――――第四章
      第三話 転びる心







 ゆらゆらゆら。
 それはまるで、水面に浮かぶ羽毛のように当ても無く蕩揺う覚束無い感覚であり、大空を飛ぶ鳥のように翼を広げ風の往くままにゆったりと遥かな地平を見下ろす悠然とした感覚だった。その心地良い感覚は柔らかでまどろみを誘う程の温かさを伴っている。
 虚空の闇に拡散していた意識は、その不意な感覚の転換に収束し、一個の自我を形成する。
(これは……夢?)
 何故自分が今ここにいるのか解らないまま、己の形を取り戻した意識はそう自問する。
 答えを求めるように周囲に気を配ると、いつの間にか自分の意識は、現実から乖離したひじりさえ覚える乳白色の靄に包まれていた。
 空気の流れにかれるように、その靄の明暗も忙しなく移ろう。その移ろいが、虚空に充ちている靄の向こうから荘厳な賛美歌を奏でているような気がしてならない。それら視覚と聴覚からの感覚は調律し絡み合い、副次的に暗澹や光明を誘うような不安感と期待感を等しく胸の内に齎してくる。
 辺りは一面靄に覆われていて、他はおろか己の姿形すら見止める事ができない。だと言うのにもかかわらず、腕や脚といった四肢の感覚は当然のように、今身体を覆っている衣服や靴の感触すらある。確かに己がここに存在しているという事がはっきりとわかった。
(とても、清清しい……)
 ここには外から受け取る事によって生じる不安も迷いも、悲しみも憎しみも…心の内に知らずに巣食い蝕んでいる黒ずんだ澱みが、何一つ存在していない。正と負が等価に打ち消しあって、零の静寂に満ちた不思議な境地だった。
 思えば、このような開放感を感じるのは本当に久しい事だ。世界を知る事で世を構築する為の骨組み、柵に絡め捕られる。認識の拡大は行動に制限を掛けるようになっていく事を、漠然とだが意識は自認していた。それを改めて咀嚼した時、突如として自分も含める世界の全てを覆っていた靄の一部が、開幕を告げるようにすっと掻き消えて、小窓のような四角い孔を白の回廊に浮かび上がらせる。
(……あれはっ!?)
 眼前に広がってゆく色取り取りの景色を前にして、それを見ていた意識…ソニアは息を呑み込んだ。
 血の気が引くとは正にこの事なのだろう。眼窩から紅の両眼が零れ落ちそうなほど大きく開かれて、見る間に顔色が蒼褪めていくのが自覚できた。冷たくなる指先に反して、ドクンドクンと耳の奥に響く鼓動ばかりが早まり、心臓の動悸が強くなる。一点に収束した流れの力が激を打って一気に解放され、辿って来た路を逆流する。それが身体の内側に留まりきらずに超越し、肢体全てが小刻みに震え始めるのをソニアは脳裡の端で自認する。だが、そればかりに囚われている暇はなかった。
 総身が打ち震える己の事よりも強く強く意識を惹きつけたのは、込み上げて来た何かに揺らぎ不確かになる視界の先。そこで動いている人物達に思わず涙声をあげそうになった。




 晴れ往く小さな世界には昔の自分と、そしてもうどうやっても会う事の出来ないたった一人の姉がいたのだから。




―――実家であるアリアハン教会大聖堂の正面に設けられた広場。その一角にある赤茶色の煉瓦で囲われた花壇には、夏という季節になると色取り取りの花々が芽吹き、晴れ渡る青天の下で鮮やかに世界を彩る。涼やかな空気は甘く仄かに花の香りに満たされ、それに誘われて小さな虫達が連綿と続く命脈を紡いでいた。
 燦然と輝く太陽の下。その小さな庭園の真ん中にあるベンチに腰を掛けた自分。そして羨望を隠そうともしないうっとりとした紅の目の前で、気難しそうに顔を顰めながら自らの姿を確認している姉の姿があった。
 義姉セフィーナは卸したての真新しい純白の賢者の装束に、姉の持つ紫銀の髪に色鮮やかに映える翡翠の外套。そして、賢者認定機関ガルナに認められた者のみだけが持つ事を許された、霊験あらたかな神木を加工して造ったとされている通称“賢者の杖”と、その清廉な地平に立つ位の栄誉の証である銀のサークレット被っていた。額の上で、真銀の玉座中心に座す紅蓮の宝珠は、真夏の日差しを全身に浴びて清冽に煌いていた―――。



(あれはいつの事だったろうか? あれは、そう…………)
 当時、私が十四歳になる前で姉さんが十五歳を迎えたばかりの日の事の筈だ。
 十五歳という年齢はアリアハン王国においては未だ成人と認められない若さだ。だけど、その異例の若さにも関わらず姉は賢者認定機関ガルナから“賢者”の称号を授与された。
 一、二年程度の差異はあれど、世界のどこの国でも概ね十二歳になるまでに日常生活に必要な数学、言語学、倫理学といった義務教育を修了し、各々がそれぞれの理想とする未来を見据えて相応の高等教育機関に進むのが普遍的な常識だ。そしてその高等教育機関の中でも、上をひたむきに目指す若者の羨望や憧憬を集めているのが、ダーマ神殿である。
“魔導の聖域”、“叡智の殿堂”、“転職の聖地”……ダーマを形容する言葉は様々にある。それらのたとえを違える事無く、ダーマ神殿は世界最高魔導府として世界にその名を知らしめている魔法都市であり、同時に至高の学術都市という側面も併せ持っていた。
 そんなダーマ神殿の高等魔導院は、指導者である三人の首座賢者アークウィザードの名の下に三つの学派に分かたれていたが、それは目指すものの差異による路の分岐。そこから遥かな高みを志し歩む者達は数年、あるいは十数年以上の永い日々を難解な修学に従事し、研鑽に費やさなければならない。だが、高みを目指せば目指す程、それと等価に秘められた弊害…掲げた意志の挫折に路を見失う者も多々存在している。ごく稀に天才と称される者達は立ちはだかる壁をすんなりと超え、驚くべき功績を残したりするのだが、それは本当に一握りの稀な事。多くの修学者達が忙しなく切磋琢磨の日々に埋没し、それぞれの時間をかけて数多の面で頭角を少しずつ顕にしていくのだ。
 そしてその院を卒業して、やり遂げたという自信を胸に更なる高みを目指す者達は“賢者”への登龍門である賢者認定機関ガルナ…通称“天空の塔”に足を踏み入れる。そこから高きに続くのは純粋な才能、資質のみが問われる凄絶な世界。余りに急な勾配に耐え留まる事ができず、転げ落ちて意志の潰える者達もいれば、己が未熟を覚り、より己を磨く為にダーマに戻る者達もいる。
 故に賢者の試練を乗り越えて、晴れて正式に“賢者”という称号を自他共に名乗る事が出来る者達の平均的な年齢水準は自然と高くなる。

 姉さんが賜った称号とは、それほどまでの高みにあるものだった。
 そして栄誉はそれだけには留まらず、賢者認定機関ガルナより“賢者”の号を賜るのと時を同じくして、アリアハン王国に住まうという十三賢人、“智導師”バウル=ディスレビ様の後任として正式にアリアハン宮廷における役職、宮廷賢者に任ぜられたのだ。“宮廷賢者”とは、アリアハン宮廷に従事する魔術師、司祭を指導、監督する立場にあり、同時に執政に対しての発言権を持つ重職でもあった。
 その前代未聞の年齢にして二つの称号を与えられた事によって、人々は畏敬を持って姉さんをこう呼ぶ事になる。
『慧眼を以って真理を解し、慧敏を以って魔を隷する者……“理慧の魔女”』、と。
 当時の私はとてもその姿が羨ましかった。頭上を飾る清廉な朱の輝きに魅せられていた。
 一般に広く知られているガルナに認定される“賢者”とは“神に選ばれし者”の事を指す。その神が世界に名立たる宗教で奉じられている何れの神なのか機関は定めていないが、私は物心がついた頃から深く信奉している精霊神ルビス様の事だと信じている。だから賢者とは“主たるルビス様の寵愛を受けし者”という事に他ならなかった。
 精霊神ルビスを奉ずる者にとって“賢者”に値する人物と言えば、“約束の地アレフガルド”におわすルビス様の代行者として現世を見守り人々を導く“聖芒天使アースゴッデス”教皇アナスタシア様。その直属の守護者であり、アナスタシア様のお声を唯一人賜る事ができるとされているランシール聖殿騎士団パラディンの“神聖騎女ホーリーナイト”エレクシア=ヴォルヴァ様。そして全ルビス教会を運営する聖枢機卿の一人、十三賢人“双戒使”ジョセフ=ディストリー様が挙げられる。本人達の姿を目にした事も無いのに、身近に在る姉がそのようなお二方と同格となったのだと勝手に想像して、とても羨み、誇りに思った。



―――新品特有の衣服の固さがこそばゆいのか、セフィーナは居心地が悪そうに顔を顰めたまま外套を羽織り直している。そんな彼女の姿を、少女特有の無垢なる艶で眼を輝かせていたソニアが言った。
『ねぇ、姉さん』
『どうした、ソニア?』
『賢者って、神に選ばれし者の事なのよね? じゃあ、姉さんはルビス様に選ばれたと言う事なの?』
『…………』
『いいなぁ。私も、賢者になれるかなぁ……』
 想像を広げているのか恍惚としたソニアの表情はどこか上の空で、前を見てはいない。そんなソニアを暫し大きく眼を見開いて愕然とした表情で見つめていたセフィーナは、哀しそうな翳を茜の双眸に過ぎらせて弱弱しく微笑む。そしてベンチに腰を下ろし、隣に座るソニアの髪を優しく梳いた。
『ソニア…………そんな上辺だけの言葉に、そんな中身の無い伽藍堂な体面に惑わされないでくれ』
『え!?』
『私は、人間だから……。ソニアの姉でいたいから』
『ねえさん……?』
 言い放たれた事が理解できていないのか、まだあどけなさが抜けきらないソニアはパチパチと眼を瞬かせて、不思議そうに首を傾げている。
 そんなソニアの純真さが、どこか視界を灼くように差す真夏の太陽に見えてしまい、セフィーナは眩ゆさに眼を細めながら見つめていた―――。



 嘗てあった過去の一時。それは確かな現実味と傷みを窓越しに見ているソニアに齎した。
 改めてこうして、他人事のように昔の出来事を眺めていると、あの時は気付いていなかった何かに、ほんの微かだけれど指先が掠めた気がした。
「姉さんは、どうして……」
 その独白は続かなかった。湧き上がった感情が形を得ようとして喉元まで押し寄せてくるのだが、それ以上は出てこなかったからだ。
 そんな裡の葛藤にソニアがもどかしく感じていると、窓の中に居た姉の姿がゆっくりと遠ざかり始める。その悲愴な面持ちで、嘗ての自分に弱弱しく浮かべる微笑に、白の靄が覆い被さっていく。
 それを観止めてソニアはたまらずに駆け出そうとした。これが夢だと自覚していながらも、久しぶりに会えた姉と離れるのが嫌だった。そんな切実な想いは心の中から迷いの枷を取り払い、行動を後押しする。幾星霜もの隔たりを秘めた靄の壁さえ、そこに誂えられた小窓さえ越えてその向こうに手をさし伸ばした。
 だが次の瞬間、白の世界はパリンとガラスが割れるような音を響き散らして崩れ、暗転する。
 蝋燭の火が掻き消える如く、一瞬にして全ての色と熱が消え失せたかのような黒の中に放り込まれ、ソニアの意識はうろたえざるを得なかった。
 驚愕しながらキョロキョロと周囲を見やるも、右も左も判らないのに己の姿だけはハッキリと見える不可思議な闇の中。それでも頑なに、戸惑いながらも姉の行方を模索する自分を嘲笑うかのように何かが舞い降りる。闇に同化する様に潜みつつも、ピリピリと対峙する者に緊張を齎すその鋭い存在感。濃紺の外套を翻し、闇の中を走る風に大きくはためかせる。そして肩越しにこちらを一瞥して、その意志を遮るように温度の無い凛然とした声を放った。
『俺に出来るのは、殺しだけだ』
「!? ユリ――」




「――っ!?」
 ソニアは急に喉がカラカラになってその傷みで目を醒ます。
 開かれた視界に映るのは、薄暗く、静かで閉塞した場所。だがそれでいて建固な建物の中とは違い、ぼんやりと月の光を透かしている……そう、ここは馬車の中だ。
 頭が重く、何かに絡めとられてしまったかのような倦怠感を全身に覚え、それを自覚すると気分も滅入ってくる。
 覚醒したばかりの鈍い思考を取り去るように、小さく頭を振りながら気だるい上体を起こした。
 隣では旅路を共にしている頼りになる大切な仲間、ミコトとアズサが健やかな寝息を立てていた。冒険者としての経験が長い為か、以前はこちらの小さな身動ぎだけで直ぐに目を覚ましていた。だけど今はそれに気付く様子も無く、深い眠りの最中にある。それだけ気を許せる存在になれたのだろうか。そう考えると少し嬉しくなった。
 安らかに眠っている二人を起こさぬように、物音に注意しながら薄手の毛布を羽織り、そっと幌の外に出る。幌を捲ると日中よりも冷えた夜の風が、まだ微かにあった眠気の残滓を完全に拭い去ってくれた。
 ソニアは地面に降り立ち、馬車の直ぐ傍で熾された焚き火を見るも、そこには誰もいない。今の火番はユリウスの筈なのだがその姿は無く、火から少し離れて地面に体を横たえている馬の横腹に寄りかかるようにして眠っているヒイロの姿があるだけだった。
 夜の風に嬲られながらソニアは、どうしようか、と口内で呟いて何と無しに空を見上げてみた。遮る物の無い視界に広がる無限の夜空には、幾千幾万…数える事が滑稽になるほどの星々が漆黒の宙を埋め尽くしていた。肌を撫でる風の温もりは違えど、いつか見た寒空の星々と何一つ変わらない、宝石を鏤めたかのような麗雅な輝きだった。
「綺麗……」
 溜息を吐くと同時に、思わず感嘆の声が漏れる。
 晴れ渡り澄み切った星空を見上げていると、自然と自分も清々しい気持ちになってくる。
 暫しそのまま深呼吸を繰り返し、空を翔る風のように思考や気分がすっきりしてくると、漸く先程見た夢への思案へ繋げた。
(夢を……見ていた気がする)
 覚醒と同時に霧散し今もこうして失いつつある為、見たものははっきりしないが、微かにあった夢の残滓を拾い上げてみる。……それは傷みの欠片だった。
『賢者』という敬称を呼ばれた時の、あのどうしようもない位追い詰められたような姉の表情。そして、が耳の奥にこびり付いたように響く。
(……どうしてなんだろう? どうして姉さんの悲壮に満ちた微笑みと、無表情のユリウスの声が重なったんだろう。姉さんは『賢者』に、なりたくなかったのか、な?)
 実家の教会に訪れる純真無垢な子供達、魔法の路に足を踏み入れたばかりの者ならば、目標として口を揃えてそれへの夢を語る。自分にもそんな時期があったので鮮明に覚えている。そして世界中でそれを望む者がどれ程いるというのか、判らない訳ではない。どれだけ真摯に志しても易々と至るものではない事を、知らない訳でもない。
 ただ幼心に深く刻んだ羨望が、根強く残った憧憬が、今も鮮明に心の奥底に息衝いているだけにどうしても解らなかった。




「?」
 夜空を見上げたまま物思いに耽っていた時、草原にポツンと在る岩の陰からヒュンと鋭く風を切る音が聞こえた。それは一つだけではなく、一つまた一つ紡がれては玲瓏とした音色を奏でていく。こんな真夜中の草原に、と怪訝に思い、誘われるがまま音のする方角へとソニアは恐る恐る近付いていく。
 丁度月の光が草原に立つ潅木に遮られ、夜の中でも更なる深さの中で、青白い光をぼんやりと湛えた剣が孤月を描いていた。
 白翠のぼんやりとした光を湛える月が動き、同じく影も動く。その際に月光に彩られ浮かび上がっていた輪郭から、それがユリウスである事を知る。位置的に逆光の中にいる為か、その表情を覗く事はできない。
 虫の輪唱が壮麗に奏でられる中、ユリウスは虚空に潜む何か・・に向けて剣を振るっていた。そのまるで戦闘でもしているかのように、逼迫した気風を草原に撒き散らしている様子が妙に気になった。
 物陰に隠れ、息を潜めるようにその姿を見ているソニア。すると突然、視界を占めていたユリウスが動きを止める。
「……さっきから何の真似だ?」
「っ!?」
 抑揚無く言い捨ててこちらを振り向く。周囲を探る素振りなど微塵も見せず、ただ正確に自分が潜んでいた場所を視線で射抜いてくる。唐突な事に吃驚してソニアは小さく悲鳴を上げてしまった。
 その様子を無表情で黙ったまま見下ろしていたユリウスは、小さく嘆息する。背後から月の光を浴びている所為か、柔らかな逆光に遮られてその表情を覗く事はできない。ただ漆黒の瞳だけが影の中で、異様に鋭い光を湛えている気がしてならなかった。
「俺に何か用か?」
 先程の夢の痕が、あの声の印象が根強く残っているのか、ソニアは返すべき言葉をうまく見つける事が出来なかった。咄嗟に彼が火番であった事を思い出し、苦し紛れに言う。
「よ、用…って、あなた今は見張りなんでしょう? あなたこそ、こんな所で何をしているの?」
「お前には関係ない。……野営を始める際、周囲に聖水を振り撒いただろう。その上、ここ一帯にはトヘロスを掛けてある。魔物が進入して来る事はないだろう。それに、今こちらに向けての殺意や敵意は感じない」
「……もう、いいわ」
 眉一つ、瞬き一つせずに淡々とした口調で返されるそれに、自分の望む言葉のやり取りになる気配が無い事を覚ったソニアは、何処か疲れたように大きく溜息を吐いた。




 剣を鞘に収めたユリウスはソニアを気に止める事無く静かに焚き火の前に腰を下ろし、集めてあった薪を燻っている炎の中に放る。夜風に晒されていたそれは、無言の空気に耐えかねたのかパチンと鳴った。
 重い沈黙の空気にそわそわしながら周囲を見やっていたソニアも、一際大きく響いたその音に肩を震わせる。そして、気まずそうに微妙に顔を曇らせながら焚き火を挟んでユリウスの正面に腰を下ろした。
 星の瞬きが照らす大地には風と炎の盛る音が流れている中、遥か遠く地平線から獣の遠吠えが聞こえ夜空に染み渡る。膝を抱えてそれに顔を埋めていたソニアは、盗み見るようにチラリとユリウスを見やった。
 双眸を伏せているユリウスは常に片手は剣の柄に添わせ、彫像のように少しも動かずにただ黙している。そのユリウスが醸している氷のように張り詰めた鋭利な空気は、確かな緊張で油断無く周囲の様子を窺っているようにも思える。見方によっては、まるでこの場に居る自分、あるいは全ての者に対しても警戒の矛先を向けている…そんな風にも捉えられる様子だった。
(そういえば……)
 そんな身勝手ながらも浮かんでしまった歓迎できない思考を胸の奥に押し込め、まるで遠くを見つめるように紅い双眸をユリウスに向けたままソニアは思い出す。
 静謐に満たされた夜のノアニール村で、闇に潜むように独り星空の下で佇んでいたユリウスの言葉を―――。



『この世界で安全な場所など、俺には無い』
 あの時は、自分の言葉に対して返された皮肉か厭味かと思っていたが、その真意は一体何だったのだろう……。
 外壁あんぜんに囲まれた街の中。同じ姿形をした人間の中。そこには穏やかに心を満たす確かな温かさがあって、この草原を駆け抜ける風のように変わる事の無い安らぎがある。旅に出て外の世界を知り、この眼で見て身で感じたからこそ改めて思う。それら営々と紡がれる健常な生の姿は、自分にとっても心身に深い充溢感を齎してくれる朗らかで貴い場所である事を。だからこそそれを護りたい、自分でも何かしたいという気持ちが芽生えてきていた。この旅に出た直接的な理由・・・・・・は別にあれ、この気持ちは旅路の中にあって生まれ育まれている確かな、自分の真実の感情。
 近く思い出すのは先日、王都ロマリアで起きた悲劇。確かに平和な時が流れていた場所を無慈悲に蹂躙し、嘆きの色に染めた邪悪な魔物。その凄烈で圧倒的に無情な暴力と破壊の狼煙を、改めて許せないと思った。
(だけど……)
 災禍の中心であった闘技場から一人歩み出て来た、全身を青に染めたユリウスの姿。その常軌を逸した姿を見て、街の人々はあからさまな恐怖を浮かべていた。まるで今まで襲って来ていた魔物でも見るように、忌諱に影で口汚く罵っていた人達も確かにあの場には居た。自分と同じ姿形をした人間が、その身を圧倒的な暴威を振るう異形の魔物の血で染め上げる。同じ人間に、そんな事が出来るなどと考えたくない、認めたくないという傲慢で身勝手な思考、人の陰なる感情。それを聞いて無性にやるせない気持ちになったが、自分に彼らを批難する資格など無いと言う事も同時に良く理解していた。なぜなら自分もまた、あの時のユリウス…おどろおどろしい蒼茫の姿に畏れを抱いてしまった一人なのだから……。
 この世界に平和を齎す為には、世の理に反して生まれた人類の天敵たる魔物の存在しない世界にする事だ。そんな単純な構図であるから、魔物を斃せば世界は平和になる。そう思っていた。だけど魔物を斃すという事は自らの手をその血に染める事であり、その生命を奪う罪を重ねる事である。綺麗で穏やかな平和を築く為には、害たる魔物の屍の山を築き上げるという事と同義……改めて考えてみると、至極容易にその矛盾が明るみになる。
『勇者』が魔物を討つ。その事実が実体を伴わずとも広がるだけで、故郷の人々は歓喜し賞賛する。手を下した者の安否を気に止める事無く、その過程よりも結果だけを重視して、ただ称える。その際に築かれた屍の山を日蔭の事として視界から逸らし、ただ眩い太陽の当たる明るい物事のみを諸手を上げて歓迎する。陽に照らされた綺麗な結果へいわを飾るまでに辿った、陰の中の穢れた過程さつりくを黙殺して……。
 少なくとも、魔物によって齎された恐怖と痛みをアリアハンの人間は身を以って知っていた。過去数回に渡りその脅威に見舞われ、生まれ癒えぬ悲しみの爪跡を幾つも負い、その痕を幾つもこの眼で見てきたから自然と矛盾に気付かなくなっていったのかもしれない。
『俺に出来るのは、殺しだけだ』
 あの時、あの場所で聞いた決然と明瞭に届く声。混乱と騒然の極みにあった周囲の音に掻き消される事無く、真っ直ぐに耳朶を打ってきた冷たい言葉。あの時の人形のように温度の通わないユリウスの視線と言葉は、自分に向けられたものなのだろう。もしかすると彼の言葉は如実に事の真価を捉えているのかもしれない。だけど、頭で理解しても心はおいそれと受け入れる事もできなかった。
 なぜなら、剣を携える彼の手は異形の証明ともいえる魔物の青だけでなく、裡を流れるものと同じ赤にも塗れているのだから―――。



 そう思い至り、不意に胸が締め付けられるように苦しくなったソニアは、羽織っていた毛布を引き寄せてそれで目元までを埋めた。閉ざされた視界と、肌に触る柔らかく擽くすぐったい感触の中で深く、くぐもった溜息を吐く。
(……姉さんは、どう思っていたのかな?)
 伏せた瞼の裏で姉の姿を模索する。一瞬だけぼんやりと青白い光がその輪郭を模ったかと思うも、刹那の後にはただ静かな黒が広がるばかり。
 息が詰まる思いだった。だから少しでもそれから逃れようと僅かに顔を上げ、瞼を開いて眼前で猛る火を見つめた。風に揺らぎながらも潰える事は無く、ただ煌々と燃え続ける暖色。自分の浅葱の前髪がチラチラと橙にちらついて、その酷薄な色合いが答えの得られない暗澹を胸中に運ぶようだった。
 小さく嘆息して火に落としていた目線をに戻すと、何時の間にか視線をこちらに移していたユリウスと重なった。その無感情で、鏡のように炎色をありのまま反す深い双眸にソニアは慌てて眼を逸らせる。瞬間的に鮮光を絡ませた切れ長の黒の視線には、こちらの内心の混沌すら見透かしているように感じられ直視できない。実際に、あの王都ロマリアでの一件以来、彼とは会話が無く、目線が合えば即座に引き剥がす日々が続いていた。それが人と対する上で、どんなに相手に対して非礼な事であるか頭で理解していても、ソニアはユリウスへの対し方が本当にわからなくなってしまっていた以上、感情の折り合いがつく筈も無く。
 混乱が胸中を乱雑に掻き回しながら駆け巡る。だけどソニアの葛藤を知りもしない夜空の下を駆ける暖かな風は、悠々とした調子を崩さずにただあるがままの流れに従い穏やかに通り抜けていた。
「ソニア」
「!? な、何?」
 唐突に名前を呼ばれてビクリと身体を震わせて振り向く。その感情の篭らない、底の見えない声色に思わず狼狽してしまった。
「俺が憎いか?」
「そ、それは……」
 ただ真っ直ぐに投げ掛けられる黒の視線を受け止めきれず、ソニアは目線を脇へと逃がした。そして憂いに染まる双眸を隠すように半ばほど瞼を閉じながら、ソニアは考える。



 彼の発する言葉だけに囚われるのならば許せないと思う。だけど、それに対して憎しみの感情のみを率先させてしまうのは、何者にも慈愛を説くルビス教の教義に、その信徒として生を貫く事を決めた己自身の心に悖る事になってしまう。そんなのは嫌だった。だからこそ、事の真相を求めると旅立つ前に決めたのだ。
『憎みたければ憎めば良い。呪いたければ呪えば良い。殺したければ殺せば良い』
 かつて告げられた言葉は、非常に蟲惑的な甘い毒だと思う。窮屈な中での葛藤によって心を磨耗させずに、ただ一心にそれに身を任せれる事ができれば、確かに楽なのかもしれない。この胸の内に巣食ったわずらわしい苦しみから逃れられるのかもしれない。
(でも……)
 何故かは解らないけど、彼はその背景・・・・を、真相を不明瞭にしようとしている。それはこれまでの言動を思い返せば明らかだ。そして脳裡にちらついて離れないのは、嘗て見た光景。
 姉とあの方と、そしてユリウスと。三人で楽しそうに過ごしていた日々。優しく朗らかに笑みを浮かべ合う姉とあの方に挟まれて、ぎこちなくではあったが、確かにユリウスも笑っていたような気がする。三人は短い間だったけど、その中で多く時を共に過ごしていた。それは姉と家族と言う確かな絆で結ばれた自分でさえ羨むほどの仲の良さであり、何度もあの輪の中に入っていけたらと思った事もある。だけどあの三人の中には何か、ある種の特別な空気があって、入り込む事が結局は叶わなかった。
(それを知っているから……私は判らなくなる)
 今、こうして唐突に放たれた問い掛けは、心の整理がついていない自分にとって今はまだ触れられて欲しくない類の言葉。旅立つ前からの感情は、旅立ってからの様々な出来事を経る事で多様に転び、変化の時を迎えようとしているのかもしれない。その一端として、感情の通っていないような漆黒の双眸に見つめられていると、どうしてもあの蒼茫の姿と重なってしまう。以前、星空の下で確かに垣間見た哀愁も、惨憺たるあの姿に霞んでしまう。そしてそれはどうしようもない不安と焦燥と、畏怖と悲哀を自分の心に刻んでくるのだ。



 そんな思案の行方からか、ユリウスの問いに対して直ぐに否定する事も、何かしらの言葉を返す事もできなかった。
 気難しげな顔をして広げた思案の行方を自分の問いへの肯定ととったのか、ユリウスは満足げな声色で言う。その口元は小さく歪められているような気がするも、それは単に揺れる焚き火の所為だと気付くのに、少し時間が必要だった。
「それでいい。お前は俺を憎み続ければ良い。呪い続ければ好い」
「っ!?」
 ソニアは思わず弾かれたように顔を上げた。とんでもない見当違いな見解だと否定を叫ぶ心と、魅力的な誘いに頷き肯定する心と。相容れぬ心同士が摩擦を起こし互いを磨り減らしていく。そんな胸中に生じた傷みに耐え切れなくなったソニアは、真夜中だと言うのも忘れて叫んでしまう。
「どうしてっ、……いつもそんな事を言うのよ! あなたは、私にどうすれば良いって言うのよ!?」
「神の使徒である立場に迷っているのならば、それは気にする必要の無い事柄だ。ただ単純明快に、姉を殺された妹として、その恨みの対象に憎悪をぶつければいい。簡単だろう? セフィはお前にとって大切な姉だった筈だ。ならば、そこに俺のどんな思惑が孕んでいようが、事実は変わらない。如何なる理由で飾りつけようが、お前の姉を俺は殺した。真実はそれだけだ」
 あまりに淡々と綴られるそれは、今もこうして裡に渦巻いている葛藤を嘲笑っているようだった。だから胸の奥で燻っていた、モヤモヤした澱みが一気に爆ぜる。
「そんな簡単に言わないでっ!! ……じゃあ、あなたがシャンパーニの塔で討った人達の縁故の人が、あなたを仇として前に立ちはだかった時、どうすると言うの!?」
 視界が微かに揺れていた。目の奥が熱くなっていた。指先がチリチリしていた。体中の体温が上がっていた。だがそれらは焚き火の発する熱の為ではない。裡からこみ上げて来る言いようの無い感情がそうさせている。
 僅かに目を細めたユリウスは立ち上がったソニアを見上げ、小さく嘆息して綴った。
「……負債があるならば、いずれ必ず清算する時は来る。自分の行動の結果、自分の身に還って来るものが在るならば、受けるだけだ。だがその場合、見知らぬ誰かに黙って殺されてやる程、俺は殊勝ではないからな。……闘うだけだ。その結果としての俺の生死など、どうでもいい」
「どうでもいいって……。じゃあ、どうして私には殺されても良いって言い方をするのよ!? なんで私だけに、そんな事を言うのよ……。私は、あなたを呪いたいんじゃない! 殺したいんじゃない!! 私はただ……、真実が知りたいだけ。あんなに仲の良さそうだった姉さんと、アトラ様とあなたと……。愉しそうにしていた三人を、私は知っているから! だからわからないのよっ! だから信じられないのよっ!!」
「…………お前には、関係無い」
「っ!!」
 パシンと乾いた音が鳴り、夜の空に舞った。
 ただ単純な憤慨はあった。だがそれ以上に、こちらの必死の嘆願も、伝えようとしている切なる心も無残に振り払われた哀しみで心が一杯になってしまった。
 叩かれた拍子で傾いた顔をそのままに、微かに双眸を伏せながらユリウスは呟く。
「……お前にとって、セフィはどんな存在だった?」
「姉さんは……私の憧れだった。どんな時も迷う事が無くて、どんな時も毅然としていて、どんな時も優しくて気高かった」
「…………もし、セフィが――」
「!?」
 唇が動いて、掠れる音を発する。その瞬間、空気が凍ったような気がした。
「――だとしたら、お前はどう思う?」
 聴覚に捉えられた音の羅列は、裡から湧き上がる感情と混ざり合って脳裡で輻輳を起こす。それがただ理解不能な意味を持つ言葉となって心を侵した。大きく目を見開いたソニアの心身は大きく揺らめき、数歩後ずさる。
「そ、そんなの……、う…嘘よ。嘘よ嘘よ嘘よ! そんなの、私は信じない。信じられるわけ無いじゃないっ!! 姉さんは神に選ばれし者…“賢者”なのよ…そんな事、ある訳無いじゃない……わ、私は絶対に認めないっ!!」
 認めたくないからこそ、憤慨し声を荒げる。大切に秘めた思いだからこそ、守りたくて強く反発する。
 それを真正面に対していたユリウスは恐ろしく底冷えのする、絶対零度の視線を返してきた。
「これ以上の問答は時間の無駄だな。お前の望む真実とやらがお前に姿を現す事は無い。…………絶対、な」
 冷然と抑揚の無い声調で言い捨て、ユリウスは立ち上がる。そんな彼を、ソニアは憤りに頬を紅潮させたまま、強い視線で睨む。憬れていた姉が侮辱されたようで、どうしても許せなかった。
「あ、あなた……はぐらかす為に適当な事を言っているんじゃないでしょうね!」
 刹那、ユリウスは腕を伸ばしソニアの襟元を掴んでは乱暴に引き寄せる。
 その拍子で羽織っていた毛布が、はらりと草叢に落ちた。
「!?」
 顔と顔、互いの吐息がそれぞれに触れ合うくらいにまで接近して、ソニアはただ息を詰まらせるしかない。見下ろしてくる硝子の漆黒には、何かに脅える自分の顔がはっきりと映っていた。
「あれは……あの時にあった事は、どこぞの誰かに脚色されて、物事の正否を希求しなければならないまでに歪められたものではない。俺が…俺達が遭った事象は、ただの現実だっ」
「!!」
 早口で捲くし立てられる言の葉には、滅多に聞く事の無い抑揚が込められていて、鏡の双眸の深奥では触れれば斬れてしまうような闇が鼓動を打っていた。唖然とするソニアを押しのけるようにユリウスは突き放す。膝から力の抜けたソニアは、そのまま為す術無くへなへなと地面にへたり込んでしまった。
 耳に残る言葉が響いては心を切り刻む。その傷みがあまりに痛すぎて抑えきれず、ポロポロと大粒の涙と小さな嗚咽を零し始めたソニアを極めて無機質な表情で見下ろしながら、ユリウスは何の熱も込められていない冷め切った声色で淡々と言った。
「感情などという曖昧なモノが現実への理解を阻む。心などという邪魔なモノが現実の形を歪ませる。……そんなモノを持つ事が人である事の必然となるならば、俺は人でなくて良い」
「ユリウス!?」
 言葉を耳で捉え、その意味を頭で理解してソニアは顔を上げて叫ぶ。頬を伝う涙を撫でる様に夜風が流れているが、気にならなかった。
 人は誰もが助け合って生きている。隣り合う人々が手を取り合い心を繋ぎ、共に歩む事でそれぞれの安寧を、世界を築き上げてきた。それがルビス教の謳う博愛の精神の根幹であり、そしてそれこそが心という尊重すべき大切なものを持つ人の世界なのだ。それが普遍の常識だというのに、ユリウスの言った事はそれに反目し、人として最も大切なものを棄て去る事だったから。
 地面から見上げるソニアを、ユリウスは深淵の闇を湛える双眸で見下ろす。そこに孕んだ拒絶の輝きはただ黒く、ただ昏く……。
 名前を叫ぶ事しかできないソニアから視線を外し、ユリウスは腰に佩いてあった剣を抜き去っては虚空に翳した。
「俺はただ一振りの剱……。そう、俺は…剱の、聖隷」
 闇夜に浮かぶ月の光を帯びた刀身が、恐ろしく冷厳に世界を見据えていた。






 強い日差しに耐えうるように白い土壁の家屋が所狭しと連なる。迷宮のように入り組んだ道は、そこに住む者でなければ直ぐに迷走に陥るだろう。そんな雑踏は人の波と喧騒に溢れ返り、その地から灯りが途絶える事は無い。
 その都市の中心には周囲のものと高さを異にする建造物が威風堂々と座している。独特の建築様式からなる荘厳な魁偉は、等しく周囲の白尾根を睥睨していた。宵に向けて藍青が深まり往く空の下で、夜に抗する人々の活気が増すように煌々と明りが輝いていた。
 ふと一陣の風が空を舞った。すると地面から立ち昇った砂塵が空高く舞い上がり、下から照る明りと軽快な音楽によって砂金の如き優雅さを持って大地に還元される。
「アッサラーム……甘美な夢想と怜悧な現実が同居する混沌にして虚ろな地、か。ここに来る者は何かしらの希望や志の燈をもってこの土を踏む。その燈が輝きを増すか、潰えるかは己と現実次第。夢を翳した者達の意志の強さがこの地を往く人の歩調を変えている」
 夜の闇から染み出したかのように、虚空より声が現れる。それは闇色を纏い、静かに摩天楼の頂に降り立った。何一つ知らない顔で変わらない日常を謳歌している人間達を見下ろしながら、翡翠の双眸は冷めた光を湛える。
「人の夢は泡沫の如きに儚い。酷薄な現実の波に押し流され、輝きを見失った者は夢の残滓でふやけた地面に呑み込まれ、堕していくしか路は無い。だが消える事のないこの街の灯はそんな彼らこそを強く照らし、嘲笑い続ける。影を侵す光の絶えない地…流石は白夜の都と言ったところかな」
 芝居のように大仰に、翡翠の青年は優雅に両手を掲げて天を仰いだ。
 その余韻が夜の帳に呑まれる中、青年の背後に影が現れる。その影は青年よりも頭二つほど大きく、泰山のような大男だった。
「詩人だな。大将」
「……オルド。君は、どうしてここに?」
 特に驚いた様子も無く、青年は背後の大男に振り向く。その相貌は下から照る灯りによって穏やかに彩られていた。
 そんな青年を見下ろしながら、オルドと呼ばれた大男は自身の黒髪を掻き回して言う。
「ロマリアでの活動の撤収の件でな。それにそれはこっちの台詞だ。暫くは別行動じゃなかったのか? あのヤバげな物…確か“黒”の欠片だったか。それを届けに行っていたんじゃないのか?」
「うん。それでちょっと“世界の果て”まで行ってきたよ」
「……なるほど。あそこ、か」
 両腕を組んで、眉を顰める。その仕草だけで大男の深刻な胸中が手に取るように解った。翡翠の青年はそれに小さく苦笑を零して続ける。
「そこで一つ頼まれ事を賜ってね。……まぁ見ていなよ」
 青年は、ローブの下から掌に乗る程度の大きさの宝石を取り出した。気を確かに持たねば吸い込まれそうな程の存在感のある宝石は、周囲の光を反さずに自ずと深い蒼の光を湛えている。それを恭しく頭上に掲げ、青年は魔力を集約させるように集中を始めた。その現れか翡翠色の瞳孔が一瞬だけ黄金に変わり、不可解な感触の風が夜空に散る。それに喚起されるように宝石の周りから蒼い闇が噴出し、文字のような紋様を虚空に描き始めた。脈動するよう明暗に点滅を繰り返すそれは、瞬く間に街を覆う空一面に広がり、終には静寂を保ったまま夜に解けて行った。
 発せられた強烈な魔力の波動は、その潜在している力の敷居が余りに高すぎる為に普通の人間には感知する事はできない。眼下に犇く人間達は、ただ何事も無く日常を連ねている。ただ天に立つ二人だけがその大きさに震撼していた。
「……っ、かなりの魔力を持っていかれた。成程。確かに以前のぼくだったら少し危なかったね……」
 かくんと身体が傾き、青年は酩酊しているように覚束無い足取りでよろよろと建物の外壁に背を預ける。その際の衝撃で頭に深く被っていたフードが肩に落ちた。
「これは結界、か? だが、何の?」
 周囲に出来上がった違和感に、顔を顰めながらオルドは問う。“デスストーカー”という魔族である彼の険しい表情は、只ならぬ濃密な気配に最大限の警戒を抱いている事を言葉無く語っていた。
「魔力を注ぎながら結界の組成を解析したけど、どうにもある特定の存在に対しての呪縛…かな。これ程の規模の魔力をほぼ一点に集中した恐ろしく高精度で強力なものだね。同時にそれを覚られない為の目隠しとして、周囲にいる存在の悪意の増幅という効果があるみたいだ。人の情思に乱れたこの街において、それは確かな効果を生む」
 額に玉のような大粒の汗を浮かばせ、壁に寄り掛かって浅い息をしている翡翠の青年は、憔悴に血の気の失せた顔で言う。いつも決して余裕を絶やす事の無い彼の消耗振りに、オルドは戦慄を覚え口を噤む事しかできない。
「正直、こんな陣を構成できてしまうなんて信じられないよ。それもこんな小さな魔水晶に収めるなんて……。でも、“破壊の剣”により深く同調していけば、ぼくもきっと……」
 夜空を見上げ黒の焔を裡に燈らせる青年。その生彩が無いにも関わらず、微かな興奮の孕んだ独白に危うさを感じたオルドは、その華奢な肩をポンポンと叩く。
「あんたが力を求めているのは知っている。だがゆとりを持つ事を忘れるなよ。……壊れない為にもな」
「……わかってるさ。その痛みを知りすぎて、痛みという感覚すら忘れる程に、ね」
 肩に感じた感触に遥かな過去を想い描いた青年は、瞼を半ばほど伏せる。その遠く星霜を見つめる翡翠の双眸には、何を想っているのか深い憂慮と哀憐の陰が過ぎるも、強まってきた眼下からの色取り取りの光の波に呑まれ、消えた。




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