――――第四章
      第一話 風靡の地平に







 天を往く太陽の光に晒されて、色とりどりの表情を見せる地表の一点に、普く広がる全ての色を呑み付くさんと静かに鼓動を打っている黒が存在していた。小さくは有るがそれに内包されているのは底の無い深淵の闇。無限に広がる天蓋に相反する、特異な一点に凝縮された世界の果てだった。黒は、その地に座する小さな小さな洞穴で、開ける刻を夢見て静かに胎動していた。

 その天然の岩屋の入口からは、絶えず深い濃霧のようにねっとりとした闇が溢れ出ていた。大地にぽっかりと口を開けた洞穴の四方八方を取り囲むように毒の湖沼が陣を取り、常に噴き上げている猛毒の霧特有の空寒い暗紫色の沼気が、洞穴から漏れ出す闇と混ざり合い周囲に広がっている。ほとりの土地や草木は既に枯れ、腐り落ちてはその残滓すら遺しておらず、およそ普通の生命が介入できないであろう魔境を形成していた。
 その地下深くに続く深淵への回廊。陽光が決して届く事の無い場の深暗さと相俟って、岩屋内の虚空を満たしている闇は静謐を壊さぬようにひっそりと、だがそこに秘められた見えざる力で篭った空気を圧し、周囲の雰囲気を氷のように冷厳と張り詰めさせている。その闇の濃度は洞穴周囲の大気に溶け込んで漂うそれの比ではなく、明らかな実体を伴ってそこに在る者の四肢や臓腑に重く絡み付き、熱という熱の全てを奪い去っていくようだった。
 そんな闇に満たされた内部の最奥は、自然が築く造詣の驚異をまざまざと見せ付ける程に高く広がる大空洞であった。そしてその中心に、この空洞や周辺にひしめいている混沌とした気配を発する源泉の大湖と、湖水の如く満たしている確かな質感を持った清廉な闇が音を発てずに波濤を起こし、渦巻いていた。
 絶えず規則的、単調な間隔で押し寄せる闇の波動を溢す事無く受け止めている湖岸に、静かに立つ人物が一人。周囲に纏わり付いてくる闇に同調する深みのある色のローブで全身を覆った青年が佇んでいた。青年は、蠢動し荘厳な威圧感を発している闇渦の中心を深々とした双眸で見据えたまま、静かに言った。
「――――――様。遅くなりましたが、これが“黒”の一欠片です。どうかお納め下さい」
 懐から取り出し掲げた木箱は、台座であった掌から自然と浮き上がり、蓋を外してうちに閉ざされたものを開放する。すると聖櫃の役回りだった木箱は瞬時に崩壊して、その存在を構成していた小さき粒子にまで瓦解し、周囲を満たしている深い闇に呑み込まれ、消えた。そして露になった小さな宝石は、自らを押し込めていた檻からの解放に歓喜するように闇の中を躍動し、やがて渦の中に吸い込まれていく。そして数瞬もせぬ間に、高く気品のある淑やかな女の声が返って来た。
<……本物のようですね。ありがとうございます>
「いえ、すべては仲間の働きによるもの。ここ・・に運び、あなたに捧げるだけがぼくの役回りですから」
 小さく腰を折り、湖岸に佇んでいた青年は頭を垂れる。その際、小さく波打って生まれた風に攫われ、深く被っていたフードがはらりと落ちる。その下に隠れていた豊かな、艶ある翡翠の髪が風の余韻に流れ肩に零れ落ちた。
 固く双眸を伏せた翡翠の青年の畏まった言い方に、闇の奥から苦笑を漏らしたように小刻みに吐息が零れる音が聞こえてきた。
<謙遜する必要はありませんよ。これを所持し、正気を保っていられる時点で貴方の力が増している事がわかります。また深く“破壊の剣”に同調したようですね>
「恐縮です。ですが、まだ未熟な事に変わりはありません。現にこうして、に意識が呑まれないようにするので精一杯ですから……」
 闇を前にして小さく微笑みを零した後、気を取り直して青年は背を正す。曲がる事の無い真摯な翡翠の双眸が、闇の先にいる人物の姿を切実に見据えた。
「現在、“黒”と同種の存在である“翼の封印たる竜種の遺産ドラゴン・オーブ”を追う形で別の欠片を探索しておりますが、何分代物が代物でして思うようにはかどらず……。いざとなれば、遺産の在り処を示し導くという魔導器“山彦の笛”の奪取の為、大地の塔…アープに攻め込む所存です」
<その必要は無いでしょう。“山彦の笛”はそれ自身が認めた者にしか扱う事は出来ません。それにあの塔を踏破する際に生じる危険性を考えると、上策ではないでしょう>
 こちらの提案を覆すピシリと言い放たれた言葉に、青年は表情を曇らせる。
「申し訳ありません。ぼくがあなた方に受けた恩に報いる事が出来るとしたらこれ位のものなので、心苦しい限りです……」
<謝る事ではありません。貴方には砂浜で砂金の一粒を見つけるのと同義の事をお願いしているのですから。焦ってはなりませんよ>
「……勿体無い慈悲深きお言葉。そう仰って頂けて仲間もぼくも救われます」
 深刻に眼を細める青年に、慈愛に満ちた穏やかな優しい声が届いた。その落ち着いた憂慮さを湛えた声色は、どこかすべてをありのままに見守る母のようだと、翡翠の青年は言葉を聞きながら何と無しに思う。そしてそう思い至った自分の思考行動に可笑しくなった。
 そんなこちらの内心を察し、戒めるのかと思える程に、次に闇の渦から聞こえてきた声は低く険しかった。
<……本来ならば私自身も『魔王』様の為に陣頭に立って動くべきなのですが、何分監視者達が眼を光らせていますからね>
「監視者…世界の何処かに未だ存在するという竜種の王…“金光皇竜ドラゴンキング”ですか?」
<……そこまでの知識を得ましたか。いいえ、違います。隠れているだけのあの死に損ないに、我らを如何する力など残されてはいないでしょう。監視者の中で問題視すべきは…“魔呪大帝スペルエンペラー”と“聖芒天使アースゴッデス”の方です>
 以前ならば解らなかったであろう単語。つい先日同調した“破壊の剣”から得た知識によってその意味を解することが出来た。そして理解できるが故に、その名の秘めたる力に緊張を覚え声が強張る。
「“魔呪大帝”……十三賢人筆頭、大賢者ジュダ=グリムニル。そして“聖芒天使”……精霊ルビス教開祖、女教皇アナスタシア=カリクティス」
<そうです…貴方も覚えておくと良いでしょう。今の貴方では絶対に歯が立たないので、万が一この二人と相見えし時は何をおいても離脱する事を心掛けなさい。貴方を失うのは、私共にとっても大きな損失となるのですから>
 翡翠の青年の言を継ぎ、闇の先にいる声の主は重々しく頷く。そのただならぬ厳格な様子が闇を通して鋭敏に空気に伝わり、全身が震えた気がした。
「肝に銘じておきます」
 ローブの下で何かに疼く腕を押さえつけながら、深々と自分の心に刻み込むように青年は恐々と頷いていた。

<それはさておき……、貴方に一つ頼みたい事があります>
 一呼吸おいて、闇の中から聞こえてくる声色が毅然と張り詰められた。それを感じ取って、翡翠の青年もまた気を引き締め直す。
「ぼくは既にあなた方・・・・の臣です。改まって仰られる必要などありません。どうぞ御命令なさって下さい」
<いいえ。これは極めて私の個人的な事ゆえに、命令という行為は相応しくないでしょう>
「……わかりました。ぼくに出来る事ならば、何なりと」
 翡翠の青年のあくまでも頑なな調子に、闇の奥から嘆息する音が静かに漏れた。
<そう気を張らなくて結構と言っているではありませんか。……貴方には、人間達の集うとある街に赴いて簡単な細工を施して欲しいのです>
「細工……、ですか?」
<そうです。私が其方そちらに到達するには、幾許か時間が掛かってしまいますから。それまでの時間稼ぎ、という訳ですね>
「直々においでになるのですか!? あなたがわざわざ此方に来るような事が……。それにあなた程の方が来れば、監視者達の眼を惹いてしまうのは必然ではありませんか?」
 その言葉を聞き、翡翠の青年は眼を大きく見開く。染み渡るように言葉は聴覚に届き、脳で理解される事象は余りに唐突であり予想の範疇を完全に超えた事であったからだ。それだけに目の前に広がる闇の隔たりは深く厚く、狼狽する青年の表情は第三者に届く事は決して無かったが、闇の変遷そのものを知覚できる二人にとってそれは言葉通り暗黙に通ずる事。星霜よりも深遠の先を感じながら、声の主は薄く微笑みを湛えるもそれはすぐに消え去り、決然と言った。
<……詳しい事は語れませんが、それでも私にはしなければならない事が有るのです>
 真摯に綴っている闇の先の人物に自分と同じく背負った何かしらの宿命を垣間見て、それに共感を覚えた青年は決然とした意志を表情に宿し、浮かべていた動揺を揉み消した。
「ぼくは、何をすれば宜しいので?」
<これから其方に送る魔晶石クリスタルを中心として、指定する街全体を覆うように結界を敷いて欲しいのです。といっても陣の構成は既に成して魔水晶に封じてあります。貴方はただそれを設置し、起動に必要な量の魔力を供給するだけで良いのです。……消耗する魔力は膨大でしょうが、“破壊の剣”に選ばれ、着実に受け容れつつある貴方にとっては苦の有る事ではないでしょう>
「ぼくは構いませんが、一つ疑問があります。あなたが標的としている者は、果たしてその指定される地に来るのですか?」
 語られた言葉を咀嚼し、青年は静かに返す。罠を張るにも獲物が来なければ掛る筈も無し。青年の当然の疑問も、こう返される事すら予定調和であるかのように、闇から答えは刹那に返ってきた。
<……闇と光、表と裏は互いが互いの存在を補完しあう対存在。そしてそれは同時に互いを蝕み、喰らい合う性質を秘めた反存在でもあります。白と黒もまた然り…互いが相反し相補する欠けた存在であるが故に、その魂魄は陽と陰の如きに決して切り離す事叶わず、強く引かれ合います。この世界のマナの流れが混沌と秩序の鬩ぎ合いの乱世にあっても、つがいはその因果の鎖で結ばれているが故に邂逅を遂げるでしょう。…………来ます、必ず>
 早口で捲くし立てるように告げられる今はまだ理解し難い言葉。だが、闇から響く声が先程までの粛然と響いていたそれと変わって、何かしらの感情の彩が覗いているのか熱っぽいものだと青年には感じられていた。だが、深く追求する意思の無い青年は儀礼的に恭しく、深く深く頭を垂れた。
「わかりました。微力を尽くします」
<お願いしますね>
 闇の中の声がそう言い切ると、渦の中心の闇が大きく蠢いた。真闇の中に決して湧く事の無い昏く蒼い光を湛えている宝石が浮上する。それは導かれるように闇を裂いて道を作り、その上を悠々と滑り辿っては差し出していた青年の掌の上に納まった。
「では―――マージ様。結界陣を敷くその場所とは?」
<私の未来視で視た番が邂逅せし地は、己が利のみを追い求め続ける卑賤な人間達の、飽くなき欲望が渦を巻く魯鈍の地……アッサラーム>




 異世界の如き異邦の空気と清々しい闇を感じさせていた洞穴から歩み出て、翡翠の青年は深く溜息を吐いた。深く纏っているとはいえローブの隙間から入ってくる極寒の風は容赦なく身を切っていくが、寒さに辟易し思わず吐息が零れたという訳ではない。ただ単純にこの地を見渡す度に何と無しに発してしまうのだ。
 眼下には“透華の銀嶺”とも言われる、意識が思わず遠のきそうになる一面の白銀世界が広がっている。高くどこまでも続く連峰は、雲一つ無い蒼穹の空の下にあって自然の齎す絶景に美しく映る事だろう。だが現在、ここから見渡せる大空には蓋を被せたように重々しく分厚い鈍色の雲に常時覆われおり、西の方角にはその暗雲を貫かんばかりに聳え続く断崖と、その更なる上には醜悪な濁った闇を遥かな空に撒き散らし席捲している白亜の城が酷薄に足元に広がる大地を睥睨へいげいしていた。
「嘗ては優美華麗にして栄華を極めていた地も、今となっては見る影も無いね」
 極寒の風に嬲られながら、翡翠の青年は上天に座す生理的な嫌悪すら覚える城を半眼で見上げ吐き棄てていた。
「さて、こんな所に長居は無用か。……行こう」
 今まで心身ともに心地好く感じていた無垢なる闇も、この薄汚れた大気に穢される思いがして、青年は自然と不快に顔を顰めている。
 無感動に冷たい光を双眸に湛えたまま、翡翠の青年は孤高の牙城に一瞥をくれて踵を返した。風に捲くられてはだけていた闇色のフードを深く被り直し、青年は颯爽と世界を埋め尽くさんと擾乱している白魔の咆哮の中に、溶け込むように消えて行った。






 暖かで微かな湿気を含んだ風が悠然と駆け抜ける、なだらかな草原地帯を往く馬車があった。
 さして豪奢でも大きくもないが、風雨を潜る長旅に耐えられるようなに厚手の丈夫な幌が張られた荷馬車。それを栗色の毛並みが燦然と輝く陽に梳かれて美しい金色となっている、逞しい輓馬ばんばが牽いている。馬蹄が力強く草原の大地を蹴り、舞い上がる土と草の飛沫が風に攫われ後方に流れる様は、たゆまぬ前進への意志のつよさを体現していた。

 王都ロマリアを発って既に十日と数日。
 ロマリア街道に沿って北に進み半島を抜けて、すぐ東に群生する森林地帯を横断するように切り拓き築かれ、その遥か先にまで続いている世界最長の東方街道に沿って馬車を走らせている。
 人と人、街と街の間での物流を担う隊商が持つ馬車の積荷を狙う野盗や、或いは人間や馬そのものを獲物としている魔物が徘徊し、群棲しているという危険な森林地帯。東方街道において指折りに数えられるその危険地帯を順風に何事も無く通過する。そして鬱蒼と生い茂っていた視界を覆う木々の壁面の終焉、その先は一面に広がる草原地帯だった。蒼い空と翠の大地の境界である地平線が一望できる程に遠く続いた鮮やかな草海と、そこにはしる一筋の線。草叢が剥がれ顕にされた地肌は、永年によって刻まれた人の往来の確かな刻印であった。
 車輪が回る度にゴトゴトと小気味良く揺れる荷車の中。用意して貰った水や携帯食料が詰められた革袋や荷物を側に置き、空いた場所に自分達の武具や装備品を安置している。それでもまだ人が数人悠々と過ごす事が出来るのだから、この幌馬車は一頭牽きにも関わらずそれなりの大きさで高価なものである事が窺える。
 当初用意されたのは、絢爛豪華な装飾を施された客車を牽く箱馬車であったのだが、目立つその姿は盗賊や魔物の格好の的と為りうる上、この戦闘続きの物騒な旅には相応しくない。馬車が進むのは王侯貴族の道楽紀行で行く安全な街中ではなく、常に死の匂いを孕んだ危険と隣り合わせの殺伐とした世界だからだ。そんな事情で箱馬車を得る事を固辞し、代わりに急遽用意して貰ったのがこの頑健な幌馬車である。
 荷車を覆っている幌は幾重にも布を重ねた丈夫な代物で、表面に満遍なく塗られた獣脂のお陰で充分に風雨を遮る事ができる。それらの事実より、この荷台では多少の寝心地の悪さはあれど安眠する事もできるだろう。所詮は野宿に過ぎないが、風に晒されているといないとではその違いには雲泥の差がある。直接地面や集めた草の上に横たわるよりも遥かに疲労が取れるので、休息の意義をありありと誰もが実感できていた。更に、広野を往く移動速度も徒歩とは比べ物にならない上、その移動中は手綱を握る者以外はただ黙っているだけでも良いので、進行による体力の消耗も極力抑えられる。そんな便利な術を用意してくれたロマリア王に感謝を思うも、押し付けてきた厄介事への対価の報酬だと言われてしまえば、それでしっくりと納得できてしまうからどうにも手放しには喜べない。それが馬車に乗る者達の共通の感想だった。

 ただひたすらに東に駆ける馬車。その荷台には、天頂を越え西に傾き始めた太陽の光が射し入って来る。その目も開けていられない程の輝きを遮る為に後方の幌を下ろしていた。荷車の内に備えられた角灯に灯りを点してはいなかったが、幌を透かしてくる空からの陽の為にその必要性は無かった。
 御車席に座って馬の手綱を引くヒイロを除いた他の面々は、荷物の間にそれぞれが陣取って時間を過ごしていた。風の流れが良く感じる事が出来る御車席の直後ろで、双子のように良く似た容姿のミコトやアズサの二人が、何の疲労も感じさせずに楽しげに会話をしている。緊張とは程遠い空気を醸してはいるが、その傍らには常に武器を置いている事からそれがただの油断では無い事が窺える。そんな二人を真正面に捉える位置で寝具を荷物の隙間に積み重ね、それに身体を預けているソニアは気だるそうに疲労を表情に浮かべたまま、疲れに囚われない二人を羨むような眼差しで見つめていた。
 一方。荷台の最後尾で縁に肘を置き、表情無く外の遠ざかる景色に目線を漂わせているユリウスは、内に流れている和やかな空気から逃れるように幌を下ろし、それに身を包んで内の雰囲気を隔絶していた。張り詰めた空気を醸したまま常に片手は剣の柄に添えられている。その剣呑な様子は、どんな事があろうとも瞬時に対応できるであろう鋭利さを周囲に撒き散らしていた。




 天穹は遥かに高く、何の淀みも無く澄み切っていた。そんな空を悠然と駆けて行く風は、水気を多く孕んでは温かな流れとなって草海を目的も無く往く。風に靡き遠のいていく景色は変わる事はなく、何時まで経っても同じ様子しか見せない。絶対的な黒に遮られ、裡の感情の色は微塵も浮かばないユリウスの漆黒の双眸に映る景色は、ただ在るがままの世界だった。
 遮幕のように下ろされた幌の向こう側からは絶えず明朗な音が聞こえてくるが、外を流れている草草を撫でる風の囁きと規則正しい間隔で地面を蹴る車輪の音に掻き消され、声として届いて来る事はない。意味を孕まない無機的なそれを周囲の自然の音と共に聞き流し、微かな安堵の嘆息を零しながらユリウスは脳裡にただ一つの事象を思い起こしていた―――。



 つい先日の事。人の重ねてきた歩みそのものを体現する蒼古な街並みは、知性の無い単純な暴威によって何の抵抗を見せる事無く無残な瓦礫と屍肉の山と化した。
 それは、征服していた筈の魔物達に牙を剥かれた王都ロマリアでの事件……娯楽施設の催事用に鹵獲ろかくしていた魔物の叛乱はんらん。感傷という邪魔な障壁フィルターを排除して、大局的に起きた事象を在るがままに見つめなおす限り、それは庭で飼っていた犬に手を噛まれた事、と同義な事だろう。例え、その裏側に何らかの意志が蠢き、働いていようが。
 捲きあがる噴煙の中。底知れぬ恐怖に怯え、怯懦をただ外に吐き出す事しか出来ない者達。他の血を見て喜悦に酔い、己の血を見て慨嘆していた者達の思考など理解できないし、したくもない。魔物という存在の脅威を改めて知ったあの国が、これから先どのような選択をして繁栄、或いは衰退しようが自分には関係の無い事だ。自分は見ず知らずの他人の平和を守るなどと言う大層な大儀など掲げてはいないし、掲げるつもりも無い。自分はただ一つの事を繰り返し行う事しかかできないのだから。
 景色一面を染め上げる青、青、青。それは敷き詰められた白砂を覆い、散々に広がる赤い鮮血を呑み込み、濃紺の外套に貪るように重々しく侵蝕してくる異形の血潮。濃青色に全身が侵食されていくうちに自我の輪郭が不確かになり、己という意識の枷を外した身体がまるで自分の物ではないかと思える程に鮮鋭に動き、己の総てが一振りの強固な剱となったあの感覚。
 斬り断たれ、穿ち、抉られた肉体から骨や血潮を溢れ出させている無数の肉片。自然に風化して世界に還るものもあれば、圧倒的な魔力の波動で無に帰るものもある。
 積み重ねられたおどろおどろしい骸の山は呪怨のように青を遺し、その狂気の残滓で自らの全身を染め上げていると改めて思う。
(俺も魔物と大差ない存在なのかもしれないな)
 剣を振るい敵を斬る。それはくわを持ち畑を耕す事と大差無い行動だと自分は考えている。ただその方向性が破壊と創造のどちらに傾いているかの違いだけで。そして、その方向性を往々の常識という身近で普段から馴染みある認識で包み込む事で、より静穏な理解を己が内に築き上げているのかもしれない。そうだとするならば、他にとって明らかな異質である魔物を殺すという行為。それは自分にとって限りなく平静な常であり、普通なのだ。
 幼稚な詭弁に過ぎないのかもしれないが、他の眼からすれば酷く歪んだ価値観なのかもしれないが……。それが自分にとっての真理であり、それ以外は持ち得ない事も解っている故に、自分には殺ししかできない。自らの意志を通す為に、立ち塞がる他者の生命を搾取略奪する事しかできない。
 だからこそどうでもいい。最早この世の全ての他人にどう見られていようが、己に出来る事を確かに把握している以上、進むべき路を見誤る事は決して無い。揺らぐだけの余裕は無い。そう、無い筈だ。
(……だが)
 あの青き血海の中で相間見えたである魔族達。巨漢の戦士と緋鎧の騎士、そしてあの闇のローブを纏っていた者……。
 他の二人とは醸していた力が明らかに一線を画していた魔族の、移動魔法の発動呪文を唱えた時に発せられたあの声。布か何かに口元を覆われて遮られていた為かはっきりと捉える事は出来なかったが、空気を打って響き耳朶に届いたそれは、何処かで聞いた事があるような懐かしささえ感じられた。
 そしてあの時。必殺を確信して放った会心の一撃。それを微動だにする事無く受け止め、こともあろうか弾き返した深い闇の壁。柄を通して掌に伝わってきた痺れを齎す感触は、確かに硬質な金属に阻まれたもの。それが槍との激突の際に生じた衝撃で微かに闇が霧散し、その奥に数基の骸骨が絡み合い、支え合っている禍々しい彫像レリーフのようなものが視界に飛び込んできた気がしていた。
(あの闇の奥にあったものは……何だ?)
 深い闇に隠されていた物が何なのかはっきりとは思い出す事が出来ないが、あれの放っていた強烈な存在感と滲み出ていた気品は確かに自分の記憶の深奥を刺激する。それは同時に眼が眩みそうになる程に激しい憎悪を何故か自分の裡に呼び起こしていた。
(何だった? 脳裡を掠めるこのイメージは……)
 自分の中に大きなしこりを残した二つの要素。それを元に飽くなき追想を進め、たどたどしくではあるが答えを覆っている霧から脱そうと試みる。
 そして真っ暗な記憶の深遠を手探りで辿り、その先で指先が何かに掠ったと思った刹那――。
(あれは……まさかっ――ッッ!?)
 頭の中で、或いは意識の中でブチリと何かが切れる音を感じた。そして時を置かずして、そればかりか脳神経をつんざくような激しい頭痛と、鮮烈で断続的に迫る砂嵐の如き灰暗色の幻光に視界が灼かれた。続いて、視界だけでなく意識までもが眩んで白一面になった中で、何処からか懐かしい声が子守歌のように響いてきた気がした。



 はっとしてユリウスは弾かれたように顔を上げる。暗い思惟の海から半ば放り出されるように還った視界には、変わらない地平が微かに朱を帯び始めていた。
 眼を見張って空を仰ぐと、遥かな蒼穹に浮かぶ太陽の位置が幾許か動いていた。その様子から時間が経つのを忘れる程の深い思考だったとさとる。深く思案に耽っていた所為で周囲への注意が散漫に為ってしまった事に短く舌打ちし、目元を手で覆ったままユリウスは大きく溜息を吐いた。
 不意に生じた激痛と何かに思考を狂渦の如きに掻き混ぜられて、繋がりつつあった記憶の片鱗は再び断裂される。浮上しかけていた答えも再び闇の深底にへと埋没していった。
 そんな自分に起こった不可解な現象に苛立ちを覚え、ユリウスは眉間の皺を深める。
(……考えたくない、という事なのか)
 自分でも理解することの出来ない気分に戸惑いながら、裡に生じた不快な靄から脱するようにユリウスは手を目元から額、そして頭上へと移し髪を掻き上げながら空を見つめた。
 空一面を支配する蒼も徐々に朱に蔭り始めていた。このまま時が流れればより深く、より昏くなっていく空を別つ昼と夜の狭間。それはまるで白妙の布地に染み込む赤青の血潮のようであり、意識が無意識の闇に堕していく時のまどろみのようでもある。吹き消える蝋燭の灯は吹かれ消える刹那に最も眩く輝き、呆気なく潰える。それと同じように人間も、意識と無意識の波間を最も忙しなく蕩揺う時にこそ、激しく舞い上がる波飛沫の如きに様々な事象の断片を散らし、より鮮明な記憶を構築するものなのかもしれない。
 だからこそ、今はもう何も考えたくないというのに色々な事が脳裡に浮かんでは、深く爪痕を残していくのだろうか。
「……どうでもいい事だな」
 黄昏に向かう空を往く雲を視線で追いながら、微かに疼く頭痛に眼を細めてユリウスは自嘲的にポツリと呟く。
 そして、裡から込み上げてきた忌むべき情緒的な思考を早々に破棄する為に、革の手袋を脱いだ手で髪を乱雑に掻き回した。微かに蒸れていた手と艶やかに豊かな黒髪に覆われていた頭皮に薄っすらと滲んでいた汗が、急に通りが良くなった風の櫛に梳かれ攫われて消える。その不意に生じた爽快さに軽い眩暈めまいを覚えた。
 微かに揺らぐ世界に身を委ねたままユリウスは深く深く吐息を零す。すると、倦怠感に紛れて全身を縛り付けていた粘着質な濁りの渦から脱したような気がして、意識が肉体から分たれたかのような解放感がこの上なく心地良かった。




 あれから暫くの間、ユリウスは何も考えずにただ茫然と外を眺めていた。
 悠然と広がる草原の風は夜の冷たさを孕み、夕焼けに塗り替えられゆく空の陰から月と星星がこっそりと顔を出し始めていた。だが、その輝きは鮮やかに広がる金朱の前ではどこまでも遠く、儚い。
(?)
 ふと、その一枚絵のような景色の中の一点が動いた気がした。
 金色の草原と朱の空に、それを引き裂く場違いな狼煙が立ち昇っているようだった。その明らかな異質を怪訝に感じたユリウスは目を細め、遠くのそれを注視する。
 空の遥か端の方では未だ蒼が茜に蝕まれつつも名残惜しく残っていた。もう少しすれば完全にこの空は黄昏色に支配されるだろう。やがてその点が肉眼ではっきりと目視、識別できる位置までに近付いて来ると、漸く理解する事ができた。
 それは悠然とした背景にあって、慌しい事この上ない気風を撒き散らして猛然と駆けてくる幾頭もの馬、それに牽かれている数台の馬車の姿。立ち昇っているように見えていた煙は、必死に地面を蹴り上げて走る馬達、車輪の群れが轟然と立てた土煙だった。だが、その煙を舞い上がらせているのは狂奔する荷馬車の群れだけではない。しっかりとその背後に、煩わしい気色を撒き散らす異形の魔物の姿があった。
 遠目からでもはっきりとわかる、物資運搬用として相応に頑丈な造りと大きさの幌馬車。数台にも及び連結されたそれすらをも覆うように背後から迫る巨体の影は、以前王都ロマリアの闘技場でも戦った事のある巨体と豪腕を有する大猿の魔物…暴れ猿。そしてその数は、数台の馬車に誂えたように凌駕して群れを為し疾走してくる。
 を前にして自然と鋭さを増した意識と黒の眼光で周囲を見渡す。黄昏の草原に、所々に生えている灌木かんぼくや茂みが点々と在る茂み……。
(野盗の類ではないな。となると、ただ本能による破壊衝動のままに動いている野のものか)
 既にこれまでの人生の中で人の手と意志で御される魔物の姿を見てきた為、野盗や何かが魔物を巧みに煽動し、魔物が暴れまわっている隙に積荷を強奪するという可能性を考えたが、周囲は見晴らしの良い草原。その懸念は杞憂に終わった事を理解してユリウスは刹那の瞑目に浸るが、すぐ開眼し、傍に立て掛けてあった鈍色の槍を背負い立ち上がる。
 間を置かずして、初めから在ったかのようにごく自然に音無く抜き放たれた刀身は、暮れの黄昏を反して爛々と、終焉の輝きを放っていた。





 小気味よく揺れる荷台の中。内で流れる楽しげな会話に弾みがついていた時。ふと馬車の中を影が躍った。
 ミコトとアズサ、そしてソニアも何事かと眼を丸くして陽の射る方角である後方を見てみると、そこにはいつの間にか立ち上がっていたユリウスの影が、下ろされていた幌に空ろに映っていた。目映く透ける幌の明るさに反してその背、その影は見る者に暗澹を誘うほどに深い。そして分厚い布地の幌を越えて伝わってくるピリピリと肌に痛い、呼吸をするのにも苦痛を伴うような緊張感に包まれた空気。これは純然な殺気がユリウスから周囲にへと放たれた為だった。
 誰もが息を呑んで不可視の圧力を発する幌を見上げていると、その透けた緞帳の向こうから一層に眩く輝く何かが閃いた。
 それぞれがその眩さに眼を細めるも、刹那の瞬きの後、すぐに正体は知らしめられる。ユリウスの抜き放った鋼鉄の剣が夕陽を反して金鮮色の光を発し、流れていたのだ。
 幌の内側にいた誰もがその光の余韻から脱そうとしている間に、影が動いた。
 幌に映っていた影が突如として掻き消える…その影の主であるユリウスが走っている馬車から高々と跳躍した。
「ちょっ……!?」
 ミコトが慌てて制止の声を上げるも、それは最後まで続かない。既に影をも映していない幌が、空しく外からの風に小刻みに揺れているだけ。横にいたアズサが颯爽と剣を手に立ち上がり幌を捲りあげると、ユリウスの、その奇怪な行動の全てを知る事となった。
 黄金の草海と、遥か地平線の上に浮かぶ太陽の姿。その世界の断末魔を想起させる哀しげな色彩の中で、無事に着地して立ち上がっていたユリウスと、その先には数頭の馬車。そしてさらに招かれざる来訪者である魔物の群れが、茜に背を押されて波濤の如く差し迫って来ていた。
「魔物じゃ!」
「えっ!?」
 鋭く叫んだアズサに、狼狽うろたえるソニアが声を震わせる。装着した鉄の爪の柄を握り締めながら、緊迫した表情のミコトが御車席を振り向いた。
「ヒイロ! 馬車止めるんだ!」
「どうかしたのかい?」
 前方に集中していたヒイロは、仲間の逼迫ひっぱくし引き締まった声にただならぬ何かを感じ、小さく首だけを振り向かせる。その琥珀の双眸を受けてミコトは、焦りを孕んだ甲高い声調で言った。
「ユリウスが飛び降りたっ!!」
「…………は?」
 言われた言葉を咀嚼して、その意味を解したヒイロは意表を突かれたのか眼を丸くして間の抜けた声を上げるのが精一杯だった。
 状況についていけずに唖然と口元が開きっぱなしのヒイロの表情を見て、ミコトは自分が言葉足らずだった事に気付くも募った焦りは余談さえ許さない。焦燥に駆られながらミコトは荷台の後方で幌を捲り上げているソニアとアズサの間、その先の景色を指差した。
「後ろから魔物がきている。あれは…隊商が襲われているみたいだ」
「……わかった」
 ミコトの真摯な双眸と示された先の現実に、漸く正常を取り戻したヒイロは手綱を繰って恐怖に駆られないように馬体を宥める。
 すると徐々に馬車の速度が収まり、やがて停止するのを感じると、既に武器を携えていた身軽なミコトやアズサは颯爽と跳び出し、眼前で繰り広げられている戦場に向けて駆け出した。





 ひとつ……。ふたつ……。
 暮れの冷えた風に乗って夕焼けに染まる黄昏の草原に青い花弁が舞い落ちる。
 豊かに生い茂る草叢の上に地鳴りのような低く鈍い音を周囲に放ちながら、暴れ猿は仰向けに倒れ伏した。大地に沈んだ魔物の数は十には満たなかったが、それでも一匹や二匹ではない。だが今、この周囲の草原に立っている魔物はただの一匹も存在していなかった。
 もう決して動く事のない魔物達。どの骸も首と胴を切り断たれ、急所である左胸に風穴が開き、その身を焼き焦がされている。八方に花弁のように開き倒れた魔物の群れの中心に、彼の者達に凄絶にして純然な死を与えた黒き剱は立ちつくしていた。足元に広がる凄惨な場面に反して、風に悠然と靡いているユリウスの漆黒の髪と濃紺の外套は優雅に黄金の光に煌いている。その光の面紗ヴェールに覆われている中で、右手で眩く輝いている刀身から、光を弾いていた青が流星の如く翠の草原に流れ落ちた。

 隊商と思しき馬車の群れは、突如遥か前を行っていた見知らぬ馬車から躍り出て、草原に一人ポツンと佇んで殺気を放つユリウスの姿を見止め、それに慄き避けるように脇に逸れていた。故に戦闘が始まってからは少し離れた場所で足を止め、こちらの様子を恐る恐る伺っているようだった。
 ユリウスが苦難無く魔物の群れを全滅させた時。後方で停止した馬車から自分と同じように飛び降りていたミコトとアズサが、小走りに駆け寄って来る。間近で戦闘の終結を各々の目で確認すると、彼女達は安堵或いは物足りなさそうに嘆息して武器を収めていた。
「無事なようじゃな……って、お主に限っては心配は無用か」
「走っている馬車からいきなり飛び降りるなんて、お前は無茶しすぎだ!」
 顔の造りも髪や眸の色、その声色も良く似ている二人。片や呆れたように肩を竦め、片や憤慨しているように肩を怒らせる。そんな二人の裡にどのような思惑が秘められているかなど知る由も無く、また詮索する意思を持たないユリウスは、剣に付着した血糊を振り払い鞘に収める。そしてそれぞれに物言いたげに見つめてくる二人に、淡々と言った。
「別に問題はない。故にそう、がならないで貰おうか」
 いつものように抑揚無く返す。すると眼前の二人は何故か諦念に小さく頭を振りながら視線を逸らし、大きく肩を落として嘆息していた。一見すると二人の仕草は失礼に値するのかもしれない。だがそれを感じる事の無いユリウスはただ無表情に二人を一瞥し、その背後から回頭してゆっくりと近付いてくる馬車を睥睨する。夕の風に火照った身体とたてがみが嬲られて気持ち良さそうに嘶いている馬と、その手綱を巧みに繰っているヒイロの姿が見止められた。そしてその後ろで、ソニアは幌の内側から心配げに外を覗き込むように顔を出している。彼女の表情は疲労か暑さにでもやられたのか、些か生彩を欠いているようだった。
 特に意味も無く、幌の陰に染められて暗く靡いている浅葱の髪をユリウスが無感情に眺めているとソニアの紅い双眸と眼が重なった。すると同じく視線が絡んだ事に気が付いたソニアは逃れるように俯く。その酷く慌てた様子に何事かと怪訝に思いユリウスは眼を細めるも、それを受け取るソニアは顔を上げる様子も無く下を向いたまま。互いに届く事の無いまま虚空を彷徨う視線の中間にいたヒイロだけが、そこに何かを察したのか困ったように静かな苦笑を浮かべていた。




 静寂が流れた。
 それがどれ位の時だったかは定かではないが、ただ燦然と草原を朱に染め上げていく夕日の揺るがなさは時間の感覚を虚ろにさせる。
 陽に照らされてそれぞれがそれぞれの影を大草原に躍らせている。だがそれでも、実際にそこを動く者は無い。夥しい気風を放つ魔物の骸はすでに風化して、悠然と流れる風に攫われ消えている。
 俯く者、仰ぐ者。案ずる者、感ずる者。そして無なる者達の間を支配する空気は沈黙に彩られ……。
 静かに広がる風の囁きが、この上なく空々しく往々の耳朶を撫で付けていた。




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