――――第四章
      第九話 雷鳴にたける黒と







――忘れもしないあの時、あの場所で。そいつ・・・は、まるで夜空に浮かぶ月を眺め楽しむかのように悠然に現れた。



『どうやら滞り無く“堕転誓約カブナント”は発動されたようですね。“破壊の剣”はを主と認めたと言う事ですか』
『だ、誰だ!!』
『貴方は……アリアハンの勇者、オルテガ殿のご子息ですね。はじめまして。私は魔王軍総括参謀を務める“アークマージ”……真名をセリカシェルと申します』
『魔王軍……!? じゃあ、この群れはお前が!』
『いいえ、それは違います。私は別件でこの地に参上させて頂いているだけですから。今この地を襲撃している彼らは魔王六魔将の一つ、獣魔将ラゴンヌの配下グリズリーと海魔将テンタクルスの片腕マーマンダインの手勢を寄せ集めた複合軍。数ヶ月前のランシール海戦で主を討たれた事への報復行為だそうですよ。尤もそのような殊勝な気勢は海魔将配下の者達だけで、獣魔将の配下は単なる享楽で暴れているだけでしょうが……』
『な、に?』
『しかし、正式な戦場いくさばの慣わしに則っての事だというのにそれを逆恨むとは……彼の者達も所詮は礼節を解せぬ無秩序な、ただ程度の低い獣に過ぎないという事ですね。……まぁそのような瑣末事よりも今はただ御覧なさい。一人の人間が人間という器を棄てて、新たなる高みへと至る路に踏み出すその刻を』
『あれは……っ!!』



――あの時、三人の中心がいなくなった。均衡を保っていた歯車の中心が失われれば調和が乱れるのは必然。後に遺される結末は、ただ崩れ堕ちるだけ。

 あの瞬間。拙くも確かに芽吹いていた何か・・が、自分の中でバラバラに砕け散った。その断末魔に狂奔する慟哭は抑えきれない殺戮衝動となり、狂った咆哮と共に顕現したその余波は天地を侵し、一条の雷鳴となって黒の大地を灼き尽くす。
 ほろびの光の鳴動の下に様々なかたちの生命の火が途絶え、焦土となった大地にはただ撃たれし者共の残滓である黒煙と焦臭が何時までも漂う。
 その中で唯一人佇むのは自分だけ。唯一人生きていたのは自分だけ。存在していたのは唯一振りの剱だけ……。



『見事なものですね。貴方のような幼き子供が、残党とは言え彼の軍勢を壊滅させてしまったのですから』
『…………』
『彼女もまた、本望でしょう』
『お、れは……俺はっ!!』
『……何をしているのです? 自らを害するのですか? その行動の意味を貴方は本当に理解しているのですか?』
『う、五月蝿いっ!』
『貴方がそこで自らを断てば、彼女は本当に犬死にした事になりますよ。彼女の死を悼み、その意志を尊ぶ気持ちがあるのならば……彼女の遺志を継いで生きる事です。それが彼女への何よりのはなむけとなるでしょう』
『黙れ黙れっ! お前に何がわかるっ!!』
『仰る通り、確かに私には彼女の想いを量る事はできません。ですが、その裡に秘めた志を貫くべく歩んだという事実ならば判ります。……彼女だけでなく彼もまた、それを望んで“剱”となったのですから』



―――自分を構成していた全てが、限りなく狭かったが確かに在った世界が、音を発てて壊れ始めた気がした。



『再度問います。……それが貴方の望みですか? その意味を貴方は本当に理解しているのですか?』



―――崩壊し往く意識に届いたその言葉が、耳の奥にいつまでもこびり付いていた。






 視界に映る空の端に、雨の名残を示す雨雲が月明かりに平伏しながらひっそりと浮かんでいる。夜空の支配者である事を主張して止まない月の光は、怖気が走るくらいに冷淡で艶かしい。そんな冷白な後光と、砂浜に静かに打ち付ける深淵から奏でられる漣はまどろみを超えて、それらを捉えている全感覚を麻痺の眠りに陥れるようだった。
 この一面に広がる暗闇の自然を奏者とするならば、そこに佇んでいた人物はそれらを統べる指揮者。静謐を守る様相に反して、威風堂々と背筋が凍るような存在感を砂浜にひしひしと広げていた。
 その人物は、全身を夜闇とは異質の闇色のローブを羽織い潮風に靡かせていた。頭部までをもすっぽりと覆い隠し、露出している場所など皆無であるまでに徹底して隠蔽している。唯一判るとすれば、人間で言う双眸の部位に相当する場所に、煌々と黄金に輝く光が燈っている事だ。それは言いようの無い不安を煽る黄昏の不気味さであり、同時に畏怖を覚える神秘性を感じさせて止まない。
 凝った闇一色の中で一層強く輝くその様は、沈静に反して凄烈な意志の奔流を否応なしに相対する者に見せ付けているようだった。

 空と海との境界が朧な漆黒の水平線を眺めていた人物は闇の衣を翻し、移り変わった景色に茫然と佇んだままの二人…というより眼を見開いて畏れを一面に浮かべている白だけを捉える。そして穏やかな笑みを覆面の下で浮かべた。
「お久しぶりですね、ルティア。ご健勝そうで悔やまれます」
「セリカ……いえ、“アークマージ”。まさかとは思っていたけど…あなたも此方に来ていたなんてね」
 先制で放たれた言葉に、落ち着きを装って静かにルティアは返す。だが返されたそれは上辺だけの、ただ会話する為だけの意味の無いもの。あの街の白霧で惑いを覚えた時、眼前に立つアークマージが此方に来ていると言う確信がルティアの胸の裡には芽生えていたのだ。それ故に何の意味も持たない言葉を口にしたのは、単純に時間を稼ぐ為。気持ちを落ち着かせ、今にも恐怖に震えそうになる心身を鎮める為だった。
 だがそんなこちらの思いなど知りもしないアークマージは、クスクスとたおやかに微笑を浮かべながら饒舌に語る。
「ええ。貴女が頻繁に此方に干渉していたのを感知して、マナの揺らぎの痕跡を辿りましたからね。断絶された狭間より幾度も懲りずに……ご苦労な事です。ですが貴女のその若さゆえの愚直な行動が、私の走査網に捉えられる事になりました。その点は好意的に評価してあげましょう」
「……あなたらしくもない多弁さね。何か嬉しい事でもあったのかしら?」
 淑やかに嘲るアークマージに対して、張り合うルティアは声こそ震えてはいなかったが、その声色は乾ききっていた。眼前の人物から放たれるピリピリと肌に痛い気配の前では、ルティアのそれはただの強がり以外の何物でもないと傍からでも良く判るし、それ以上に自分自身が一番良く解っていた。
 何時しか口腔は渇き、潤いを欲している。その傷みに韻を掠れさせてしまっているルティアに反して、アークマージは至極穏やかに、情緒のままに声を躍らせた。
「それはもう……この手で貴女を八つ裂きにできると思うと、私も心が躍りますからね。……ところでルティア。私の送った伝言メッセージ、理解して頂けましたか?」
「伝言?」
 その単語を反芻し、ルティアは怪訝に眼を細めた。そんな彼女の反応を満足気に見止めたアークマージは、小刻みに肩を揺らしながら昂揚に言葉を口早に継いだ。
「あの街での事象は貴女に対しての世界の在り方、その縮図です。……彼方でも、此方でも。何処に居ても貴女には居場所など無いという事、歓迎される安らかな場など無い現実を否応無く知る事ができたでしょう? 貴女には自らの立場と運命をしっかりと認識して貰わねばなりませんからね」
「!!」
 穏やかに放たれる言の葉は的確にルティアの脆い部分を抉る。不意に胸の内から込み上げて来た不快な何かを、ルティアは下唇をきつく噛み締めて俯く事で耐えていた。だが、とうとう耐え切れなくなってしまったのか顔を上げて、感情が爆発しそうでそれを何とか抑えつけているような、はりつめた硝子の表情で叫んだ。
「そ、それはあなたの魔法の影響下にあっての事よ! 本来ならそんな事――」
「無い、と言い切れますか? ……言えませんよね。そしてそれを口に出来る程に貴女は愚鈍では無いでしょう?」
「っ!」
 だがアークマージは、切実に顔を強張らせているルティアを冷やかに見つめながら遮り、決然と言い放つ。
 その反論の余地の無い言葉と視線に息を呑み、ルティアは再び顔を俯かせて苦渋に歪めた。それはアークマージの言を否定できない事に他ならなかったからだ。
「……マナの牢獄で大人しく眠っていれば良いものを、好奇心で外の世界に出るからそうなるのです。浅慮な…全く以って浅はかな事です」
 アークマージは捉えているルティアを通して、遠くを見つめる。その様は何処か夕暮れの秋空を思わせる、しみじみと愁嘆に暮れているようだった。
 その様を直視出来なかったルティアは、せめてもの反抗として相貌を崩し薄っすらと笑みを浮かべる。
「心配してくれているのね。それにはお礼を言っておくわ」
「ふふふ。いつもあの方・・・の影で震えていた幼子が……言うようになったものですね。ですが虚勢下手なのは相変わらず…ほぅら、膝や肘が震えていますよ。その薄弱で悲鳴を挙げている神経が怯懦きょうだで髪色共々蒼白になっているではありませんか」
「失礼ね。この色は生まれつきよ。それが判らない程にあなたの眼は節穴なったのかしら?」
 傍目にも畏れを浮かべているルティアの強がりに、アークマージは外套の下で小さく肩を揺らして哂った。
「減らず口だけは相も変わらずですね。安心しました……これで躊躇い無く貴女を殺せます」
 アークマージは冷たく宣告する。そしてその半身を後退させ、武闘家が臨戦時に構えるような姿勢をとった。闇色の衣の袖口から、滑らかに白く細い腕が顕になる。触れれば折れてしまいそうな繊細さの両腕の、先に在るスラリと長い五指にはそれぞれ形状の異なる指輪が嵌められており、それは夜の灯りだけで金赤色の禍々しい輝きを燦然と灯していた。
「ルティア……次元の狭間、“忘れ去られし地”に囚われし咎人よ。貴女の存在は、いずれ必ず『勇者ロト』を『魔王ルドラ』さまへと導く。『魔王』さまの為に、貴女だけは必ず我が手で滅します」
「私は、私の魂魄の意志によって此処に居る。だから、ここでただ黙って殺される訳にはいかない!」
 対してルティアは、緊張した面持ちで腰に佩いていた細身の剣を颯爽と抜き放った。高く澄み切った玲瓏音と共に、金隼の意匠が施された柄から真っ直ぐ伸びる白銀の美しい刀身が、夜空の中で清冽に煌く。そしてルティアはその鋭い切先で風を薙ぎ、アークマージに掲げた。
 アークマージは表情を隠している覆面の下で口元に孤月を描く。そして足場の砂浜が嘶く程に力を篭めて踏み締めた。
「小癪!」



「待て」



 凛とした声が氷の刃のように鋭く響いた。
 別世界から放たれた如く場の空気にそぐわない声に、今まさに飛び掛らんとしていた二人は動きを止め、同時に声の主へ視線を注ぐ。それぞれの思惑を孕んだ四つの目線の先には、ありとあらゆる感情が破棄された仮面の如き無表情のユリウス。茫然自失にだらりと両腕を力無く垂らし、夜風に嬲られるまま無為に佇んでいる。だがその静かな佇まいに反して夜よりも深い漆黒の双眸には…いや、その相貌だけでなくユリウスと言う存在を構成するあらゆる要素から、ただ純然に空気を越えて届く烈々たる殺意が発せられていた。
「ユリウス……」
 禍々しささえ覚える雰囲気を纏うユリウスに、臆するのとは逆の感情で神妙な彩を眸に浮かべるルティア。そしてそんなルティアに対しているアークマージは、今更ながらにユリウスの存在に気が付いたかのように至極冷やかな視線をフードの奥からぶつけていた。ユリウスなどには何一つ興味が無いといったような冷淡な視線は、あたかも昂揚の時に冷水をかけられて興醒めだ、と言わんばかりに刺々しく辛辣だ。
 普通の人間ならば精神に恐慌を起こしてもおかしくない凄絶な殺意を向けられながらも、アークマージは何一つ気に止めていないように、極めて冷静に返した。
「貴方と相見えるのは二度目になりますね、『アリアハンの勇者』殿。お久しぶりです」
「…………貴様は。貴様はあの時の」
 深々と腰を折るアークマージを見つめるユリウスは眼をみはらせてはいたが、そう呟く声に抑揚は微塵も無かった。
「私の事は以前見えた折に伝えてあるでしょう。それよりもあの結界の中から、この小娘と共に転送されて来たという事は…………貴方が“番”、なのですね?」
 アークマージの探るように慎重な視線と言葉に、ユリウスは怪訝に目を細める。
「何の事だ?」
「つくづく貴方は、他人が宿命と邂逅する場に居合わせる。無意識に因果の糸を手繰り引き寄せるのは、貴方達が持つ魂魄固有の特異性なのでしょうか……まぁ良いでしょう。所詮、貴方はどれ程足掻いても舞台には上がれない蚊帳の外の観客にすぎません」
「さっきから何をわけの解らない事を言っている?」
 暗示的で回りくどい言い言いまわしが煩わしくなったユリウスは、声調を下げて剣を抜いた。
 闇空の下で薄っすらと青白く光る刀身の軌跡、それを律するユリウスを見て、アークマージは嘆息と共に小さく肩を竦める。そして開いていた身体を完全にルティアの方に向けた。ユリウスなど歯牙にも掛けていないと言う意思表示だった。
「分相応を学べ、と言っているのです。覚醒もしていない無知で無力な貴方に今は用などありません。用があるのはそちらの――」
「侮るな!」
 その刹那の後、金属と硬質な何かが激突する音が戛然かつぜんと夜空に響き渡った。

 アークマージがユリウスから視線を外し、再び戻すまでのほんの数瞬。
 その数瞬にユリウスは離れていた間を縮め、抜き放った白刃で斬撃を繰り出していた。
 魔力エーテル収束が阻害されている反作用なのか、闘気フォースの収束は驚くほど容易だった。急激に集まった闘気を全身に漲らせて、ユリウスは力強く大地を蹴る。全身に活力が行き渡っている為か、数歩で間合いを詰めたユリウスは、アークマージの死角から斬り掛かったのだった。
 だが、剣がその鋭い牙で標的を捉える刹那。アークマージはユリウスの突進に気付き、盾を翳すように腕を構える。ただそれだけの行動で、ユリウスの必殺を狙った突撃を弾いたのだ。
 後退しつつ、不可視の壁に剣が阻まれる感触をユリウスは掌に確かに感じた。掌中に残る疼く痺れがその存在を証明していた。
「ちっ……」
 小さく舌打ち眉を顰めるユリウスに対し、特に驚くでも無しに、逆に呆れたように嘆息しながらアークマージは視線をユリウス、ルティアと動かす。
「何をなさるのです、『アリアハンの勇者』殿。今、貴方に用は無いと申したではありませんか。……その小娘の事など、貴方には関係の無い瑣末事でしょうに」
「貴様の事情など俺の知った事ではない。貴様は……許さない、貴様だけは殺す」
 完全に抑揚が無い俸読まれた言葉は、凡そ生物のそれではない。だがそれだけにその殺戮意志を純然に伝える。いつしか乾いていた場の空気が、ピリピリと小刻みに震撼していた。
「何故貴方はそれ程までにたけるのです? 私の邪魔をする事に、その行動が貴方に一体何の益を齎すと言うのです? ……もしや、あの時の事を怨んでおいでですか? だというのならばそれは見当違いも甚だしい。私は彼に“印”を渡しただけです。“印”を受け入れ、更なる高みを望んだのは、彼…アトラハシス自身なのですよ?」
 さも心外だと言わんばかりに、アークマージは鷹揚に語る。
 その最中。アトラハシスという名前が出た瞬間、ユリウスの双眸に黒い光が燈った。心臓が強く深く高鳴ると、体の裡を流れる血液が沸騰したように雷速で体中を駆け巡った。
「嘘だっ! そんな筈は無い。アトラがそんなものを望む筈が無いっ! 貴様がアトラを堕とした。貴様があいつを魔族にした!!」
「違います。力を望んだのは彼の意思。そして、それを支えたのは彼の意志」
「出鱈目を言うなっ!!」
 左から右へ一閃。力強く踏み込んで横一文字にユリウスは切りつける。空気を引き裂く裂帛の鈴音は、その斬撃の苛烈さを物語る。だがアークマージはその烈風の一撃を、後方に宙返りしてあっさりとかわした。その動きは華麗そのものであり、優雅な舞のようでもあった。
 静かに地面に着地したアークマージは、ローブに付いた砂埃を手早く払い、言った。
「……無意味な問答ですね。聞き分けの無い子供に付き合っているいとまはありません。私の用事が終わるまで、しばらく大人しくして貰いましょう」
 アークマージが言い切った瞬間。黄金の双眸が一際強く輝き、その姿が闇に消える。
 辺りを見回しても、ただ不安をそうな光を双眸に湛えたルティアがこちらを見ているだけ。何処にも敵の姿が、その影すら見止められなかった。
「!? 何処に――」
「ここですよ」
 警戒を広げるユリウスの背後で、恐ろしく落ち着いた声色が耳朶を付いた。
「なにっ!?」
 こうも呆気なく背後を取られた事に愕然としつつも、ユリウスは捻転し切りかかろうとする。だがアークマージの動きの方が数段速く、強かだった。
「うぐっ!?」
 一瞬の浮遊感。強烈な掌打を背中に喰らい、ユリウスは大きく仰け反った。背骨が撓み、肺の中の空気を全て吐き出してしまい視界が白に翳む。数歩前方によろめくが、それでも力強く砂浜を踏み締めて倒れるのだけは阻止していた。
 だが、アークマージの攻撃はまだ終わりではなかった。
 ユリウスが地面に踏み止まった瞬間に、アークマージは風を思わせる速さで前方に回りこみ、がら空きになったユリウスの鳩尾へ肘鉄を痛烈に打ち込む。そしてそのままの態勢で真上に向けて裏拳を繰り出した。それは鳩尾に受けた衝撃に前かがみになるユリウスの顎を正確に捉えていた。
 内臓と脳天を大きく揺さぶられて、再び後ろに倒れ往くユリウスへの更なる追撃として、アークマージは下方に強烈な回し蹴りを繰り出し、足払いを喰らわせる。それによって自重を支える拠り所の無くしたユリウスは、呆気なく砂浜に仰向けに倒れてしまった。
「ぐぁっ!」
 アークマージの流れるような体術が繰り出される中。ユリウスは碌に防御も反撃も、反応すらできず、なすがままに翻弄される。この細い腕の何処にこれ程の力を秘めているのか、それら一撃一撃で全身の肉を抉り、骨を軋ませた。
 容赦の無い連撃による激痛が全身の神経を灼き尽くし、耐え切れなくなった肉体が遂に力なく砂地に伏した。
(こ、んな……)
 思考すらも苦痛に阻まれ、狭まられたユリウスの視界は深い夜空を映していた。地上の出来事など何の感慨も持たずに見下ろし続けている冷たい光の群れ。その中に不意に自分を圧倒したアークマージの姿が間近に飛び込んできた。その空すらをも制する気高い風体は、ユリウスの霞んだ視界を独占して止まなかった。
 それは愚にもつかない錯覚でも誇張でも婉曲でもなく、ただの事実。現にアークマージは膝を折り、仰向けに倒れたユリウスの傍に跪いて、覗き込んでいたからだ。
 そして病床に就く子を労わる母の如き穏やかさで、アークマージはユリウスの胸にそっと掌を当て、呟いた。
「バシルーラ」
「っっ!?」
 瞬間的であったが、地面を占める砂粒が大きく鳴動する。
 打楽器から発せられる重低音の地鳴りの余韻が、空気を通して鼓膜を越え、聴覚にいつまでも残っていた。
 自分に向かって不可解な風が吹き付けたかと思うと、圧倒的に不可視の衝撃に自分の肉体と精神とを強引に引き剥がされるような錯覚を覚えた。それは巨大な質量体が全身に勢いをつけて圧し掛かってきたかのような類の痛みを齎していた。
「バシルーラ。バシルーラ。バシルーラ。バシルーラ……」
「ぁぁぁっっ!!」
 取るに足らない雑務をこなすようにアークマージが淡々と言葉を紡ぐ。その度に、衝撃と爆音と微かな苦悶の声が夜の空に轟く。
 倒れたユリウスと跪いているアークマージの周囲の砂が、二人を世界から乖離させる遮幕ように、噴水の如く噴き上がっていた。
「ユリウス!!」
 昇り隔てる砂壁を前に叫ぶルティアの声は余りに無力に、響き渡る轟音に呑まれては消えていった。




 やがて舞い上がった砂塵がゆっくりと地面に還り往く。雨が降った為かそれ程の量でなかったので、直ぐに視界が晴れた。するとそこには、大きく擂鉢すりばち状に抉られた砂浜の中心で地面に深く沈んだユリウスと、その横で何事も無かったかのように静かに佇むアークマージの姿があった。
「無粋な横槍を入れるからそういう目に遭うのです。分相応を学びなさい」
 大きくローブを翻しながらアークマージは砂に半ば埋もれたユリウスを見下ろす。その淡々とした言葉には、それだけの重みがあった。
 行動が凍りついたユリウスには元より興味が無いのか、アークマージはこれ以上ユリウスを視界に留めようとせず、ゆるりとルティアを振り向く。そして、フードで深くに隠れた表情で笑みを作った。
「茶番は終わりです。……さあルティア、断罪の時を前に祈りなさい。貴女の運命は、今ここで私に殺される事で紡がれる。それは貴女にとっての唯一つの解放となるでしょう」
 フードの下で作られている笑顔がどのような物か、知っているルティアはただ恐れを抱くしかない。後ずさりながらも、虚勢に叫んだ。
「そう簡単に、殺される訳にはいかないと言った筈よ!」
「いいえ。如何に意気込もうとも貴女に勝ち目はありません。それが道理と言うものです」
 アークマージが無挙動で間合いを詰めて拳を繰り出してきた。意表を突くその攻撃に、ルティアは半歩後退しながら細身の剣を叩きつける。夜の静寂を裂帛する激突音がけたたましく響き、虚空に小さな火花が散った。
「ふふ……」
「くっ!」
 一度、二度、三度。幾度無く繰り返される拳と剣の応酬。一見して拮抗を保っているようではあったが、実際にはルティアの方が圧倒的に不利であった。アークマージの一撃一撃を刀身で受け止める度に撓み、嘶いては後方に弾かれる。
 刀身から掌に伝わる衝撃に顔を歪めるルティアを見て、アークマージは笑った。
「震えている割には頑張りますねルティア。魔法が使えないのがそれほどまでに苦しいですか? ……ですが、仮初の実体で此方に存在している貴女の時間は短い。時が経てばいつでも逃げられてしまいますからね。それを防ぐ為の封印でもあるのですよ。あの薄弱な“聖女”を放置して此方に来た甲斐があるというものです」
「ジュリアは!?」
 その名を出され、弾かれたようにルティアは顔を上げる。明らかな狼狽に眸がしっとりと濡れていた。
「心配には及びませんよ。あの不埒な“焔魔”が遊んでいるので、まだ殺される事は無いでしょう。忌まわしき“聖剣・光輝ひかりの剣”を携える祭り上げられた聖女も、その輝きで照らすべき者達が既に絶望の闇に伏している以上、立ち上がらせる事など不可能と言う事でしょう」
「“焔魔”が……!」
「他人の心配をするとは余裕ですね」
 愕然としてしまい戦闘中に隙だらけのルティアに、アークマージは痛烈に掌打を繰り出す。寸での処でそれに気が付いたルティアは紙一重で躱すも、更なるアークマージの追撃が迫った。
「メラ」
 冷徹な一言。ただそれだけでアークマージを包む周囲の虚空には無数の火炎が燈り、揺ら揺らと漂った。そしてアークマージが指先をルティアに向けると、その一つ一つの炎がまるで意志を持った飛燕のように宙を閃いてルティアに突貫する。
「きゃあぁぁ!」
 無数の炎弾が触れた場所は、激しい激突音を発てて弾ける。それらは派手に砂塵を舞い上がらせ、地中に潜んでいた水分を蒸発させて白い蒸気を黒の空に昇らせる。
 衝撃に吹き飛ばされて地面に転がり、肌や衣服の所々を焼かれたルティアは苦悶に呻き声を挙げる事しかできなかった。
 冷たい地面に倒れたままのルティアに歩み寄り、アークマージは冷やかに見下ろす。
「……苦しいですか。精神アストラル体の貴女には、下級に過ぎない魔法でも充分に効果があるでしょう? 抵抗するのは構いません。生き足掻くと言うのは生物に課せられた純真なる本能ですから。ですが、それさえも惨めに長引かせなければ楽になれたでしょうに……」
 後半は消え入りそうな声色だった。それにルティアは地面に伏したまま横目に天を仰ぐ。
「あ、あなたらしくないわね。どうしたの? あなた程の力を持つなら、私を殺すのは花を摘み取るのと同じようなもの。なのに、そんな初歩魔法しか使わないなんて……慈悲のつもりなのかしら?」
「……それはこちらの事情です。余り大きな逆流魔法で此方のマナを揺らすと、厄介な方々・・・・・に察知される恐れがありますからね。それ故に、あの街の結界を起動させる為に此方の者の魔力を使って貰ったのですから」
「あら、随分と弱腰なのね。魔王軍総括参謀長“導魔”の言葉とは思えないわ」
 明らかな窮地に瀕しているというのに、ルティアは大胆不敵に笑った。それを受けてアークマージはここで初めて声色に憤怒を孕ませた。
「調子に乗らないで下さい!」
「うぐっ!」
 うつ伏せた体勢から立ち上がろうとしているルティアの腹部を、アークマージは躊躇なく蹴り上げた。防御すらできないルティアはただその蹴撃を受けて吹き飛び、今度は仰向けに黒天を見つめるしか出来なかった。
 何時しかルティアの手から離れてしまった細剣を拾い上げながら、アークマージはゆっくりと倒れたままのルティアに近付く。その静かに迫る様子を前に、ルティアは己の死の秒読みを思い浮かばせずにはいられなかった。
 片手を柄に、もう片手を刀身に持ったアークマージはその刀身に意識を集中させる。すると刀身が小刻みに激震して幾筋もの亀裂を生じさせる。そして終にはバチンと鋭い破裂音を発てて、白銀の刀身が粉々に砕け散った。
「っ!」
 粉雪のように深々と地面に降る剣の残滓。視界にそれを捉えながら愕然と声にならない悲鳴を挙げるルティアに、何の感慨も無くアークマージは片手に収まっていた金隼の柄を放る。それはドスリと厭に大きく聞こえる音を発しながらルティアの顔のすぐ傍に落ちた。
「無様ですね、ルティア。……本来ならば“賢者”の職に就く貴女も、精神体をマテリアライズで強引に実体化しているが故に頻繁に魔法を紡ぐ事ができない。ましてやそれさえも封じられている今、頼りになるのはその貧相な降魔銀ミスリルの細剣…隼の剣のみ。……この私と渡り合うには余りに脆弱です」
「脆弱でも、私は……私はただ己の魂の意志に従うだけ。どんなに生き汚くたって、望まぬうちに与えられた宿命に、好き勝手されるつもりは無い、わ」
 言いながら、ルティアは覚束ない足取りで立ち上がる。そして真っ直ぐにアークマージに対し、その意志をぶつけた。
「それが分不相応だと言っているのです。……大人しく殺されなさい。それが貴女の為でもあるのですよ?」
 今にも倒れそうなルティアは消耗と痛手に憔悴しきり、顔色は蒼白になっていた。膝は既に笑っておりガクガクと揺れている。呼吸は荒く、その度に痛みが走っているのか顔を顰めさせている。だが暁色に宿る光の強さは、微塵も変わってはいなかった。
「……前に言った筈よ。あなたの“眼”で垣間見る未来は、無限にある可能性の一つに過ぎない。多様に蕩揺う未来の姿は、望む意志を潰えさせない限り変えられると私は信じているわ」
 アークマージはその双眸を伏せて問う。
「いいえ。いくら貴女が拒もうが、運命の波は既に貴女の足元を絡め取っているのです。更なる絶望の夜が待ち受けていると言うのに、貴女はそれでも足掻くというのですか?」
「天地陰陽の理は絶えず流転して蕩揺うもの。どんなに闇が深くても、どんなに夜が永くても……朝は来て光は必ず昇る。明けない夜なんて無いわ!」
 予想通りの答えに、アークマージは大きく溜息を吐いた。何処かそれは諦念に染められていたのだが、その真意は本人以外に解する者はここにはいない。開眼し、アークマージは苦笑交じりに言った。
「頑固ですね、ルティア」
「それはあなたも、でしょう。セリカ」
「……これ以上の言葉は不要ですね。そろそろ貴女との縁、断たせて貰いましょう」
 アークマージは拳を握り締める。それぞれの指に嵌めた指輪が互いを擦り合わせ、葬送に鳴いていた。





(身体が、……動かないな)
 砂に埋もれつつあると言うのに、何故か奇妙な浮遊感が意識を霞ませていた。何か薄い膜のような物が視界を覆い、空の遥か彼方で申し訳なさそうに煌く星光をやんわりと遮っていた。
 ちりちりと全身を覆う仄かな疼きが、熱を持っているような気がしてならない。だが今、現実に自分を包んでいるのは夜の海の砂浜。温かいと感じる要素からは絶縁の場所の筈である。この事実は、もう自分の五感そのものが真っ当に機能していない事の顕れなのだろう。
 肉体と精神が強引に引き剥がされてしまったのかと錯覚を覚える程に、動こうとする意志に反して指先一つ動かす事ができない。身体中の神経は寸断され、最早痛みすらをも覚える事は無いと言っても過言ではない状態。
(これが死、なのか……)
 こうやって己を意識し思考行動が可能なのは、乖離し往く肉体と精神がまだ辛うじて繋がっていて、無様に生にしがみ付いている生存本能による物なのだろうか。いっその事、繋ぎ止めている手を離してしまえば、自分にも呆気無く終わりが来るのだろう。それはとても魅力的な事。そしてとても渇望していた事。
 これまでにも何度かこの境地に至った事はあったが、結局この先へ進む事ができなかった。恐らく今回は漸くその先を見る事ができる。
(死ねるのか、俺は……)
 殺し合いの中で、殺されて死ぬ。極めて単純で純粋な弱肉強食の摂理は、自分の意識が自分として在り続けた時から不変の常識。だから、戦いに敗れて死ぬのはただ当たり前の結末に過ぎない。魔物であれ、動物であれ、……人間であれ。牙を向け合った全てを殺して今まで自分は生きてきた。それが今回は自分が殺される…即ち弱者の側だった。単純にそれだけの事に過ぎない。
 ただ自分に定めた殺すべき敵を前にして、この様は余りにも無様だ。だけど、一矢報いる事すらできず完膚なきまでに叩きのめされて死ぬ滑稽さも、自分にはこの上なく似合いだろう。
 遣り切れなさが胸の奥で燻る事はあるが、結局自分には何一つ掴めるものなど無い。その範疇で納得できる事実なのだから、それ以上に想いを馳せらせる必要も無い。
(もう、……いい)
 これ以上の思惟の展開など無価値で、何より無意味な事だ。どの道、自分の意識はこのまま無限に広がる闇に溶け消えるだけ。もう、終わるのだから……。
≪……本当に、それで良いの?≫
 真っ暗な闇の中で。誰かの、つい先程聞いたような声が響いてきた。その声の近さは妙な現実感を伴って自分の意識に染み込んでいく。
(……誰だ?)
≪あなたの魂魄はその事を納得しているの? 自らの深奥の、あらゆる事象に蕩揺いまろびる純粋な気持ちは、本当にそれを受け容れているの?≫
 その問い掛けは、今しがたのこちらの思考をまるで本当に聞いていたかのような口振りだった。
(うるさいな。納得する必要など無い。変えられない事実である以上、足掻くのは無駄な事だ)
≪私はそうは思わない。そしてあなたがそれを納得しているようにも見えないわ。……本当に納得しているのなら、どうしてあなたはそんなにも哮り、悔しそうな顔をしているのかしら?≫
 消え往きそうになっていたのに、声の問い掛けで意識が再び一つに収束し始めている。それを自覚して煩わしささえ覚える。
 闇の先から聞こえる声は、声調を少し下げて優しく言っていた。それは何処か容赦無く、遠慮なく自分の懐裡を抉る。
(うるさい。うるさい、うるさいっ!)
 ただ勢いに叫ぶだけの自分が、とても滑稽だった。
≪傷みに喘ぐ自分の心の声を、魂が発している切なる叫びを……否定しないであげて≫
 泣いているかのようにか細く震えている声。そしてその声も徐々に遠のき、余韻だけが闇の中で何時までも響き渡っていた。



(!?)
 気が付けば自分は深い闇の中に立っていた。
 周囲は真っ暗で何も見えず、耳鳴りがしそうな程に静寂に包まれている。だがこの闇の中で五感すら既に喪失しつつあるというのに、今自分は直立している事が何故か解る。
 唐突に、闇の中に光が射した。だがそれは闇を照らして脅かし退かせるのではなく、ただ真闇の中に自らの居場所を創る為だけの儚い輝き。
 球状だった光輝は数瞬、心臓の鼓動のように点滅を繰り返していたが、やがて形を成して姿を変えた。
(これは……)
 そこに在ったのは一振りの剣だった。
 黒一色の中で鮮烈に視識を惹き付ける、金赤色の刃。その刀身から発せられる鋭さは、まるで閃光そのものである清冽な輝き。天雷の如きに剛毅な煌き。
 人の手では作りようが無いであろうこの剣は見た事は無い。だが何故か知っているという不可解な概視感に襲われていた。そしてその剣が醸す妙な懐かしさに誘われるがまま歩み寄り、その柄に手を伸ばす。
(っ!!)
 金赤の氾濫を抑えるような色合いの蒼銀の柄に触れた瞬間。全身に稲妻が駆け巡ったような傷みを感じた。
 押し寄せる傷みは肉体を越えて精神を冒す。その傷みによって闇の中に霧散していた意識の欠片が急速に収束し、再び繋ぎ止められていく。そして少しずつ、小さく断片的に組み合わさる意識の欠片は、遠い記憶をも呼び覚ました。
『ユー…リ。私の……事は、気にする…な。お、前だけは……生き…てく、れ』
 あの人の最期の声が響いた。
『ユーリ。剱の聖隷……その言葉の本当の意味はね――』
 あの人の最後の声が響いた。
(止め……っ!)
 死に往く者が見ると言われている走馬灯というものなのだろうか。或いは急集される意識に引き摺られ、記憶が逆の方向に追走しているのだろうか。
 何にしても、それは忘れていた…いや、眼を背けて見ない事にしていた言葉が鮮烈に脳裡に蘇ってしまう。それは神経に針を通されるような傷みを心身に深く深く刻み付ける。
(ぁぁぁッ!!)
 柄から手を離す事は叶わなかった。まるで自らの身体の一部であるように、掌に張り付いて離れない。だが悠長にその事を訝しむ暇なく、悶え苦しむ暇なく傷みは精神を灼いている。
 傷みから少しでも意識を逸らす為に、身体を動かさずにはいられなかった。だが両足は見えない闇に絡め取られ、手は剣から離れない。ならば、残る手段は一つしか残されていなかった。
 何を急かしているのか、逸る心臓の鼓動はとても大きく深く。身体の裡からその外殻を打ち破らんと苛烈に脈動している。
(あああぁぁぁぁっ!!)
 そしてユリウスは闇天に向けて叫びながら、完全に剱を闇から引き抜いた。




『何処までも、何所までも。闇と陰と、黒と混沌の更なる深淵にへと堕ちて行け。そしてその深さを知るが故に、汝は光を以って闇を斬り裂き、闇を以って光を断ち斬る……神の剱とならん』





「…………ふふ」
「……何を笑うのです?」
 ルティアの襟首を乱暴に掴み宙に吊り上げていたアークマージは、唐突に笑みを浮かべたルティアに怪訝な視線を送る。
 瀕死の余りに気でも触れたのかとも思ったが、そのような性格ではないと思い直し、疑念を深める。そしてそんな懐古を断ち切る為にも止めを刺そうと、拳を振り上げ禍々しい光を収束させた。
「さようなら。ルティ――」
「ああぁぁぁぁぁっ!!」
 その瞬間、背後から噴出した濃密な気配と絶叫にアークマージはピタリとその動きを止める。
「!?」
 何事かとアークマージはフードの奥で眼を瞠らせ、変化の中心に視線を送る。そこには先程自分が穿った砂浜と、その抉れた大地の中心でユリウスは言葉にならない咆哮を挙げていた。
 だがアークマージの視線を捉えて離さなかったのは、立ち上がったという事実ではない。ユリウスの全身から黒い霧のような霊光が噴出していた事に対して、だ。黒の光は淡い点滅を繰り返し、狼煙の様にユリウスの周囲を漂っては闇の夜空に高く静かに昇り消えている。
 剣を手に、ダラリと俯いた体勢のまま半眼で前を見据えるユリウスの双眸には、はっきりと憎悪の感情がほとばしっていた。
(あれは霊素エーテル元素フォースの共振現象……まさか、こんな時に覚醒を!? ルティアとの接触が導いたというのですか?)
 その正否を問うようにアークマージは、今も掴み挙げているルティアに視線を移す。ルティアは表情の殆どを苦痛で歪めていたが、端から紅い鮮血を垂らしている唇だけが妙にはっきりと孤月を描いていた。
「ユリ……ウ、ス……」
 掠れた声でルティアが呻いた。その傷だらけの様相に反してどこか嬉しさを湛えていた。
 それを耳にして小さく舌打ちし、慎重さに眼を細めたアークマージは掴み上げていたルティアを無造作に傍らに放り投げる。そしてこの時で初めてユリウスと正対した。
 ユリウスは未だ先程の体勢と変わらずに佇んでいる。だがその周囲を取り巻いている黒の霊光は、点滅の強さを増していた。
「…………いえ、これは番の覚醒だけではない。何ですか…このマナの異常な収束効率は?」
 不可解な警戒に、アークマージは構えた。その際の砂地を引き摺る音に、ユリウスの身体が微かに反応する。
 憎悪を初めとするあらゆる負の感情に顔を歪め、俯いていたユリウスは顔を上げてアークマージを睥睨する。続き、天を斬り伏せるような勢いで手にした剣を高々と振り上げた。
寥落りょうらくの天柩に誘う蒼き葬列の稲妻。無謬むびゅう染まりし空を射貫き、虚栄渦巻く地を穿つ。斬り裂け、天威の剱よ!」



「ユリウス!!」
 遠くで、何とか上体だけを起こしたルティアが叫んだ。だがそれはユリウスには届かない。いや、今はもう誰の声もユリウスには届かなかった。
 ユリウスの裡を支配していたのは棄てた筈の残滓、その激動。それは金属と金属を擦り合わせたけたたましい音を発てて鳴動し、擾乱する破壊の意志を築き上げる。
 今はただ、裡を暴れまわる負の感情を乗せた殺戮衝動をあの刃・・・に再び振り下ろすだけ。ただそれだけしか頭に無かった。



 そして天高く掲げた剣を閃かせ、ユリウスは唱えた。
「ライデイン!」



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