――――第四章
第八話 比翼の
番
――どれ程の時間、見つめ合っていたのだろうか。
実際には数瞬に過ぎないのだが、ユリウスにとってそれはとても長久に感じられていた。
人々の喧騒が賑やかさと華やかさを彩る界隈。数多の人々の思惑が煌く場所にあって、光届かない薄暗い路地裏にて。
ユリウスは原因不明の身体の不調から立つ事さえ
儘なら無くなり、暫し地に膝を着いていた。めまぐるしく狂乱する五感を摩耗しながら空気を貪り、何とか壁に寄り掛かりながら立ち上がった矢先の事だった。
まるで示しを合わせたかのような絶妙なタイミングで雨霧で霞む路地の奥から白の女性が現れる。だがこちらが…或いはあちらもかもしれないが接近に気付いた時には既に遅く、互いが避ける事も出来ずに真正面から衝突してもつれ合いながら地面に倒れ込んでしまった。
四肢や五感に絡みつく深い白霧に遮られていた為、近付いてくるその存在の事にこうして衝突し倒れ伏すまで感知できなかった事がそもそもの原因と言えるだろう。
平時であるならばこのような事など絶対に無いと、誇示する気など無いが自信を持ってユリウスは言う事ができる。それだけ長年の経験から培い全身に染み付いた索敵の習性、空間把握の感覚が失せる事は無いからだ。だが断言できるが故に失態としか言えない現在の感覚不全は、ユリウスにとってその鋭敏な思考を途絶えさせるに値する事象だった。
そんな意識の顕れなのか、眼前にいる女性に半ば押し倒されるような形で地面に横たわるユリウスは起き上がる事も忘れ、ただ言葉を失くしたまま眼前の女性を見つめていた。どいてくれ、とただ一言の拒絶の言葉を発すれば時局に変化が訪れるのだろうが現実にはそうならず、己の意思が形ある言葉になる前に霧散して紡げなくなってしまう。
だがそれでも、その事に苛立ちが沸いてこないのがユリウスには不思議であり、己の思考がこの上なく不可解だった。
「…………」
絶句したまま表情を変えず、ユリウスは自分に
凭れかかっている女性の、女性特有の柔らかさを衣服越しに感じた。特にその事に対して何の感慨も沸く事はなかったのだが、現在の状況を改めて整理させるには充分な要因となる。
己の両肩には女性の手がその身体を支えるようにそれぞれ置かれており、お互いの吐息が交じり合う程近くに相手の顔がある。頭に深く被ったフードの影に翳んではいるが、相手の表情が手に取るようにはっきりと判った。驚きと共に何を思っているのか大きく見開かれしっとりと潤んだ暁色の、更に深い朱の中に映る自分が瞠目しているのが他人事のように知覚できた。
深朱の水鏡の奥に映る自分。虚を突かれたように微かに口を空けて呆けている様は何処か滑稽でさえある。
(人並みに驚いたつもりなのか。馬鹿馬鹿しい……)
ユリウスは遠く映った己の姿を冷静に客観的に眺めながら、即座に嘲った。刹那的な感傷に浸る事に意味など無い上、そもそもその前提たる情緒すら自分は持ち合わせてはいないのだ、と裡の深奥から意識が言い聞かせていたからだ。
視線と吐息を絡ませたままでいると、空気の流れに靡き、視界をちらついていた白い髪の一房が自重を支えきれなくなったのか、はらりと自分の鼻頭に零れてきた。それは擽ったく滑らかに鼻から頬へと顔を横に撫でて宙に落ちた。その白の漂う軌跡からは清々しい朝露を擁く花の香りが発せられているようで、鼻腔を優しく突いては思惟の深淵に陥ろうとしていた自分の意識を一気に浮上させた。
ここで漸くユリウスは今しがた目覚めたかのように瞬きを数回して、言葉を発した。
「…………どうでも良いが、どいてくれないか」
「え、ええ……ごめんなさい」
淡々とユリウスが言うと、眼前の女性…ルティアは刹那に
寂寥を眸に走らせて身体を退いた。
しなだれかかられていた事に特に重いと感じていた訳ではないが、妙な開放感を覚えながら上体を起こし、ユリウスは手早く外套の所々に付着した泥を払う。だが布地の深くに染み込んだそれは取れる筈も無く、微かに乾いた表面が零れ落ちる程度だった。外套にジワジワと泥が染み込んだ様は、時間が経って黒く乾いた血痕のようにも見える。妙に生々しく見える泥の跡を眺めながら、自分はいつどこにいても血に塗れずにはいられない、との考えが浮かび自分の姿に内心で失笑を禁じえなかった。
無意識の反射だったのか上手い具合に受身を取れていた為、身体に倒れた際の痛みは残っていない。ただ衣服をゆっくりと侵食してくる水気の齎す冷たさだけがはっきりと感じられていた。
自分の状態を確認したユリウスは、ようやく改めて眼前で未だ自分を見つめたまま黙しているルティアに視線を移した。
地面にポツンと腰を落とした白妙の外套の奥から、何を訴えているのか暁色の視線が真摯に自分にへと投げ掛けられていた。雨や外気の冷たさに長時間晒されていたのだろうか、その顔は微かに上気して赤みが差している。特に意識しているのかどうかは知る由も無いが、上体を斜めにして片腕に体重を預け、上目遣いに一心にこちらを見つめてくる様にはある種の蠱惑的な艶さえ醸しているようであった。
唐突に風が吹き抜けた。それは今この街に犇いている霧と湿った空気を攫う乾いた清涼なもの。その清々しい風によって深く被っていたルティアの白いフードが、ハラリと後ろに流れる。
露になるのはただ真白。自分の夜よりも深い漆黒の髪に正対するような、思わずその白さに意識を吸い込まれてしまう錯覚を誘う程に清らかなもの。加齢と共に変わり往くそれとは全く異質の、光さえ寄せ付かせない混沌としている白だ。
(どこかで……)
脳裡に何か引っかかるものを感じて、ユリウスは目を細める。視界は雪よりも白に独占されたまま。
夜の黒の下にあってその白さは燦然と輝く無機質な街路の灯を反し、原色の輝きを導いてくる。空気が揺らぐ度にそれは虹色の裡を蕩揺っては刹那、灰色に変わった。
めまぐるしい色彩の濁流を目に捉えていると、不意にユリウスの胸中で何かがざわめいた。そのざわめきの原因を追求しようと思考を巡らせると、ある既視感に襲われる。それは即座に脳裡に像を結んで過去の記憶を蘇らせた。
――灰色の空、白の太陽。そして漆黒の地。あらゆる生命の鼓動を感じない静謐の景色。
それはライトエルフの聖地であったの地下洞窟で幻視した、彩りの無い懐かしい世界。そこに眼前の女性は確かに、清冽な現実味を纏って存在していた。
「あんたは……あの時の!?」
「…………」
妙な確信を持って呟くユリウスに、ルティアは何も答えない。ただ静かな、柔和な笑みを面に浮かべてユリウスを見つめ返して来る。それが自分の問いを肯定しているようにユリウスには感じられた。だが明け往く夜空の輝きを髣髴させる優しげな眼差しはそれだけには留まらず、まるで闇しかない自分の深奥さえをも照らし、見透かされているような不思議な感覚に陥った。
瞬間。その微笑が過去にいた
二人と遠く重なってしまい、直視できなくなったユリウスは逃げるように顔を背ける。眩し過ぎる太陽の光に耐えるように険しく眉を寄せ、目を細め。苦々しく顔を顰めさせながら、凡そ他人から見れば拒絶としか取りようの無い態度で、当ても無く視線を小路の先にへと彷徨わせていた。その為、ルティアの笑みが哀憐と愁嘆に満ちたものに変わっている事にユリウスは気付かなかった。
目に障る街の色光を遮るように片手で額を覆い、ユリウスは小さく深く嘆息する。思考が冷静になり己の言動を改めて思い返してみると、如何に自分が突拍子の無い事を口にしてしまったのか良く解る。鮮烈な色彩の波に自我の在り処が少しわからなくなってしまったようだ。
(まったく……、どうかしているな)
こめかみを押さえる指先に自戒と自壊の念からか無意識に力が篭り、微かに頭蓋が軋んだ気がした。
心地良い鈍さの痛みを改めて知覚した時。ふと、もう長い時間自分を苛んでいた不快な頭痛や倦怠感が消えている事にユリウスは今更ながらに気が付いた。眩暈も頭痛も、吐き気も耳鳴りさえも無い。あれ程までに自分の深奥にまでこびり付いて長く苛み続けていたと言うのに、不調だった事に疑いを持ってしまう程に、完全に身体が普段の調子を取り戻していたのだ。
心身共に起こった自らの変調。それは原因が不可解であるが故に、純粋に不思議だった。だからこそ尋ねたのかもしれない。例えそれが自分の通常な思考行動からかけ離れていると自覚していても、ユリウスは問わずにはいられなかった。
慎重な声色で、隙の無い怜悧な眼差しでユリウスはルティアを見据えた。
「あんた、何者だ?」
(さて、どう答えるべきかしら?)
雨上がりの空気は否応無しに濃密な土の香りを立ち昇らせてくる。その噎せ返るような芳香は白霧の残滓と絡み合って、自分の裡を攻め圧して来るような気がしてならない。
それに耐えるように呼吸を止め、追求の黒の視線をも余さず受け止めながら、表情を変えずルティアは思考を巡らせた。
本当に運命染みた偶然だったが、ユリウスと邂逅を遂げた時点で遠き
此方にまで足を運んだ目的の一つは既に果たされている。人間の情緒思念に渦巻いているこの未知なる地で、一人の人間を探し出す事の苦労を考えたのならば、この出会いは僥倖と言えよう。
あとは、外套の下で今はまだ鎮まっている秘石を眼前の彼に渡すだけなのだが、唐突に渡されても訝しがられるだけ。自然にユリウスに受け容れられなければ意味を成さず、そしてその為の機は未だ満ちていない。
ルティアはそう確信していた。だからこその逡巡だった。
――無聊を慰め合い、睦み合うは流転する白と黒。白と黒と、夜と昼を擁す天の竿秤が空に平衡を刻む。
白き翼は煩慮なるが故に霞む地に惑い、黒き剱は無依なるが故に暗き天に吼える。
深奥を蕩揺わす乾いた咆哮は、ただ無為なる空を彷徨う。
空の応じは、天地揺るがす蒼き神鳴の
叫きとなりて闇天の盾を打ち据える。
胎動するは紅蓮にして至高の輝き、紅き命脈は皇王の剣に捧ぐ供物への産声を上げる。
其が秘めたるは血潮よりも
朱く、そして黄昏よりも
明い優しい光……――
脳裡に
詩が響いた。それは記憶に宿る過去からの声。
(マリアベルの言葉を信じるなら、まだ
その時じゃない。だけど……)
その先を考えた時、ルティアの表情に僅かな翳りが浮かんだ。目敏くそれを逃さなかったユリウスは、鋭く言い放つ。
「答えろ。あんたは……誰だ?
あの時、俺の意識に介入してきたのはあんたなのか?」
痺れを切らしたかのように低く、傲然ともいえるユリウスの言葉。凡そ人に何かを尋ねる時の口調ではないが、ルティアはそれに気を悪くするでもなしに、ただ静かに見つめ返すだけ。それは単純に、意思を形にする際に飾り着けられる口調など些細な事に過ぎなかったからだ。
“あの時”、とはエルフの地下遺跡での事を言っているのだろう。こちらから彼に接近した事は他にもあるが、自分について回る
軛の為にほとんどが一方的なもの。意識だけであろうとも互いに認識を伴う接触を果たしたのは、あの時が初めてだった。彼がそれを気に留めていてくれたのならば、件の接触は無駄ではなかったと言う事だ。
自分にとって重要なのは、ユリウスという存在がユリウスという意識によって保ち、在り続ける事。その意識の根底を支える魂魄が、それ自身に秘められた美しい輝きを在るがままに放つ。ただそれを感じるだけで自分の全ては落ち着いていく。事実、出会う直前までは差し迫っている絶望と恐怖から心身ともに震撼していたというのに、今はこうも風の無い湖面のような静謐に満ちていた。
それはユリウスという存在が目の前にいて、その双眸が自分を捉えていてくれるからに他ならない、とルティアは思う。
(……なんて、少しロマンチストにすぎるわね)
己の夢見がちな思考行動に可笑しくなり、ルティアは微かに楽しそうに口の端を持ち上げた。
するとユリウスは露骨に顔を歪めた。自分の質問には答えず、唐突に微笑を浮かべられたのだからそれは無理も無い。幾許か声色を落としてユリウスはルティアを睨んだ。
「……何が可笑しい?」
「ごめんなさい。ただ……嬉しくて」
様々な思惑や狙いを秘めての接触ではあったが、何よりも自分の心を占めていた理由は純粋に言葉の通りだった。こうして
普通にユリウスと言葉を交わせる事が、ルティアにとっては何より嬉しかった。街の人間全てが例え操られていようとも、最早自分にとっては相容れない意志に染まりきり排除しようと行動している現実が、内心から止め処なく溢れてくる歓喜の感情を後押ししているのが良く解った。
「嬉しい…だと? 何の事――」
「――私はルティア=アタラクシア。ルティアと呼んでくれて構わないわ。……あなたは?」
胡乱の視線を強めるユリウスを遮って、先制してルティアは名乗る。そして次いで空々しいと思いながらも発せられた言の葉は、ユリウスの追及に対しての単純明快な答えであり、それ以上を避ける為の衝立であった。
途中で追求を断たれてしまい、ユリウスはその事にしばし呆気に取られて目を見開いていたが、やがて表情を普段の無にまで戻し、言う。十分とは言い難いが自分の発言を吟味して、それ以上の解は見込めない事を覚った様子だった。
「…………ユリウス=ブラムバルド」
妙な敗北感からなのだろうか、無表情ながら何処か憮然としたような雰囲気を醸して名乗るユリウスを目にして、ルティアは笑みを深めずにはいられなかった。
―――天に到る道を創るように空へと続く連峰。その最も高き頂に、更なる高みへと伸びる一つの塔があった。それは大空を颯爽と駆け回る疾風の最中に佇み、それら全てを受け止めては流している。
世界の全ての叡智が眠る地“天空の塔”として名高い、四方塔の一ガルナ。賢者認定機関の存在する地であり、人の究極の高みに達する為に数多の人間が想いを馳せて止まない場所。海抜世界一を誇る高山地帯にあって泰然と構え、遥かな世界を見下ろしていた。
ガルナの塔は幾つもの尖塔が密集し連なって
巨な一つを構成している複合の塔だった。中心に座す主塔の四方を守るように寄り添いながら小塔が四つ円を描いてスラリと並び立つ。それぞれの塔と塔との間には空中回廊が架けられて、各々を連絡していた。現在の建築技術ではどのような設計を以ってしているのかさえ知り得ないその塔は、ただ在るだけで古代の技術の練達さを見る者達にまざまざと知らしめる。岩石なのか金属なのか材質すら窺い知れない硬質な何かで築かれた塔の全景、その威容には崇敬の念さえ覚えるものも少なくない。
嘗ての四方塔信仰の時代のまま変わらぬ姿を保つそれは、時間という逆らえぬ絶対の流れからの解脱を実現した一つの境地であり、それ故に未来永劫に普遍である“天空”の名を冠し尊ばれていた―――。
その中で中央に聳える最大の高さを誇る主塔、その天頂にて。
太陽を一身に受け止める天井の無い空虚な大円に開かれた部屋の中心には、丁度杖の石突を填め込むような台座が一つポツンとあり、それを囲うように幾何学的に複雑細緻な紋様が石床に所狭しと描かれている。その紋のいたる処から伸びる端々は、塔の外周に沿うように並べられた列柱にまで及んでおり、全ての柱に描かれた意味深長な魔法紋字と繋がるように描かれていた。燦然と射る陽光を反して、ぼんやりと燐光を放っているとの錯覚を覚える紋様を擁する列柱はどれも一様な高さではなく、それぞれに個性があるかのように疎らに凹凸し、その様は天空を支配する太陽を掴もうと掲げる人の手のようにさえ見える。
年月と風雨によって微かに角が削られた石造りの台座の上で、翼を雄偉に広げた竜の彫像を擁く杖を抱き締めるように携えた青年が、そのままの姿勢で瞑想していた。特異な点を挙げるとすれば、青年の身体は如何なる作用の顕現なのか宙空に静止し、抱えた杖の石突だけが床との接点だった。
大空よりも更なる上空に広がっている深い蒼穹の髪は、部屋をすり抜けていく風に攫われてさらさらと流れ、額には黄金の輝きを湛えたサークレットが座していた。その中心で燦然と煌く紅蓮の宝珠は、開けた天井から射る太陽を浴びて眩いばかりの明光を周囲に零し、その清廉さを物語る。青年の様相はまだ幼さの残るものであったが、全身から至極自然に流れ出る神性はそれを微塵も感じさせない。
ただ黙して佇むだけで強烈にして清冽な存在感が空気を支配する。そんな神々しいまでの気配を放つ彼は、人間が極限の果てに到達する遥かな地平を超越した境地に立つ存在だった。
青年は眉一つ動かさず、眸を伏せたまま静かに床に降り立つ。
乾いた空気に響く靴音に合わせて、部屋の隅で気配を忍ばせ静謐を楽しみながら手に持つ書物に目を落としていた氷青髪の能面のように無表情な女が顔を上げ、纏う雰囲気に違い無い硬質な声を発した。
「いかがなされました?」
「マナの流れが乱れている。理に均らされた自然からなるものではなく、明らかに異質を要因とするもの」
眸を伏せたまま虚空を見つめ紡がれる蒼の青年の言葉に、開いたままの書物をパタンと閉じて氷青の女は両の眸で改めて真摯に青年に対する。片手間に何かをしながら聞ける話ではない、と女は判断したのだろう。
「……“来訪者”ですか?」
女の慎重さが声色から窺えた。その単語の意味がどれ程の重さになるのか、声を発した彼女自身が良く理解している事だった。それに青年はただ深く首肯する。その単調さが女の緊張を確かなものにしていた。
「間違い無いだろう。異質との摩擦によってマナの流れが悲鳴を挙げている。……君も感じないか? この世界に響き渡る慟哭の不協和音が」
「探査能力に適正の無い私には判断しかねますが……皆を招集しますか?」
女は冷然と青年の問い掛けを濁すが、それは青年に対して事実を覆い隠す必要が無いからだ。それは偏に、青年への絶対の信頼と忠誠の裏返しである。その潔さに青年は満足げに口の端を持ち上げた。
「そうしてくれ…………ところで、あの
はねっ返りは戻ってきているかい?」
青年の言葉に、ここで初めて女は刹那の間ではあるが目を微かに細め、表情の変化を見せた。
「小喧しいはねっ返りのじゃじゃ馬娘…ミリアですね。はい。今はムオルでアニエスに折檻されています。ノエルを
ライトエルフの里…いえ、ノアニール村に放置してきた事に余程ご立腹だったのでしょう。アニエスを抑えるのに、グロリアとクレド、サンまでも駆り出される始末。……私が確認してきた範囲で蒙った被害は、
里の長老館が半壊していた程度です」
何にしても
甚だ迷惑な話です、と至極淡々と物騒な事を口にする彼女に、青年は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ頬を掻いた。女に語られた事が厭に生々しく鮮明に想起されて呆れたのだろう。乾いた笑いのように微かな空気の振動が青年の口腔から漏れていた。
「他人の家を主不在時に破壊するとは君達は手厳しいな……いや、ティターニアやノエルの祖父の事を
慮るならば仕方のない事だろう。寧ろそれがミリアの思慮による行動ならば、それは彼女が彼女自身を縛していた鎖から脱し、成長したと言う事の証だ。容赦するよう、アニエスに伝えておいてくれ…………ついでに修理も忘れないように、と」
「はい。仰せのままに」
やはり無感動に、さり気無く自分は無関係である事を主張しながら氷青髪の女は頷いていた。
双眸を開く意志の無い青年はゆっくりと、だが確かな足取りで石床を歩み、部屋の外周を飾る柱の一つに手を掛けた。普通ならばその行動には危うさを感じるのだが、この場においてそれは愚かな杞憂でしかなく、青年の他に只一人いる女も動く素振りなど微塵も見せない。
女は、淵に立つ青年の背中…外からの風に激しく翻っている外套を、そしてその先に広がる大空を見つめた。
無限の蒼穹が何処までも広がっている。その中で風に流れる白雲は、空の果てに吸い込まれるように細く一点に集約している。その様はまるで世界の終焉が形となって徐々に差し迫っているようにも見えた。厳密にこの世界の理を考えるならば至極単純な自然摂理に則っている事に過ぎないのだが、感傷的にそう感じざるを得なかった。尤も、当然女はそんな胸の裡を面には出す事は無いのだが。
身を切るように鋭く冷たい高空の風と戯れていた蒼穹の青年は、頭だけを女に振り向かせた。
「私が瞑想に耽っている間、何かあったかい?」
「大局的には何も。ただ来客としてスルトマグナ氏とエレクシア女史がおいでになりました」
「スルトにエレクシア……か」
「はい。スルトマグナ氏はミリアが戻ってきた事を聞きつけて訪ねてきたようですが、ノエルが戻らないという事を知ると、消沈した様子でダーマに帰っていきました」
「スルトにとってノエルは唯一無二の親友だからね。帰ってくる事を楽しみに待っていた彼にとって辛い事なのだろう。だけどそれもまた、生きるうえでは避けては通れぬ路。まぁ恒久の別れではないという事も、あの賢しい童子ならば解っているだろう。それでエレクシアは?」
「エレクシア女史は、“
聖芒天使”様からの言伝を貴方に。女史も多忙な身ですから早々に聖殿に帰られました」
女の報告に青年は興味ありげに口元を歪ませ、眉間に指先を宛がう。それは青年が思考を広げる時の仕草である事を、気の遠くなるような年月仕え付き従ってきた女には知れた事だ。
「ふむ、アナスタシアがわざわざ自らの代弁者を私に遣わせる程の事だ……何だった?」
「はい……『“
賢者の石”の一欠片…五色の
黒曜を察知した。だがこちらから出向くには距離がありすぎて面倒故に、処理はそちらに適当に任せる』……との事です」
「成程、アナスタシアらしい。相変わらず大雑把でいい加減な女だ」
くくっ、と肩を揺らしてその青年は楽しそうに笑った。痛烈な言葉とは裏腹に特に悪感情など感じない。むしろ旧友の悪癖を再認識したかのような親しみさえ感じられた。
「如何致しますか?」
「放置しておこう。アナスタシアも適当に任せてきた以上、私がこうするのも想定内の事なのだろうしね」
女の問いに、青年は肩を竦めながら返した。
蒼穹の青年は纏っている外套を大きく翻し、部屋の中央にまで歩み戻る。そして翼竜を擁した“閃杖・
天雷の杖”の石突でコツンと床を突いた。すると杖と冷たい石床の間から青白い光が湧き水の如く滾々と噴出し、青年を包み込んでいく。その光の膜が青年を覆い尽くし、一片の輝きを増すと、青年の身体は理に反して自然と浮かび上がり始めた。
「さて、キリエ。私は少し所用で出る。この
場は任せる」
キリエと呼ばれた氷青髪の女は聞き返さない。青年の取る行動を理解しているのかただ頷いた。
「わかりました。どうかお気を付け下さい。……ジュダさま」
キリエがその名を口にすると、十三賢人筆頭“
魔呪大帝”ジュダ=グリムニルはその姿を蒼天に晦ませた。
“天空の塔”の天頂から、更なる天空へと伸びる流星の軌跡を見送りながら、キリエは深深と腰を折って頭を垂れていた。
「――で、こいつらは一体何なんだ? どう見ても街の人間にしか見えないが」
言いながらユリウスは路地の曲がり角で待ち構え、剣を大上段に振り上げた傭兵風の男の剣柄を切り上げて武器を弾き飛ばす。そして間髪入れずに横脇をすり抜けて、すれ違い様に回し蹴りを男の背中に痛烈に叩き込んだ。
その間は僅か数瞬。鞘に納まったままの剣を手にしたまま、ユリウスは無駄の無い動きで確実に相手を退けていた。そして、走りながら隣を遅れる事無く併走していたルティアに視線を送る。
「そうね。彼らは確かにこの街の人々よ。私の事が嫌いで嫌いで仕方の無い人が、私を追い詰める為に彼らの意識を奪って、攻撃させているのかもしれないわね」
「…………」
追求の視線を受けて、深くに白いフードを被り押さえたルティアは返す。だがその声色は独りの時と違い抑揚に溢れていた。
その抑揚に、そこはかとなく喜楽染みた何かを感じてユリウスは半眼でルティアを見下ろしていたが、誰かが立つ気配を感じて再び前に目線を戻す。その先では狭い裏路地を塞ぐように、柄の悪そうな風体の男が立っていた。ただ、見た目の悪辣さに反して眸には輝きが微塵もない。表情の抜け落ちた虚ろな佇まいは、つまり自我の喪失を意味していた。
「……またか」
心底鬱陶しそうな溜息と同時に地を力強く蹴り、速度を落とさずにユリウスは間合いを詰め、鞘に納まったままの剣で前方より大振りのナイフを手に飛び掛ってきた男を容赦無く打ち据える。尤も、ユリウスが全力でそれを行えば例え鞘打ちであろうとも相手に致命的な痛手を与えてしまう為、多少の加減はしていたが……。
虚ろな表情だった街人は強かな衝撃を身体に受けて、苦悶の呻きを零しながらその場に崩れ落ちた。苦痛に喘ぐのは意思の回帰の兆候である事をユリウスは知っていたが、地面に伏した男を見向く事はしない。倒した者に気を取られるよりも、周囲の気配を入念に探らざるを得ない状況だったからだ。
――街の人間はことごとく己の意思を失くしており、何者かに操られている状態にあった。それがどういう指示を受けてのものなのか知りようがないが、自分達を追い詰めるように街中を徘徊し、姿を捉えたら問答無用で襲い掛かって来る。
操られているとはいえ思慮の欠けた、戦闘行動とは程遠い動きの人間を退かせる事自体に労力はさして要らなかった。だが何よりも億劫だったのは、自意識を失くし空ろな光を眸に灯した街の人間が何処に潜んでいるか、そしてそれを如何に素早く的確に察知するか、だった。
特出した意志の顕現は生命が醸す気配と絡み合って、強く存在感を空気に広げる。もしこれが広野を往く野生の魔物や獣などのように殺気や敵意を垂れ流しに放っていたのならば索敵は容易だっただろう。だが今この街に犇いている人間にはそれが無い。彼らは今、意志を喪失した空っぽの器のような状態。見えない糸に繰られているだけの哀れな木偶人形に過ぎないのだ。
立て続けに襲い掛かってきた街の人々を次々と剣、或いは体術で打ち倒しながらユリウスは進む。剣を抜かなかったのは、何よりも相手からの敵意と殺意の根源である攻撃意志を全くと言って良いほど感じなかったからだ。これがもし、攻撃意志によって導かれた行動ならばユリウスは即座に反撃して、その人間を殺していただろう。それだけ自らの心身には、敵意や殺意に対しての破壊衝動、戦闘反射が深く根付いているのだ。だが実際には相手側にはその意志は存在しておらず、そして何よりも剣を抜こうとした刹那。傍らに居た見ず知らずのルティアと名乗った女性が阻んだのだった。
何故、とユリウスが問うてもルティアはその理由を語らない。ただその暁色の双眸に哀憐を湛えるだけ。そしてそれがどうしようもなく、過去に自分を見ていた二人を想起させて重なってしまう。
当時の自分は気付かなかったが、今思えばあの二人も自分を見る時はいつもこのような翳を眸に宿していた気がする。それが如何なる思慮の賜物なのかは今も理解できないが……。
偉大な父と比べられ、その責務を継がねばならなかった“子供”に向けられる視線でもない。
絶望に瀕した世界を救う、希望を双肩に背負う“勇者”に向けられる視線でもない。
標敵と獲物と搾取、駆逐対象としての“人間”に向けられる視線でもない。
今までに
二人以外に向けられた事の無い類の、ただ純粋に不可解な視線。それに見つめられると何故か言葉が消えてしまう。言葉を紡ごうとしている意思が
何かに打ちひしがれて霧散してしまう。自分の理解を超えた
何かが魂すらをも束縛しているようで、ユリウスは反駁できなかった――。
「……仮にあんたの言う通りだとしても、ならば何故俺まで攻撃対象になっているんだ?」
「どうしてかしら? それは施術者本人に訊いてみないと私にはわからないわ」
既に十を超える虚ろな人間と遭遇を果たしていたからか、ユリウスの声には何処か諦念の彩が篭められていた。逆に嘆息混じりのそれを受けたルティアは、走りながら暢達にその暁色の眸をくるりと回し、愛嬌のある微笑みを零す。その原因を知っているのか、いないのか。非常に曖昧なはぐらかせだ。
それを見止めたユリウスは、胡乱げな視線をルティアに向けるのを止める事はできなかった。
「……質問を変える。あんたを狙ってこんな大仰な術を行使した奴の特徴は?」
「性悪ね。それはもう嗜虐的で、狡猾で陰湿で……考えただけでも怖気が走る」
小さく言いながら身を震わせるルティアに、そんな内面の話ではない、とユリウスは顔を顰めた。
「街全体が
こうだと言うのならば、術者は人間では無いな。これは明らかに人間の能力の
階位を超えている」
「そうね。
人間ではないわね」
「あんたとの――」
「ルティア。名前で呼んでって言ったでしょう」
少し語調を強め切実な抑揚でルティアは遮った。フードで顔を隠れているにも関わらず、その双眸は余りにも真剣にユリウスを捉えているようだった。
その清澄で強かな視線に何故か気圧されてしまったユリウスは、口腔から出かかった言葉と息を呑み込む。
どうして自分は、この双眸に見つめられていると調子が崩れてしまうのか。得体の知れない背徳感が氷のように背筋を這って、胸中に暗澹をざわめつかせるのだろうか。そう自問してみる。だが明確な答えは紡げず、陳腐な意味しか持たない空想が脳裡で思考を侵して渦を巻いているだけ。
(自らの意志で棄てた筈の物が……、未だ消滅しきっていない残滓がざわめいているとでも言うのか?)
脳裡で渦巻いた価値の無い思念を、自我の奥底から湧き上がる闇の刃で切り刻む。色褪せた記憶の断片を全て黒く塗り替えて無に還し、微かに裡で揺らいでいた何かをユリウスは絶殺した。
(……在り得ないな。俺はただの剱の聖隷だ)
それは気の遠くなるような一瞬。その後、真正面から絡んだ視線を引き剥がしてユリウスは再び前を向いた。
「ルティアとその相手の関係は……まぁこの際どうでもいい。それよりも、どうして俺まで魔法が封じられているんだ? あんたと術者が知己の間柄であったとしても、初対面の俺には何の関係も無いだろう」
現実に、ユリウスの魔法もまた今は封じられていた。その事に気が付いたのは、邂逅を果たしたルティアと見ず知らずの街の人々から攻撃を受けて路地に駆け込んだ時。ルティアの腕から滴り落ちえる血を見止めた時だった。
ユリウスは彼女の傷付いた腕に掌を翳し、回復魔法を紡ごうとした。だが一向に
魔力が集約される気配を見せず、ここで初めて己の魔法が封じられていると覚ったのだった。今、ルティアの二の腕にはユリウスの持っていた薬草が宛がわれ、汚れていなかった外套の一部が包帯の代わりに巻かれている。
何故自分でもそうしたかは今でも解らない。後付の理由として、血痕を残したままでは追跡してくれと言っているようなものだからそれの対策だ、と納得する事にした。そしてこれ以上その事を脳裡の留まらせておくのは危険な気がして、ユリウスは警戒を以ってその思考を圧し潰していた。
走る速度を緩めずに並走し、怪訝な視線を送ってくるユリウスにルティアは困ったような表情を作る。だが口元は微かに孤を描き、今の切なる眼差しが幻だったのかと思わせる程、眼には悪戯っぽい艶が載っていた。
「そう言われても……私だって、突然の事だから混乱しているのよ」
「……とてもそうは見えないな」
まるで戯れの最中であるかのように弾んだルティアの声色を耳にして、ユリウスは内心で大きく溜息を吐きながら口腔で呟いていた。
二つの大通りの交差点付近になると、それ自体が巨大な建物郡が軒を並べている為、裏路地の幅が極端に狭くなり、その数は少なくなってくる。薄暗い裏路地の壁が、大通りから入り込んで来る光によって徐々に明るみを増していた。それは大通りが近い事に他ならない。そして大通りに出れば、確実に障害になるであろう街人達が大勢で跋扈しているのが自然に予想できた。
街を覆っていた白霧は何時の間にか失せ始めていた。それに気付いたユリウスはふと空を見上げてみる。すると、地面から伸びる高い壁に囲まれて、窮屈そうに煌いている星星と月が垣間見れた。その灰壁に囲まれた漆黒の夜空は、閉ざされて支流に往く余裕さえない自らの世界を映しているようだ、何と無しにユリウスは思った。
(この先は議事堂、か。……誘われているのか?)
二つの大通りが交差する場所…噴水広場に躍り出た時。その界隈を覆い囲むように犇いている人の影が視界を独占していた。人の数に反して風韻のみが街に響き渡る静寂の中、尚も煌々と照る街の灯を映す空ろな視線は酷く不気味で、否応無しに底知れない不安を誘う真夜中の浜辺を想起させる。
そんな無心の視線が飛び交う中を潜り抜けてユリウスとルティアは疾駆し、両開きの扉を乱暴に抉じ開けて夕刻に訪れた“摩天楼”に再び足を踏み入れた。
扉の内は、灯り一つ点いていない暗闇の空間。遥か高くに備えられた窓から射る外の光だけが、この深々と広く涼やかな中での唯一の光源だった。太陽がまだ空にその痕跡を残している時はあれ程までに人影に溢れていたというのに、真夜中の凛とした空気には人間一人の気配も孕んではいない。静謐の余り耳鳴りが響いてきそうな闇が、水の如き粘度を以って全身に絡み付いてくるようだった。
微かに扉を開け、その僅かな隙間から周囲を窺うユリウスは、限られた視界を占めている人垣を一瞥して扉を閉めた。そして、両腕を組んで口元を手で覆う。
「連中は追ってこないようだが、こう囲まれてしまっては逃げ場も無いな。ルーラもリレミトも、キメラの翼も発動を起さない……さて、どうするか」
言いながらユリウスは微かに開いた扉を再び閉める。その際に、錆び付いた銅の擦れ合う破裂音が冷然とした空気に鳴り響いた。それは閑散と広がる空間で幾重にも反響し、遥か高くを覆っている天井に吸い込まれるように昇っていった。
「ごめんなさいユリウス。あなたを巻き込んでしまって……」
ユリウスとしては今ある現状を確認する為に敢えて言葉にしたに過ぎなかったのが、ルティアにはそうは聞こえてはいなかったようだ。
開閉音の余韻が消えるや否や、ルティアは薄暗く外からの灯りのみによって照らされる空間の中で、その薄闇に霞みそうな消沈した表情を浮かべている。その消え入りそうな声もまた、先程の扉の音と同じような軌跡を辿った。
それを見たユリウスは、眉を顰め怪訝というよりは疑念に満ちた表情を浮かべてルティアを捉えた。
「何故あんたが謝る必要がある?」
「え?」
弾かれたようにルティアは顔を上げる。その双眸は何かしらの感情が裡に渦巻いているのか、揺れているのが微かな光だけでも見る事ができた。
だがそんな感情の変遷を理解できないユリウスは、ただ確認事を改めて確かめるように淡々と言う。
「別にあんたを責めている訳ではない。忌むべきはこんな面倒を引き起こした術者であって、その被害者であるルティアに否は無いだろう」
「…………優しいのね、ユリウスは」
はっきりと真摯に言い切られてルティアはほっとしたのか、張り詰めたような表情を解き、心底嬉しそうな緩やかな笑みを作る。そんな笑みを向けられたユリウスは逆に表情を無くした。
「何の事だ」
「ふふ……」
しおらしく俯いていたかと思えば、ルティアは今やたおやかな笑みを浮かべている。その移り様にユリウスは思わず溜息を吐いた。何となく会話の主導権というかペースを握られているようで、やはりやり辛い相手であるとの認識をユリウスは強めていたのだ。そしてそんな事を思い、容認している自分の思考が一番不可解だった。
そんな思考が表に顕れたのか、本当に微妙な変化に過ぎないそれを目敏く見止めたルティアは軽やかに歩み寄ってくる。
「どうしたの? そんな難しい顔をして」
「いや、何でもない」
身長差の為か下から覗き込んで来るルティアに、ユリウスは無意識に一歩後退した。
――次の瞬間。空気が硝子の割れるような音を発したかと思うと、青白い光が冷たい床から発せられる。光の瀑布は無数の筋となって瞬く間に床を縦横に走り、やがて複雑な幾何学紋様を床一面に描いた。
「何だ、この魔力の波動は!?」
光から発せられている圧倒的に濃密で強かな魔力の波動に愕然としながら、条件反射的に剣の柄に手を添わせ、全身や表情、そして意識を引き締めてユリウスは油断無く周囲を見回す。
だが警戒の念に反して、周囲に潜んでいた闇が床からの清冽な光の奔流に攻め立てられて悲鳴を挙げているだけ。
警戒を深めるユリウスの横で、床に描かれ始めた魔方陣…その形成の様子を見て何かを察したのか、大きく眼を見開いたルティアが悲鳴染みた声色で叫んでいた。
「この魔法陣は……まさかっ!」
床に浮かび上がった魔法陣から昇る光は脈打つように点滅し、輝きを増していく。そして光の鼓動は強かに次第に早く間隔が短くなってゆく。
「これは……――」
ユリウスはルティアに問いかける。だが床からの凄絶な光に遮られて、もうその影姿すら見る事はできない。視覚を灼きかねない光に、ユリウスは意識が肉体から遠ざかる錯覚を覚え、言葉を続ける事が叶わなかった。
勢いが止まらない青白い冷たい光は薄暗かった堂内を眩く照らし出し、その冷静な限界の無い光の奔流を留めきれなくなったのか、太陽の如き燦然さに世界は遂に白転した……――。
ただ一色の黒の中、寄せては返す波の音がする。それは静かに、強かに。否応無しに深い無意識の海へと誘うまどろみのようである。
靴の底を通して砂の擦れ合う感触が捉えられた。潮を孕んだ生臭い風が全身を撫でて鼻腔を擽った。
徐々に感覚は戻りつつあるが、余りに急激な光の波濤を浴びた為か要たる視識は閉ざされ、今いる場所が砂浜…更に言うには屋外である事を理解するには時間を要した。だが時は悠長にそれを受け容れる時間を与えてはくれない。
光に眼が眩み、闇に未だ慣れないユリウスとルティアの二人に向けて、高く耳心地の良い清楚な声が響いた。
「はじめに断っておきます。貴女があの街からここに転送された瞬間を以って、あの街に張り巡らされていた結界は解かれました。私としても、無意味に人間に危害を加えるのは本意ではありませんからね」
夜の静寂を壊さずに、だがはっきりと世界に広がる言の葉。滑らかな抑揚と丁寧な物言いは逆に情緒の立ち入る隙の無さを示していた。
ユリウスは僅かに慣れてきた眼を細くする。
夜の海は空の色をも取り込んで更なる深い闇色を湛えている。無為に寄せては返し、その無限の連鎖を築く先駆者たる漣が世界を浸食する闇の汚泥に見えて仕方が無い。
その黒海を背景に、佇んでいた人影が一つ。その姿は夜闇の漆黒にはっきりと浮かび上がっていた。
空と海の黒さとは異質の、混沌の闇を体現したかのような暗藍色のローブで全身を覆った人物が、子をあやす母の如き慈愛に満ちた声色で優しく言った。
「ようこそ、重苦と絶望の果てにある安らかな死地へ。お待ちしていましたよ、ルティア」
闇の衣の奥底で、艶かしく映える黄金の眼が爛々と輝いていた。
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