――――第三章
      第六話 夢現と夢幻と







 ユリウス達が村の中で佇んでいる間、ミリアとノエルは目的の場所に辿り着いていた。
 村の南西の外れに在る、他の民家に比べると大きな二階建ての家屋。その建物だけは周囲の家々の朽ちようとは一線を画し、手入れの行き届いた軒先や花壇。綺麗に磨かれた窓からは、営々と築いている生活のいろが冷たい空気に散満していた。
 荒涼とした景色が続いていた中で見まみえるその違いに、ノエルが唖然として息を呑み込んでいるが、ミリアにその小さな手を引かれたまま、木の戸口にいざなわれてゆく。瞠目しているノエルに気付いてかいまいか、ミリアは戸を一つ叩き、反応を待たずにそれを押し開けた。
 戸を開けた瞬間。生活の匂い、温かさ、そして人の存在感が家の中から流れ出てきたのをノエルは肌で感じる。それに緊張を覚えるのをよそに、ミリアは勝手知ったると見る間に建物の奥の間へと鷹揚に進んでいく。それをノエルは慌てて追っていった。
「…………人か!?」
 玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の奥から、既に白く染まった髪や髭をした老人が怪訝な眼差しで顔を出した。
「久しぶりね、アルメイダ」
 それを見止め、ミリアは全くの抑揚も感情も載せない声で言った。その透明な水晶のように澄んだ声が、他に人の存在を感じさせない木の廊下に響き渡る。
 暫し呆然と、眼前に現れた闖入者であるミリアを見つめたまま、老爺は重く垂れかかっていた瞼を開き、その奥の瞳を覗かせる。額に刻まれた皺が一層はっきりと深くなった。
「!! お、お前さん……あの・・ミリアか?」
 年月に張りの無くした声が震え、酷く掠れた言葉が二人の異種族に掛けられる。
「ええ。……あなたはすっかり老け込んだわね、アルメイダ」
「当たり前だ。わしはただの人間なんだからな」
 目に見えて動揺している老爺を前に、旺然と肩を竦めるミリア。それに相手はただ苦笑を漏らしていた。

 長い年月と苦労の末にすっかり白くなった髪の老人に、奥の部屋へと通される二人。その部屋は窓から陽気が射していて温かく、外の冷たさをまるで感じさせないものだった。
 安楽椅子の背凭れに手を掛けたまま振り向きながら、ミリアにアルメイダと呼ばれた老人は記憶の懐旧を手繰るように眼を細める。
「それにしても久しい……。だが、どうしてここに?」
「私独りなら、こんな村寄るつもりは無かったわ。…………この子、ノエルの為よ」
 そんな温かな眼差しを受けて、少し居心地が悪そうにしながらミリア。
 隣に立つミリアを見上げながら、やはり普段とは違う様子に不思議そうにノエルは首を傾げている。この村に着いてからというもの、ミリアの様子は今まで自分が知らないものばかりだったので、とても新鮮に思えたし、何処か置いて行かれている様で寂しいような感じも抱いていたのだ。
「ノエル!? ま、まさかその子が……」
 言葉なく唯頷くミリア。愕然と眼を瞬かせるアルメイダ。
 突然に自分の名前を呼ばれて、ノエルはビクッと身体を揺らしミリアの後ろに隠れた。
「おお……」
 臙脂の緞帳どんちょうにしがみ付いて、そこから覗くように恐る恐るノエルは眼前の老人を見上げている。ノエルのそんな様子を見止め、アルメイダは膝を床に落として天井を仰いだ。その眼球が零れ落ちそうなほどに開かれた双眸からは止め処なく涙が溢れ出ており、幾重もの皺が刻まれた頬を伝って木の床にその雫を落としていた。
「この地の時が凍って十数年……。こんな……、こんなに嬉しい事は無い」
 自分が何かをしてしまったのかとノエルは混乱する頭でどうしようかと狼狽していると、ミリアがそんなノエルの心情を察したのかそっと優しく髪を撫でた。
「ミリア……。この人は?」
「わしはアルメイダ。……お主の父の父だよ」
 ノエルの問いにミリアは答えず、眼前の老人が涙を服の袖で拭いながら穏やかに答えた。そして言葉の意味にノエルはただ眼を丸くする。
「父さんの……。お、お祖父さん?」
「そうだよ。ああ……この大きな眼。あの子の小さい頃に瓜二つだ。あの小さな幼子が……」
 皺だらけの大きな手でノエルの頬を包み込みながら、過去に浸るアルメイダ。拭ったばかりの目、涙腺から再び止めどなく涙が溢れている。
 見知らぬ老人の温かく大きな手で頬を包まれて始めは僅かに戸惑ったノエルだったが、それでも不思議な事に不快な思いなどしなかった。寧ろいつもこうしてくれるミリアに似た温かさを感じて、気分が穏やかになっていくのを心のどこかで感じる。
「お祖父さん…、僕の……」
 ミリアからは自分の両親は既に他界しているという事を聞いてはいたが、いつも傍に育ててくれたミリアがいてくれた為かその実感は薄かった。
 初めて出会う肉親。顔を上げた先にある温かな眼差しは、どこか懐かしくさえある。
 会った事は無い筈なのに……、そんな事が脳裡を過ぎるが直ぐに消えた。自分の中に流れる赤い血潮には、確かに眼前の人と繋がっていると言う閃きにも似た何かがそう確信させていた。
 そう理解したとき、何故だか自分の心が揺さぶられたようで胸が熱くなった。いや胸だけではない。眼の奥も耳も奥も、額も頬も……。心臓が激しく脈打って動悸が早くなっている。涙が、頬を伝って零れているのに気付くまでに時間が掛かった。
「……お祖父さん!」
「ノエル……」
 ノエルは先程の警戒にも似た様子を解いて、たどたどしい足つきでアルメイダに駆け寄ると、彼はしっかりとノエルを抱きしめて包み込んだ。

 嗚咽を上げて抱き合う二人を、複雑な顔でミリアは見下ろしていた。その藍青の双眸には一抹の感情が浮かんではいたが、自覚も理解もする前に無意識の底にへと姿を消した。






 太陽も既に南の天頂を過ぎ、後は緩やかに滑り降りていくだけだ。それに伴い風は夜闇を纏い、冷たさを増してゆく。
「どなたか、いらっしゃいませんか?」
 人の営みが齎す物音一つしないこの村の中を歩いていると、身体だけでなく心までも冷え切ってしまうように感じていたソニアは、その中で温かみのある人の生活の証を見止め安堵と共に、どうしてこの家だけが、という疑問を溜息と共に零していた。
 木の戸口を叩いてから、待つ事数分。ゆっくりと開けられた扉から顔を覗かせたアルメイダは眼前の来訪者を見止め、眼を丸くした。
「……今日は千客万来だ」
「はじめまして……」
 ニッコリと迎えた老爺の反応から察するに、やはりミリアとノエルはこの家を訪ねたのだろう、と挨拶を交わしながらソニアはそう思う。丁寧に帽子を脱いで、礼儀正しく腰を折って会釈をした。
「あなた達は旅人かね? このような時に村を訪れるとは……」
「気にする必要はないわアルメイダ。ただの道連れよ」
 老爺の言葉を遮って、後ろから冷然とした声がこちらに向かって掛けられる。それを受けてアルメイダはふぅ、と溜息を吐いた。
「何だ、ミリアの知り合いか? ならば久方ぶりの客人だ。茶の一つでも出さねば悪い。ささ、どうぞ入りなされ……」
「お邪魔致します」
 老爺に促されソニアに続いてミコト、ヒイロも軽く会釈をして家の中に通される。その表情は冷たい風を遮る壁に囲まれた空気に安寧を覚えたのか、三者三様の安堵の色を浮かべていた。

 丸太を幾つも積み重ねた廊下の壁に寄りかかって、通り過ぎていく彼女等を無感動に見眺めていたミリアの視線は、最後尾を歩いていたユリウスのそれと重なった。黒すぎるが故に鏡のように光を反すその双眸に、ポツンと佇む自分の姿が映ったのを見て、忌々しそうに舌打ちをし視線を引き剥がした。




 穏やかな午後の陽射しが高窓から差し込んでいた。
 嘗てはここに大勢の人が暮らしていたのだろう…、そう思わせるには充分な広さの卓を四人と家主は囲んでいる。ノエルはアルメイダの隣に座り、ミリアは壁際に置かれた椅子に腰を下ろして、窓枠に肘を掛けて窓の外の動かない景色を睨み据えるように視線を向けていた。
 彼等に等しく出された茶褐色のコーヒーは、芳しい深い香りを部屋の中に漂わせている。
 一同に会し落ち着いたところで、改めてユリウス達は名を名乗った。そういえばこの村に来るまでに案内役となったミリアやノエルにまともに名乗った記憶が無い事を思い出したが、今更どうでもいいとユリウスは一つ短く溜息を吐いてその思考を切り捨てた。
 ソニア、ミコト、ヒイロが名を名乗り、最後にユリウスが無表情に名乗った直後、眼前に座るこの村の村長アルメイダが驚愕に眼を大きく見開いてオルテガとの所縁ゆかりを尋ねてきたので、ただ頷く。アルメイダの反応の様子には何の感慨も沸かなかったが、オルテガがこの地を訪れたという確かな形跡を得られて、徒労に終わらずに済んだと嘆息しコーヒーを啜っていた。

――この時、窓際のミリアが大きく藍の双眸を揺らしてユリウスの背を見つめていたのだが、ユリウス達はそれに気が付かなかった。

 ソニアが代表してこの村に訪れた理由を、ここに至るまでの経緯などを説明する。それに所々ミコトやヒイロが感情や補足などを加えた。
「……成程。カザーブからそのような事情でこの村に」
「はい、そういう事です」
「本当に……、ありがとうございます」
 現実に村の惨状を目の当たりにしたソニアやミコトには、この村に対しての感情移入があった。それ故に、この村の為に何かしたいという思いが胸の内に芽生えていたのだ。それを二人の真摯な瞳と言葉から汲み取り、村長としてアルメイダは感謝と共に、村の長としての不甲斐無さに目頭を押さえつつ深く深く頭を下げていた。

「村長、一つ尋ねたい」
 説明が一段落ついたの認め、ユリウスは無感動に切り出す。会話に感情が織り交ぜられた為か暖かくなった雰囲気の中にあって、酷く異質に思える程に淡々とした冷然な声色だった。
「何ですかな、勇者殿?」
「……父、オルテガは何故この地に?」
「この森の深奥に住まうと云われるエルフの助勢を得に」
「助勢? ……その詳細は?」
 いまいち要領の得ない答えに、僅かにユリウスは目を細める。
「エルフの予言者を訪ねたという事だが、詳しくは存じませぬ……。ただ、それが叶わなかったとオルテガ殿は残念がっておられた」
「……その後オルテガが何処を目指したか、知っているのならば教えてはもらえないだろうか」
 一瞬だけアルメイダは視線をユリウスから外してミリアを捉えるが、そのミリアは唖然としたままこちらを…というよりユリウスを見ている。それを認め一つ溜息と共に頭を横に振った。
「……すまぬが存じませぬ」
「そうか」
 返ってきた言葉にユリウスは瞑目するも、その声色に感情の揺らぎはおろか全くの抑揚も無かった。




 茜色に染まっていたと思っていた窓の外が、既に夜の闇をその茜色に孕ませ始めていた。
 日と時が早却に暮れるにつれて闇と朱の草原を駆ける風は強まっていき、それに身をなぶられながらも微動だにせず村人達は昏々と眠り続けている。そんな彼等の様子を思うと悲哀と共に侘しさが次から次へと沸いて出てくる。静寂の支配する荒涼とした村に射す夕陽が見る者に余計にそれを掻き立てていた。
 ノアニール村長アルメイダはユリウス達に、この家に留まるように嘆願した。
 村長の家は、この村にあっては規模が大きかった。宿ほどの大きさではないが幾つも部屋はあり、嘗ては家族もいたのだろう。だが今はたった一人だけ。それ故に人恋しかったのかもしれない。
 それに宿を取ろうにも、宿屋を運営している人間の方が今は眠っており利用はできない。仮に無断で使えたとしても、十五年も放置された場所に寝泊りするという気にはならなかったので、その申し出をユリウス達は受け入れる。

 カザーブ村からここノアニ―ルに至るまでの数日。数える事自体馬鹿馬鹿しくなってくる程、凶暴な魔物との戦闘を繰り返してきた。山道をただひたすらに下ってきたとあって、陰鬱な森の中で野営をしなければならない日が続いた為に、緊張と疲労が蓄積していたのであろう。確かな疲労の色が誰しもの顔に浮かんでいた。






 深紫の空から吹く夜風が、静かに広がるしとねの草叢に染み渡るように撫でている。サラサラと梳かれる草の靡きは何処からとも無く虫達が紡ぐ輪唱を乗せ、冷たい空気はそれを何処までも深い星々の瞬く空へと還す。羽の音、風の音、草の音…は静謐を秘めた夜の循環を壊さぬように、遥か高みから降り注ぐ星の光に見守られながら、遠く遠くへと流れて、やがては潰える。
 特に意思も無くユリウスは一人草原に立ち、その静寂しじまに身を委ねていた。空よりも黒い髪は風にはためき、その双眸も今は伏せられている。
 視覚を閉ざし、鋭敏になった聴覚に捉えられるのは夜の音。そして、自分の内を流れる血潮の鼓動。
(ここは……)
 何も無い。そう思う。
 周囲には動いている人間の姿は無く、まるで動く様子も見せずにただ昏々と眠り続けている人間が在るだけ。
 ただ静かな、ただ冷たい、世界に置き去りにされた場所。

 一陣の冷たい風が吹き抜けて、草叢がざわめいた。
 背後から人の気配が近付いてくるのを感じ、ユリウスは慌てる事無く泰然と、ゆっくり瞼を開く。
 闇に慣れた視界に入る景色は、やはり闇色に染まった単色の世界。空から照らしてくる星々の明りだけが白く、黒の世界を侵食していた。
 無意識的に腰にさしたままの剣の柄に手を添わせ、いつでも抜き放てるようにする。その表情も雰囲気にも慌てた様子など微塵も無い、ごく自然なものだ。だがそれ故に油断も隙も無かった。
「……ユリウス?」
 声を聞いて誰か判ったユリウスは、静かに柄から手を離す。夜闇、外套の下での事なのでそれは誰にも見られる事は無い。振り向く事無くユリウスは淡々と気配の主を迎える。
「…………何だ」
「何をしているの? ……剣なんか持って」
 冷たい夜風に良く通るソプラノの声が草原に響いた。
 闇掛かった空の下、背に流した濃紺の外套の裾が何かにせり上がり、そこからは革製の鞘の先端が顔を覗かせている。それを見止めて声の主は、声調と表情を顰めていた。
「お前には関係無い」
 首だけを動かして、半眼でユリウスは声の主…ソニアを捉える。普段の旅の法衣の上に毛皮の外套を羽織っている。夏とはいえ、この地方の夜は酷く冷える。夜風に靡いている暗闇に染まった浅葱の髪が、それを助長させているようだった。
 あまりに冷たく返ってきた言葉にムッとしたのか、憮然としたように眉を顰めソニアは口を開く。
「そんな言い方しないで。……あなたが言った事よ。ここには魔物は侵入できないって。だから安全なんでしょう?」
「魔物がいようがいまいが、この世界で安全な場所など俺には無い」
 振り返る事無く淡々とユリウス。口早に紡がれた言葉には温度はなかった。
「何よそれ……、どういう事?」
「言葉通りだ。それ以外に意味など無い」
「…………」
 理解できない言葉に怪訝にしていたが、こう言い切られては返す言葉も無い。
 釈然としないが、その事へ向かう思考をソニアは溜息と共に断った。




 一向にこちらを振り向く気配が無い事にソニアは僅かに眉を動かすも、それに何処かホッとしている自分がいるのを感じ、それを認めたくはなかった。
 意識と思考を切り替える為に、夜の透る空気を大きく吸い込んでは吐き出す。その時、視線が空を捉えた。
「……綺麗ね。星が凄く澄んで見える……」
 思わず口をついて出てしまった言葉。だがそれも仕方ないと弁解出来るほど、満天に広がる星の海は美しかった。一つ一つの小さな光でさえ、壮麗に広がる光の蓋天がいてんの中でもはっきりと見て取れる。
 思えば、あの時もこんな空だったかもしれない。故郷を旅立った日、ユリウスにあの噂・・・の事を問い正したのは。あれからもう三ヶ月にもなるのかと思うと、時の流れの速さにただ溜息が零れてしまいそうになる。
「ここは、地上の…人の生活の光が邪魔をしないからだろう」
「そうね……」
 突然返してきたユリウスに、内心ビクリとしながらソニアは頷く。声にそれが顕れなかったのは幸いだった。
「……そういえば姉さんは、星を見るのが好きだった。……よく夜中にこっそり二人で家を抜け出して、ルーラでアリアハン平原まで連れて行ってくれた。普段は本ばかり読んでいて素っ気無かったけど、その時だけは良く笑って話をしてくれた……」
「…………何が言いたい?」
 言いながらユリウスは完全に身体を返して真正面にソニアに向かう。義姉の事を訥々とつとつと語るソニアが、厭味に感じたのだろうか。闇に霞んでいるユリウスが憮然として見えた。
 思わず心内が面に出てしまいそうな気がして、慌てて一息呑んで表情を取り繕う。深い夜闇が辺りを覆っているとは言え、眼前の少年は空気を震わすだけでこちらの様子がわかっているのではないかと思えてしまう。
 最後に一つ、名残惜しく深呼吸をしてソニアは真摯な光を秘めた紅い双眸で、ユリウスを見つめた。
「……ユリウス、あなたに……訊きたい事があるの」
「何だ」
 漆黒の、感情を見せない瞳は動かない。
「あなたは、姉さんの事を悼んでいるの?」
「……何故そう思う?」
 周りに生活の光が無い為か、恐怖すら覚えてしまう深い闇と同化するようなその漆黒の眼は、鏡のように深く自分を映していた。闇が凝ったように静かに淡々とした様子がソニアの心を揺さぶる。それに負けじと、声が震えないように胸の上でギュッと手を握り締めながら、続けた。
「……あの時、シャンパーニの塔であなたは姉さんの名誉を庇っているような口振りだった。いいえ、それだけじゃない。あんなに取り乱した、感情的なあなたを見るのは始めてだった。あの時だけ、あなたは普段と……違った」



 旅立つ前から淡い猜疑は抱いていた。答えを聞いてからより深い疑念が頭をちらつくようになった。
 シャンパーニの塔での惨状を目の当たりにして、抱いていた疑念は確信へと変わった。
 「この人は確かに、私の姉さんを手に掛けたんだ」と。だけどそのすぐ後、仲間のミコトとの言い争いの中で垣間見た、旅立ってから始めてみる情動に……わからなくなってしまった。
 仲間と話す時も、町を往く時も、普段魔物を倒す時も、権力者と渡り歩く時も、その冷たい仮面のような面に感情は微塵も通ってはいない。だけどあの時、姉さんの事を言っていると思わせるような言葉を叫んだ時、確かにそこには、何に対してか解らないが、怒りと……悲哀が有った。
 そして、それから今まで。いつものように感情など通っていないと思える程、彼の様子に変化は無い。それが、あの時の事が自分が見た幻だったのだろうか、と思わせる。

 ただやっぱり、その事実・・・・以上のものが真実には秘められている。
 そんな気がしてならなかった。



「……それを知ってどうする。お前には関係の無い話だ」
「関係無くなんかないわ。血は繋がってなかったけど、私の大切な姉さんだったのよ……。関係無いなんて言わせない」
「……言った筈だ。憎みたければ憎めばいい。呪いたければ呪えばいい。殺したければ殺せばいい、とな」
 ソニアの頭では冷静に、ユリウスは誰にもその事を触れさせないようにしている、と考えていた。だが淡々としたユリウスの様子に心が先に反応してしまい、思いが言葉の容を取って口から飛び出ていた。
「話を逸らさないで! ……どうしてそんなに極端に走るの!? 私は真実が知りたいだけ。どうしてあんな事になったのかその原因が知りたいだけ。私には知る権利があるわ」
「……お前にはわからない」
「決め付けないで!」
 澄んだ声が、冷たい夜の空気を躍った。
 尚も首を横にしか振らないユリウスに、とうとうソニアの感情が爆ぜた。
 常に冷徹な姿勢をとるユリウスに対して、ソニアの感情抑制の思考が音を上げてしまったのだ。……それだけ人間味があるという事なのだが。
 一度決壊した感情の堰堤えんていは、その氾濫が治まるまで修復はできない。感情が豊かな彼女であるが故に、次から次へと胸の奥、意識の底で錯綜していた思いが溢れ出てくる。
「あなたはいつもそうやって否定する! 他人を拒絶して、生命を否定して、何もかもを隔絶する! 誰も、何一つ信じないで、まわりの世界から孤立してあなたは一体何を得るというの!?」
 荒ぶる内の激情と裡を流れる血流で身体や顔が熱い。視界の端が霞んで酷く狭かった。少し言い過ぎか、と微かに残った冷めたままの思考が過ぎるが、だがそれは紛れもない自分の本心だ。旅立ってからずっと見てきた少年の在り方。近付くもの全てを切り裂く剱のような生き方。自分の理解を超えている為、見ていると心に薄暗い霧が掛かって来るのだ。
「どうして誰かを頼ろうとしないの? どうして誰かに心を開こうとしないの? どうして誰か、人を…信じようとしないの? そんな、そんなのって―――!」
 はっきり捉えられなくなった眼前の景色の中、闇の中に溶け込むように静かにユリウスは近付いてくる。そして、そっとその腕を自分の肩に伸ばしてきていた。突然の行動と近さにソニアは思わず言葉を呑みこむ。
「!」
 何故か身体を強張らせるソニアの様子を気に止める事無く、無表情でユリウスは指先で何時の間にかソニアの肩に止まっていた羽虫を軽く弾いた。虚空に投げ出された羽虫は慌てて羽ばたき、唐突に居所を追い出されて不服そうに羽音を立てながら、夜の空に消えていった。
「言いたい事はそれだけか?」
 それを唖然とした目でソニアは追っていた。強張ったままの首を回してユリウスを振り向くと、既にユリウスは踵を返してこの場を去ろうとしていた。
「…………」
 熱くなった感情、冷め往く思考。その両者に挟まれてソニアの心は大きく揺さぶられる。それがとうとう容となって紅い双眸に涙が浮かばせてしまう。
 それを顔を半分だけ向けて見ていたユリウスは深く溜息を吐いている。呆れたようなその仕草が何とも腹立たしかった。
「……幾ら後から何かを知った所で、現実にそこ・・にいなかった人間にその時の状況など理解できない。言葉や知識、そして感情で身勝手な己の理解に都合のいい解釈と想像をして真実を歪ませる」
「ふ…ふざけないで!」
 ソニアは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。もはや自分がどんな感情であるのかすらわからない。ただ激しく波打つそれを視線と言葉に乗せてユリウスにぶつける。
 ユリウスはそれを真っ直ぐに見止めたまま、低く唸るように呟いた。
「……あの場所には誰もいなかった。……俺達三人・・以外はな」
「……え? ……三人って、姉さんとあなたと…………!?」
 全くわからない事柄に、眼を瞬かせるソニア。ただおぼろげに頭に過ぎったものを確かめるようにユリウスを見るが、既にユリウスは歩き闇の中に消えようとしていた。
 去りしなにユリウスはピタリと足を止め、一言。
「お前には、……知り得ない事だ」

 唖然としたまま、草原に立ち尽くすソニア。冷たい風が長い髪を攫い乱すが、それすらも気にする事ができなかった。






―――アリアハン王宮の敷地の一角。ひっそりとした庭園。そこの花壇の辺に三人の人影が在った。
 一人は漆黒の髪の少年。戦闘に耐え得るように強化された皮の服に、鋭く光る使い込まれた銅の剣を携えている。まだあどけなさは残るが、全身から漂う鋭さの為か、そこに歳相応の柔軟さを見出すは出来ない。
 一人は紫銀の髪を背に流した女性。賢者という身の者が備える紅蓮の宝珠があしらわれたサークレットを被り、翡翠の外套を髪の下に羽織っている。すらりとした柳眉と茜色の瞳が強い意志と知性を感じさせる。
 そして一人は、翡翠の髪に同色の瞳の穏やかそうな顔立ちの青年。上物の生地からなる派手さは無いが品の有る衣服を身に纏っていた。物腰の柔らかそうな気品に満ちた雰囲気は、この場にあって違和感が無い。
 三人はそれぞれ持ち込まれている椅子に腰を下ろし、向かい合って談話していた。談話といっても主に楽しそうに紡いでいる紫銀の女性と翡翠の青年の会話に、漆黒の髪の少年が乏しい表情を必死に変えながらも、頷いたり首を傾げたりしていた程度だったが。
 だが、確かにそこには穏やかに流れている時が有った。温かな笑みが、在った―――。



(!)
 当ても無く暗闇の空の下を歩いている自分の目の前で、そんな幻像が流れている気がした。
 会話を聴き取る事は出来なかったが、視識に捉えられる…いや肌で感じているその景色は、確かに記憶の内に在ったものに酷似している。
 眉を顰めユリウスはすぐさま鞘を走らせて、眼前の幻像の…はにかんでいる黒髪の少年を真一文字に切り払う。
 ヒュン、と鋭く空と風を切る音が夜の草原に響き渡るが、それでも幻像は何一つ変わらずに在り続けていた。
 鋭く舌打ちをして一度、二度、三度……。縦に、横に、斜めに……。息を吐く暇なく可能な限りに黒髪の少年に斬撃を繰り出すが、柄に感じる手応えは無くただ夜闇を漕ぎ、それが消える事はなかった。
「……っ!」
 突然、耳の奥でつんざくような金切り音が鳴り響り始めた。
 頭の内を掻き回されたかのような酷く鋭い偏頭痛に襲われる。一ついななく度に、頭の中が滅茶苦茶に掻き回されているような感覚。ドクンドクンと激しく脈打つ血管が、その下の頭蓋を伝い脳の全てを揺らしている。
 左手で側頭部を押さえ付けながら、右手でなおも幻像を振り払うかのように剣を閃かせた。



―――不貞腐れたように憮然としている黒髪の少年の頭を優しく撫でて、宥めている翡翠の髪の青年。そんな彼らに優しく微笑む紫銀の髪の女性。その茜色の双眸が夕陽よりも温かく二人を見つめていた―――。



(セフィ。…………――ラ)
 どんな会話の流れがあったのかは知る由も無いが、幻像の中、翡翠の青年に頭に手を置かれて宥められていた黒髪の少年は、明らかに口の端を持ち上げていた。
 それを認めてユリウスの目は剣呑な光を帯びる。半眼になって少年を捉え、視界が一気に狭窄する。
「ちっ!」
 手にした冷たい鋼鉄の剣をその少年の喉元に突き刺そうと、大きく踏み込んでは疾風の如く刺突を繰り出した。それは一直線に閃いては少年の喉元に伸びていき、その白い首を捉え――。
「!」
――その刹那、黒髪の少年の前に立ち塞がるように翡翠の髪の青年が割り込んでいた。いや、こちらの事など気付いてはいない。ただ少年に歩み寄ってきただけなのだろう。自分に背を向けたままの青年のうなじに触れるや否やの直前で、ユリウスの剣の切っ先はピタリと止まった。
 硬直した身体が麻痺したようで動けない。意識を凝らして全身の筋肉に激を打つが、その白刃が微かに戦慄く程度だった。
 暫く固まったままでいたら緊縛は途絶えたが、今度は意識が身体に制動を掛ける。異なる二つの逡巡に刀身の揺らぎは次第に大きくなり、ガタガタと凍えるように震え始めていた。
 全力で踏み込んで全体重をかけていた軸足の左の膝からフッと力が抜ける。その為、身体がバランスを崩してしまい前に倒れこむようにユリウスは傾いた。慌てて剣を大地に突き刺して、それを支えに身体を預ける。
(……)
 嫌な汗が幾筋ものっそりと頬と背筋を伝っていた。
 左胸の内の心臓の動悸が早く激しくなっていく。
 大きく身体を上下に揺らせて冷たい新鮮な空気を貪るが、肺腑の空気が入れ替わる度に頭痛は酷くなる一方だ。
(……揺れるな、惑うな、躊躇うなっ!)
 息苦しくなりそうになってユリウスは手で顔の汗を拭う。汗ばんだ漆黒の髪を乱雑に掻き回した。
 その時、額のサークレットの紅蓮の宝珠に触れると、意識が一つ瞬いた。

 何時の間にか眼前の幻像では、三人が共に笑い声を上げていた。前で喘ぐ自分を嘲るように。その暖かさが何よりも冷たい刃となって、自分を切り刻む。
(消……、えろっ!!)
 胸の内で咆哮を上げ、ユリウスは両手で剣の柄に手を掛け、一気に振り下ろした。
 天から地を穿つ雷のような斬撃が、間違いなく笑みを浮かべていた黒髪の少年を真っ二つに両断する。
 それだけには留まらず、返す刀で暗天を引き裂くように切り上げる。
 剣風に捲かれて草が宙を何度も舞った。それは風に攫われて、遠く離れた大地に降り落ちていく……。




(夢もうつつも、幻でさえもか……)
 ユリウスはきつく眼を瞑り、荒く呼吸を続けながら、軋むほどに力を篭めて額の紅蓮の宝珠を掴んだ。
咎人とがびとにはお似合いだ。現象と仮象の区別が無くなって、狂って自分を見失おうが、進める路は元々一つしかない)
 チラリと目線をずらすと、草叢に飲み込まれながらも穏やかな顔で眠っている少年の顔が在る。まどろみに浸かりきった少女の顔が在る。本来ならば自分よりも歳を刻んでいる筈のそれらは、時の凍ったこの地では変わる事は無い。その安らかなあどけない面を見れば、誰だって甘美な夢を見ているのだろうと想像に易い。
―――あなたは一体何を得るというの?―――
 誰かの言葉が頭の中で残鐘のように響いている。それが一際頭痛を激しくする。
(得る?)
 言葉に胸の内で嘲るように嗤いながら、ユリウスはスッと両手で眼前で剣を構える。騎士の敬礼のように雄雄しく構えた鋭く光る刀身は、夜空に広がる星光を集め白く輝いていた。
 その鏡に映った顔はやはり表情の無い自分の顔。その中で光の無い双眸が剣を映し、その剣がまた自分を映す。それが果てしなく続く連鎖となって、深い深い己の深奥を覗かせる。
(……あらゆるしがらみから開放される時があるならば、それは――)
 それから視線を背け、空を見上げた。黒の視線が追う先には、満天に輝く星の海。暗闇の波濤の中でさえもはっきりと輝く飛沫の光。その不変の光輝を見る度に、自分の無意識の底で諦念ていねんが疼きをあげる。
 冷たい風が、激しい動悸に火照った身体を容赦無くなぶっていた。
「それは…………」




 星々が犇く天を、光が一つ流れた。




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