――――第三章
      第五話 時の眠りし村







 エルフ……それはあでやかに萌える草海を彷彿させる鮮緑色の髪と、どこまでも透く澄んだ空のように神秘的な深さを宿す群青色の眸を兼ね備えた美貌の種族。
 世界に数え切れない程生きている生命の中。妖精種と呼ばれている、より自然に近く高潔な精神を持つ人間以上の高等存在。世に流布する数多の伝承においては、精霊神ルビスを主としている神の眷属とも云われている。
 彼等の外見的特徴は、蟲惑こわく的な雰囲気を醸す美貌と、その天を仰ぐように尖った耳殻にある。人と似て異なるその姿は、やはり人以上の身体的な優性さも宿していた。それが然るべくして備えられたものなのかは知る由もないが、彼らは総じて鋭敏な聴覚を有している。ただそれは、空気の顫動せんどうたる音だけを捉えるのではなく、世界を満たしている根源…マナの胎動すらをも縛する事ができるのだ。
 そんな彼等は、人里から遠く離れた深い森林など易々と人間に侵犯されない秘境にて、生来持ち得るその強大な魔力をもって結界を張り巡らせ、その内と外界とを隔絶して静穏に暮らしていた。

 生命の萌芽、有史より連綿と続く人間同士の確執。
 そんな無常な争いの絶えない人間種に見切りをつけてたもとを別った為、妖精種エルフ族は特に人と対立している訳では無い。だが、自発的な共存体勢を執ろうともしていない。
 ただ、互いの生活圏を脅かさない、干渉しないという黙示が両者の間で遥か昔から続いている筈だった……。






―――それ・・は、唐突に大地に降り注いだ。




 ようやく肌寒い季節が終り、一年を通して短い暖かな時間がこの地に訪れていた。
 村を外敵…醜悪な魔物から護る、陽なる御魂が宿るとされている木々と外壁。それらに囲まれた、僅かな限られた場所だけ空が開け、青く透く何処までも澄んでいる。その酷薄なまでの空の高さは、大地に足を着けて生きなければならない者達に、遥かな外への羨望を意識の深くに芽生えさせるには充分すぎるものだった。
 自らの裡にそんな思いがあるとも自覚すらしていないこの地の人々は、次々とその生活範囲を広げる為に豊かな森を切り拓いていく。それがこの地を、ロマリアという国においての位置付けを定めたのは人の世の流れ。
 清廉なるが故に逞しい生命力を誇る、黒いまでに生い茂る深緑の木々。
 半島全てを覆った黒絨毯の中にぽっかりと口を開けた、檻の中の安穏の地……ノアニール。

 温かな風が駆け抜ける村の中。青々と生い茂る若草の芝は、さながら王侯貴族の屋敷に敷かれた豪奢な絨毯のように、そのぬくもりとほのかな香ばしさを住む人々に感じさせていた。
 耳を攫って行く風の音、朗らかに空に響く笑い声。降りしきる温かな陽射し、絶え間なく煙突から昇る家事の証。安静に続く変化の無い、それでいて貴い日常の群像。

 世界が暗澹へと傾いているという事実を、まるで知らないようなその中の一つ。
 丁度切り株を数基置いただけの簡素な、だが温かみのあるいこいの広場で二人の男女が談笑していた。まだ成人を迎えていない歳若い少年と少女…少年は芝生にその身を埋めて、何処までも青い空を眺めながら横になっている。その暢気な様子を少女は切り株に腰を下ろして、呆れたように安らかに見つめていた。
「ねぇ聴いてよ。この前、あの気味の悪いエルフがコソコソと村の中を歩いていたから、追い払ってやったわ」
「…………」
「そのエルフ…泣きながら叫んで、何処かに走り去っていってた。全くいい気味よ!」
 喜々として語る少女に少年は眠たげな瞳を擦りつつ、半眼を向ける。
「……お前って、結構陰険なんだなぁ」
「うるさい、だって気持ち悪いじゃない! あの眼、あの髪…エルフって普通は緑なんでしょ。……スルーアさんの奥さんなんかとてもキレイな緑色なのに」
「ま、そうだなぁ」
「……そういえば、今日もあのエルフ見ないわね。ここ二、三日に姿を消したのかしら?」
「お前があんまり虐めるからだろ?」
「人聞きが悪い事言わないでっ! 何よ…皆も忌み疎んでいるくせに、私ばっかり……」
「まぁ、どっちでもいいや。居なくなったならそれで、平和なんだしな」
 そう言って、少年は大きく欠伸をかいた。関心が無い様子…ひいては、それは彼女の行為を否定する意志が無い事を示す顕れでもある。その様子に刺々しさが無い事を感じ取って、少女は膝に両肘をついて顔を大きく溜息を吐いた。
「スルーアさん、最近姿を見せなくなったわね……」
「全く、何処に行ったんだろうな。お前、家には訪ねてみたのか?」
「まあね。でも誰も出なかった。村長さんは公務で二日前にカザーブに出発しているし……」
「やれやれ……。こんなご時勢に、村の外に行きでもしたのか……」
 背に感じている芝生の柔らかさ、全身を照らしている日の温かさ。両者のぬくもりは否応なしに眠気を誘う。鼻を手の甲で擦りながら、少年はそう思った。
「……外って言えば、この前村を訪ねてきた戦士はどうしたんだ?」
「あのねぇ……、村長さんの護衛で二日前に一緒に旅立って行ったわよ。村中総出で見送りしたのに、あんた覚えていないの?」
「寝てた」
「……馬鹿ねぇ。そんなに寝てどうするのよ……」
「ほっとけ。俺は寝溜めしてるんだ」
「……呆れた、そのうち起きれなくなるわよ?」
「それはそれで幸せ」
「…………」
 思いっきり呆れた顔で、溜息を吐く少女。半眼で今にも眠りの園に落ちそうな少年を見下ろした後、大きくその身体を伸ばして、清々しく澄んだ空を仰いだ。
「いい天気ねぇ〜。お日様が何だか今日は特に輝いて見えるわ」
「んな馬鹿な……。いつもと変わらないだろ?」
「そんな事無いわよ。…………あれ?」
「どした?」
「何か空がキラキラしてて……。雪、かな?」
 怪訝な眸で少女を見上げる少年。余りにも突飛な、非現実的な事を少女が言った事に些か口調は鋭くなる。
「何言ってんだ、今はやっと夏になったばかりだろう……」
「だって、ほら……」
 そう指すように言われて、芝に寝転がり陽の暖かさに眼を閉じていた少年は気だるそうに身体を起こす。そして少女につられて空へと視線を移すと、次の瞬間には唖然としたように眼を見開いた。見間違いかも、と思って服の袖で眼を何度も擦って再び見上げるが、やはり眼に映る空に変わりは無い。
 確かに空が光り輝いている…いや、蒼穹の空を淡い白の光の結晶が風と共に舞っていたのだ。
「……な、何だありゃ!?」
 眩く輝く太陽。何処までも澄んだ青さの空。蒼穹を悠然と流れる白い雲。つい先程まで見ていた空は確かにそれだけだった。だが、今はその青と白の清涼な色合いをも薄れさせるような、白銀に輝いて見える小さな小さな光の結晶…例えるなら、晴れた日に降る粉雪のような物が、太陽から舞い降りているようだった。
「……キレイ」
 少女はこの幻想的な、現実ならざるこの風景にうっとりと頬を染め、風に攫われていた羽が地に降り落ちるようにヒラヒラと舞う小さな光の結晶を、そっと両手で受け止めた。それは掌に触れるや否や、皮膚の下に染み込むようにしっとりと解け消える――。

――瞬間、それは起こった。

「あ、あれ……?」
「ん?」
 グラリと少女は眩暈めまいを覚えた。突然意識が肉体から引き離されていく感覚に襲われたのだ。
「ふぁ……、何だか急に眠くなって……」
「んだよ……。散々人に言っておいて……お前も……、眠そうじゃ…ねーか……」
 火急についていけない思考を嘲るように、目に映る景色がぼやけ、霞み、歪んでいく。徐々にそれは色彩を、明るさを失くしていく……。
「…変……ね…………」
「おい! ……おい!」
 いつの間にか少年は少女の隣の切り株に腰を掛けて、少女の小さな肩を揺すっていた。幾ら心地の良い陽だまりとはいえ、これは明らかに異常だ。少年は降りしきる光雪を浴びながらも、必死で少女の眼を覚まそうとその身体を力一杯揺さぶっていたのだ。
 だがその感覚すらも、もう少女には届かない。落ちてくる瞼は否応なしに視界をぼやけさせ、目の前にある必死な少年の形相も眠気と共に潤み始めた涙に遮られ、はっきりと捉える事ができない。耳から聞こえていた怒鳴り声も、肩を激しく揺する振動も、どこか遠くから聞こえる子守唄のように柔らかく自分を包み込んでいる気がしてならなかった。
「………お…い……」
 見る間に眠りへと堕ちて行く少女の身体を精一杯揺さぶりながらも、少年も少女の細い肩に掛けている手から力が抜けていく感覚を覚える。だがそれは思考が理解するまでには至らずに、次の行動への逡巡も許さない状態になっていた。欠伸あくびを押し殺しながら酷く重くなった瞼を持ち上げようと、眉間に力を入れて若い肌にきつく皺を作り、その上から目頭を強く押さえていたが、それでも氾濫した河川のように轟き溢れる睡魔には抗う事が出来ず、力も声も掠かすれ消えそうな程までに弱弱しくなっていった。
「……やべぇ、……眠ぃ」
 少年の声は、もう少女の耳には届かなかった。
 少女は項垂れ、眸を閉じ、規則正しいリズムで安らかな寝息を立てている……。そんな怪奇な現象とは裏腹の安穏とした様子に、少年は幾許か気を緩めてしまう。大きく肩を揺らし、深く息を吐いた瞬間に少年の意識も闇に掻き消えてしまった。
 眠りに堕す直前、周囲をチラチラと舞う粉雪のような光と音が、閉じゆく意識の中で子守唄のように鳴り響いている気がしていた……。




 深深と光の結晶は普くその地に絶え間なく降り続き、次第に人の生活の音が途絶えていく……。
 水場で水が滔滔とうとうと流れる音。起した火が空気と薪を貪る音。空から吹く風が木の葉や枝を攫う音。地に生い茂る芝生が光に戦慄く音。……その何処にも人の織り成す音は無い。無常ともいえる自然が奏でる音しか無かった。
 その日、一つの村の時間が―――凍りついた。





―――その時より十五年。幾千の日と月の追走を地上から見上げながらも、何一つ変わらずに人々は今も眠り続けている。
 時の流れに逆らえずに在る世界の中、蕩揺う事象の波から取り残されながら……。






「…これは」
「…………寝ている」
「……………………見たいだね」
 村の中の尋常ではない様子を眺め、立ち尽くし呟いた言葉が見事に連なったソニア、ミコト、ヒイロを冷やかに一瞥しながら、ミリアは肩を竦めた。
「あの時と、何一つ変わらないわね」
 深海よりも深い藍青らんせい色の眸は感情を微塵も載せないまま、周囲で動かぬ彫像のように佇む人々をただ映している。紡がれた言葉もその表情と同様に、少しの抑揚もはらんではいない。妖精種としての生来の持ち得る人間よりも澄んだ麗かな声色が、かえって発せられた冷徹なそれをただの音の羅列に感じさせていた。
「あの時?」
 普段らしからぬ言葉の調子に、不思議そうにしながらノエル。
 掌にはいつもの変わらない温もりを感じるが、見上げる彼女の表情は身長差と逆光で窺う事はできない。それでもノエルはその大きな、澄んだ青空のような群青の瞳でミリアを見つめた。
(ミリア、どうしたんだろう?)
 傍から見れば今のミリアは無表情なのだが、長年一緒に暮らしているノエルには判った。
 元々が白い上、更に表情を無くして氷のように冷たくなった面とは裏腹に、彼女の裡では炎が滾るように憤怒が渦巻いているのだと。彼女の周りに在る空気が、ピリピリと何かに弾かれているような音が聞こえている気がしてならない。
 より自然に近く、外界を認知する知覚が優れたエルフの血を半分ではあるが引いている為、ノエルは直感的にそれを感じていたのだ。
 視線で視界の全てを凍らせるのではないかと思える程冷厳なミリアの様子に、ノエルは怖くなってゴクリと唾を呑み込み、小さな自分の手で繋いでいるミリアの手をギュッと握り締めた。
(こんな怖いミリア、やだ……)

 繋いだ手に力が加わった事と、その手から微かに伝わる震え。そして、群青の双眸が為す困惑の視線を感じてミリアはフッと固めていた相好を崩し、優しい笑み湛えながら膝を折って視線をノエルに合わせる。
 繋いではいない方の掌で、何処か哀しそうな顔をしていたノエルの頬をそっと包み込んだ。
「あなたが生れた頃の事よ。ここはあなたの生まれた場所なの」
「……僕の?」
「そう……」
 無音の村を駆け抜ける風はまだ冷たかったが、頬に添えられたミリアの手と視線は温かい。ようやくいつもの彼女に戻ったと、心の中で喜んでいた折に掛けられた言葉。全く予想だにしなかったそれに、ノエルはただきょとんと眼を瞬かせるばかり。
 髪と頭を撫でつける冷たい風と、頬を包む温かい手。それらの二つの、心を揺さぶってくる温度を感じながらノエルは想いを馳せらせた。
 自分は何一つこの地を知らない。
 今まで育った場所が、自分にとって故郷だと思っていたし、母代わりに自分を愛し、慈しんで育ててくれたミリアがいつも直ぐ傍にいてくれたから、懐郷という感情がいまいち理解できないでいた。
 ただこの地を流れる風の匂い、踏み締める大地の感触。知らない筈のそれらから、解しがたい妙な既視感を覚え、ただ戸惑うばかりだった。
「ここが……僕の生まれた場所」
 呟いた言葉を一陣の冷たさの残る風が攫い、周囲にしっとりと染み込むように響き渡らせていた……。




「どういう事だい?」
 戸惑いながら複雑な色を瞳に浮かべて辺りを見回すノエルを視界から外し、ヒイロはミリアに尋ねた。
 肩越しに見える後方では、今までの異種族のやりとりを静観していたソニアは感極まって目尻を緩めながらノエルを温かく見つめているが、それを見止めつつもヒイロは周囲の観察を怠らない。職業盗賊として、また自分自身の本質がそうさせていたのだ。
 そして、その鋭さを帯びた琥珀の瞳に映る目の前の現状は、ただ明らかに異常であるという事だ。
「……何の事?」
 折っていた膝を伸ばして、今度は天を睨み据えるようにヒイロに振り向く。そこには、今までの温かさが夢幻だったかのように、深い色の瞳は敵意にも似た刺々しさに塗り替えられていた。
「この村の現状さ。いったい、この地に何があったっていうんだい?」
「あなたの眼は節穴? 見ての通り、この村の人間はただ眠っているだけよ」
 尋ねてくるヒイロの言葉に、鼻で嗤いながらミリアは肩を竦めた。その旺然おうぜんとした態度には、彼らに対しての同情の欠片など微塵も無い。
 その様子からこの村と彼女の間には何かがあると感じたヒイロは、それに触れないように洩れそうになった言葉を呑み込み、琥珀の双眸を細める。
「眠っているって……、こんなの普通の眠りである訳がないじゃないか」
「それはそうでしょうね。立ちながら眠るなんて酔狂な真似、普通では無いわ。この地の人間は変わり者が多いという事かしらね」
「……ふざけているのか!」
 ヒイロが次への言葉を逡巡していると、この村に立ち入った時からせわしなく周囲を見廻していたミコトが、その凛とした声に幾多の感情を載せてミリアに詰め寄っていた。
 強められた語調からは、彼女がその胸に義憤を覚えていると言う事がよく解る。険しくしかめられた表情は、厭くまでも素っ気無く肩を竦めるミリアに掴みかかるような勢いで、二人の間を埋めていた。
「あなたは……っ!」
「触らないでっ!!」
 思わず伸びてしまったミコトの手を忌々しげに振り払い、その強い視線に劣らない冷たさの双眸で一瞥してミリアは踵を返す。大きく翻った藍碧の髪がサラサラと肩や背に流れる中、僅かの間に垣間見せた藍青の瞳は元々が白過ぎる肌と、高く輝く太陽の所為も相俟って、何処までも深く昏く見えた。
「…………これは、呪いよ」
 温かみの無い静かに淡々と放たれた言葉に、その重さを感じ取って払われた手を握り締めていたミコトも黙さざるを得なかった。

 沈黙が流れ始め、風の音がやけに大きく聞こえ始めていた。
 難しい顔で黙したミコトやヒイロを気にも止めないで、ミリアは村の中を縦横に走っていたと思われる、乱雑に伸び切った草に埋もれかけている石畳を歩き始めた。
「この村はだいたい十五年位前からこの調子。……ただ一人を除いてね」
「無事な者が居るって言うのかい!?」
「ええ」
 村の中の何処を見ても人間は居るが、総じて彫像のように佇んだまま眠っている。流石にこんな現状だと無事な人間の有無が絶望的だという考えを持ち始めていたヒイロは、珍しく驚いて僅かに声色を上げた。
 そんな彼を見向きもしないで肯定し、ミリアは隣に慌てて駆け寄ってきたノエルの頭をそっと優しく撫で、手を引いて何処かへと向かい始める。
「ノエル……あなたに会わせたい人がいるの」
「え、でも村人は皆……?」
 困惑しながらノエルは佇む村人達を見やるが、それでも手を引いて歩くミリアは足を止めない。
「大丈夫よ。あなたに会わせたい人が、この村で唯一人無事でいる人間なの」
 完全に黙してしまった二人や、事の成り行きを不安げに見つめるソニアや、無表情のまま無関心に視線を泳がせているユリウスの事など、あたかも初めから居なかったかのように、ただ掌に体温を感じているノエルだけに言い聞かせるようだった。





「……行っちゃったね」
 高く伸びた草草と、時間によって寂れた建物の影に隠れて二人の異種族の姿を見失う。二人が去った方向から吹く乾いた風に浅葱の髪を梳かれながら、ただ唖然としたまま見入っていたソニアは、力なく言葉を零すだけだった。
「さて、どうしようかユリウス?」
 それを拾って振り向いてくるヒイロを、何故俺に訊く、とでも言いたげな視線でユリウスは一瞥すると、大仰に肩を竦めて見せた。
「これでは聞き込みも何もないな。……見る限り村人は誰しも夢の中だ」
 道の脇に立つ、天を仰いで腕を掲げたままの格好で眠りについている男を視界に一瞬だけ留め、ユリウスは皮肉げに大きく溜息を吐く。面倒な事になり辟易しているのが心内だけでなく外にまで顕れ、仕草が気だるそうに見えてしまっているのはこの際仕方が無い。
 カザーブを発つ前から何かしらの面倒があるという事をユリウスは懸念してはいたが、こうも壮観に面倒事の姿が明るみになっていると、構えていた気概すら粉砕されてしまう。
 魔物の群れや野盗に襲われて、村自体が壊滅していたのであれば理解に易い。現在の世情をかんがみれば、それは決して珍しい事ではないからである。だが眼前に広がる尋常ならざる景色はそれよりも特異な、それでいてより厄介な事象であると言う事を否応なしに感じさせていたのだ。
 そうした逡巡の後、ユリウスは再び溜息を吐いた。

「現状では、あの二人についていくのが最善かな」
 普段と変わりない無表情のままだが、何処か疲労を感じさせているユリウスに一つ苦笑を浮かべつつ、腕を組み顎に手を当てて思案していたヒイロは提案する。ピンと真っ直ぐに立てられた人差し指が、この状況で取る事ができるそれ以外の選択肢など無いという事を強調しているようであった。
 それにユリウスは無言で肩を竦め、肯定の意を示す。
 二人のやり取りを見眺めていたソニアもミコトもしっかりと頷いていた。




 次の行動の指針が定まり、二人の異種族…ミリアとノエルが去った方向に踵を返して、草草に埋もれた石畳を蹴る四人。腰の高さまで乱雑に伸びた草草を掻き分け、踏み締めながら進む。
 村の中に群立する民家は、永い間手入れがされていない為か荒れ放題だった。
 堆積たいせきした埃に曇った窓から微かに覗く事が出来る薄暗い家の中には、僅かに射る日の光で煌きながら浮き彫りになる蜘蛛の巣があちこちに居を連ねている。それに捕らえられた小さな羽虫と主たる蜘蛛は、外からの視線など微塵も気にせずに、普段と何一つ変わらない生を織り成している。
 降雪地帯特有の傾斜のある屋根をしっかりと支えている煉瓦壁の、組木と煉瓦の上に隙間無く塗られていたであろう壁土はこそげ落ち、その隙間から保温のために埋め込まれたと思われるわらが申し訳なさそうに顔を出している。永く風雨に晒されたまま何の修繕もされていない為か、屋根や壁、柱には幾つもの亀裂が走っていた。
 軒下に置かれている水瓶と思しき壷には水垢が水面を埋め尽くしており、風が吹く度にその表面は有色のさざなみに揺れていた。

 住まう人々は普段と変わらず自然に、日々の生活を営んでいたのであろう。
 この村の最も人通りの多い栄えた道を歩く人々。憩いの広場で談笑を交わして過ごす人々。農作業、木こりの斧を携えて仕事に向かう人々。この村に人の数だけある日常が凍りつき、それを支える外界が彼らを置き去りにして時を流れていた。
 囲いが朽ち崩れた井戸で、水を汲んでいる女性が手にした桶には既に大穴が開き、道を往く老人が突いている杖は半ばから折れ、地面に転がっている。草原を走っている子供達の足には、草花が絡みつくようにつるを伸ばし、広場には、設置された切り株に座り、無造作に伸びた草叢に飲み込まれながら寄り添っている少年と少女の姿が在った。

 そのどれもが、無常な時の経過を感じさせるには充分なものであり、周囲で安穏と眠り続ける人との対比が酷く凄惨なものである事を、目の当たりにする者達に見せつけるのであった……。

 まるで別世界に迷い込んでしまったのかと、目に映る現実に思うソニア。
「……ここって魔物が入ってくる事は無いのかしら?」
 村の入り口から周囲を見た事と、こうして村の中を歩いて見る事でこの地に起こっている事の重大さに息を呑む。ただ、その何処にも魔物による破壊の爪跡が見られない事から、思いが言葉となって出たのだ。
 誰もが黙っていれば、風が駆ける音だけでどうしようもない寂寥感が自分の胸の内に込み上げて来るのだが、この時は違った。
「その心配は無いだろう」
「え?」
 最後尾を歩いていたユリウスの低く抑揚の無い声にソニアは驚いて足を止め、振り向いた。それに続いてミコトやヒイロも立ち止まってしまった為、ユリウスも歩を止める他は無い。誰にも気付かれる事が無い程小さく溜息を吐いて、ユリウスは口を開く。
「外壁や周囲の建物を見る限り、それは時間によって朽ちたものだろう。それにこの村に来るまでの道中、村に至極近い場所で魔物に襲われる事はなかっただろう?」
「そういえば……」
 数歩進んだだけで次々と魔物が襲ってきたのではないかと錯覚させる程、山道では魔物に頻繁に遭遇したというのに、村の外観が目視でき、後数時間という程度の距離に至った時から村に近付けば近付く程、魔物と遭遇しなくなっていたのだ。
 その事実を思い出しながらソニアは紅の双眸を瞬かせた。
 周りの挙動を他所に、一人腕を組んで納得したように相槌を打ちながらユリウスは続ける。
「天然の結界か。……成程。この地で陽のマナを含んだ材木が採れると言うのも、あながちあの女の作り話ではないという事か」
 あの女とは、カザーブで会った駐留武官クリューヌの事を指していると言うのは、誰しも確認を取るまでも無く解った。性急にしていた為か少々強引ではあったが、自分達をこの村に赴くようにユリウスを説得していた麗女の姿を思い出す。
 ソニアには、その麗女の様子がこの村の為を思って心を砕いているようにしか見えなかった。ユリウスとの対話の中で見せた真摯な憂いの満ちた瞳は、深い悲しみをその心に秘めた者にしか持ち得ない、決して演じる事が出来ないものだと、ソニアは感じていたのだ。だから、どうしてこれほどまでにユリウスがあの女性に対し猜疑を抱いているのか、理解できないでいた。
 逸れてしまった思考を何とか戻し、一つ息を置いてソニアは尋ね返した。
「それだけで、魔物が近づけなくなるものなの?」
「原因はそれだけじゃないだろうが。……この村はどうにも、気分が悪くなるくらい陽のマナが充ちている。……俺のトヘロスのような結界が、この村全体を覆っていると考えてくれればいい」
「そんな事が……、ソニアわかる?」
 些か言葉を濁したようなユリウスに首を傾げつつ、ミコトはソニアを振り向く。その緑灰の瞳が、私は感じないけど…、と前置きされているように見えたので、ソニアは困ったように苦笑しながら頷いた。
「うん、何となくだけど……。この村に入った時から空気が美味しいと言うか、そんな感じがするわ」
 言いながら両手で杖を掴んで大きく伸びる。深く深くこの地の空気を吸って自らの言葉の肯定を示す。それをミコトはへぇ…、と感心したように見止めていた。
「……現状を見る限りはエルフの呪いが関与していると考えるのが自然、と言う事だ」
「エルフの、呪いか……」
 誰かがポツリと零した言葉。単調に淡々としているだけにその言葉の意味が重く圧し掛かっているのを、誰もが感じる。
 村を駆け抜けた風が、外れかけている宿の吊看板を激しく揺らす。その無機質な乾いた喚声の余韻は、いつまでも耳の奥にしこりを残していた……。



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