――――第四章
      第四話 白夜の都







 自由交易都市アッサラーム。
 世界経済の中心地であり、今や世界において物や人の流通が最たる繁栄の地である。
 今でこそアッサラームは世界屈指の大都市に数えられているが、都市アッサラームがアッサラームという共同体として存在し始めた当初、この地は最長で最古の東方街道に寄り添うしがない宿場街に過ぎなかった。それがここまで発展するに至った経緯は歴史的に見ても、地理的に見ても必然性が高い事であった。

 この地は中央大陸を東西に縦断する山脈の麓に位置し、大陸西側の人間が東方街道を通って最果てに在る“転職の聖地”ダーマ神殿に赴く為には必ず立ち寄る場所だった。ここから陸路で山脈を越えるか、海路で大陸沿いに迂回するか選ぶのは往く者達次第であり、その往々の選択の後押しとして様々な需要品や休息を提供する事で両者が互いに潤ってきたのである。
 また人類史に古くから名を残す大国であるロマリアとイシスの丁度中間辺りに街が位置していた事から、両国からの移住者や大使が幾度無く道中の足休めの地として利用していた事も、後の繁栄の礎になったのは言うまでも無い。
 そしてアッサラームに人が集まり栄える最大の要因には、世界に名立たる大宗教の存在があった。
 世界中で流布している数多の宗教、崇められる神々。ごく狭い領域で日常生活に溶け込んで緩やかに信仰されているものもあれば、国という枠組みを越えてのおおきな単位で神聖に厳粛に崇拝されているものもある。
 その中で率先して名前を挙げられるものは二つ。一つは精霊神ルビス教。遠き南海に浮かぶ島大陸、ルビス教国ランシールがその本拠地であり、同島に存在する古代神殿“地球の臍”が聖地とされ、世界中の信者達の崇敬を一身に集めている。
 そしてもう一つが太陽神ラー教。ラー教の崇拝が最も盛んな中心地は、南大陸北部に広がる広大な砂漠地帯の奥地にあるイシス王国の首都である聖都イシス。この国を代々治める王こそが、主たるラーの化身として神と同一視され人々に尊ばれてきた。つまり、その現人神・・・の住まう尊き地を目指し、砂漠という暑さと渇きに立ち向かう“太陽の参道”を越える為の最終の休息地としてアッサラームの街には巡礼者達が数多に集っていたのだ。

 これらの語り継がれ記される過去の歴史が、この街は先天的に人や物…即ち世を蕩揺う存在の流れが集まる特異な性質を秘めた場所に位置していると結論付け、今日の歴史家は鷹揚に謳っていた。




 その都市は周辺国の王都に比べてもなんら遜色の無い人口を誇っており、またそれに見合う出入りがある。故に当然それを監督し、望まぬ諍いを避ける為にも確固たる規律が必要不可欠だった。
 街を、人を統べる法の制定。街の発展を見据えた運営方針。それらは商会ギルドを指揮する四商会の代表者達の合議によって定められていた。だが、その合議の席が常に滞りなく進む事は無い。それぞれの商会が推進している商業の質によって、価値観、意見の食い違いは大小様々に存在するからだ。その為、合議の進行の円滑化を図る為にその合議の議長には、いずれの商会にも影響される事の無い人物…つまりは、この地の領主がそれを任ずる事になっていた。本来ならば古くからこの地を統べていた領主こそが治世を担うものなのだが、商業都市と化したアッサラームにおいて、この大規模共同体の基盤となる様々な分野での商業を掌握するギルドの力が無視出来ない程の巨大なものだった為、このような政治体制が築き上げられていったのである。
 周囲、そして己が裡の入り組んだ事情の結果として、先進的で合理的な政治体制が築き上げられるに至ったアッサラーム。その磐石さは一種の独立国家としての体裁を成立させ、他国の政治、経済に大きく影響を与えるような存在に、成るべくして成っていったのだ。
 構成要素たる人間の、様々な思惑を陰に秘めたままで……。




 その人間の、あらゆる陰陽光闇が見え隠れする地に、ユリウス達は足を踏み入れた。




 アッサラームは正円に模った都市だった。四方八方に均一に積み重ねられた煉瓦の外壁が、円を描いて高くを覆い外と内を堅固に隔てている。外壁の上は城砦のように見張りの人間が悠々と歩ける程の幅を持ち、その更に上に高く聳える見張り台が、壁外に広がる遥かな平原、山脈、森林、大海原を見張っていた。
 外壁の内に人の生活する市街地がある。この事自体はさほど珍しい事ではない。どの国であっても人の集う地が異質を過敏に意識し、守りの殻を築くのは至極自然な、常識的な意識の流れだ。
 そんな四方を囲む外壁。東西南北に築かれたアーチ状の門扉を潜ると、真っ直ぐに伸びる大通りの先に巨大な建造物がまず視界に飛び込んできた。
 文化の違いからか異様に映える未知の建築様式で建てられた建造物は、どのような測量技術を以ってしたのか完全な左右対称で構成され、等しく市街を睥睨していた。天球ドーム状の屋根が緩急をつけて孤を描きながら収束し天を衝く様は、この地に住まう人間の栄華への意志を体現しているようだった。荘厳華麗なアリアハンやロマリアの宮殿に勝るとも劣らない強烈な存在感を放つそれは、燦然と照る太陽の輝きに微塵も霞む事無く、白く泰然と在った。その白亜の建造物こそ、自由交易都市アッサラームの中心であり心臓。そして頭脳でもある合議の会場…議事堂である。
 不夜城、白夜の都と俗称されるこの大都市が呼称通りに真の顔を顕す夜になると、消える事の無い周囲の明かりが大きくその佇まいを浮き彫りにさせる事から、議事堂は“摩天楼”とこの地に住まう人々に言われ親しまれてきた。故にこの宮殿のように麗かな佇まいの議事堂は、アッサラーム景観の最大の見物ともされている。
 大通り沿いの雑踏は何処を見ても人の波が絶える事が無い。王都アリアハンやロマリアのように計画的に、きちんと区画整理されたものではなく、隙間あらば、といった意思がありありと汲み取れる程に建物が乱立していた。その為、それぞれの軒の高さは激しい凹凸が連なる形になり、その外観も統一性に欠ける。だがこの地にあってはそれが適し、利に適っていた。落ち着きのない不整然さを逆手にとって他との差を誇示し、己を主張する。そんな自己顕示意志の顕れが雑踏のあちこちで見る事が出来た。
 道なりに所狭しと犇く露店、屋台は人目を惹くように様々に工夫され、華やかな装飾が施されている。色硝子を透して灯るランプの明かりは色取り取りに輝き、何処からか風に乗って流れてくる異国情緒溢れる軽快な音楽は、道行く人々の気分を和らげ陽気な気分にさせる。その気概の手をそっと取るように、ある露店の前では吟遊詩人が竪琴を片手に優雅に伝承を詠い、ある屋台の前では白の下地に赤や青といった原色の化粧をした道化がナイフをクルクルと宙で玩んでは路行く人間の注目を集めていた。
 開かれた店先では、これまでに見た事も無いような色鮮やかな果実や食材が、我を競って並びあっている。それぞれがそれぞれの特性を存分に主張するように計算された絶妙な配置で存在感を撒き散らし、それを店の主が明るい喚声を上げて道行く人の気を惹いていた。そして一つ隣の店を見ればそこには煌びやかな宝石や装飾品が並び、また一つ隣を見れば束になった薬草類が数多く並んでいる……。
 まるで一貫性が無いが、濁流のように人の思念の飛び交う雑踏にこそ、アッサラームという地全体に犇いている熱気の根源があった。

 およそ二十の日を超える事となった馬車の旅を終え、当面の目的地の聖王国イシスへの中継地点である、自由交易都市アッサラームの地に至る事ができた。途中、この都市を動かしている商会ギルド所属の隊商を同行する事になったが、それ以外で特に何の厄介事も起こる事は無く。
 この街で滞在する間、命を助けられた事への謝礼という意味合いで、マグダリア商会が自分達の面倒を見る事となった。街について早々、ロマリア王国から寄与された馬車は、彼の商会が管理、整備するという事でマグダリア傘下の旅籠はたごに預けられる事になり、隊商のメンバーが先にそこに向けて馬車を走らせていった。
 馬車から降り、白く確かな地面を踏みしめる。硬く乾いた砂同士が身を擦り合わせる感触が、靴の底からひしひしと伝わって来た。路地の奥へと続く道は長年に踏み固められた砂地が剥き出しであったが、大通りはきちんと整頓された石畳が敷き詰められている。隙間から溢れる砂が石畳の表面を覆っていて、空より吹き抜ける風がそれを大きく舞い上がらせていた。それ故に、軒先ではしきりに水を撒いている人間の姿も見る事ができた。
 異邦の地を体感している面々に、率先してこの街の案内役を引き受けたのは隊商のリーダーであったシェイドである。
 シェイドは意気揚々と先陣を切って歩きだし、小器用に街路から溢れかえるような人の波を苦もなく掻き分けながら、良く通る声で街の歴史やら、名所やらを語り始める。
「摩天楼はこの街の中心で、建物自体も歴史的な価値があるから一部の区画は一般に開放されていて、見学できるようになっているんだ。その区画の一つ、展望室から眺めれるこの街の景色は見物さ。特に夜景は宝石を鏤めたように綺麗でなぁ……」
 後ろを振り返って身振り手振りで大仰に熱弁するシェイド。そこには、一人の住人としてただ純粋にこの街を知って貰いたい、と言う心情がありありと見て取れる。また、往来を往く人の妨げにならないように、且つ自分達の通行を緩ませないように人と人との間を潜り抜け誘導する器用さは、長年この街で生きてきた者だからこそ持ち得る経験が見え隠れしていた。
 シェイドの後に続く一行。その中で、この地を初めて踏みしめたソニアは、語られている情景を思い浮かべてか恍惚とした艶を瞳に載せている。
「ここには古今東西、海でも山でも様々な幸が揃うし、香辛料も豊富なんだ。当然、それを基に調理する腕の立つ料理人も大勢いる。だからこの街の食い物は安くて旨いんだぜ」
「そういえばあそこの店の『一角兎のリゾット』は結構有名だったな……。今も並んでいるし」
 偶然、視界に飛び込んできた人影の波濤とその源。通りに面している建物群の一つに、一際人を集めている一角を横目に、思わずミコトは声を漏らしていた。それにつられて、隣を歩いていた仲間達もそちらに視線を送る。
 小さな建物の唯一つの入口を覆い尽くす勢いで群がっている人の様子は慌しく、軒先に置かれた立て看板には人の目を惹くように練られた配色でメニューが列記されていた。店の前に出来た行列を忙しなく制している給仕の若い娘の、華奢な身体から必死に絞り張り上げた声が、雑踏のざわめきに負けじと太陽の下に響き渡っていた。
「い、一角兎って魔物じゃない。…………食べるの?」
 人の列と店の娘の喚声に注意を引かれていたソニアは、思わずミコトを振り向く。その紅の双眸には、ただ戸惑いの色が浮かび、顔色は少し青ざめていた。
 旅の当初、命を脅かされそうになった愛くるしい姿。それを思い出して神妙な顔つきになるソニアに、ミコトは曖昧な表情を作って、まさかと首を横に振る。内情を説明しようとした時、丁度後ろを歩いていたヒイロが話題のものを知っているのか苦笑しながら言った。
「実際に魔物を食材に使っているわけじゃないよ。魔物の躯は形を留め続ける事は無いからね。要は宣伝文句さ。珍しいもの、印象の強いもの。そんなものであればあるほど、珍しがって人間・・は寄って来るだろう?」
「そ、そうなんだ」
 空を見上げ細めた琥珀の双眸に、どこか冷めた光を湛えるヒイロであったが、尋ねたソニアは気付かない。様々な人や物、外の世界に開かれた地にとってみても、魔物という異形の存在は、やはり異形でしかないと改めて実感させられていたからだ。そしてそれを理解した瞬間、この活気溢れる雑踏のざわめきが恐ろしく空寒いものに感じられ、ソニアは肩を震わせた。
 様々な感情を裡に秘めたまま道行く面々。その先頭を歩くシェイドの案内は続く。
「色んな国から武器や防具が集まるから、旅の準備に事欠く事は無いと思うぜ。店によっては結構ふっかけられる事もあるかもしれないけど……商会ギルド所属登録してる店は販売価格が統制されてるし、ここ数年監査が厳しくなっているからそう表通りにあるもんじゃないけど。もしそんな店に遭ったら気をつけるんだな」
 裏通りに行けば良くあるから、と物騒な言葉を笑いながら残す。そんなシェイドの言を受けて、思い出したようにアズサが細い顎を摘みながら零した。
「そういえば、夜だけ営業しておる店も何軒かあったのぅ」
「お、良く知ってるな。あそこマグダリア商会うち経営なんだよ。ま、夜は殆ど人は歓楽街に流れるから、あんまし売り上げは良くないけどなぁ……」
「じゃが、結構この街で武具店を見て廻ったが、その店はこの街でもかなり上等な物が揃っておったぞ」
 身内が褒められてくすぐったくなったのか、シェイドは頬を掻きながら照れ臭そうにはにかんでいた―――。




 周囲の明るい喧騒に感化されたのか、和んだ空気を纏う同行者達に相反するように最後尾を億劫そうに歩いているユリウスは、無表情の上で険しい色を貼り付けていた。周囲の朗らかな空気の中で異彩とも言える、濃紺の外套に包まれた姿が撒き散らすのは、拒絶。
 いつの間にか額から垂れてきた汗に気付いて、それを手の甲で忌々しげに拭い去りながらユリウスは自問する。
(…………何なんだ、この感覚は?)
 この街に降り立った時から感じている違和感。いや、違和感などという微かにざわめく程度の感覚ではない。それよりも遥かにはっきりと実感できる束縛感。手足や身体だけでなく、裡から外への自然な流れを力任せに圧し留められるかのような不可視の圧力。端的に表現するにはそれらの言葉しか思い浮かばない事象が今、自分の身に起きている。それが一歩一歩街の中を進む度に強く締め上げ、自分を心身の深くから苛んでいるのが良く判った。
 魂魄の奥底にまで纏わりつき締め上げるような何か・・。想像する事さえ出来ない不可解なそれに、この上なく消耗している自分が確かに存在していた。
(……鬱陶しい)
 心底うんざりしたようにユリウスは溜息を零す。そして自然と下がる視線は地面を蹴る足先を捉え、一定の間隔で生ずる音を導として思惟の闇に堕ちる。



 雑踏は昔から好きではなかった。いや、どちらかといえば嫌悪している方だ。
 この人の影が絶える事の無い場所の禍根とも言える先にへと進む度に、中心の摩天楼に歩みを進める度に頭痛が鋭くなる。耳鳴りと眩暈に世界が歪む。動悸に四肢が砕け散りそうになる。脳髄が鋭い刃で掻き混ぜられているようで、意識が傷みに喘ぐのを止めない。
 場所・・にこのような不快感を覚えるのは、ライトエルフの隠れ里があるノアニール大森林以来だ。あの場所は陽の性質が強すぎた為であったが、この街のは方向性は違うが似たような感覚がする。その原因がエルフの強大な魔力から織り成された物ならばまだ理解に易いが、このような人が開拓し営々と築いてきた地には明らかに異質すぎる。だからこそ解せない。



(この街は、一体何なんだ?)
 ユリウスは眼前に聳える魁偉を睨み据えながら、そう思わずにはいられなかった。
 憂いなく青天に浮かぶ太陽を忌々しげに見上げるも、普遍に燦々と照る清冽な白さが、その問いを発する者を嘲笑っているかのように酷薄に輝いていた。




「あとはそうだなぁ……、うちとは別の商会運営だけど娯楽施設も沢山あるから、金に余裕があればカジノで豪遊! って手もあるな。それで最後に忘れちゃならないのは、世界で類の無いベリーダンスっ! これを見ずしてアッサラームは語れない。これを逃しちまったらアッサラームに来たって言っても余所じゃ信じられないぜ?」
 まだこの街の案内をしていたシェイドは、満面の笑みを貼り付かせて振り向いた。その視線が捉えるのは背後に続いていた一団からほんの少しであるが距離を置き、無言でついて来ていたユリウスである。
「どうだ!? ユリウス、いい所だろ?」
 深い思惟に入っていたユリウスは、唐突に掛けられた大きな声に何事かと顔を上げる。先程から他の面々にこの街の事を話していたような気もするが、興味がないので聞き流していた為、記憶に残る事はない。
 どのような返答を期待しているのかシェイドの鳶色の双眸に宿った輝きは強まり、それを見止めたユリウスは疲れたように小さく肩を竦める。そしてただ、純粋に思った事をユリウスは口にした。
「別に、どうでもいい」
「おいおい、何だそりゃ……。お前もよお、この街を見て何かこう思う事はあるだろ?」
「無い、という訳ではないが……騒がしくて物や人でごみごみしていて、何とも息が詰まる場所だ。可能な限り、長居するのは避けたい」
 今までの良いところを掻い摘んだ説明を聞いていなかったのか、とグチグチ呟きながらシェイドはガクリと頭を垂れた。
「…………もっと言い方ってもんがあるだろうよぉ。せめてこう、オブラードに包んでだなぁ……」
「物事の評価に対して誇張も脚色も必要はないだろう」
 極めて淡々とユリウスが言うと、シェイドも何かを考えたのかフッと表情を変えて屈託なく笑った。
「ま、いっか。確かにユリウスって、こういう賑やかな場所よりどっかこう…山奥にある滝の前で剣の修行をしている方が似合ってる気がするしな。何つーか…そう、隠遁生活?」
 現実味に欠ける喩えを言うシェイドに、周囲から失笑が零れた。
 当然、ユリウスはそんな周りの心象など気にも留めなかったのだが、シェイドに何気無く言われた事が、以前訪れたエルフの地下遺跡で幻視した光景を一瞬だけ脳裡に浮かび上がらせる。
 息の詰まるようで、確かな安らぎのある灰色の空と、命の鼓動を感じない静かの漆黒の森と滝。まるで温度の無い極寒の光を下す太陽に、その輝きさえをも眩ませる純白の……。
 そう思い至った瞬間。刹那の間だけ世界がグニャリと歪んだ気がした。そしてその影響は身体の内側に現れたのか、強烈な眩暈と吐き気に襲われる。思わず進めていた足を止め、額を掌で覆っては険しく眉を顰め、顔を強張らせる。
 話途中で黙り込んだユリウスを見て、シェイドはおろか周囲も歩調を狭めて怪訝な眼差しで見つめてきた。
「どうしたのじゃ? ユリウス、そんな切羽詰った顔をして。体調でも悪いのか?」
 何時の間にか隣を歩いていたアズサが、心配げに顔を覗き込んでくる。その相貌に漂う気色が、いつか見たものと遠く重なり、脳裡に傷みを呼び起こした。それを振り払う為に、眉間に力を込めて視界を閉ざし、裡に生まれた不要な澱みを吐き出す様に深く深く嘆息する。
 覆っていた手を外し、顔を上げた時。ユリウスはいつものような無表情に戻っていた。
「別に、問題無い。…………それよりも、先程言っていた事が理解できないが」
「気にしない気にしない。単なる俺の印象だからさ」
 あっけらかんと掴み所の無い返事と仕草で話を自己完結させるシェイドに、ユリウスはこめかみに手を当てて、疲弊したように頭を振った。





“摩天楼”から見下ろす、アッサラームの街並みはシェイドの評判通りに絶景だった。黄昏時の茜色に染まった空。それをありのままに反し染まる白い街並み。ポツリポツリと夕闇に抗うように灯される暖色の光。時折吹く砂を孕んだ風が斜陽の光で黄金色に煌きながら地上に還ってゆく。それは夜であれば地上から昇り還る流星の輝きに相違無いだろう。
 一般に開放されていた展望室は議事堂の最上階にある、閑散とした円形の広間だった。そこには、ただ天井を支えているだけの柱と、柱の間に人が落ちてしまわないように鉄の欄干が拵えられているだけの質素な構造。ただこの建物全てが白大理石で築かれており、床や壁の表面は鏡のように磨かれていた。
 建物周囲に漂うピリピリした乾いた空気と特に内装に凝った様子が、この場所は政務を行う誠実な地であると言う事を物語る。それだけに、外に広がる在りのままの世界が眩く映えて見えるのだろう。四方に広がる街並みを等しく睥睨できる事から察するに、この場所は外観で言う所のドーム屋根の下部に相当するのだろう。外から見る全景は宮殿然とした華麗な佇まいだが、この区画の構造は宮殿のそれではなく、ただ螺旋階段が地面から延々と頂にまで続いているだけの無骨で味気ない造り。まるで見張りの為の尖塔そのものだった。だがこの建築物を支える高い建築技術から、人の文明が築いた塔と言い換える事もできるだろう。まさに“摩天楼”と謳われるのに相応しい風格だった。

 外の気温が夕暮れに伴い下がり始めたのか、外套越しにでさえひんやりと感じる事ができる柱の一つに背を預け、思わずユリウスは小さく吐息を零した。
 どうして今自分がこんな場所に来ているのか解らない。この人間が営々と創り上げてきた文明の塔に、破壊と殺戮しかできない自分がいる事が酷く不似合いで、滑稽な気がしてならなかった。
 そして何より、この街に足を踏み入れて以来つい先程まで、全身を苛んでいた違和感は、この建物に入ってからは不思議と感じなくなっていた。それが思考を鮮鋭していくが、裡に生じた疑問には答える事はできない。答えを導き出す為に必要な要素が、あまりにも少なすぎたからだ。
 朱に染まる柱を背にしている為に外から射る日の光が届かず、一層の影に埋もれているユリウスに、いつの間にか歩みよってきたシェイドが感嘆するように、或いは呆れているように言った。
「クールだねぇ……」
「何の事だ?」
「普通、こう周りが賑わっているとワクワクしたりしてこないか? 丁度ソニアみたいにな」
 シェイドは目線を動かす。それに倣ってユリウスも動かすと、その先では、悠然と広がる街並みに眼を奪われて顔を輝かせているソニアと、そんな彼女に賛同するように外の景色を眺めている良く似た二人のミコトとアズサがいた。否、彼女達だけでなく、この街に住んでいる人間、観光に訪れた人間。人の数だけある事情を胸にここを訪れている人間が、茜の街並みに魅入られていた。
 暖かく、明るく照る黄昏の日差しの所為か、そんな朗らかな現実は脳裡に一つの幻を彷彿させる。そしてそれを自覚してしまった刹那、遠くを見るように眼を細めていたユリウスは、込み上げて来た何かに耐え切れなくなったのか瞬き一つで視線を引き剥がし、双眸を伏せる。
「俺にそんな感情など無い」
「そうなのか……だけど、それって寂しくねぇ? これは自論だけど、俺は人は誰しも楽しむ権利を持っていると思う。楽しみ方は個人によって様々だろうけど、どんな苦境に立たされた場所にいても例外はないと思うな。でなきゃ損だろ? たった一度きりの人生なんだから」
 両手を頭の後ろで組み、高い天井を見上げながらシェイドは綴る。ユリウスは目を閉ざしたまま淡々と返した。
「……俺は、そんなもの知らない。俺には、そんなもの要らない。いや、俺はそれさえも願ってはならない」
 口早に継がれた意味深長な言葉の真意を測りかねたシェイドは視線だけを当のユリウスに移すが、何を考えているのかユリウスは黙したまま瞑目している。それにシェイドは組んでいた手を解き、大きく肩をすくめた。
「ま、俺はあんたじゃないから、あんたが何を抱えているのかなんて知りもしないし、心なんて読めもしないから理解できるなんて傲慢を言うつもりはないさ。だけど、だからこそ人には言葉という手段があって、人は自分の意志を、意見をぶつけ合う事ができる。そりゃあ意見の違いから争う事はあるだろうけど、その切欠でから相互の理解を少しずつ深めていく事だってある。……それは人間だけができる事だって思うぜ」
「それは、……ご高説だな」
 吹き出すように鼻で嘲笑いながらユリウスは半眼を開いた。それが微かにシェイドの癇に触り、ムッと唇を尖らせて眉を顰める。
「ただあんたを見てると、その始まりさえを拒絶しているように思うぜ。周囲にいて時間を共有してる人間を、少なからず理解しようと歩み寄ってくる人間をも冷たく振り払ってたら、いずれ世界から孤立しちまうぞ?」
「…………望むところだ」
 出会ってからの時間は微々たるものだが、魔王討伐を共通の目的として冒険しているパーティにしては、中心たる勇者が余りに周囲から特出し、孤高過ぎる。世間一般に流れる『完全者としての勇者』のイメージを抜きにしても、シェイドはそう感じていた。だからこそそれを思い、多少の厭味に込めてシェイドは言ってみたのだが、ユリウスはそれを冷たく一蹴するだけだった。
 夕日の位置の所為で背にしている柱から伸びる影に呑まれているが、ユリウスの漆黒の双眸にはそれよりも深くて昏い闇が確かに息づいている。
 商人として沢山の人間を見てきたシェイドにとってしても見た事が無い双眸だった。当然、住む世界の、送っている日常の差という物があるにしろ、それさえも翳ませる程の清冽な闇。直感的にシェイドはそう思い、見知らぬものへの恐れと興味が等しく沸いてきた。
「そ、か。余計な世話だったな。悪ぃ、時間をとらせちまった」
 もっと色々と言葉を交わしてみたい気もするが、今は退く事にする。確かな引き際を見極める力も、商人として必要な素養である。これまでに培ってきた勘のようなそれに従い、シェイドはターバンの上から頭を掻き回しながら身体を預けていた欄干から離れた。
「別に、謝られる覚えなど無い」
 背中に受けた言葉は、抑揚も温度も無い。だがそれは、裡に閉ざした烈しいものを潜ませる為の擬態。閃きよりも微かであるが、何となくシェイドはそう思った。




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