――――第四章
      第十話 胡蝶の夢







 闇天に散り散りになっていた雷雲の残滓が音も無く急速に虚空の一点に集まり、そこに青白い円と複雑な幾何学紋様が描かれ始める。その紋は完成と同時に雷雲の中に染み込んでは淡く仄かに点滅する輝きとなる。生物のそれのように有機的に繰り返される静かな鼓動は、集められた雷雲の陰影を濃く、深くしていた。
寥落りょうらくの天柩に誘う蒼き葬列の稲妻。無謬むびゅう染まりし空を射貫き、虚栄渦巻く地を穿つ。斬り裂け、天威の剱よ!」
 高らかと掲げられた剣に従い、雷雲は歓喜に昂揚を見せた。青白い光紋が再び表面に浮かび上がっては明暗を激しくし、まるで獰猛な獣が獲物を威嚇するように重低音を奏でて空に染み渡っていた。
 夜空を侵食していた雲は、次に放たれるであろう言葉を切に待ち続ける。その裡に秘められた深々とした無垢なる破壊の光が、人知れず胎動に揺れ動いた。



「ライデイン!」



 ユリウスが決然と放った力ある一言。
 それに応えた闇の曇天に描かれた紋は、その裡に蓄えた圧倒的な量の光輝を刹那の間に解き放つ。
 自由を得た光輝は次の瞬間に産声を上げた。それは竜の咆哮を以って夜闇を裂帛し、全てを蒼茫に染める剣竜として静寂しじまの空に雄偉と破滅の翼を広げたのだ。
 清冽に荒ぶる蒼き竜はユリウスが振り下ろした剣の軌跡に沿って羽ばたき、雷速で世界を満たしていた黒をことごとく喰らい尽くしながら夜闇を蹂躙し、地上に激突する。

 轟音。そして、静寂。

 強かに打ち据えられた大地は大きく鳴動し、一面に犇く砂と海は震撼していた。
 周囲は盛大に舞い上げられた砂塵と、落着点より燃え上がる朱紅の炎に彩られ佇む者の視覚と聴覚を容赦無く灼いた。夜のしっとりとした空気と鼓膜を激しく揺らすその大音に、離れた場所で起き上がっていたルティアは思わず眼を細めて両耳を塞ぐ。それでも身体全てを通してビリビリと伝わってくる衝撃音に狭められた両の暁眼には、闇夜の中では漆黒に映える濃紺の外套を激しくはためかせているユリウスの後姿。彼から溢れでている黒光の狼煙は、吹き抜けていく爆風にも流れる事無く、ただ虚空に昇り解け消えている。だらりと力無く下げた刀身には、雷の残滓なのかバチバチという破裂音と烈光の筋が刹那に取り巻いていた。




(……やったか?)
 油断無く雷が穿った地を見据えていたユリウスは自問する。
 今放ったのは、今の自分に許された最強の魔法。純粋な破壊と殺戮の為に洗練した至高の剱。
 この魔法を初めて放った時は碌な制御もできず、ただ決壊した堤防から溢れる水の如く漏れ出しただけ。だがそれだけでも“あの時”……アリアハン王都襲撃事件で賢者セフィーナが削り遺した魔物の八割強を焼き滅した。
 あれから時は流れ、鍛錬と研究の手間を惜しんだ事は無い。
 今のは“あの時”とは違い完璧に制御され、ただ狙いと力の方向を一点に凝縮したもの。自分にとって紛れも無く最大にして最後の切り札。
アークマージは完全な魔族。恐らくは一撃必殺にはならない……。だがそれでも、何かしらの痛手を蒙っている筈だ。そこから殺す術の算段を築き上げれば良い)
 積み上げられる意志に柄を握る手に力が篭り、ギシリと剣が軋む。それは無意識の事なのか、雷光が捉えた先を険しい面持ちで固唾を呑んでユリウスはめつけていた。
 噴煙のように地上から押し寄せ昇る砂塵の中に影が薄っすらと浮かび上がり、そして動いた。
「種の柵さえをも越えて負陰と正陽の因果を断ち切る、雷霆らいていの剱…………そうでしたね。貴方にはそれ・・があった。それで嘗て、魔女の削り残した無粋な獣共を焼き払ったのでしたね」
 言い切ると、突如として影を中心に突風が放射状に圧し広がった。それは立ち昇っていた砂塵の噴煙も、空気を貪っていた炎も、そして周囲を支配していた沈黙と緊迫すらをも押し流し、先程と何一つ変わらない夜に戻る。
「な、ん…だと!?」
 優麗にローブを靡かせて現れたアークマージの姿に愕然とし、瞠目するユリウス。魔法の発現後に起こるであろう事象がどのようなものであるかを理解しているが故の驚きだった。
 アークマージの姿に変化は、何も無かった。耳障りな破裂音を立てて煌々と燃えていた雷炎の中から現れたのにも拘らず、外套はその端すらも燃えてはいない。手傷をまるで受けおらずゆっくりと砂浜を歩む様から、何か条理を越えた力が働いたという事だけが鮮明に脳裡に浮かんでいた。
 眼前の現実を前にして驚嘆に表情を強張らせているユリウスを嘲笑う如く、アークマージは尊大にローブを翻した。
「残念ですがその程度の魔法、私には通じません。ですがまあ……確かに一瞬だけ私も肝を冷やしました。この失伝呪文ロストスペル対魔障壁魔法マジックシールドを使わなければ、細緻なれど痛手は被っていたでしょうからね。この私にそれを使わせた……その事実は誇るべき事象です」
 アークマージが言うと、刹那。その周囲を覆うように光のヴェールが包み込んでいるように輝いて見えた。
「そんな……馬鹿なっ!」
 見た事も聞いた事の無い新たな魔法の存在よりも、己が繰り出せる最大最強にして絶対の信を置いている殺戮の術が相手に何の影響も齎さなかった事に、ユリウスはただ唖然としていた。だが、その狼狽は刹那。理解不能な事象に硬直していたユリウスは即座に天を見上げる。夜空には自らが召致した雷雲が、まるで何かを待っているかのように未だそこに浮かび在り続けていた。
(雷雲はまだある……ならば初発と違い、召雲からの無駄な魔力を浪費する事は無い!)
 そう思い至り、ユリウスは憎悪を絶やさない決然とした眼差しで、大きく剣をアークマージに向けて鋭く一閃した。
「ライデインッ!」
 叫呼すると曇天が唸り、空気を引き裂く雷鳴が闇夜に轟く。眩いばかりの烈しい雷光が地上に向けて解き放たれ、切先に捉えていた者を狙い違わず吸い込まれ打ち据える。
 だが結果は……無情だった。
 雷の切先が着弾する瞬間。アークマージを包んでいた光のヴェールが一層強く煌き、直下する雷剣の尖突を四散させた。そしてそれは、後から続く奔流の向かう矛先を傍らの地面にへと逸らしてしまったのだ。
 光の瀑布の只中に在るアークマージは微動だにせず、沈黙を守っている。
 やがて光の洪水が収まり、空気と大地が震撼するのをその場にいた誰もが肌で感じた。一面に犇いている砂と空気の一粒一粒が打ち震える様は、中心に優雅に立つ存在に畏れから平伏しているようでさえある。
 その事をさも当然の結末だと言わんばかりに、堂々泰然とアークマージはユリウスに下した。
「何度やっても同じ事です。貴方の魔法は私には届きません。……絶対に、ね」
 遥か天の彼方から地に犇き立つ者に向けられた傲慢で高圧的な口調。だが彼女が口にする言にはそれを否応無しに認めざるを得ない重さ、そして力の隔たりがあった。
「ま、魔法が駄目ならば剣で――っ!?」
「無駄だと言ったでしょう」
 完全に効の奏しない戦術を切り替えるべくユリウスが即座に剣を構え直し、踏み出そうと足に力を篭めた瞬間。それ以上の速さを以って何かが飛来し、視界を覆った。現状を理解する暇なくユリウスが足掻いていると、暗闇の先から柔らかな温もりと氷冷の声が届き、余韻が消え入らぬままに全身を圧倒、後方へ弾き飛ばされるような感覚に襲われる。その瞬く後に、背中に強烈な衝撃を受けて意識が一瞬だけ白んだ。
「か……、はっ!」
 空気を肺腑から全て吐き出した後、突如として束縛から解放され視界が開ける。そしてユリウスは自分の身に何が起きたのかを理解する事になった。
 魔法発現の為に振り抜いたままであった剣を引き戻そうとした刹那。常識を遥かに逸脱した速さでアークマージが間合いを詰め、その掌でユリウスの顔を鷲掴みにしたまま砂浜を引き摺り、砂の抵抗にその勢いを殺がれる事無く初速のまま後方に泰然と構えていた岩棚にユリウスを力いっぱい叩きつけたのだった。
 当のアークマージは一連の動作を何の労苦も無く完遂し、見上げている自分を闇を湛えたフードの奥から何の感慨も無く睥睨していた。その裡に揺れ動くものなど微塵も無く観察する様は、足元に犇く石ころや雑草を改めて認識するように、特に注意する必要の無い取るに足らない物事を見下ろしていたに過ぎないのだろう。それだけの遥かな距離を越えて視線が落とされていた。
 やがてこれ以上の興味が失せたのか、背を岩壁に凭れさせたまま地面に崩れ落ちたユリウスから視線を外して、アークマージは軽やかに後方に跳躍する。そして、着地点の傍にて、未だ蹲った体勢のまま推移を見守っていたルティアに向かっていった。
「く……そ、何故? どうして…俺の剱は届か、ない」
 自問なのか他問なのか、ユリウスの苦渋に満ちた呻き声が聞こえた。それにアークマージはピタリと歩む足を止め、ユリウスを見向きもしない体勢のまま、背中で答えた。
「貴方の魔法も技も……貴方の持ち得る剱の何一つとして私に決して届く事はないでしょう。何故ならそれが分相応というものだからです」
 淡々と紡がれた言葉に、荒ぶっていた精神を逆撫でされたユリウスは激昂し顔を歪める。そして重く感じる腕を振り上げて唱えた。
「侮るなと言っているっ! べギラマ!!」
 間髪入れずに放たれた灼熱の熱線を、アークマージは視認すらせずに首を横に傾げるという単純な動作だけでかわす。そして振り向き、尚も否定を言葉無く叫んでいたユリウスを見止めて心底疲れたように溜息を吐いた。
「これだから聞き分けの無い子供は嫌いです。全く……先程までの冷静な貴方は何処に行ってしまったのですか、アリアハンの『勇者』殿。その裡で荒れ狂う激情によって思考が遮られてしまっているのですか? 貴方の父君、オルテガ殿ならばその激情も御し得るのでしょうに……」
 ユリウスの双眸に宿っていた剣呑な光が強さを増した。
「黙れ黙れっ! そんな……そんな顔も知らないどうでもいい他人の事など、俺には関係無いっ!!」
 子供染みた情動のままに放たれる叫びは擾乱する裡の顕れなのか、彼から尚も溢れ出ている漆黒の霊光はそれに呼応し、荒ぶる小さな黒の雷鳴となって空気を劈いては夜空に溶ける。
 触れれば斬られてしまわんばかりの殺気を、憎悪と共に膨張させているユリウスを前にしても、アークマージは何一つ調子を変える事は無い。ただ、大人が駄々を捏ねる子供を見る冷静な眼差しで淡々と見下ろしているだけだった。
「親の心、子知らず……報われませんね彼の者も」
「五月蝿いっ! イオラッ!」
 忌々しそうに吐き捨てながら剣を無造作に地面に突き立て、ユリウスは両手を振りかざして爆裂魔法を唱える。急激に掌に集まった魔力エーテルは、幾つもの輝ける光の魔弾として速やかにアークマージに向けて発射された。
 空気を捲き込みながら中空を滑走する光輝は、それに触れるものを粉々に砕く程に純然な暴力。そんな迫り来る光の雨霰あめあられにアークマージはゆるりと正対しては拳を握り締める。その瞬間、両の五指に嵌められた指輪が妖しく煌いた。
 アークマージは真っ先に迫り来た光輝の一つを裏拳で後方に弾き、続くそれを手刀で地面に叩き落す。そして同軸線上に来る連弾に対して、腰を深く沈め裂帛の正拳突きを繰り出してそのままに弾き返した。
 軌跡を大きく逸らされ四方八方に散華した光は、砂浜に触れては大地を大きく揺るがし、海面に触れては盛大に海水を巻き上げ、岩壁に触れてはそれを崩した。
「っ!?」
 激しく舞い上がった砂埃、水飛沫は雨のように強かに世界を打ち据える。その間に流れるはただ自然の移り往く音だけ。だからこそ厭に大きくアークマージの声は響き渡った。
「そしてそれは、何とも切ない響きだとは思いませんか? ルティア……」
「…………セ、リカ」
 両手を地に着いて身体を支えていたルティアは俯き、ギュッと砂を握り締めていた。裡にどんな情思が渦巻いているのかは窺い知れなかったが、微かに肩を震わせているその姿はただ悲嘆に暮れているように、見る者をそう思わせる複雑な様相だった。
 静かに打ち震えるルティアを横目に捉えていたアークマージは、眼を見開いたまま微動だにしないユリウスに視線を動かす。
「しかし、貴方は不思議な存在ですね。番とはいえ覚醒したばかり。ましてやただの人間種の…今のように情思に千々と乱れきった貴方が何故斯様なまでに容易く魔力エーテル闘気フォースを収束する事ができるのですか? ……いえ、相反する霊素と元素の同時収束は、貴方達の特質を鑑みれば自明ですが、その収束速度は異常の一言に尽きます」
 思惟を深めるアークマージの声にユリウスはビクリと身体を大きく戦慄かせる。
「いかに貴方がとして人間離れした素質を持っていたとしても、所詮は人間の器…それを超越するマナの収束など不可能。一体如何なる要素がそれを可能に…………」
 アークマージの闇の中で煌く黄金の双眸が一瞬だけ妖しく金赤に染まる。そして視た。
 視野には赤の燐光が縦横無尽に流れていた。その光の軌跡は彗星の尾の様に薄っすらと静かに虚空に満ち広がり、同時に地にも潜んでいる。あらゆる物理的な障害などものともしないで、大空を行く風に同じく気ままに流れ往く様が、その流れの雄大さを感じさせて止まない。無数にある小さな流星の一つ一つが大きな一を構成する為の流れ。砂にも水にも、空気にも光にも。そして命の裡にもその赤は往々の流れを作り渦を捲いては巡っていた。
 ユリウスという存在を構成する赤の流れは、巨視的に五体を模っていた。だがそれは人間種という存在にとって極めて普遍的な事で、気に止める事ですらない。アークマージの“眼”を惹き付けて止まなかったのは、その流れの在り方だった。

 世界に存在する生物総図の中で、マナへの親和性が比較的疎い位置に在る人間種は、流れが身体の裡で様々な方向へ擾乱している。それは幾重にも積まれ組まれた複雑な歯車細工のような物で、各々が往々の方向へ回転している事に酷似する。当然、それは協調しより大きく強固な流れを作るものあれば、反発しあい磨耗と破綻に陥るものもある。それら正反全てを包括した上で、総体として生命を形作り、生物が生物として存在する事になるのだ。
 つまり存在を構成する流れの整然性こそがマナへの親和性を、ひいては種族という垣根を築く根本的概念となる。
 また身体的能力、外見的特徴の差異があらゆる生物にあるように、存在を構成する流れにも必然的に差異は存在する。流れの方位、量、その他のあらゆる要素が他と完全一致し、同一となる事は無い。結局、魔力或いは闘気に対して敏い疎いという個体差の存在もまた、その流れの性質によるものなのだ。

 人間種の、存在裡の流れは大小様々に輻輳し混雑したもの。その流れが先天的な特質で均されている者あらば、自らの持てる意志の力で慣らす者もある。だがそれらにも極限があり、それは決して拭えない種の柵。人間種という存在にとっての限界である。
 だがユリウスのそれは、五体の中心に近い左胸…心臓のある位置に急束され、またそこから全身に向けて広がり駆け巡るという極めて整然とした流れだった。それはあたかも心臓に流れる血液の如く一点から全身に、全身から一点にへと循環し、永劫不変の連鎖を築き上げていた。
とはいえ、ありえない事象…………これは)
 アークマージは更に“眼”を凝らして魂魄の深奥すらをも見透かすように、ユリウスを捉えた。
 すると流れの転換点である左胸には、その境界を築くように薄っすらと紅い線が描く紋様が浮かんでいるのが見えた。それは流れの根源たる燐光よりも尚紅く輝き、色相に反して怖気が走る程に冷やかな紋章。
 真紅のそれを目の当たりにしたアークマージはフードの奥底で大きく眼を見開き、そして哄笑した。
「その紋は、神約烙印テスタメント! ……そうか、そういう事でしたか!!」
「神約烙印!? そんなっ……」
 不可解なものへの明確な解が判明して、思わずアークマージは感嘆を零す。逆にアークマージの言を聞いていたルティアは息を呑み、胸の内で湧き上がった悲愴に眼窩から眼球が零れ落ちんばかりに目を見開いてユリウスを見つめていた。
 正陰負陽の二様に揺れる視線を全身に受けながら、ユリウスはひどく緩慢な動きで顔を上げた。そこに表情は全く無い。だが異様なまでにその眸が刃の輝きを灯していた。
「貴方は既に、神を驕ったあの愚者の手勢に冒されていたという事ですね。本当に“奴ら”は、個の意志を潰えさせる。……アリアハンの『勇者』殿。私は貴方に心底同情しますよ。見も知らぬ数多の人間達に『アリアハンの勇者』などと言う妄執の偶像を演じさせられ、更には神を驕ったあの愚者共に、滑稽な道化を義務付けられているのですから……」
 慈しみなのか憐れみなのか。穏やかな声調で綴られる言葉は、黒の光を纏い静かに佇んでいたユリウスに投げ掛けられる。それを感じてなのか苛立ちに叫ぶユリウスは、だが地面に膝を着いたまま。ただ射殺す憎悪の視線でアークマージを貫き、吼える。
「だまれ……黙れ黙れっ! そんな事、知った……事かっ!」
 怒号と共に心身の奥底から力が込み上げて来る。その内から外への流れに任せて、漸くユリウスは剣を支えに立ち上がった。だがそのぎこちない動きからは、今までに蒙ったダメージの大きさが尚も彼を苛んでいる事を推して知る事ができる。
 アークマージはそんなユリウスを見下ろしながら、口早に継いだ。
「確かに貴方はその若さにしては強い。強すぎる。ですが……それだけです。何故なら貴方には根源的なものが欠如しているからです。それの無い上辺だけの伽藍堂な強さなど、とても脆く儚い……。貴方の覚醒は想定外でしたが、それ以上に力への意志・・・・・……それが導く意識無き力など微々たる物。心無き言葉が他者の心奥に届かぬのと同義であるように、その程度の力、私の肉体はおろか魂魄にすら届く筈もありません。そう考えるのならば無聊ではありますが、ルティアの方が貴方よりも遥かに強いと言えますね」
 言われてユリウスは地に腰を落としたままのルティアを捉える。そして、アークマージに返した。
「力への……、意志?」
「そうです。力への意志、それは――」
 一旦アークマージは言葉を止める。その瞬間、フッと彼女の姿が眼前に広がる夜の世界から消え去った。
 右を見ても左を見てもその姿は無い。ユリウスは油断無く眼を細め、よろめきながら数歩前に歩んで周囲の気配を捜索していた。
 徐々に高まる緊張と息苦しさに、ユリウスは刹那の吐息を漏らそうとした時。視界の端でこちらを見つめていたルティアが何かに気付いたかのように表情を変えた。だがルティアが声を発するよりも速く、ユリウスがそれに気付くよりも速くスラリと背後から己の首に両腕を回される。
 淡い陽炎の抱擁は淑やかに佇まいを崩す事は無く。そして夜のしとねを侵さぬように静かに耳元で発せられた。
「――です」
「っ!」
 囁かれた言の葉が脳裡で意味を形成すと、ユリウスの視界が一気に狭窄した。
 絞られた眸が捉えるのは闇に満たされた虚空。後ろから冷やかな月光に貫かれ圧されていた雷雲は、喘ぎ苦しむようにその姿を薄めさせている。その幽鬼染みた様子が、吹き飛びそうになる自分の理性に見えて仕方が無かった。
 その自覚を持った瞬間。ユリウスから立ち昇る黒光の狼煙は精神の昂揚に合わせて、暴虐な稲光にへと変容する。感情の昂ぶりと共にその稲光は凄烈に空気を打ち据えた。
偽り・・に染められているとはいえ、番の黒剣である貴方ならばあの醜い火蜥蜴・・・程度は屠る事は可能でしょう。ですが、あの方…私の『魔王』さまには決して届かない」
 黒の雷鳴を気にも留めずに、ユリウスを拘束したままアークマージは綴る。その一言一言が聴覚を越えて、脳裡に直接文字を刻まれているような傷みをユリウスに与えていた。
「貴方の力など所詮はまやかし。偽りに慣らされた力では、真なる意志の元に築き上げられた力には遠く及ぶ筈もありません。アリアハンの『勇者』殿。貴方は脆弱です……数多に生きる世界の生命達、その誰よりも」
「い、好いように……言うなっ!!」
 怒号と共に身体を捻り、ユリウスは真一文字に一閃する。だがそこには既にアークマージの姿は無い。
 鋭く目線を夜空に走らせながらアークマージを追い、ユリウスは虚空に剣を両手で突き出し、持てる力の全てで強く踏み出した。
「天裂きて堕する雷霆よ。鳴き轟きて力の刃とならん! ライデインッ!!」
 消え始めていた雷雲の断末魔が夜空に轟いた。それは今までに無い強さの輝ける光芒となってユリウスが掲げた剣に吸い込まれ、刀身は鮮白色に煌く。その白に引き寄せられた黒い雷光もまた刀身に吸い寄せられるも、忌み嫌うように互いを貪り合い、喰らい合いながら終には結び合った。重低音の鳴動が奏でる雷撃と火花は夜を無残に劈いて、ただそこだけが昼間のような明りに満たされた。
「それは……魂魄マナの剣! 素晴らしい、既にそれさえも従えますか。…………ですが――」
 苛烈な光を迸らせる切先を凝視してアークマージは佇んでいた。その声色は眼前の現象に対して素直に称賛するものであったが、直ぐに冷然としたものに変わる。そして、まるでこれから起こるであろう先の事象を見透かしたように、アークマージは言葉を紡ごうとした。
 が、その時。アークマージと同時に、彼女の咽喉で形成されつつあった言葉と移り往く事象を阻むように、立ち上がったルティアが乾ききった悲鳴染みた声色で叫んだ。
「駄目よ、ユリウス……それを使ったら、あなたがっ!」
 声がユリウスに届いた途端。黒と白がごちゃ混ぜになったおどろおどろしい光の刀身が一際烈しく煌いたかと思うと、柄諸共に凄絶に爆散した。強引に裡に抑え込んでいた異質同士の磨耗が叛乱したのか、光を燈したままの無数の刃片がユリウスに襲い掛かり、その四肢を容赦無く切り裂いていく。
「うあああぁぁぁっ!」
「ユリウスっ!」
 苦痛から言葉にならない絶叫を上げて後ろに倒れそうになったユリウスを、ルティアは余力を燃やして駆け出し、背後に回り込んで受け止める。だがユリウスを支えるだけの力までは残っていなかったのか、丁度ユリウスを抱き止めるような形でルティアはユリウス共々その場に崩れ落ちてしまった。
「うっ…ぐ、あぁ……」
 仰向けに倒れ、苦悶を全面に浮かべたユリウスは掻き毟る様に心臓を押さえて喘ぐ。その四肢は痙攣しているかのように小刻みに震え、露出された肌からは脂汗が止め処なく滲み出ている。総身を打ち震えさせながらユリウスは一つ大きく咳き込んだ。すると塞き止めていたものが決壊したかのように、夥しい量の血液を砂地に撒き散らしては紅蓮に染めた。
 風に舞い散る緋色の血潮と夜闇を蹂躙していた雷光の残影だけが空々しく、そして鮮烈に砂浜を彩っていた。劈く闇と光の帳の下に伏した二人を見つめ、超然とした眼差しでアークマージは言い放つ。
「諸刃の剣は、結局は自らを切り刻む兇刃。それを御する力への意志なき貴方は錆び付いた銀の刃。そのように滑稽な道化を演じる魯鈍な貴方が『魔王』さまの反存在であるなど……『魔王』さまの品性さえ疑われかねません。無様に朽ち逝く、前に……―――」
 夜闇に静かにだが確かに広がっていたアークマージの声。それが途端に遠くなり、無音の世界に堕ちたような錯覚にユリウスは襲われていた。
 ルティアに首から上を抱きかかえられた体勢のまま、最早その感触すら何も感じなくなったユリウスはゆっくりと視線を下ろす。そこにはズタズタに切り裂かれた自らの掌がある。感覚が薄れつつあるも微かに動かすと熱く激しい痛みが神経を焼き、緋色に塗り替えられたそこには剣も無く、ただ虚しく空気を握るだけ。
(これでも……駄目、なのか)
 重くなり閉じ往く視界。薄れ往く意識でユリウスは思った。



 召雷魔法ライデインの魔法剣だけは、過去に幾度も試したが成功したためしは無かった。魔法を御する為の魔法構築と魔力、そのイメージは完璧に出来ている筈だった。ならば考えられる問題は剣そのものにあるのだろう。魔法自体の力が強すぎる為に、生半可な物では魔法剣の基となる刀身の方が耐えられない。
 そう思い至り、即座にそれを揉み消した。
(ち、がう……)
 剣の役不足も否定できないが、それ以前にもっと直接的な原因は自分の裡にあった。自分にとって余計な…考えるだけで忌々しさに何もかもを切り刻みたくなる余物の所為で自分を見失い、そして挙句の果てには魔法剣の制御が崩れて己自身を切り刻む結果になってしまった。愚かだ。この上なく滑稽だ。
(力が、足りない……。もっと、もっと力が……)
 余物の乱れによってこれまでに磨き上げてきた全ての歯車が狂う。たった一つの翳りが全てを破綻させた…つまり今の自分の限界だ。それを知ったが故に生まれる、更なる力への渇望を蕩揺いし懐裡に感じながら、意識は深い闇の底に崩れながら沈む。抵抗を止めたのを見計らって手足に絡み付いてくる闇は重く、鎖の如きに全身を雁字搦めにして底へ底へと強く身体を引き摺り込んでいく。
(何が力への・・・意志・・……だ。そ、んなもの…要らない。俺はただの……剱に、過ぎない)
 いつしか五感が喪失し、意識だけが未だ闇の海にプカプカと浮いているような覚束ない感覚だけが支配していた。周りには何の存在も無く、自分がただ無為に在り続けるだけ。そこには光どころか先程確かに垣間見た筈の、刹那の稲妻を形にしたような清冽で剛毅な輝きを灯した剣も今は見当たらない。
 完全な虚無だった。光も、音も。何一つ他をざわめかせるもののない、秩序の極みたるあらゆる存在の無い純粋な闇の園。決して光の届かない暗中の庵。死という安らぎに限りなく近くて、絶対的に違う静謐な場所。
 そんな場所に放り出された自分は、世界から取り残されたように思えてならない。確かに在った光を唐突に奪われたあの時と同じ、ただ崩れ去るのを待つだけの終わり。
 嫌悪すべき下らない余物が不本意にまたざわめいた。それを淘汰する為に、裡に打ち込んだ楔をより深くに穿たせる為に呟いた。
(己を、棄てろ。棄て去れ。……俺はただの……剱の、聖隷)



 何かが悲鳴を挙げるのを確かに実感して、ユリウスは意識を手放した。




 ぐったりと意識を閉ざしたユリウス。だがそれでも彼から溢れる黒の霊光は衰えを見せず、滔々と泉水の如く溢れ出し続けている。
 その様を抱き締めた格好のまま間近に見つめるルティアは眉を寄せた。
「共振崩壊が始っている。……このままでは」
 黒の流出を抑え込むようにルティアは一層強くユリウスを抱き締める。霊光は一瞬だけ揺らぎ、躊躇い、その勢いを収めたように見えた。が、数瞬もしない内にまた滾々と立ち昇る狼煙となってしまった。その様子にルティアは焦燥を面に浮かべたまま、小さく下唇を噛み締める。
「止まらない……ユリウスっ!」
「何を焦っているのです? ルティア…それ・・は他でもない、貴女の所為ではありませんか」
 淡々と言ったアークマージの声色は怖気が走るくらいに冷たく、鋭かった。
 それにルティアは弾かれたように顔を上げる。
「え?」
「貴女はとして彼の覚醒を狙って接触を果たした。ですが時局を見誤りましたね。彼は完全なにはなり得ない。なぜなら、既に彼はあの忌むべき愚者・・・・・・に呪われているからです」
 下された言葉に、ルティアは顔を強張らせる。それは言葉が指し示す者に対しての嫌悪の顕れだ。
「彼の為を思っての行動が裏目に出ましたね。やはり貴女は浅はかです。こうなってしまっては、彼は自らの裡にある全てのマナを吐き出すでしょう。それが神約烙印の効力……そして人間種である彼が最後に至るのは自己崩壊、それは必然の死です」
 黙して俯いたルティアを捉えたままアークマージは暢達に続けた。
「しかし、誰がそんな忌まわしきものを彼に刻んだのか興味は尽きませんね。今の時勢、あれを刻み込める存在は非常に稀です。せいぜいその秘儀を今に伝えるルビス正教の大僧正クレスディアラか、忌まわしき五聖導師共……。此方への往来が可能であると考えるならば恐らく“賢者の石ティンクトゥラ”の一欠片の仕業なのでしょうが……可能性として“赤碌ルベド”は有り得ませんし、“白翠アルベド”は数十年前から行方不明。“黄碧キトリニタス”に至ってはあの愚者・・・・と共に永劫の時獄に封印済み。となると必然的に“黒曜ニグレド”と“青晶ウィリディタス”の何れかが…………なるほど、アレフガルドを侵す五紋の光も地に堕したものです」
 口元に手を当ててアークマージは思案を広げている。それを耳にしながらルティアは何も言い返す事できず、ただユリウスを抱き留めたまま。眠るように眼を伏せたユリウスから発せられる黒光だけが、その場で蕩揺っていた。
「ルティア、そしてアリアハンの『勇者』殿。これまで、そしてこれからも運命と因果に翻弄され続ける貴女達にせめてもの慈悲を与えましょう。貴女達の魂魄を縛し続けている軛から解き放ち、迷い彷徨わぬように獄焔を天導への篝火として死という安寧の庵に赴きなさい。苦痛すらをも感じぬ慶びのうちに、星塵に帰るがいいでしょう!」
 高らかとアークマージが言うと、その身体はゆっくりと宙に浮かび始める。そして彼女は闇天に高々と手を掲げた。
「煉獄に息衝く灼熱の天焔よ。星の鼓動秘めたる元始の劫火にて、其を灰燼に帰せ」
 詠うように紡がれた言の葉。それは即座に形と意味を持ち、圧倒的な巨大さと勢いで空気を貪り尽くす暴食の紅炎フレアとして虚空の一点から現れた。燦然と輝き闇を照らす焔は、小さな太陽そのものともいえる光輝。それは猛獣の咆哮の如きに空恐ろしい轟音と共に世界を焼く。視界すらをも歪ませる表面で荒れ狂う焔の猛りは、周囲の空気だけでは飽きたりず、更なる世界を求めその舌端を伸ばしていく。
 視界を埋め尽くしていく終焉の火。感情を超えて否応無しに理解させられる絶対の死。輝ける極冷の光を前にルティアは腕に力を篭める。
 夜空を侵し、貪欲に肥大する焔が臨界を超えようとするのを感じると、アークマージは唱えた。
「天衝獄焔。メラゾ――っ!」
「!?」
 紅蓮の大焔が解き放たれようとした瞬間。ルティアも、アークマージも場の変質に息を呑み込んだ。
 夜空を焼いていた焔が凍りついていた。尤も実際に焔が消失したのではなく、時間が止められたかのように燃え滾る紅蓮の胎動の根源にて、荒れ狂い動擾していた霊素エーテルがピタリと活動を止めたのだ。……正確には何かしらの不可解な力によって止められた、であるが。
 それは世界を凍てつかせる一陣の風となって広がり、明らかな空気の変質をそこに居た者達に普く実感させていた。
「……この感覚。このマナすら平伏させる威圧感プレッシャーは…………まさか“魔呪大帝スペルエンペラー”っ!」
 今まで微塵も揺らぐ事が無かった余裕が完全に失せたように、狼狽に叫ぶアークマージ。それによって魔を紡ぐべく集中が途切れてしまった為か、夜を貪り尽くしていた焔がフッと掻き消える。
 余りにも強かな光を開放していた為か、それが消えて続く暗転した世界は恐ろしい深い闇に閉ざされた。
 その闇の先を深く探るように、アークマージは視線を強めて虚空を凝視する。最早、地上に犇く者共など眼中に無い様相であった。
「私とした事が…愉悦の余り時間を費やしすぎたようですね。考えてみれば番の覚醒は、世界を満たしているマナを大きく揺らす。“監視者”の眼を惹くには充分すぎる事象ですか……」
 私も甘い、と愚痴るように小さく零してアークマージは高く掲げた腕を下ろす。そして宙に浮いたまま踵を返すと、虚空から漏れ出した青白い光がアークマージの全身を包み込み始めた。
「口惜しいですが、貴女達への手向けはまたの機会になりそうです」
 青白い衣に包まれながら、アークマージは力なく倒れたユリウスと彼に寄り添うルティアを一瞥し、何の感慨も無く発する。
「ルティア。努々ゆめゆめ忘れなきように」
「…………」
「貴女が“忘れ去られた地ルザミ”より出る度に、私は貴女を殺しに行く。安全で平和な牢獄より外の世界に出る度に、私は貴女を此方だろうが彼方だろうが、世界・・を越えて追い詰める……全ては私の『魔王』さまの為に。それこそが私の背負った宿命」
 強まる青白い光輝の中で、アークマージは口早に綴っていた。それだけにその言葉が彼女にとって切実な物であると言う事を強く伝える。
「今は束の間の平穏に縋り付いているが良いでしょう。…………いずれ貴女は、世界の敵になる」
「セリカ……」
 下された一言に、今の今まで己の死を意識していたルティアは小さく乾いた声色で呟いた。
 アークマージの去りしなの一声は、何処か憐憫さえ篭められていて、それは何時までも夜の漣と共に耳の奥に余韻を残していた。





 絶対の死を刻み付けてくる脅威が去った後の空気は、何時にも増して乾ききっていた。例えそこが海から流れてくる湿潤な風が舞う場所であってもだ。対峙していた恐怖によって吐露されつくした感情は麻痺していて、暫くは戻りそうに無い。その心傷が懐裡を枯渇させ、外を感じる肉体もそれに倣ってしまっていたのだ。
「ユリウス。ごめんなさい……」
 哀憐にポツリと零されたルティアの謝罪に、ユリウスは双眸を伏せたまま開く様子は無い。それが一層ルティアの心に己への呵責の暗澹を広げる。
 胸に抱いたユリウスは眠るように意識を閉ざしている。その顔色が蒼白な様子は、今にも消え去りそうな蜻蛉の儚さを感じさせて止まない。だが今はまだ微かに聞こえる浅い吐息と、尚も勢い良く彼から立ち昇る黒光だけがその存在を確かなものにしていた。
 ルティアはそんなユリウスの頭を抱き締めたまま、静かに双眸を伏せる。すると彼女を取り巻くように周囲には白の燐光が夜闇に零れ出た。それは宙に舞い上がり消え往く黒の光の一つ一つを包み込み、混ざり合っては解けていく。そして、離れ往こうとしていた黒の光を再び根源のユリウスへと誘っていた。
「セリカの言う通り、私の所為で苦しめてしまって……ごめんなさい」
 黒と白の燐光が夜の宙を絡み合って降り注ぐ。それは空気に触れる度に小さく閃いて黒が白に、白が黒に。互いが互いの光と旁魄ほうはくし、遂には境界を無くしていく。黒よりも、白よりも温かみのある灰の光は夜空の中で一際朗らかに輝いていた。
 黒と白が幽かな調和を果たした灰色の光は意識を闇に閉ざしたユリウスに降り注ぎ、しっとりと彼の中に染み込んでいく。その光に紛れて落ちた一つ大粒の雫が、周囲を漂っていた灰色の光を受け止め、さながら星屑のようにユリウスの目元に落ちては、静かにその線をなぞっていた。
「今は、あなたの無垢なる魂魄に一時の静けさを。今は、あなたの傷付いた魂魄に一時の安息を」
 ルティアは懐から赤い宝玉をあしらったペンダントを取り出し、ユリウスの首に架ける。その途端に宝玉から赤の霊光が幾重もの帯となって顕れ出てユリウスを覆い、灰色の星降りの中でも絶えず昇っていた黒の光を抑え込んで、遂には完全に圧し留めた。赤の光も、己が役目を終えたのを自覚したかのように静かにその輝きを潜めさせた。
 その鎮護の様子を見守っていたルティアは、安堵感と虚脱感の余り大きく溜息を吐いて肩を揺らしていた。

「一足違いで行ってしまったようだね」
 突如、戦慄の後の乾いた空気に満ちた砂浜に在って、場違いなまでに酷く落ち着いた声が響いた。
 声に遅れる事、刹那。丁度アークマージが宙に佇んでいた場所とルティア達が伏している場所を二分する位置に、何時の間にそこに現れたのか怪訝に思えてしまうまで自然に、その人物は夜闇に紛れる如く佇んでいた。
 夜の冷たい風が吹き荒れる中、舞う髪は今は遠い蒼穹の色。自分達とそう年齢が変わらないであろう年若い容姿。だがその実は人間の暦など遥かに及ばない歳月を生きる悠久の存在……十三賢人筆頭にして世界の最も高きに在ると謳われる大賢者。
 伏せられたままの双眸は晴れ渡った夜空を見上げ、彼に寄り添う翼竜の座した杖は、星星の煌きを受け止めて燦然と輝いていた。
「なかなかどうして、彼女も勘が鋭くなったと言う事か」
 くくっ、と楽しげな笑みを浮かべて肩を揺らすジュダを睨むように、顔を顰めてルティアは言った。
「何をしに来たの、グリムニル?」
「なに、酷く懐かしい気配を感じたからかね。それだけでアタラクシアには通じるだろう?」
 何処か棘の含んだ語調を気に止める事無く、ジュダは振り向き笑みを返した。
「それよりも随分な言い草じゃないか。こうして私が来なければ、今頃君達は彼女の熾した天焔によって消し炭になっていた筈……助けた事への礼の一つを要求しても罰は当たらないとは思わないかな?」
「…………厭味な人ね」
「冗談さ。……何にせよ、過度のマナの譲渡は今の君には自殺行為だ。さかしき者の行動とは言えないな」
「……わかっているわ」
 何もかもを見透かした人物との会話ほどやり辛いものは無い。渋面を浮かべたルティアは言いながらそう思った。
 ジュダは暢達にルティア達に歩み寄りながら手にした“閃杖・天雷の杖”で地面を小突く。瞬間、竜の双眸が閃いたかと思うと柔らかで温かな光が虚空から溢れ出て、宙で編まれた乳白の光帯はユリウスとルティアを優しく包み込んでは、全身に刻まれていた傷を瞬時に癒していった。
 眼を閉じたままのユリウスの胸に鎮座していた赤いペンダントを見止め、ジュダは問う。
「それは“核”……その片割れかい?」
 問い掛けにルティアはただ頷いた。眼前に立つ人物に、言葉を並べる事に意味など無いのを良く理解した上での無言の肯定だった。
「神約烙印の事は知らなかったけど……それなら尚更、これはユリウスに必要となる。幸い、セリカはこれの事は気付かなかった。それは私達にとって唯一の僥倖」
「まぁそうだろうね。それは純然たるマナの結晶体、いわば魂魄の不滅の輝きそのものだ。神約烙印……本来ならば外界から無限にマナを紡ぐ事ができる妖精種を護る為に編み出された秘儀。確かに、それならば神約烙印に対しての抑止力にはなるだろう」
 ジュダの言葉を耳にしながら、ルティアは何時の間にか晴れ渡っていた夜空を見上げる。
 月も星星も、満天に広がっていてどうしようもない自由を感じさせて止まない。だがそれが真実ではない事も良く解っていた。月も星も太陽も、遥かにある隔たりを経て垣間見るからその裡に課せられた天律の軛が見えないのだ。だが見えないからこそ、それを輝けるものとして人は空にあこがれる。決して持ち得る事の無い、大空を飛ぶとりの翼を。そしてそれが想起させる限りない自由を。
 それを自分達に問いかけて、ルティアは自嘲に昏い笑みを浮かべた。人であるが故に、人は他の軛を覚る事はできない。心を読み取る力でもない限り。だからこそ、ルティアは今こうして間近にいるユリウスの心に穿たれた軛の在り処が空に浮かぶ何よりも遠く、地に広がる何よりも深い隔たりを感じていた。
 自然と双眸に憂慮を湛えさせながら、ルティアは抱き締める腕に力を篭める。
「今のままでは“全てを断ち切る剣”は蘇らない。いかにあれ・・神魄鉱オリハルコンで鍛えられた物だとしても、そこに宿る魂が無ければただの棒切れに過ぎないわ」
「だからこそ核の片割れであるそれを彼に渡したのか。もう一つの片割れはどうするつもりなんだい?」
 間髪入れずに返って来たジュダの言葉に、ルティアは一度声を呑む。そして発した。
「……鳥籠・・を越えて取ってくるしかないでしょうね。骨は折れるけど、私は何としてもやり遂げなければならない」
「“剣”の再生には必要不可欠な要素、か」
 成程、とジュダは頷いた。
 そこに何処と無く空々しさを感じながらも、ルティアは続ける。
「“天陽”と“月洸”で鍛えられた刃を真に振るう事ができるのは、“大地”の仔だけ」
 ルティアはそっとユリウスの頬を撫でた。
「闇を払うには、光だけでは足りない。真なる闇を切り裂く為には闇を照らし縛す光と、それらを呑み込み断ち切る更なる深淵の闇を以ってするしか術は無い。ユリウスに光を導く天の刃“稲妻の剣”はあの場所・・・・で彼が来るのを待ち続けている。後は彼の裡に包括され、育まれている純粋な闇で“王者の剣”を染め上げるだけ。その二振りの刃が神を殺す剱となる」
「その為の“核”か……だが今の彼には足りない物がある。このままでは“稲妻の剣”にさえ拒まれるよ」
 ジュダの言葉に、ルティアは何時の間にか取り出していた銀のサークレットを憂いと愛おしさを秘めた眸で見つめる。蒼の宝玉はその視線に応えるように一つ、煌いた。
「わかっているわ。……『勇者の心』。彼が嘗て捨てなければ生きる事さえままならなかった純粋な欠片を、再び受け容れる事ができれば……」
「……その時、『勇者』は目覚める。そして始まるのか。『勇者ロト』と『魔王ルドラ』、遥か久遠より定められ繰り返され続けてきた世界の裁定……創世と葬世の旋律で奏でられる第七天の歌アルスマグナを紡ぐ時が」



その時・・・が来たら、“君”はどうするつもりなんだい?」
 試すようなジュダの問い掛けに、ルティアは答えなかった。




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