――――第四章
      第六話 朧な月







 アッサラーム南西地区は夜においてのこの街の顔であり、心臓とも言うべき場所だった。
 軒を連ねる建物からは夜空を彩る煌星よりも強かな光が絶えず漏れ、それが色硝子を透して伝わる為か周囲の空気は薄桃色や萌黄色のような鮮色に染まっていると感じさえする。騒然とした界隈に触発されて気分が昂揚した人々の陽気な歓声が雑踏に満ち、鼻腔を突く甘ったるい濃密で芳しい香りは人の持つ理性を浸蝕し、やがては灼き尽くす。まるで此処を闊歩するには理性など邪魔だと主張せんとばかりに彩られた扇情的な雰囲気の通り。理性と知性を支える五感を侵すここは、ただただ欲望のという甘く粘い蜜で満たされた坩堝るつぼ。アッサラーム最大の名所とされている歓楽街だ。

 肢体を惜しげもなく晒す妖艶な格好をした客引きの女性をやんわりとやり過しながら、ヒイロはこの通りを往く。人影に潜むように決して特出する事無く、気配を消さず現さずの瀬戸際の境地で人の流れに紛れていた。
 ヒイロは普段よりも若干目深に帽子を被り、自身の白銀髪を覆い隠していた。特に隠す理由も無いのだが、何となくこの煌々と光る街の灯を反して輝く頭髪が人目と共に要らぬ面倒を引き寄せてしまうのではないかと、自惚れでも自意識過剰でもなくそう思っていたからだ。
 この通りを歩いていると、酔っ払いの呂律の回らない罵声や若い女性の甲高い嬌声が絶えず耳に自然と飛び込んでくる。聴覚から捉えられるそれらを逐一脳内で意味を持つ言葉に変換していたら気疲れしてしまうので、ヒイロはただ周囲に騒然としている音として聞き流す事に専念していた。
「ここは、相変わらずだな……」
 すれ違いざまに財布を狙って伸びてきたスリの手を反射的に叩き落しながらヒイロは零す。すぐさま相手に自らの姿を気取られぬ様に即座に人の影に隠れた為にこれ以上の追随は無い。幸い相手も失敗を認めて、無数にいる人の影から次の獲物を見出してはその波に溶け込んでいった。
 この通りは一際強く光で明るく照らされている故に、より多くの影が潜んでいた。街の雰囲気に誘発されて気概が浮かれ大きくなっている道往く人間達の油断を逆手に、巧妙に悪さを働く輩も大勢何事も無い顔で通りを徘徊しているのだから、この通りを歩く時は常に周囲の気配に注意を張り巡らさなければならない。
 蟲惑的な雰囲気を醸す楽境に何の考えも無しに埋没する事は、身の破滅にも繋がりかねない。事実そうした道に堕してしまった者達が、薄暗い路地裏の影の中で眩しそうに明朗な通りを羨睨している。
(善悪と流転する人生の縮図が、人の数だけここにはあるのかもしれない)
 一つの大きな流れのように立ち変わる人の影。それぞれの表情の中にヒイロは光闇暗明の灯を見出していた。

 その時。突然、思考を遮るようにジャラジャラと何か硬質な金属が地面を転がった音が耳に入った。その音に誘われてヒイロは音源に目をやると、夕暮れに見た景観とは似つかわしくない悪趣味が過ぎた豪奢な建物から、顔を赤に染めて千鳥足でふらふらと出てきた恰幅の良い中年男が、小脇に抱えた鞄から大量の金貨銀貨を取り出してはそれを宙にばら撒いている姿があった。その景気良い音を発してばら撒かれた大量の金貨に、どこに潜んでいたのかと疑問に思ってしまう程に人が群がり、我先にと一心不乱に地面に転がるそれらをかき集めている。
 明々と照らされた建物の看板には、賭博場カジノと書かれていた。つまりは、先程の男性はこの場所で大勝し、勝利の美酒とその余韻に浸って羽振りが良くなっていた、という事なのだろう。客引きをしている筈の男性や女性達までも仕事を放り投げ、躍起になってそれに混じっている。その血肉を漁る獣のような貪欲振りを見て、ヒイロは思わず冷笑を零さずにはいられなかった。
「酒に博打に情欲、か。何時の時代も、人間の欲望の矛先は大して変わりが無いな」
 流れの断たれた人の波から外れ、冷やかな琥珀の双眸は、この場の空気にそぐわない彩を載せて周囲を睥睨する。
 夜を壊す光の恩寵を受けた街路は何処までも先にへと伸びており、それだけに小路は深い闇に包まれている。その闇は静かに、だが強かに血生臭い酷薄さを密やかに通りへと放出しているように見えた。
(だけどつまるところ、この街の光も闇も人が連綿と築いてきた情思の具現。……所詮は悠久に廻る時の歯車の一噛み。刹那にも満たない間に消え去る、儚い閃光に過ぎないか…………ん!?)
 ふと、自分の思考過程を怪訝に思った。普段ならば、人が何処で何をしていようが熱くならず、冷たくならず。決して己が感情を織り交ぜずに、ただ中庸に在るがまま物事を捉えていた筈だ。故に他者の確固たる過去と現在を繋ぐ記憶と築き上げてきたであろう信念を羨んでいた。だが、今は明らかに全てを見下すような、嘲笑うような思考行動をしてはいなかっただろうか……。
 例えるなら、夜空に浮かぶ月のように、冷めざめとした眼差しで地上に犇く者達を見下ろしている錯覚。身勝手な傲慢であり、何処までも深慮な思唯の波濤。
 不意に胸中に訪れたそれを酷く馴染み深く、本来在るべき自然体であるかのように安堵を感じてはいなかっただろうか。
「……奇妙な感覚だ」
 無意識なのだろうか、自嘲的な笑みを浮かべながらポツリとヒイロは言葉を零す。
 王都ロマリアで、あの空色の賢者の奏でる笛の音を聞いた時から自分の中で、何かが自分の奥で絶えず囁いているのは感じていた。何となくではあるが、その囁きに囚われるのは良くない気がして意識に留めないようにしていたのだが、今、この時。人の情緒溢れる通りを往きながらそれへの注意が散漫になり、表面化してしまったのだろう。
 不可解な己の言動に小さく頭を振って、琥珀の双眸に戸惑いを載せて夜空を仰いだ。そこにはいつの間にか天蓋を覆っていた黒曜の雨雲。それはどうしようもない暗澹を運ぶようであり、自分に運命的な何かを齎す光明のようでもある。そして何よりも、それに酷く懐かしい何かを感じている自分がいた。





 夜に彩られた黒曜の曇天の下。普段よりも軽く、冷えたと感じる街の空気。だがそれでも人々が発する熱気はたゆむ事は無い。
 歓楽街を縦横に走る通り沿いには、否応無しに人目を惹く大きな建物が幾つも存在していた。それらはこのアッサラームにおいて、議事堂を除くと恐らく最上の大きさと煌びやかさを誇っているだろう。人間味溢れる周囲の空気から逸脱した、壮麗さを醸す完全に宮殿然とした建物群。周りに感化され下卑た気勢のままでは、思わず入るのすら躊躇いを抱いてしまいそうな佇まいのそこからは、周囲の様々な店の灯りをも呑み込んでしまうのではないかと思える程の灯りが真夜中の太陽を形成し、内から漏れる歓声が絶えず通りの空気さえも圧している。
 この荘厳に構える佇まいとは裏腹に、内で行われているのは酷く人間的な活潤の催し。ここはアッサラームという地の代名詞として世界に名立たる舞踊、ベリーダンスの興行場である劇場が立ち並ぶ一角だった。
 そんな建物群の一つ、門扉の両脇を固めるように直立不動で構える大男が二人。浮かれた周囲の雰囲気から乖離した、厳つい表情で周囲を油断無く睨み据えている。腰に佩いた剥き出しの曲刀は、建物からの明りを反して眼光と同じく異様なまでに鋭い光を湛えていた。
 ヒイロが今こうして立ち止まり見上げている劇場にはもう一つの意味があった。それは光輝く故に色濃く映える影と呼べるべきもの。
(灯台下暗し、か。……言い得て妙だけど、確かに一理はある)
 そう思いながらヒイロはただ静かに、周囲を威嚇する二人の脇を臆する事無く通り過ぎ、扉を開けて中に立ち入った。
 背中越しに伝わる扉の閉められる重低音を感じながら、ヒイロは暢達な足取りで回廊を進む。床を蹴る音が高く反響し、天井を支える簇柱ぞくちゅうが列挙する様はまるで権威を誇る荘厳華麗な宮廷、或いは貴族の館を思わせる。それには幾つもの厳かな彫刻の燭台が備えられ、静かだが確かな光を湛えていた。
 入口からただ真っ直ぐに伸びている廊下を越え、正面に立ち塞がる扉を潜ると、そこは宮廷にあるダンスホールのような大部屋だった。決定的に違う点を挙げるならば、部屋は廊下の明りに反して限りなく暗いという事で、その暗さは目が慣れないうちはまともに足元を見る事もままならない程のもの。そんな闇に覆われた空間には飲食店にあるような円卓がいくつも配置され、椅子もそれを囲うように無数に備えられてある。そして闇に同化するようにひっそりと漂う空気には、酒と煙草のむせ返るような匂いが染み込んでいた。
 広さの規模を考えなければ小洒落た酒場と認識できるだろうが、実際にはそれでは収まらず、何よりこの部屋に足を踏み入れて真っ先に目を惹きつけるのが、最奥でそこだけに陽光が降り注いでいるかのような照明に飾られた舞台。眩いばかりの光の白滝を全身に浴びて躍動する幾人もの女性の姿。健やかな肢体を露出したきわどい格好の踊り子達が、しなやかに軽やかに、そして力強い身のこなしで妖しげな舞を踊っている。それは見る者の意識を強く惹きつける不思議な魅力を放っていた。
 部屋の何処かで奏でられていた旋律が、情熱的な韻を踏む。それに合せて舞台を彩る光の色も、そして踊り子達のステップもまた変わってゆく。その変わり様に観客達は大声を上げて声援や口笛を送り、舞台で舞っている踊り子達の名前を叫んでは熱気に包まれていった。




 一点が光に浮き彫りにされればされる程、周囲は闇に包まれる。そんな舞台や観客席を遠巻きに、冷やかに一瞥するだけでヒイロは興味を失せたのか視線を外し目的の場所に足を進めた。円卓に座りきれなかった観客の数人が舞台から遠く離れた壁に寄りかかりながら舞を魅入っている。楽しんでいる彼らの興を削ぐのを避けるように、彼らの視界に入らないように気を配りつつヒイロは人と人の放つ熱気に満ち満ちた広間を逃げるように潜り抜けた。
 そして漸く辿り着いた場所は、この大部屋の片隅でひっそりと営んでいる酒場のカウンターだった。そのカウンターには白の混じった黒の頭髪を全て後ろに流し、生やした口髭を短く清潔感を醸すように切り揃えた体格の良いバーテンが姿勢正しく立っていた。一見して温和そうな人物ではあるが、その纏っている気風が第一印象を呆気なく払拭する。静謐を守る様相には凛とした雰囲気が滲み出ていて、一種の研ぎ澄まされたナイフのような鋭利さを髣髴させる。静かに、決して自ら主張せぬように周囲の影に潜むが如く佇んではいるが、それがかえって俗と情に塗れた場に在って清冽な存在感を浮き彫りにさせてしまっていた。
 酒瓶が所狭しと並べられた棚の前に黙したまま直立し、乾布でグラスを磨いていたバーテンがこちらに歩み寄ってきたヒイロを見止めて、口の端を微かに持ち上げた。
「お客さん。ご注文は如何致しましょうか?」
 所々に程よく抑揚が織り交ぜられた完璧な商い口調。それにヒイロは笑顔で答えた。
「そうだね。じゃあミルクをお願いできるかな。マスター・・・・?」
 柔らかく放ったヒイロの言に、バーテンは非の打ち所の無い笑顔を浮かべる。
「酒場で酒を頼まんという酔狂…今時はやんねぇぞ、この阿呆が」
 余りに辛辣な言に、傍で杯を傾けていた客は驚いて咳き込みながら眼を剥いてバーテンとヒイロを交互に見やった。完璧な所作のバーテンはグラスを片手、乾布を片手に今もにこやかに佇んでは忠実な酒場の主を装っていた。そして暴言ともいえる言葉を吐かれた対象であるヒイロは、気にした様子の無い穏やかな笑顔を浮かべている。そんな表面上は何て事の無い雰囲気に、隣の客は自分の空耳だったのかと結論付けて、再び酒の齎す余韻の深みに浸っていった。
 唖然とした眼差しで自分達を見つめていた隣の客の狼狽に塗れた様を横目に捉え、ヒイロは気付かれないように苦笑を浮かべる。
「うーん、でも酒を飲みたいって気分じゃないんだよね」
「おいこら。ここは酒場兼劇場なんだよ。酒飲まない奴は帰れ。商売の邪魔だ」
「横暴だね……。そもそもここは劇場兼酒場じゃなかったのかい?」
 皮肉をやんわりと流し、反撃を試みたヒイロにバーテンは露骨に顔を歪ませた。
「逆だ逆っ! まったくどいつもこいつも失礼な事を……片手間に創めた事業の方が盛況なのも考えもんだな」
「別にそれはそれでいいじゃないか。商いをしている以上、盛況に越した事は無いだろう?」
 穏やかに言うヒイロに、両腕を組んで見下ろしていたバーテンは大きく嘆息した。
「それはそれで色々と面倒があるんだよ。……まぁ、ふるいに掛けられるという点では、役には立っているがな……っと、中庸無関心排他傍観主義のお前に愚痴なんぞ零しても意味はねーな。……んな事よりもだ。バルマフウラ、古代遺跡巡りの世界道楽紀行は終わったのか?」
「あはは、おかげさまで」
「そうか。魔物もそこら中に徘徊しているってのにご苦労な事だ。正気を疑うぜ」
 悪意は感じられないが、皮肉にしては余りに刺々しい言葉に、ヒイロは曖昧に微笑む他無かった。

 グラスに並々と注がれたミルクをヒイロが全て喉に通したのを見計らって、バーテンは決然と言った。
「さて、そろそろ本題に入るが……この先・・・に用があるから来たんだろ? 既に判っていると思うが、決まりだから問うぜ。……ここから先はめくるめく漆黒の世界だ。表の常識も、光の倫理も通用しない無法者共の溜まり場だ。黒と闇を恐れないのならば奥へ進め。五感で少しでもヤバイと感じてんならそこで勘定払って回れ右だ」
 眉を顰めて剣呑な光を双眸に載せ、顎を抉しゃくりながら低く唸るようにバーテンは言う。まるで恫喝のような声調のそれを受けて、ヒイロは逆に穏やかに微笑み、上着の胸のポケットに仕舞い込んでいた黒いカードを人差指と中指でスッと抜き出す。それは丁度トランプと同等の大きさの物。表面がただ黒一色で塗り潰された色気の無いそれをバーテンの鼻先に掲げた。
「光ある所に闇はある。転じて、闇の渦巻く深淵にも光は確かに息づいている。両者はただ真実を覆う純たる外殻にすぎない。我はただ、その奥に潜む隠者を掴む者。即ち、探索する者レミラーマ
 穏やかな琥珀の双眸の奥に鋭い光が灯った。それは何かを切実に求める者のみが持ちうる本質的な意志の奔流。ヒイロの眸の深奥から見出した光と澱みの無い言葉に、バーテンはニヤリと口元を歪ませ、カウンターの出入り口用に設けられていた仕切りを持ち上げる。そして片手を腰に、片手をに伸ばし礼節を重んじる洗練された執事を思わせる仕草で優雅に招いた。
「オーケー。ようこそ、盗賊ギルドビュトスへ」





 盗賊ギルド。通称深淵ビュトスと呼ばれている、決して陽の当たる事の無い活動をその主体とする組織。
 その設立は歴史的にかなり古く、元はただ世間の環から弾かれた無法者、ならず者の溜まり場にすぎなかったのだが、一人の存在がその在り方の総てを変えた。その人は“盗賊王”と呼ばれ、今となっては裏の世界で伝説化している人物で、彼によって姿形を変える事となった盗賊ギルドはアッサラーム中興期、その都市の発展に影の中から貢献していたとされている。

 そして時は流れて、盗賊ギルドがこの体系になって既に百年近く。今ではアッサラームという都市の敷居を越えて、周辺国家からの決して公になる事の無い依頼さえ舞い込んで来る。そこには大小様々、平穏物騒の垣根は存在していない。国家間でやり取りされるの機密情報の極秘調査の依頼もあれば、出所を巧妙に隠された暗殺依頼までもがある。
 善が全て等しくにき存在である為には、対極たる悪は必要不可欠な要因。それはあたかも光輝く為に、照らすべき対象となる真闇の深さの如きに。故に盗賊ギルドは善き社会・・・・を構成する上で欠く事のできない、必要悪の役割を自然と担うようになっていった。
 だが、ただの無法者、ならず者でその役回りを演じ切る事は重武装で薄氷の上を歩くようなもの。いかに盗賊としての技術が高かろうと、それを御しうる人格が無ければただの外道に堕した奸人かんじんに過ぎない。必要なのは、悪の道を進めどそれに溺れず驕れず人道を外れる事の無いつよき意志。善と悪の柵に囚われる事無く物事の真偽を冷静に見る事が出来る、心技体の調和が取れた存在。
 その見極めを行っているのが現ギルド長であり、酒場の主であるバーテンだった。彼はその道の者達に畏怖と敬意を持って“幽幻ファントム”と呼ばれ、嘗ての“盗賊王”の再来と謳われる大盗賊だ。彼に関する素性一切、正確な情報は二つ名の通りに誰一人知る事無く、逆に盗賊として必要な技術、探索眼、胆力などは当代一と裏の世界では認識され、それ故に彼の言葉は影に生きる者達にも真摯に届いていた。




 バーテンが立つカウンターの奥には酒瓶を陳列する棚に囲まれるように扉があった。知らない人間が見れば、その扉の先は何の変哲の無い酒場の準備室か何かと思うだろう。その扉に薄闇と油断に巧妙に紛れる忍び足で物音を発てず近付き、周囲の景色に溶け込むように静謐を保ったままヒイロはその扉を潜った。そして、その先に伸びる地下への階段を足早に下りていく。
 当然それまでの一部始終を誰かに見られたと言う事はない。否、それを例えカウンターの隣に座って美酒に酔いしれている人間に気付かれるような事では、この扉を潜る資格など初めから無いのだ。
 階段の壁は煌びやかなこれまでの装飾とは変わって異界のように味気なく、ただ石を積み重ねて築いただけの質素な物。所々に見る事ができる壁が剥がれた痕がこの場所の歴史の長さを感じさせる。
 何段も続いている深淵の先に、粗雑な扉がある。誂えられた小さな窓には物々しい鉄格子が付いており、その先から漏れるぼんやりとした光は、安堵を与えるよりも先に自然と気を引き締めさせた。
 錆が擦れ合う音を発して開かれた扉の先に広がっていたのは、ランプの灯り照らされてはいるが仄暗い閑散とした部屋だった。飾り気の無い石色の壁には、数字の書かれた人相描きが一面に張り出されている。部屋を半ばから分かつようにカウンターが設けられていて、その上に鉄格子が填められてそこより先に立ち入る事は許さないという意志を誇示していた。鉄格子の先にある幾つもの机には大量の書類が積み上げられ、ギルド構成員がその狭き中を苦も無く行き来している。恐らくその書類一枚一枚が、表に出れば世に混乱を齎す程に危険な情報の束なのだろう。整理してもしきれないだけの世界の陰が、そこには在った。
 部屋の中には既に数人の人間が談話し、カウンターを挟んでギルド職員が座っている場所に詰め寄っていた。その誰もが身軽そうな装いで、盗賊稼業を生業にしている事が人目で判るギルドに所属登録した盗賊達だ。彼らは彼らでのんびりとこの場で寛いでいるようにも見えるが、その佇まいからは油断できない何かを見る事ができる。何故なら、誰もが総じて眼前にいると言うのに、その気配は巧みに隠されている。丁度野生の獣が獲物を前に息を潜める、といった様子であった。
 心地よい緊張感に満たされた場をヒイロは悠々と歩き、カウンターの前に幾つか在る椅子に腰を下ろす。そしてその奥で鉄格子を挟んで相対するように同じく椅子に腰を下ろしていた眼鏡の女性に、胸のポケットから出した漆黒のカードをカウンターの上を滑らせるように女性に提示し、言った。
「イシスの近況を知りたい」
 カードを受け取ってそれを一瞥した女性は、感情を面に載せる事無く淡々と返した。
「イシスですか。……戦争中なのはご存知でしょうか?」
「ああ。知りたいのはその詳細さ」
 ヒイロが頷くと、わかりました、と抑揚無く言葉を返して眼鏡の女性は奥の書類の山影に消える。恐らく求めに応じる為の情報が記載された書類を捜しているのだろう。その様を何の感慨もなしにヒイロは見つめていた。
 ヒイロは主に、情報収集の場としてここを利用していた。そして同時に、過去に訪れた事のある遺跡についての細やかな罠や仕掛けの情報を提供する……それで取引が成立していた。ここでは情報こそが通貨であり金なのだ。
 紙束の山から目的の書類を取り出して来た女性は、先程の椅子に再び腰を下ろしその中にある文面に目を走らせる。鮮やかな赤茶髪の下で深い青の瞳孔は忙しなく左右を往復する。鉄格子越しに紙面を盗み見ようとしても、絶妙な位置取りで丁寧に遮られていた為それはかなわない。この一見おとなしそうな女性も、一流の盗賊なのだ。
「詳細と言ってもこちらで把握している事は多くありません。今代になってイシスの情報規制体制は厳重になったので、ギルドでもなかなか情報が掴めないのが現状です。…………イシスが、魔物軍の侵攻を受け始めたのはおよそ三週間前の事。衝突している軍勢を占めているのは死霊、不死の魔物の類だという事。そして宣戦布告の際、魔物を率いていた者は自らを屍術師ゾンビマスターと名乗った事。判っているのはこの三点になります」
「成程。それでイシス側の状況は?」
「聖王国イシスは砂漠の双姫…“魔姫”を陣頭に騎士団と、民間の戦士団が団結して抗戦しています。これまでの経過と成果を見る限りは善戦していると言えるでしょう。ですが長期的大局的に事を見ると“魔姫”一人のままではあの国に先はありません。厭くまでも“魔姫”の本分は“不死昇天”。“不死絶殺”は“剣姫”の領分。それに如何なる理由からか“剣姫”は今イシス本国にはいないようです」
 丁寧な口調で極めて事務的に返されるそれは何処までも冷たく、事の深刻さを否応無しに思い知らされる。聞きながらヒイロは両腕を組んで眉を顰めた。
「女王の杖と剣…双姫の片割れが国にいないなんて、何かあるのかい?」
 ヒイロの問いに、わかりません、とだけ口にして女性は双眸を伏せたまま首を横に振った。
(双姫が主たる女王の傍にいないと言う事は……何かあるな。確か“砂漠の双姫”はラーの化身たる女王の名代。つまり双姫に命令を下せるのは女王その人のみ。国にいないと言う事は、女王の命令で国を空けている…と考えた方が自然か)
 口元を覆い思索を広げていたヒイロは、これ以上の推察には個人の感傷が入りかねないと覚り、打ち切る。疑問は色々と尽きる事は無いが、情報収集としてここに来ている身である以上、在りのまま感情を孕める事無く事実を捉えなければならない。それによって今後を左右されるのが自分だけならばまだしも、今では仲間がいるのだ。感情による不確かなもので仲間を危険に晒す事があってはいけない。盗賊と言う職業の冷静さを全した現状認識。それこそが今の自分が最も優先すべき事だった。
 そしてヒイロは、齎された情報への代価としてこれまでに訪れた古代遺跡、四方塔についての情報を提供してその場を立ち去る事にした。






 劇場から颯爽と出てきたヒイロは、入り口で立ち止まり空を見上げる。
 黒曜の雲からは、とうとう裡に秘めていたものを抑えきれなくなったのか、雨がしとしとと降り注いでいた。
「雨、か……」
 冷たく地上に降り注ぐ雫に、慌てて建物の軒下に駆け込む者が通りのあちらこちらに見止められる。慌しく駆け始める雑踏の中に、ヒイロは雨に濡れる事を厭わずに踏み出しては特に当ても無く街路を行く。劇場に入ってからそう時間は経っていない筈なのだが、随分な勢いで雨が降り続いていたのか、通りには幾つも水溜りが出来ていた。
 髪先を伝わりゆっくりと頬を撫でる冷たい水の感触は、バラバラに欠けた自分の片鱗を繋ぎ合わせるかのように、しっとりと自分の中に染み渡ってゆく。
 その余韻が己の深奥にまで達したのか、ヒイロは去りしなにバーテンに掛けられた言葉を思い出した。
『お前さんは何時まで経っても変わらんな。その若作りの方法を教えてくれよ』
 悪気は無い単純な冗談なのだろう。だが簡単に言われた事ゆえに、それは酷く自分の胸を打ち据えていた。



(変わらない、か)
 以前、盗賊団“流星”に所属していた時の仲間であるカンダタやゼノス、ジーニアスやリースと再会した時も同じ事を言われた。いやそれだけではない。旅先で、時間を開けて久しく会う人間には必ず言われる言葉だ。
 そう。自分はいつまで経っても変わらない。肉体的にも、精神的にもずっとこのままだ。
 自分を自分と知覚した時から始まる人生という路。その先の見えない不確かな路を歩んでいるうちに、時間と外からの様々な刺激に呼応して内面と、それを覆う強固な外面を絶えず塗り替え、そして先へと歩を進める。人生とは、このような変化を繰り返していくものだとずっと思っていた。
 だからこそ内面での、外面での変革を願い、世界中の様々なものを歩き見てきた。人と世界の数だけ存在する悲劇、あるいは喜劇を幾度無く見つめてきた。だが、結局それらは一体自分に何を齎したというのだろうか。様々な人の環に触れ合う度に、改めて思い知らされるのは孤独感。温かな人の環に、異質な自分が抵抗無く溶け込む場所など無いと言う疎外感が常に付きまとう。
 つまるところ自分は、この世界で自分を自分と知覚した時から何一つ変わらない。否、変われない。
 この世界で、自分を自分と認識してから既に十年以上は経っているだろう。だけど容姿は少しも変容する事無く、新たに触れる物事は一時の感動を齎しはすれど、魂の深奥に届く事は無く。
 だからこそ思う。変わらない、と他人に言われる事は特異な自分を改めて思い起こさせる。鏡や硝子に映る変わらない自分の姿を見止める度に、こう思う。
(俺は、本当に人間なんだろうか……)



 空高く舞い上がった空気は冷えて雲を形成し、風に嬲られるままに宙を当ても無く彷徨っていた。その裡に秘めた雨はただ無心に静かに地上に降り注いでいる。それは恐らく、時の始原から変わらぬ永劫の自然の摂理。それは世界そのものを構築、存続させる為の歯車システムの一環。
 衣服に雨水が染み込み、ずっしりとした重量感で自分を圧してくる。だがそんな事など気にはならなかった。むしろこの雨で自分の中の晴れない何かを、魂を縛り付ける不変の鎖を洗い流して貰いたい気分だった。
 ふと、足元のすぐ傍に先程ばら撒かれた金貨の一枚をヒイロは見つけた。混雑する人の波の中、人知れず地面に落ちて転がり、人の目を潜って来たのだろうか。激しく雨水を弾いている砂の地に力なく横たわっている。その雨に打たれて、小さな飛沫を纏い悄然と佇んでいる様子が、ありとあらゆるものから切り離され、世界という一つの連鎖からの繋がりを見失った孤独な者の末路にも見えた。
 そんな感傷を持った刹那。その様が記憶という過去、現在、未来そして世界とを連綿に繋げる足跡の無い今の自分と重なってしまい、直視できなくなってしまった。
 どうしようもなくやるせない気分になって、逃げるようにヒイロは琥珀の双眸をその金貨から引き剥がす。そして二度と振り返る事無く、颯爽と雨が地熱によって霧となり漂い始めた街路を歩き始めた。

 雨は尚も降り続く。それに伴い人の影は徐々に失せ往き、通りにはただ強かに地面を打つ雨の音だけが奏でられる。その中で、止む事の無い雨は地面に転がった金貨を無情なまでに慈悲無く打ち据え続けていた。




 暫く雨に打たれながら歩みを進めると、薄霧が漂い始め幽寂とした通りの先でひっそりと佇んでいる誰かの影が眼に入った。それは漆黒の外套コートと帽子に身を包んだ男の姿。その男は往来の真ん中で止め処なく落ちてくる雫を受け止めるように、両腕を広げ全身で雨を迎えていた。
「雨は良いなぁ。雨はオレに纏わり付いてくる不快な全てを洗い流してくれる。この胸の内に巣食い絡みつく葛の断想も、無我のままに舞い降りる滴が攫ってくれる」
 誰に言っているのか、芝居がかった口調で鷹揚に語る不審な男。その言葉は、まさに今自分が心に描き望んでいた事だけに、聞き流す事ができなかったヒイロは思わず立ち止まり注視してしまった。
 そんな視線と音に気が付いたのか、黒衣の男は首を傾けてヒイロに向かう。そして、外套に触れて砕け散る水滴の飛沫を全身に纏いながら悠々と歩み寄ってきた。
 片側に白い羽の飾られた帽子の前つばが長い為、その影に隠れて表情を覗く事はできない。僅かに見える肌に垂れる髪は、夜空に浮かぶ雨雲のように鈍く黒い。雨に濡れて滑らかな艶を増したそれは黒曜石の煌きを想起させる。胸元に垂らした首飾りの、その中心に座している黒色の宝玉が雨に触れる度に微かに煌いているように見えた。それはあたかも心臓の鼓動のように艶かしく脈打つ光。
 不思議な懐かしさを覚えるその出で立ちの男が、懐裡を揺さぶる声色で話しかけた。
「雨は良い……なぁ、あんたもそうは思わねーか?」
「…………え!?」
 咄嗟の事に、ヒイロは答える事ができなかった。だが、男は唖然としたままのヒイロを満足げに一瞥した後、大きく翻り空に両手を掲げた。
「雨水はオレを癒してくれる。何故ならこの雫一つ一つがこのオレと世界を繋ぐ欠片。魂の奥深く染み渡ってはオレという存在の根源を満たし、形作る為の礎となるからだ」
 陶酔したように綴られる暗示的な言葉。自分に向けられた言葉ではないと判るのだが、不思議と聞き逃す事ができない。雨は今も変わらず自分を打ち付けている筈なのに、いつしかヒイロにはその感覚が消え去っていた。
「この世界は実に様々な色に満ちている。だがその中で最も清く尊く、天地世界の根源を創造するのは五つの輝き……水雨の黒曜。生命の青晶。月金の白翠。星土の黄碧、そして太陽の赤碌。そのどれもが世界を動かす至高の連環の一つであり、その先にある大いなる意志の流れを導く為の贄でもある」
 ふと、帽子の下から珊瑚色の両眼が強い光を湛えて自分を見ていた。その油断ならない眼光は、凄烈な存在感を伴って自分の脳裡に焼き付く。男の両眼の光に応じるように首飾りの宝玉が淡く確かな光を湛える。その表面には水の雫を象った紋章がぼんやりと浮かび上がっていた。
「……あんたには月の方が似合いそうだ。人間の光に遮られる事の無い浜辺で、澄んだ夜空に広がる満月を見ていると色々と考えが晴れる事もあるかもな」
「…………」
 その視線に何故か眼を合せる事ができなくて、ヒイロは拒絶するように踵を返した。首飾りの宝玉…その紋章を見た時から、いや正確にはこの男に出会った瞬間から頭の中で絶えず何かが囁いている気がしてならなかった。





 立ち去り霧の中に消えていくヒイロの背をつばの影から見つめたまま、黒衣の男は口元を喜悦に歪ませる。
「なぁそうだろ? ……月の白翠導師アルベド
 その虚空への問い掛けに答えるように雨を齎し続けている雨雲の隙間から、ほんの少しだけ白く輝く満月が顔を覗かせ、また隠れた。




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