――――第五章
      第一話 黄砂への誘い







 景色すらをも歪ませる灼熱の日差しは、遠慮なく地面を嬲っていた。いや、遮る物の無い空から輝きは地面だけでなく、そこに立つ生命の潤いを確実に侵す嗜虐的な簒奪者だった。
 他の地ならば清々しく感じる雲ひとつ無い蒼穹の空も、今は返ってその眩しさが目と肌に痛い。何処までも透る青さは、気を確かに持っていなければ意識が吸い込まれてしまいそうになる程に澄み切っていた。
 そんな危うげな空の下。乾いた空気故に良く通る、涼やかな声が力を秘めた言葉を紡いだ。
「……彼の者達に、怠惰なる心を。ルカナン!」
 砂を孕んだ無遠慮な風に浅葱の髪を弄ばれ、煩わしそうに目を細めるソニア。そんな彼女が高々と掲げたルーンスタッフの先端から、陽よりも眩い光が刹那発せられた。その光に誘われるように、敵対している魔物達…生理的嫌悪を覚えずにはいられない醜悪な姿の火炎ムカデや、前肢から体側にかけて翼膜のある化け猫キャットフライ、鮮血のように紅く岩のように粗い体表の大王ガマ等の足元から蔦のような煌きの筋が幾つも湧き出しては、次々と篭絡していく。それらに為す術なく絡め取られた魔物達は、途端に膨れ上がった倦怠感による脱力の余り全身を弛緩させて、その気勢すらをも失くした。
 ソニアの唱えた守備力減退魔法の効力が顕現するのを見極めると、ヒイロは手にしている愛用のチェーンクロスで勢い良く薙ぐ。それは鋭い裂帛音を放ちながら疾風のように宙を翻り、魔物達の身体を強かに打ち据える。
 ある敵は激痛に地面の上で身悶え、ある敵は体勢を崩し、ある敵はそのままに絶命する。その結果に満足し、だがそのまま達成に浸る程悠長ではないヒイロはすかさず前方へ叫んだ。
「二人とも、今だ!」
 ヒイロの声が届くよりも早く、砂陵の緩急が激しい黄砂の上を二つの影…ミコトとアズサが軽やかに疾駆していた。
「アズサっ!」
「うむっ」
 動きの制限が大きい砂の地面をものともせず、軽やかに駆ける様は風のように。瞬く間に魔物との間合いを詰めた二人は、ヒイロによって体勢の崩された魔物達が立て直す前に到達し、それぞれが手にした愛用の武器を振るう。
 片や天から狙い違わず飛来する鷲爪の如く、鉄の爪による三連の裂撃を。
 片や澄み切った光芒の閃きで弧月を描く、鋼鉄の剣による上弦の斬撃を。
 左右同時に、完璧に息の合ったタイミングで放たれた攻撃は舞と評するに相応しい。それら華麗な斬舞は魔物に反応すらさせる事無くその身体を打ち砕く結果となった。
 ソニアやヒイロといった後衛の援護を存分に発揮しながら、ミコトとアズサは巧みな連携で次々と魔物に止めを刺していく。そして遂に最後まで残り、抵抗していた火炎ムカデを討ち倒した。

 ただ佇んでいるだけで汗が次々に吹き出てくる大砂漠。
 魔物の残骸が宙に解け、砂上を吹き荒れる風に流されて消失していく中。パシリと掌を弾かせた小気味良い音が響いた。それは今しがた最前線で魔物の群れと対峙していたミコトとアズサのものだった。
 勝利を確信し、剣に付着した魔物の血潮を払いながらアズサ。
「私達の連携も、日に日に強固になっておるなぁ」
 それにミコトは同調意思を示すように大きく頷いた。
「良い事じゃないか。それだけお互いを信頼し合い、協力ができているって事だからさ」
「そうじゃな」
 額に浮かんだ汗を袖で拭い去りながら満面の笑みを浮かべるミコトに、アズサもつられて破顔する。良く似た二人のそのやり取りは、本当の姉妹のようだった。
「っと、まだ全部倒した訳じゃなかったな。他の敵は……――」
 ミコトは気を引き締めなおし、周囲を見渡した。




 ミコト達から少し離れた砂漠の窪地で、地獄の鋏という毒々しい青緑の甲羅、大の大人を二人並べた程の体格を誇る蟹の魔物数匹にユリウスは囲まれていた。地獄の鋏とは、このイシス大砂漠において最も恐れられている魔物である。砂漠に蟹が生息するという事自体不可解なものであるが、実際はそれらは蟹ではなく蠍が魔物化する過程で大きく変容したというのが通説であり、身を覆っている青々とした甲羅の色は、その毒の為だとされていた。
 ともあれ“地獄”という仰々しい名を冠するだけあって、その性質は極めて凶暴で、ただでさえ強固な甲羅には衝撃によって更なる硬度に変化させる性質を持った毒素を有し、人間一人など容易く圧殺できよう巨大な鋏で獲物を確実に仕留めて来る。そしてこの魔物の最も厄介な所は、常に数匹以上の群れで行動しているという点であった。
 巨体に似合わず素早い動きで砂地を這い回り、鉄壁の甲羅で身を守りつつ鋭利な鋏で獲物を穿つ。それがこの魔物の行動の全てであり、単純なだけに攻略し難い事実であった。
 ユリウスは知識として既に得ていたこの魔物の性質を脳裡で描き、眼でつぶさに現実のそれを観察して、対応策…つまり殺す算段を築き上げていた。
「……ギラ」
 大地を深く抉る尖撃を紙一重で躱し、懐に飛び込んだユリウスは零距離で左掌の先から魔法で熱線を放出する。煌く閃光は魔物の身体の一部である鋏の付け根を狙い違わず当たり、貫かぬまでもその部位を赤く変色させた。魔物が激痛の余り地団駄を踏む中、魔法を止めたユリウスはすかさず手にした剣で、赤く変色した部位に斬撃を加え、斬り飛ばした。
 ギラという初歩の閃熱魔法といえど、一点に集約させればその熱量はかなりのもの。しかもそれは術者の力量によって大きく左右される。
 どんなに硬度の高い固体であっても、固体としての形状を保っていられる臨界温度は存在する。それは地獄の鋏の強固な甲羅も例外ではなく、ユリウスの一点に集中させたギラの熱量がそれを超えたのだ。
 鉄は熱いうちに打て、という諺通りにユリウスは絶え間なく攻撃を仕掛けていく。その一刀、一刀が繰り出される度に硬い殻に守られた鋏が吹き飛び、攻撃手段を奪われた魔物達はたじろぎ身を戦慄させる。だがそれでも剥き出しの敵意と殺意は少しも衰える事は無く、寧ろ膨れ上がっていた。
 感情の載らない冷酷な双眸でそれらを見下ろすユリウスは、両の手に力を篭める。
――後は、一方的な虐殺だった。
「ベギラマ」
 ユリウスはより高度な閃熱魔法で、地面に横たわった魔物達を今度はまとめて薙ぎ払う。灼熱の熱線は貪るように魔物達の身体を撫で回し、地面の砂礫されき諸共に紅蓮を刻みつけた。そしてすかさずユリウスはそれら紅蓮の軌跡を切り裂き、突き穿つ。
 最早抵抗すらできない魔物達はねっとりとした体液を砂漠に撒き散らし、風に舞う砂塵の如くその命を実に呆気なく散らす事になった。




「凄いな。一人であの地獄の鋏の群れを全滅させるとは……いや、それ以上にあの戦い方は上手い」
 少し離れた小高い丘陵の上からその戦闘振りを見ていたヒイロは思わず感嘆を零す。
 一見すると、ユリウスの戦術は非常にまどろっこしいものだった。ユリウスは中級爆裂魔法イオラを行使できるのだから、それを使えば強固な甲羅ごとその裡を破壊し、一瞬で終わったのかもしれない。だがそれを実際に使うとすると地面が砂漠である以上、衝撃によって巻き上げられる砂煙によって視界が遮られてしまう事は避けられない。ましてや、砂漠の魔物はその殆どが地面の砂中から現れる。この戦場において、視界を遮るような真似は自殺行為に等しいと言えた。だからこそ、ユリウスの行動は戦略面として考慮した時、非常に理に適った運用だった。
 覚えておこう、と微かに興奮気味で頻りにヒイロは頷いていた。
 その横で呆れたように嘆息するのはミコトとアズサ。
「……相変わらずな奴。こっちがこっちで盛り上がっているのに」
「全く、興醒めじゃな」
 連携のありがたみを実感していた二人にとって、単独で複数の敵を容易く殲滅するユリウスの戦闘スタイルには水を差された思いだったのだ。
 だが、苦笑しながらそう言う二人の双眸に、悪意は微塵も孕まれてはいなかった。

「皆ー、準備できたぞー!」
 戦いの興奮が収まりきらぬ場に、シェイドの溌剌な声が届く。
 その声に続いて、大きな砂丘の影奥から大きな何か・・が姿を現した。砂漠をゆっくりだが確かに動いては眩しい陽射しを遮り、地面に大きな陰影を落とす異様なるその姿。それは砂漠という陸上において常識的にある筈の無い物だった。
 逆光の中に泰然と在るその魁偉は、船舶そのもの。黄金の砂海に両腕をいっぱいに広げた帆船が、その威容なる姿を現したのだ。





 今現在、ユリウス達一行はイシスに向けて大砂漠を越える旅路にあった。尤もそれは徒歩によるものではなく、ましてや馬車や駱駝でもない。
“太陽の参道”である大砂漠を越えるには徒歩で約一ヶ月、馬車や駱駝を使ったとしても約二週間という時間を要する。
 灼熱の日中と極寒の夜間。それらの狭間の僅かな時間だけが砂漠を往くのに許された間。それ以外の時は、分厚い布地で拵えたテントで消耗の激しい体力の回復に当てる。当然進行にあてられる時間は限られてくる上、往々の体力の盛衰具合には個人差が顕著に顕れてくる。ましてや今の時勢、魔物は昼夜を問わず襲い掛かってくるので気を緩める事は砂漠の風塵になる事を意味する。
 これが砂漠の常識であり、常であるだけに砂漠越えは困難な事だった。だが困難な道程である故に、参道の先にある聖都イシスへの期待は高まるのが人の情理であった。

 しかし、ユリウス達が砂漠越えに用いている手段は、そのいずれにも当て嵌まらず、他に例の無い……端的に言ってしまえば想像を越えた領域による移動手段だった。

 燦然と輝く太陽の下。悠然と、だが決してのんびりではない足取りで果てしない砂海を往く帆船。
 その進む速度たるや徒歩や馬車の比ではなかった。馬車ですら二週間を要する旅程を、僅か五日程度で踏破し、且つ同時に運搬できる物品、人員の量は他の術による追随を許さない。移動速度こそ瞬間移動魔法ルーラやその効力を秘めた魔導器『キメラの翼』に敵う筈も無いが、両者には同時に随伴できる人や物の数量が限定され、目に見えての限界が存在する為、砂漠における輸送という点で砂上船は現在での至上の手段だった。
 これ程までに常識を超えた術は、誰もが考えさえ及ばなかった。現に、この移動手段をシェイドから紹介された時、ユリウスでさえ呆然としたまま言葉を噤み、この船の雄偉を見上げる事しかできなかったのだ。その快挙を成し遂げたシェイドは珍しいものを見た、と満面の笑みを浮かべていた。尤も、実際にそれはシェイドの手腕ではなく、聖王国イシス政府からの要請にマグダリア商会が応じたに過ぎなかったが……。
 イシスからの要請とは、戦時下にある自国への物資の供給援助。だがそれは厭くまでも表向きの理由である。その真意は女王の側近である“砂漠の双姫”…“剣姫ネイト”アズサ=レティーナの緊急帰還にあった。ただアズサ一人の帰還を望むのであればキメラの翼を使うだけで全ては事足りるのだが、このような手段を用いてまでイシス政府が欲していたのは“剣姫”だけでなく、「“剣姫”と共に“アリアハンの勇者”が時を同じくしてイシスの地に降り立つ」、という事実の方にあったからだ。
 聖王国イシス女王“王裡アセト”の名代として砂漠の双姫“魔姫セルキス”によって発せられた詔勅を、マグダリア商会長クラークは即座に承諾する。利を追求する商人らしく決断には打算によるところが大半を占めていたが、迅速に適切な指示で、一般人を乗船させる事など有り得ない砂上船まで持ち出す器量は“交易王”としての矜持に相応しいものだった。
 そんな怜悧な彼の指示の下、商会長代理としてシェイドが対イシスとの折衝役となり、“剣姫”としてマグダリア商会を訪れたアズサと細かな交渉が進められる。このように裏で政治的な意図が孕んだ経緯で、ユリウス達は世界に僅か五隻しか無いとされる砂上船に乗船し、砂漠の奥地イシスを目指す事になった。ちなみに、五隻の内の三隻はマグダリア商会専用の輸送船としてアッサラーム―イシス間で常用され、一隻は商会ギルドとして所有されている。そして残りの一隻はこれから向かう聖王国イシスにて軍艦として利用されていた。それは、広大な砂漠に点在するどんな小さな村落でさえ、護るべき自国の民である事に変わりは無い、と現女王が遠き民草を護る為の“盾”と“翼”を欲し、その役割を演ずる者としてマグダリア商会から砂上船一隻を買い取り、軍事用に改造させた代物だった。
 砂上船の構造は、船底の竜骨部に魔法の篭められた大量の魔晶石を埋め込み、それらに秘められた魔法が互いに干渉し、増幅するように指向性を定めた陣を組み上げる。これは言わば簡易な魔方陣であり、その要石に篭められた魔法とは真空バギ系魔法であった。連結増幅された真空の渦は膨大な浮力を生み出し、その浮力で船体を地表ギリギリまで浮上させ徹底して砂の抵抗を排する。そして前進する為の仕組みは基本的に海を往く帆船と同じで、帆を広げ風を受け止め舵でその方向を定める、といった機構だった。もっともそれは全機構のほんの一部であり、目に見えない細部までに施された技術の端々には理解できないものが多々ある。
 物体に魔を御する術を施したという見地で語るのならば、砂上船は規格外の超巨大魔導器ともいえる代物だった。
 現時点ではこの船舶技術は砂漠運用限定なのだが、何れは本物の大海、そして未だ夢想としか呼べないような大空での運用が可能であるように、機工王国エジンベアの機関である『魔導研究所』にて研究が日夜が続けられている。その総指揮を執っているのが十三賢人“三博士・創”ラディアス=シメオンだとシェイドは語る。更に言うには、世界に名高い賢者によって進められている所業故に、エジンベアもとしても国の総力を挙げて魔導技術の研鑽に力を注いでいるとの事だった。

 何はともあれ、その他では見られない技術の粋が自分達の足となり、先に広がる遙かなる道を往く。踏み締め、後ろに舞い上げられた砂粒がどうやって地面に還るのか、その足跡を微塵も省みる事無く。その果てに待つ結末を少しも想起する事の無い行進は、淡々と耽々と。
 何処までも犇いている眩い黄砂は、燦々と照る太陽の光を全面に浴びて、黄昏に輝いていた。





 自由交易都市アッサラームから少し南西に位置する砂漠の入口に急造された港を出港し、既に二日になる。その二日前というのは、昏睡状態にあったユリウスが目を覚ました翌日…丁度街を襲った原因不明の異変の事を、異変と知覚できた者達誰もが少しも整理できずに戸惑っていた時だ。
 あの異変の真相を知る者は誰一人としていない。あの事象において唯一の当事者であろうユリウスは一切の言葉を語らず、口を閉ざしているからだ。
 結局、誰も彼も判らないまま異変の事を敬遠し、話題から外していくように周囲の意識は遷移していった。




(空が、青い。風は、熱い…………)
 ユリウスは船縁に身体を預け、何処までも同じ景色を護る砂漠を見つめていた。その表情に生彩はなく、闇をも吸い込む深遠なる黒曜石の双眸には、陽に照らされている世界が在りのままに、それでいて色彩を忍ばせて淡く白黒に映っているだけ。
(嘗て見ていた世界には色彩こんなものなど無かった。こんなにも目に障るものでは無かった筈だ)
 天から放射された熱が砂を灼き、それによって現れる陽炎が地平線上を、それらを構成する様々な色彩を幾重にも歪ませていた。その世界を乖離させんとする侵蝕は、通常ではありえない速度で流れる景色によって助長される。歪みは空と大地を等しく侵すも、ここが砂漠であったから景色の変化の程度は微々たる物に過ぎなかった。仮に他の地であったならば歪なうつつの在り様は見る者の気分を確実に滅入らせていた事だろう。
(どうして俺は未だ、色鮮やかな世界こんなところに居るのだろうか? 俺の居場所はあの無彩色の世界だけだというのに……)
 強く流れた風によって、掬われた自らの漆黒の髪先が視界をちらついたのでユリウスはそれを鬱陶しそうに払い、拾うを浮かばせた眼差しで空に意識を移した。
 雲一つ無い炎天下の、憂いも迷いも澱む物の無いその清澄な蒼の深さが、全ての命が持つ業を等しく苛んでいるかのようだ。その一点の曇りも無い空の清冽な眩しさは、光明を得る事のできないとりとめの無い自問に陥る自分を嘲笑い、更なる混迷の深淵にへと誘っているような気がしてならない。空に雲が一筋でも浮かんでいれば、そんな事は感じなかったのだろうが、生憎と今は厭味なくらいに清々しく晴れ渡っていた。
 ここでユリウスはふと、自らの思考が自分らしくない情緒に染まっていた事に気が付いて、小さく頭を振る。
(……どうかしている。唾棄すべき感傷など、俺には全く不要なものだと言うのに)
 責め立てるような白日から目を逸らし、ユリウスは忌々しそうに溜息を吐く。胸中で渦巻く不快な澱みを今の嘆息で全て排出してしまいたかったのだが、その淡い目論見は成就される事はなく、ただ口腔と咽喉を灼く熱せられた風が圧迫感を広げながら入り込んでくるだけ。痛みさえ伴う乾きはとても煩わしく、辟易したユリウスは憮然とした表情で口を閉ざした。

 小さな砂の粒子を孕んだ風がその轟音で周囲の物音を攫い、分厚い布地の外套の上から全身を弄っていく中。
 どこか淀んだ輝きを燈していたユリウスの眸は途端に細められ、ごく自然に腰に佩いてあった剣の柄に手が添えられる。それに伴ってユリウスが纏っていた空気は、氷のように冷たく刃のように鋭い凛としたものに変質した。
「何を考えておるのじゃ?」
 その刹那の後。余りにも唐突で、機を見計らったかのようなタイミングで掛けられる言葉。それは背後でこちらを見上げていたアズサから発せられていた。どこか呆れたように眉を寄せている彼女もやはり全身を外套で覆い、突き刺さる陽と暴れまわる砂風を防いでいる。誰にも察知される事の無いユリウスの行動は、ご丁寧な事に足音を消して背後から近付いて来る彼女の気配に気付き、無意識に身体が反応するという反射行動だった。
 甲板の上では、同じく極力肌の露出を抑えられた外套を羽織った乗船員…この場合はマグダリア商会に属する商人達が、風を受ける帆を御し、進行方向を定める舵を繰っていた。
 風に混じって届いてくる彼らの慌しい怒声に近い掛け声を、何処か遠くの出来事のように聞き流しながらユリウスは柄から手を放し、だが決して振り返る事は無く砂の海に視線を彷徨わせたまま言う。
「……何の事だ?」
 低く萎められた声には牽制の意志を孕んでいた。それはアズサの言が随分と一方的で直接的な問いだったからだ。
 それを自覚していたのかアズサは小さく頬を掻き、ユリウスの隣に立ち並んでは同じように船縁に身体を預けて砂漠を見つめた。
「いや、遠くを見たままボーっとしておるのが珍しくてな……随分とこの景色にご執心のようじゃが、やはり無感動男のおぬしでも、この悠久の時が創り出した砂漠には気を惹かれるか?」
 悪戯っぽい笑みと何処か挑発的な言葉、そしてフードの奥から見上げてくる何かしらの感情が込められた緑灰の双眸をユリウスは一瞬だけ横目で捉え、逸らす。
「否定はしない。確かにこの砂漠は、世界が滅ぶ行く末を暗示しているようで興味深くはある」
「…………おい」
 抑揚無く発せられたユリウスの言葉に対して、アズサは乾いた声を震わせるという狼狽うろたえた反応を示した。挑発した側であるアズサはアズサで、感傷とは無縁のユリウスの事だからサラリと聞き流すか、ハッキリと興味が無いと無感動に切って捨てるものだと考えていた。だが実際にユリウスは彼女の言を肯定し、且つ極めて物騒な事を無表情で淡々と言い綴り始めたので、動揺を隠せなかったのだ。
 フードの影でその表情が他に見られる事はなかったが、確かにアズサの声色と共に頬は引き攣っていた。
 傍らの変化を微塵も気に留めずに、昏い光を双眸に湛えたユリウスは冷淡に続ける。
「滅ぶべくして滅び、終には何一つの存在も無くなる……いずれ世界総てが、こうなるのかもしれないな」
「それを防ぐ為に、おぬしは旅に出ているんじゃろうがっ!!」
 思わず険しい剣幕でアズサは叫んでいた。ユリウスの余りに退廃的な言葉を聞かされて、黙っていられる程に冷徹では無く、寧ろ健全な証拠だった。
 一方、耳元で怒鳴られたユリウスは、大声の余韻で鼓膜を揺らす甲高い耳鳴りに迷惑そうに眉を寄せる。
「……別に魔物に滅ぼされたら、という意味ではない。生あるものはいずれ皆、死ぬ……いや“死”という前提があるからこそ“生”は背負うべき業となる。それは絶対に避けられない連鎖。如何なる存在も…そう、世界とてこの環に囚われている」
 絶句したまま言葉を聞き入るアズサを無感情の漆黒の眸で捉えながら、どこかユリウスは饒舌に続けた。
「それに、人間の世を滅ぼすのは他ならぬ人間自身だと、俺は思う。他者を貶めるのは人間だけの固有の性質だ。誰に対してでも等しく訪れる“死”の影を恐れる余り、それから逃れようとする“生”という業の内なる囁きに従ってな」
「…………」
「“生”という混沌がある限り、平穏は無い。あらゆる生命、意識が消失した完全な絶無……それこそが平和の究極、秩序の極みとなるのだろう」
 言葉を止めて、ユリウスは空を見上げた。相変わらず雲ひとつ無い蒼穹の空は眩しく、外套越しにさえも感じる強かな陽射しは全身に疼きを伴って圧し掛かってくる。だがそれでも、眼下に広がる悠久の黄砂が織り成す平静を脅かすものは無く、何処までも静謐に在り続けていた。

「どうしたのアズサ? 大声を出して……」
 先程のアズサの叫び声に、何があったのかと不信に思ったソニアが砂の舞い散る甲板を歩き、近付いてきた。彼女も例に漏れる事無く、すっぽりと全身を包む外套で陽射しからの防御をしていた。だが彼女の場合はその長く美しい髪を外套の内にしまっている為か、少々窮屈そうにしており、紅の双眸には未だ嘗て体感した事の無い酷暑による憔悴がありありと見て取れた。
 ソニアを振り向いたアズサは、ニヤリと非常に何か裏のありそうな邪な笑みを浮かべる。
「……ソニアか。実は、これからこの不健全陰鬱男の捻くれ歪みきった性根を叩き直してやろうと思ってな。……という訳じゃユリウス、殴るぞ」
 とても健やかで清々しい…だが目が全く笑っていない微笑みで軽やかに宣言する。外套に遮られていて見る事はできないが、その下では確かに拳の骨を鳴らす小気味良い音が暴風に混じって流れていた。
 しかし、それを聞き止めたユリウスは間近に迫る身の危険を微塵も気にした様子も無く、至極冷え切った眼でアズサを捉えるもそれは刹那で、まるで興味が失せたかのように視線を外しては、丁度今しがたアズサの傍に近付いてきたソニアに移す。
 ソニアがユリウスの視線に気が付いて幾許か表情と全身を強張らせるのを見止めると、ユリウスは唐突に思い出したかのように言った。
「どうでもいいが、一つ訊いておきたい事がある」
「…………何じゃ?」
 今まで自分を見る事無く無視の姿勢を貫いていたユリウスからの唐突な質問。それに虚を突かれたアズサは眉を寄せて眉間に深い皺を刻んだ。些か低くなった声色には、完全に無視された事への憤然とした胸中も微かに含まれているのだろう。
 当然、アズサの胸中の変動など知る由も無いユリウスは、淡々と続けた。
「ソニアはこのままイシスに入国できるのか?」
「は?」
「え?」
 二つの声は、質問を投げ掛けられたアズサと、突然に名前を呼ばれたソニアのもの。まるで亡霊にでも遭遇したかのように唖然として大きく眼を見開いている。
 ユリウスとしては至極単純に、思った事を口にしたに過ぎないが、それに対して明らかに大袈裟に打ちひしがれている二人を見て、胡乱の余り切れ長の眼を鋭く細めた。
「……な、何を根拠にそう思うのじゃ?」
 そう返すアズサの声は、何とか絞り出したものであるという事がその震えようから良く判った。
「聖王国イシスは太陽神ラー教を国教と定めているのだろう? ならばルビス教徒であるソニアは異教徒で、その入国には非常に問題がある筈だ。ある意味、宗教という囲いは国家の異物への排他意識を遙かに凌駕する。異教徒弾圧の意志の下に統制された人間の行動は、極めて短絡的で無思慮な事この上ないからな」
 そんな面倒に巻き込まれるのだけはご免蒙る、とユリウスは嘆息する。
 ユリウスの多少皮肉の篭っていそうな言を反芻し、理解したソニアは深く溜息を吐く。それはどこか呆れているような仕草だった。
「一体何時の時代の事を言っているの……。ユリウス、あなた“協会”を知らないの?」
 ユリウスの言っている事は確かに事実であった。が、それは既に数百年も昔の事。今では人々の生きた記憶からは風化して形を亡くし、歴史を編纂して綴られた紙面上の隅に綴られている事象の一つに過ぎない。
 色々な蟠りと複雑な感情が絡んでくるが、それでも博識であると思っていたユリウスの見当違いな発言に、呆れの余りに頭が痛くなったのかソニアは額を押さえ込む。見ようによっては非常に侮辱している仕草にも見えるが、それを気にする以上に、ソニアが綴った未知の単語にユリウスは怪訝そうに眉を寄せていた。
「“協会”? 何だそれは?」
 解を求めるユリウスに、ソニアとアズサは言葉を噤んだ。
 そのパチリと眼を瞬かせた様子が、本当に彼が件のものについての知識を持っていないのだと、彼女達は否応無しに覚らされたのだ。
「そうじゃな、それは……うーむ」
 言葉を選びながらアズサは綴ろうとするも、上手い言葉が見出せない。
 そもそも“協会”という存在は余りに普遍的で、常識的過ぎる故に説明もまた難しい。世間では子供から大人まで暗黙の了解として罷り通っている為に、改めて誰かに説明などする機会などそうそうにあるものでも無い。恐らく自分が何も知らない幼少の頃に、親に同じような事を言って困らせたのではないかという郷愁的な感情までも刹那湧いてきてしまった。
 奇妙な精神退行を実感して、思考はますます纏まらなくなっていく。そんな二人への救いの手となるべき問いへの答えは、言葉を詰まらせている二人とは別の場所から降ってきた。
「宗教観の違いから起こる諍い…究極的には宗教戦争回避の為に設立された機関の事さ。ルビス教の教皇アナスタシアが盟主だった筈だぜ」
 答えたのは、外套を大きく風に靡かせているシェイドだった。シェイドは何故か苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきていた。
 それにアズサが頷いて、被せ言う。
「無論、聖王国イシス…ラー教もそれに加盟しておる」
 二者の言葉を受けて怪訝さを増したユリウスが、より深く眉間に皺を刻んだ。
「幾多の宗教間調停を司る機関を統べるのが、どこぞの教皇だと余計に問題が多い気がするが」
 ユリウスの言葉はもっともだった。それをよく理解している為か、シェイドはその言葉を否定も肯定もせずに、ただ頷くだけ。
「“協会”は今から凡そ三百年前にあった宗教戦争の後に設立されたんだ。その聖戦においての死傷者数は天文学的な数字で、どの国もどの宗教も手痛すぎる被害を蒙る負う事になった。“協会”は元々その事後処理の一環として発足された機関なんだ。“聖芒天使アースゴッデス”アナスタシア=カリクティス、及び“魔呪大帝スペルエンペラー”ジュダ=グリムニルといったどんな権力者だろうがビビッて恐れ戦く二人を中心に、結成調印書には当時の十三賢人に列せられる先人達、世界同盟に加盟していた国家の元首達。そしてそれぞれの国家で信奉している宗教の教主達の承認があって、設立されたんだ」
「信じるものが違うというだけの理由で争って、傷付くなんて悲しすぎるじゃない。誰もそんな結末なんて望んでないのよ。“協会”の提唱者は当時の世界同盟の盟主で、アリアハン歴代五勇者に数えられている“聖王女”ベアトリーチェ様の偉業。歴史を学ばなかったの?」
 どこの国でも神学史、王国史を学ぶ上ではまず確実に出てくる事象。想像する事しかできないが、当時の人々にとっては決して消えない深い傷を刻まれた筈だ。その時に起こったであろう悲劇を想起して、ソニアは悲哀を双眸に浮かべる。
 それを相変わらずの冷え切った双眸で見止めながら、ユリウスは大きく肩を竦めた。
「生憎と改竄され尽くされている王国史などに興味は無い」
「……気持ちの良いまでに偏見じゃな」
「しっかし、そんな一般常識を知らないなんて結構疑問だなぁ……ユリウスの知識って、かなり偏ってねーか? 魔法理論とかは、最高魔導府ダーマで議論されているような高レベルのものを持っているのに、一般常識はからっきし……」
 心底不思議そうに首を傾げるシェイドに、ユリウスは抑揚無く言った。
「敵を殺すだけの剱に、一般常識など必要ないだろう。俺に必要な知識は、的確に敵を屠る為の術だけだ」
「おいおい、開き直るなって」
 無表情に返すユリウスに、シェイドは苦笑を零した。

 空も徐々に朱に染まり始め、大地はそれに呼応する。そして訪れるのは一時の黄昏の世界。
 黄金に輝く遙か砂海の彼方にある筈の聖王国イシスの影は、まだ見る事はできなかった。








 深藍の宵闇が一面朱色に塗り替えられた大空をジワジワと侵食していた。ゆっくりと、だが確実に蝕むその様はまるで病魔の進行と例えられても納得できる。
 事実、この国は蝕まれていたのだ。恐怖という不可視で実体が無く、それ故に不安と懼れを強く心に堕とす病に。
「愛する我がイシスの民達よ、弱気になってはいけません! 今暫し……今暫しで我等が親愛なる友である“剣姫”が、“アリアハンの勇者”を連れてこの国に帰ってまいります。希望の陽は決してまだ潰えた訳では無いのです! 空に陽が昇る限り……この世界に暖かな朝と昼が訪れる限り、私達は諦める訳にはいきません」
 夕暮れの空に、清楚な、それで居て聞く者の心に確かに訴える快晴の朝日を思わせる女性の声が力強く響いた。
 オアシスの畔に建造された白亜の大理石造りの城。人工的で文化的な煌びやかな装飾彫刻は乏しいが、それを補って有り余る程に自然の極められた造詣を用いられている為、美しさでは周辺国家の城郭に引けを取らない。
 王城前の、白砂が固く敷き詰められた城門広場には、王の通る道を飾る幾本もの尖塔オベリクスが騎士の整列の如く雄偉に立ち並び、イシスの守護獣を模った人頭獣身の石像スフィンクスが従属して参列していた。
 平時であればその広さの余り閑散とする場なのだが、今は戦時下。老若男女問わず、物々しい兵装に身を包んだ兵士騎士、果ては戦いなど知りもしないであろう民間の者達までもが粗末な鎧兜を纏い、ピリピリとした空気の中に上を見上げて佇んでいた。
 そんな張り詰めた緊張の中、女性の声は城の展望台バルコニーから余さず広場に届いていた。
ときの声を挙げよ、愛するラーの子達よ! 母たる神ラーの恩寵の陽光ひかりが、我らを護るでしょう!」
 展望台に立つ女性が天使を模った杖を空高く掲げると、その天使の像が淡く、やがて力強い白光を放ち夕闇を圧し返し始めた。
 それは柔らかく優しい木漏れ日のような、それでいて清冽で力強く命脈を刻む太陽の光そのもの。
 眩しさの余り眼を細めずには居られない程に強かな光なのだが、それを目の当たりにした広場に犇く者達は瞬きさえ忘れ、その加護を受け取っている。そして誰一人の例外なく一斉に手にしていた武器を高々と掲げた。
「“双姫”! “双姫”!」
「聖王国イシスに、光あれ!」
 その大波のような喚声は空気を震撼させ、夜に圧し潰されそうな空を戦慄かせた。



 イシス城の展望室バルコニーから城内へと続く唯一の回廊には、数えるのが馬鹿らしくなるまでに均等に座する簇柱が構え、外からの微かな光さえ遮って、回廊に陰影を深く落としていた。
 天使を模った杖…“聖杖・復活の杖”を手にしたまま砂漠の双姫、“魔姫”ユラ=シャルディンスはその回廊を颯爽と進む。背中の半ばまで伸びた蒼穹を髣髴させる艶やかな髪が歩を進める度に大きく跳ね、薄闇の中で静謐に佇む翡翠の外套の上に流れている事で、その歩調が決して狭いものではない事が伺える。そしてそれは焦燥に逸る心内をも代弁していた。
 毅然としているがその表情、強い意志を秘めた碧色の双眸には疲労がちらついて見える。額を飾っている黄金のティアラの輝きが、かえってその影を色濃く面に貼り付けていた。
 そんな彼女に向けて、静かな回廊に声が響き渡る。
「ニフラムも陽なる加護に違い無いですから、“陽光ラーの恩寵”というハッタリとしては充分ですね」
 甲高い声にピタリと足を止めるユラ。特に慌てるでもなく幾つも並ぶ柱の一つに背を預けていた人の影を見つけた。柱の一つ一つに備えられたほんの微かな燭台の燈でさえ余さず受け止め、煌々と輝く赤い髪は薄暗い中でも十分に目を惹く。少し斜に構えた大きな紅蓮の双眸と、あどけなさが残る面の線は緩やか。見た目は歳若い少年だった。
 少年は深碧の生地を幾重にも重ねた厚みある魔導師のローブを纏っている。胸に誂えらわれたレリーフの中央に座す青い秘石の輝きが、少年の歳若い容姿にそぐわない大人びた印象を対する者に与えていた。
「お疲れ様です、シャルディンス先輩」
 背を預けていた柱から離れ、少年は労いの言葉をユラに贈る。それを受けたユラは相好を崩さずに、真摯な眼差しで少年を見つめた。
「スルト……言われた通りの場所に兵の守りを固めて、結界の規模を半分にする代わりに強度を倍にしておいたわ。これで外郭楽園まで不死者の侵攻を許さない筈……。貴方の見解に間違いないのでしょうね?」
 淡々と告げるユラに、少年…スルトマグナは力強く頷いた。
「信用してくださって結構です。敵は疑う余地無く、こちらの懐を突くような行動を何かしらの意思の下に執っていますからね。つまり、マナの枯渇故に結界の脆くなった場所を直接狙って、文字通り死を厭わずに突貫している。結界を張り巡らせているシャルディンス先輩なら結界のたわみは常々感じている事でしょう?」
「ええ。確証こそなかったけど、貴方がそう言うのならば信憑性は高まるわ。……それに、わかっていたとしてもこれ以上に強力な結界は、は張れないからどうしようもないわ」
 己の力不足と悔しさを噛み締めるように僅かに眉を寄せるユラを眺めながら、スルトと呼ばれた少年は表情を変える事無く淡々と言った。
「それは仕方がないでしょう。“不死昇天”が真の力を発揮するには“不死絶殺”の存在が必要不可欠。聖双導器は互いが互いに音叉の如きに干渉し合い、補完する事によって真なる輝きを解き放つ。片割れである“聖剣・滅邪の剣ゾンビキラー”の担い手である“剣姫”がこの地に不在では、“聖杖・復活の杖”もその真の力を開放できないでしょう」
 少しの迷いなく断言するスルトマグナに、ここで初めてユラは相貌を緩やかにした。
「全てはお見通しという訳……流石スルトね。でも悲観ばかりはしていられないわ。この膠着状態も、もう直ぐ解決できる筈だから……。アッサラームに遣わせている者の報告では、アズサはこちらの手配したマグダリアの砂上船に搭乗できたそうよ。だから遅くてもあと三日以内には着く筈ね」
「是非ともそう願いたいものですね。ですが、シャルディンス先輩。未だ見えぬ先の事よりも今を見据えて下さい」
「わかっているわ。だけど私一人では限界がある。貴方にも頼る事になるけど……」
「お任せ下さい、僕はその為にイシスここにいます」
 油断無く、そして驕り無く頷くスルトマグナ。そんな彼を見て、ユラはつくづくこの少年の迷いのなさが羨ましく思えた。
「ありがとう。ところでスルト。どうしてここに?」
 本題に入り首を傾げるユラ。今現在、夜の時間帯にあってここは封鎖区画である。特別な許可のあるスルトマグナといえど用も無しに城内をうろつくのは考えられなかった。やがてユラの考えを肯定するようにスルトマグナは両腕を組み、指先で虚空に円を描いた。
「巡回に行く許可を頂きに。夜は人々の不安と恐怖を煽ります。そしてその負陰に染まる意識の流れこそ、敵である不死者達の糧となる。それとシャルディンス先輩を信頼しない訳ではありませんが、結界の張り方も直接この眼で見ておきたいからです。この聖都を囲う六つのオアシス…外郭楽園より内側は、何としても死守しなければなりませんからね」
「そう。本来ならば私が先陣を切って行くべきなのに……ごめんなさい、私は陛下の側を離れられないから。護衛の兵は必要かしら?」
 申し訳無さそうに表情を曇らせるユラに、スルトマグナはただ首を横に振る。
「いいえ、結構です。兵とは民を護る為の存在。ただ内なる心はどうあれそこに佇むだけで、人々は護られているという安心感を抱きます。城下も不安定な時期ですからそれを減じるような事はしない方が良いでしょう」
「そう、でも貴方一人というのは……」
「ご心配には及びません。夜でも良く利く眼と耳・・・を待たせてありますので」
「……彼女の事ね。今更だけど、彼女の魔力はとても凄いわ。前の哨戒戦の時に間近で魔法を見させて貰ったけど、私や貴方よりもずっと上……世界は広いわね」
 自信を失くすわ、とユラは弱く嘆息した。
「気に病む必要はありませんよ。彼女の潜在魔力が人間・・と比べて高いのは必然なんです。僕とて持って生まれた種族差を超える事はできませんからね。まぁその術が皆無という訳ではありませんが、僕の趣味ではないので」
「彼女は一体何者なの? 良く考えたら私は彼女の素顔を見た事が無いの」
「……端的に言うのならば僕の姉弟子です。まあ、はねっ返りのじゃじゃ馬ですから精神年齢はかなり低いと思いますけどね」
 ここでスルトマグナは明らかに顔を歪めた。どこか憮然としたように唇を尖らせ、低められた声色で皮肉る。そういう表情を見ると、改めて少年は歳相応の心の持ち主なのだとユラは思う。背伸びして大人ぶる態度も、理由が理由で自分はそれを知っている為に気分を害する事は無かった。
「貴方は少し……いえ、かなり生意気かもしれないわ」
 からかうように薄っすらと微笑むユラ。その飾らない綺麗さからか、或いは言われた事を自覚していた為か、少年は気恥ずかしさを顔を顰めて誤魔化しながら後頭部を掻いた。
「それが性分なものでして……ではシャルディンス先輩、行って来ます」
「ええ、お願いね。スルト」




 スルトマグナが立ち去った後。夜闇が犇く空は深々とした静寂に包まれる。快晴の夜空には、我が物顔で鷹揚と闊歩する大円の白月が艶かしく輝いていた。
 外が光り輝くにつれ、屋内の闇は濃くなる一方だ。そんな中、誰も居なくなった王城前広場を独り歩むユラは、手にした杖をギュッと握る。月明かりのみで顔の陰影を浮き彫りにされた“復活の杖”に飾られた天使の像は余りに無機質で、冷たく酷薄に見えた。
 当初の予定通り、“剣姫”は“アリアハンの勇者”をイシスに導いていたのだが、ここに来ての緊急召致。それは裏を返せば、現在の戦況がイシスに不利に傾いている事に他ならない。少々強引なやり方で、きっと今ここに居ない親友の好まない方法を取ってしまったが、背負った物の大きさを考えるならば微小な事だろう。
 幾らかの不満は聞いてやらなければならないが、久しぶりに会える親友の言葉。先を思うと少し楽しみになる。
 口の端を歪ませたユラは顔を上げ、真っ直ぐに先を見詰めた。
 広場には長久の時も朽ちず、動かず、ただ当然のように佇む尖塔が立ち並び、その更に先では夜に寝静まった聖都イシスの街並みがある。
 それを見て、ユラは自分の意志を改めて認識した。
 自分の背負った物…それは“砂漠の双姫”。敬愛する女王陛下、そして愛すべきイシスの民を護る事。
 空に開けた回廊の先を飾る尖塔が、必死になってその先に見える街を支えているように見えて仕方が無い。堕ちてくる世界を支える柱の一つ一つが、今こうして国を守る為に戦っている国民一人一人だとすれば、自分はそれを泰然と支える大地そのものとして在らねばならないと思った。
 その途方も無い重圧を感じて、ユラは小さく嘆息する。そして双眸を伏せ、月に祈るように呟いた。
「私一人じゃそんなに保たないわ……早く帰ってきて、アズサ」




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