――――第五章
      第二話 白日の諷戒







 深夜。聖都イシスは何かに怯えるように息を潜め、深々と静まり返っていた。
 石と白土で建てられた建物も、夜闇の下にあってはその身を深藍に染めているだけ。夜の虚空にポツンと取り残された月だけが、鷹揚に大地を照らし続けていた。
 鮮白でどこか冷徹な光によって照らされる街並み全ての陰影が深まる。それは外観の造りが複雑であればあるほど顕著で、闇の中に佇むそれら中で最も濃くその様を示し、恐々としていて清冽な印象を醸しているのは街の北東に座する白亜の建造物。そこは太陽神ラーを奉る者達にとっての総本山、絶大な畏敬を集めている由緒ある大神殿。
 神殿内は完全な無音と思えるほどに静まり返り、その静寂は逆に聴覚に絡みつく耳鳴りとなって自身を苛むのではないか、という錯覚を立ち入る者に齎していた。
 冷ややかな薄闇の中を黙然と列挙する表面に不可思議な象形文字を擁く石柱。そして精巧に切り揃えられた石床の中央にも描かれた幾何学紋様。微妙な配置関係を以って成るそれらは、何か一つの大きな体系を構成しているようにも見える。初見では“太陽神ラーを祭る大神殿”という先入観も手伝って宗教的な意図のある模様のように捉えられても仕方が無いが、もっと在りのままを捉える追求に拘泥すると、それらは歴史的価値のある史跡とも取れるし、魔法構築を補佐する陣の構成要素と見る事もできる。設計者、建築者達が一体何を考慮してこの神殿を建立したのか、それを知るには余りに刻んだ時は長く、足跡を残す文献は既に喪われて久しい。そこに如何なる思惑が絡んでいるのか、想像し錯綜するのは思う人間の勝手であり、真実からは程遠い現実だった。
 大小真楕さまざまな円環の中央で、冷たい石床に膝を着いている人物…ぼんやりとした外からの光で浮き彫りになる線の細い女性は、両手を組んで一心に祈りを捧げていた。
「遥かなる天の聖域よりこの不浄なる地を見守る御光の化身、母なる太陽の女神ラーよ。闇に迷える我らに導きの光を。酷に挫ける我らに叱咤の光を。そして、死に脅える我らに賦活の光を与え給え」
 どれだけの間、祈りを捧げていたのだろうか。祈祷の間には、時間と共に月が動いたからか意味有りげな位置取りで天井に張られたステンドグラスを透かして、色取り取りの月明かりが神殿内を幻想的に彩る。淡く深い幾重もの原色の洸帯は、ラーを象徴する黄金の女神像の前に跪いた人物に降り注ぎ、床に大きくその影を生み出させた。光の揺らめきに応じて居心地が悪そうに身動く影は、圧倒的な存在感の到来を前に慄いているようだった。
「夜に怯え惑う弱き我らラーの子らに、優しい曙光を誘い給え……」
 清楚な鈴音のように凛としていて、その否応無しに漂う気品がある種の艶を伴う女性の声は、深々と静謐を保っていた神殿内を淑やかに反響する。声の余韻は極めて緩慢に、泡沫が水面に満ち広がるようにしっとりと虚空に消えていった。




「……そろそろお時間です。皆に気付かれる前に城に戻りましょう」
 小気味良い木の嘶きと共に、新鮮な風が祈祷の間に吹き入って来る。それに乗って小刻みに、等間隔に床を蹴る音が女性の声と一緒に背後から聞こえてきた。どうやら女性の祈祷の邪魔をしないように、礼拝堂から席を外していたのだろう。
 歩み寄ってくる女性と共に、冷たい夜の風が全身を擽っていく中。祈りを捧げていた女性は音無く立ち上がり、静かに背後を振り向かぬまま返す。
「……ユラ。今、我が国はどこへ向かっているというのでしょうか?」
 女性からの漠然とした問いに、背後に立ち止まった女性…“魔姫”ユラ=シャルディンスは暫し黙した。
 とても不透明で難しい質問だ、と思いながら双眸を伏せ、脳裡で様々な答えを巡らせる。だが浮かんでくるのはどれも上辺だけの、空っぽのものばかり。曖昧な問への明確な答というものは得てして形にし辛い事この上ないからだ。いよいよ沈黙を保つしか手が無くなり、閉口しようとした時、赤髪の少年の言葉が閃光の様に脳裡を翻った。
 ユラはゆっくりと双眸を開き、女性の背中に向けて言った。
「……我らに決して優勢とは言い難い戦況です。何せ敵を幾ら倒しても、こちらが倒さればすぐさまそれが敵として立ち上がって来るのですから。たった今味方だった者に敵として刃を振るわれる……この悪夢の循環によって確実に兵達の士気が削がれています」
 淡々とユラは現状を語る。果てしない闇の先へ進む為には、足元をしっかりと踏み締める事が最も重要だと、現実主義の徹底した少年の言葉から導いたのだ。
 それが目前に立つ女性の求めていた答えになるのかは定かではないが、女性からの否は無かった。
「私達に恐怖を与え続ける為の、命を命と思わない卑劣な手段……。何か、何か対抗する手は無いのでしょうか?」
「敵の兵勢は不死魔物です。故に火炎魔法、或いは浄化魔法で不浄なる骸を完全に消滅させるのが最上の術。既に魔法部隊にはその対処法を徹底させています。また参謀顧問の助言で、結界障壁を外郭楽園まで引き下げました。これによりまだ拮抗を保つ事が可能である以上、下手な動きは瓦解に直結します」
「完全な守りに徹するという事ですね。ですがそれは時局が変化するまでの持久戦、決して長く続ける事はできませんね……。私が“死者の門”を開ければ、あるいは……」
 女性は納得に頷き、俯く。そして自問のように発せられた呟きは逆にユラを動揺させた。
「いけません! あの秘術は禁忌とされている、開いてはいけない禁断の扉……いいえ、それよりもご自身の身にもしもの事があったら、このイシスはどうするのですか?」
 焦りを孕んでいる為か、口早になるユラの言葉を背中で受け止めながら女性は天井を見上げた。そこに在ったのは原色で張り合わされた一つの絵画。それは月明かりで薄っすらと煌き、否応無しに見上げる者達の視線を惹きつける。
 女神ラーからの加護たる四条の光に囲まれた一人の男…それは国祖とされる人物を描いている。その天を仰いで両腕を差し出している様は、神からの四条の光を受け容れた歓喜の意とも取れるし、四条の光を以って神を穿とうとする謀反の意とも取る事ができる。
 極端な両翼しか想起できず、虚しさを覚えた女性は小さく頭を振った。
「治めるべき民無くして、一体何を国とするのでしょう。民在っての国、そして王はそれを守る為の存在です。上辺だけが残る形骸化した国など、もはや国として亡びたと同じではないでしょうか」
「ですがっ……」
「……すみません。ユラはを心配してくれているのでしたね」
 荒ぶる声色の中にユラの想いを汲み取って、ここで漸く女性は振り返る。月の逆光の中に立つ為か、その表情はハッキリと見る事は叶わないが、それでも女性の顔の造りが非常に秀麗な美貌によって築かれている事が伺える。その中で特に映える大きな漆黒の輝きがユラを捉えた。
 その気品ある高貴さを前に、床に膝を着きそうになる衝動を抑えながら、ユラは小さくゆっくりと一呼吸をする。
「こんな時、“剣姫ネイト”がこの場にいればと思います。彼女の“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”ならば、不逞なる魔力で縛された魂を、消の下に滅する事ができましょう。……守りの力だけでは戦には勝てないのですから」
 哀愁と共に自嘲を零すユラを、女性はやんわりと手で制した。
「“魔姫”と“剣姫”では力の質が異なります。ですがそれよりも重要なのは“砂漠の双姫”という存在そのものにあります。“砂漠の双姫”は、この国において力への意志を体現する存在である事。光を導いては希望を齎し、闇を裂いては絶望を掃う毅く貴い輝きである事」
「…………」
「私にもっと力があれば良かったのですが……ユラ。貴女とアズサの二人に重荷を背負わせてしまって、本当に申し訳――」
「それ以上は仰らないで下さい。“魔姫セルキス”とは私自ら望み得た誇り、今こうして歩み進んでいる路です。それに、私は一人ではありませんから。アズサとて、思いは同じです」
 真摯にユラは思いを吐露する。色々な情思が浮かんでいる切実な眼差しを受けて女性はゆるりと、とても眩しく微笑んだ。
「……ありがとう。貴女達二人のお蔭で、まだ私は私で在り続ける事ができます。たとえそれが空虚な器としての役割…糸の無い傀儡だとしても」
 女性は俯き、左の二の腕に嵌められた腕輪を抱くように掴んでは深謝する。星々の輝きが篭められた腕輪を掴む指先が感情に震えているのが、暗がりでも良く見えた。
「――――さま……」
 ユラはそれを見つめたまま、どんな言葉も発する事ができず、ただその名を息声で呟くしか出来なかった。

「……太陽とは、光を携えて東から来たる者。この国の訪れる夜明けは、まだ遠いのですね」








 ユリウス達一行を乗せた砂上船は今、外郭楽園を構成するオアシスの一つの畔に停泊していた。
 外郭楽園とは、聖都イシスの在る最大のオアシスを囲うように周囲六方向に偶発的に発生したとされるオアシス群の総称である。外郭楽園は聖都イシスを守る防壁のようなものとして存在し、古くから人々に認知されていた。その所以は至極単純、砂漠の只中にあるイシスの民を、彼らにとって最大の侵略者から護ってくれていると言う意識が往古より在り続けていたからだ。
 その侵略者とは、“飢渇”という名の、生命の存続にとって根源的ともいえる形の無い敵。余りに漠然としていて、人間が反旗を翻すには余りに巨きな自然の理そのものだった。
 だが如何なる意志の作用なのか、その自然の理に牙を穿つようにこの地に現れた七つのオアシス。それらの水源はそこに生きる生命にとって計り知れない恩恵を齎す事になる。
 枯れる様子の無いオアシスは有史以来既に千年以上はそこに在り続け、人々はそこから水場を拡大する為に灌漑を引き、農耕、牧畜を進展させて絶望的だった食糧難を克服する。イシス開墾者達が試行錯誤して執り行った血業の数々を次代に受け継ぎ、連綿と長久の時間を積み重ねる事によって現在の聖王国イシスを築き上げてきたのだ。
 それ故に、この国の人々は親愛と敬意を以ってイシス発祥の起源点となったオアシス群を“外郭楽園”と呼ぶようになった。

 外郭楽園のオアシスに停泊した目的と要因は、大体にすると三つの側面からの補充であった。
 一つ。砂上船は魔導器とも言ってよい代物であるので、その作動の基盤には膨大な量の魔力エーテルが必要となる。船体に組み込まれた魔晶石に魔力を充填する方法としては、それぞれの魔晶石を管理する商人達が魔力…つまりは精神力を直接注ぐか、或いは“魔法の聖水”や“祈りの指環”と呼ばれる所持者の消費した魔力を回復する魔導器を用いるという手段がある。だが商人達が保有する魔力量には個人差があり、均一に魔力を充填させる事を要する砂上船の機構上、歪を生じる要因は得策ではない。また、魔力の回復量が膨大である“祈りの指環”は非常に希少価値が高い代物だった。人の世でこれを製作できるのが十三賢人“智導師”バウル=ディスレビただ一人であるという事で、世に出回っている数が非常に限定的。いくら商会ギルドの四大商家であってもその全てを独占する事は非現実的だった。結局、魔晶石への魔力充填は比較的入手しやすい“魔法の聖水”を均等に石に送るような機械的措置によって供給している。その消費量は大きく、砂上船を運航する上で一日数回の補充が必須とされたのだ。
 一つ。吹き荒れる砂の中ではどうしても隙間や甲板、帆に砂が浸蝕してくるので、その補修整備も小まめにしなければならなかった。この砂上船は少しでも砂に取られないように強度を重視するよりも、軽量化を図り速度を得る事に重点を置いている為に木製である。その為衝撃に強いとは決して言えず、走行中に魔物や石礫などの砂漠の障害物と衝突してしまうと甚大な被害が出てしまう可能性が拭えなかった。
 そして一つ。目と鼻の先に目的地が在るのにも関わらず、オアシスに停泊する最大の要因は、食料や水といった乗船員の生命維持に関わる最も基本的且つ重要な事だった。如何に技術が優れようとも、根底にはそれを操り利用するのが人である為、絶対に切り離せない要因なのだ。
 様々に問題点、課題を多く抱えたままの砂上船であるが、その欠点を補って有り余る程に、僅か四日余という時間で聖都圏内に辿り着く所業は大きい。人口の増加に伴って自国の生産供給では追いつかず、多くを輸入に頼っている物品、食糧事情のイシスにとって、時間の短縮こそが直接的に生命に関わる事になるのだから、この砂上船の有用性を砂漠の民はありありと実感し、感謝していた。




 深闇と極寒の夜を、遙か東の地平線から登る太陽の光が空から押し退けていた。その様は何処か天という玉座に就くに相応しいのは自分であると主張するように。夜も負けじとそれに抗してはいるが、如何せん勢いが違った。新興の朝の輝きは、ただ先への意志に満ち輝いている躍動の光。長く安楽に居座り続けていた停滞意志に塗れた夜に、劣勢を覆す足掛かりも無く、ただ昇る勢いの前に圧され没落の途をゆっくりと辿るだけ。
 繰り広げられる盛者必衰の空模様は、決して結末を違える事無く、どちらかに決する事無く延々と続いていた。
「夜明け、か」
 オアシスの辺に佇んでいたユリウスは、東の空が明るみ始めたのを見止めたまま茫然と呟いた。
 乾いた夜明けの空気は、いつもと違い何処かしっとりとした水分を含んでいる気がする。砂漠において、それは錯覚に過ぎないのだろうが、潤いを求める身体と意識がそう感じさせたのかもしれない。
「……下らない。所詮は価値の無い感傷」
 そう吐き棄てながら手にしていた抜き身の剣を真一文字に奔らせる。鋭すぎる一閃が空気と共に裡の揺らめきを断裂し、水気の無い宙の中に澄み切った音が響いた。
 ユリウスにとって朝の日課になって久しい剣の鍛錬は、睡眠が非常に浅くなったあの時・・・から、体が動かない等の異常が無い限り常に続けてきた事だ。まだ誰も起きてこない夜と朝の狭間。不安定な暁の下で、決して撓まぬ刃を鍛える。これは一日の始まりに、自分はこの剣と同様に兇器であると認識、暗示する為の儀式だった。
 オアシスの水面は薄っすらと顕現し始めた朝陽によって宝石のように煌いていた。限りなく澄んだ水は水底の様子がハッキリと伺える程に透明で、今は空の色を反している為か深い。そのオアシスを囲うようにこの地ではまず見られない青々と生える茂みが、水面から来る涼やかな風に靡いていた。
 緑を梳いた事によって清涼さの増した風が、汗をかいた肌を心地良く撫でて行く。
 そんな中。アッサラームで新調した剣を青眼に構え、鏡のように自らを映す刀身を睨み据えながら、ユリウスは思索を広げていた。
(……俺には、力が絶対的に足りていない)
 目を細めて双眸に剣呑な光を燈し、何処までも続く空と大地の境界をなぞるようにユリウスは剣を振る。刹那、光の一筋が空と大地を引き裂いた。
(力を得る為には、何が必要だ? 何が不要なんだ?)
 刃を返しては空を切り上げ、大地を穿つように踏み込みこんで、切り下ろす。
 戦いの喧騒が止み、殺意と敵意を周囲から感じなくなるとユリウスの思考は気が付けばそんな無限回廊に陥るようになっていた。思い返せばここ数日、その傾向が非常に顕著だ。
(原因は判っている事。あのアッサラームの夜の異変が発端なのは疑いようがない)
 ユリウスは視界に降り掛かってきた黒簾を、鬱陶しそうに掻きあげる。
 感情の載らない視線は自然と空に向かう。もしかすると人間という存在は、何かに惑い、迷った時には自然と空を見上げるものなのかもしれない。直ぐに限界が訪れる足元を睨めつけるよりも、思惟の余地を無限に広げる為に。去来する陰鬱な閉塞感を払拭する為の開放を求めて。
 ユリウスがそういう思惑の下に空を見上げたかは定かではないが、拠り所の無い蒼を彷徨う黒曜の中。更なる深みのある瞳孔がより引き絞られ、意識は虚空の一点に向けて加速する――。



 今にして思えば、自由交易都市アッサラームに足を踏み入れてから常に付いて回っていた不可解な偏頭痛は、都市全体に掛けられた魔法封印マホトーンの作用だったのかもしれない。……尤も、何故自分にその影響が現れたかの疑問は未解決なままだが。
 異変の大元は、あの深々と広がる闇の浜辺に佇んでいた仇敵。全てを無くしたあの時、あの場所で自らに定めた殺すべき敵の一人、魔王軍総括参謀長“導魔カオスロード”アークマージ。
 アッサラームの異変…その全てが街で出逢った不思議な白妙の女性、ルティアを陥れる為だけに編まれた細緻な罠である事は二人の会話から聞き取る事ができた。尤も、その時の自分にとって二人の関係がどのようなものであるか、会話の端々に鏤められた不可解な単語が何であるのか、気にする余裕など無かったが。
 自分にとって、アークマージは全ての元凶。そのを前にした時、自分の裡を支配していたのはただ純然な殺戮意志。焦がれて焦がれて漸く遭えた敵を、自らの劔で切り刻みたいという破壊衝動だった。
 退くという選択肢が消失された停止した思考と、絶え間なく込み上げて来る衝動に沸騰する身体。そして、冷静からは掛け離れた意識のままにアークマージと剣を交えるも、圧倒的な実力差の前に完膚なきまでに叩きのめされて自分は敗北する結果となってしまった。こちらの繰り出すの全ては仇敵には届かず、手も足も出せず抵抗すら出来ず……。事もあろうか、幕を引いたのは魔法剣の制御不全による暴走によっての自滅…即ち自らの未熟の所為。
 この上なく無様であったが、とても自分には似合いな最期だと消え往く意識で思った。
(弱肉強食の摂理……考えてみれば当然の帰結、か)
 次に目覚めたのは、何故かマグダリアが経営する旅籠の個室だった。自分としては死という終わりを受け容れていただけに、まだ死んでいない事にどうしようもない諦念と、まだ目的を果たせる事への微かな安堵が込み上げる。
 何故、自分は旅籠ここに居るのか全く理解できない状況の中。丁度あの海岸を訪れたヒイロが気絶していた自分を旅籠に運んだと聞かされた。そこで初めて、あの海岸がアッサラームの南方に位置する、非常に近い場所だったと知る。
 別にヒイロがあの場所に訪れた理由はどうでも良かった。何があったか問い詰めてくるソニアやミコトの心象もどうでも良かった。平時より、それぞれが往々に抱いている思考に干渉するなど無意味で瑣末な事としか思っていないし、それよりも優先して考えるべき事はたくさんあったからだ。
 殺すべき敵…アークマージの事。仇敵と関係が深そうな白の女性…ルティアの事。そしてあの時、自分を取り巻いていた霧のような黒光。“番”、“覚醒”、……そして“神約烙印テスタメント”という意味深な言葉。
 時が経ち、あの夜よりも幾許か冷えた思考で一連の事象を思い返そうとも、自分の理解を超えた事ばかりだったから、それ以上に発展する筈も無く。あの時は自分でもわからない事象を知っている様子のアークマージの言葉は戯言だと聞き流していた為か、改めて思い返すと酷く無視の出来ない言葉だった気がしてならない。“神約烙印”については思い当たる節もあるが、それでも自分がその真実を得るには情報が余りにも無さすぎると言えよう。
 いっその事、全てが夢だったのならば、意識の覚醒と同時に無意識の海に泡沫として消え、このような思考の乱渦に陥る事も無かったのだろう。だが実際にはそうではなく、そしてあの夜の出来事が夢ではなく確かな現実として定める物が残されていた。
 剣は砕け散り、身は穿たれ。魔力も闘氣も尽きかけ、命の灯火も消えかける。そんな中、唯一不変に輝いていたのは、何時の間にか自分の首に架けられていた紅のペンダント。その中心に座すのは鉱物なのか、金属なのかそれさえも窺い知る事はできない不思議な煌きを燈す宝石だった。
 外套越しに今も首から提げているそれに手を当ててみると、何かの鼓動を刻んでいるように温かい。
 自分が何時、どうしてこれを身に着けていたのかはわからない。入手経路が不明である以上、不審な物に変わりは無いのだが不思議とこれを捨てようなどと言う考えは湧いてこなかった。
(……迷ってはいけない。迷いは刃の輝きを曇らせる。惑ってはいけない。惑いは剱の鋭さを鈍らせる)
 結局のところ、あの事象は自分には判らない事、足りないものが多すぎるという事を改めて認識させた。自分の立っている場所が、何時砕けるかもわからぬ薄氷の上である事を改めて強く実感させてくれた。
(所詮俺は殺戮人形。敵対する存在を殺す為に造られた剱。故に求める物は唯一つ、在るべき場所は唯一つ。純然に凄絶に、暴力と殺意が交錯する戦いの場だけ)
 死と生と、狂気渦巻く戦火の中で自らを鍛え、あらゆる存在を断てるまでに自らを研磨しなければならない。
 その為に自分は、全てを知り得なくてはならない。力を求め得なければならない。
(…………剱の聖隷)
 何よりもつよく、誰よりもつよく在らなければならない。
 いずれ必ず訪れる、終焉おわりの時まで。今の自分を取り巻く全てを……棄ててでも。



――深い思惟の暗中模索から一つの結論を導き出して回帰したユリウス。その黒曜の双眸には最早一切の感情は浮かんではおらず、ただ無機質な刃の輝きを燈しているだけ。
 徐々に白み始めた蒼茫の空をただ映していた眸は、地面にへと動かされる。その時。どこまでも続く空と大地の境界線上にどちらにも属さない異端の影が捉えられた。
「あれは……?」





 砂上船の船室で寝静まっていた船員達も起床し朝食もそこそこに、出航の準備の為に動き始める慌しい時。
 怒声喚声が縦横に飛び交う甲板の中でも聞き違える事が無い、良く通る声が響いた。
「なぁ剣…いや、アズサ! ちょっと来てくれっ!」
 見張り台がある中央の帆柱の側で叫呼するシェイドに、割と近くにいたアズサが直ぐに駆け寄る。
「……どうしたのじゃ?」
 目つきと声色は非常に低く剣呑としていた。それは危うく秘密を大声で口外しそうになったシェイドに対してのアズサの威嚇だ。それにシェイドは悪い、と慌てて両腕を振り取り繕っていた。
 やがて一つ咳払いをして意識を直すと、シェイドは徐に腕を水平に、砂海に向けて伸ばした。
「見張りの奴が見つけたんだけど、あっちから向かってくるのって……」
 彼が指差した東の空の真ん中には、今まさに太陽が天頂への途を昇っている最中だ。それを背に砂海の一点には黒い影がぼんやりと見える。それは徐々にこちらに近付き、その外形を顕にしていく。何となくではあるが、シェイドにはその様が太陽の光を侵す影の到来に思えて仕方がなかった。
 船縁まで移動したアズサは目を細めて影を注視する。そして誰よりもいち早く影の正体に気が付いて小さく零した。
「あれは……イシス軍砂上艦“守護翼獣シュセブ・アンク”。何故、戦時下のこの重要な時期に外郭楽園の外側から? ユラの話では、今あれは外郭楽園内の巡回が任務の筈…………妙じゃな」
 こちらの思惑など知る由もなく近付いてくる砂上船の姿は、太陽の逆光に抱かれている分を差し引いても眩しい位に輝いていた。船体には余すところ無く白銀の薄い板が張り巡らされており、施された小さな魔法紋字が淡い光を纏い点々と浮かび上がっている。船の両側面には砂を掻き分ける大車輪が取り付けられており、驚いた事に帆は柱ごとついてはいない。その砂上船を構成するあらゆる要素が砂漠上での戦闘行為を想定し、且つそれに充分に耐え得るものであろう事が窺えた。
 輝ける砂上船を見つめながら、アズサは眉を険しく寄せる。
「あの船の管轄はアスラフィル殿…………何を考えておる?」
 隣でその人名を聞きとめたシェイドは眼を剥くも、アズサは答えず無言のまま船を見据えている。近付いてくるその魁偉は、もう眼と鼻の先まで距離を詰めていた。




 誰しもの疑問の声と視線が、突然に来訪し自分達の商船に横付けしてきた白銀の砂上船に集められる中。一方的に架け渡された船橋を歩き、一人の女性がマグダリア側の甲板に軽やかに降り立った。
 肩の辺りで綺麗に切り揃えられた蒼穹の髪は、風に攫われては涼やかな水の流れを髣髴させる。砂漠の民であるというのに肌は抜けるように白く、ちらつく蒼の流れの奥にある大きな暗青色の双眸は毅然とした輝きを強く燈していた。女性は銀の胸当てを装着し背中にホーリーランスを背負う簡単な武装で静かに佇んでいる。だが、それだけで隙の無さが、ひいては彼女が優れた使い手であるという事が判った。
「マグダリア商会の砂上船とお見受けしますが、戦時下の我が国に通行許可も無しに立ち入るとは、逞しくも卑しい事ですね」
 その声色は容姿と違わずに凛としていて綺麗なのだが、発せられる言葉には温度も抑揚も絶無で、それを助長するかのように女性は無表情で愛嬌が微塵も存在していない。それらの要素が女性の印象が酷く冷然としたものであると対する者たちに強く刻みつけていた。
 女性は無表情のまま冷静な眼差しで、自分を囲んでいる商人達を睥睨している。その出し抜けの余りにも不遜な言動に、商人達とその先頭に立っていたシェイドは顔を顰めた。
「……通行許可ならあるさ。こっちはイシス政府そちらさんからの“魔姫の詔勅”で入国したんだ。極秘要請だから内容は伏せるけど、一兵卒にそれを阻害する権限は無いと思うけどな」
 一兵卒という単語を強調してシェイドは返す。それに女はさも気にした様子もなく、ただ純然な疑問に眉を寄せた。
「……姉上の? そのような命令伝わっておりませんが……よもや、我らを謀っているのではないのでしょうね?」
「そんな訳ねぇだろ!」
「まぁ、そう目くじらを立てるでない、ティルト」
 無表情の女性の遠慮無い猜疑と疑念に満ちた眼は神経を逆撫でし、流石のシェイドも憤慨して声を荒げる。が、その背後からいきり立つ彼を宥めるように、或いは戒めるようにアズサは肩に手を置いた。
 どんな怒声の前にも眉一つ動かさないで能面のように整えられていた女性が、突然の闖入者に僅かに眼を見開く。
「貴女は……アズサ!」
「よぅ、相変わらず融通の利かない奴じゃな。まぁそれがお主らしさであるから良いのじゃが……、些か客人に対しての礼儀に悖っておるぞ」
 どこか暢達にアズサは口元を歪ませて女性を見つめる。その視線を受けたティルトと呼ばれた女性は瞬間的に表情を歪めるも、それを隠蔽するように瞑目し、小さく嘆息した。
「…………成程、アズサがそちらにいるのであれば、貴方達の言い分を信じない訳には参りませんね。これまでの非礼は詫びさせて頂きます。そして、貴船の入国を認めましょう」
 言いながらティルトはシェイドに向けて深々と腰を折って謝罪する。その掌を返したように丁寧な態度に改める淡々とした様子に、シェイドは憮然として表情を顰めたまま。憤りのやり場が無くなって面に出てしまったのだ。
「初っ端から言っているだろ。“砂漠の双姫”から許可は得ているってな」
 多少なりとも棘の含んだ発言であったが、それでもティルトは気にした様子は微塵も見せず。感情の篭らないままの眸でシェイドを、その周囲にいる商人達を、ソニア達を順に捉え、やがてアズサに向き直る。
「アズサ。外郭楽園を越えたといっても今は戦時下。安全が保障されている訳ではありません。城下までの露払いはこちらでしておきますので、あなた達は後に続いて下さい」
「おお、すまんな」
 小さくだが深く腰を折り、踵を返してティルトは来た道を戻ろうとしたのか船橋に片足を掛ける。
 こちらの船に来た時のように颯爽と帰るものだと誰もが思っていたが、ティルトはそのままふと立ち止まった。
「帰ってくるのなら、もっと早くにして下さい…………バカ」
「……悪い」
 乾いた風に乗って届けられた微かな呟きはアズサだけが受け、真摯な眼差しでティルトの背を追うも、既にティルトは白銀の船に向けて歩を進めていた。

「?」
 船橋を渡っていたティルトは不意に耳に届いた空を切る音に足を止め、眼と耳で音源を探る。
 音の発信源は直ぐに見つかった。それは眼下のオアシスの辺……そこではこの騒動に目もくれず、一心不乱に剣を振るっている黒髪の少年の姿が捉えられた。それは朝の日課となっている剣の鍛錬を黙々と行っているユリウスの姿だった。
「あれは……」
 無論ティルトに、あの少年が誰なのかはわからない。ただこの眩い陽射しを反して、少年の頭部に座している金色に煌くサークレットが酷く印象に残る。そして遠目からでも分かるその澄まされた剣閃が自分の目を捕らえて止まなかった。
 何処までも高く澄み切っていると言うのに、裡に秘められているのはただの虚無。その孤高の輝きは周囲に一切のものを寄せ付けない拒絶と空虚の閃き……。
――瞬間。風の無い砂漠の中で、晴れ渡る空を見上げている自分の姿を垣間見た気がした。そこには自分以外の誰も存在しない。光も音も、生も、死も。すべての両極を見渡し、どちらにも属する事の出来ない境界に穿たれた真直なる楔。……決して手に入れる事の出来ないものを、求め足掻き続ける無様な自分――。
(!?)
 ティルトは眼を何度も瞬かせた。すると目に映るのは自分が向かっている船と、側にあるオアシス。そして地平の彼方まで続いている砂色の線。
 自分の中で常に燻っている想いが幻視させたのか、刹那の蜃気楼にティルトは小さく頭を振る。小さく疼く頭痛を意識的に押し込めて、再び眼下を見下ろすと少年はこちらを見上げていた。幸いな事に距離があった為、そこに感情の有無を感じることは無かった。だがそれ故に余りに無機質な視線が重く自分に投げ掛けられているように感じられた。
 このまま暫く留まるのも悪くなかったが、現実にそれは叶わず。やがて表情を無に戻してティルトは歩を進めて行った。




 その出来事から数刻後。砂海を往く二隻の船は着かず離れずの一定の距離を保ちながら並走し、太陽が天頂に至る前に聖都イシスに辿り着く事となった。






 聖王国イシスの首都である同名の聖都イシス。イシスという国家政治の中心地であり、太陽神ラー教の本拠地である。
 遠慮を知らない眩い陽射しは、白土で建築されている街並みに反射してか、より鮮烈に白く感じられた。立ち並ぶ白屋根と時折存在を誇示するように伸びる樹木の豊かな緑達。その一望できる中で異彩を放っているのはイシス王城と、ラー大神殿だけが他との建築様式に一線を引いたまま厳粛に佇んでいた。
 城下町の主要な玄関口である南門を潜り、辿り着いたユリウス一行を待ち受けていたのは、剣呑な雰囲気を纏った兵士の一団だった。兵士達は衣服の上に、簡易な胸当てや篭手を装備するという軽装のもので、炎熱の太陽の下では適しているともいえる。だが、その面に貼り付けられていたのは露骨なまでにハッキリとした警戒心と、何かに対しての恐れであった。無論、それはユリウス達や来訪者達に向けられたものではなく、戦時下の緊張が最も陰鬱な方向にへと肥大した結果に過ぎなかったが。
 自らに余裕がなくなると、他に対してはそれ以上に余裕無い対応になるのは人の持つ感情が齎す顕現の一つ。その鎖に囚われたイシス兵士達によって、砂上船から降りたばかりのユリウス達は荷物の整理も、周囲の景観も満喫する暇なく、有無を言わせる事無く用意されていた箱馬車に押し込まれてしまう。ピリピリと痛い空気の中にある豪奢な馬車は、何故かとても冷たい監獄のように見えた。
 戦時下という特殊な緊張が長きに続いている事が、彼らの気概を余裕の無い張り詰めたものにしているのは明白であったが、いくらなんでも横柄で性急に過ぎる。こちらの意をまるで介する事の無い兵達の強引な素行に、礼節を重んじるミコトは大層憤慨していた。

 二頭牽きの優美な箱馬車は区画整理され、オアシスから引かれた水路が並走する通りを往く。網目のように張り巡らされた灌漑によって潤沢な水の恩恵を享受している為か、緑が街の彼方此方で目に留まる。その淡色の色合いに、半ば窓に張り付いて外を見つめるソニアはとても心が安らぐのを感じていた。だが白と緑の涼やかで美しい街並みに反して、道行く人々の表情は何処か暗い。この景観にそぐわない異質な何かが彼らに覆いかぶさっているのを、同時に思わずにはいられなかった。
 やがて馬車は城壁を潜り、騎士の如き尖塔と獣像が列挙する広大な城門前の広場を確固たる足取りで進む。そして開け放たれている城の門扉の前に着くと漸くその足を止めた。
「皆様。この聖王国イシスへようこそいらっしゃいました」
 地面の感触を確認していた一行を透き通った、それでいてごく最近に聞いた事があるような声色が迎える。声は薄暗い城内を何度も反響しながら伝わってきた。
 誰もが目を凝らして声の方角を見やるも、外が明る過ぎる為にどうしても屋内は暗く感じてしまう。そんな意識が面々に浮かぶ中、まだ視界の定まらない闇の先からゆっくりと人影が浮かんできた。
 両腕を広げた再生の天使を模った“復活の杖”を携え、額に座す黄金のティアラは闇の中でも燦然と輝く。外から屋内に吹きいる風を受けながら、豊かな蒼穹の髪を靡かせている女性がゆっくりと白日の下に姿を現した。
 黙して佇む一同を順に一瞥していき、その女性…ユラ=シャルディンスは人垣の中の一人を見止めて、薄っすらと親愛を篭めて微笑んだ。
「そして、おかえりなさい。我らが姉妹、砂漠の双姫“剣姫”アズサ=レティーナ」




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