――――第四章
      第十一話 遥かなる暁凪







 円形に模られた自由交易都市アッサラームを縦横に走る主要道…その通り沿いは賑やかな喧騒が支配する商業区画である。厳密に言えば議事堂を中心に十字を走る大通りを枢軸として、四つに分かたれた各街のより枢軸側の区画を指す。そして大通り沿いはもとより、それぞれ四区画には各々の特色を色濃く際立たせる為に細かな区分整頓が為されていた。
 北東地区は飲食、衣服、生活雑貨等の、よりこの地に住まう人々に密着した生活においての需要を満たす繁華街。
 東南地区はこの都市で最も古くから体裁を変える事無く続く、外来者達が足を休める憩いの場を提供する宿場街。
 南西地区は亜熱帯気候特有の倦怠感を排し、弛緩する心を躍動の途へと誘う数多の遊興、娯楽施設が並ぶ歓楽街。
 西北地区は危険を越えて到る冒険者達を、その旅路に必要不可欠で己が命を託すべく相棒に巡り合わせる武具街。
 これらのように細かな分類調整が交易都市全体としての機能を潤滑、活性化させ効を奏する礎になってきたのは現在の街並みを見れば一目瞭然の事だろう。尤も、人の往来の最たる主要道沿いにそれは当てはまらず、様々な店舗が群雄割拠、無作為に立ち並んでいるのだが……。各々の区画がその秘めた特色を顕著に表すようになるのは、主要道から一つ二つ奥に入ってからであるのが現状だった。
 だが、当然とも言うべく“街”という枠組みの根幹にある存在意義は、人が住み、生活を営む場であるという事だ。
 この交易都市として、人と物流の入り乱れた分岐点としての体裁が色濃いアッサラームという都市においてもそれは例外ではなく、街の規模に見合うだけの人間が住まい、安穏と生活する場所は当然にして在るべくある。ただ街の性質上、住宅街が在る区画は中心の商業区画から離れたより外壁に近い場所に集中する。そこは中心部の賑わいと華やかさからは一線を隔する、閑静な場所になっていた。
 住宅街を占める民家の数々は、古くから東西の文化が交わってきた名残である為、多種多様の建築様式が不整合の中での調和を遂げ、各々の特出しすぎた角を削り合いながら存在していた。しかし大小新古の色合いは、経済活動において利潤を得れば必ず現れる弊害の表れ。貧富格差、身分格差を始めとする違い・・に通ずる。それは場所を、規模をも問わず存在するのが現状だ。その轟々と捲く渦中にあって人は、自分が持ち得ぬ他のそれを妬み、嫉み、そして或いは奮起して日々を強く歩む。上を仰ぐ者、下を睨める者。思念の矛先を問わずとも“街”の活力の根源は、やはり人の中にあったのだ。
 数多の活力が息を潜め、静かに燻らせている住宅街。その端々から立ち昇る熱意が大気と混ざり合い、熱気となって空気を圧す様子を極めて冷やかに睥睨する一角がある。そこは周囲に縦横無尽に犇いている民家とはまた別の次元で多様さを放ち、厳かな気品を醸す豪邸が幾つも建っている区画だった。都市全体が醸す猥雑な雰囲気からすると恐ろしく異質としか言えないにそれらは、都市の保有面積が限られたものであるにも関わらず、それでいて広大な敷地を占有している。その事実は、それ程までにこの区画に住まう者達がアッサラームにおいて富と権力を持つ事の証。つまりはこの都市を動かしている要人に他ならない。

 そんな高級住宅街に群立する館の一つ。




 深夜のひっそりと広がる闇を穏やかに壊す、ぼんやりとした光が窓とカーテンの隙間から零れ出ていた。昼の熱気に巻き上げられた地中の水分が夜気に冷やされ、しっとりと硝子に張り付いて内からの光を淡くぼかし外へと漏らしている。その柔らかな燐光は朗らかさを感じさせると共に、心の底から震えを覚えるような狂々とした何かを齎していた。
 だが深夜の時限、それを感じる事ができる者は極少なく。夜空と街の灯りにて緩やかに隠されている。
 絵画、彫像、絨毯……それら潤沢な調度品が、それぞれの持つ気品を惜しみなく曝け出せるように配慮されて並べられた執務室。凛とした厳かな空気の中、ターバンを脱ぎその下の豊かな鳶色の髪を暖光に晒していたシェイドは、壁際の戸棚に厳かに飾られていた物に視線を移した。
 それは切り取られた岩の上で天を仰ぎ、昂ぶる咆哮と翼を広げ立つ黄色の翼竜を模った彫像。成人男性が両手で包める程度の大きさではあるが、本当に羽ばたくのでは無いかと思える程に生々しい躍動感と存在感に溢れた様は、どのような技術を以ってして作られたのか想像を絶する。その泰然と構える竜さえを台座とし、それに恭しく擁かれている真球の宝珠は精巧な硝子玉や水晶球のようで全く別の代物。材質がこれといって何の検討のつかない、不可解なまでに美の極致にある宝珠だった。
 覗き込むとその表面の滑らかさによって光沢を反し、歪曲した自らの顔を映していた。一瞬、そこに黒い影が走ったような気もしたが、部屋の灯りが揺らいだのだと早々にシェイドは自己解決する。
「なあ親父、この黄色い宝珠は?」
 神掛かった芸術の業品を存分に堪能し、振り返るシェイド。その視線の先には執務机に両肘を立て、組まれた両手に顎を乗せて眼前の虚空を油断無く凝視している壮年の男性がいた。頭髪は年季にややくすんでいるが、その髪色と双眸の輝きはシェイドと何一つ変わらない確かな繋がりを感じさせる。
 その人こそ自由交易都市アッサラームを動かし、世界経済を牛耳る商会ギルドの四大柱、マグダリア商会長。“交易王”の名をほしいままにしている現当主、クラーク=ヴィクト=マグダリアだった。
 宝珠を指差したまま問うシェイドに、クラークは手の影に隠れている口元で笑みを描いた。
「ほぅ……、真っ先にそれに目がいくとは、お前もしっかりと学んでいるようだな」
「はぐらかすなよ。……まーた競売で競り落としたのか? 好きだねぇ」
 良く良く部屋の中を見渡せば、以前には見られなかった物品が幾つかある。思わずジト眼になって放たれたシェイドの胡乱な視線を敢えて流し、クラークは飄々と語る。
「物品の豊かになって来た世の中には、物の真価を見極める事ができない人間に溢れて来た。まぁそれも、我々が物流を世界に広げている所為であるのは否めないが……物質的な豊かさは、確実に精神的な渇きを促進させているとは思わんか?」
「おいおい……、商会長である親父が自分らのやってる事を否定するのか?」
 呆れたように溜息を吐くシェイドに、その様子を特に気に留める事無くクラークは言った。
「否定ではない。ただ私個人の葛藤だよ」
「ま、いっか。……でもよ、なーんか厭な感じがするんだよな、これ」
 シェイドの独白のような呟きを聞き取ったのか、黄色の光を灯した宝珠は嘶くように妖しく煌いていた。




 眼前の卓上に並べられた茶器からは、滔々と湯気が立ち昇っていた。音無く昇る湯気はその裡に芳醇で清らかな香りを孕み、夜の冷えた空間を静かに満たしていく。それらは聖王国イシスの王侯貴族御用達になっている高級茶葉から淹れられた紅茶だった。市場には滅多に出回る事の無い、非常に希少性の高い物。ロマリアやポルトガといった西方に向けて輸出すれば、それだけでそれなりの富を得る事ができるであろう高価な代物を、常時出し渋る事無く使う潔さはその人物の器の深さを示すものだと言えなくもない。
 紅い水面に映る自らの顔を見下ろしながら、シェイドは正対してソファに座る父親にそんな感想を抱いた。
「何はともあれ、シェイド。良く無事に戻ってくれた」
「まぁ、おかげさまで。今回の遠征は中々楽しかった」
「……それで、首尾はどうだった?」
 言葉と視線で問うて来る父に、シェイドはコクリと頷く。
「ああ、行方不明のエジンベア王国第一王子の足取りだけど……当然と言うべきかね、ポルトガは毛筋ほどの情報も手に入れてはいなかった。平時から周囲に眼を向けておけば自然と情報は集まってくるってのに、隣国の王族なんていう国家の看板の事情すら知らないようだったな。まあ御家事情だけにエジンベア側の情報規制も何重にも組まれてはいるんだろうけど、ポルトガ側にはそれを知ろうとする体勢すら見られなかった。国王にバハラタ産のちょっと珍しい香辛料を献上したら、ずっと意識がそっちに行っちまって話にならねーし……スムーズに話を進めようと献上した物なんだけど、小細工が裏目に出たって感じかな」
「……まぁ、仕方なしか」
 革張りのソファに背を沈めながら、深く溜息を吐くクラーク。その様子に勢いを得たのか、シェイドは身を乗り出して被せ言った。
「あそこの国王の道楽主義もロマリア王といい勝負だ。愚鈍さ加減じゃ五十歩百歩って感じ? まぁこんな物騒な時代だし、逃避に徹底したがる心理もわからなくは無いけど、自分の在る立場ってのをちゃんと理解してほしいもんだよな。国民の税で生かされているんならよ……てか、今更だけど何でエジンベア王子を探してるんだ?」
「本当に今更だな……。そういう事は普通、出発前に聞いておくものだろう」
 あっけらかんとしたシェイドの言葉に、至極呆れたようにクラークは嘆息し、まだ冷め止まぬ紅茶で喉を潤す。その冷静な動作に自らの羞恥を覚えさせられ、シェイドは唇を尖らせた。
「ちぇ……だって本当に気にならなかったんだよ。それで、何でなんだ?」
 瞼を伏せ紅茶の清涼さに舌鼓していたクラークは、その余韻に浸りながらカップを卓に置き、一息置いて伏せていた双眸を開いた。
「彼が持っているかも知れないからだ。“渇きの壺”を」
「つぼぉ〜!? “渇きの壺”っていやぁ…あの世界四大秘宝の一つの? 親父に陶芸収集の趣味があったなんて初耳だぞ。そんな個人的な理由で……」
 重々しく発せられた返答に、拍子抜けしたシェイドは思わず間延びした声で叫んでいた。その見当違いに続けられる言にクラークも黙っておらず、眉間に刻まれた皺を深くしてシェイドをめつける。
「話は最後まで聞け阿呆が。私個人ではなく、商会ギルド総意としてそれが必要なのだ」
「……何で?」
「これを見ろ」
 疑問にパチパチと目を瞬かせるシェイドの顔を見据え、有無を言わせぬ口調でクラークは手にしていた紙の束を放る。それは軽やかに卓の上を滑りシェイドの手元に届いた。
 羊皮紙の表紙には、その白地の上にただ黒い文字の羅列が味気なくあるだけ。
「……『フロンティア・バーグ第一四次中途報告書』。ああ、ギルドが二、三年前から進めてる新しい都市建造計画か」
 怪訝にそれを眺めたシェイドはその文字を認めると眉を顰めて真剣な顔付きになり、次々に頁を捲って読み進めた。
「そうだ。フロンティア・バーグは未開大陸スーを開拓し、本土進出を果たす為の基盤となるであろう地だ。それは王制とは異なる政治制度…このアッサラームと同じくする共和制の自由自治都市を世界に拡大する為の一大事業でもある」
「そんな、ライゼル商会長の好みそうな妄弁文句はいいって。んな事よりも、街造りに何で壺が関係あるんだ? 関連性が全く見えないんだけど」
 父親の言い回しが気に入らなかったのか、シェイドは露骨に顔を歪めた。以前、父親に同席させられた議事堂でのギルド運営会議の際に、誇大妄想にも近い理念を自己陶酔に浸った顔で雄弁していた別商会の長を思い出してしまったのだ。
 苦虫を噛み潰したような息子の反応に満足したのかクラークは微かに口元を歪め、平静に戻して続けた。
「彼の地…未開大陸の原住民であるスー族との諍いは、こちらの足並みが揃うまで極力避けて進めるのがギルドの方針だからだ。彼らは愚直ではあるが侮れない存在だからな」
「スー族? スー族っていやあ確か、大昔から大地神ガイア崇拝の文化と風習を守っている地の民ガイアーラだったなぁ。珍しさ加減じゃ神秘に囲われている黄金の国といい勝負か。それで?」
「“渇きの壺”は空より堕ちてきた石と云われている“渇きの石”を錬成して作られた代物。その力は浅瀬を陸地に変えてしまうと言う……地学的に河川の氾濫が昔より頻発する彼の地において、それを鎮める力を秘めた壺には大地神の加護があるとして、彼らが神聖視するようになったのも自然な流れだろう。嘗てスー族の祭事を執り行う祭司家に代々伝わっていた秘宝だったが、昔、エジンベア王国が躍起になってそこらかしこに侵略していた頃に持ち出したらしい」
「成程ね。ご機嫌取りって訳か……難儀な問題だな」
 結局はこちらが弱腰だからではないか。そう思い、シェイドは大仰に肩を竦めた。
「そう言うな。エジンべアでは既に忘れ去られた過去の歴史の一篇だが、彼らにとっては違う。“渇きの壺”はエジンベアにしてみれば黴の生えた戦利品の一つに過ぎないが、スーの民にしてみれば遵守すべき神代の宝物を奪われている訳だからな。古の風習を色濃く遺しているが故に、禍根は今になっても根強く継承されているのだ。協力者達・・・・への誠意は、こちらとしても可能な限り見せておかねばならん」
「商会ギルドとエジンベア王国の繋がりは深いから、スー側にその事が漏れれば、途端に掌を返してくる可能性もあるって事か……」
 自問のようなシェイドの呟きに、クラークは重々しく頷く。
「所詮は気休めなのかもしれないが、予め用意しておくのと、指摘されて初めて用意するのでは相手に与える心象が決定的に違う。常に先を読んで行動し、予期できる事象への手札カードを可能な限り用意しておく事は商売において…いや、あらゆる競争に勝利する為の鉄則の一つだ。覚えておいて損は無い」
「成程ねぇ……」
 勉強になる、とシェイドは何度も頷く。そこには純粋な納得の表情があった。
 それは実際に眼前の父親が、そうして今の地位に登りつめたからなのを知っていたからだ。その如何なる理論にも勝る絶対の経験からの言葉には、シェイドも親子という間柄を越えて感銘を覚えるのを禁じえない。
 頻りに頷く息子を見止め、クラークは話を進めた。
「他に何か目ぼしい情報は無かったか?」
「んー、そうだなぁ……厭くまでも船乗り達の噂話でいいなら幾つか」
 言葉を濁すシェイドに、クラークは無言で頷く。続けろ、の意思表示だ。
 それを受けて、一つ咳払いしてシェイドは言った。
「ロマリア半島付近の南地中海で幽霊船を見た奴らがいたとか。海賊船団“海皇三叉槍トライデント”の連中が最近躍起になって魔物を蹴散らして何かを探しているとか。北地中海の霧惑の露礁ローレライ海域で“オリビアの歌声”が聴こえて何隻もの商船が沈没しているとか……」
「ふむ」
 次々に齎される情報を耳に、脳裡で分解し組み立てるクラーク。真剣な眼差しでカップを見つめ、思案を深める彼とは対照的に、あっけらかんとした顔でシェイドは続けた。
「あ…一番眉唾だったのが、サマンオサ帝国のスフィーダ皇女がクーデターを起こそうとしているとか何とかだな。流石にこれは完璧なデマだろうと思うぜ。だって、完全に鎖国体制を執って徹底して恐怖政治で自国を支配している国家の皇族だぜ? 黙ってりゃ甘い汁を啜りたい放題なのに、意味わかんねーよ」
「…………」
 気に入らない事への感情的な反発からか思わず饒舌に発せられるシェイドの言葉を、クラークは表情を引き締めたまま聞き入っていた。
 それに気がついたシェイドは疑問に言葉を止めた。
「……ん? どうした親父、何か心当たりでもあんの?」
「なに、お前と私では持っている情報の量が違うからな。それらを照合していたのだ」
「ふーん……」
「何だ? まだあるのか?」
 含みのあるシェイドの呟きに、クラークは怪訝に眼を細める。
 そんな父親の眼差しを受けて、まあな、と苦笑しながらシェイドは続けた。
「俺、『勇者の息子』に会ったぜ」
 聞いた途端、クラークは目を見開いた。その様にシェイドは得意げに胸を張る。
「『勇者の息子』だと!? ……どちらのだ?」
 二者択一の問い掛けが導くところは、近年子供でも知っている人類にとって非常に大きな意味を持つ名前に到る。人類史を紐解けば『勇者』という存在は幾らか拾う事ができるが、ここ十年においてその単語が指し示すのはたったの二人だけ。だがそれは余りにも重く大きな名前だった。
 即ち、魔の脅威に対して人類を守る双つの壁……アリアハンの勇者オルテガ。そして、サマンオサの勇者サイモン。
 それらの英名に追従する悲劇の顛末。それに寄せられる様々な人の感情は血潮と共にその子供へと継承される。
「サイモンの息子の方。ロマリアで会ったぜ」
「ほぅ」
 クラークは顎鬚に手を沿わせ、弄んでいた。それは興味深い事の発見や、思案を広げる時の無意識の癖で、父親のそんな反応を見てシェイドは口元を歪めた。
「ロマリアでの騒ぎは知ってんだろ? その被災復興の時に丁度ポルトガ帰りの俺らが訪れて、物資支援したんだよ。そこで会ったんだけど…なんかまぁ見ての通りの、絵に描いたようなお人好しだったな。忙しくあちこちを走り回って被災者を勇気付けていたよ。悪い奴じゃ無かったし、真っ直ぐで仲間にも恵まれていた。きっとあーゆー奴が人の輪の中心に立って、周囲を照らす光になるんじゃないのかねぇ。例えるなら太陽のような……」
 達観したように感慨深げに語り終えて、そういや俺よりも年上だったっけ、とシェイドは苦笑いを零す。
 対して眼光を鋭く真摯な眼差しで話に耳を傾けていたクラークは、一つ頷いた。
「ふむ。では、お前が連れてきたオルテガの息子の方はどうだ? アリアハン王国では大層な英雄譚が謳われているそうじゃないか。事の真相はわからんがな」
「ユリウス? 流石親父、情報が早いなぁ……でも別に、あいつらは俺が連れてきた訳じゃないぜ。偶然行き先が同じだったってだけで……そうだなぁ、ユリウスは孤高になろうとしているって感じだったな。周りを徹底して排する事で目に映る視界を狭めて狭めて、感情とかそういうのも抑圧してただ一点に向けて意識を強めるって風だった。だけど……」
 寧ろそれは周りを受け容れられない弱さの表れかもしれない、とシェイドは評価する。
 シェイドの言葉に聞き入りながら、クラークは両腕を組んで重々しく一つ頷いた。
「……ギルドとして、支援するに相応しい『勇者の息子』はどちらだ? 忌憚無い意見を聞かせてくれ」
「どちら…って、両方でも良いだろ? 二人とも『勇者の息子』って看板背負ってるんだから、それ以上に差はないと思うけど」
「人間というものはな、同種のものが二つあると否応無しに優劣を付けずにはいられない生き物だ。そしてより優れた方を抱え込む事で、そうではない者達への優越に浸り満足を得る。……卑俗な考えではあるが、お前も経済の世界の端役を担うのであれば解らなくは無いだろう?」
 問い掛けへの返答なのか、露骨に顔を不快に顰めながらシェイドはまぁな、とソファに身体を預けた。そして僅かに瞼を下ろし思考を巡らせる。
「……俺はそんなつもりで言ったんじゃ無いんだけど、な。…………この世界に生きる人間として、未来を切り開く“希望”を託すのならジーニアスの方。今、世界を脅かしている魔物の根絶に“期待”を掛けるのなら、ユリウスの方だ」
「ふむ……これはまた極端だな」
 クラークの評価は個人的な感情から来る揶揄ではなく、ただ単純に事実の在り様をそのままに思い描いて発したものなのだろう。
 確かにそうだ、とシェイドは思う。『勇者の息子』二人に相対した時に感じた印象…あらゆる世間的な事情を意識的に除いて見えて受ける心象は、父が言った言葉に違い無い。そしてそれが周囲にどれ程の違い・・を以って受容されていくのか、判らない程に無垢な人生を送ってきたつもりもない。
 父親の無感動な評価は、自分が言葉にするのを遮っていた澱みそのものである事をシェイド自身が一番良く理解していた。だからこそ、シェイドはつっけんどんに返していた。
「実際そう感じたんだよ。……あんまり気持ちの良い感想じゃないけどな」
 シェイドの不服極まりない顔を真っ直ぐに捉えながら、クラークは思わず笑みを零した。長年、商売を通して数多の人間との意思の応酬を良悪善非、数え切れないほど常にこなしてきたクラークにとって、シェイドのそれは青さが抜け切らない未成熟なもの。裡で荒ぶる波を抑えるべく必死の様子がどうにもこそばゆかったのだ。
「お前は阿呆だが、その阿呆さ故につまらん表面事に囚われないからな。これでもお前の人物鑑定眼は高く評価しているつもりだ」
「あのなぁ親父……それ褒めてんか? けなしてんのか?」
「さあ、どちらだろうな」
 尚も楽しげに笑う父に、シェイドは大きく頭髪を掻き回して溜息を吐いた。






 マグダリア商会の懇意によってユリウス達一行が滞在している旅籠は、正に絢爛豪華だった。貴族の館と見紛うばかりに厳かな気品溢れる造りの建物には、人目の届き難い隅々まで完璧に手入れが行き渡っていた。そしてこちらの微かな違和感すら見落とさない就労者達の細かな気遣い……評価を受けるべき要素のどれをとっても一級品といえる。とてもではないが一介の冒険者という身の上でここに居る事は、どうにも場違いな気がしてならない。ましてや宿泊し滞在できるとなれば、その幸運に返って疑念と不安が次々と込み上げてくる始末だ。
 初めてこの旅籠の敷居を跨ぎ、各々がそれぞれに割り当てられた個室へ案内された時、その優雅な雰囲気に誰もがそう思った。だが思いとは裏腹に、贅の極みから編み出された快適性は一般的な安宿とは比べ物にならず、多少の居心地の悪さは感じられども長旅の疲れを癒す場としては最適だった。

 そんな旅籠の中、とある一つの個室の前。ソニア、ミコト、そしてヒイロは部屋の扉を三方から囲うように佇んでいた。
 不特定多数の人間の往来である廊下の真ん中でのそれは傍迷惑な事であるのだが、この旅籠においてはそれは大した問題にすらならない。それだけに広い廊下は、大人三人が一箇所に屯していようが気にならない程のスペースを保持しているのだ。現にここ数分において何名かの給仕の人間や、或いは他の宿泊客が横を通り過ぎていったが誰一人として咎める者は無く、寧ろこちらに視線すら送る者は無かった。
 注意する者が無くともそれによって鷹揚になりきる事ができないソニアは、チラリと廊下の先を一瞥するも今は人影は無くホッと胸を撫で下ろす。別に何もやましい事をしている訳ではないのに、時折コツコツと周囲を高く響き渡る足音を耳にしては何かに責め立てられているような感情が胸中でざわめいて、落ち着かなかったのだ。
 廊下の遙か先から微かに届いた靴音にソニアが微かに身を捩じらせていると、こちらの行動を見計らったかのようなタイミングで、真剣な表情のままヒイロは言った。
「サクヤさんに医術の心得があって良かったよ。応急処置程度の知識なら俺にもあるけど、より詳細な容態を診る事はできないからね」
 サクヤとは、先程ミコトと武具店に買い物に訪れた時に会ったミコトの古くからの知己の事だ。その時から彼女はミコトと行動を共にし、今この旅籠にいる。そして、ついさっきここに戻ってきたヒイロと顔を合わせ、その際に簡単な紹介がミコトからされていた。
 感慨深げなヒイロの言葉を、両腕を組んだミコトは頷いてから拾った。
「朔夜は僧侶であり医者でもあるから。彼女に任せておけば大丈夫さ。でも……」
 一旦言葉を呑み込み、ミコトは顔を顰めさせたまま首を傾げる。その動きに合わせて頭の両側で結われた髪がハラリと流れ、それが噤まれ続くであろう言葉の外形を重々しく飾る。
「……結局、何があったんだ?」
 眉を寄せて発したミコトの疑問は誰しもが胸の裡に思い、明確な解を得る事のできない物だった。




 今現在、外は深夜を超え、空は明け方へと白み始めている時刻。通常ならば誰もが穏やかに夢園に陥っている時間帯だ。そんな時間にこうして頭数を揃え、廊下の一角で気難しい顔を並べるのは異様且つ不審極まりない事ではある。だがそれ以上に客足が今も絶えず、給仕の人間がその事を特に訝しむ様子無く淡々と通常業務をこなしている辺り、やはりここは“不夜城”アッサラームである事を改めて認識せざるを得ない。
 何はともあれ、時間を問わず日常を謳歌している街ではあるが、ほんの数時間前までここは異常の渦中にあった。
 所狭しと広がる雑踏からは喧騒が消え、人々の意思の光が眸から失せた。街に犇く人々は個を破棄して全となり、まるで見えない糸で手繰り寄せられるように整然と大きな波となって街中を流れる。波を構成する往々に共通していたのは宙空を見つめる虚ろな眸、脱力し小さく揺らぐ身体。何時しかそんな彼らが刻む足音は揃い響き、あたかも葬列であるかのような静謐に暮れる行進は、凍える異彩を周囲に撒き散らしていた。




 市井の人間に比べると、自分達は遙かに魔力に対しての抵抗があったのだろう。その為、あの街の人間達が茫然自失のまま傀儡と化していた惨状を、自我を保ったまま冷静に見る事ができた。そして、そのあまりに常軌を逸していた現実を前に、形の見えない恐怖を一方的に心底に植えつけられたのだ。
 垣間見た者としてあの時の様を思い出しているのか、視線で問うてくるミコトの緑灰眼には切実な怖れが宿っていた。それが伝染したのか、全身が打ち震えるのを抑えるように一つ唾を飲み込んでソニアは瞑目のまま首を横に振り、わからないと応じる。ソニアには否定する事しかできなかった。それは彼女自身もまた、現状が正確に呑み込めていない一人に過ぎなかったからだ。
 だが事の真相を理解できずとも、目の当たりにして気付いた点は幾らかはある。その思いにソニアは口を開いた。
「判るのは、空が震えるくらいに強力な魔力波がこの街を覆って、街の人達の様子が変になってしまった事ぐらいね。……少なくとも、あの魔力波は人間の手による物では無いと私は思う。だってあんな…あんな恐ろしい魔力の波動、人の手で御せるなんてとてもじゃないけど…思えないわ」
 声を萎めつつ、ソニアはその身を抱き締める。その緊張と畏怖への震えが事の深刻さをヒシヒシと周りに伝えていた。
「人間じゃない者による大きな魔力の波動…………魔物、魔族…まさか魔王の手の者っ!?」
 口元に手を当てて思案を広げていたミコトは、半ば叫ぶように顔を上げる。その凛とした声は余裕がない程に乾いていて、硬質だった。
「考えられなくは無いね。ただ、疑問も残るけど……」
 張り詰めたミコトの提示にヒイロは力強く頷くも、微かな懸念が語尾を掠らせる。耳聡くそれを聞きとめたミコトが、ピクリと片眉を上げた。
「疑問…って何だよ?」
「街の人々に何の後遺症も被害も無いと言う事さ。意識がまともじゃなかったとはいえ、人間同士で同士討ちをした形跡は全く無い。……今回の事象が魔王の手勢によるものなら、そこに何か違和感を感じないかい?」
 目の前にいるソニアとミコトの二人に投げ掛けられたヒイロの問い掛け。受けたミコトはその言葉を深く幾度も咀嚼し、吟味した末に納得からコクリと頷く事となった。

 一般に人間の中に広がる魔物という存在は“人間世界を破滅に導く殺戮の徒”という形で広く認識されている。実際に魔物、魔族それらを統べる魔王が何の思惑の下に行動しているのかなど知る由も無いが、現実に彼の者の手勢による人類の淘汰の結果、齎された被害が尋常ではない事が否応無しに「魔物は人類の天敵」という結論に誘うのだ。
 つまり魔の眷属が動くものならば、必ず人間側に被害が出る。外の世界を知り、魔物と言う存在を知る者達にとってそれが暗黙の了解になるのは自然の成り行きと言うものだろう。

 その例に漏れず、この場に居るソニア、ミコト、ヒイロもそんな考えを持っていた。だからこそヒイロは、今回の事象がそれにそぐわないと疑問を露呈したのだ。
 ヒイロに促されて進めた思考の末。複雑を極めたように難しい顔をして小さく唸るミコトは、やがて諦めたように大きく溜息を一つ吐く。
「魔王の手の者だという確固たる証拠が無くて、かと言って人の手による現象ではない……下手人は判らずじまい、か。そもそも何でそんな一大事の時にあいつは――」
「お待たせしました」
 あいつ、という単語が示す人物に向けての疑問を色濃く双眸に載せていたミコトが言葉を続けようとすると、その意識を遮るようなタイミングで三人が囲んでいた扉が開いた。そしてゆっくりと、その奥から艶やかで真っ直ぐな黒髪の女性が現れ出てくる。
 それを見止めると、ミコトは今の今まで面に浮かべていた翳りを失い、ただ心配色に替えていた。
「朔夜! ……どうだった?」
 率先して言葉を放ち、サクヤを促すミコトに遅れる事僅か。ソニアもヒイロも無言のままサクヤを見つめ彼女の返答を待った。
 三者三様の重々しい視線を受けても微動だにしないサクヤは、コクリと頷く。
「はい。まず何よりも、ユリウス殿の命に別状はありません。そして病や怪我による状態異常の可能性もありませんでした。衰弱しきっているのはエーテルフォースの激しい消耗によるものでしょう。今は失われた力の回復の為に深い睡眠状態にあるようです。暫くはこのまま絶対安静が必要ですね」
 冷静に、朗読するように淡々と続けるサクヤ。誰もが表情を引き締めて聞き入る中、その落ち着いた様が決して軽くない事象である事を強く印象付けていた。

 実のところ、彼女らが立っているのはユリウスに割り当てられた個室の前だった。そしてサクヤが診ていたのは、他でもないユリウスの事だったのだ。
 夜になり、行方知れずだったユリウスは昏睡状態でアッサラームの街より少し南に位置する海辺で発見されていた。発見したのは何故かその場を訪れたヒイロだった――。




 雨に打たれながら、ヒイロは当ても無く街を囲む外壁を潜り出て、アッサラームの南にある浜辺に足を運んでいた。そこに赴いたのは特に目的意識を持っての事では無く、無意識的な衝動と言っても良いだろう。天頂を往く月の光を背に足先から前方に伸びる己の影に誘われるがまま、気が付いたらこの場所に辿り着いていたのだ。
 静謐に満たされた夜の海辺というものは、否応無しに不安という無形の影を心に落とす。恐らく幽々と漣が響く中、闇空の姿を海が満面に受け止めてありのままに映しているからなのだろう。その底知れない深さは、人間というちっぽけな存在など何事も無かったかのように呑み込んで、消し去ってしまう。
 ヒイロが浜辺に足を踏み入れた時、ふとそんな事を思った。そして思いのほか情緒的な感想を抱いてしまった自分の思考を怪訝に思うも、この夜の漣の音は否応無しにとある景色・・・・・を脳裡に像を結ぼうとしていた。だがその形成が完遂する事は無く、突如として鳴り響いた脳裡を劈く耳鳴りに無意識下で連結を始めていた記憶の断片が、再び掻き回されてバラバラになってしまった。
 思い出そうとするのを拒絶しているのだろうか……。空虚な自分の切実な望みとは裏腹に、そんなスッキリしない思いを抱いてしまい自戒に小さく頭を振ってそれまでの思考を頭の片隅に追い遣る。そしてヒイロは、砂を踏み締めながら眼前の状況認識を徹底する事にした。
 浜辺を照らす明りは月と星のそれだけ。深々と降り積もる光を受けて、波風に揺れる海面がジワジワと闇に侵食される光模様を反す。その中で違和感は直ぐに見つける事ができた。割と夜目が利く自分が捉えたのは、黒の中にあって真逆の色彩を放つ清楚な白。空の微かな明りを余さず受けて柔らかな色彩に換えている、純白の外套を羽織った人物の姿だった。
 何故こんな時間にこんな場所に、とヒイロは常識的な疑問を思う。その思惑が注視という形となって顕れたのか、白の女性を油断無く見据えていた。
 所々焼き切られ、鮮血と砂に塗れた白の外套の女性は力なく砂浜に座り込んでいた。こちらの足音に気付いて首だけを振り向かせてくる女性の顔には驚きが浮かんでいたが、自分も恐らく人の事は言えない表情をしているであろうから気にしない事にする。近付いて良く見ると、女性の傍らにはもう一人の姿が見止める事ができた。初めに見た位置からでは彼女の影に隠れていて気付かなかったのだろう。
 もしかしたら面倒な場に遭遇してしまったのか、と下世話な想像をしてしまったヒイロは内心で笑みを引き攣らすも、仰向けに伏した人物に視線を落とす。そして……驚愕した。
 座り込んだ彼女の膝に頭を乗せて浜辺に横たわっていた人物が、自分達の仲間であるユリウスであったからだ。ユリウスは双眸を伏せたまま、身動き一つせず地面に身体を預けていたのだ。周囲の気配に異常なまでに敏感なユリウスが誰かの前で、こんな無防備な姿を晒し続けているのだから驚くのも無理は無いだろう。
 僅かに混乱をきたそうになったヒイロは、より深く状況を見据える。
 見知らぬ女性に膝枕され、力なく横たわるユリウスの姿はただ単純に深い睡眠状態にあるようにも見えたが、それはこれまでの旅程で垣間見た彼に備わった習性を思う限り相応しくない。だがそれはあくまでも自身の価値観から下す感想なので、事実からは遠い。そう思い、ヒイロは一旦培った先入観を打ち払い眼を瞠って観察してみると、双眸を伏せたままのユリウスの様子は睡眠と言うよりは気絶状態に近い事に気が付いた。呼吸は散逸的で、その顔色は蒼白までいかなくとも良いとは決して言えない状態だ。また彼の衣服、外套のあちこちが切り裂かれ砂塵や血潮に汚れている。直接的な外傷は無さそうであったが、痛々しい様相だった。そして更に、ユリウスの傍らには鍔より先の刀身が喪失している剣の柄が、無造作に放られて微かに砂を被っていた。
 それらの諸事象がある一つの可能性をヒイロの脳裡に描き出す。それは即ち、この場で戦闘があったと言う事。
 周囲には白の女性以外誰一人として影も形も無い。だが自然の造詣としては余りに不自然に砂浜は大きく抉れ、岸壁は無残に崩れ落ちている。その場の惨状だけが推測をより確かな現実へと昇華させていた。
 眼を見開いたままの女性に視線を落とすと、周囲を睥睨する自分を見上げる不思議な暁色の眸には何かしらの感情が揺れている事に気が付いた。それが一体如何なる感情からなのか判らなかったが、罪悪にも似た後ろめたさを何故か感じて居心地が悪くなる。思わず逃れるようにヒイロは視線を引き剥がして周囲を彷徨わせるも、感傷に浸る事よりも現状認識を優先すべきだと改めて自分を叱咤して、この場で起きた事を問いただす為に再び女性に向き直った。
 だがその意志が貫かれる事は無かった。振り向いた矢先、確かに数瞬前までそこに居た筈の女性の姿が、まるで煙のように掻き消えていたからだ。
 呆気に取られたヒイロは慌てて周囲に視線を走らせるも、ここは開けた浜辺で潜む場所もその気配も無い。また足元に一面に犇く砂には立ち去った形跡も無く、昏々と意識を闇に手放しているユリウスの姿があるだけ。ただ先程までは確かに無かった蛍火のような淡い白光の粒が、横たわるユリウスを包み込むように漂い、離れるのを惜しんでいるのか優しくその頬を一撫でして、朝に向かう虚空に掻き消えていった。
 理解さえする暇も無い事象の変遷に絶句するヒイロを嘲笑う如く、絶えず耳朶を撫でる漣の音はうつつと幻の境を曖昧にさせるように緩やかに、穏やかに聞こえていた……。




――あの場で何があったのか。あの女性は何者であったのか。疑問は尽きる事はなく、明確な解も得られないまま。
 わからない事だらけで不意に焦燥に駆られたヒイロは、とにかくユリウスをこのままにしておく訳にはいかず、風雨を遮る為にもユリウスを連れ帰った。そして旅籠に辿り着いたヒイロは、ミコトに紹介されたサクヤが医術の心得があると聞き、ユリウスの容態の診察を頼んだのだった。

「そうなんだ……良かったよ、無事で」
 強張っていた身体から力が抜けた為か、大きく肩を落とすミコト。
 今まで散々ユリウスと反目しあっていた彼女ではあったが、やはりこうして信頼する者の口から、命に別状が無いと聞かされて安堵の嘆息が零れるのは、冷徹になりきれない彼女の気質なのだろう。
 そんな緩んだミコトの気勢を叱咤するように、サクヤは間髪入れずにピシリと鋭く言った。
「無事ではありませんよ、美命さま」
「えっ?」
 予想だにしなかった冷淡な言葉にミコトは思わず顔を上げる。眼を瞬かせるミコトの視線の先にあったのは、余りにも真摯なサクヤの顔。きつく閉じられた口元と、こちらの困惑の視線など歯牙にも欠けない揺るがぬ双眸。良く知るサクヤの毅然としたそれに、彼女の余裕の無さをミコトは見出した。
 自分の内心に気付いたようなミコトの表情を見止め、サクヤは続ける。
「世の摂理に従う限り、魂と魄の同時消耗など本来有り得ない事象なのです。これは魂と魄の同時収束ができないという魔法学の根源的定理で自明ですね。原因こそ解明されていませんがそれは理屈云々ではなく、現実が物語っているのですから。……故に今の勇者殿の容態は異常極まりないと言う他はありません」
 神妙に綴るサクヤを前に、ミコトは首筋に冷たいものが流れるのを感じていた。
「……そんなに、酷いのか?」
「はい。生命維持が可能なギリギリの線まで魂と魄の消耗が見られました。どちらかと言えば魂の消耗具合の方が深刻でしたので、部屋に気化させた“魔法の聖水”を散布して魂の吸収効率を高める処置を施しておきましたが……気休め程度でしょうね」
 他にも多少気になる事もありましたが…、とサクヤは言葉を濁したがそれは自らの口腔で発せられて潰えた為、周りに聞かれる事は無かった。
「……あいつ、この街に着いてからずっと体調を崩しているようだったからな。それも関係があるんだろうか?」
 緑灰の眸に焦燥を載せてミコトは思い出す。
 確かにユリウスはこの街に着いてから、体調の不良を表に出していたではないか。その時は気候の変遷や人々の熱気に中てられたのだとばかり思っていたが……。
 自問のように呟かれたミコトの言を耳にして、今まで沈黙を守っていたソニアも同じような思索の結末に至ったのか、小さく息を呑んだ。
 打ちのめされている彼女らとは逆に、その事実を知らないサクヤは沈黙を守っていた。感情に左右され易い思惟のみによる模索は、在るがままの現実よりも自らの裡に培われた常識の方に濃く染まりそうな気がして相応しくないと判断した為だった。
 サクヤに近く、より感情に囚われない冷静さに徹した怜悧な思索を平素で行うヒイロは、容態を聴いた時に終結させた思考の下に誰もが安易に受け止められる結論を口にした。
「……何があったにせよ、すべてはユリウスだけが知っているという事だね」
 旅籠に戻ったヒイロは彼女らにユリウスを発見した時の状況は説明していたが、あの白の女性の事は伏せたままだった。不明瞭な事を不明瞭のままに口にして、周囲に要らぬ混乱を招かないようにと思ったからだ。
「確かに、あいつから聞き出せれば良いけど……いや、それが現実的に一番難しいのかもしれないな」
 両腕を組んで呟くのはミコト。彼女は自らの言葉を否定しながら上を仰いだ。
 その苦渋を宿した緑灰の眸には高く連なる壮麗な建築様式の天井が映り、それがどうしようもないまでの隔たりを感じさせる。どれだけ手を差し伸ばそうとしても決して届く事は無い。そんな事を言葉無く宣告されている気がしてならなかった。

 様々な感情の差異はあれど、この場にいた誰もがユリウスの状態について心を砕いていた。その事実を正面から見つめ、苦々しい色を貼り付けている彼女らを、ソニアはどこか遠くから眺めるように見つめた。その紅の双眸の奥には、素直に話の環に入る事の出来ない自分の蕩揺う心の迷いが、何時までも消えずに疼く傷みを伴いながら潜み、苛んでいた。






 地表よりも遥かな高きに在って、大空の蒼さからは果てしなく遠い地にて。
 閉ざされた大空洞の中心に純然な闇を出だし続ける湖が泰然とある。それは有機的なまでに粘度の高い濃密さをもって実体を得、渦を成していた。その光の粒子一粒一粒さえ余さず取り込んでしまう闇渦からは、世界に影を落として存在する生命の鼓動をまるで感じる事はできない。その禍々しい姿は神話や逸話に謳われる深淵の名に相応しい神聖な領域、“世界の果て”だった。
 瞬間移動魔法ルーラでいとも簡単に人身未踏の闇渦を一望できる湖畔に降り立ったアークマージは、身体を覆っていた青白い光を周囲に漂う深い闇に貪らせ、纏った闇の法衣をヒラリと大きく翻す。
 闇に満たされた空洞にも変わらずにある確かな地面の感触を踏み締めている彼女の背に、闇の先から穏やかな口調で声が掛けられた。
「無事の帰還を歓迎いたします、“アークマージ”様」
 言い切った後、翡翠の青年が深闇の奥から姿を現し、恭しく頭を垂れる。それにアークマージはコクリと頷いた。
「ありがとうございます。……ところで、あの城で何か動きがありましたか? マナがざわめいているのを感じます」
 深い闇、それも遙か地中の大空洞からではそれを直視する事はできない。だがそれでもアークマージの眼は実際にそれを捉えているのか、正確な方位を見上げていた。それに翡翠の青年はコクリと頷く。
「智魔将卿と獣魔将卿が何かを画策しているようで。大局を鑑みれば恐らくイシス侵攻についてでしょうが……探りを入れますか?」
 容易な事ですので、と続かんばかりに翡翠の青年は気負い無く言う。その暢達な様にアークマージは頭を振ってそれを制した。
「いいえ、それには及びません。彼らには彼らの思惑があります。私共がそれに干渉するのは好ましくありません。捨て置きなさい」
「わかりました」
 決然と言い切られて青年は返す言葉も無く、頷くしかない。だがそこに不服の色は見られなかった。純粋にアークマージに従う意向を示していたのだ。
 真っ直ぐにアークマージを見つめていると、当のアークマージは何処か諦念染みた嘆息を零した。
「それよりも……また“破壊の剣”に同調していたのですね。このところ頻度が高いですよ。貴方を信じない訳ではありませんが焦ってはなりません。……でなければ呑み込まれてしまいますよ」
「! いえっ……ですが、ぼくには――」
 ここで初めて青年は、上役であるアークマージに反駁する。不満そうな表情の中の、髪色と同じ真摯な翡翠の煌きを受け止めて、アークマージは丁寧に言葉を遮った。
「“破壊の剣”は我々が持つ“昂魔の魂印マナスティス”の中でも最上の部類に位置しています。その秘めたる力の大きさは、貴方も常々実感しているでしょう? 急造された剱は、何処かに必ず歪を孕んでしまいます。貴方が貴方の意志をより確かに貫く剛毅で誠直な剱になりたいのであれば、心身に余裕を持つ事を欠いてはいけません」
 それが貴方の為でもあるのですから、と優しい声調でアークマージは続けた。
「……お心遣い、痛み入ります」
 頭を垂れ、恭しく翡翠の青年は礼をとる。微かに声がくぐもっていたのは、周囲に犇く重々しい闇の所為だけでは決してなかった。

「…………アトラハシス」
 闇と同化するように沈黙に支配されていた空間に、柔らかな声が届く。
 唐突なそれに、頭を垂れたままの翡翠の青年…アトラハシスは弾かれたように顔を上げた。
「はい?」
「どうやら貴方の宿命と、私の宿命はより深い領域で交錯しているようですね」
 母が子をあやす様な穏やかさで、アークマージは言った。
 意味深な言葉を掛けられたアトラハシスはきょとんと眼を瞬かせ、不思議そうに首を傾げる。理解を試みようとしているが中々に捗らない様子は、見た目相応の柔和さが醸し出されていた。そんな思索に手こずっているアトラハシスを横目に微笑んだ後、アークマージは闇に閉ざされた空間の中で、遠い遥かな天を見上げた。
 恐らく、今ならば空は鮮やかな暁に染められている時刻であろう事を思いながら。その鮮やかな色彩を眸に持つ少女を想いながら、“アークマージ”…セリカシェルは呟いた。
「この数奇な巡り合わせが吉と出るか凶と出るか……すべては大いなるマナの流れの往くままに」




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