――――第四章
      第五話 冷たい焔







―――少し、時間を遡る。
 それは蒼天を昇り往く太陽が、ようやくその頂に手を届かせた頃。
 堅固な円陣に護られたアッサラームの街北東部に位置する区画には、武具店が軒を並べている一角がある。鍛えられた鉄と仄かな錆臭さ、そして平穏ならざる日常を織り成す物特有の張り詰めた冷厳な空気が小路の隅々まで満ち漂っている。
 その中で、中堅と言ってもいい歴史と大きさを誇る店の前で佇む、明らかな異邦の容姿の旅人が一人。独特でどこか神秘的な雰囲気を醸す深紺の民族衣装と、陽光を透かし金色に輝く大円の帽子。頭に深く被った麦藁を編みあげて拵えたそれを少し抓み上げて、その人物は隙間から覗いていた目を細めた。それはほんの僅かの間ではあったが、その間に思索を完遂させたその人物はゆっくりと門戸を押し開けて中に踏み入る。
「店主。商い中に申し訳ありませんが、この方をご存知ないでしょうか?」
 店内の物には目をくれず、ただ真っ直ぐにカウンターで番頭をしていた店主にその人物は歩み寄り、声をかける。それは晴れた日の涼やかな風のように落ち着いた、女性の声だった。
 唐突な事に暫し目を丸くしていた店主は、まじまじと珍しい格好をした来訪者を見つめる。
 守備力に乏しそうな藁葺わらぶきを細かく編んだ帽子を深く被り、従来の旅人の服と構造を完全に異にしている深藍の装束。服飾が全体的にゆったりとした作りで、顔も影に覆われていた為に初見で女性とは判らなかったが、よくよく見ると確かに華奢であり女性特有の膨らみが衣服を内から押し上げている。背負った背嚢はいのうを覆い隠すように、視線を惹き付けてやまない艶やかで真っ直ぐな黒髪が流れていた。そして手にしている錫杖の先端に座す円環から鎖が蔦の様に杖身に絡みつき、その末に丁度大人の拳大の鉄球があつらえられている。それは俗に言うモーニングスターという、戒律で刃物を持つ事を禁じられた聖職者達が護身に用いる為の武器。今は店に在庫は残っていないが、良く扱っている為見間違える筈もない。ただ特異な点があるとすれば、通常ではくろがね色の鉄球と鎖が不思議な朱金色で塗り固められているという事だ。
 店主の思案を余所に異国の女性が、ここ近辺に流通している衣服の数倍はあろうゆったりとした袖口から一枚の紙を取り出し、見せる。その紙もまた異質な物で、羊皮紙とは材質を別にする代物だった。その紙にはどれほどの才能と絵心を持つ人間による物なのか、精巧な肖像画が描かれていた。それは今、こうして紙を差し出している女性と良く似た艶やかな黒髪の、意志の強そうな緑灰の双眸をした可憐な少女。おそらく年の頃は十五前後だろう。年齢にそぐわない大人びた、毅然とした眼差しで対する者全てを見据えながら存在していた。
 だが、滅多に見られない物を見て商人としての店主の心は躍るも、首を傾げるしかできなかった。
「このお嬢ちゃん? ごめんよ、見た事無いね」
 顎鬚を弄びながら記憶を探るも、思い当たる節は無い。そもそも、日に何十人という客と顔を合わせ、外に出ればその数倍の人間が絶えず流れを作って通りを闊歩かっぽしているのだ。その一人一人を正確に記憶できよう筈も無い。例えそれが極めて異国情緒溢れるの風貌であろうとも、だ。
 その旨を伝えると、眼前の女性は落胆したように声色を落とした。
「そうですか……」
「それよりもあんた、珍しい出で立ちだね。その法衣といい……ひょっとして倭国の出かい?」
 倭国…遥か極東の地に存在するという神秘の国。彼の国が神秘・・はやされる訳は外との交流が極端に無い為、その文化風習は全くと言って良い程に伝わってこない事に起因している。そしてそれが外の人間達の様々な憶測を生み出す事となり、結果妄想染みた高壁に囲まれ秘された国として世界に知られるようになってしまった。
 店主がその名を出したのは、何て事の無い刹那的に脳裡を掠めた単純な思い付きだった。だが女性はそれを淡白に首肯する。そんな想定外の返答に、店主はただ目を瞬かせるのがやっとだった。
「本当かい!? いやぁ……いくらこのアッサラームは人が集まるとはいえ、かの“黄金の国”の旅人さんと会える機会なんて、そうあるものじゃないからねぇ」
「…………」
「でも何で武器屋で人を探してるんだい? 確かに冒険者なら結構訪れるだろうけど、それでも酒場の比じゃない。情報収集ってのは酒場が相場って決まっているだろう?」
 カウンターから身を乗り出して、口早に唾でも飛ばしそうな勢いで質問してくる店主に、女性は表情を動かす事無く大事そうに紙を袖口にしまいながら言葉を選び、返す。
「この方は頑なで実直ですから、そういう浮ついた場は好まれないのです。それに武闘を嗜んでおいでですので、専用の武具を扱っている店ならば顔を出すと思っていたのですが……」
 女性の言葉を聞きながら、店主は彼女が探している少女は良家の令嬢か何かなのかと察した。となると眼前の女性はその家に仕える侍女だろうか。言葉を濁している女性を視界に捉えながら、店主の思索は続いていた。
「すまないねぇ。うちよりも武闘家用の武器を扱っている店となると、マグダリアさんの所かな」
「! その店の場所をお教え願えないでしょうか?」
「いいよ。でも、あそこは夜に経営している変わった店だからね。時間を間違えちゃいけないよ」
「申し訳ありません。あなたの御厚意と誠実さに、我が先祖の御霊共々無限の感謝を捧げます」
「いや、そんな大げさな……」
 深深と腰を折る女性。そのように畏まった謝罪の様を見た事も無い店主は、ただ狼狽するしかなかった―――。






 空からはすっかり太陽が身を潜めていた。だのに、ここを往く人影は一向に減る様子さえ窺わせない。夜になると通りの喧騒は水を得た魚のように活気付いてきた。それに伴い街を彩る活気は、昼間とは全く別の彩に染まっていく。
 露出の激しい服を纏い、鼻腔を擽る妖しげな香を身に漂わせて客引きをしている若い女性。道行く女性に馴れ馴れしく近づいて口説いている軽薄そうな男性。みすぼらしい格好をして道行く人に金品を強請る浮浪者……。老若男女問わずに織り成される非常に人間臭いやり取りのどれもが、この街において普通の事。そして普通であるが故に誰もが気にも留めず、ただその異様さに慣れぬ外来者だけが戸惑いを感じる。
 まるで祭りのように浮き足立っている人の流れに入らないよう気を配り、それを眺めながらミコトは思う。
 ざわざわとざわめきを起こし人が通り過ぎていく様は、大河を流れる水のようである。そして大通りを主流と例えるならば、枝葉のように連なる小路は傍流そのもの。主流から傍流への河口、清流から濁流への流転際は数多の方角に移り行こうとする流れの擾乱。その中に足を踏み入れて、ましてや足を掬われ身を渦中に落とす事になるならば、流れの終端に辿り着くまで這い上がる事はできないだろう。そしてその時、その様相は惨憺たるものになるのは想像に易い。
 この街においてそれは通ずる所があるのかもしれない。水と人の違いはあれど、それらに秘められた形無き思念の絶えず移り変わる様は似て非なるものなのだから。
 欲望と言う人の根源的な意思の流れに身を堕とし、交錯する感情と謀策という無形の刃の波に身を弄られ、やがて辿り着く終端の暗がかった路地先で待つのは破滅か、絶望か。
(……考えすぎか)
 何処か否定的な思考に至ってしまったと自覚する。確かに、以前訪れた時からこの街を好きになる事はなかった。その為否定的な無意識が思考を侵食し、退廃を極めたような結末を想起させたのかもしれない。
 もやもやとざわめいている胸の内を吐き出すように、ミコトは自嘲に喉の奥を鳴らした。彼女らしからぬ行為ではあったが、周囲の喧騒に掻き消されてそれは誰にも届く事は無く。
 ふと夜空を見上げるも、地上の明かりが強すぎて星星の光は届かない。それに拍車を掛けるように暗澹とした雲が、ひっそりと息を潜めながら静かに空を蝕み始めていた。




“摩天楼”で黄昏に染まるアッサラームの景色を楽しんだ後、彼女達一行はこの地に滞在中世話になる事になった旅籠の場所の確認に訪れ、そして各々骨休めと言う意味で解散する事になった。
 一通りめぼしい所を案内し終えたシェイドは商会ギルド本部への帰還報告と言う事で既に辞している。
 ヒイロはこの街の何処かにある盗賊ギルドに周辺情勢の情報を収集しに行っていた。恐らく魔物と戦争中であるというイシスの情報でも探る為なのだろう。
 そして今でも信じられないが、ユリウスはこの街に着いてから体調を崩していたようで、不機嫌そうに、気分が悪い、とだけ言い残して早々に旅籠の部屋に篭っていた。本人にとっては望まぬものなのだろうが、ああいう弱さを見せれば人間らしく見えるのではあるが、蒼茫の湖・・・・に佇んでいたあの光景が脳裡に焼き付いている為、易々とそれを受容れるのを阻んでいる。それを自覚してしまっているが故に、自分がとても矮小な人間に思えて仕方が無かった。
 今現在、ミコトはソニアを伴って大通りを進んでいる。元々はアズサも歩を共にしていたのだが、唐突に用事が出来たと言って喧騒の中に紛れて行ってしまった。彼女は何度かこの地を訪れた事があるというので、知り合いにでも会いに行ったのかと思い、ミコトはそれ以上の追求は止めている。魔物という生命を賭した危険の中を旅している以上、次に会える保障は無い。だからそのような感情はあって然るべきなのだと結論付けたからだ。
 この地を訪れるのが初めてであるソニアは、昼とはまた違った活潤に充ちた街の夜の顔を物珍しそうに眺めている。その多少恍惚とした、夢見る少女の艶を載せた相貌にミコトは思わず失笑してしまうが、それは無垢に想いを馳せている彼女に対して失礼になる事だと思い、それを内心で戒め彼女への非礼を詫びた。幸い、周りに目を奪われているソニアにこちらの様子が気付かれる事は無かったが。
 思えば数年前、初めてこの地を訪れた時。多分その時の自分も、今のソニアと同じように広がる世界に吃驚しては顔を輝かせた筈だ。そして当時、自分と共に旅をしていた人達がそんな自分を見下ろしては苦笑を零していたのだろう。その記憶が、今になって心の奥底から浮かんでは脳裡で像を結んでいる。
 時が経つ事によって、当時気付けなかったそれが解ってとてもこそばゆく、そして温かかった。

 通りを歩く若い女が二人。それもそれぞれに麗しさを醸す彼女達に、にやついた眼で声を掛けてくる下卑た男達を何度も振り切っていると、穏やかだった表情は自然に憮然としていきミコトは疲弊した嘆息を零さずにはいられなかった。
「ねぇミコト。何処に向かっているの?」
 こちらの溜息を聞きつけたのか、ソニアは首を傾げて振り向いた。
「アズサとシェイドの紹介で、夜にしか開いていないっていう武器屋に」
「そういえば、さっきそんな事を話していたわね」
 人差し指を顎に添えて、空を見上げながらソニアは大きく目線で円を描く。そうして記憶を辿り、戻れない時間を遡る。やがて納得したように頷いた。
「うん。そろそろこの鉄の爪も新調しないといけないから」
 その様子を見止めミコトは少し人の波から離れ、腰に下げていた鉄の爪を手に取る。鋭い鉤爪の三刃が街の灯を反してキラリと煌いていた。だが良くみると所々刃毀れや歪みが見られる。剣よりも直に身体の動きと力を伝えるが為に、多様に変わる力の負荷を溜め込んでしまい、耐久性に劣るのがこの武器の宿命だった。
 こうなっては修理するよりも新しいのを購入した方が安く済む。ミコトとしては未だ使える物を無碍に手放す事に気が引けてはいたが、命を預ける事になる代物である以上万全を期するのは上策であり常策だった。
 いつの間にか目線にまで掲げていた鉄色の爪先にポツリと水滴が落ちてきた。それは刃の先端に触れた途端に弾けてしまい、無数の飛沫となって宙に消える。
 その様子を見たミコトはおもむろに空を見上げた。先程まで星星を覗かせていた筈の空も、今は重々しい雲に覆われている。街の灯が明るすぎるが為に、雨雲に映る明暗が形の無い不安を胸中で燻らせた。
「まずいな……、降ってきた。急ごう」
「ええ」
 そんなミコトの呟きを裏付けるように、空から落ちてくる水滴が一つ、また一つ。それは徐々に間隔を詰め、限りなく連なる断続な流れとなって大地に降り注ぎ始めた。




 中央大陸最西地方は、一年を通して気温が高く雨の多い地方である。それに加えて今は乾季から雨季への過渡期にあり、南に海と東には山脈という地形がそれを助成していた為、天の気まぐれと思えてしまう頻度で雨が降り、晴れが続く。
 アッサラームの街が在る周辺になると、気候帯の変遷の為か雨天は頻繁にある訳ではなくなるが、天気が移ろい易い事に変わりは無い。晴れの隙間を突いて一時的にだが通り雨が降る事もしばしばだ。この地の空気に湿度を与える海から吹く水気を孕んだ風は、北東からのより強い風に呑まれて南西に押し流される。そして続く陸地と日差しの熱に含んでいた水気を奪われてしまい、最終的には乾いた風となって虚空に還る。その風の還る終着こそが南大陸最北部に広がるイシス大砂漠であり、乾いた風と灼熱の太陽に抱かれた“太陽の参堂”の入口となるのだ。
 そんな事情をソニアに説明しながら、足早にミコト達は目的の店に辿り着いた。
「多分一過性のものだと思うから、ここで雨宿りをさせて貰おうか」
 店の戸口を潜りながらミコトは提案する。冷かしになるようで気は進まないけど、と零すあたりにミコトらしい実直さが感じられた。
 ランプで明かりを灯された部屋は、落ち着いた雰囲気を醸し、それが陳列された武器それぞれに秘められた力を静かに主張しているようだった。
 数多くの街灯の照明で彩られた外の明るさに比べ、内は薄暗かったが内装は良く整理されていた。樽の中に無造作に立てられた槍の束。壁に備えられた陳列棚には幾つもの剣や斧が鋭い光を湛えながら並べられている。店内に配置された武具の数々はその道の人間を唸らせる程に確かな、優れた代物ばかりだった。
 足を踏み入れたミコトは凛とした静けさが漂う店内をぐるりと一瞥する。夜だと言うにも関わらず、店内にはそれを生業として生活している者達が数人、飾られた武器を値踏みしている。そして、そんな客らしき人達の中で一人の姿を見止め、固まった。
 この辺りでは特異であり、懐かしい出で立ちの法衣。袈裟に背負っている山吹の背嚢の上から流れている流美で真っ直ぐな烏珠の輝き。店内だと言うのにも関わらず深く編笠を被っていたが、その秘匿さがその人物が纏う清浄な美貌を髣髴させる。
 心当たりのありすぎる人物を眼にして、ミコトは狼狽からゴクリと息を飲み込んでしまった。
 そんな喉鳴りが聞こえてしまったかと錯覚する程にタイミングよく、自分の目線を独占していた人物は振り向き、笠の下の影中で大きく眼を見開いた。だがそれも刹那の間。かすかに口元で笑みを描きながら、ゆっくりと編笠の女性は歩み寄ってくる。手にしている錫杖が、女性の心内の動きを代弁するかのようにシャランと大きく鳴っていた。
 動揺に立ちすくんでしまったミコトの眼前に立ち、異邦の出で立ちの女性は優しく、慈しむ様に柔らかな声色で言った。
「探しましたよ。美命ミコトさま」
「さ、朔夜サクヤ?」
 目を丸くしたまま、ミコトはただ弱弱しく呟く事しか出来なかった……。




 どれ位の間、絶句していたのだろうか。瞬きすらするのを忘れてミコトは眼を見開いていた。緑灰の双眸の、さらに深みの瞳孔を引き絞り眼前の女性を捉えている。
 淑やかさという言葉を形にしたような女性だった。記憶にあるその姿に相違は無く…いや、幾許かの月日をおいた所為か、或いは自分の中での記憶が微かに揺らいでしまったのか印象が違うように感じた。だけど、笠の下から自分を見つめてくる慈しみの込められた視線は何一つ変わらない。それは母が娘を心配するような、姉が妹を見守るような…親しい者達の間で交わされる温かな眼差し。
 その間は実際にして数分にも満たないのだが、その程度の間隔さえ感じるのを忘れる程、ミコトは動揺という名の懐郷を揺蕩っていた。
「ミコト、さま・・?」
「あ、ええっと……」
 ミコトのあからさまな動揺振りに、隣に佇んで店内を見回していたソニアは不思議そうに首を傾げる。そしてミコトとミコトの前に立つ、彼女にサクヤと呼ばれた女性とを交互に見眺めていた。
 問われて反射的にミコトは顔を上げて返そうとするも、動揺から沸きあがった様々な思考が輻輳を起こし、結果一つの思考として纏める事が出来ない。逡巡し、言葉を吟味選別しようとしても空回りするだけで音として発するまでには至らなかった。その為しどろもどろになりながら言葉を濁す。
 ソニアの深紅の眸に秘められた困惑と、言葉を継げずに喘いでいるミコトの心情を察したサクヤは、被っていた編笠を脱ぎ、ソニアに向かって腰を深深と折って会釈をし、呆然と立ち尽くしていたミコトを仰ぐ。
「美命さま。こちらの方は?」
 静かに問われて、漸くミコトは気を取り直す事ができた。
「彼女はソニア。アリアハンの宮廷司祭で……勇者一行の僧侶なんだ。ソニア、彼女は朔夜。何て言えば良いかな…………うん、私の姉のような人」
 思考の末に紡いだ言葉。それにソニアが眼を丸くした。
「姉? ミコトって姉妹がいたの?」
 言いながらソニアは、今更ながら自分が彼女の事情を何も知らないという事を覚る。仲間だと言うのに、その身内の事すら何一つ知らないという事実が、無性な悲しさを呼び起こしていた。眸にそんな思考が浮かんだのか、微かに揺らいだ紅を見てサクヤは苦笑を一つ零す。
「姉と呼ばれるには余りに畏れ多いのですが……。美命さま。ひょっとしてご自身の素性を明かしてはいないのですか?」
「…………うん」
 後半の、ソニアには聞き取れないような声量と目で問うてくるサクヤに、ミコトは消え入りそうな声を残し俯いた。実直な正確であるミコトの事。自らの身の上を伏せたままでいる自分が、仲間への背信に近い行為をとっているのではないか、という思いにおそらく苛まれているのだろう。
 悄然としたミコトを見下ろしたまま、そんな事を感じたサクヤは大きく溜息を吐いて、わかりました、とだけ短く言い、ソニアに正対に向かう。
「では、改めまして。ソニア殿。私は朔夜サクヤ神門ミカドと申します。美命さまとは家同士の繋がりで付き合いが古く、美命さまが幼少の頃より面倒を見させて頂いていました」
 嘘偽り無く、ただそれでも真実からは遠い当たり障りの無い答えをサクヤは提示する。だどもソニアは、ミコトのそんな当たり前のような事情を聞けただけでも満足だったのか、紅の双眸から憂いを潜ませた。
「そうだったんですか……」
 深く頷いたソニアを横目に、ミコトは真っ直ぐにサクヤに見える。何となく、心に圧し掛かっていた霧が晴れた気がしていた。
「そ、それはそうと朔夜。どうしてアッサラームに?」
 懐郷と同時に浮かんだ疑問をミコトはサクヤにぶつけた。そして、それへの返事は実に簡潔に齎される。
「貴女を探しておりました」
「私を?」
 既に予想していたのかと思えるほどに反射的に返ってきた答えに、パチリとミコトは眼を瞬かせる。そんなミコトの様子を見て、サクヤは大きく溜息を吐いた。
「そうですよ。……まったく、いきなりアリアハンへ行くって言ったきり、ランシールからの援助船に駆け込みで乗船するんですから。探す方の身にもなって下さい」
「……ごめん、それは謝る。だけどランシールで『勇者』と海戦の話を聞いていたら、なんだかジッとしていられなくて」
「貴女らしいですね。直情径行も、度が行き過ぎると自らに還ってきますよ。美沙凪ミサナギ様がお聞きになったら、どう思うのでしょうね?」
 サクヤは頬に手を当てて、困ったような呆れたような表情を作り、溜息を吐く。それにミコトは子供のように頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「ソニア殿もこれまでに苦労なされたでしょう?」
「だからごめんって!」
 悪戯っぽい笑みを口元に湛えているサクヤに、店内で他の客がいると言うのにも関わらずミコトは力一杯叫んでいた。
 幾多の視線を集める中。二人のそんなやりとりの様子が、姉が妹をからかっているように見えて、ソニアは懐かしさを覚える。微笑ましい気持ちでソニアは二人を見つめていた。




 色々な非難染みた視線を受けて、ミコトは気恥ずかしくなったのか肩を縮めながら店の隅へと移っていた。ソニアは久しく会った二人に気を使って物珍しげに一人店内を見て廻っている。
 完全に話の主導をサクヤに握られ、何となく面白くないミコトは憮然とした表情を造っていた。そんな不貞腐れた子供染みた表情を見てサクヤはクスクスと失笑する。
「どうやら無事に勇者殿の仲間に入られたようですね。美命さま、勇者殿はこれからどちらへ?」
「イシスに向かう事になっている。ポルトガに渡るには必要だろう? あいつの当面の目的は外海への通行手段である帆船だからな」
 先日の野営の時に話していたユリウスとヒイロの会話を思い出す。何事にも否定的で、破滅的でさえある思考をしている割には、しっかりした目的意識を持っていた事に妙な違和感を覚えていた。
 追憶から還り視線をサクヤに戻すと、サクヤは神妙な顔付きで考え込むように目を伏せていた。
「……イシス、ですか」
「それがどうかしたのか?」
 怪訝にミコトが問う。
「……どうあっても、貴女も行かなければなりませんか?」
「どういう意味だ? 仲間として『勇者』に同行している以上、勝手に抜ける訳にはいかない」
 言いながらミコトは、付いて来るなり抜けるなり好きにしろ、とユリウスに嘗て言われた言葉を思い出す。だが……。
「私の……私の意志は変わらない」
 むしろ自分に言い聞かせる為に、深く厳かに言った。その双眸の奥に秘めた意志の強さの光を見て、諦めたようにサクヤは溜息を吐く。
「……でしょうね。美命さまは一度決めてしまったら梃子でも動かない頑固者ですからね……」
「おい……」
 いくらなんでもそれは酷い、とミコトは言葉を続けようとしたが、開眼して自分を見つめてくるサクヤの余りに真剣な眼差しに言葉を噤む。
「……美命さま。宜しければ私も同行させて頂いて宜しいでしょうか?」
「え? 朔夜が居れば心強いけど、どうして?」
「あの人が、美命さまを探してイシスに行っているのです」
 あの人、と言われてミコトは直ぐにある人物を思い出す。それで納得した。
出雲イズモがイシスにいるのか!? ……そうなんだ。わかった、ユリウスには私から言っておく。あいつの事だから、否は唱えないと思う。だけど、私の事は……」
「……まだ、話せる気にはならないのですか? 我々は勇者オルテガ様には礼を尽くす立場にあります。……何を迷っているのですか?」
 不思議そうに首を傾げるサクヤに、ミコトは下唇を噛み締めて思考を巡らせる。思いの他力が込められていたのか、唇から血の気が失せ、白くなっている。固く握り締めた拳が、小刻みに震えた。
「朔夜……お前は殺気を放てるか? 殺気を自由に操れるか?」
「美命さま……」
「私はきっと……、ユリウスを恐れている。ユリウスという存在が怖いんだ……」
 殺気とは殺すという意志の具現。生あるもの否定する加害意識の極限。野に生息する獣が持ち得るそれは自らの生命活動を持続させる為に必要な搾取、淘汰……つまるところ生存本能から来るものだ。だが理性という枷を持ち、文明の進歩と共に野生から遠く離れた人間がそれに至る為には、一体どれだけの生命を実際に奪わねばならないのか想像を絶する。ましてやそれを自在に制御するなど、どれほどの狂気と殺戮の極地に立つというのか。
「殺気を自由に操れる者に正常な精神の者など、いる訳がない。ましてや、それがたった十六歳の、私よりも年下の人間にそんな事が……」
 傲慢で身勝手甚だしくある浅ましい思考。それをミコトは自覚しながらも胸の裡から滾々と込み上げて来るこれまでに積み重なった思いを止める事は出来なかった。懐かしく親しい人に会えた反動か、それに頷いて欲しいと言う共感が欲しているのかわからない。だけど子供の甘えのような感情を抑え付ける事はできなかった。
 独白を続けながらミコトは徐に自らの掌を見やる。食い込んだ爪の跡が痛々しく残っている。鮮烈に瞼の裏に焼き付いてしまったロマリア闘技場での光景に、微かに手が震えた。
「自分が今とても身勝手な事を言っているのは判っている。それがあいつに対しての礼に悖っているという事も解っている。だけど私も後には退けない……守りたいものがあるから。守らねばならないものがあるから。……故郷を出て来た時、私は誓った。必ず、成し遂げて見せると」
 ずっと溜め込んでいた自らの胸のミコトは語る。だがその表情は一向に晴れる気配は無い。
 そんなミコトの内心を察したのか、サクヤは力を込めている為に小刻みに震えているミコトの手をそっと優しく、暖かく包み込む。
「不安、なのですか? 全てを打ち明けた時、拒まれ一蹴されるのが怖いのですか?」
「わからない……わからないんだ!!」
 あくまでも朔夜は静かに、ゆっくりと語る。
「崇めるのは、崇める者達の思いの方向。ですが崇められる者の思いの方向は、それとは違います。同じであるかもしれませんし、真逆を向いているのかもしれません。美命さま。実際のオルテガ様のご子息が、貴女の抱く『勇者』と異なる人格であってもですか?」
 恐らく自分の真意を改めて思い起こさせる為にサクヤは言っているのだろう。深く耳に痛すぎるその問いに、コクリとミコトは頷き、真摯な光を緑灰の双眸に載せる。
「だけど……それでも私は『勇者』を求めている。朔夜……こんな私は卑怯な人間か?」
「……そんな事はありませんよ。私は美命さまの心を尊重させて頂きます」
 実際にその場にいたサクヤは、変わらない意志を持っているミコトに慈愛の笑みを浮かべた。
「……ごめん」
「謝らないで下さい。貴女はただ貴女の思うがままに進んで下さい。ただ前だけを見て、真っ直ぐに歩みを続けて下さい。横や後ろは私共が支えます。天道を昇る太陽のように、ただ揺らぎなく歩んで下さい」
「ありがと、朔夜」
 自分の意志を肯定されるのはやはり嬉しい事だ。それを後押ししてくれる人がいるのは幸せな事だ。ミコトはそんな事を思いながら、照れ隠しに窓の外に視線を移す。

 懐かしき人との邂逅に気分はすっかり晴れていたが、外はそうでは無かった。それがこの地で起こる不吉な何かを暗示しているようで、ミコトは自分でも気付かない程微かに呟いた。
「雨……、止まないな」




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