――――第三章
      第九話 相容れぬ器







 あらゆる生命を分け隔てなくいだき育む、温床たる世界。
 世界はいつの時代でも、どんな時代でも常に等しく生命に対して在った。
 生命が織り成すあらゆる事象に対して、父の如き寛大さと母の如き寛容さをもって、文字通り泰山に世界は生命に対して在り続けていた。
 だが生命が、生命に対しての在り方は異なる。数多の生命は、己の核となる自我をもって他我を認識する。そしてそこに己との違いを見出しては、手を取り合って共生し、不毛な火水の争いを繰り広げてきた。
 世界に数多在る種族。それらが他種族との接触をもち、たもとを分つ事の原因となるのもまた自然の摂理。

 その理の環の中に人間と、妖精種エルフ族もまた例外無くとらわれていた。




 天を覆う緑の隙間から覗く空が、朱に変わり始めていた。
 蒼穹の空をしっとりと静かに侵食していく朱によって、大空の境界は虚ろになる。その黄昏に夕暮れが近い事を誰もが理解していた。
 決して日当たりが良いとは言えない森の中、後数刻もすれば深い森林は闇の帳に呑み込まれるのも時間の問題。故に、自然と進む足取りは速くなる。
 冷たくなり始めた空気が水気を増して、霧に姿を変えつつある。森の先の、景色が薄っすらと霞み始めていたのを見止め、そろそろ野営の準備に入る方が妥当であろうとユリウスは考える。

――その時、空気が揺れるのを感じた。

 耳の奥の鼓膜を圧迫する空気が、微かな違和感を伴って強くなる。小さく耳鳴りさえ感じるそれは、明らかな不自然さに自分の中で警鐘を掻き鳴らす。
「……これは」
 空気が変わったという表現があるが、恐らくこういうのを言うのだろう、とユリウスは呟きながら思う。
 最後尾を歩いていたユリウスの小さな呟きを拾ったのは、すぐ前を歩くヒイロではなく、最も離れた隊列の最前を歩いていたミリアだった。
「ええ。……面倒な事になったわね」
「どうしたの?」
 突然立ち止まり、振り向いてきたミリアに怪訝そうにしながら、後ろからついていたソニアは首を傾げる。
 ミリアが離れていたユリウスの呟きを聞きとめた聴力は、エルフの血がなせるわざの為なのか。ソニアにはそれが適わなかった為、唐突に足を止め深刻そうな顔をしている様子は、不安を心に抱くには充分過ぎた。
「エルフの里は、二つの結界によって護られているの。今、その片方の結界を侵犯してしまったようね」
「と言う事は、近くに里があるって事か……」
 言いながらヒイロは視線を木々の中に走らせる。まだここは完全な暗闇に落ちていない。朱の光の帯がやんわりと広がり降りている森の中、集落があるのならば微かな変化が見れる筈だと思っていた。だが、あるのはただ静かに佇む木々の幹。姿どころか音すらも聞こえては来なかった。
「……でもどこに?」
「目には見えないわよ」
「へ?」
 思わず言葉を零すヒイロに、ミリアは実に淡々と答えた。そのあまりの返事の奇怪さから、ヒイロは間の抜けた声を上げてしまう。
「里を覆う結界は、その内外の存在次元をずらす事で完全・・に里と世界を隔絶しているの。村の中から出てくるならまだしも、外から村へ介入する事はまず不可能ね」
(特種魔法レムオル……か。確かにエルフならばそれも可能ではあるか)

 汎律級ウルガトゥスにおいてレムオルとは透明化魔法である。これは一定時間、肉体や物質などを透明にし、他者の視覚から隠蔽いんぺいする作用をもつ。欠点としてはこの魔法が齎す隠蔽効果はあくまでも視覚的なものに対してのみで、音や気配など、聴覚、触覚……それ以外の感覚での探知には対応していない。その為、レムオルを使って透明になった人間が街中を歩いたとしたら、姿形こそ見えないが足音はするという、何とも怪奇で喜劇的な事になりうるのだ。
 ただこの欠点も、汎律級以上の階級レベルになると解消されていき、終には固有の存在次元を完全にこの世界から乖離かいりさせる次元移相魔法となる。ただし、これはその存在の消滅を意味するのではなく、そこに在るものが完全に認識できなくなるという事であり、世界には存在している事に変わりは無い。つまり、世界全体に起きている異変からの影響は受けるという事である。

 そんな二人のやり取りを他人事のように聞き流しながら、ユリウスはそれを自己完結する。
 意識を外に戻すと、ヒイロが不思議そうにミリアに尋ねていた。
「じゃあ、侵犯したって? 里を隠蔽…というからには、それは里の内側に作用する結界であって、こうやって侵犯したって事は、外側に対して作用しているんだろう?」
 肯定にミリアは一つ頷く。
「一つは里を世界から隔絶し隠蔽するもの。そしてもう一つは――」
『――我等が清浄なる領域アルヘイムを侵そうとする不浄な輩の存在を、知らせる為のものだ』
 凛然とした精悍ささえ感じる麗かな女性の声が、ミリアの言葉を掻き消すように響いた。
 その、こちらの理解を越えて内側に浸透する様は明らかに人のそれではない。森の木々がそれに平伏したかのように息を潜め、木の葉のざわめきすら今は止んでいた。
「この声……」
 記憶の中から湧き出してくる感情。言いながらミリアは実に不愉快そうに顔を歪める。
「……あなたはっ!」
 不快と苦渋を隠す事無く顔をしかめたまま、ミリアは声の発せられた方向を仰いだ。全身から針のように研ぎ澄まされた敵意を剥き出しにして、今にも魔法を発現しそうな程に魔力エーテルを収束している。その荒々しさが鼓動となって空気を更に張り詰めさせていくのを、誰もが肌で感じていた。
 ミリアの視線の先には樹齢数百年とも思しき大木。先程までは誰もいなかった筈のその太い枝には、夕陽の鮮烈な逆光に霞む中に人影…尖った耳殻から判断するにエルフの女性が立っていた。長くサラサラと背中に流された鮮緑色の長髪が夕暮れ時の風に躍っている。その柳のように風に穏やかに靡き、光の波を断続的に遮る様は瞼の裏にこの情景を強く焼き付ける。人間の美とは一線を画したその面は、氷のように無表情だった。顔を覆う影から垣間見える群青の眼は何処までも澄み切り、徹底してこちらを見下していた。
「不快な気配を感じて来てみれば、貴様は……“異端者”ミリア=エルヴィラか!」
 樹上のエルフは保っていた無表情を崩し、明らかな嫌悪に顔を歪め、見下ろす視線に力を篭める。
「……卑賤ひせん半端者ハーフエルフが。まだ無様に生き恥を晒さらしていたのかっ!」
「ハッ! かつての王族護衛役も、今じゃ見回り役したっぱね……。見事に落ちる所まで落ちたじゃない、リーヴェ!!」
 先制して振り下ろされた罵倒に、吐き捨てるように鼻に力を込め、ミリアはその名を呼び返した。
 リーヴェと呼ばれたエルフの女性は、返ってきた言葉を受けて眉間に皺を寄せ、眼を細める。端正な肌に深く刻まれたそれが、この女性の心内での憤りを体現していた。
 それに歯噛みし、己を戒める為に一つきつく瞑目してリーヴェは開眼する。
 そして異端者ミリアの周りで呆気にとられて、ただ成り行きを見守っている『人間達』を捉える。一人一人の姿を睨みつけるように半眼で一瞥した後、鷹揚に肩を揺らして哄笑こうしょうし始めた。
「そこにいるのは……、人間か! ふふ、ははは……そうか、貴様は人間と共にいるのか。これはいい!」
「…………」
「下賤な人間と、半端なハーフエルフ。薄汚い貴様がけがれと飢渇きかつを舐めあう相手としては、これ以上無い程に似合いの相手だな、ミリア!」
 ひときしり嘲笑った後、毅然に表情を戻すリーヴェ。その群青の双眸は、明らかな敵意の刃をミリアと周囲に突き付けていた。
「……ハッ! あなたも相変わらずの言葉しか吐けなくて安心したわ。まぁ、爆弾岩のように凝り固まったあなたの頭程度じゃ、それ以外思いつきもしないでしょうけどね!」
 浴びせられる罵言の雨に打たれながら、まるでそれを気にする様子も無いミリアは、相手の神経を逆撫でするように嘲りながら肩を竦めた。
「何故貴様がここにいる。アン様までその穢れた思念に汚染しておきながら、何故貴様のような奴が、のうのうとこの地を歩いている!」
「あなたを納得させる必要なんて無いわ。全く……、あなたのように愚直で迷妄な奴等しかいないから、アンは自分でこんな里を捨てたのよ!」
 リーヴェの群青の眸に、悲哀と憎悪の光が宿る。
「違うっ! アン様は騙されたのだ。優しすぎるが故に、貴様のような半端者を信じるくらいに人が良すぎたから……。そうだ、たぶらかされたのだ。よりにもよって人間などにな!」
 ミリアの藍青の眸に、憤怨と焦慮の闇が燈る。
「! アンを侮辱するなっ!」
「惑わした貴様が何を言うっ! 卑賤なハーフエルフなどお側においた為に……、貴様のような異端者などに気を許したが為にアン様は、アン様はっ……!!」
 互いに相容れない意志は、その身を鋭く剣のように固めて相手を貫く。ただ二人に共通しているのは、「アン」という個人を想い重んじての事だった。
 濃密な思念の波は、周囲の空気を鈍重にして渦を巻く。冷たくなり始めた日没の空気の温度を更に下げていく。
「目障りな……。貴様にはこの地に入る資格も、場所も無い。あの時・・・のように無様に逃げ失せるがいい……、殺されたくなければな」
「あなた如き下っ端にそれが出来て? 片腹痛いわ!」
 リーヴェは見る間にその端正な顔を不快に歪め、手にしている木の長弓に矢をつがえる。矢を引き絞り、狙いを地に立つミリアの眉間に定めた。
 対するミリアは片手に携えていた魔導器“眠りの杖”の先端の水晶を、木の上のリーヴェに向けて翳す。既に収束されている魔力は、顕れる為にただミリアの一言を待っている。
「愚弄するな、半端者!」
「黙りなさい、頑固者!」
 互いに互いを相容れぬ“敵”として認め、一触即発の緊迫した空気が朱一面に広がっている森の中を支配した。




「…………えーっと」
 唐突に始まった殺意剥き出しの応酬に、困ったようにヒイロ。現状の認識をする限り二人は……。
「知り合い…のようね?」
 ソニアが呟いた。声色が揺れている事から、狼狽している様子が良く窺える。
「とりあえず、仲は最悪なのはわかるけど……」
 二人が出している殺気に固唾を呑み、頬を強張らせながらミコトは呟く事しか出来ない。
「ミリア……」
 今にも泣き出しそうな顔のノエルの頭を、安心させるようにミコトはそっと撫でてやった……。




「おい」
 周りが狼狽している中、ユリウスはこの凍るような殺気を微塵も介せずに、静かにミリアに歩み寄る。
「何よっ!」
「何だ、人間風情が邪魔をするなっ!」
 途端に向けられる二つの矛先も、ユリウスを素通りして周囲の木々に消えてゆく。極めて冷静に、感情の通っていないような漆黒の双眸は、ただ告げる。
「お前はエルフの里に行くつもりは無いんだろう?」
「当たり前じゃない!」
「ならば、こんな所で油を売っている暇は無い」
 あまりに淡々としたユリウスの物言いが、激憤していたミリアの思考に冷静さを取り戻すきっかけとなった。
 掲げた腕と杖を下ろし、ミリアは踵を返す。振り向きざまに空々しく肩を竦め、言った。
「! それもそうね。あんな雑魚に付き合っている時間が惜しいわね」
 鼻で笑いながらミリアは手で藍色の髪を梳いて、背中に流した。
「愚弄するなと言っているっ!」
 リーヴェは頬を紅潮させ声を張り上げながら、つがえていた矢を一気に引き絞り、放った。空気を捲いて引き裂きながら、それは後ろを向いたミリアの頸部けいぶに一直線に伸びていき――。
「っ!」
 ユリウスの翳かざした鱗の盾に阻まれ、突き刺さった。
「……邪魔をするな、人間が!」
 眼を細め、ユリウスを見下ろすリーヴェの周囲に魔力が収束され始めた。牽制けんせいの為か、攻撃の為か魔法を使う気なのだろう。矢をつがえていた手を、狙いとしたユリウスへゆっくりと向ける。人以上の圧倒的な魔力の鼓動。周囲の木々のざわめきは、それによるいななきだった。
 その眼前の脅威に対しても、ユリウスは決して取り乱す事はしなかった。
 左腕に受けた衝撃は疼くような痺れをもたらしてはいたが、気にする程の問題ではない。小さく掌を握っては開きながら、ユリウスは樹上にその双眸を向ける。
「別にこちらには、お前等の領域に侵入する意志は無い。このまま素通りするつもりだ。退いては貰えないか?」
「下賎な輩の言葉を信じろと?」
「信じられないのなら、こちらがここを去るまで、そこで見張っていれば良い」
「…………」
 言葉通り信じられないのか、未だ怪訝な眼差しでこちらの動きを探るリーヴェ。それにユリウスは大きく溜息を吐いて、肩を竦めた。
「それとも何だ? 単に戦いを欲しているだけか?」
 刹那、リーヴェは瞠目したが、やがて低く唸るように冷たい口調で言う。
「……貴様等のように野蛮な人間と一緒にしないで貰おうか」
「異質に対して敵愾心てきがいしんを剥き出しにしている時点で、やっている事は人と大して変わらないがな」
「!!」
 愕然とリーヴェが眼を大きく見開いた事を見止め、ユリウスは踵を返した。

 元々大きな眼をさらに見開いて、庇われた形のまま立ち尽くしていたミリアは、二人のやり取りが終った事にハッとなって慌てて歩を進める。不安そうに自分を見つめていたノエルを振り向いて、すぐに視線を背けた。
「……行くわよ、ノエル」
「あ、ミリア!!」
 今、自分はどんな顔をしているのか判らない。だからこんな顔、ノエルにだけは見られたくは無かった。そんな胸中が自然と歩みを速め、それに置いて行かれまいとパタパタとついて行くノエル。
 ユリウス達も背後に気を配りつつ、それに泰然と続いていった。




 木の上で、人間よりも遥かに遠くを見通せる視力で侵入者の背を見張りながら、リーヴェは胸中で反芻する。
(……ノエル?)
 異端者ミリアや人間の事で視界が占められていた為に気付かなかったが、確かにもう一人、自分達に近い存在の感覚がした。あの小さな少年の後姿と、あの異端者が呼んだ名が何故か耳に残っていた。






 あれから程なくして日は落ちた。
 それ以上の進行は無理だと判断した為、そこで野営をする事となった。
 目的地である洞窟は、夜に入るのは自殺行為だという現地を知るミリアの言もあって、特に誰も異を唱える事はしなかった。

 ノアニール村で、村長アルメイダから譲り受けた携帯食を摂り、焚き火を囲んでいる時だった。
「……あなたたちは、どうしてハーフエルフが嫌悪されるかわかる?」
 パチパチとくすぶる焚き火の暖色を、冷たい藍青らんせい色の眸に映しながらミリアは誰に向けるでもなく呟いた。両膝を抱え、その上を覆う臙脂えんじ色のローブは爛々と輝いてはいるが、纏う雰囲気の静謐さから彼女の姿がとても小さく見えた。
「え?」
 それに反応し声をあげるソニア。つられて他の仲間達も顔を上げた。
 ハーフエルフという単語に、否応無しに先程のリーヴェと呼ばれていたエルフが思い出される。そこにいただけで胸の内に恐慌を覚える程に、研ぎ澄まされた敵意の応酬。思い出す度に、暗澹とした気分になってくるのをソニアは感じていた。
 唯一人を除いた…それぞれの視線が集まるのを感じてミリアは続けた。
「エルフには一種の選民思想が根付いている……。自分達は清廉で高潔な種であるとおごり、誇っているの。……リーヴェを見たでしょう? あの女は、気に入らないけど普通のエルフという言葉が体現する存在そのものね」
 まるで汚物でも見るかのように自分を見下していた眼を思い出して、ミリアは不快そうに大きく舌打ちをする。
「ライトエルフとダークエルフ。その属性の差異はあっても元は同一種。両属間での接触は断たれているとはいえ、秩序を保ちつつ距離をとり、互いの存在を認識して生きる事が両属の長の盟約によって遥か昔に定められた。それは今も続いているわ。だけどハーフエルフはその盟約の中には……いいえ、彼等の認識の中にはハーフエルフという存在は無かった」
「どうして、そんな……」
「これは妖精種全体としても言える事だけど、妖精種は本来ならば能力的な意味での成長は無いの。生まれてきた時既にその個の持つべき力は定められている。やがて時間を経る事で、器である身体が定められた力に適応していく。それは力の成長では無く隷属といった方がいいわね。だけど、人間とエルフのハーフは両方の特性を併せ持つ。長久の寿命に合わせて能力も際限無く成長するの」
「……つまり、エルフ両属をも凌駕してしまうと言う事だね」
 語られる事柄に固唾を飲みながらヒイロは頷く。
「誇りや矜持が傷つけられる事と、自分達をも凌駕する力への恐れから、両エルフはハーフエルフを迫害し同族の中から追いやるという事か。その辺りは人間と何ら変わらないな。矜持に縋りつき、異質の力を恐れるあまり、それらを害する事でしか安寧に浸る事ができない、か。馬鹿馬鹿しい……」
 淡々としてはいるが、どこか忌々しそうに吐き棄てたユリウス。その表情は相変わらず無かったが、声色は微かな苛立ちの波を孕んでいるように響いていた。
「彼等はどうしたの? 人の方に……」
 ソニアの言を、ミリアは鼻に力を込めた強い口調で遮った。
「まさか! 我が強すぎる人間の中に、彼等の帰る場所なんて在る訳がなかったわ。優れた能力をそねみ、長久の寿命をねたみ、やがてそれは留まる事を知らず、憎悪と狂妄に変わっていった……。なまじ自分達と同じ血が半分流れているという事実が、人間達の反感と嫉妬を買う要因になったのね。完全に異種族ならば諦めもついたでしょうに……」
「姿を隠す事はできなかったのか? その…容姿がエルフに近かったり、人に近かったり個人差だってあったんだろう? それなら自分がハーフエルフだって事を隠してどちらかに生きる事だって……」
「無理よ。エルフならば感覚でハーフエルフを選別できるし、人間の集落で暮らしても、長い間容姿に変化が無ければ当然怪しまれるでしょう?」
「…………」
 言い切るミリアに、返したミコトは完全に言葉をなくしてしまった。
「どちらにも、ハーフエルフ達の居場所など無かった……」
 フワリと風が吹き抜けて、囲んでいた焚き火から火の粉が舞い上がって、消えた。





「それで……彼等はどうしたんだ?」
 酷く静かな声で、ミコト。普段の快活さも溌剌さも影を潜めた、深刻な声色だった。
「詳しい話は私も知らないけど……。今から千五百年程前、虐げられていたハーフエルフ達を纏め上げた一人のハーフエルフがいたの」
「せ、千五百……?」
「……壮大な話だなぁ」
 語られた年月に思わず声が裏返る。言葉でしか理解できない、気の遠くなるような連鎖の末の出来事。想像する事すら容易ではない。ソニアはそう感じずにはいられなかった。
 横で感嘆を零しているヒイロと同じように、多分自分は呆気に取られた表情をしているのだろう。
 それを見止め、呆れたように半眼になるミリア。
「それは人間の感覚ね。エルフにとって千五百年なんて、そう長い間ではないわ。……は自らを王として、ハーフエルフ達を束ね、ライトエルフ族にその存在を認めさせる事を理想として立ち上がった。だけど、時のライトエルフ王は認めず、それは叶わなかった」
「……」
「その際に起きたいさかいでハーフエルフの力と性質に危惧を覚えたエルフ族は、彼等を粛清したそうよ。一人残らず、ね……」
「そんな……」
「人間にそれが知られているかなんて判らないけど、妖精の中で語られているハーフエルフ大粛清は、圧倒的な数の差で殆ど一方的な虐殺だったそうよ……。今もその遺憾は根強くエルフに残っている。それは、あの女の様子からでも判ったでしょう?」
 淡々と語られるそれに、言葉を繋ぐ事が出来ない。弱弱しく声を零すのがソニアには精一杯だった。

「…………じゃあ、ハーフエルフの僕は居場所なんて」
 膝を抱えて小さく震え俯くノエル。弱弱しい声色は、小さいその姿をより小さく儚く見せた。
「ノエル、馬鹿な事を言わないの。あなたはあなたでしょう?」
「……ミリア」
 どこか強い口調で、それでいて慈愛の篭められた言葉に、ノエルは顔を上げる。
「アンとスルーア、アルメイダ。そして勿論私もあなたを愛しているわ。それに、今まで住んでいた村を忘れた訳じゃないでしょう?」
「ムオル……、うん」
「そこであなたは寂しい思いをした?」
「……ううん。ジュダ様も、アニエス姉さんも良くしてくれた。ポポタ兄さんも、友達だってたくさんいるよ」
 次々と判らない固有名詞が紡がれる。恐らく彼等が今まで暮らす中で接してきた人達なのだろう。『ジュダ』という名にどこか記憶の中で引っかかりを起こしていたが、感傷がそれを遮ってしまい答えは出ない。それにソニアは内心で嘆息する。
 目線の先では、ミリアが隣で小さくなっているノエルの頭を、優しくゆっくりと撫でていた。
「そうでしょう。私が今言ったのは、所詮は過去の歴史。そんなものに今、あなたが気を病む必要なんて無いわ」
「でも……」
 燻る火に視線を落とし、目尻に涙すら湛えているノエルを見て、胸が締め付けられそうになる。何かを言って励ましてやるべきなのだが、どんな言葉も見つける事が出来ない。その事に苛立ちと情けなさが込み上げて来るのをソニアは自覚して、知らずに下唇を噛み締めていた。
 自己嫌悪に陥りそうになっていた時、抑揚の無い声が単調に響いた。
「自分の両親がどのような存在であろうが、どんな業を背負っていようが、その間に生まれた者には何の関係の無い事だ。それを判らずに言ってくる者がいるのならば、そいつは余程の視野狭窄きょうさくか、己の見識の狭さを暴露しているようなものだ」
「ユリウス……」
 水を打たれたように眼を見開いて、ソニアはユリウスを見つめる。
「無意味なものだ。気にするに値しない」
「ユリウスさん……。……ありがとうございます」
(今のは……、泣きそうになっていたノエル君を励ましたのかな……?)
 仮面のように変わらない面からは、その言葉が信じられない。既に伏せられている双眸からは感情が見えてこなかった。ただ焚き火の暖色に顔や髪を染め、黙したまま木を背に座るその姿は、普段からは信じられない程に穏やかに見えた。
 周りを見れば、ミコトやヒイロもポカンとした表情でユリウスを見ている。
 いつも側にいるミリアでは無く、他人・・にそう言われた事が嬉しかったのだろうか。弱弱しいが、朗らかに微笑むノエルの表情が、その心を覆っていた暗影を払拭したのだという事を如実に物語っていた……。





(良くて後二、三回が限度と言うところか……)
 あれから同行者達は就寝し、火番になったユリウスは大木の幹を背に腰を下ろし、抜き放った刀身を眺めながら何と無しに思った。その真意を解せる者など、本人以外この世界に存在はしていないだろう。
 暖色を受けて輝く刀身は鏡のように己を映していた。
アレ・・を使えば、術者じぶんにもぶきにも負担が掛かる。まぁ、器を越えての現象を引き起こしている訳だから、当然の報いか……)
 白刃に映える自分の顔を眺めながら、ユリウスは一つ溜息を吐いた。
 夜風に乗って何時までも響く玲瓏が、この森の深さを伝えてくる。その時、ガサリと草叢がざわついた。
「……何だ?」
 特に動じる事も無く、ユリウスは声だけを暗闇に向けて放つ。木々の間に広がる闇から染み出すように現れたのは、ミリアだった。生活周期が自分達と違う彼女は、このあたりの様子を見て来ると言ってあの後に姿をくらませていた。が、悠々泰然と戻ってきた様子から、何も無いのだと判断して、ユリウスは瞑目する。
 そんなユリウスの様子を横目に捉えながら、ミリアは焚き火を挟んでユリウスの真向かいに静かに腰を落とした。
「剣を見つめながらニヤついているなんて、あなたって危ない人間ね」
 口を開いたと同時に紡がれた言葉に、ユリウスは小さく肩を竦める。
 鈴のような声で紡がれている分、それは小憎らしく聞こえるのだろうが、当然ユリウスにそんな情動など沸かない、感じない。開眼してただ淡々と返した。
「何の用だ?」
「……不本意だけど、さっきは助けられたわね。一応礼は言っておくわ」
 言われた事に一瞬ユリウスは瞑目する。



 助けた……あのエルフの矢を盾で止めた事を言っているのだろうか?
 だとすれば、それは誤解だ。
 あの時、あの場所、ミリアの安い挑発に乗って激昂したあのエルフを諌める為の手段の一つに過ぎなかった。そうでなければ面倒な事になったかもしれない。ただでさえ、もう既に面倒事の渦中に在るというのに、これ以上こじらせるのは、本来の目的から遠ざかってしまう。それを危惧しての行動でもあった。
 結局のところ、自分はただ打算的に行動したに過ぎない。

 ……それに、自分には誰かを助ける、守るなどと言う選択肢も、資格も無いのだ。



 開眼し、視線を上げる。
 するとそこには、言葉通り不服そうに顔を顰めながら頭を下げるミリアの姿があった。それを見止め、ユリウスは剥き出しにしたままの刀身を鞘に収めた。
「案内人に先にかれては、もりに迷うからな」
「相変わらず口の減らないガキね……」
 返ってきた言葉のニュアンスと、視線を燻る火に落とし冷静に薪をくべる様を見て、静かの森に響き渡る位にミリアは大きく舌打ちをした。
「まぁ…そんな事よりも、ノエルが泣かずに済んで良かったわ。その事だけには、素直に礼を言わせて貰うわね」
「…………」
 言いながら相好を崩したミリアを一瞥し、再びユリウスは焚き火に戻した。

 パチパチと火が新鮮な空気を貪る音が、夜に響く。
 漆黒の双眸に映るのは、ただ闇に残す炎のほころび。寄せては返す波のような一つ処に留まらない光の軌跡には、見る者の内側に何かを訴えかける。
 同じくそれを見ていたミリアは、炎の揺らぎにほだされたのだと自嘲しながら呟いた。
「……あなたって、オルテガと全然違う」
「知っているのか? ……あの男を」
 唐突に視線を上げてユリウスは返す。それからミリアは慌てて視線を引き剥がした。
「ええ…まぁ一応は、ね。有名……ですもの」
「……そうか」
 ポツリと呟いて、ユリウスは瞑目した。
(と言う事は、あの男がエルフの里を訪れた事にも確証が増すか。……いや、だが先程のエルフの様子から察するに、人間が里に入れると言うのは、今ひとつ信じがたいが……)
「……全然似ていない。オルテガはもっと…温かさがあったわ」
 どこか諦念ていねんの篭められたような響き。それに何の変容もきたさぬ内心のまま、極めて事務的に抑揚無くユリウスは返した。
「別に、子が親に似なければならない道理は無いだろう。血縁上の繋がりはあれど、精神的な個をおもんぱかるならば、あの男は俺にとって赤の他人に過ぎない。……そもそも顔すら知らないから、気にしたところで意味がないがな」
「……随分はっきりと言い切るのね」
「……親がどんなごうを背負った存在だろうが、その子の個を形作る上では何の関係も無いだろう」
 先程も、そして今もこんな事を言っている自分を内心で嘲りながら、ユリウスは視線を焚き火からミリアに移した。
「! ……その考え方、嫌いじゃないわ」
 温度の無い言葉に、弾かれたように眼を見開いているミリアを見て怪訝そうにユリウスは眉を寄せるも、気に止めずに薪を火に放る。パチリと、水気が抜けていなかった枝が嘶いた。
 その無機質な様子を遠く誰かと重ねるように眺めながら、ミリアは抱えた膝に顔を埋める。
「…………ほんと、あなたはオルテガとは全然違う」
 溜息と共に吐き棄てられる言葉とは裏腹に、眼は藍の上に焚き火の暖の穏やかな色を湛えていた。






―――エルフの里。そこは森の中にある、森と共に永い時を生きる者達が暮らす平穏の地。
 森を切り拓いて地に留まるのではなく、森と自然に寄り添って地に在るのが彼等の生き方である。それは彼等の培ってきた特有の文化、生活風習にも顕著にあらわれていた。
 彼等は、人が営々と築き上げたような文明の利器を用いず、彼等にとって手足も同然な魔法というすべを生活の手段として、その端々で利用していた。火を起こすには火炎魔法。暖を取るには閃熱魔法。冷を求めるならば氷刃魔法…といったようにである。永劫とも思しき時を練磨、研鑚けんさんに当て培ってきた魔法技術は人の知など及びもしない。卓越した魔法技術の向く所は、あくまでも自分達の生活を豊かにする一点であった。
 また、彼等は農耕や牧畜を行うのではなく、森の木々や生命の恩恵をそのままに受け取る狩猟採集民でもあった。自然の変遷と共に在る彼等の精神性が、そのような体制を形作って行ったのは想像に難くない。その為、種族としての団結性、協調性は高く、人間世界特有の貧富の差など存在していなかった。

 だが、それ故に起こりうる弊害というべきものなのか。
 種族としての団結性の高さは、異質に対しての恐怖と攻撃意志をも束ねてしまうが故に、排他的に。
 族内の平等という平坦さが、他種族の認識判断における能力水準を高めてしまうが故に、傲然ごうぜんに。
 それは、意識をもって己と他を知覚、選別し得る存在の業なのかもしれない。

 光の妖精種ライトエルフ。その本拠地が、ここであった。




 その集落の中央。群立する木々の中でも抜きん出た頑健さを誇る、樹齢何千年ともいえるであろう大樹は塔のように空にそびえており、その裡は気の遠くなる長い年月、水の通り道となっていた為か、大きな空洞が幾つも存在している。その空洞部を利用して御殿が築かれていた。
 壁には、永年で染み出した樹液の結晶に魔力を篭めて造られた燭台が整然と並べられ思いの外明るい。琥珀色の灯りに照らされた回廊は、朗らかな暖かさを歩む者に与え、先にある王の間へと誘う。

 回廊と王の間を隔てる独特の紋様が刻まれた扉の先、ライトエルフ族を束ねる女王ティターニア=エルダ=ディースは、木製のやはり特有な意匠の施された玉座に腰を下ろしていた。
 暖かな印象を与える琥珀の宝石をふんだんにちりばめたよもぎ色の木綿のドレスの上からは、鮮やかに映える深緑色の髪が優麗に流れている。白く長い首には、慎ましやかな意匠のチョーカーを身に着け、それがその人の持つ気品と淑やかさを醸し出していた。
 気流と雷を抱く天使を象った王杖を膝の上で握りながら、女王は眼前でひざまずくリーヴェを見つめる。何処までも澄んだ湖水のような群青の双眸は、捉える者の深奥まで見透かしてしまうのではないかと錯覚させるほどに、神秘的な光を宿していた。
「……リーヴェ。先刻、結界領域の外れで、精霊達の充ちように綻びを感じましたが、いかがいたしました?」
 穏やかに問い尋ねる女王。それにリーヴェは恭しく返した。
「はっ。人間達が、森を通り過ぎていきました」
「人間が!? この深奥にまで入り込んでいたのですか?」
 現在、人間の村で最も里に近いとされているノアニール村は封印・・してある。その地を訪れる者が無くなれば、自然とこの里に、いや森に足を踏み入れる者も少なくなる。事実ここ十五年さいきんは結界が侵犯されるような事は無かった。
 それだけに、深刻に眼を細める女王に、ただリーヴェは頷く。
「……僭越せんえつながら、申し上げます女王様」
 頷いた形で視線を下げたまま、リーヴェは少しの躊躇いを胸中に走らせたが、意を決して面を上げた。その様子にクスリと女王は、たおやかに微笑んで促した。
「どうしました? 私はあなたを信頼しています。そんな畏まらずとも宜しいですよ」
「いえ……、その結界領域を侵犯した人間達の中に、“異端者”ミリア=エルヴィラを確認しました」
 発せられた言葉は空気を伝わり、聴覚に否応無く捕えられる。何の気構えもしていなかった為、それは真っ直ぐに心に響き、貫く。その様子を顕すように女王はただ目を見開いた。
「ミリア!? あの子が……生きていたのですか?」
「はい」
「そうですか……」
 一つ大きく溜息をついて自らを律する女王。
 エルフにとって、女王と言うのは人間社会のように絶対的な頂点として君臨する存在ではない。ライトエルフ族の中で最も濃い血を受け継ぐ者として、同族の意見や生活を纏め導くという立場の存在が長という役回りだ。だが同時に、束ねる側として、動揺を外に漏らしてはならないという毅然な態度が求められる。
 それが一瞬でも揺らいでしまい、女王は眉を寄せた。
 そんな女王の心情を察してか、暫し黙していたリーヴェはゆっくり静かに続ける。
「……もう一つ、気になる事が」
「何でしょう?」
「ミリアの他にも、もう一人ハーフエルフがいました。まだ幼子でしたが……」
「もう一人?」
 今のエルフ族にとって、存在次元をずらしてまで世界から隔離した以上、外から内への干渉など本来ならばあり得ない。また自分が族長の任についてからは、秩序を守る為に里の者が里外へ出る事も徹底して制限している。
 故にハーフエルフが新たに生まれる筈は無い。アレ・・はその為に行った処置でもあるのだ。……ただ一つ心に影を落とす事を除いては。
 ……つい最近家を出て行った娘の顔が脳裡を過ぎった。
「ミリアはその幼子の事を『ノエル』と……!?」
 女王が手にしていた王杖が音を立てて転がった。コロコロと木の床を転がる“嵐杖・天罰の杖”の嘶きが、虚しく王の間に響き渡った。
 何事かと、畏れ多いと思いながらもリーヴェは顔を上げる。その視界には、完全に血の気の失せた表情で眼を見開く女王の弱弱しい姿があった。
「じょ、女王様?」
「ミ…ミリアがそのハーフエルフの事を、『ノエル』……と確かにそう呼んだのですね?」
「は……、はい」
 慌てて杖を拾おうと側に控えていた侍女を手で制し、女王は自ら玉座を立つ。微かに震える手で杖を拾い上げ、一歩一歩考え込むようにゆっくりと在るべき座所へ向かう。
「……リーヴェ。ミリアは森を抜けてどちらに向かいました?」
「恐らく、“陰りの霊廟ニブルへイム”の方へ……」
 瞑目していた女王はゆっくりと玉座に腰を下ろす。
「……解りました。リーヴェ。あなたは何名かを連れて、ミリアを追いなさい。……あなたにはミリアの後をつけて、そこで彼女が何を為すのか見届け、私に伝えて欲しいのです」
「監視しろ、と言うわけですね」
「言葉は気に入りませんが、そういう事です」
「承知いたしました」
 深深と頭を下げてリーヴェは返事をする。その様子を感じ取ってか女王は双眸を開き、リーヴェを見つめた。
「彼の地は今も尚、晴れる事の無い陰のマナに満ち溢れています。くれぐれも対策を怠らないように」
「はいっ」
 その優しい眼差しにリーヴェは微かに顔を綻ばせながら頷いた。




 人払いのした王の間。
 今ここにいるのは自分一人だけである。絶えず変わらずに同じ量の光を発する琥珀の燭台は、ティターニアを照らし、その背後に幾重もの影を舞い躍らせる。
 消沈した様相で玉座に腰を下ろしたままのティターニアはポツリと呟く。
「ミリア、『ノエル』と名づけられたハーフエルフの幼子、陰りの霊廟…………」
 それら異なる三点を一つに結ぶ線。女王はそれを想い顔をゆがめた。
 手にしている王杖の、無感情な天使の眼差しは容赦無く自分を射抜いているような気がしてならない。
 ティターニアは無意識的にチョーカーで覆われた首筋に手を当てた。トクントクンと規則正しく脈打つ流れが、心の外殻に幾重もの筋を刻み込んでいく。それは一瞬にして星霜を越え、心の深奥に封じ込めた筈の氷の結晶に到達して波紋を遺す。
「…………アン」

 零落した吐息と呟きは蜻蛉かげろうよりもかすかに、夢よりも無残に消え去っていった。




back  top  next