――――第四章
      第七話 雨霧に惑う白と







 夜闇と静寂しじまが支配する虚空の一点に、強い風が吹き荒れた。
 それは周囲に青々と生い茂る草叢を巻き上げて星の空へと散華させる。渦の如き昇る流れによって草と土の飛沫は舞い上がり、その渦中の景色が微かに揺らいでは歪み。ゆらゆらと景色に波紋を残していた歪は徐々に背景を侵食し、終にはその景色の原形さえ判別できなくなるまでに肥大化した。
 元の景色がどうであったのか、既に正視する事さえままならない歪の中心には、その裡で何かが胎動しているような不思議な昂揚を周囲の空気に撒き散らしていた。歪みきり、あらゆる夜の色彩が凝縮された特異な点から齎される鼓動は、卵から雛鳥が孵る前兆にも似通っている。やがて空気を圧していた蠢動が極致を超えると、そこから泉水のように白の光が滔々と溢れ出し、やがて清冽な奔流となって空気を流れ始めた。
 とめどなく溢れる眩いばかりの光輝の一つ一つが連なっては夜空を劈き、一つの流れを作っては渦を形成する。留まらない青白色の光流は闇色に染まっていた虚空を燦然と照らし出し、そこだけが真昼のような明るさに彩られていった。
 侵食し合う白と黒がしのぎを削る空の下。片方の源である青白い光が縦横無尽に交錯して波打つ渦は、そこに在るものをその流れの内側に呑み込まんと機を窺っているようである。だが現実は相反し、一つの人影が混沌とした白い闇から出だし夜の草原に降り立つ事で黒白の緊張は解けた。烈しくも清澄な光で織り成された渦はその影が自らから出だしたのを認めると、役目の完遂にその勢いを収め始める。緩やかに崩壊する光の渦はその本流を虚空の闇に霧散させていった。
 一陣、再びそれら全てを攫うように風が吹き抜けた。それにてられて白光は風前に曝された灯火のように実に呆気なく吹き消されてしまう。唐突に寄り処を失くした光の残滓がふわりと白雪の如く、宙を漂っていた草草と絡み合いながら深々と世界に還っている。それらは夜気を孕んで湿った地面に触れて、刹那の間に大地に染み込んでいった。

 一つ一つの光芒の残滓は、亡失する前に発する最後の閃きで強く美しい輝きを放っていた。それは生在るものの断末魔の如きに狂艶で、その白さはあらゆる色に染まる変わりに全てを無垢に塗り替える純粋。煌然とする様に反して儚さを覚える消え往く白光を掬い、己の身体の周囲に漂わせて物静かに草土を踏み応えを実感していた人物…ルティアは深く被っていた白妙のフードを背に流す。開放され夜風に梳かれる純白の髪は、月光に映えてただあるがままに月の色を反していた。
 暫しの間、瞑目したまま傍を吹き抜けていく温かい風に身を任せていたルティアはゆっくりと瞼を開き、その奥に潜んでいた暁色の眸で空を、大地を見眺めた。
「綺麗ね……」
 感嘆しているのか幽かな吐息と共に呟きが風に漏れた。
 黒に近い深藍に染められた草原は、空に浮かぶ月と星星に照らされて静かの夜を彩っている。周囲に広がる草草のあちこちからは優美な虫達の輪唱が絶えず聞こえてきた。草原を悠々と駆ける風はとても自由で、それに嬲られている草叢は心地良さそうに漣を打っている。
 ルティアはそれら自然の鼓動を感じながら、改めて自らの掌を握っては開き、そして全身を見あらためた。
霊素質物理固着化マテリアライズは……悪くない。どうやら上手くこちら・・・に転移できたみたいね」
 風に靡き頬に触れてくすぐったい感覚に浸りながら、自身の髪を指先で弄びルティアは満足げに呟いた。




 星星の煌きと虫の歌声。そして風の囁きに紛れて伝わる息を潜めた獣の気配。それらが縦横無尽に駆け抜ける平原をルティアは歩いていた。空に浮かぶ遠く離れた自然の灯りだけがまともな光源であったが、決して目的としている方角を間違える事は無かった。
 この開けた夜空の下は、彼方・・に比べると充分に明るく、酷く軽やかな空気に満ちていたからだ。星も月の光も無い、だがそれでも真闇とは程遠い有機的な黒の天蓋に覆われた彼方に比べれば、この草原の夜は煌々と栄える街の灯に等しい。
「此方はこんなにも明るく、世界には鮮やかな色彩に満ちている。それを想うと……」
 切ないわね、とルティアは彼方を想って夜空を見上げながらポツリと零す。嘗て見上げた空の静けさは寂寥と暗澹しか齎さなかったが、今のそれは点々と鏤められた光芒の為か自然と昂ぶる何かを胸の裡で疼かせる。
 過去を想い停滞する愁嘆の感傷も、胸の裡から次々に湧き上がり逸る何かには敵わなかった。それを体現するように、一歩一歩自然と足早になり、夜闇と草叢に霞んだ遠く先まで続いている石畳を、ルティアは揚々と踏みしめる。
 不思議な事に、世界に蔓延している魔物の異形は少しも見当たらなかった。
 足取りも軽やかに夜空の下を進んでいると、視界の遥か先に夜に染められた原色の世界にただ一つだけポツンと光を灯した都市が現れた。深い闇の中で煌々と光り闇を貪る様は、真っ暗な部屋の中で灯す蝋燭のようでもある。
(闇の中にある灯火の光に縋り付き、それと永劫共に在ろうと願い欲するのは、人間固有の業なのかしら?)
 現実に、人間ほど光に依存して生きている生物はいない。夜を恐れ、暗闇に抗する為に人は灯りを燈す。それは冷え切った心に温かみを差す礎となる。光は人の意思の背中を押して貫くべき意志に昇華させ、その意志が世界を構成する光を生み出していく……。より強い光、より強かな明るさを求めるが余り、その先に在るものが求める光自身の眩さによって遮られている事にも気付かずに、ただひたすらに渇望し続ける。
 それはいわば光と闇の無限連鎖、永久に終わる事の無い堂々巡り。
 道端で立ち止まり、頬に触れていた髪先を指でクルクルと弄びながら、ふとそんな事を自問してみる。
「私が今ここにいるのも、その業によるものなのかもしれないわね」
 自嘲的に独り続けて、解りきっている答えにルティアは満足げに小さく笑った。そのたおやかな笑みには、確かな覚悟が息づいていた。
 強すぎる光はやがて視識や全身を灼き尽くす。歓迎できない結末が両手を広げて優々と待っている……。
 全てを知るが故に受け容れなければならない、ある種の悲壮さが秘められていた。

 再びルティアがその地へ向けて足を踏み出した瞬間。何かに触発されたかのように、白妙の外套を透してその下から淡い紅の光が零れ出た。白布を透かして赤の光が息づく様は、何処か血が生々しく流れているように鮮烈だ。それを見てルティアはハッとしたようにその源を取り出して、夜風に晒す。
(思ったよりも早い……)
 暁色の双眸を油断無く細めて、逼迫した気色を貼り付けたままルティアは取り出した物を見つめる。それはルティアの掌にすっぽりと収まる、中央から縦断するように亀裂の入った小さな朱紅の秘石。それを溶かした銀で絡め取るように装飾し、銀鎖を通してペンダントのように誂えてあった。秘石には亀裂こそ入っているが、それが砕け散る様相も、実際にそのような事象に見える事などあり得ない。ただ亀裂の奥から幽かな赤の霊光が断末魔を上げるように外に外にへと漏れ出していた。
 それを見止め、ルティアは苦々しく顔を強張らせたままもう片方の手に持っていた銀のサークレット…その中央に位置している蒼穹の宝玉を赤の秘石に近付ける。すると赤の光に反応したのか、或いは月の光を反しただけなのか蒼穹の宝玉がぼんやりと光の鼓動をその奥に覗かせた。その清澄に零れる青白い涼やかな光は赤の霊光と溶け合うように絡み合い、まさぐり合い、貪り合い、やがて互いの全てを喰らい尽くしたのか何事も無かったかのように赤の秘石は鎮静化し、ただの石に還る事となった。
 鎮護の始終を張り詰めたように切に見つめていたルティアは、心底安堵したように大きく全身で嘆息した。
「……早く、これをに渡さないと」
 空を見上げながらルティアは秘石を再び大事そうに懐にしまい込む。そして右手に持ったサークレットを視線の高さまで持ち上げて、蒼穹の宝玉に問いかけた。
「今はきっと、あの街にいる筈よね?」
 石が答えを返す事など無いのだが、夜空の光を反して一瞬だけ応えるように宝玉は閃く。その返答にルティアは優しげな光を双眸に湛えて微笑んでいた。






「あらぁ、カッコイイお兄さん。こんな所で何をしているの?」
 唐突に、褐色の肌を惜しげも無く晒す衣服の若い娘が、通りを歩いていたユリウスの腕に抱きついて来た。入念に手入れされているであろう緩やかな波を打つ博金髪の毛先が数本、健康的な艶のある細い頬線をなぞっている。その下の茶褐色の双眸は、通りの先を漠然と眺めているユリウスの顔を映していた。充分に美人と評価されて然るだろう娘は血のように赤い紅を差した小さく厚ぼったい唇で孤を描き、街路に飛び交う光が反射して艶かしく煌いていた。
「…………」
 自らの身体の一部だと言わんばかりに腕を引き半ば強引に歩みを遮ってくる娘に、ユリウスはここで漸く娘に気がついたとでも言いように緩慢に、億劫そうに目線だけを動かす。だが無感情な黒の眸は娘を一瞥するだけで言葉を発さない。ただ娘の存在を確認すると無言で腕を振り解いて再び歩を進めている。
 徹底して無視を決め込んでいるようなユリウスに、娘は悪戯心を刺激されたのかますます笑みを深めた。愉しそうに小さく舌舐めずりして足早に去ろうとするユリウスに追いつき、回り込んでは腰を折り下からその顔を上目遣いに覗き込んだ。
「ちょっと…無視しないでよぉ〜」
「…………五月蝿い」
 立ち止まり、今度は娘を視界に捉えもせずにユリウスは冷然に言い放つ。それは心底うんざりしたような声調だった。
 だがその余りの素っ気無さが更に娘の商魂と対抗意識に火を灯す事になったのか、挑発的な光を瞳の奥で滾らせる。娘は媚びた猫撫で声を上げながら細い腕を蛇のようにユリウスの引き締まった腕に強く絡め、身体を密着させる。そしてそっと肩に手のひらを置き、その上に細い顎を乗せた。大きな茶褐色の眸を潤ませながらユリウスに顔を近付けて、囁く程度の声量で耳元に吐息を吹き掛けた。
「ねぇ、ちょっと寄ってかない? 私、お兄さんにならサービスしちゃうから」
 扇情的な抑揚を孕んだ娘の言葉。それは娘が付けている甘い香と絡み合って妖しげな色香を醸す。ここで普通の男ならば動揺或いは狼狽し、胸をざわめかせる以上の機微を見せるのだろうが、ユリウスは視線を合せる事無くただ無感動無表情を貫いていた。
 だが娘に囁かれる度に、娘が動く度に強すぎる甘い香の匂いが嗅覚を過剰に刺激していた為、ユリウスは眉間に皺を寄せて不快を募らせる。やがてそれが嫌悪感に昇華すると、ユリウスは鬱陶しそうに娘を引き剥がした。
「触るな」
 乱暴に力任せに腕を振り払うユリウス。突然の衝撃に娘は少し後ろによろめいたが、倒れるまでには至らず。その事に不服そうに頬を膨らませて娘は唇を尖らせた。
「んもぅ、乱暴な人ね」
 眉を顰めた娘は批難染みた視線を送るも、真っ直ぐに射抜いて来る冷厳とした拒絶の視線に口頭から出かかった言葉を呑み込む。触れれば斬られるような余りに冷たく澄んだ剣呑な雰囲気を放つユリウスに、これ以上の誘惑は不可能だと経験上判断した女性は、実にあっさりと通りを行く別の若い男に目標を変えて歩み寄っていった。





 街の中心に泰然と座する議事堂の足元…南正面にある噴水広場は、アッサラームという地において最も人通りが多い場所だった。それはここアッサラームという自治体の政治中心であり、街を十字に走る大通りの集約点。そして何よりも、“摩天楼”という誰にでも判る大きなシンボルが在る為、数多の人間がこの場所を逢瀬の待ち合わせ場所として利用していたからである。
 そんな人で溢れ返る場所から南に延びる大通りを、ユリウスは帯剣したまま空虚に歩いていた。人の波から発せられる熱気や思念の渦は不可視の圧力を伴って虚空を駆け回っている為、ここに居るだけで不快感を煽り、頭痛や眩暈は酷くなる一方。そして広場を出た直後に先の一件である。ユリウスは深く長い溜息を吐かずにはいられなかった。
 やがて人の波から逃れるように小路の壁に凭れ掛かり、ユリウスは嫌な汗が噴き出している顔を掌で覆った。呼吸が荒く、心臓の鼓動は早く。頭痛や耳鳴りは一向に止まる気配は無く、それら全てが意識を蝕んでいた。
「一体……、何なんだ」
 弱弱しく、そして悄然とユリウスは吐き棄てる。
 指の隙間から見える小路の壁が幽かに揺らいで、像を上手く結んではくれない。甲高い金切り音は耳の奥で絶えず神経を侵し、胸の底ではモヤモヤとした何かが外に出ようと暴れまわっているようで、それがこの上なく不快だった。
 自分の身体が自分の物ではなくなったような不可解な感覚。思えば、このような状態に陥った事など産まれてから今の今まで一度も体験した事の無い事だ。長旅の疲労が募って抵抗力が落ちた時にかかる病、という可能性も考えたがどうも違う。肉体的だけではなく精神的、或いは魂そのものを縛し摩り減らしているかのような感覚。霞掛かりすっきりしない思考で至ったのがそれだった。

 ぽつぽつといつの間にか降り出した雨が、何時しか勢いを増して地面を打ちつけていた。
 先程言葉多くシェイドがこの地方の事を説明していた。その中の、この地は一過性の雨が多いという情報を思い出して、ユリウスは小路に佇んだままでいる。特に明確な目的も無い為、無理にこの雨の中を往こうとも思わない。下手に雨に打たれ触覚を刺激されれば、この不快さに拍車が掛かりそうな気がしていたからだ。
 深い影に包まれた小路は、隙間無く建物が連なって形成されている為か建物同士の開きは少なく、それらの屋根伝いには隣接する建物同士を繋ぐ木板が橋のように幾つも並べられており、それが雨除けとなって小路に雨が落ちてくるのを防いでいた。
 雨と共に人の波は慌しくなり、駆けながら何所かの軒下に避難するものも数多くいる。
 そんな人影が占める通りに虚ろな視線を送るユリウスの表情には生彩が無く、傍目にも憔悴している事が一目瞭然であった。
(こんな事ならば、部屋で大人しくしていれば良かったか……)
 額に再び浮き出た脂汗を拭いながらそんな事を思うも、それは後悔には至らなかった。
 夕暮れのアッサラームの景色を無感動に眺めた後、ユリウスは他の同行者達よりも一足先に旅籠に戻って休息を取っていた。この街に足を踏み入れてから絶えず鳴り響く、原因不明の不調を告げる体の訴えの為だ。一時的にそれが止んだ事もあったが、結局のところそれは長く続かなかった。
 旅籠で一人一人に割り当てられた個室に唯ある寝台に外套すら脱がぬまま倒れるように横になり、双眸を伏せる。それ程までに消耗していたのか酷く身体が重く、呼吸の刻む間隔は短く疎ら。空気の入出に合せて胸が大きく上下に傷みを伴いながら動いていた。視識を閉じた分、揺らぎ霞む世界を捉える必要が無くなり五感の負担が減ったが、頭痛と耳鳴りがより鮮明に知覚できてしまい、どうしようもない。
 いっその事、この傷みに敗れて意識を失ってくれれば良いのだが、一向にまどろむ気配も潰える気配も無かった。
 窓越しからでも耳に障る程に聞こえてくる外の騒音。頭痛と耳鳴りで神経が過敏になっている時には煩わしい事この上ない喊声と喚声。
 寝ていても起きていても、何処にいてもこの感覚は消える事は無い。ならば閉じた部屋に居るよりも空のある外の方がまだ気が楽になるのではないかと思ってここに至ったのだが――。
(結局、無意味な事だったか。…………馬鹿馬鹿しい)
 ふと浮かんだ下らない感傷を殺し、ユリウスは疲弊しきった嘆息を零した。

 やはり一過性のものだったのか、いつの間にか降り注いでいた雨が大粒のものから細かい小雨に変わっていた。それはもう間も無く雨が止む事を意味しているのだろう。霧雨が支配する通りは、断続的に滴り落ちる水の雫にあちこちに灯された外灯の光が映りこみ、さしずめ幾つもの光の粒が景色を覆い隠そうとしている。地面から立ち上り始めた白い霧と混ざり合って、それは視界を音無く蝕み始めていた。
(俺は、どうしてこんな所にいるんだ?)
 消耗の余り思考が断裂し、自己の目的意識を見失いそうになる。その為、そう思わずにはいられなかった。
 こうして外に出てきた直接的な要因の一つは、憔悴しきった気分を改変する為に閉塞した場所から出る事であったが、もう一つ確かな理由が存在していた。尤も、理由とする程に理詰めで整合を保ち説明できるものではないので、より適切な言葉を用いるならば、衝動と言った方が良いのかもしれないが……。
 その衝動の源とは、絶えず何かに急き立てられる感覚。しきりに何かに呼ばれているような直感がしていたからだ。ただそれは本当に微かな、閃きよりも儚いもの。だけど余りに己の深くでざわめいている所為か余計に無視できない事だった。
(……本当に、訳が解らない)
 ユリウスはもう何度目になるのか疲弊しきった溜息を深く吐く。その瞬間、一際強く鈍い痛みが脳髄を掻き回した。遥か遠くで銅鐘を掻き鳴らしているかの様な甲高い音が耳を貫いた気がして、それは刹那に実感を伴って平衡感覚を崩壊させた。視識に捉えられる世界が大きく揺らいではその輪郭を二つに分かち、四つ、八つ……と際限なく増殖していく。やがてそれは無限遠の連鎖となって何かが力任せに引き千切れる生々しい断裂音を奏でながらぐるぐると輪転した。
 転じているのは己の意識なのか、或いは内臓の全てが鷲掴みに絞られているの判断はつかなかったが、間違いなく自らを苛んでいる感覚に翻弄されていたユリウスは遂に耐え切れ無くなり、その身体は傾いて何時の間にか地面に出来ていた水溜りに膝を着いてしまった。
 左胸を掻き毟るように強く強く抑え、喘ぎながらユリウスは小刻みに肩を上下させ空気を取り込む。その度に全身に激痛が走るが最早それを気にする余裕さえない。額や頬に流れる脂汗は留まる事無く排出され、体温が急激に奪われた為か四肢が打ち震え始めた。
 湿潤な空気と大通りから跳ねて出来たそれによって、膝からじわじわと水が染み込んで来る。その膝から全身に這い登ってくるような不快な感触は、意識を深い闇の底に引きずり込む魔手のようにさえ思えた。このまま為すがままに闇に堕されるのも魅力的な結末ではあるが、こんな人通りの多い場所で意識を失くし倒れる訳にもいかない。そんな微かな子供染みた気勢が弱腰になった己を胸中で切り刻み、立ち上がろうと壁に手を伸ばすも腕に力が入らず届かない手は虚しく宙を漕ぐだけ。途轍もない倦怠感が重石か彫像となって自分の上に圧し掛かっている様だった。
 呼吸をすればする程に鈍重さを増していく圧力を前に屈し、跪く形で地に伏していると白い霧が足元を漂い始めた。吸気に伴い体内に浸入するそれに、噎せ返るような息苦しさを覚えてユリウスは一層険しく顔を顰めた。
「……最悪だ」





「……最悪ね」
 全力で迷宮のように広がる裏路地を疾走しながら、ルティアは愚痴るように零す。その余韻は一つ処に留まらず、空気に流れて後方に尾を残した。
 辺りはすっかりと白霧に覆われていて、幽牢の街並みは何とか足元を見るのが精一杯な程に深化していた。所々に無造作に倒れている木材や酒瓶、木箱や樽壺等は邪魔な障害でしかなく、それらを回避しつつ視界が悪い中を駆けるのは非常に神経を磨耗させる。雨が止んで聴覚を遮る水の音が無かったのは幸いだが、今の状況が自分にとって非常に好ましくない事に変わりは無かった。
 右に左に。土地勘が無い為足の赴くままにもう何度目になる路地の角を速度を落とさずに曲がり、深く漂う霧の中をルティアは駆け抜けた。髪の毛が視界にちらつかない様に片手でフード越しに押さえて、焦燥の感情を込めた暁色の眸は一心に白い闇の先を見続る。

 ルティアは今、追われている身だった。




―――ルティアが自由交易都市アッサラームに着いたのは、一時街を覆っていた雨雲が立ち去って間もない頃合だった。
“不夜城”と謳われる街はその呼称通り、夜も深まったというのに通りに犇く人の影が潰える気配はまるで無かった。一時は雨にその流れを断たれもしたが、雨の退去と同時にそれまで以上の人々が夜という独特の昂揚を堪能する為に、漸く顔を覗かせる事が出来た月と星空の下に繰り出していた。
 目に愉悦を爛々と燈らせた人々の記憶に残るのは本意ではないので、それを避けつつ自然を装う為にルティアは丁度時を同じくしてこの街に到着した旅芸人の一座に紛れ込んでいた。その一座はロマリア王国から東方街道を歩んできたそれなりに歴史ある一座で、アッサラームを目前に危険を伴う夜の街道を独り歩いていたルティアを見止めた座長が、心配から自分達の乗る馬車に同乗する事を薦めてくれたので、ルティアはその厚意に甘える事にしたのだ。
 他の地方からこの晴舞台アッサラームに興行に来ただけあって、一座は大所帯で所有する二台の大きめな二頭牽きの幌馬車にそれぞれ人間と荷物に分かれなければならない程。一座を構成する人間は往々にして奇抜な格好をしていた者達が多かった為、自分の姿はそれに霞んで決して特出する事は無い。ルティアとしては願ってもない申し出だったので自分の思惑通りになった事、そして掛けられた温情に胡座を掻く形で利用してしまった事に、彼らへの感謝と謝罪の念が尽きる事はなかった。

 いつものように通り雨が過ぎ、いつものようにその名残である白霧が漂う。街に住まう人間にとっては常日頃の事を誰一人として訝しむ事無く、変わり栄えの無い時間が綴られていた。それは街の中を往く人々にとっても、外からこの地を訪れ城壁の門扉で列を成している旅人達にとっても同様である。だからこそ、深夜という時限の為か異質を排するように街は厳しい警戒の色があちらこちらで光っている事も、この地の特殊性を鑑みるならば致し方の無い事だと誰にでも理解されていた。
 夜の来訪という事で門扉の傍で構えている兵達は、それぞれに物々しさを醸しながら街に立ち入る者達を検問している。幾人かの旅人の聴聞を終え、次にルティアが紛れ込んだ旅芸人の一座の番になった。馬車に乗っていた者達は全員降りて一列に並び、一座の座長が慣れた口調で兵士と話をしていた。その間に他の検問兵達は一座が用意していた備品類、そしてその顔ぶれを極めて事務的に淡々と検分する。この浮いた街と言う印象に反しての慎重さこそが、この都市がここまで繁栄するに到った秘訣の一つでもあった。
 検問を受ける中。フードを目元まで目深に被っては俯き顔を隠してルティアは兵達の視線が飛び交う中を佇んでいたのだが、微かに吹いた風にそれが僅かに捲れてしまったのでルティアは反射的に戻そうとする。その時、ふと門の傍で槍を手に佇んでいた兵士と眼が合った。次の瞬間、確かに生彩に満ちていた兵士の双眸から忽然と光が失せる。そして微塵も生の意思を感じさせぬ人形の様相のまま、言葉無くその兵士は槍を自分目掛けて振るってきた。
「!?」
 技も何も無い、ただ両腕を振り下ろしただけの粗暴な一撃。だが虚を突かれたルティアは何とか間一髪でそれをかわすのがやっとだった。避け遅れて浅く斬られた外套の残滓が虚しく宙を舞う。今のタイミングで回避できた事は半ば奇跡か、と風に弄ばれている布切れを目で追いながらルティアは内心で安堵を零すも、改めて周囲を見回して我が目を疑う事となった。
 今の今まで真夜中にも関わらずその闇に抗し、人間味に溢れ営々と紡ぐ生活の光に満ち騒然としていた場所から人や物の動く音、布服の擦れ合う音、或いは生の鼓動が完全に消え失せていた。ただ眼前の人々は彫像のように不動で佇み、静寂の余り耳鳴りがしそうなまでにその場の時が凍り付いている。燈々と光る外灯の光が意思を無くした双眸の群に反射しており、その無機質な輝きでそこに居る人々は一斉に自分を見つめていたのだ。
「な、に……?」
 眼前に広がる余りにも異様過ぎる光景に思わずルティアは絶句する。何事かと瞠目して周囲に視線を彷徨わせようとするも、周囲は逡巡や狼狽に浸る間すら与えてはくれなかった。
 自分の傍に立っていた兵士や芸人達は護身用、或いは催事用に備えていた槍や短剣で一斉に切りかかって来る。
 それらには殺意も敵意も無い…ただ己の意思とは別の純然な害意だけに染められていた。
「これは……正気じゃない!?」
 身体を捻り、膝を折って全身を沈め、高々と跳躍して後退する。その一動一動に合わせて白妙の外套が大きく翻り、水飛沫が派手に舞い散る。
 次々に繰り出される我武者羅な攻撃には、思慮も技も在ったものではなかったので避ける分には容易だった。だが如何せん繰り出される攻撃の数と方位が余りに多すぎた。徐々に円を描くように包囲網が形成され、次第に避ける場すら失われつつあった。
 だがそれでもルティアは腰に佩いてある細身の剣を抜こうとはしない。いや、抜けなかった。周りは明らかに何者かによって操られている、という確信が脳裡に浮かんだからだ。故に反撃する訳にもいかず、かといって大人しくされるがままになるつもりも無かった。
 詰みに近い状況で唯一取れる手段として、ルティアは攻撃の後に大きな隙が出来た囲いの一人に体当たりを食らわせ、周囲が連鎖的に怯み開いた隙に駆け出す。そして大勢が一度に迫って来られないような小路に駆け込んだのだった―――。




(完全に……失念していたわね。まさか、此方にまで走査の手を伸ばしていたなんて……)
 走りながらルティアは小さく歯噛みする。すると油断していた自分への罵倒が次々に浮かび上がってくる。
 混沌に傾きつつあるが、彼方に比べ此方を満たしているマナの流れはまだ優しかった。遥か悠久の流れを越えて巡り合う比翼の環。そしてその先で立つ人物の事が心を占めていた為に、警戒が疎かになってしまったのか……。だとすればそれは自分の浅はかさが招いた事。それに浸かり、迂闊過ぎた自分に苛立ちを禁じえない。
「……私の行動が完全に先読みされている。これはその上での罠、ね」
 こんな状況を創り出したであろう脳裡で結ばれる人物の面影に、肩の震えが止まらなくなった。それを抑えようとルティアは自らを抱きしめるも、ただ震えが手を通して腕を侵食し、全身に回るだけだった。
 この地方の熱気を含んだ水蒸気は、雨などの気候の変化で温度が低くなると凝結し、濃密な白い霧となって視界を遮っていく。この連鎖プロセスで発生する白霧はあくまでも自然の摂理に従ったもの。だがそれに潜んでいるものは明らかな違っていた。街に漂う霧の中の、細かな水滴一粒一粒にも確かに潜んでいる凄烈な魔力の波動。ピリピリと肌を越えて魂にまで伝わる強かさにルティアは思わず眉を顰める。空を見上げてみると、黒曜の雨雲の微かな残滓が星と月の光を静かに遮っている。薄っすらとその先に見える淡い光は酷く遠いものに思えた。
 走り続けていても何れは何処かに追い込まれてしまうか、体力が尽きてしまうのは眼に見えていた。それから脱する為に、ルティアは意識を集中して魔力エーテルを収束しようとする。だが望む具象化のイメージは完璧に出来ているというのに、基となる魔力が自らの裡で少しも紡ぐ事が出来ず、霧散してしまう。何らかの作用が自分に働いていて、魔力集中を阻害しているのだ。
「ルーラもリレミトも……無理ね」
 眸に翳りを忍ばせながらルティアは眉を寄せる。魔法でこの街から脱出するという手段は既に封殺されている事を自認したからだ。自分の魔法は今はもう使えない…いや、正確には既に封じられていた。広域に効果を及ぼすよりも対象を究極的に限定して、ただ一点に魔力の遮蔽力を集中した封呪魔法マホトーン。この呪縛が自分を絡め取って離さない。
(この霧に潜んでもひしひしと伝わる威圧感プレッシャーは……間違いなくあの人のもの。あの人は今この街にいる…………っ!)
 絶望にも近い恐怖に染められた確信。その確信から否応無しに浮かび上がる暗澹に刹那反応が遅れた。
「うっ……」
 霧の中から音無く飛来してきた小振りの刃に二の腕を浅く切られた。ねっとりと傷口から溢れ出て来る赤い鮮血は、白の外套に痛々しくも艶かしく滲み、濃厚な香りを雨霧に広げる。雷速で走る鋭痛にルティアは顔を歪め、赤い血潮の吹き出た二の腕を押さえた。指の間から熱い血潮が地面に滴り落ちて白霧の大地を緋色に染めていた。
 霧の先に何者かの気配がする。それも数人のだ。小路に走りこんだ為、大勢に襲われる事は避けられたが、徐々に追い詰められているのが判る。土地勘がまるで無いという事も自分を不利に傾かせているのが実感できてしまった。
 薄っすらとその人物達の表情が見て取れた。誰もがあらゆる感情を破棄して、虚ろな双眸で自分を捉えている。既に目から正常な光が見る事は出来ず、それは完全に心を奪われている証拠。足元が覚束ないのかゆらゆらと身体が不確かに揺れている。この状態は恐らく通常よりも遥かな高みで紡がれた幻惑魔法メダパニによるものだろう。メダパニは本来対象の脳神経を撹乱し認識機能を混乱させる事によって敵味方の判断をつかなくさせ、同士討ちを狙う為の魔法だ。だが今、眼前の人々に掛けられているのは明らかにその攻撃対象を自分に限定している。他の意思を封じ込め、自在に操るまでに至った次元の魔法だった。
 この異変は自分が街に入ってから…いや街の人間が自分を認識してから起きた、という事実を考えるのならば今この街に存在している全ての人間は、眼前の人物達のような状態と考えるのが自然だろう。魔法に耐性のある者ならば正気を保っていられようが、この物質的な豊かさと情緒に溢れた平和を享受している普通の街にそのような人種が大勢いるとは考え難い。むしろそうではない人間の、その数は考えようとすると眩暈がする。
 白い霧を通して思惟の中に見え隠れする人物は、そこまでの事情をも組み込んで算段を謀ったのならば……。
(周到な事ね……全く、あの人は)
 容赦が無い、と思わずルティアは内心で零す。だがそれは仕方が無い。それだけ現状は余裕が無く尋常ではない状況だったからだ。
 メダパニを解除する最も単純な術は肉体的な衝撃を加える事なのだが、それは既にルティアの選択肢からは外されていた。いくら自分に危害を加えている者達とはいえ、相手はただ望まぬ内に操られているに過ぎない、何の非もないこの街の人間なのだから。そして何よりも数が数だ。一人一人に加減をしながら相手をしていたら、その隙にこちらが殺されてしまう。
 一点集中の呪縛に加え、それを包囲する網も徐々に完成しつつある。しかもこちらからその包囲網に攻撃できない事を見越しての事。人質を盾に強硬に攻められては唯一つの逃げるという手を除いては、完全な手詰まりにならざるを得ない逼迫した状況だった。
 幾多の攻撃を潜り抜けながらルティアは薄暗い路地を駆けた。先だって小路に駆け込んだにも関わらず、所々で待ち伏せらしき者達と遭遇しては、回避する。時には路地端の樽の上を駆け、時には地面を這ってやりすごしす。その苛烈さを顕すように雨の名残で出来た水溜りから泥が跳ね、美しい白妙の外套が汚泥に侵食されていった。
「やっぱり……最悪ね」
 不敵に薄く口元に笑みを作りながら、ルティアは自嘲的に零す。
 切り裂かれた腕からねっとりとした赤い筋が指先を伝い、宙を滑走する。そしてその下で静謐を守っていた水溜りに、ポチャリと嫌に甲高い音を立てて紅雫は弾けた。
(……逃げ切れる、かしら?)
 自問してみると歓迎できない答えしか思い浮かばない。魔法が使えたのならば幾らか抵抗する手段があったのだが、今それは叶わず。そしてこの右も左も知らない地で、自分というただ一つの異物を排除するかのような街の人々を思うと、酷い孤独を感じた。
 それを意識した時、今こうして大地を蹴る一歩一歩が酷く重く感じられた。だがそれでもルティアは足を止めるわけにはいかず、目の前にある路地を曲がった―――。

「きゃっ!?」
「なっ!?」
 ルティアが裏路地の角を曲がった瞬間、丁度そこに蹲っていた人影がよろよろと立ち上がった。それは余りに咄嗟の事だったので、走っている勢いの止められないルティアは霧向こうの人物に上体からぶつかり、共に地面を転がって大通りへと躍り出てしまった。
 水と微かな土の飛沫を派手に舞い上がらせて二人は濡れた地面を滑る。ルティアは立ち上がろうとした人物を下敷きにしてしまった為か、舞い上がった水飛沫に打たれる事は無いかった。湿った大地に触れてもおらず、ただそれに反した確かな温もりが全身に伝わってきた。
「!!」
「っ……何だ!?」
 共に倒れこみ、その人物にしなだれかかった体勢のルティアは改めてその人物を見止め、息を呑む。
 この街で遭遇する人間はどれも意思の無くした虚無の光を湛えていただけに、頭上から掛かる確かな意思が込められた言葉と、その先に在る求めて止まなかった漆黒の双眸の光に思わず魅入り、外からの眩さと内からの嬉しさの余りルティアは泣きそうになってしまった。
 こんな絶望という二文字が脳裡に過ぎって離れなかった時に出会ったというのは神……いや、神などという曖昧で不遜な存在よりも遥かに尊き主たる流れ…マナの小さな小さな巡り合わせによる悪戯なのだろうか。そんな取り止めの無い事さえ想い描く程にルティアの心は打ち震えていた。
「…………ユリウス」
 暗澹の中で漸く見出した一つの光明。その余りの輝きの強さに安堵からその名を小さく呟く。それは吐息と共に零れ落ちた程度の声量だった為に、直前の彼に聞き留められる事が無かったのは幸いだった。こんな、弱弱しく女々しい声を……。




 二人を囲むように雨霧はその徐々にその手を繋げ広げている。だがその裡に佇む黒と白を覆う事は決して無く。
 深々と神々と。まるでそれらに平伏すように静謐を保ったまま厳粛に漂っていた。




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