――――第三章
      第八話 星霜の欠片







(“陽”のマナに満ちている……か。確かに、無駄な位に満ち溢れている)
 視界一面、何処を向いても目を凝らしても同じ景色。見渡せば見渡すだけ方向感覚を失いそうになる森の中。周囲の木立の先に注意を張り巡らせながらユリウスは無感動に思った。
 森林の中の清浄さという事を差し引いても、空気は清々しさに溢れている。澄んだ空気を吸い込む度に、肺腑に入れ替わる冷涼な感覚が思考をも明瞭にしていく。
(まさか、こんな場所があるとはな……)
 魔王という存在が放つ瘴気により、世界は徐々にだが確実に侵食されている。その最たるのは野に生きる動物を始めとする生物の魔物化。現時点ではまだ動物、怪物種にその影響は留まっているが、それが人間以上の精神をもつ存在に影響を齎さないとは限らない。いや――。
(魔王の瘴気とは即ち、“陰”のマナ。“聖”や“邪”などという絶対二元に分けたがる聖職者や、その自らの生まれを“特別”と思い込んでいる王侯貴族の言など気にする価値も無いが、あらゆる存在は突き詰めていけばマナによって構成されている。つまり世界に在る存在がその影響を受ける可能性を秘めている事か。自分だけは汚染などされない、と都合良く考える方が愚昧はなはだしい。例外などある筈も無い……)
 だが、その事に一体どれだけの人間が危惧を覚えているだろうか。ましてや、それを言った所で信じられるだろうか……。
(……っ!)
 そんな事を思い浮かべ、即座にそれを掻き消す。小さく髪を掻き回しながら、内心で思いつく限り自らへの罵倒を繰り返した。それがどれほど自分にとって無意味であるかなど、良く解っている筈だ。自覚している分、それへの思考を行ってしまった事に余計に忌々しかった。
 大きく深呼吸をする。深く冷たく染み入る空気に、混雑した思考そのものを抹消してはくれないだろうか、と半ば望んでいる自分がいた。
(……鬱陶しい)
 入れ替わった空気と思考に嘆息し、無表情の面で僅かに目を細め意識を前に移す。
 前方では同行者であるエルフのミリアが、この森を行く上で先導している。その隣に彼女の連れのノエル、二人に続いてソニア、ミコトが歩きながら頭上の木の枝や伸び切った草草に注意を払っているようだった。四人に僅かに遅れてヒイロ。やはりこの森の異常性が気になっているのか、時々立ち止まっては考え込むように立ち並ぶ木々を凝視している。
 そして最後尾には自分。特に誰かと話し合ってこんな隊列をっている訳でもないが、これはこの件・・・に対しての意志をそのままに体現しているようであった。
 再び大きく溜息を吐いて、ユリウスは今度は目線だけで周囲を見渡す。やはり景色は何の変わりなく、ただ延々と高く育った木々、その枝葉から零れる光の帯が地を覆っていた。
 風が木の葉を揺らす音、鳥が羽ばたきさえずる声。草を掻き分け歩む音……。そんな安穏とした音を耳にして自然と頭に浮かんでくるのは、何故この場所がそうなのか、こんな事が在り得るのか。穏やかな地に反して、現状への異様さが次々と自分の思考に泡沫のように浮かびあがり、疑問は尽きる事は無い。神秘などという曖昧な言葉で片付ける気にはならないが、かといって解明の糸口はまるで見えてこない。広げていた思考が、今度は延々と出口の無い無限螺旋の迷宮に迷い込んできているのを自覚して、一つ舌打ちをする。
 ノアニール村を発って、既に数日。それまでに魔物との戦闘が全く無かった為、無意味で無価値な思考活動ばかりが活発になっていた事に、ユリウスはこれ以上無いくらいに辟易していた。

 温かな午後の木漏れ日は、ただその下で佇むだけで気分を安寧のほとりへと導いていく。
(……俺にはそんなもの、必要無い)
 降り注ぐ陽射しを忌々しげに見上げながら、ユリウスは思った。漆黒の髪が日に照らされて艶やかに白く映える。それが視界の中にちらついて思考を阻害し、酷く落ち着かない。
 何時の間にか陥ってしまった迷宮から脱する為の光明アリアドネの糸は、未だ見つからなかった……。




 ユリウス達はロマリア王国最北地方、ノアニール半島全域を締める森林を唯ひたすらに西へと移動していた。この延々と続く森林の深奥に、エルフ族にとっての聖域とも云われている洞窟があるという。そこを訪れる為に、今こうやって鬱蒼とした森を進んでいるのだ。
 温かい陽射しの下、なだらかな地肌に所狭しと群立する木々の間を縫って、涼やかな風が吹き抜けていく。それに微塵も揺れる事の無い、雄雄しさすら感じ取れる頑健な幹は、自然の生命力の強さをヒシヒシと伝えていた。翠蓋すいがいから洩れる申し訳程度の光でさえ地にひしめいた草花は両手を広げ受け取り、逞しく遥かな空を求めるようにその背を伸ばしている。
 この中に在ると、その生命力の強さが自分の中にも流れ込んで来るようだ、と誰しもに錯覚させるには十分すぎる何か・・が、この森には溢れていた。その何かが具体的に何なのかその判断は出来なかったが、一つだけ、その虚ろだったものにかたちを与える事実があった。
 それは、この森を進む中で魔物と言う存在に遭遇すると言う事が全く無いと言う事である。






―――ノアニール村西南の外れ。外壁に囲まれた、村の全景を見渡せる位置に在る建物。時間に煤けた煉瓦の煙突から悠然と立ち上る煙は、時の流れに委ねられている証。その一室にて。




 揺ら揺らと蕩揺たゆたう紅の水面。カップの中の水鏡は、張り詰めた緊張に強張る己の顔を覗かせる。紅い中に深い藍青らんせいの双眸は感情に揺れ、それが伝わったのかその表面には波紋が浮かび上がらせていた。
 それにミリアは下唇を噛みながら、止めるようにギュッとカップを握り締める。
「エルフはもう数千年も昔から、人との関りを断ったと言う事は知っているわね?」
「まあ、それが通説だからね」
 コクリと頷くヒイロ。
「だけど、それはあくまでも妖精種総体としての事。だけど実際には、個々人という範疇で直接的大多数の干渉ではないけれど、接点はあったの」
 言いながら、ミリアは眼前の人間達を見渡した。
 こちらに向けられるのは、馬鹿が付く位真っ直ぐな光を宿す緑灰の双眸。語られる言葉に戸惑いの感情を乗せた朱紅の双眸。知覚と探求の追随に満ちた鋭い琥珀の双眸。そして、何の光も映さない鏡のような漆黒の双眸。それぞれを一瞥して、ミリアは小さく溜息を吐く。
「妖精種とはエルフ族とホビット族の総称。だけど、更にエルフ族の中でも二つに分かれているの」
光属ライト闇属ダークだな」
 言葉の先を読んで、ユリウスはつづった。
 驚く周りの反応を微塵も気にしていないその面は、やはり変化が無い。先程までの議論と同じに、ただはっきりと断定する。それにミリアは感心するような、呆れるようなどちらともいえない視線でユリウスを見つめた。
「……人間なのに良く知っていたわね」
「聞いた事があるだけだ」
「エルフ族はエルフ族じゃないの?」
 首を傾げながらミコトは疑問を口にした。
 交流が無ければ知識の共有も、交換も成り立たない。事実エルフ族は人間との表立った交流を行っていなかった為、彼等についての事情は世界的に見ても、思いの外認知されてはいないのだ。
 だと言うのに、それを淡々と言葉にするユリウスに対して、何故知っているのだと言いたげな視線を他の三人は送っていた。
「詳しくは知らない。わかるのは遥か昔、世界に異変が起こってエルフ族は種の崩壊という事態に見舞われたという事と、それを回避する為に光属と闇属に分化したという事だ」
「そうなんだ……」
「一説には、世界を満たすマナの流れに異常があったとかだが……。それで、あんたらはどっちの方だ?」
 ここで、ユリウスは話の矛先を元の流れに還す。それを受けてミリアは一つ頷いた。
「ノエルはライトエルフと人間のハーフ。私は……わからないわ。母はライトエルフだったけど……」
「判らない? ……失礼だが、お前の容姿はライトにもダークにも当てはまらない。ならばハーフエルフでは無いのか?」
「ユリウス」
 ユリウスの余りに物着せぬ言い様にミコトが目線で咎めた。ユリウスの感情を微塵もはらまない整然とした単調な問答は、尋問のように聞こえて良い気分にはなれない。たとえ、その矛先を向けられていないとしてもだ。
 それに一瞬ミリアの藍青の眼は剣呑な光を帯びたが、コホンと一つ咳払いをする事でそれは掻き消える。何時ものように冷淡に、何事も無かったかのように続けた。
「ハーフエルフなのは間違いないでしょうけど……。まぁ私の出自については、今は関係の無い話よ。……あなた達人間が呼ぶエルフ族というのは、光属の事を指すの」
「へぇ……」
「この地方に住んでいるのも、そのライトエルフの方。そしてそれを総括しているのは女王ティターニア=エルダ=ディース。……ノエルの祖母に当たるわ」
「祖母? ……という事は」
 聞きながらヒイロは目を細めた。その言葉に篭められた意味に気付いたからだ。それを耳にしながらユリウスが無感動にすくう。
「つまり女王の子供…エルフの王族が人間と交わった訳だ。……良くもまあ、異種族間での婚姻が認められたものだな。排他的で潔癖なエルフ族としては大問題だろうに」
「……その通りよ。ノエルの母がエルフの王女アン=ソレイユ=ディース。そしてこの村の狩人の青年、スルーア…村長アルメイダの息子があの子の父親」
 今この部屋にはいない、この家の主を思い浮かべる。話している事、場所の所為もあるだろうか。扉の先からその息子と妻の、楽しげな笑い声が聞こえて来るような気がした。
「……アンは良く里を抜けてこの地に、スルーアに会いに来ていた。それが何時からだったかなんて私には判らないけど、二人はとても慕い合っていたわ。それこそ異種族同士であることなんか気にもならない位に、ね。……だけど、女王はそれを快く思わなかった」
 それほどの時間が経過した訳では無いにしろ、思い出すと自然とカップを握る手に力が篭ってくる。それを鎮めようとミリアは小さく溜息を吐く。温かいカップから掌に伝わる刺激が、今は心地良かった。
「はじめのうちは、女王もアンが里を抜け出す事を黙認していたけど、それはどんどん頻繁になっていった。いいえ、それだけじゃない。里に居る時も、アンは良くスルーアの事を話題にするようになっていった。今思えば、アンはそうやって女王ははおやに認めて貰おうとしていたのね……」
「…………」
「だけど、女王にスルーアとの仲は決して認められることは無かった。アンがどれだけ想いを口にしても、女王は頑として首を縦に振らない。族長としての立場がそれが許さないのなら、せめて母親として……。アンはそう思って何度も何度も嘆願していた。いいえ、ただそれに笑ってくれるだけで良かった。そう、零していたわ」
 どこか遠くを見るように眼を細めるミリア。その穏やかな眼差しからは、普段の刺刺しいものなど微塵も感じられない。いつもノエルに向けているものと同じなのだと、周りが気付くのに時間は掛からなかった。
「毎日のように相容れない応酬が続いていたわ。どうして女王があそこまでかたくなに拒絶するのか、私には判らなかった。……まぁ判りたくも無いけど」
 言いながらミリアは小さく頭を振る。
「女王はアンをとても大切にしていたのに……。私の知る限り、アンが望む事なら女王は何でも容認していたわ。アンはそんな母親の事を大好きだって、とても愛しているって言っていた。傍目から見ても、とても仲の良い母子おやこだったわ……」
 言葉を濁して、ミリアは眸を伏せた。
「だけど、結局アンの願いは叶う事は無く……。里にいた最後の日、激しく女王と口論してアンは家を出て行った…いえ、里を捨てたわ」
 そしてこの村に来たの、と付け加えた。

 一喜一憂、語る話の内容に深みを与えるように、ミリアの表情は刻々変化する。初対面の時からあった自分達に対して向けられていた、異種族への警戒心の顕れのような刺々しさは、もう感じなかった。
 話しながら見た目の容姿に合った相好をする様を見て、ミリアにとってアンという人物がとても大切な人だったんだな、とソニアは思った。

「……この村に来てからのアンは、とても幸せそうだった。やっぱり人間の村に住むエルフは珍しいのか、村人達からは奇異の眼で見られていたけど、アンはそんなものを微塵も気にもしていなかったわ。エルフと人間の生きる時間は違う。だからスルーアと一緒にいられる限られた時間が、アンにそんなものを気にする暇を与えなかったのかしらね。……そして、ノエルが生まれた」
 ミリアは穏やかな口調のまま、ひとまず言葉を区切った。
 この村が呪いを受けるまでの経緯を語る事。それは自分が見て聞いて来た記憶を追走する事である。それは同時にその時々で感じてきた感情をも呼び起こしてしまう。それが遠く色あせてしまっていれば、ただ事実を述べるだけで済むのだろうが、身体の内を流れるエルフの血がそうさせてはくれない。
 我が子を抱いて微笑む、とても幸せそうなアンの顔が今も瞼の裏に焼きついていて離れなかった。

 ミリアが言葉を止めた事で、聴聞者達はただ沈黙の余韻に浸されていた。浸透してきた言の葉は、感情に温かな何かを訴えかける。その様相はそれぞれだが、確かな足跡を残していた。
「何かこう、……情熱的な話だね。エルフって、結構清廉淡白なイメージがあったから」
 これまでの話を思い返しながら、ヒイロ。今まで抱いてきたエルフへの認識が覆されて、ただ感嘆を零す。それをピクリと、特有の長い耳で聞き止めたミリアは嘲るように鼻でわらった。
「そんな屑みたいなイメージは早々に、その辺のゴミと一緒に棄てる事ね」
 きっぱりと冷厳に言い切られてしまった以上、強い視線を向けられたままのヒイロは、ただ弱弱しく苦笑を浮かべるしかない。
「……で、何故この村はこんな有り様なんだ?」
 そんなやり取りを気に留める事無く、変わらない面で抑揚無くユリウス。
 急かされて、ミリアはフウと溜息を吐き、続きを語りはじめた。

「ノエルが生まれてそれほど時を置かない、晴れた日だったわ……。アン達はとある理由・・・・・でこのノアニール半島最西端にある洞窟に向かう事になった。時を同じくしてアルメイダは村長としての公務で、丁度村に立ち寄っていた戦士を護衛としてカザーブ村に向かった。独りまだ産まれたばかりのノエルを家に置いておくわけにも行かないから、私もノエルを連れて二人と共にカザーブについて行ったわ」
 記憶を引き出すように、ミリアは眸を伏せる。脳裡に甦ってくる緑の景色に一瞬、逞しい黒髪の戦士が過ぎった。それを認め、ミリアはギュッと下唇を噛み締める。
「……カザーブに着いた時、何か嫌な予感がして、ノエルを二人に任せて私はノアニールに戻った。その時にはもう、村はこんな事になっていたわ」
「どうして?」
「それは……」
 言いかけた時、刹那ミリアは瞠目する。



(……あの子には、何の罪も無い)
 今はこの部屋には大切な弟として育てたノエルがいない事に、安堵に暮れる。
 なるべくなら、ノエルは真実は知らない方が良いのかも知れない。我ながら身勝手な事だと思いながらも、あの純粋な子にはエルフと言う種の影の部分は知られたくは無かった。
(知ったらきっと、自分を責める……)
 あの子はそういう子だから。…………アンの息子だから。
 だから、私は――。



「……女王の考えなんて知りもしないし、知りたくも無い。アンがいなくなってからの日々が続いてか、女王は自分の下からアンを奪ったノアニール村に対して報復した。そう、私は考えているわ。さっきから言っているように、女王はアンをとても大事にしていたから」
 一つ瞬きをすると先程までの調子に戻り、淡々と続けている。
 その時、黙ったままこちらを注視するユリウスの眉が微かに動いたような気がしたが、見ないことにする。こちらが少しでも動揺を面に出してしまえば、あの漆黒の鏡に捉えられてしまうのではないかと言う、危惧があった。
「……たったそれだけの理由で? ふざけるな!」
 その横で、やはりと言うべきかミコトは憤然とした様子で卓を叩く。ガタンと卓とその上の茶器が大きく音を立てて揺れた。
 それは呪いを掛けられたこの村の人々の事を思ってなのか、或いは親に祝されなかった娘を思ってなのか。
 多分両方なのだろうと、黒髪の少女を正面に見据えながらミリアは思う。
(どうして人間と言うのはこう・・なのだろう)
 強すぎる自我で平然と他者を傷つけるくせに、妙な同類意識をもって共感しあう。記憶の中にある黒髪の戦士も同じだった。理解が出来ないのは、やはり種族差という器の違いの為だろうか……。
 ふとそんな事を考えて、馬鹿らしいと内心で肩を竦めた。
「私に怒鳴る意味なんて無いわ。……まぁ、もう一つ思い当たる事があるといえばあるけど」
「もう一つ?」
「ええ。アンは里を捨てる際、女王の大切にしていた宝玉『夢見るルビー』を持ち出したのよ」
「エルフの宝玉『夢見るルビー』か。……成程。それで、話からするとアンさんの失踪とルビーの損失がこの村に掛けられた呪いの直接的な原因と見ていいんだね」
「…………おそらく、そうでしょうね」
 冷静に要点をまとめるヒイロに、ミリアは頷いてからすっかり冷めた紅茶を口にした。




「美談どころか、結局のところは只の内輪喧嘩か……。何ともはた迷惑な話だ」
 無感動に嘆息しながらユリウスは冷たく吐き捨てる。それを耳にしてソニアとミコトは勢い良く立ち上がった。
「! ユリウス……、あなたっ」
「お前……幾らなんでもあんまりだろっ!!」
 憤然としている二人の眼は、非難一色に染まっていた。二人とも感受性が強いが故に、語られた話に情が移ったのだ。ただただ憤る二人に相反して、ユリウスは仮面のように変わらない表情で、恐ろしく冷徹に続ける。
「話を聞く限りでは、仲を認めて貰えなかった娘がせめてもの反抗として母親の大切な宝玉を持ち出して、家を飛び出す。そして、何時まで経っても戻らない娘は実は人間にたぶらかされていた、と考えた母親の感情がこの村に降りかかった『呪い』なんだろう? ……ああ、そうか。怨念が込められているという点で、これはまさに呪い・・と評してしかるべきか」
「ユリウス、もっと言葉を選ぶべきだと……」
「どう取り繕おうが、変わらないだろう。結局は個人の間の、感情の行き違いがこの結果を招いたんだろ。当事者ならまだしも、余所者がわざわざ飾り付ける必要は無いだろう」
 ユリウスの氷のような痛烈な皮肉に誰しもが口元を引き攣らせる。ヒイロがたしなめるがユリウスの調子は変わらない。感情的な事を極端に避けるきらいがあるユリウスにしてみれば、その反応はらしいといえばそうなるのだが。言いながらヒイロはそう思った。
 立ち上がったまま憮然とした様相のミコトは、眉を寄せてユリウスを見下ろしている。
「……何でお前はそうなんだ?」
「そう、とは?」
「今の話を聞いて、どうしてそんな事が言えるんだ!? ……いや、この村の現状に対してもそうだ。お前には困っている人を見て、助けてあげたいという気持ちが沸いてこないのか? 手を差し伸べたいとは思わないのか!?」
 投げ掛けられた言葉を受け取り、ユリウスはそれを自分の中で反芻はんすうした。咀嚼そしゃくを繰り返す度に、不可解な何かがこみ上げてくるが、それを圧殺し、ただ言葉の示す事のみの理解を進める。
「……それは、御高説だな」
あなどるな!」
「侮ってはいない。お前がそれを信義にしているなら、俺はそれを非難するつもりも否定する気も無い。主張するのはお前の自由だし、お前の意思だ。だが、それを俺に押し付けないで貰おうか」
「……っ!」
「俺の価値観も認識も、知覚の仕方もお前とは違う。ただそれだけの事」
 つまりそれは、初めから理解する気は無いという意志の顕れ。明らかな拒絶の意思表示だった。
 それを感じてミコトはギュッと拳を握り締める。行き場の無い憤りにただ総身が打ち震えていた。
「! …………じゃあ、これだけは聞かせてくれ。お前はこの村、この現状を見て本当に何も感じないのか?」
 問われた事に瞑目し、ユリウスは立ち上がる。押し黙ったまま返答を待つミコトに視線を送る事無く部屋の入り口に歩み寄り、その戸に手を掛けた。
「……ぬるま湯の夢と、冷水の現実うつつと。どちらが幸せなんだろうな」
 ポツリと、呟くように零してから戸を押し開ける。
 すると、今まさに部屋に入らんとしていたノエルとアルメイダが眼を丸くしていた。
「あれ、ユリウスさん?」
「…………」
 大きなどんぐりのような目を広げて不思議そうに見上げてくるノエルを、ユリウスは無言で一瞥した後、その小さな肩にポンっと手を置いて去っていった。
「?」
 成り行きのわからないノエルは、静かに手の置かれた肩に触れたまま、ただ目をパチリと瞬かせるだけ。
 静かに締められた筈の戸の音が、酷く大きく周りの者達の耳に残っていた……。




 流れた沈黙が、先程閉められた扉の音の余韻を伴って静寂に変わるまえに、ヒイロは口を開く。
「……ところで、アンさんとスルーアさんの行方は?」
「えっ……!?」
「ノエル君が彼らの子供だって事は解った。だけど、肝心の二人の行方がわからない。その、ある事情・・・・で洞窟に向かったのはわかったけど、その後二人はどうしたんだい?」
「……それを聞いてどうするの? 村がこうなった経緯は今話した通りよ。女王の考えなんて知らないから、断定こそできないけど、おおむね間違っていないと思うわ」
 警戒に目を細め冷然と返すミリアに、ヒイロは続ける。
「確かに、君の視点からの村に呪いが降りかかるまでの経緯はわかった。だけど、その後の経過がわからない。アンさんとスルーアさん両名が行方知れず、そしてミリア。君がノエル君と一緒にカザーブ方面から来る事になったのは、どういう事なんだい?」
「…………この村に着いた以上、あなた達との縁は切れた筈よ。私としてもあなた達に付き合う義理も義務も意味も無いしね。何度も言っているけど、この村がどうなろうと私には関係ないわ」
 これ以上の介入を拒むように、回りくどいまでに慎重に言葉を選びながらミリアは拒絶する。だが、言葉のやり取りにおいてヒイロの方が狡猾さでは上だった。
「そうかな? この問題の中心に位置していると言ってもいいスルーアさんとアンさん、そして二人の息子であるノエル君と二人の知己であろう君。君達がこれから何をするのかは判らないけど、全くの無関係なのかな? 何かしらの縁があると考える方が自然だけどね。それに、聞いた話は全て君の主観だろう? 君ははっきり女王の考えはわからないと明言している。言葉通り、女王にも何か別の考えがあって、こんな結末になったとも考えられる」
 理路整然とその警戒の糸の隙間を潜って来る琥珀の光。それに逃げ場が無い程に絡め取られてしまい、小さく舌打ちをする。そして観念したようにミリアは溜息を吐いた。
「……この村がこうなった事は、別に私にはどうでも良かった。特別な思い入れがあった訳ではないしね。だけどアン達が村に戻った時、この光景を目にしてしまえば……アンはきっと悲しむ。そう思って私は女王に術を解くよう説得する為に、里に向かったわ……」
「……それで?」
 何かしらの期待を帯びた視線。それを受けてミリアは首を横に振った。
「結果から言うと、私は里には入れなかった」
「え……、どういう事?」
「……そうなったら、もう手段は残された手段は一つしかない。見る前と見た後では傷みは違う。だから村に戻る前にアンにこの事を話し、アン自身が女王を説得して解呪させるしかない。そう思って私は洞窟に向かった」
 ソニアの呟きを意図的に聞き流して、ミリアは続ける。
「その洞窟は古くからライトエルフ族にとっての聖域。その最下層にある地底湖の辺には、“陰りの霊廟れいびょう”と呼ばれている神殿が建てられているの。そこにはあるもの・・・・を安置する祭壇があって、アン達が向かった理由もそれよ」
「あるものって?」
「……『夢見るルビー』よ」
「え、でもそれは……」
 首を傾げながらのソニアに全てを言わせる前に、ミリアは頷く。
「そう……、アンが里を捨てた時に、密かに持ち出した物」
「何でまた、持ち出した物をそんな場所に?」
 ヒイロの当然の疑問に、ミリアは肩を竦めた。
「それこそ、あなたたちには関係の無い話。……とにかく、アン達はそこにいる筈だった。だから私はそこに足を踏み入れたわ。でも……」
 瑞々しい眉間に、きつく皺を刻み込み眼を瞑る。
「……その後の事は、覚えていないの」
「は?」
「その洞窟に入る前、出た後の記憶はハッキリあるのだけど、中での記憶はあまり無いの。無いというよりは、曖昧で闇が掛かったように、上手く思い出せない……」
「…………」
 そのもどかしさがとても辛そうに見えたので、誰しも声を上げることは出来ない。
「でもハッキリと覚えている事もある。それは、アンから『夢見るルビー』を託された事、そして……アン達があの場所から戻ってくる事はなかったという事よ」
 眉を下げてミリアは哀しそうに言い終える。その声が泣きそうなほどに震えていたのは、気のせいではないのだろう。
 ノエルやアルメイダは、あらかじめ事を聞いていたのかただ悲痛そうに顔を歪めて瞑目している。
 そんな彼等の心情を傷つけないように留意して、ヒイロは慎重に言葉を選び、言った。
「……君は、君たちはこれから、そこへ?」
「ええ。私は再び、あの地を訪れなくてはいけない。アンとの約束を果す為に……」
 ハッキリと、凛然と。ただ確かな決意を灯した意志が、その藍青の眸には宿っていた。

「もしミリアが良ければ……、私達もそれに協力させてもらえないか?」
 その言葉を頭で解し、ミリアは困惑気味に視線をミコトへ移す。
「……どうして? あなたたちにはこの村の事も、アンの事も関係ないじゃない。村を元に戻したいだけなら、エルフの里にでも行ってみるのが近道よ。まあ門前払いなのがオチでしょうけどね」
「確かに関係は無いかもしれない。だけど、その現状の一端を知った者としては、もう放っては置けない」
「あなた、“おせっかい”とか“余計なお世話”とか言う言葉を知っている? 自分の感情だけで他人の都合に首を突っ込む事が、どれだけ迷惑な事なのか考えた事はある?」
 ミコトの緑灰眼を見据えたまま、ミリアは肩を竦める。
「! ……それでも、これは私の本心だから」
 一瞬言われた言葉に愕然としたのか顔が強張り紅潮した。だが、すぐに平静を取り戻し真っ直ぐに異種族に向かう。その真摯な眼差しは何処までも透く、ミリアを貫いていた。
「…………勝手になさい。但し――」
「わかってるさ。足手纏いにはならない」
「…………あなた、嫌いよ」
 鼻を鳴らし、顔を顰めてソッポ向いたその様子は、酷く幼い仕草に…とても可愛らしく見えた。




―――あれから半島全域に広がる森に入り、今もその内を進んでいる。

 現在までの経緯いきさつを思い返しながら、大きく嘆息した。
(!)
 最後尾を黙々と歩いていたユリウスは視線を感じる。いや、視線だけでなくこちらへの注意、害意、敵意、殺意。明らかな攻撃意志を感じ取る。魔物が放つ醜悪なそれではないと言う事は、向けられている意志からも、これまでの推移からも良く判った。
 この森に入ってから今に至るまでで、この森には魔物・・は現れないという事は十分理解していた。だが、それは進行に全くの安全が保障されたという事では無い。より未開へ、より秘境へ……。人の手の入らない場所というのは、人の知の及びもしない世界が広がっている事と同義である。それはそこを取り巻く環境であれ、そこに在りし生態であれ然り。
 世に蔓延はびこる魔に汚染されていない、動物よりもより奇怪な姿の怪物モンスター種が、普段らしからぬ獲物の匂いに誘われて、外から来たる者に幾度も襲い掛かってきたのだ。
(……来るは斬るだけだ)
 瞑目したまま一つ溜息を吐いて、ユリウスは鋼鉄の剣を鞘から走らせる。鋭く澄み切った抜剣音は戦闘の始まりの合図となった。



 他の地で頻繁に襲い来る魔物も、この秘境で迫り来る怪物も、牙と殺意を剥いて来ると言う時点で変わりは無い。
 殺戮衝動による破壊も、生存本能による搾取さくしゅも、突き詰めればただ己が意志を貫く事に他ならない。それは世界の最も根幹にある純粋な行為、各々の意志が相容れぬ意志を払い除ける生命の淘汰。生命の開闢かいびゃく以来、永劫に繰り返されてきた連鎖にすぎない。
 かつて、ここから遠い故郷で、ただただ闇雲に殺戮という名の戦闘訓練を受けさせられていた幼少の頃。生命の尊さを説くよりも先に殺しの正当化を率先して口にする、自分を監督していた兵士達。
 返り討ちにした怪物の血がのっそりと足元に広がる中、ふと、そんな事を思い出す。
(今となっては、どうでも良い事だがな……)
 最早自分には、殺しを正当化する必要などは無い。己にそう言い聞かせ、自我と心の安定を保つ為の欺瞞ぎまんなどは既に必要無いのだ。
 自分はただ、剱にならなくてはいけない。
 冷徹に、冷血に、冷酷に、冷厳に。敵とした者を屠る冷たい刃に。ただあるがままに死をその身に受け止め、纏い、塗れゆく。嘆きも、悼みも、哀れみも自分にはそれを感じる資格すらない放棄した事だ。
 人としての未来など、初めから自分には用意されていない事など既に解っている。生への羨望せんぼうなどに気を取られている余裕などもない。だからこそ、自分は心を根絶しなければならない。迷わない為に、躊躇わない為に自分の中に病巣の如く巣食う、人であるモノを絶殺しなければならない。
 どうしても果さねばならない、大罪たるちかいの為に。
 どうしても進まねばならない、贖罪たる路の為に。
(俺は……)
 額のサークレット、その紅い宝珠を掴みながら空を仰ぐ。が、それは緑の天幕に遮られて叶わなかった。



 背後から迫って来た怪物との戦闘は、ユリウス一人で片がついた。魔に汚染されていない分獰猛さも、狂愚さも劣っている為、倒すにはそれ程までに苦労は無かった。
 いつものように剣を振るい、いつものように急所を狙い、いつものように命を絶つ。
 ただ一つだけ決定的に違うのは、退けた後に広がるのは自分の内を流れるものと同じ。温かな紅い血の海だという事だ。
 刀身に残った血糊をユリウスは無感動に一瞥した後、振り払う。一面に広がる緑の絨毯は、仄かな香りと温かさを撒き散らしながら赤く染まっていった……。




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