――――第四章
      第二話 無垢なる狡獪こうかい







 街道に敷き詰められている煤けた石畳の隙間から、煙の如き風塵が立ち昇っては静かに流れて草原に消える。それが言葉の無い静寂を一層強く辺りに齎し、深々と支配していた。
 無常に吹き抜ける風と、それに靡く草原の囁きだけがしっとりと虚空に染み渡り掻き消えていく様子は、開けた空の下であっても酷く重く、沈鬱な気分にさせる。今、この場で音を発する事は神聖な領域を侵す事に値するのではないかという妄想地味た不安と罪の意識に苛まれ、そんな気負いが胸の内に生じては四肢に重く圧し掛かる、見えない鎖で大地に縫い付けられているようだった。
 そんな一種の呪縛のような気配を醸していた場を根底から覆すように、明朗で弾んだ声が響いた。
「助かったよ、あんたら。ありがとう!」
 場違いに明るく響き渡る声に、ユリウス達は訝しげに声がした方角を仰ぐ。すると、そちらの方から数人の男達が戸惑いと警戒を面に浮かべながら、探るような眼差しで歩み寄ってきているのが見止められた。そしてあっけらかんと発せられた声は、不安を顔に貼り付けた男達の先頭に立ち、一人だけ周囲の陰掛かった表情とは裏腹の満面の笑みを浮かべている青年のものだった。鳶色とびいろの大きな眸には周りの男達のように猜疑の影など微塵も無く、ただ言葉通りの純粋な感謝と、自分と同じ位の年頃の者達が魔物を退治したという事実への素直な驚き、好奇の色に充ち輝いていた。
 少年のように人懐こい笑みを浮かべて歩み寄ってくる青年の出で立ちは、隊商の一員である事を示すように統一された意匠の制服の上に、長旅に耐えられるように硬く丈夫な布地で作られた何の変哲も無い外套を羽織っている。その中で、頭髪全てを覆い込むように巻かれたターバンが一際異彩を放っていた。
 微かにターバンの隙間から零れる眸と同系色の髪と相俟って、上質な絹で織られた純白の布地は気品と清潔な印象を見る人に与える。それを額のちょうど真ん中で留めている瑠璃色の宝石には、小さいが確かな存在感のある大鷲の紋章が施されていた。素材を贅沢に加工した拳大の宝石に刻まれた複雑細緻な溝には、惜し気も無く純金が流し込まれており、その二つの鮮やかな色合いが清廉な輝きを織り成す。一級の美術品としても通るような紋章の真価は、世界経済に対しての興味から常々周囲に眼を向けている者、或いはどんな端役はやくであろうともそれに少なからず関わりを持った事の有る者ならば一目で判るものであった。

 嘗てのアリアハン王国に世界同盟を束ね管理する力が健在であった時代より、世界経済の根幹に深く関わり動かしてきた“商人ギルド”。当時の組織体系は同盟の終焉と共に崩壊したが、その名残は永く各地に強く根付いていた。そしてその残滓を元に新たに築き上げられたのが、現在の世界経済を指揮しているといっても過言ではない“商会ギルド”である。“商会ギルド”は各国と密接に連携を執り、往々の首都やそれに準ずる政治機能を有した主要都市には必ずといって良い程にギルド支部を配置させて、人々が構築する社会生活に大きく貢献していた。
 広く世界に点在するそれらを統括する本部は、自由交易都市として繁栄の途を歩み、世界各地からの人や物の流通の中心地として名高い地…アッサラームに存在している。そしてその街はギルドと共に、四大商家と数え謳われる大富豪達の合議によって運営されていた。
 商会ギルド筆頭の四大商家は、嘗ての商人ギルドを運営していた有力者達の流れを汲む系譜で、本拠地であるアッサラームの地において、その地方に座する貴族を遥かに超える多大な権力を有していた。それはアッサラームが隣接しているロマリア、イシス王国の両王都から遠く離れた中間の位置に在る事と、商会ギルドの勢威に立ち構える体制が、治世の中心たる王都から遠く離れた地方貴族の発言力など歯牙にもかけない程に大きく磐石であった為、彼らに介入する余地が無かったからだ。

 隊商の一員らしき青年の額の宝石に印されていた紋は、その四大商家の一角、交易王としての地位を不動のものにしているマグダリア家の家紋。本人は頑なに否定するだろうが、結果としてユリウスが助ける・・・形となった隊商を率いていたのは、今現在自分達が目指している地、アッサラームの権力者の縁者だったのだ。
 馬車を停めて、ユリウスの後ろに駆け付けて来ていた他の面々は、眼前に立っている青年の額で燦然と自己を主張している紋章の意味を汲み取って、大いに眼を瞬かせる。その中で、否応無しに他の眼を惹く鮮やかな美しい色合いの大鷲にミコトとヒイロは特に驚いていた。
 ミコトはそれなりの歳月を冒険者として世界を巡った為、過去にアッサラームを訪れた経験がある。その時、そこで少なからずマグダリア商会に関与した事があるからだ。この場合、関与というのは物資を他の地へ運搬する際の護衛という意味で、彼女にとって見れば旅に必要な路銀を稼ぐ為という事に過ぎなかったのだが……。逆に至極一時的であれど接点のあるミコトに対して、ヒイロは直接関与を持った訳ではない。だが一般常識による知識と、商会ギルドと犬猿の仲として広く世間に認知されている盗賊ギルド経由での情報から、その裏側の日に当たる事の無い領域までの様々な噂までもを耳にしていたからである。
 素直に驚きを瞳に浮かべる二人の横で、面にこそ出ていないがアズサもまた瞠目していた。ユリウス達に自らの身の上を伏せている為、あからさまに態度に出す事はできないが、眼前の青年の事を知っていたからだ。ただそれは知人という当たり障りの無い間柄ではなく、イシス王家における“剣姫”という立場からの備えておくべき情報として知っている、という種類のものであるが。
 知る者達が十色の反応を浮かべているのに対し、それを知らない者の反応は実に淡白なものだった。
 ソニアはミコトやヒイロが瞠目している事を素直に疑問に思い、首を傾げている。だがそれは、ソニアは世間知らずであると言う事を示す要素にはならない。
 信仰という眼に見えない存在を信じ尊ぶという精神活動を主体とし、形在るものに囚われない非物質的な生産を糧に生きる者達にとって、世の細微な動きにさえ敏感に捉える商人達の徹底した現実主義と、物質に固執するような生き方は中々に受け容れ難いものだからである。尤も、両者に生きている者全てに当てはまるとは言えず、互いが互いを完全否定している訳ではないが、自然と意識が疎遠になってゆくのは人の情理というものなのだろう。
 そして最も直接的な要因は、アリアハン王国で生まれ育った者にとって商会ギルド、ましてやその中心である四大商家の存在はあまりに馴染みあるものではなかったからだ。これは、商会ギルド中心地であるアッサラームから遠く離れすぎている事と、鎖国政策で著しく外界との交流を断った為、その結果として商会そのものも公にアリアハンへの進出が成されなかった事に起因している。
 温かな揺り籠で育ったソニアがそういう価値観、背景から商会の事に疎いのに対し、同郷のユリウスに至っては単純明快である。ひとえに人の情思が絡み合う世間の生々しい世の流れなどに微塵も興味が無かったからだ。故に、往々が色取り取りの表情を浮かべている中で逆に映える、極めて平静にいつも通りの仮面のような無表情を貫いていた。
「俺はシェイド=マグダリアって言うんだ。一応、マグダリア商会うちにこの隊商を任されていたんだけど、いやぁ…焦った。流石に魔物の群れに襲われた時はもう駄目かと思った……。だからホント、あんたには感謝しているよ。ありがとう!!」
 先程までに絶望にも似た恐怖の権化を眼前にしていた反動なのか、意気揚揚と一気に捲くし立てるシェイドと名乗った青年に、ユリウスは無機質な光を湛える漆黒の視線を送った。
「別に助けた訳ではない。先程の魔物の勢いならば、あんた達を壊滅させた後にこちらに向かってくるのが明白だったからな。……視界に入った火の粉を事前に振り払っただけだ」
 淡々と痛烈に放たれたユリウスの言に、シェイドは一瞬キョトンと眼を瞬かせる。取り巻きの商人達が多少気に障ったという様子で顔を顰めている中、シェイドは実に楽しそうに白い歯を剥き出しにして爽快に笑った。その屈託の無い笑顔に、返って周りは唖然と目を見張り、ユリウスは逆に訝しんで微かに眉を寄せた。
 呆気に取られている周囲の様子を別段気に止める事無く、同じ程度の背丈のシェイドは対面しているユリウスを改めてつぶさに見眺めた。
「でも魔物との戦い方を見てたけど、あんた本当に強いなぁ。見た目俺と同じ位の歳っぽいけど……お、良い剣使ってるじゃないか。その剣、ロマリアの中じゃ五本の指に数えられる腕を持つ刀匠の爺さんが鍛えたものだろ? えっと……あったあった、ほらここ…よーく見ないと気付かないけど、刀身の根元の所に小さく爺さんの銘が彫ってあるだろ。これは爺さんが鍛えた剣になら必ず彫られているんだけど、すげー判り辛いんだ。煌びやかな装飾ってのが嫌いで、爺さんの鍛える剣って無骨すぎて飾り気が全然無いから、解らない奴が見ると、単なる量産品の安っぽい剣にしか見えないんだよなぁ。この銘が有るか無いかで市場に出回る値段に結構な差が出てしまうってのに、そんな所には全然無頓着で…職人気質ってのは難儀なものなんだ。え? そんな事知らないで買ったって!? あんた、武器を見る目あるんだな。やっぱ歴戦の剣士ってやつだからか……ん? あ、あああっ!? あんた…そ、その背負ってる槍…水に濡れた鏡の様に澄んだ刃の艶。柔軟で且つ弾力性と剛さを秘めたこの感触……これは秘錬鋼ダマスカス製じゃないかっ! 秘錬鋼って今じゃ手に入り辛いすげー貴重な鉱石から製錬されるんだぞ。まだこの辺りで採掘されているなんて話は聞かないし……、やっぱ特産地のカザーブ村あたりで手に入れたのか? なら掘り出し物が今でもあるかもしれないな。今度、是非とも行ってみないと――!!」
 そこに佇む往々の装備品を上から下から、右から左からジロジロと見定めながら決壊した濁流の如く忙しく動き喋り続けるシェイドに、ユリウスは辟易して双眸を伏せ、ソニアやミコト、アズサといった女性陣は困ったように閉口していた。ただ、ヒイロだけは彼の話に時折織り交ぜられる専門的な言葉の内容に興味を惹かれ、穏やかに耳を傾けていた。
 一通り一行の装備を許可無く鑑定し、懐から取り出した手帳に何かを満足気に書き記していたシェイドは、思い出したように顔を上げる。
「……っと、悪い悪い。さっきから何か俺ばかり喋ってるな。どうにも珍しい物を見ると気になって仕方が無い性分で……。いやぁ、ぜんぜん悪気は無いんだ。で、今更だけどあんたらの名前を聞いていいか?」
 バツの悪そうにターバンの上から頭を掻きながら言うシェイド。少しも悪びれた様子も無くそう言われるも、不思議とこの青年に悪い感情を覚えない。少年のように無垢な輝きを灯した鳶色の眸に、邪気は微塵も孕んでいなかったからだろう。それを直感的に感じ取ったのか、気を許したソニア達は順々に名を名乗っていった。そしていつの間にか最後になっていたユリウスは、自然と全員の視線を集めてしまいこの上なく億劫そうにしながら、疲労を滲ませた溜息を吐くように呟いた。
「……ユリウス=ブラムバルド」
「ユリウス? ユリウス、ユリウス……。ユリウス…………ユ、ユユユ…ユリウスぅ〜!?」
 脳裡に刻んでいるのか、呪文のようにぶつぶつとユリウスの名を反芻しながら、白地を這う鳶色の瞳が大きく円を描くようにグルリと動く。そしてシェイドは何かに気が付いたのか、遠慮も礼儀も無しに思いっきりユリウスの顔を指差してポカンと口を開けた。よく見ると指先や下唇が微かに震えてさえいる。
 微かに青褪めて唖然としている表情に、いい加減ユリウスは鬱陶しさを感じて半眼になった。
「人を指差して、無駄に名前を連呼しないでもらおうか」
「でもよ……あんた、あの・・ユリウス=ブラムバルドなのか!?」
「どのユリウスだか知らないが、俺の名前はユリウス=ブラムバルドだ」
「あ、あんたがあの『アリアハンの勇者』だっていうの――」
「俺はそんなものを自称した覚えなど無い」
 キッパリと冷然に、シェイドの言葉を遮るユリウス。だがそれを己の質問に対しての肯定ととったシェイドは素っ頓狂な声を上げた。
「マジで本物っ!? すげぇ……。すげぇ、すげぇ…すっげぇ〜!!」
 忌々しそうに吐き棄てたユリウスであったが、当のシェイドはいよいよ興奮に頬を上気させてユリウスを見つめている。そのキラキラと子供のように好奇に満ち輝いている視線に対し、湧き上がった得体の知れない疲労からか抵抗する意思の失せたユリウスは、うんざりして眉間を指でつまみながら深く深く嘆息した。
「…………そんな事より、あんたは何か用があって話し掛けてきたのではないのか?」
「ああ、そうだったっ! あんたらが腕の立つ冒険者って見込んで交渉しに来たんだけど、まさか噂にある魔王討伐の勇者一行とはなぁ……」
「……交渉?」
 未だ感慨から抜け出せていないシェイドに、急かすようにユリウスの視線は鋭くなる。『アリアハンの勇者』という名目を背負っていたが為に、半ば暗黙のように交換条件という形式でロマリアでは色々と厄介な面倒事を押し付けられた事はまだ記憶に新しい。その為、交渉という言葉に些か敏感だったのだ。
 そんなこちらの内心を知る筈の無いシェイドは、つい先刻までとは見違える程に真摯に面を引き締めて頷き、言葉を綴っていた。
「元々俺らの隊商はポルトガ方面で行商してね。それで商会うえから言い渡されていた行商期間の期日が来たんで、本拠地のアッサラームに戻る事になったんだ。移動魔法ルーラを使える奴がいれば一瞬で帰れたんだろうけど、今回の隊員の中にその魔法を使える奴は同行していなかったし、キメラの翼は先々の街で卸したから在庫が無くなっていてな。まぁ、馬車だからあっても使用不可なんだけど……。そうすると結局は徒歩、というか地道に街道を進むしかないだろ? 商会に対して国境の通行証は発行されているから関所越えは全然問題無く終わって、中継地である王都ロマリアに休息も兼ねて立ち寄ったんだ」
 相手が話を把握する為にここで一呼吸、シェイドは間を置いた。一方的に自らの用件を語り終わらせるのではなく、相手がそれを咀嚼しより深い理解を得る為には必要な事だった。この会話の緩急を自然にそつなくこなす辺りの機微は、流石は商人として生業をおくっている者と言えるだろう。
 対面する聴聞者達が言葉を吟味している様子を順に一瞥しながら、シェイドは続けた。
「でも実際、到着したらしたで闘技場の魔物が街に溢れ出す騒ぎがあったんだ。市街地は滅茶苦茶になってしまったし、政府の対応はいまいち鈍臭い。……言っちゃ悪いけど、今の国王は昔から飾りのようなもんで、実質は大臣や役人達が守っている国でね。それでも今回の件は想定外の事件だったらしくて、混乱を治め切れていない。だからまだ暫くはああ・・だろうな。状況を考えて、ロマリア国内での活動をより強固にする為に、抜け目の無いギルド本部のお偉いさん方は援助を出すのは間違いないと思う。ま、それにしても時間はまだ必要だろうけど」
 ロマリアの現状と、遠いアッサラームの方針を予想するシェイド。腕を組んで眉間に微かに触れては離れる前髪を指先で絡めとり、放す。話す時の無意識の癖なのか、シェイドは時折腕を組み替えながら毛先を弄んでいた。
「……笑って話せる事じゃないけど、うちの関係者達にも被害が出てしまって、その補充と人的援助の際のやりくりで結構な数の隊員がロマリアに残る事になったんだ。その中に護衛組の連中も含まれていて、ね。……今、あの王都じゃ魔物に対しての危機感からか非常に敏感になってる。だけど泰平が続いていたせいか兵の錬度は大した事が無いんだ。今回の事件でそれが公前に曝された訳だから、保守的になった人々に自然と冒険者や傭兵達は歓迎される形であの地に留まる事になる。……そんなこんなで、新たに護衛を雇う事もできなくて、でも帰還に要する日数を考えるとそれ程に暇が無いから、この面子で慌ててロマリアを発ったんだ。帰還組の連中こいつらにもそれなりに戦える奴がいるから、ロマリア周辺の魔物に対しては何とかなるかと思ってたんだ。けど、……甘かった。これまでならこの辺の魔物には遅れをとらなかったんだけど、どういう訳か王都での騒ぎ以来、周辺の魔物もより一層凶暴化が進んだからなぁ」
 嘆息と共に零れる言葉。その口調には特に誰かを弾劾する意志を孕んではいなかったが、シェイドの背後の商人達は、立つ瀬なさそうに肩身を狭めていた。身振り手振りで前を向いて話し込んでいるシェイドは、そんな彼らの様子に気付く事無く。
「で、草原で魔物に見つかっちまって、必死で逃げている途中、ユリウスが一人草原に突っ立っていた訳。後は、あんたらの見た通りさ」

 本来ならば恥ずべきであろう自分達の事情を微塵も隠さずに語るシェイドに、後ろに控えていた他の隊員は困ったような顔になっていった。ユリウスはユリウスで、何故こうも躊躇い無く自分達の事情を他人に話す事が出来るのか心底解せないと思うも、その思考を即座に破棄する。その間の内心の動きなど微塵も面には載せず無感動に商人達を一瞥し、長々と語られた話の要点を掻い摘んで要件を察した。
「それで相談なんだけど――」
「つまりは護衛、というわけか」
 長々と語られるのを予期してか、シェイドに全てを言わせる前に早々にユリウスは切り出した。出鼻を挫かれたシェイドは一瞬眼をパチリと瞬かせていたが、やがて肯定を示すようににこやかに笑い、頷く。
「うん、そう。当然対価は出すさ。水や食料といった旅程に必要な物資の方が良いのか? それとも金銭の方が良いか? 金銭の場合、ちょっとした手続きがあるからアッサラームの商会ギルド本部に来て貰う事になるけど……まぁ、あんたらが何所に向かっているのかわからないけど、都合の良い方を用意する」
「…………」
 真っ直ぐな視線を浴びたまま、ユリウスは口元に手を当てて考え込む。
 物資の面で言うのならば、王都ロマリアで用立てて貰ったものが充分に蓄えてある。金銭にしてもそれは同様だった。現状を鑑みると、特に受ける理由も断る理由も見当たらない。それに大きな組織と関わって、面倒事にでも巻き込まれるのは不本意でもある。
 そんな思案からか、どうしたものかとユリウスが口を閉ざしていると、後ろから歩いてきたヒイロが柔らかに言った。
「別に構わないんじゃないかい。どうやら、お互いアッサラームに向っている事には変わりないみたいだし、大勢の方が安全だ。それに旅は道連れ、っていうだろ?」
 こちらの情報を不明瞭にしていた方が交渉を有利に進められるというのに、それは覆ってしまった。気にも留めていないように暢達な雰囲気でそれを言ったヒイロを、身長差の為か多少見上げる形でユリウスは切れ長に半眼で捉える。が、その先にあった唇が周囲に覚られないように、声無く言葉を紡いだのを見止めて、ユリウスは小さく嘆息し、濃紺の外套を大きく翻した。
「……行く方向が同じなら好きにすればいい。行く先で敵が立ち塞がるのならば、俺が殺す。その邪魔さえしなければ、どうでもいい。…………周りにどんな思惑が存在していようとも・・・・・・・・・・・・・・・・・・、俺には関係が無い事だ」
 シェイドだけでなく、その場にいる誰しもに対して放つように言い棄てて、ユリウスはその場を立ち去る。そして、半ば放置されて不貞腐れたように体を沈めている馬と、その背後に繋がれている荷車に向かっていった。
「はは、交渉成立だってさ」
「みたいだな」
 後半の理解し難い言葉と、傲然ともとれるぶしつけた対応のユリウスであったが、その相変わらずの様子に苦笑を浮かべているヒイロと、対応の粗暴さを少しも気に止めずに、ただ了承を得る事ができたたシェイドは純粋に感謝の笑みを浮かべてその後姿を見送っていた。





 あれから、期せずして道中を共にする事になった商会ギルドの一角、マグダリア商会所属の隊商を後方に連れてユリウス達を乗せた馬車は、どこまでも続いている草原地帯をただひたすら東に進んだ。緩やかに西の地平線に堕ちて行く太陽と、東の空に顔を覗かせた月の追走を見上げながら時は瞬く間に過ぎ、完全な夜闇の天蓋が草原を覆い尽くす前にロマリア王国領土の最東の関所…つまりは隣国である聖王国イシスとの国境である大橋に到達する事が出来た。
 南北に隣接する二つの地中海を結ぶ大河の上に駆けられている石造の大橋は、ロマリア王国が存在する北大陸と世界最大の陸地面積である中央大陸を結んでいる。この地は更なる南方の、聖王国イシスが存在する南大陸に陸続きに繋がる唯一の地。異なる大地に掛かる橋は、ただ泰然と未知に往く者達に対して存在していた。
 この大橋を越えると既にそこからは聖王国イシス領である。正確には橋の半ばからがそうであり、橋を越えた東西それぞれの場所に、この国境を管理している関所と兵達の駐屯所があるのだが、今は野に蔓延る魔物によって齎される被害の為にそこを放棄し、無人となっていた。だが建物それ自体は壊れ朽ちておらず、しっかりと形が残ったままだったので、ここ数年来この街道を通る冒険者や旅人、行商人達が風雨を凌いで夜を明かす為の休憩地として利用するようになっていった。

 東の国境辺りにまでくると、気候も王都ロマリア周辺のそれとは完全に変っており、かなり温かくなる。鬱陶しいまでに肌を撫で回していく風は充分すぎる水気を孕んでいて、この不快感さえ覚える高温多湿な空気は、穏やかで過ごし易いロマリアの気候に慣れた者達の体力と精神力を容赦無く奪い去っていく。
 気候の変遷…これが、西からこの地を訪れる旅人達への最初の歓迎の洗礼だった。この異邦の風が、ここから先に広がる未知を、道往く人々にまざまざと実感させるのであった。




 それぞれに分担した野営の準備を滞りなく終え、簡易な夜食を採り、草原に広がる夜のしとねが深さを増していた。
 自分達の野営場の直ぐ傍で、連れ立つ事になった隊商の者達も同じように火をおこし、星天の下での夜を越える準備を進めている。嘗ての兵達の駐屯地であった建物の周りを囲んでの広広と展開した野営の陣をぐるりと囲むように聖水を撒き散らし、稚拙ながらも魔物に対しての防衛策を施している為か、火の暖色を反すそこに在る者達の表情は明るい。
 温かみのある色に彩られている周囲を、遠くを見据えるような達観した眼差しで一望し、その源である静かに空気を貪っている炎に視線を落として、ヒイロは眼を細めた。その琥珀の双眸には、煌々と息付く炎と同じような満ち足りた光を強かに灯らせている。
(権力者の縁者に恩を売っておく事は損にはならない、か)
 ふと、つい先刻の、隊商の責任者であるシェイドとの交渉時の際にユリウスに言葉無く伝えた意思を思い返して、ヒイロは自嘲的な笑みを浮かべた。
(結局のところ、俺は打算でしか動く事ができないのか)
 現在、魔王討伐の旅に同行している事も。嘗て盗賊団“流星”に所属していた事も。そして、今ある記憶の原初の時も……。
 改めてそれを認識すると口元を掌で覆い、その下で孤月を作る。ふと、体の底から何かが疼いているような感覚に陥り、沸々と可笑しさが込み上げて来た。思わず仰け反りそうになるそれを表に出すまいと小さく下唇を噛み、夜空を仰いでは鼻腔から冷たい夜の空気を吸い込む。雲一つ無い闇空に浮かぶ白翠の満月を捉えるその双眸に宿るのは、冷淡とした朧な月の、夜に平伏す者達全てを嘲笑う氷の如き怜悧な輝きに変わっていた。

「アッサラ―ムに着く前に、確認しておいていいかな?」
 剣を腕の中に抱き、荷車の車輪に背を預けていたユリウスは、何だ、と伏せていた瞼を持ち上げてヒイロを見やる。視線が絡んだ事に頷くと、ヒイロは続けた。
「こんな事を訊くのは今更な気もするけど、この先の旅程についてさ。ロマリア王宮で王に言った事は確かに目下の問題ではあるけど、その先はどうするつもりなんだい?」
 ロマリアでの援助を取り付けた後、何処に向けて進むのか。ユリウスの旅路に己の意志で追従しているが、必要以上の事を彼は言葉にしないので、他の面々にとっては気になる事ではある。
 世界を恐怖と混迷で震撼させている『魔王』を討つ『勇者』という旗を背負っている以上、最終的な終着点は『魔王』の座す旧ネクロゴンド城。だがそれはこの面々にとっては暗黙の了解を得ている、いわば公然の前提事項だ。
 そして今現在、目下の目的地は海運国家ポルトガへの通交証を発行している聖王国イシスで、そこへ赴く為に中継地である自由交易都市アッサラームを目指しているのだが、あくまでもそれらは通過点の一つ、目的へ到る為の過程の一つに過ぎないのだ。だからこそ、より円滑に迅速に迷いなく進む為には、常に一歩先の事を視野に入れて意志を明るみにしておかねばならない。
 ヒイロの言葉と視線に倣うように、同じく焚き火を囲んで寛いでいたソニアやミコト、アズサの視線もユリウスに集まる。
 四者それぞれの追求染みた視線を受けるも、特に隠す意思もないのか、ユリウスはヒイロの問に淡々と答えた。
「……以前言ったと思うが、ポルトガを目指すのは海上での移動手段となる船を得る為だ。その先に旅の指針として考慮している場所は、を求めて“魔導の聖域”ダーマ神殿。或いはルビス教国ランシール。そして、機工王国エジンベア……この三つだ」
「術?」
 前者の船というのは理解できたが、後者の“術”というのにいまいち要領を得なかったのでヒイロは鸚鵡おうむ返しに呟いた。
「バラモスの居城は彼の地を治めていた旧ネクロゴンド城なのは知っているだろう。降臨の際の天変地異によって地上から高く隔離された場所に船だけで、ましてや徒歩で辿り着く筈が無い」
 断言するユリウスの言を、現在の世情と地理を思い浮かべながら咀嚼し、両腕を組んでヒイロは頷く。
 確かに、これまでに聞き及んだ情報では陸路や海路では魔王の居城と呼ばれる地に辿り着く事は出来ない。それは既に知っている事柄だった。仮に、ネクロゴンド出身者がいるのならばルーラでの到達も可能ではあるのだろうが、生憎そんな知り合いはいない。
 思いつく限りの現実的な到達手段は、やがてそのどれもが手詰まりになるのをヒイロは自認していた。だからこそ正直な話、ここでユリウスから返って来た答えがネクロゴンド・・・・・・という単語ではなかった事に安堵する。ネクロゴンドを目指している事に変わりは無いが、厭くまでもそれは最終の目的地であって、現在は到る道が見えていない事も承知している。それを鑑みずにただ手の届かない地の名前を出すのは、無いもの強請りのただの夢想に過ぎない。上ばかり見ていては足元が疎かになり、いずれは破綻する事になる。過程を経ずして、結果になど至る筈も無いのが世の摂理だからだ。
 特に、その過程・・こそを至上の目的として同行しているヒイロにとっては重要な事だった。
「ふむ……、それもそうだね。それで?」
 思案の行方を面には載せず、己が裡で確立させる。ヒイロが開眼すると、示しを合わせたかのようにユリウスは静かに言った。
「ダーマ神殿や聖殿ランシールの古代図書館にある蔵書は古の叡智を今に遺しているらしい。その総てが一般に対して閲覧可能という訳ではないだろうが、それらから何かしらの術を見出す。或いは、十三賢人筆頭“魔呪大帝”かダーマ大神官“慧法王”に直接智慧を拝借するか。ダーマやランシールを指針の一つにするのはそんなところだ」
 抑揚無く一気に話し続けていたユリウスは一旦言葉を切る。そして小さく嘆息すると、再び続けた。
「……そして、機工国家エジンベア。俺には良く判らないし理解できない事だが、あの地の人間の気質は愚かとしか言いようがないそうだ。が、反して機工技術水準は世界の頂点に在る。多くの魔導器の製造はあの国で行われており、それ故にこれから向かう自由交易都市アッサラームの商会ギルドとの繋がりも深い国だ。指針の一つに数えておく価値はあるだろう」
「成程……。つまり古の知を辿るならばダーマ、ランシール。先進の技を求めるならばエジンベアと言う訳か」
 考え込むように顎を指で抓みながらヒイロは反芻し、頷く。周囲もそれを聞いて納得したようで、疎らに会話の輪を離れ、それぞれの時間に移っていった。



「イシス大砂漠は広大だから、アッサラームに着いたら砂漠越え用の装備をきちんと揃えねばならないな」
 旅の指針を聞いて意識がそれに傾いたのか、未だ見ぬ地に向けての気勢を高めるようにミコトは気を引き締めて言った。真摯な声色で、外よりも己自身に言い聞かせるように放たれたそれに、膝を抱えて隣に座っていたソニアが返す。
「書物で読んだ事ならあるけど、砂漠って本当に砂しかないんでしょ? 昼は景色が歪む程の灼熱の炎天下で、夜は空も凍る極寒の地だって言うし……」
 信じられない、とソニアは小さく吐息を零す。その未だ見ぬ地の恐々と語られている知識を改めて思い返し緊張してしまったのか、微かに顔を強張らせている。ソニアのそんなわかりやすい表情を見て、ミコトは笑みを深めた。
「そうらしいね。私も行った事が無いから一概には言えないけど……砂地がより広がったようなものなのかな?」
「違うぞ、砂漠は砂地とは大違いじゃ」
 現地が出身地というアズサは、半ば独り言のように零れたミコトの疑問に異を唱えてくる。そうなの、とソニアがそれに首を傾げた。
「うむ。まず砂漠は、砂地と違って地面のすぐ下に安定した地盤が存在しないから、いくら掘り進めても砂しかない。ゆえに大地の反動が極端に少ないから足場は脆く不確かになる。それに砂漠の空気には水分が極端に少ない為に乾燥しきっていて、気温を一定に保つ事が出来ん。それが昼は灼熱、夜は極寒と謳われる所以じゃな。空にも地にも水気が無いゆえ、草木はほとんど育たない不毛な地でもある。およそ生物が生きていくうえで適している地とは言えんな。ま、それでも砂漠全てにそれが当て嵌まるとは言わんが……事実砂漠にのみ生息しておる生物や植物もそれなりにおるし、その辺りは時間による進化の賜物じゃな」
「へぇ……」
 やけに詳しいアズサの説明に、同じ顔のミコトが感嘆を零す。
「逆に、砂漠に点在しているオアシス付近は水も緑も豊かじゃから、生活する上では何も不便なところは無いぞ。実際に、聖都イシスも砂漠にある最大のオアシスの付近でおこり、今も栄えておる地じゃ。砂埃臭いのと、日差しが強いという点を覗けば他の都市とも遜色無い綺麗な所じゃ。特に、風の無い黄昏時の空と砂丘の連なる景色は美しい。実際に見ればわかると思うが良い国じゃぞ」
「そうなの……。なんだか行くのが楽しみになってきたわ」
 恐々とした影がちらついていた不確かな知識が、現地を良く知る人間の確かな言葉に払拭された為か、ソニアの声色が明るくなる。
 焚き火の朗らかな灯りが、柔らかな雰囲気を作り上げる所為でもあるのだろう。徐々に物見遊山染みてきた彼女達の会話は弾みを増していく……。
 そんな折に掛かってきたユリウスの無機質な声は、その雰囲気を崩壊させるには充分すぎる程に淡々としていた。
「砂漠越えには具体的に、どのような装備を用意するものなんだ?」
 旅の指針を示し、再び眼を伏せて黙していたユリウス。いつの間にか顔を上げ唐突に発せられた問いに、意表を突かれたのか暫し彼女達は瞠目してしまった。ユリウスが自ら話を振ってくるのは珍しい事だったからだ。
 元々が無口な性質なのか、ユリウスは質問への解答以外に自分から言葉を発する事が少ない。特に王都ロマリアでの一件以来、ここに至るまでの十数日はそれが顕著であり、丸三日間一言も言葉を発しない時もあった。もっとも、あの時の常軌を逸した凄惨な姿のユリウスを見た上で、周囲が彼に対して何かしらの警戒を抱いているように距離を開ける事があるのも、会話に進展しない一因になってはいるが……。
 一行の中で、ヒイロやアズサは特にわだかまりが無いのか普段通りに接していたが、ミコトやソニアはそうはいかなかった。ミコトはユリウスの一挙一動、その言葉に対しても警戒の念ともいえる気構えを醸していたし、ソニアに至ってはまともに視線すら合わせる事ができていない。それが他人と接する上でどれだけ不興な事だと判っていても、なかなか感情の折り合いがついてくれないのが現実であり、本音でもあった。尤も、ユリウス自身はそんな周囲の心象など全くと言って良い程、歯牙にもかけていなかったが。
 質問を投じられたのはの無い片割れであり、現地を知るアズサだった。アズサは考え込むように両腕を組み、むぅ、と小さく唸っていた。
「そうじゃな……まずは大量の水と保存の利く食料は当然じゃな。砂漠を往く上で素肌を晒しておくのは自殺行為じゃから、陽光を遮れる厚手の外套も必須か。他には…徒歩だけで行くよりも、馬車か駱駝を利用した方が楽にはなる。この馬車をそのまま使っても良いかもしれん。……おおっと、そうじゃ。アッサラームでは様々な武具が売られているが、間違っても鉄製の鎧兜は買う必要は無いぞ。盾くらいならば良いが」
「何?」
「んなもんで全身を固めて砂漠を歩いてみろ。直ぐに灼熱の日差しと外気で鉄板が熱せられて、内の体が焼け爛れてしまうぞ。それに重量から、安定の無い砂に足をとられて動き辛い事この上ない」
 何かを思い出すかのように頷きながら、やけに感情を込めてしみじみと語るアズサの様子に、横で二人の会話を聞いていたミコトは呆れたように半眼になった。
「やけに実体験染みているな……。経験者は語るって奴?」
「うむっ。あの時は本気でヤバかった。鉄鎧を着込んで砂の上を走り回っていたら、いつの間にか下半身が埋まっていてな。抜け出そうにも足場が悪くて力が入らず、もがけばもがく程砂の中に埋まっていって、終には身動き一つ取れなくなってしまった。砂の熱さと日差しに長時間晒されていたから渇きに体の感覚は薄れ、意識は朦朧として……って、な…何を言わせるんじゃ!!」
「いや、その…………ごめん」
「くっ……!」
 ミコトとしては何となく思い立ったという程度の軽い気持ちで言ったのにも関わらず、ほぼ反射的に返ってきた答えに思わず言葉が詰まり、彼女は目をそらす。対して、恥ずべき過去を素直に曝してしまったアズサは、狼狽してか頬を紅潮させていた。
 照れ隠しか所在無くアズサは視線を虚ろに漂わせていると、視界には恥をかく原因とも言える質問を吐いたユリウスと一瞬だけ視線が合うも、直ぐに興味が失せたように漆黒の双眸は伏せられた。ユリウスとしては逸れた話題の修正を図る意志など初めから持ち合せていなかった為、我関せずを貫いていたにすぎない。その間に微塵も感情の色も浮かぶ事は無く、その冷静さが羞恥にうろたえているアズサには、何だか嘲られたように感じられて無性に腹立しくなる。そしてアズサは、目尻を吊り上げて腰にいてあった剣を抜き去っては鎮座するユリウスに斬り付けた。……当然のようにユリウスは瞬時に抜剣し、不意に放たれたそれを難なく防いでいたが。
 話途中に突然始まった剣戟の舞…といってもアズサの繰り出す一方的な剣戟をユリウスが巧みに捌いているに過ぎないが。甲高い裂帛の金属音が周囲に撒き散らされるのを唖然と見上げるソニアやミコトを余所に、舞い上がった賑やかな喧騒に、夜も深まり星天や談話を肴に酒を煽っていた側の商人達が何事かと群がってきては、酒気に浸る彼らにすれば余興としか言えないそれに、円陣を囲んで明るい歓声を挙げ始めた。
 夜風に広がる金属音に紛れて、シェイドがこの騒ぎに感心したような声を出しながら歩み寄ってきた。
「おー、盛り上がってるなぁ……」
「シェイド殿」
殿はいらないって。……てか、止めなくていいのか?」
 気を取り直したミコトは、いつもの事だ、と諦念に肩を竦める。それにソニアやヒイロは苦笑を零して同意すると、シェイドは思わず失笑した。
 軽い口調でごく自然に会話の輪に入りながら、シェイドは片手に持っていた酒瓶を差し出す。見れば判るが今、彼の隊商の隊員達は酒盛りをしているようだった。隊商を率いている者直々に差し入られるのも、中々に恐縮な気もする。そうミコトが口にするとシェイドは、気にするな、と笑った。
 初めて顔を合わせてまだ数時間程度しか経っていないが、すっかり彼らは打ち解けていたのだった。

 焚き火を返して光の筋を残す剣閃と、激突の際に生じる火花が闇の夜空の下にあって酷く栄える。高く澄み切った剣戟の音が夜の帳をつんざいていくと、傍から観ている隊員達は盛り上がりを募らせていく。
 そんな様を横目で見止めたシェイドは呆れたように嘆息するも、気にしない事にした。日中に、死に迫り行く恐怖を体験した事もあって、この盛り上がりがそれぞれの心の安定を図る為だと思えば黙認せざるを得ない事ではある。
 そう思ったシェイドは、取り合えず招かれるままヒイロの隣に腰を降ろす。そして今しがた渡した果実酒が満たされたを杯を受け取ると、おもむろに周りの面々を見やった。
「盗み聞きした訳じゃないけど……あんたら、イシスに行くつもりなのか?」
「ああ。ポルトガに行くには、イシスで国境の通行証を発行して貰わないといけないから」
 ミコトの言葉に、シェイドは眉を寄せて難しげな表情を作る。
「……事情は解るけど、止めといた方がいいぜ。何せ今、イシスは魔物と戦争中だからな」
「え……?」
「何だって!?」
「!!」
 シェイドの齎した物騒な情報に瞠目する面々。誰もが大きく目を見開き、夜の静けさを追い払っていた剣戟の音さえ止む。一番素っ頓狂な声を上げたのはミコトであるが、最も動揺を顕したのは今の今までユリウスと剣戟を撒き散らしていたアズサだった。ピタリと動きを止めたその表情は、今までに無い位切実なものになっている。相対しているユリウスは、その変貌振りに微かに目を細めるも、特に興味も無かったので表情を動かす事は無かった。
 これから向かう予定であった地の不穏な状況に誰しも表情を険しくするが、そんな張り詰めた空気を削ぎ取るように、シェイドは殊更明るく言っていた。
「でも大丈夫! イシスは強国だから魔物なんかに負けはしないって! 何たってあの国には十三賢人もいるし、“砂漠の双姫”がいる」
「“砂漠の双姫”?」
 十三賢人という単語は解ったが、後半の聞き慣れない単語にソニアが首を傾げる。それにシェイドはしっかりと頷いた。
「ああ。太陽神ラーの化身とされるイシス女王の翳す聖なる杖と剣……“魔姫”と“剣姫”がな」
 何処か誇らしげにすら聞こえる声色のそれに、ヒイロが口を挿んだ。
「でも双姫って、二年程前に代替わりがあったんじゃないのかい? 今代の双姫についての噂はあまり聞かないけど……二人とも若いって事は聴いたけどね」
「武勇もそうだけど、それ以上にラー教の信仰圏においては、名前そのものに意味があるんだ。……言ってみれば、“砂漠の双姫”ってのは、アリアハン王国における“勇者”と同じような存在。ただそこにあるだけで、人々に希望と勇気を与える者なんだ」
 その言葉にユリウスと、話題の称号の片割れを得ているアズサ以外の誰もが息を呑んだ。
 遠い故郷ではやされるそれを思い出して、盗み見るようにチラリとソニアは鞘に剣を収めているユリウスに視線を移す。その横顔は相も変わらず内側を覗かせない。
 だがユリウスは、仮面のように変化の無い雰囲気と表情で、夜空の光を湛えている刀身に視線を送ったまま動かさずに小さく呟いていた。
「砂漠の、双姫……」
 それは納剣の鍔鳴り音と、パチンと鳴った薪の嘶きに掻き消され、夜闇の先に溶けた。




back  top  next