をかくよう動き、策略を巡らせねばならなかったからだ。
 長期戦によって動きが明らかに鈍くなっているにも関わらず、それを認めようとしないナフタリを見下ろし、屍王は冷たく嘲笑した。
「人間の身ではそれが限界というものだ。……貴殿程の実力者を失うのは少し惜しい。早々に降伏して頂けるならば、捕虜として厳正に扱うが」
「戯言をっ、バギマ!」
「やはり“夜”の影響下にあっても正流魔法を行使できたか! 流石は十三賢人。だが……ぬるい。イオラ!」
 ナフタリが翳した掌から捲き起こった真空の刃を、屍王は具現した光球を地面に叩きつけ、爆風で吹き飛ばす。
 心身の消耗が顕著に現れた為か、ナフタリの放った真空魔法は屍王の爆裂魔法の前に競り負け、刃を掻き消し尚圧倒する爆発の余波が地面を震撼させ、ナフタリを後方へと押しやる。少なからずそれはダメージとなって彼に蓄積され、より不利な状況にへと彼を引き寄せていた。しかしそれでもナフタリの敵を見る眼の鋭さは衰える様子は無かった。
(距離は充分。遮蔽物は……無い!)
 もう十数合にも及ぶ魔法の激突によって、両者の間合いはそれなりに開きつつある。そして周囲の街並みは、完全に廃屋と化した家の残滓が名残惜しくその場に留まっている幽寂とした様子だった。だがそれはナフタリにとって計算され尽くして造りだした結果に過ぎない。
 絶えず正面からぶつかり合う魔法によって霊素の残骸が渦を巻き、風ならぬ風を周囲に巻き起こしているのを、ナフタリは数合前からそれを目敏く察知し、用いる為の準備を進めていたのだ。
 屍王はその余裕からか悠然と立っている。こちらを誘い込む為の隙を、あからさまに見せて居るのだ。
(その油断が命取りだ!)
 ナフタリは地面に両膝を着いたまま、杖を敵に向かって力強く翳す。それを両手でしっかりと支え、力ある言葉を紡いだ。
「虚空満たす嗟嘆の声よ。哀を憐れむ慈悲なる心で、ここに掃天の風琴を掻き鳴らさん」
「! その韻はっ!?」
 その厳かな真言と周囲の空気が微細な変化に気が付いたのか、ぎょっとしたように声を震わせる屍王。だがナフタリの魔法は既に完成していた。
「嵐奏天旋! バギクロス!!」
 掲げられた『賢者の杖』に埋め込まれた青の宝玉が一際強く輝いた瞬間。地面に現れた幾つかの小さな旋風は周囲の砂塵を壮絶な勢いで呑み込む。そればかりか廃墟と化していた街並みに散乱していた瓦礫や岩石が、見えない巨大な引力に牽かれている為かあっという間に引き寄せられていた。
 複数の旋風は周りに散逸しているあらゆる物を貪欲に喰らい、その姿を空に届かんばかりの砂礫の柱に変貌させた。通常ならば竜巻に舞い上げられた物体は渦による束縛から放たれ、重力に引かれて雨の如く地に降り注ぐものなのだが、反してその竜巻から何かが落ちて来るという事は無い。その裡に包含された瓦礫や岩石の破片は既にこっぱ微塵に粉砕されていて、粒子となって捲く風に完全に取り込まれていたのだ。それは二次的な被害を徹底して押さえるように計算して紡がれた結果の一つに他ならない。
 ナフタリが起こした数本の巨大な竜巻は予定調和で霊素の乱気流を絡めとり、その威力を増大させる。霊素減衰率が高い砂漠であっても、他の地で使うのと何ら遜色の無い烈風の舞曲が、焼けて凍えた砂を切り刻んだ。
「こ、こんな事が――」
 それぞれに逆巻く真空の断層と、取り込んだ砂礫の質量は鼓舞の刃となって全方位から屍王に肉薄する。地を蛇蝎のように這いまわる乱気流に絡め取られ、逃げるどころか足を動かす事すらままならない状況の中。最後の足掻きなのか、屍王が叫びながら黄金色の輝きを燈した右腕を竜巻に向かって翳す動作をとるのが見えたが、それが一体何を意味していたのかナフタリには解らない。
 夜を劈く轟音を響かせながら終に数本の砂色の竜巻が一つに収束し、屍王の立っていた大地を容赦無く深々に抉っては、その飛沫を虚空へと舞い上げていた。








 オアシスの中心に向かって伸びる唯一の水上回廊の前で、ユラは夜空を見上げていた。
 陰鬱な印象しか及ぼさない“夜”は相変わらず重く心に圧し掛かってくるようで、その中に唯一つ浮かぶ白翠の満月は、ただ孤独に佇んでいる。何時見上げても変わる事無くただその位置にある姿は、何も知らない世界にただ一人放り出された迷子の如く、身動き一つできない束縛と戸惑いの渦中に在るように感じる。
 ラー教では太陽を女神と表す事から、対比する月は男神と喩える。他の宗教では概ねこの関係が逆転しているそうだが、ユラにとってこの比喩は決して揺るがない。その意識に根付いた価値観の所為なのかもしれないが、寂寥に浮かぶ月が先日訪れた旅人の面影と重なってならなかった。
 そこでユラは情緒に浸りきっていた自分に気が付き、叱咤を込めて自らの頬を小さく打つ。今は自身の感情に埋没できるだけの暇を与えてくれない逼迫した状況だったからだ。

 完全に篭城する形となってしまった現状に人々の胸に小さな不安が渦巻くも、暗澹は“剣姫”が必ず打破してくれる。“ラーの化身”であらせられる女王や“魔姫”が自分達を護ってくれる、といった無責任な希望の前に瞬く間に呑み込まれ、潰えていた。そんな人々の陽なる心を支える一柱の女王…未だ殆どの人間に真実を知られていない王女フィレスティナは、退避が始まった頃はよく市井の人々の前に姿を現し光と等価である激励の言葉と美麗の笑みで勇気付けていたが、今は“魔姫”ユラ=シャルディンスを伴い、現状を覆す古代儀式の準備の為に聖都の背に位置するオアシスの中心に在る祭壇に赴いていた。
 人々はそこでこれから何が起こるかなど知る由も無い。ただ漠然とではあるがその場所より大いなる光が、太陽の如き閃光が現れ、この闇の空を薙ぎ払ってくれるのだと盲目的に信じきっていた。その証拠に人々は、いつ何が起こるかも危険の有無さえも厭わず湖岸に固唾を呑んで佇んでいるのだった。

「あの竜巻は……お父様の」
 不意に起こった風の擾乱に、ユラは視線を市街地へと向ける。
 宮殿がある為に市街そのものを直視する事はできないが、それを楽に超える高さで躍る幾本もの竜巻は、イシス最高の魔導師としてその名を知らしめるナフタリが用いた上級真空魔法だ。とりわけ霊素減衰率の極致である“屍の生地”において、補助の魔方陣を用いずにあれを成してしまうのだから“賢者”という職に就く者の魔を御する智慧には感心を通り越して畏れさえ感じる。
 上級真空魔法バギクロスこそ修得してはいるが、あの竜巻と同じ現象をこの“夜”の“屍の生地”で紡げ、と言われれば自分はただ黙る事しかできない。そんな事を考えながらユラは無意識のままに両手で『聖杖・復活の杖』を握り締めていた。
「ここ“屍の生地”において、この“夜”の下で上級真空魔法を実現するとは流石は十三賢人“四華仙・律”。世界を律する法則の網間を識る方ですね」
 ユラの小さな呟きに添えるように言葉を発したのは、彼女の近くに控えていたミコトの従者である異国の僧侶サクヤ=ミカドだ。古くから鎖国政策を執っていた国是の為か、ゆったりとした白の法衣の上に濃紺の布地を袈裟に羽織っている姿はどの国家に在っても人目を惹く。それはここイシスでも例外ではなく、見慣れぬ故にある種の神秘性を醸すサクヤの傍らには、彼女に系統を同じくする旅装を纏い、腰に二振りの緩やかな曲線を描く細身の剣…倭刀を佩いた黒髪の剣士、イズモ=カミガキが同様に空を席捲する竜巻を見据えていた。
 サクヤはミコトと共にイシス市中でイズモとの邂逅を既に果たしており、それからはミコトに追従していた。そして今、ミコトの側ではなくこの場所に居るのは、そのミコトによってイシスを護るのに協力するよう遣わされていたからだ。
 ナフタリと同階位である“四華仙”の兄をもつサクヤは、当然その周辺の情報に通じているのだろう。空に連なる風の簇柱を見つめながら、静かに言っていた。
「……結構無理してんな、あの師匠オヤジ
「出雲。口が悪いですよ」
 生真面目そうな風貌に反して粗野なイズモの口調に、サクヤはユラの手前もあってか鋭く諌める。それにイズモは小さく肩を竦めた。
 ユラは思いがけず父が上げられた事に驚き、立場を弁えて言葉を選んで言った。
「イズモ殿は執政官様を御存知なのですか?」
「ああ。昔、師匠がダーマ勤務だった頃に師事していた。……良く日向とマーラの奴らと一緒に、ダーマ神殿の外周回廊に正座させられて延々と説教やら小言を言われたもんだ」
 あれは拷問だったな、と苦笑いを浮かべて腕を組み一人何度も頷くイズモ。言葉とは裏腹に昔を懐かしむ親愛の意識が垣間見れて、ユラは相貌を崩す。そして、そこでまた意外な名前が連ねられた事に眼を丸くした。
「アズサの養父、レティーナ司教補佐官ですね。あの方が倭国の方と交流があったとは初耳です」
「奴は若い頃は外交特使だったからな。各地の色々な酒を公費で買い漁って、良く夜通し飲み明かした」
「……出雲。そんな事、ここで話すような事ではありませんよ」
「おい朔夜、お前なぁ……俺達の青春時代の思い出をそんな事の一言で片付けんなよ」
「状況によりけりです」
 即断されて脱力の余りがっくりと肩を落すイズモと、どこまでも冷静な表情と風体を崩さないサクヤ。
 場違いではあるが笑みを深めずにはいられないやり取りに、ユラは強張っていた緊張が解れるのを感じていた。




 やがて宮殿より、両の腕に星の煌きを抱いた金色の腕環を備えている黒濡羽の少女が現れる。その少女こそ、古代より連綿と続くイシス王家の血を受け継いだ正統継承者、王女フィレスティナ=ホルス=ソティス。イシス王家直系で唯一の生者であり、両親を喪って日も浅い薄倖の少女だった。
 まだ現王の崩御さえ公表されておらず、正式にその御位を継いだ訳ではないが、二つの意味での偶像として彼女の双肩に圧し掛かる重みは余人には決して計り知れるものではない。齢十六という不安定で多感な年頃だからこそ、周囲の微細な変化に心身共に大きく揺られてしまうものなのだが、フィレスティナは毅然とした覚悟と佇まいで“夜”の下でも太陽のように在らんとしている。それができるのは彼女が強い人間である事を意味し、彼女が自分は一人では無く周囲で自身を支えてくれている存在の事を確かに認めている為だった。
 フィレスティナは落ち着いた麗しい声で、眼前に立つ者達に決然と言った。
「皆さん。執政官と参謀顧問が時を稼いでくれている間に、“死者の門”を開く儀式の準備を行います」
「フィレスさま……そのお姿のままで?」
 在るがままの姿で王の儀式に望もうとするのに懸念を零したのは彼女の理解者の一人、“魔姫”ユラだ。彼女個人としてフィレスティナの身を案じると共に、親衛隊隊長としてこの場に大勢集っている民の前で王の儀式に挑むのが王女である事で生じる混乱を危惧していた。
 自分の身を慮ってくれるユラに感謝しつつも、フィレスティナは凛とした表情を崩さなかった。
「当然です。これ以上、我が民を偽る事は叶わない事でしょう。王家の者として民を護る為にも、私自らが往かねばなりません」
 王の儀式を行えば、民達も否応無しにその意味を理解する事になるだろう。そしてそれはフィレスティナという少女に残された慎ましやかなモラトリアムの終結を意味する。それを知って尚、フィレスティナは自らの意志でその路を歩もうというのだ。その意志の根底に悲愴ではなく希望を抱いて。
 ユラはこの時、少女に対しての忠誠心が今以上に昇るのを実感した。
 その場に跪き、恭しくユラは頷く。
「お供します。この身続く限り、どこまでも」
 真っ直ぐな忠誠がひしひしと伝わるユラの心と言葉に、フィレスティナは一瞬だけ表情を緩めて一つ頷き、続いてユラの後方に控えていた二人の人物に向き直る。
「倭国の方々も、お力添えに感謝します。どうかその御力で我が民をお守り下さい」
「それこそが我が主の願い。この命を賭して尽力させて頂く所存です」
「イシスとジパングは古くから繋がりがあります。私達の代で先人達が築いた縁を断絶させる訳には参りません」
 先程までのおどけた雰囲気とは真逆の真摯な言動のイズモに、清楚に穏やかに返すサクヤ。
「……ありがとう」
 この国の危険に付き合う義理も義務も無いというのに、誠実に賛同してくれた二人に、フィレスティナは深々と感謝を零していた。
「ところでフィレスさま。そのお召し物は?」
 フィレスティナは今、薄紅色のゆったりとしたローブを羽織っていた。清浄な息吹さえ感じられるそれが見慣れない物だったので、ユラは徐に首を傾げる。
 ええ、と頷いてフィレスティナは言った。
「『聖衣・天使の霊衣ローブ』です。嘗てファラオが、イシスに降り立ったラーより賜ったと云われる四光の一片。イシス聖四宝『聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー』、『聖杖・復活の杖』、『聖環・星降る腕輪』……そしてこの『聖衣・天使の霊衣』。“死者の門”を開く為に必要な祭具です」
「それが門外不出の……“霊療ネフティス”様より手渡されたのですね」
「はい。その時、叔母様はこう仰いました。四聖宝の他に“扉”を開くに欠かせない最後の要素…『聖鍵・魔法の鍵』。それはイシスの民に生来秘められ継がれてきた業…“魔”の因子を最も色濃く内包した王の血脈、即ち“王裡アセト”。“扉”を真に開く事ができるのは“ラーの化身”である母の子、私だけなのだと」
「……フィレスさま」
 切なげな表情で見つめてくるユラに、フィレスティナは苦笑した。
「ユラ、そんな顔しないで下さい。私は私を支えてくれる人達の為に存在する……いえ、存在したいのです。母は常々私に王としての心構えを説いてくれました。即ち、国を護る為ならば自己を殺す事も厭わない覚悟を」
「ネフェルテウス陛下がそのような事を……」
「ですから私は、私の全霊を賭してこの儀式に挑みます。私の、力への意志のままに」
 燦爛と輝く強い光を眸に燈し、フィレスティナは竜巻の昇っていた城下を、そして幽玄の王墓の方角を見つめた。








 幽玄の王墓の最下層。
 突如石柩から噴出した闇が収束し形となった敵に向けて、アズサは正面から『聖剣・滅邪の剣』で袈裟に斬りかかる。それに合わせた訳ではないが、ユリウスもほぼ同時に背後から右に斬り上げていた。
 前後からの逃げ場の無い同時攻撃。それは間違いなく敵を捉えたであろうとアズサは確信する。そして敵が不死なる者であるならば、この一撃で決すると言う事も聖剣の使い手として判りきった事象だった。
 薄闇さえ震わせる甲高い激突音が狭い玄室内を駆け回る。
「な、何じゃと!?」
「!」
 だが予定調和を知る者の表情は、刃がその躯体を捉えた瞬間に真逆に転じる。刀身を通し掌に伝わる在り得ない筈の感触にアズサは驚愕に声を上げ、そしてユリウスも眼を細めた。
 敵は迫り来る刃の交錯を躱すどころか、事もあろうか半身を回転させ、それぞれの斬撃を素手で受け止めたのだ。それが錯覚で無いとしたためる、金属と硬質な何かがぶつかり合う衝撃は二人の触覚を大いに刺激していた。
 敵は宙を奔った二つの刃を手で掴んだまま放そうとせず、そればかりか刀身を破壊せんと力を篭めてくる。聖剣を掴んでいる手の方から何かが融けるような耳障りな音と煙が立ち昇っているが、圧搾の力は一向に弛む気配は無い。
『聖剣・滅邪の剣』の異名である“不死絶殺”とは、不浄なる者に逃れられない絶対の死を与えるという事象より謳われたものだ。ある意味純然なる亡びの概念そのものと言っても良いこの剣による斬撃は、たとえ触れるだけであっても、不死者にとっては甚大な損害を及ぼす。
 それが事もあろうか不死魔物に防がれ、あまつさえ聖剣を破壊しようと試みてさえいるのだ。アズサが驚くのは無理も無い事だった。
 思いがけない事態に硬直する二人。だがユリウスの方が思考の切り替えが数段早く、的確だった。
 如何に闘氣フォースを集約させて武器の強度を上げていようとも、これ以上刀身を軋ませておくのは危険だと判断したユリウスは、動かない剣の柄を順手から逆手に持ち替え、そのまま敵の肘に逆関節方向に蹴撃を加える。敵は人体を形成している為、関節の稼動限界以上に負荷を加えられた反動で腕から力が抜け、刀身の束縛が解除された。
 敵の意識が腕とユリウスに向き、怯んだ一瞬の隙を逃さずアズサもまた柄を返して気合と共に剣を引き、間合いを取る。

 幸か不幸か敵の追撃は無く、奇襲の利も失敗に終わり、ユリウスとアズサは敵の隙を窺う膠着状態へと遷移していった。

 ユリウスは剣の切先をやや下げ、一定の間合いを保ったまま敵を中心に円を描くように横に横にへと摺り足で動き、様子を窺いながらここで初めて敵の全容を検めた。
 敵の外見はこれまでイシスの地で戦ってきた不死魔物との同様に人の形をしており、皮膚が削げ落ちてむき出した頭蓋の眼窩の奥で妖しい輝きが力強く胎動している。生者の有機さと共に、嘗ては気品に満ちていたであろう白の王衣と紅の外套も長久の年月によって劣化が著しく、大部分が破れ落ちてその内の朽木のような体表を覗かせていた。
 印象としては貧相で、注意を喚起する程の敵ではないと感じるも、直ぐにその認識を改めねばならないと思わされる。この敵から絶えず放たれる威圧感、一分の隙も無い泰山の如き佇まい。そして窪んだ眸の奥から零れる凄烈な力への意志が、この敵を単なる不死魔物ではないと物語っていた。
 徒手空拳で半身を前に構えた姿を見る限り敵は格闘を主とする武闘家で、周囲を窺う微細な動きでさえ熟練の域に達している事を髣髴させる。
 この敵の正体が何なのか、そんな素性はユリウスには窺い知りようも無いし、どうでもいい事だ。だがこの敵を構成する種々の要素が、普通の魔物を超えた存在状態にあるのだと思考を収束させていく。そしてそれを自認すると、ユリウスは自身の中で血が滾るように昂揚するのを抑え切れなかった。
 魔物よりも遙かに高みに立つ存在……即ち――。
「……魔族」
「何っ!?」
 ユリウスが無意識で言葉を口ずさむのをアズサは聴き、瞠目する。魔族という魔物よりも上位存在の事は聞き及んではいたが、こうして目の当たりにするのは初めてだったから戸惑ったのだろう。そしてアズサが驚いたもう一つの理由は、ユリウスの声が余りにも抑揚を孕んでいた事にある。どんな状況で何があろうとも決して氷静さを崩さない筈の彼が、だ。
 そんなユリウスが叫ぶのと、敵が粉塵を舞い上げながら力強く跳躍するのは同時だった。
 敵は朽ちた白の王衣を翻し、空中で独楽のように回転しながら間合いを一気に詰め、遠心力を乗せた蹴撃を繰り出す。その標的とされたのはアズサだった。アズサも咄嗟に敵の急襲を迎え撃つよう聖剣を閃かせるも、後手で力が足らず、そして闘氣の巡りが一瞬遅れた所為で競り負けてしまう。
 聖剣はその接触の際に確かに敵を切り裂いていたが、それは表層のみでやはり致命傷には程遠い。敵の収束した闘氣による恐ろしいまでの防御力の前に、聖浄の力が阻まれ弾かれてしまっていた。
 だがアズサも“剣姫”と称呼されるまでの剣士。後ろに弾かれるも直ぐに体勢を持ち直し、反撃を試みる。闘氣を両脚と両腕に集約させ、力強く石床を蹴った。その身軽さでユリウス以上の速さで放たれた瞬閃の剣戟は、敵の両腕による防御を掻い潜り、その躯体を確実に切り裂いた。だが――。
「っ!? 浅いか!」
 切り裂かれた敵は勢いに怯みつつもそれ程にダメージを受けた様子は無く、寧ろアズサを捕縛しようと腕を伸ばしてくる。それをアズサはバックステップで躱し間合いを取り、生じた距離を助走に用いて再び敵の懐に潜り込んでは、その顎目掛けて跳び膝蹴りを放つ。確実に捉えたかと思われたその一撃は、敵が上体を地面に水平に後退させるという刹那での驚くべき動きで回避されてしまう。
(今のタイミングで躱されたじゃとっ!? こやつ……強いっ!!)
 宙に舞うアズサは、歯噛みしつつそのままの体勢で追撃に剣を振り下ろそうとするも、瞬時に背後に感じた寒気に上体だけを無理矢理に反転させ、真横に薙ぎ払う。
 次の瞬間。聖剣は地面より猛然と昇る蹴撃と組み合い、そして離散する。衝撃の反動で床に放り出されたアズサは地面を転がりながら受身を取り、すぐさま体勢を整えた。
「魔族がこれ程の存在とは……」
 剣を構え直したまま敵を睨み据え、アズサは内心で戦慄していた。
 魔族という魔物よりも上位存在の、本能だけでなく思考と経験によって導かれた高い戦闘能力に。
 実際に手を合わせてみてより明瞭になる。敵の動きはこちらの予想を超えて鋭く一つ一つが隙を確実に狙っていて、そして重い。そればかりか意図的に闘氣を繰っている様子さえある。今までの経験で無意識に闘氣を漲らせた魔物と対峙した事はあったが、意思の下にそれを行使する存在は眼前の敵が初めてだった。
 柄を握る手に、知らず汗が滲んでいた。
(じゃが、魔族とはいえ敵は不死者に相違無い。僅かな隙で良い……そこに聖剣こいつさえ叩き込めればっ!)
 長期戦は危険だと判断したアズサは、自然と自身の切り札の効果を最大限に発揮できるよう算段を編もうとする。
 その焦燥の思考が一瞬の隙を生んだ。
 無挙動で大きく踏み出してきた敵は、瞬き一つの間にアズサの眼前に現れており、彼女に驚く暇を与えぬまま、鋭く強烈な掌打を鳩尾に放つ。
「うぐっ……ぁああああっ!」
 狭い玄室内であった為かそれ程までに吹き飛ばされた訳ではなかったが、アズサは背中から壁に激突してしまう。前方、そして背後からの痛烈な衝撃に視界が白転し、全身の感覚を一瞬喪う。
 崩れ落ちるようにアズサはその場に蹲り、大きく咳き込んで喘いでは空になった肺の中に空気を吸入した。そんな事があろうとも剣を手放さなかったのは剣士としての本能か、戦場に立つ者の業なのか。
 掌が身体に触れる刹那。反応できたのは半ば奇跡とさえ思える速さでアズサは咄嗟に後退し、剣鍔を盾に掌打を受け止める。そして殆ど直感といっても良い判断で全身の闘氣を背中に集中させていなければ、今の一撃で自分は間違いなく死んでいただろう。今の一撃はそれ程に高められた攻撃だった。
「く、まだ…じゃ!」
 痛烈な痺れは残るものの、闘氣を全身に行き渡らせるとそれは薄っすらと和らいでいく。緑灰の双眸に力の光が戻ってきて、一層柄に力が篭められた為か聖剣の刀身は強く輝いていた。
 自らの力がまだ潰えていない事を実感し、アズサは反撃に地面を強く蹴った。

 アズサの動きは力押しの戦士のそれではなく、どちらかといえば武闘家の動きだ。その高速を以って剣に破壊力を与えている。だが、相手が自分と同等かそれ以上の速さだった場合、やはり戦局を動かすのは単純な力という事になる。事実、果敢にアズサが敵に刃を繰り出してはいるものの、いずれも決定打にはならず敵の防御を突き崩すまでには到らず…何とか膠着に持ち込むのが精一杯だった。
「はっ!」
 跳び、空中で大上段からアズサは聖剣を垂直に振り下ろす。敵はそれを頭上で左腕を掲げ、それを右手で支えるようにして受け止めてみせた。
 アズサは驚愕に眼を丸くするも、そのままの体勢でアズサは着地し、腕、腰、脚と力を澱み無い流れで伝えて剣を押す。だが敵もそれ以上の力で抗している為に状況に変わりは無い。
 沈黙の拮抗を保つ両者。
 長く続くかとアズサが思い、息を止めたその時。何時の間にか彼女の背後に回り込んでいたユリウスは、聖剣の刀身目掛けて袈裟に全力で振り下ろした。
 急に刃を叩きつけられて澄み切った玲籠が厳かに響き渡る。
 両者の力が釣り合っていた時に突如として加わった負荷によって敵は防御を打ち破られ、盾となっていた左手首を切り落とし、その身体に縦に深々と斬り断っていた。
「なぁ!?」
 アズサからしてみればそれは本当に不意の衝撃だった。言葉を継げず口を空けたままのアズサの唖然とした表情は、ある意味真っ当な反応だったといえよう。
 敵である魔族は切り落とされた腕をそのままに退き、小さく身を捩じらせている。無事な方の右手で肩口を押さえている事から、今の斬撃は予想以上に効果があったのだろう。だが――。
(やはり闘氣を用いての攻撃は一定以上の威力が無ければダメージにはならないか)
 普通の不死魔物ならば、些細な闘氣であろうが魔力であろうがそれらを孕ませた術を以ってすれば撃破は容易い。存在含有率が非常に不安定な存在なのだから、その微細な均衡を揺らせるだけで敵は亡ぶ。しかし、この魔族に到っては徹底して事情が異なるようだ。
「ベギラ……っ!?」
 掌を敵に向けて魔法を紡ごうとしたユリウスは、途端に言葉を呑み込んで中断し、剣呑に眼を細めて敵を注視する。
 魔族体とはいえ不安定に違いない存在が、こうも膨大な闘氣を操って攻守に転化させている。敵が純然な生命体では無い以上、ある意味これ以上無い位にデリケートな存在で、その消耗量はこちらの比では無い筈だ。
(収束量を考えても既に自己崩壊を起こしても不思議ではない。不安定ならばその不安定さを保つ為にも霊素を補なっている筈……まさか)
 ユリウスの思考が一つの答えを導き出そうとした時。憤怒に眦を吊り上げたアズサが詰め寄ってきた。
「ユリウス! お主いきなり何をするんじゃ!!」
 その逼迫した声があまりに大きかった為か思考作業を中断せざるを得なく、ユリウスは内心で舌打ちした。
「お前の斬撃を圧しただけだ」
 少しも悪びれる様子も無く視線すら合わせない横柄なユリウスの姿は、猛るアズサの気勢に油を注いだ。胸倉を掴めるまでに詰め寄り、下からその顔を睨み上げる。
「んな事はわかっておる! いきなりそれを実行する奴があるか。せめて一言ぐらい声を掛けよっ!!」
「敵に覚られる愚を冒すつもりは無い」
「おぬしっ――」
 全く取り合う様子の無いユリウスに、顔を真っ赤にしたアズサもいい加減に堪忍袋が切れそうになっていた。その時、漸く寄越されたユリウスの視線は余りに冷酷だった。
「先程から何に焦燥している? まさか聖剣が効かないと判って臆したか?」
「! 何をっ……」
「戦いの中で敵の能力、性質が未知数なのは常だ。敵が不死者という前提を以って特効を窺っていたのならば、それは愚かしい選択だ」
 臆面もなく愚かと断じられればアズサとしては決して面白くは無い。例えそれが図星であろうとも、思わず仏頂面になるのを止められなかった。
「特効を狙って何が悪い。有利に戦況を築くには必要じゃろうが!」
「確かに、それ自体を否定するつもりはない。だが、つくづく人間とは安易な道筋があればそれに傾きたがる。その善悪などどうでもいいが、特効に期待するという意識の油断は逆に大きな隙を生む」
 自分の瞠目した顔が黒曜に映りこんでいる。そこから発せられた無情の言葉に、アズサは胸に鋭い刃物で抉られたような感触を覚えた。それはユリウスが指摘した事が余りにも的を射ていたからだ。
“不死絶殺”が効かない…その在り得ない事象に打ちひしがれ、切先が揺られていたのだろう。だが戦場でそんな躊躇に浸れる余裕は無く、敵である魔族の実力はそんな暇さえ許しはしない。一対一で戦い続けていたのならば、いずれ迷いのままに自分は殺されていた事だろう。
 剣士としての意地か、“剣姫”としての虚栄か。ユリウスの言いたい事は理解できるが、感情が微塵も納得してくれない。そんな釈然としない心境のままアズサは下唇を噛み締める。
「ぐっ! じゃが……」
「黙れ」
 有無を許さないユリウスの冷厳な口調に、思わずアズサは言葉を噤んだ。
 ユリウスはアズサから視線を外し、間合いを置き構えたまま様子を窺っている敵を超然と睥睨する。
「人間の常識など、摂理を異にする魔族こいつらには通じない。聖剣の特質ばかりに気を取られ、魔族相手に特効を期待して戦術を築こうとしているならば下がっていろ……邪魔だ」
 言いながらユリウスは剣を携えたまま、アズサを後方に押し退けるように前に出る。
「……ではおぬしは如何するつもりじゃ?」
 ユリウスの放った嘗て無い明確な拒絶の言葉に顔を歪めながらアズサは問うていた。この問いが子供染みた反駁に過ぎないと解っていながらも、アズサは問わずにはいられなかった。
「敵は殺す。それだけだ」
「お主はまた……できるのか?」
「問題ない」
 言いながらユリウスは腰の道具袋から細長いガラス製の瓶を取り出し、また同じ左手にベルトから抜いた聖なるナイフを逆手に握る。そして器用に瓶だけを宙に放り、右手の剣でその瓶を真っ二つに断ち斬った。
 瓶がその役目を終えるのと、その裡を満たしていた液体は解放され、ユリウスが翳していた剣の刀身を余さず濡らしていく。水滴が滴る刃はその鋭利さに艶かしさを装飾した。
 そこで全ての準備が整ったのか、両腕を顔面を覆うように交差させ、大きく深く息を吸い込む。
 自身の中に在る双つの流れを強く意識し、それらが絡み合い溶け合い一条の雷光として全身を隅々まで駆け巡るイメージを造り上げる。
 躍動する闘争本能。昂揚する殺戮衝動。そして、急激に視界から亡失していく色彩。
 自身の全てを一振りの兇刃に換え、ユリウスは呟いた。
「剱の聖隷」




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