――――第三章
      第七話 生まれ出ずるもの







 朝靄あさもやの残滓が幽然と漂う村の中。
 微かに残った濃密な乳白色の帳が、村の存在そのものを覆い隠すように虚空を犇いていた。その現実と夢幻、群立する建物とそれを擁く風景との境界を危うくするおぼろさが、幻想的な情景を作り出している。
 静寂しじまに満ちていたその地は、何時ものようにただひっそりと時が往くのを迎える筈だったのが、単調な空を切るリズムが、何時もと違う時間の波を響き渡らせてきた。

「ふっ」
 振り抜かれた拳が空を切る。ヒュンと鋭い響きを伴って白い腕が、朝陽に晒される。ぴりぴりと射して来る陽射しが、この冷たい空気の中では返って心地が良い。
「せいっ」
 打ち出した腕を引き、入れ替わりに逆の拳が前の景色を掴むように伸びてゆく。虚空に伸び切った拳が止まる反動で、薄っすらと健康的な肌に浮かんでいた汗の雫が珠となって飛散し、降りしきる陽光を浴びて七色に煌きながら宙を舞っていた。
 低く腰を落とし、虚ろな空の中に一点の的を見出して繰り出す拳。一挙一動、その動きに一切の無駄も無く、実にスムーズに力とフォースの伝達が行われている。ピンと綺麗に背筋が伸ばされたその型は、その人物の清廉さ、誠直さが宿り、真摯な眼差しには、うちの根底にある強かな意志の光を惜しげも無く醸し出していた。
 淡緑の衣が翻り、虚空に大きく脚が振り上げられる。それはピタリと的としていた空の一点で止まり、やがてゆっくりと弓の狙いを引き絞るように下げられていく。厳かに、慎ましく、極めて懇誠こんせいの篭められた緑灰の双眸は、ただ一点に狙いを定めている。
 一つ息を吸って、吐いた。
「はっ!」
 刹那、身体の向きを独楽のように反転させ、逆の脚を天を裂くように振り上げる。しなる鞭の如き柔軟さと、剛毅さを秘めて繰り出された蹴技は、目していた的を寸分違わぬ狙いで捉えていた。
 スラリと伸び切った脚は宙のまま静止し、それを支えている躍動する体の鼓動に合わせて、視界に艶やかな黒髪が靡く。
 捲いた風が空気を切り、何時の間にか、何処からか舞い降りてきていた木の葉が、その葉脈に沿って真っ二つに断たれていた。
 それを見止め、その人物…ミコトは目尻を緩めて足を戻す。背を伸ばし、姿勢を正し、両の掌を胸の前で合わせて静かにその的であった虚空に頭を垂れた。
 礼に始まり、礼に終わる。鍛錬であろうとも、実戦であろうとも彼女はそれを欠いた事が無い。否、欠いてはいけない。叶えるべき悲願を胸に故郷を発ち、行く先々の国で世界を見て聞いて培ってきた自分の信義。それを築く上で大切なものを与えてくれた故郷と家族。変わらない日常を大切にする事は、自分にとってそれを風化させない為の意識へ穿つ楔、育まれた矜持を守る為の儀式でもあるのだ。
 胸の内に秘めた、今も色褪せる事のない故郷の景色。そこを旅立ってから数年…、悲願を成す上で必要と思われる人物と遂に巡り合う事ができた。そう、できたというのに……。
(……いけない。今朝は雑念が多い)
 フウと大きく息を吐いて、ミコトは今まで纏っていた凛と張り詰めていた気勢と共に、絡み始めた思考を解いた。
 運動の後で来る疲労感が全身に圧し掛かるが、今はそれすらも心地良い。肌を撫でつける外気は冷たかったが、身体の気を繰り鍛錬をしていた為、内を流れる血潮は鮮やかで、安寧さえ覚える鼓動で頬が僅かに上気している。
 ミコトにとって、朝早起きをしてこうやって身体を動かす事で“氣”の流れを正すのは極めて日常的な事だった。それこそ、今自分がある環境…魔王討伐の旅の最中であってもそれは絶対に変わらない。
「似ているな、ここは」
 木の香りがする。芝生の香りがする。胸の内にある澱みを払ってくれるような、清涼な風が流れている。
 木の種類、風の冷たさ。建物の様式、生活の風習……。どれをとっても故郷のそれとは似ても似つかない。ただ、この朝の清潔な風を感じて心の中で鎮まる何かは、故郷のそれで感じるものと全く同じだった。
 だからかもしれない。郷愁的な感情が、この村に足を踏み入れたときから懇々と湧き出していると思うのは。
 ふらっ、と揺れ弱まりそうになる心に渇を入れ、ミコトは自分の頬を一つピシリと叩く。
「……私も、まだまだ」
 気を入れなおしミコトは燦燦と輝く太陽の下、朝靄の残滓が微かに漂う村の中を見回した。

 さえずる鳥の歌声が遠くから聞こえてくる。
 それは朝の澄んだ冷涼な空気を透り、村の中を余す所無く隅々まで波紋を広げていく。それはあたかも、そこに在るべき続く者達を喚起しているようでもあった。だが周囲けしきには一切の変化は無く、鳥が羽ばたく影を見る事は出来ない。鳥が群れを為して輪唱する声を聞く事はできない。ただただ揺らめく沈黙に静謐を守り通し、群立し広がる家屋からは、人の生活の音…生命の活動の音が全くといっていいほど聞こえてはこない。つまり、今も高く鳴り響く鳥の歌声は、村を囲む外壁の外から飛び込んできたものなのだろう。
 そう彼女が理解するのに、時間などは掛からなかった。
 この村は今も眠っている。それも深く深く、目覚めという意識の疼きさえ、感じる暇が無いほどに昏々と……。
 深緑の葉を抱える梢から乱雑に伸び切った草草に朝露が零れ落ちる。それがパチンと弾けて白い飛沫の霞となる事に興も感じる事はできない。自分達を覆っている非日常さを愁う事も、異様さを感じる事もできないのだ。
 今、このノアニール村に住む人々はそんな状況だ。
 その中で、日常を謳歌している自分が何だかとても卑小な人間に思えてしまった。先程まで清涼に思えていた風が、責め立てるような弾劾のそれに感じてしまっていたのは、込み上げて来た暗澹たる思考の所為だろうか……。
 そんな事を考え、晴れ行くはずの靄が自分を取り巻く錯覚に困惑している時、背後からかかってきた空に響く透明な声は、何よりもミコトにとってありがたかった。
「おはようミコト。お疲れ様」
 頭の両側で結った髪を翻し声の先を振り向くと、視界には涼やかな浅葱の長髪を靡かせて歩み寄ってくる少女の姿が認められた。自分の次に起きて先ず声をかけてくるのはいつも彼女だった。
「おはよう、ソニア」
 振り向いて朗らかに微笑を向けるミコト。歩み寄ってきたソニアから受け取った清潔なタオルで汗を拭った。

 ほんの今まで暗澹に澱んでいた気分も、すっかり霧の晴れた朝の空のように清々しく広がっていた。






 一同は村長の家の客間、その部屋の中央に置かれている卓を囲んでいた。
 それぞれに出された、透明感と清涼感のある紅茶が並々を注がれたカップの表面に視線を落としたまま、おもむろにヒイロは切りだす。
「昨日から色々調べてみて、幾つか気になった事があるんだ」
目聡めざといな……」
 一晩明けて、既に村の調査に繰り出していたらしきヒイロに、ユリウスは出された紅茶を口にして面を変えず、無感動そうに言った。一つ再び喉に熱い紅茶を流し込み、その熱を感じなくなると「さすがは盗賊か」と抑揚無く付け加える。
 特に意識したのか、していないのか判断はつかなかったが、嘆息しながらのそれはミコトには皮肉に聞こえたようで、僅かながらに頬に力が入る。自分に言われたのでは無いにしろ、そうも臆面も無く吐かれる仲間を嘲るような言葉には、決して良い顔は出来ない。
 ミコトはその言葉の矛先であった本人であるヒイロをチラリと見やる。
「はははっ。どうも、ここの人達はの眠りはただの眠りじゃないみたいだ。……まあ、十数年も眠り続けているという時点で普通ではないんだけど」
 が、当のヒイロは憮然とするどころか失笑すらしているので、気にしている様子など微塵も感じられない。そのあっけらかんとした様に、波立ったミコトの気概は、何処か肩透かしを食らったように空回りしてしまい、ただ大きく嘆息を残す結果となってしまった。いちいち反応している自分がこれではとても滑稽じゃないか、という考えが脳裡を過ぎる。
 難しい表情になってしまったミコトを横から見ていたソニアは、苦笑を浮かべずにはいられなかった。

 周囲の微妙な空気の変化に気付く事無く、ヒイロは話を進めていた。
「この村を覆っている現象は、催眠魔法によるものだと思う」
「ラリホーと同じようなもの?」
 その言葉に興味を持ったソニアが首を傾げる。
「うん。あの魔法は対象の意識活動を麻痺させて強制的な眠りに誘うものだけど、この村の人間にはそれに似た兆候が見られるんだ」
 通常、生態としての睡眠は意識の休止状態の事を指す。それはあらゆる生体に等しく与えられた、命を繋ぐ為の大切な機能。周期的に生じては、身体の各感覚をはじめとする生理機能の低下させ心身に深い休息を齎す。そして、それは軽い刺激を与える事で容易に覚醒する状態である。だが、催眠魔法は覚醒している意識に意図的に障害…麻痺を与えて活動を強制的に喪失状態に追い込む。その場合、余程の強い衝撃が無ければ覚醒する事は無い。
 その為、催眠魔法は手に負えない相手に対しての簡易で、尚且つ効果の高い抑止法として重宝されてきた。
「この村を覆っている眠りは人の…いや生物本来の生態である眠りじゃなくて、何らかの魔法的作用による睡眠を体験させられているというのか……」
「そうだね。周囲の草木や建物の荒廃具合から考えると、十数年以上放置されているのは一目瞭然だ。それなのに、この村の人達はその時間の経過を感じさせない。これは多分、呪い・・の対象が村の中にいた生物に絞られている所為だと思う」
「そんな……。この村の中の、こんな広範囲を対象にしているの?」
 事の大きさに半ば呟くようにソニア。声が微かに掠れ震えているように響くのは、彼女は実際にその魔法を行使できる者として誰よりもその事を解し、そしてこの現状を引き起こしたであろうエルフという存在に畏怖を覚えたのだ。
 愕然と目を見開いている彼女をチラリと横目で捉えながら、ヒイロは頷く。
「おそらくね。でも眠ったまま歳をとらない、と言う事象については説明ができないな。現に、彼らは呼吸をしているみたいなのに、髪が伸びていたり、肌が荒れるといった痕跡は見受けられなかったんだ」
「呼吸をしているのに代謝が行われていない……か。確かにそれは不可解だな」
 口元を手で覆い呟くミコト。微かに低くはなったがはっきりと響く声も、真っ直ぐに卓の一点を見据える眼差しも真摯なものであった。それだけに、事の不可解さとその深遠さを重く受け止めている事が窺える。
「ああ。呼吸をしていれば代謝と排泄が起こるのは生態だからね。その摂理が捻じ曲げられていると考えるべきか、或いは全く別の法則が働いているのか……。『呪い』と一言で片付けるには余りにも興味深い現象だ」
「……不謹慎だぞ、ヒイロ」
 自然と口元を歪めているヒイロを見て、眉を寄せながらミコトは咎めた。その淀みない凛然とした口調に、ヒイロは慌てて「ごめん」と頭を下げ、気まずさからかカップを口にした。
 どうにもこのヒイロという人物は好奇心が勝ると、それへの探求が止まらなくなる性質のようだ。思えば初めて邂逅したナジミの塔でも、誘いの洞窟で旅の扉を前にした時も、シャンパーニの塔で件が終わった時もそうだ。未知なる物への探究心、畏れずにそれを貫こうとする姿勢には好感が持てるが、時と場合を考えるとあまり褒められるものではない事もしばしばある。
 そう、ミコトはヒイロを睨みながら思った。




「ユリウス、君はこの現象をどう見る?」
 数分気まずい雰囲気と沈黙が流れていたが、それを反すようにヒイロはユリウスに視線を送る。
 今まで黙って紅茶を嗜んでいたユリウスは、まだその双眸を伏せたままだ。そんな普段と何一つ変わらない冷静に徹した様子に、ヒイロは他人に見分けがつかない程度に口の端を持ち上げる。
 自分の知らない事柄も、ユリウスならば自分とは違った見識から新たな切り口を開いてくれるのではないかと言う、妙な期待とその確信があった。それは一般的な通論から見て、彼の持つ明らかに異常とまで言える域の知識の端々を垣間見てきたからでもあったからだ。
 それを思うと、自然と続く言葉に興をそそられる。ミコトにたしなめられたばかりだが、確かに自分の知的好奇心が内で燻っているのを認めざるを得ない。
 そんな己の逡巡を意に介さぬまま、双眸を伏せていたユリウスがその漆黒の光を覗かせた。
「……“エルフの呪い”という呼称については、この現状を畏れた人が創り上げた虚構と考えるべきだろうな。村の現状を見る限りでは、催眠系魔法による効果だと言う事には俺も同意見だ。ただ……」
「ただ?」
 一旦言葉を区切るユリウスをヒイロは注視した。
 淡々としているが故に淀みのない口調からは、いつものように確信を得ている者の言を彷彿させる。だからこそ、心なしか次の言葉が待ち遠しくなっているのを自覚する。この感覚は、本を読んでいる時、その頁を一枚一枚捲って先に進む時のような、一種の恍惚とした高揚感に似ているものだ、と冷静に努めるように自分に言い聞かせながらヒイロは思った。
エルフが用いた催眠魔法・・・・・・・・・・・という前提で現状を見るなら、この現象について考えを進めるのは易いだろう」
 言葉に、ヒイロは口元に手を当てて琥珀の双眸を細める。深く思考を繰り広げる時の姿勢だ。
「エルフ…妖精の魔法は、人のそれとは事情が違う。顕在化する効果を含めた性質が、な」
「性質? それは――」
「事情が違うってどういう事なんだ?」
 慌てて話に入ってくるミコト。その言葉の慌しさから、語られる話を理解しようと必死になっているのだろう。
「私は魔法が使えないから良くわからないけど、人間と妖精では、魔法を使う時何か別の要素があるのか? いくら種族の差があるといっても、魔法は魔法なんだろう?」
 ミコトの言は、ヒイロの抱いた疑問を余す事無く代弁していた。思えば、自分と同じで彼女も魔法は使えない。その事が同じ思いを抱かせていたのだろうか、と考えて心内で一つ苦笑する。
 その必死さがありありと伝わるミコトの視線を受けて、ユリウスは静かに返した。
「魔法を行使する際の過程を知っているか?」
「いや、私は……」
 知らない、とミコトの言葉は続く。
 僅かに言葉を濁したのは別に魔法が使えないという事を恥じたり、それに劣等感を抱いている訳ではない。だが、それを知っている事を前提で話を進められていては、話に入りようも無い。そんな思いがミコトにはあったのだ。
 その事を卑下にしたりする事無く、ユリウスはただ事実を確認するようにコクリと頷いた。
「……魔法は魔力エーテルを収束して、発動呪文によるエーテルの加速、現象に変換する三過程を経て初めて現象として発現する」
 言いながらユリウスは、自分の言葉の内容を確認するように、指を一本ずつ立て始める―――。

 一般に認知されている魔法体系…魔法という現象を引き起こす為の儀式過程は通常三つの段階を要するといわれている。
 一つ、術者が行使しようと思い描く魔法に見合うだけの量、魔力エーテルを収束する発起はっき過程。
 一つ、収束したエーテルを発動呪文を唱える事で励起し、それに応じた現象を引き起こす為に加速させる発動過程。
 そして、加速されたエーテルを思い描いた現象に変換する、最終過程である顕在過程。
 この三過程を経て初めて、魔法という超常的現象を人は意図的に行使する事ができる。

「例えばそうだな……回復魔法ならば一般的に、『清廉なる生命の光よ。傷つき伏せし者を癒せ。ホイミ』と唱えると、初等回復魔法のホイミが発現する。この場合、言うまでも無く『ホイミ』が発動呪文であり発動過程、その前の文句…真言が発起過程になる」
「じゃあ、本来ならこの後で顕れるであろう白光が、顕在過程という事なんだ」
 何度もソニアが起こしてきた魔法を思い浮かべミコトが呟く。その視線を感じたソニアも首肯した。
「真言については術者によってその文句が異なる。それは宗教や思想、教育や風俗、個人によって様々に変化する。……要は術者がどんな魔法を扱うのかイメージする為のものに過ぎないからな。魔法の扱いに慣れてしまえばこの過程は、無言のまま短時間でも充分になる」
 それで普段、ユリウスは魔法を使うとき呪文しか唱えていないのか、とミコトは納得する。そこではたと思った。
「発動呪文は誰しも共通なのか?」
「ああ。どういう原理でそれが唯一のものとされているのか知らないが、そういうものだとしか言いようが無い。嘗て魔法…真言を含める一連の儀式過程は、それこそ一子相伝の秘術、数多有る教義の秘儀として扱われていた。だが、魔導府ダーマ神殿によって世界に広められていった為、今では魔法は一般的に認知されている手段の一つになった」
 抑揚無く端的に魔法の歴史を語るユリウスに、へぇ、とミコトは感心する。
 魔法の原理に明るくないとは言え、世界を旅して廻って来た以上、それにまつわる様々な話は耳にした。その玉石混交ともいえる逸話群の中で、限り無く真実に近いものもあったかも知れない。取るに足らない全くの作り話もあったかも知れない。ただ、その判断の指針が自分には無かったから記憶の内に留めるような事はしなかったが……。それを思い浮かべて、ミコトは瞠目した。
「まあ、それは余談だな。……要点は、魔法を行使する際に収束するのはエーテルである事。人間だろうが妖精だろうが、魔法を扱うという行為においてこれは何一つ変わらない事実だという事」
「じゃあ、何が違うと言うんだい?」
「人間種の魔法は、自らの内の精神力…内包されているエーテルを用い、収束する。だが妖精種においてはそうではない」
「…………」
 誰もが黙して、次の言葉に聞き入っていた。
「妖精種においては、自らの内のエーテルを僅かに用い、それを媒介にして大気に満ちているマナから、エーテルを抽出し収束しているんだ」
 いまいち話の要点が掴めないミコトとヒイロは首を傾げる。ソニアは黙ったまま両手でカップを包んで、淡々と説明を続けているユリウスを見つめていた。
「え、と……つまり?」
「人が自分の内から収束できるエーテルには限りが有るのに対し、妖精は自分の外からエーテルを際限無く収束する事が可能だと言う事だ」
 それも自らの消費は極僅か、と溜息混じりにユリウスは付け加える。
 カップを手してに口に運び、底に僅かに残っていた紅茶を一気に飲み干す。何時の間にか冷えてしまっていたそれは、話し続けた喉には酷く冷涼に感じられた。
「……成程、確かにそれなら種族差による許容量キャパシティの差は膨大だね。許容量が大きければ、それだけ魔法に魔力を注げる。つまり同じ魔法を使ったとした場合、この二つの種間ではその効力に雲泥の差が出ると言う事か……」
 語られた言葉を吟味し、咀嚼そしゃくしているヒイロの呟きを肯定するように、ユリウスは無言で頷き、続ける。
「そして、魔法を用いる際の魔力密度…行使する魔法にどれだけ魔力を注ぐかによって、発現した魔法は三つの階級レベルに分かれる事になる」
「レベル?」
「三つ?」
 また一つ解らない単語が出たとミコトや、今まで黙って聞いていたソニアも眉を顰めた。
 それを見止める事無く、空になったカップの中に視線を落としながらユリウスは続ける。
汎律級ウルガトゥス連環級エヴィヒカイト、そして神韻級セイクリッドだ。……俗に『魔法』という言葉が指すのは汎律級。それよりも高次に存在しているのが、連環級と神韻級だ」
「何か具体的な違いがあるのかい? そりゃあ、効力やその規模といったものに当然差が有るんだろうけど、敢えて分類カテゴライズしているって事は、何か特殊な性質の違いでもあるんだろう?」
 ヒイロは即座に疑問を挙げてくる。それは聞かされた事に対して正確に理解した上での言葉だった。
「ああ。詳しくは触れないが、より高次になればそれぞれの級について特質が顕れるようになる。ただ、級によって極端に発現効果が変化するのは特種魔法と分類されるものだけだ。他の魔法については、階級によって顕在化する現象が変化する事は余り無く、あくまでも発動呪文に準じた発現を示す。……それが特種魔法を特種たらしめる理由になっているんだ」
「何となくわかったような気もするけど、いまいちわからないような気もする……」
 ミコトが溜息の如く言葉を漏らしていた。
「ふむ…、古代魔法とか神聖魔法。封印指定魔法とかあるけど、それとはまた別なのかい?」
「あれは魔法の種類に対しての範疇カテゴリーであり、階級とは…まあ端的に言ってしまえば威力効力に対しての指標だな」
 これまでの話を理解していると思しきヒイロは、違った単語を交えて質問を返している。それに少しの逡巡もする事無く、ユリウスは即座に答えた。そこには微塵も迷いも逡巡も無い。ただ真実への確信が在るだけだった。
「成程。カテゴリーは横で、レベルとは縦の関係という訳か。じゃあ、僧侶の扱う魔法と、魔法使いが扱う魔法が違うのはどういう事なんだい? 俗に同時に習得は出来ないとされているだろう?」
「そうだな……、職業、魔法という順で考えるから混乱を生むんだろうが、本来は逆に考えるものなんだ。まず、究極的には魔法体系には二つの種類しか存在しない。正流魔法と反流魔法…前者を主に扱うのが僧侶と呼ばれる職業であって、後者を扱う事に長けているのが一般に魔法使いと呼ばれる職業だ」

 魔法とは大きく二つに大別される。魔力エーテルを収束し、加速、発現するという一連の過程に違いはない。違いが在るのはその加速する際の方向性である。回復魔法を代表とする、自然の流れに順じた正流にエーテルを加速する正流魔法。対して攻撃魔法に類を見る、自然の流れに反発した逆流方向にエーテルを加速するのが反流魔法。それら相反する方向性の為に両魔法を同時展開する事は不可能と言われている。

「全ての魔法は、エーテルを加速させて発現する現象だ。その方向は正か負かの二者択一しかない。そして正流魔法のなかで極められたのが神聖魔法と呼ばれるもので、反流魔法の最たるのが古代魔法だ。禁呪…封印指定はまぁ、ダーマ神殿が定めた規定上制御困難なもので、厳密には範疇には数えられないな」
「つまり、僧侶が扱う魔法が正流魔法なのではなく、正流魔法の使い手を僧侶と呼ぶと言う事か。……やはり、魔法は奥が深い」
 感嘆に吐息を漏らしながら、コクコクと首を縦に動かしながらヒイロは納得する。それを無感動に見止めつつ、ユリウスは逸れた話題の修正を図った。
「階級に関して言えば特に気にしなくてもいいだろう。人間が扱う魔法は、基本的に汎律級に限るとされている」

 話し疲れたのかここで一つ嘆息する。普段、余り自分から話す事など無いユリウスの姿からすると、何処か新鮮で、ミコトは違和感を感じて仕方が無かった。
「階級差は魔力密度によって顕れる。そして魔法に篭められる魔力密度は、収束可能な魔力量に左右される。つまり、それは種族差と密接に関係している事になる」
「え……」
 思わず言葉を零すソニア。今まで、エルフという種族は“魔力が高い存在である”という前提で彼の種を認識していたからだ。
 ヒイロにもそれが珍しく聞こえたのか、ユリウスが語る魔法理論と種族の関連性に興味が惹かれている様子だった。思わず卓に両肘を着いて身を乗り出している。ここに来て完全に好奇心が前に出てきてしまい、それによって口元が自然に上がっているのに、恐らくヒイロは自覚すらしていないのだろう。
「というと?」
 ただ、続きが知りたくてヒイロは尋ねた。
「それは――」




 木の椅子の背凭れに大きく寄り掛かって、ミコトは短く溜息を吐いた。それに首を傾げながらソニア。
「どうしたの? ミコト」
「いや……、ちょっと、ついていけなくなったから。……ソニアは、解る?」
「…………もう、諦めたわ」
 小さく頭を横に振るのを見て、どこかホッとする自分がいるのにミコトは内心で嘆息していた。
 既に離脱したミコトは、カップを指先で弄びつつ呆れ顔になって、尚も話を続けている二人を眺めた。




 話を戻す、と一つ咳払いをするユリウス。
「この村の眠り・・の原因を催眠魔法ラリホーという前提で話を進めると、連環級におけるものだと考えられる。連環級の魔法の特質は発現効力の永続化だからな。存在領域の面から見てもその方が都合がいい……。まぁ、エルフの魔法構築がどのようになされているか、知りようも無いから推論の域は出ないが」
「うーん…、そうだろうね。あ、でも話を聞く限りじゃ、術者であるエルフの時間間隔で汎律級の睡眠魔法を掛けられている、とも考えられるね。その場合、時間による変化が人間に顕れるという事は薄いと思うな。人間にとっての十数年も、エルフにとっては短期間に過ぎないだろうから」
「確かに…そうだな。魔法は主に術者の感覚が反映される傾向もあるからな。特に害意を孕まない催眠系などの補助魔法大系は、それが顕著に出るという事もあるか……」
 ヒイロの言葉はユリウスの盲点を突いたようで、ユリウスも考え込むように口元に手を当てた。
「……つまるところ、どんな魔法構築がなされているか解らない以上、迂闊うかつに魔法を上乗せしてしまうのは危険だという事か。前提の通りこれが催眠魔法ラリホーによるものなら、それの反性である覚醒魔法ザメハでなんとかなるんだろうけど……」
「その場合、術者には施術者と等価かそれ以上のエーテルを要する。……この村に掛けられた魔法の規模と効果を見る限り、それは明らかに人の手に余るだろう」
 ヒイロの呟きに、ユリウスは言いながら首を横に振る。
「人の身でエルフを超える魔法行使か……、現実にそれは可能なのかい?」
「……基本的に種族差という壁が在る以上、人間がエルフ…妖精種に魔力で勝る事はないだろうな。…………極稀に人の中でも、その垣根を超越する者も生まれるが……」
「基本的、というからにはあるんだね?」
「ああ。魔力増幅効果のある魔導器と魔法構築補助の魔方陣、そしてマナの流脈レイライン場の属性エレメント……あらゆる外的要因を満たせば可能ではあるだろうな」
「…………それはあまりに現実的じゃないね」
「…………ああ、この地で条件を揃えるのはまず無理だな」
 同時に、何処か疲れたようにユリウスとヒイロは嘆息した。
「同級の魔法で勝ち目が無いのなら、相手がそれよりも高次で魔法を紡いでいた場合、対抗するのは波濤の前の漣と同じだ。反干渉作用で逆にその魔法に呑まれてしまうだろう」
「結局のところ、術者以外には解けない、か……。俺達には打つ手が無いね」
 ヒイロの呟きにユリウスは答えない。無言である事が何よりもヒイロの言を肯定している証拠だった。




 フウ、と満足気に背凭れに寄り掛かるヒイロを横目に、ミコトは口を開いた。
「……で、結論はでたの?」
「ああ。この呪い・・を掛けた術者にしか、解呪はできないであろうと……」
「散々話し込んでおいて、結果はそれだけなのか!?」
「いやいや、中々に興味深い議論が出来て俺は満足だけどね」
 妙に満たされた笑みを湛えるヒイロに、ミコトは半眼になりながら。
「…………まあ、“エルフの呪い”が厄介だという事はわかった。……じゃあ次を考えよう」
「次?」
 何の事かと不思議そうにヒイロは眼を瞬かせる。それを見止めて、僅かにミコトの頬が引き攣った。
「……物事には必ず、発端となる因果がある。何故この村がエルフの呪いなんてものに晒される事になったのか、その原因を探る方が本来なら先じゃないか」
「ま、まあ……そうだね」
 ミコトの言っている事は確かに尤もな事だ。何処か気圧されそうになるミコトの迫力にヒイロはそう思いつつ、ただ頷く。そこにユリウスの冷然な声が掛けられた。
「……ならば、それこそ現地の人間に聞くんだな。他所から来た事情の知らない人間が幾ら泡沫ほうまつ論を挙げたところで答えなど出はしないだろう」
「お前はどうして、そう……」
 先程とは打って変わってまるで熱のないユリウスの言葉に、ミコトはギュッと手を握った。
 今の今まで饒舌とも言える位に口を開いていたにも関わらず、一転して氷のように温度を無くしたような態度。これまでの、そして今の様から察するに、どうにもこのユリウスという人間は世の理や原理などの根源的な知識に関しての方向には意識を傾けるが、人の感情が孕むような世情についての事は酷く投げやりにしているように思えてくる。それに相対した時の様子は極めて無関心、興味が絶無であるともとれるし、頑なに拒絶しているようにさえ見える。
『勇者』として人の世を護る為に魔王討伐の旅に出た人格としてはやはり相応しくない、とミコトは思わずにはいられなかった。先日シャンパーニの塔で仲間のヒイロに諭されはしたが、やはり長年培った自分の価値観と、羨望にも似ている抱いてきた理想像がそれを受け容れるのを拒んでいる。そんな心内での摩擦が、とてもこそばゆかった。
 横を見ればソニアは眉を寄せ難しい表情で、素知らぬ顔をしているユリウスを見ている…というより睨んでいる。彼女がこのような厳しい視線をする事など、普段からすると考えられなかった。確かにユリウスに対してだけ、ソニアは複雑な感情を篭めた視線を送るのは知っているが、今のそれは明らかに異質なものに感じられた。何がどう違うかと言えば、上手く言葉に出来なかったが……。
(気になるけど、今は……)
 ミコトは反れた思考を戻し、極力表情には出さないように努めて一つ短く溜息を吐く。そして無感動に今までの自分達のやり取りを眺めていた、窓際に座すミリアに視線を移した。
「ミリア。あなたはこの村が何故こうなったのか、その原因について知っている?」
 決して自分達に友好的とは言えないが、この村唯一人無事であった村長との知己である彼女なら、何かしらの事情を知っているだろう。そう思い尋ねてみる。
 真摯に、こちらの誠意が伝わるように真っ直ぐとミコトはミリアを見据えた。
「……さあ、どうなんでしょうね。知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らないわ」
「……茶化さないでもらえるか」
 肩を竦めるミリアの旺然とした仕草に少し腹が立った。それを顕すようにミコトの言葉使いが毅然とした威圧的な響きに変わる。顰められた緑灰の眸には強い光が宿っていた。
 大の大人でも物怖じしそうなそれを、真正面から受けても少しも臆する事無いミリアは冷たくその眼差しに返す。

 完全に静まり返った客間の中で、二人は暫しそのまま睨み合っていた。
 ソニアはミコトを、ヒイロはミリアを窺うように見る中で、ユリウスだけは我関せずを決め込んで、カップに紅茶を注ぎ直し暢達にそれを啜っていた。




 やがて痺れを切らしたのか、ミリアが小さく溜息を吐くとこの膠着状態は終わりを告げる。
 ゆっくり身体の内にあった空気の全てを吐き出して、ミリアは自然と俯いた顔を上げた。その深海を彷彿させる淀みない藍色の眸は、眼前の人間達のそれぞれの様相を捉えた。
「……聞いていいかしら?」
 静かに、真剣に、呟くように紡がれる。
「何を?」
 それに今の今まで真っ向から対面していたミコトは返す。眸は尚も真摯なままで。
「何故あなた達は、自分達に何の関係もないこの村の為に動こうとするの? この村がどうなろうが、あなた達には関係ないでしょう? あなたたちには何の益もならないでしょうに……」
「関係の有る無し、利益の有る無しなんて問題じゃない。目の前の理不尽さを私は、ただ許せないだけだ」
 今世界を暗礁へと導いている魔物と言う存在は、ある意味理不尽さの象徴でもある。そして現在この村を覆っている現象もまた、一方的に突きつけられた理不尽の結果のように思える。でなければ村人達はあれほどまでに日常的な、自然な表情をしていないだろう。なまじ自然すぎるが故に、この異様さは圧倒的な理不尽な力によるものだと認めざるを得ない。
 自然な日常を一方的に停められて、どうしようもない時間の流れから取り残され、世界から乖離かいりされてしまったこの村。外から来た自分達には、その凄惨さが良く判る。氾濫する自然の中に埋れ掛けている人々。時に朽ち果て往く建物……。だからこそ見過ごせない。そう自分の信義を貫く。
「理不尽? …………そんなもの、人間だろうとエルフだろうと周りを見れば吐いて棄てる程あるじゃない。いいえ、寧ろこの世界そのものが理不尽の檻……。あなたは人の身でその全てに咎を打つというの? それこそ、人には過ぎた傲慢さよ」
 忌々しそうに顔を歪めて独白地味た口調で語るミリアに、ミコトは真っ向から向かった。その緑灰の瞳に、ただただ強い意志を篭めて。
「……それでも、ただそれを享受して、何もしないで待って変化の有無に嘆くよりは、動いて転んで、挫けて立ち上がって足掻いた方が何倍もいい。……少なくとも、私はそう思う」
「!」
 一瞬、ミリアは大きくその眸を揺らしたが、慌ててそれを隠すようにきつくその双眸を伏せる。

――ミリア、あなたの事もっと良く知りたいの――
 瞼の裏に甦るのは、冷たく薄暗い場所で出会った、美しい若葉の緑髪をした女性の微笑み……。
――……君は君だ。それ以外の何者でもない――
 脳裡に甦るのは、逆光に霞む中で出会った、濡羽のような黒髪をした逞しい戦士の雄姿……。

 下唇を噛み締めて、そっと瞼を開く。今は思い出に逃げている時ではない。そう内心で女々しい自分に唾と罵声を浴びせ、ミリアは先程までと変わらない強かな面を上げ、『人間』達に向かう。
「……これだけは初めに言っておくわ。私が知っているのは、この呪いが掛かるまでの過程と、それを掛けた者についてだけ。実際に術者がどんな思惑でこんな事をしたのかなんて判らないし、知りたくもない。……それでもいいかしら?」
「! ああ。何も判らない今よりは」
 黙ったままの『人間』達の中を代表して、コクリと真剣にミコトは頷いた。
「…………いいでしょう」
 ミリアは自分の両手をギュッと握り締めながら、訥々とつとつと話し始めた。




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