――――第三章
      第四話 木漏れ日の影で







 深く永い冬の時間が過ぎ、寒さと冷たさが抜け切らないまま春も既に終りを告げていた。
 永くに渡って大地を白銀に染めていた氷雪も、今は新緑の若葉の色にその面を変えている。
 雪溶けの水は大地の深くに染み渡り、その残滓を留めてはいない。ただしっとりと湿った大地だけが、あまねくそこを覆っていた微かな残雪のぬくもりの記憶を抱き、これから新たに芽吹く命達の萌芽を支える温床として、その態勢を整えていた。
 暦では既に夏と言う季節だが、この地方は高緯度、高海抜地帯に存在している為、それが訪れて温かな風を肌に感じる事が出来るのはまだ先の事だ。
 土の下で太陽の下に出る事を待ち望むもの。土の上で寒気の和らぎを願うもの。
 そんな様々な羨望を嘲笑うかのように空から、森を形作っている木々の間から駈け抜けていく風は身を切る様に冷たい。まるでこの森そのものが、この地を訪れる者達をこれ以上進ませまいとして阻んでいる様でもあった。

 巨壁の様にそびえ立っている針葉樹の隆々とした幹が息苦しい圧迫感を与え、更に空を見上げても、永い冬の間を落ちる事無く乗り越えた青々と芽吹く針のような葉によって遮られ、空の蒼さと開放感が微塵も感じられない。
 そんな陰鬱な情景に、誰しも思わず溜息を吐きそうになる。
 この鬱蒼としていて昼でも薄暗い、閉塞感に溢れた森を進むだけでも気が滅入る上に、人の手の入っていない地だからこそ魔物が跋扈するには最適の地であり、度重なる戦闘を強いられていた……。




「穢れなきようの帳は大地に降り、不浄なるいんは高き蒼天へと還る」
 高らかに掲げた杖の先端が、紡がれた言葉と共に淡い白光を点す。その優しく脈打つ光は魔力エーテルの集約によるものだ。儚げに蕩揺う淡い光の球体は、静かな鼓動を打ちながらその輝きを増してゆく。
 生まれた光輝は昼でも暗い森の中を照らし出し、辺りに鎮座している木立こだちの影の深さを際立たせる。
 杖に光を湛え、瞑目したまま意識を集中させるのは、僧侶ソニア。彼女の長い浅葱の髪は、光が強まるのと共に靡き、風に梳かれて宙に広がっていく。
「罪深き者を導け、浄罪の光よ。ニフラム!!」
 紅の瞳を瞼の下から覗かせると同時に発せられた力在る言葉は、光球にかたちを与え、それは眩い烈光となって振り翳した杖の先に在る、異形の者達に降り注ぎ、包み込む。
 森の木々に隠れながらこちらに殺意の爪牙を向けていた、陽の射さない深い森の羽色をした大ガラス…デスフラッターの群れは、突然に地上から生まれた圧倒的な光の本流にあえなく飲み込まれ、鳴き声すら上げる暇なく、ただ虚しく空を漕ぐ羽音だけを残し光の中に消え去っていった。

「ふぅ……」
 対峙していた魔物が辺りから退いたのを認め、両手で杖を握り締めたソニアは大きく息を吐く。うっすらと汗が滲んだ額を風が撫でて行くが、その余りの冷たさに思わず身震いをしそうになる。それに小さく頭を振ってから片方の腕で汗を拭い取り、纏った毛皮の外套に深く顔を埋めた。
(まだ戦闘中。気を抜いては駄目……)
 吐く息こそ白くは無いが、気分次第でそのようにも思えてしまう。そんな情動に気を取られそうになりながらも手袋の下の微かに震えた手に力を篭め、ギュッとルーンスタッフを掴み直す。
 視界の先、自分の立つ山道の先下の方で他の魔物の群れと戦っている仲間達。彼らはこの獰猛な魔物の群れすらをも難なく退けていた。そんな彼らの背後を任された身として、彼らに遅れをとるわけにはいかない。そう自戒して、寒さに強張る身体を奮い立たせた。
 後方援護にまわっている自分の隣では、蓬色の髪をした異種族の少年が、その幼い体躯には不似合いな長さである魔道士の杖を握り締めて必死で魔法を紡いでいた。
「光の精霊よ、集え。ギラ!」
 杖の先の宝玉が赤く発光したかと思うと、そこからは鮮やかな赤橙の熱線が数本閃いて、毒々しい青紫色の外殻を持つキャタピラー…毒芋虫の強固な身体を易々と貫いていた。聞くに耐えない断末魔を上げた魔物は、鈍青な血液と共に猛毒を含む体液を、周囲の僅かに顔を出していた草叢くさむらに撒き散らしながら崩れ去る。
(すごい……)
 放たれたのは初級の閃熱魔法だが、その威力は並大抵ではない程に強力でソニアはただ眼を見開くばかり。エルフという種が強大な魔力を扱う、という事柄は知っていたが、実際にそれを目の当たりにして驚かずにはいられなかった。
 驚嘆を全面に載せたままの表情で少年を見つめていると、その少年…ノエルは視線に気付き、照れ臭そうに頬を朱に染めながら微笑んだ。その無垢なる仕草にくすぐったくなってソニアもつられて微笑で返す。
 ふと、ノエルの後ろに立っていた藍色の髪の少女に視線を動かすと、彼女…ミリアは剣呑とした半眼で無関心そうに周囲を眺めている。
「! …………ふん」
 やがて紅と藍の視線が交わると、ミリアは不愉快そうに顔を歪めて顔を背けた。いかにも毛嫌いしている…いや、敵意と取れるほどまでに忌諱が篭められた態度に、ソニアは哀しくなってしまった。
(……何でそんな顔をするの?)
 そう自問しても答えなど返ってくる筈も無い。
 自分は彼女の機嫌を損ねるような事をした覚えは無い。彼女について名前以上の事は知らないのだから、懸念のしようも無いし、接しようがない。
 カザーブ村を発って既に三日目に入っているが、ミリアのノエル以外の人間に対しての態度は全く変わらなかった。初めて邂逅した時と変わらない、拒絶意思。寄り来る総てを跳ね除ける、見えない冷たい壁。それが彼女の周りを常に覆っているかのようだった。
 だから一方的に敵意と変わらない視線を向けられる側としては、どう対応したら良いのかわからず、ソニアはこの晴れない気持ちも消化できずにいたのだ。
 ただ何となくではあるが、その刺々しさ、他を拒む隔絶する意思と姿勢は、どこかユリウスに似ているとも感じてしまった。
 悄然たる思いが鈍色の雨雲のように胸の内に広がりつつあった時、前方から魔物の断末魔の叫びが森林に響き渡る。
 ハッとしてソニアが顔を動かした先では、先行していた仲間達が魔物の群れを全滅させていた。




 ユリウス達は今現在、カザーブ村の更に北に位置するというノアニ―ル村を目指して余り人の手の入っていない…正確には入らなくなって久しい、生い茂る針葉樹の森を北上していた。
 その村までは、標高の高いカザーブ村から北に続く緩やかな山道を下って行けば、四日程度で着くという事ではあったが、人が使わなくなってかなりの時間が経過していた為か、寂れた山道は荒れ放題で以前に誰かがここを通ったという痕跡が非常に見分け辛い。そして、それは野にある魔物の群れの往行を予感させるには充分過ぎるものだった。
「……しつこいな」
 言いながらユリウスは最後に残った、晴れる事のない怨念に冷たい土の下より回帰した腐犬…バリイドドッグを大上段から真っ二つに断ち斬る。元々腐りかけていた魔物の身体は鈍く光る刀身を何の抵抗も無く通し、腐臭を放っている体表、臓器や骨格は一刀のもとに切り伏せられた。
 白刃に付着した、たった今斬殺した魔物の如何わしい体液を眉を寄せて振り払いながら、ユリウスは他に魔物がいないか辺りを見廻す。
 昼にも尚暗い漆黒の双眸が見渡すのは、深緑の木、木、木……。
 曇天の下、この深い森の中で殺気や敵意を放っている異形の気配は、もう感じなかった。
「どうやら、一掃したようだね」
 ユリウスと同じく毛皮の外套を羽織ったヒイロは、その愛鞭であるチェーンクロスを手繰り寄せていた。連なった鎖を器用に纏めながら拭い、腰に収める。度重なる戦闘で疲労が顕れ始めたのか、僅かに息を乱している。そんな彼の肩越しには、同じく最前線で魔物と戦闘していたミコトが大きく肩を回して、右腕に装備した鉄の爪に付いた血糊を振り落としながら歩み寄ってきているのが見えた。
「この辺りの魔物は結構手強いな」
 うっすらと額に汗を浮かべている様は、やはり連戦の疲れが蓄積されている事を示している。ただ二人とも魔物から受けた傷が全く無いというのは、彼らの実力がこの一帯の魔物を凌駕しているという事であった。
「皆、大丈夫?」
「うん、問題ないよ」
 二人の異端者と共に後方援護にまわっていたソニアは、前線で戦っていた者達を心配してか、小走りに駆け寄って声を上げる。魔物が群棲する地で大声を出す事は余り誉められる行動ではないが……。
 近づいてきたソニアに微笑みながらミコト。その傍らでヒイロも頷いていた。

 仲間が集まったのを見て安堵したのか、ミコトは大きく溜息を吐いた。
「でも、倒しても倒してもキリが無い。これじゃあ、ノアニールに着くまでどれだけ掛かるんだ……」
「それだけ、この地の魔物にとって脅威が無いと言う事だよ」
 戦闘による痛手は無いとはいえ、疲れが溜まれば億劫にもなる。愚痴のように零されたミコトの呟きに、苦笑しながらヒイロは思い浮かべた。



 シャンパーニの塔の周辺は、盗賊団“飛影”の面々が徹底的に駆逐した為、魔物の方が警戒し息を潜めていると言うのに、この地方はまるで逆である。
 永い時を捨て置かれた為に、その個体数が増え続けたのが原因だろう。
 魔物と言えど、その生態は動物や怪物と何ら変わりが無い。ならば当然繁殖による個体数の増加もある筈だ。
 この地の人による抵抗…つまり他の生命による淘汰に晒される事が無い以上、魔物の数が著しく減少する事象は無いという事か。



 これまでの道中での魔物との遭遇率を考えると、そんな風に思えてくる。
 溜息を吐いているミコトの気持ちも良くわかる。そう感じた時、ヒイロの中に一つの考えがふと頭を過ぎった。
「そうだ、ユリウス」
「?」
 前を歩くユリウスと差が開き過ぎないように歩いていたヒイロは、声をかける。それにユリウスは首だけを僅かに傾けた。その表情は外套に埋もれていて見る事は出来ない。
「以前使った結界魔法……えっと、トヘロスだったかな。あれを使えばもっと楽なんじゃないかい?」
「……それは無いな」
「え?」
 ヒイロの提案を即座に断ち、再び顔を前に戻すユリウス。
「……アレは厭くまでも魔物除けだ。魔物の接近・・は防げようとも、倒す訳じゃない」
「だから、今それを使えばもっと安全なんじゃないかな?」
「アレを魔物が頻繁に現れる所で使えば、下手を打てば身動きが取れなくなる危険性がある」
「どうして?」
 横からソニアが話に入ってくる。ヒイロの話を聞きながら、確かに有効な手段だと思ったからだ。
 そんな説明を求めるような二つの視線を感じて、ユリウスは小さく溜息を吐き、淡々と語る。
「……もし魔物が危険を察知して結界外でたむろされ、機を窺われたらどうなると思う?」
「え……」
「うーん……」
「……猪みたいにただ突っ込んでくるしか能が無い魔物ばかりなら良いが、この一帯の魔物はどうも野生が強い」
 聞きながら、「野生が強いと敵に対しての慎重さも増す」という、以前シャンパーニを訪れる際にユリウスが言った言葉をヒイロは思い出した。
「結界を解いた時を、大挙して狙われる危険がある……そういう事?」
 余り考えたくは無い結論ではあるが、それにユリウスは言葉無くただ頷いた。
「この魔法を使えば否応無しに受動的な立場になる。結界とは所詮停滞する為の場の保全だからな。…………もっとも、それだけに有効なすべではあるが」
 後半の含みが篭められた言葉は今いち理解し難いが、ユリウスの言いたい事は何となく判ってきた。
「……仮に結界を張ったまま進んだとして、すぐに集落のような対魔物への対応が為されている地に入れるのならまだしも、今の時局を考えると余り相応しい手段とは言えない」
「…………」
 今現在、先の見え辛い廃れた山道を下っている。ただその先に目的とする村の影はまだ見る事は出来ない。また、カザーブまでの道のりと比べ魔物との遭遇率はこちらの方が圧倒的に多い。これらの事象を鑑みて、ヒイロは成程と自分の中で納得した。
「……まあ、俺としては構わないが。それでこの辺りの魔物全てを一度に一掃するつもりなら、それも良いかもしれないな。全て切り伏せれば良いだけの事だから、後の手間が省ける」
「全てって…、どれだけいると思っているんだ……」
「…………やめておこう」
 今まで多勢に強襲された事はあったが、それでも数としては二十数匹が最大であった。その時は何とか退けたが、これまでに遭遇した魔物全てが一度に襲ってきたらと思うとゾッとする。個々で襲ってくるのならば驚異では無いものの、それが大挙して押し寄せれば脅威になる事は必至である。
 ユリウスの話を聞いてどっと疲労が押し寄せたのか、ヒイロは盛大に溜息を吐かずにはいられなかった。ミコトも同じ事を思ったのか、その口元を引き攣らせていた。




 独り黙々と先を進むユリウスを他所に、何時の間にか歩調が狭まっていたのか、少し後ろを歩いていた筈のミリアとノエルが山道を遮るような形になっていたソニア達に、剣呑な眼線を向けながら口を開いてきた。
「早くしてくれる? こちらとしては、さっさと進みたいんだけど」
「……え、ええ」
 相変わらずの刺々しさに僅かに怯みながらも、ソニアは頷く。
「ところでミリア。ノアニールまではあとどれ位なんだ?」
「……もう少しよ」
「昨日同じ事を聞いたんだけど……」
「何よ、カザーブを出てまだたったの六十時間程じゃない。……せっかちね」
 村を出てからこれまで、その間一睡もせずに覚醒したままのミリアは、まるで寝不足の様子も見せない。それはひとえに種族差による時間間隔の違いが為せる業と言えるだろう。
「……それはあなたの時間間隔だろう」
「全く……。これだから人間は……」
 至極呆れたように肩を竦めるミリアに、ミコトはムッとして憮然とした表情になる。どうもにも自分はこの異種族の少女とはりが合わない。何となく感じていた事だが、今改めてそう思った。
 険悪な雰囲気になりそうなのを察して、慌ててソニアは傍らで同じようにハラハラしながら佇んでいたノエル声を掛けた。
「そうだ。……さっきはノエル君の魔法で助かったわ。ありがとう」
「い…、いえ」
 膝を折って小さな少年に目線を合わせてソニアはニッコリと微笑む。
 慌てて顔を真っ赤にするノエルの初々しい反応に、憮然としていたミコトも自然と頬が緩んでいた。が、ソニアとノエルの間に割り込むように身体を滑らせて、ミリアの臙脂の外套が翻る。
「……ノエルをたぶらかさないでくれる?」
 ミリアは険しく眉を寄せて、敵意にも似た視線でソニアを射抜いてきた。
「た、誑かす?」
 一瞬何を言われたのか判らずに、ソニアは押し黙ってしまう。言われた言葉の意味を解するのに時間が掛かったのだ。そして頭が解した言葉の意味が、余りにも自分にとって青天の霹靂であった為、ただ瞠目するばかり。
 狼狽するソニアに追い撃ちをするように、ミリアの痛烈な言葉は続く。
「あら、違うのかしら? 手懐けて見世物にでも売り飛ばすつもりではないの?」
「そんな事しません! ……精霊神ルビスに誓って」
 全く以って心外な事を言われ、憤りに握った手が打ち震えるのを押さえながらソニア。その心中を示すように声が微かに震え、裏返っていた。
 顔を紅潮させながらも、実直な眼差しの光を点すソニアの真摯な言葉に、今度はミリアが眼を瞬かせた。
「ルビス? はっ、……そんな在りもしないものに誓われてもね。……いくわよ、ノエル!」
 弾かれたように鼻で嘲笑い、肩を竦めながらミリアは踵を返す。これ以上話す事など無い。そんな思いが言葉と態度からヒシヒシと伝わっていた。
 ミリアの頑なな拒絶意思に、ただ愕然と立ち竦んでしまったソニアを見かねて、ノエルは申し訳なさそうに深深と頭を下げる。
「あ、あのごめんなさい。ソニアさん! ミリアに悪気は無いんです」
 萌黄色のローブが風に翻るが、そんな小さな動きが気になら無い位、ソニアの思考は停止してしまっていた。何度も頭を下げた後、ミリアの後を追って駆け出したノエルを定まらない視線で見止めるも、ソニアの身体は動かなかった。
 心に受けた動揺が大きすぎた為に足を進める事が出来ず、危険な地という事を理解していながらも、ソニアは進む事が出来ずにただ立ち尽くすだけだった……。




 一連のやり取りを気にする事も無く、ただ独り山道を下り続けているユリウス。
 わざとらしく歩調を広め、勇み逃げるように進んでいく異種族二人。
 そして、道の真中で完全に立ち止まって固まってしまったソニア達。

 否応無しに感じる種族の間に刻まれた深い深い溝。誰もがその深遠を覗く事は出来ない。
 天を仰いでも晴れやかな清々しさは無い。ただ鬱蒼と茂る緑の帳は心に重く圧し掛かり、森の中を駆け抜ける風が一層冷たく感じさせていた。






―――三日前。カザーブ村に在る屋敷、その一室。
 部屋に戻ってきたクリューヌを見止め、藍色の髪の少女は色めきだって叫ぶ。
「このブタが! よくも私の前に姿を現せたわね!」
「ここは私の屋敷です。何処に姿を現そうとあなたに文句を言われる筋合いはありませんよ」
「黙りなさい! さもないと、焼き殺すわよっ!」
 両腕と身体を縄できつく拘束されている為に、自由に動く事は出来ない。それに歯噛みつつも、苦渋に顔を険しく歪ませるミリア。元々高い声が、叫びで更に高く感じられる。ただそれでも不思議と耳に障らないのは、やはり妖精種という人ならぬ存在であるからだろうか。
 目の前で捲くし立てる異種族の少女が抵抗できない事を知ってか、クリューヌは空々しいまでに穏やかに、そして相手の感情を逆撫でするように対応する。
「出来もしない事を仰らないで下さい。あなたの魔法は今封じているのですよ」
 言いながらクリューヌは手にしている杖の先端を、叫ぶ異種族の少女の白い頬を撫でるようにそっと這わせる。気高い気質のエルフ族にとってこの上ない屈辱的な行為といえるだろう。
 その効果は…抜群だった。元々雪のように白い肌のミリアの顔が見る間に赤く染め上がり、痩身が打ち震えるのを見て取れる。それを見止め、クリューヌは勝ち誇ったように口角を持ち上げた。
「! っ、この……」
 今、自分は拘束されている身。それを解して、ミリアは強引に頭を振って杖を退かす。そしてその杖が何なのかを知って、今度は下唇を噛んだ。
 険しく細められた藍眼の先には、禍々しい地獄の神官を象った意匠が為された杖…魔導器“魔封じの杖”だ。その効果は対象の魔力の流れを封鎖して、魔法を発現させる為の魔力エーテル集約を妨害する魔法…マホトーンと呼ばれるものである。
「……はっ、人間如きの魔法で何時までも押さえられると思っているなら大間違いね! 魔法封じマホトーンが切れたら真っ先にあなたを焼滅させてやるわっ!!」
 その効果を身をもって理解してか、魔力の扱いに長けていると言われるエルフ族の少女は眉を吊り上げて、忌々しげにクリューヌを睨みつけた。
 その仕草が今自分が無力であるという事をさらしているようなものであっても、それが見え透いた虚勢であったとしても、ミリアとしては叫ばずにはいられなかったのだ。
(こんな小娘に……!)
 その様々な思いの込められた圧倒的な敵意の視線が億劫になったのか、クリューヌは杖を片手に大仰に肩を竦めて見せる。
「……魔法を封じられてもその勢いは変わりませんか。殆ど猪ですね」
「ブタに猪なんて言われたくは無いわ!」
 部屋の中に高く響く罵倒の叫びも、その捕われている様相からでは虚しく響くだけだった。

 隣のノエルはもうどうして良いかわからずに、ただ佇んだまま俯き、三人のやり取りを卓を挟んで見ていたソニア達は、この急場に唖然とするばかり。
 ユリウスだけが我関せずを決め込んで、清涼な紅茶で喉を潤していた。




「……そいつらが?」
「ええ、そうです」
 騒然とした場が一段落ついたのを見計らってユリウスは席を立つ。視線だけ動かしてクリューヌを見やると、彼女はコクリと頷いた。それに一つ小さな溜息を吐いて、ユリウスは少しも臆する事無く異種族二人の方へと歩み寄っていった。
「おい、お前」
「…………何よ」
 ようやく縄から開放され、手首の動きを確かめるように回しているミリアは、白い肌が粗縄の跡で紅く腫れてしまったのを見止め顔を顰めていたが、横から掛かってきた声に訝しそうに半眼を向ける。未だに憤っているのか、白い頬からまだ赤みは抜け落ちていない。
「ノアニールまで案内して貰えるな」
「はっ、何で私がそんな事を……何が目的?」
「表向きはその村の様子を見て来いと言う事だが、まぁそんな事は俺にはどうでもいい。……とある人間の足跡が知りたい。ノアニール村に訪れたと言う話を聞いたからな」
「…………」
 話を聴いていたクリューヌの眉が僅かに動くが、それをユリウスは無視する。
「お前らも、ノアニールに向かうらしいな。互いに利害は一致している筈だが?」
 ユリウスの言葉に怪訝に目を細め、腕を組んで思案するミリア。その剣呑に光る目は、黒髪の少年の双眸の奥…心の内を探るようであった。が、ユリウスの深い漆黒の眼は鏡のように返すだけ。
 周囲で未だ唖然と眼を見開いているソニア達とを見比べると、やはり違和感を覚える。その事に訝しみつつも、ミリアは頷いた。
「…………いいでしょう。ただし、足手纏いになるなら棄ててくわ。ただでさえ、人間と共になんていたくないんだから」
「それは構わない。こちらとしても、エルフの事情に首を突っ込む気など毛頭無いんでな」
「……減らず口を叩く小僧ね」
「見た目が大して変わらない奴に小僧呼ばわりされる筋合いは無いが、まあいい。お前がエルフなら、俺の数倍は上を行く年寄りだろうからな。小僧と呼ばれるのはこの際仕方が無い事だろう」
「このクソガキ……」
 無表情で何の感情も篭めていないユリウスの視線と、憮然とした顔で敵意にも似た鋭い視線を送るミリア。二つの視線は互いに的を射る事無く逸れ、周囲に緊迫感だけを撒き散らした。

 ユリウスに続いて異種族二人の所へ歩み寄るミコト、ソニア、ヒイロの三人。
 ソニアは勿論、ミコトにとってもエルフをはじめとする異種族との接触など今までの人生で経験など無い。そんな未知との接触コンタクトを普段と変わらない様相で…いや普段以上に横柄に行うユリウスにただ固唾かたずを飲むばかり。
 チラリと目線だけでミコトは隣に佇むヒイロを見ると、至って平静に事の成り行きを傍観しているので、それが何とも小憎らしかった。内心で動揺している自分がまるで滑稽ではないか。そんな声が自分の内から発されている気がしてならなかった。
 そんな胸中で複雑な思いが渦を巻いていた時。
「あ、あの……。助けていただいて、ありがとうございます」
「助けて……」
 深深と頭を下げて礼を述べるノエル。
 発せられた言葉は少年らしく変声期を迎えていない高い声だった。それだけではなく、その声色には人とは違う何かがあるとミコトは感じる。ただ、言葉の内容を聞き止めては苦笑ともいえない曖昧な表情で、完全に二人の異種族に悪者にされたクリューヌを見やると、やはりただ慎ましく微笑みを湛えているだけ。
 何とも捉えどころの無い人だな、と思いつつ視線をノエルに戻す。すると、ソニアが少年に目線を合わせるように膝を折り、微笑んでいた。
「うん、こちらこそ宜しく。えっと、ノエル君でいいんだよね? 私はソニア。ソニア=ライズバードよ」
「ソニアさんですね。はい、宜しくお願いします」
 朗らかに笑みを浮かべる少年を眺めつつ、こちらの少年は藍色の少女と違って穏やかな性格のようだ。今も射殺すようにユリウスを睨みつけている様を横目に、ミコトはそう思った。




 異種族二人の所持品が返され、二人は大慌てで荷物を漁っていたが、目的の物があったのを見止め安堵する。
 その様を見て、余程大切な物でもあったのかと思うが、気にしても意味が無いのでユリウスはその思考を振り払った。そして、佇んでこちらの事の成り行きを見ていたクリューヌに視線を移す。
「では、これからノアニールに向かわせてもらう」
「お気をつけ下さい。ここより北方は魔物が大量に跋扈しているとの報告もありますので」
 言葉に刹那、眼を細めユリウスは肩を竦める。
「……そちらとしても満足だろう? どうにも余程、王都に行かせたくない事情があるみたいだからな。時間が稼げてあんたには願っても無いだろう?」
 弾かれたようにクリューヌは顔を上げるが、もう眼前にはユリウスはいない。ユリウスは既に扉の前に移動していた。
「! それは……」
「失礼する」
 彼女が何か言葉を紡ごうと僅かに眼を伏せるが、ユリウスはそれを遮って大きく扉を閉めた。
 パタンという戸の閉まる音が、酷く耳障りに部屋の中に木霊していた。






―――ユリウス達が出発して直後。屋敷の一室にて。
 シン…となった部屋に佇んでいたクリューヌは、突如胸の上に鎮座していた銀のロザリオをむしり取る。首の後ろに鋭い痛みが走ったがそんなもの、気にはならない。散々に銀の鎖の残滓が床に弾かれて転がるが、その玲瓏すら耳には入ってこなかった。
 無残に千切れた銀の鎖もろとも、ロザリオを部屋の壁に叩きつける。硬い石の壁はそれを弾いて再びロザリオはクリューヌの足元に転がってきた。
 それを今度は忌々しげに見下ろし、何度も踏みにじっては大きく肩で息を吐いた。
「……っ、あのガキ!!」
 余計な事を……、と怒りに消え入りそうな声で呟く。



 盗賊団“飛影”と勇者の諍いの結果、その被害報告を耳にして着々と進めていた計画が遅延するのを理解した。『勇者』によって斬殺されたのが下っ端という点は、自分にとってはどうでも良い事だ。ただ首領カンダタの敗北という事実はまずい。“飛影”は盗賊団“流星”の下位組織だが、首領カンダタのカリスマ性はこのロマリアには無い稀有なものだ。そして、それは戦いという場では勝利を導く輝かしい星となる。
 事実、この村の自警団の中には“飛影”の一員ではないにしろ、彼の人柄に惚れ込んでいる者も少なくない。
 相手が『勇者』であろうとも、そのカンダタの敗北は彼らの士気に関わるだろう。そしてカンダタ自身が負った手傷の深さもある。回復魔法の治療があるとは言え、直ぐに全快には至らないという。
 自分としては一刻も早く山賊共を皆殺しにしてやりたいというのに、とんだ邪魔が入った。
(勇者は勇者らしく、魔物だけを殺していれば良いものを……)
 心底腹立たしい……、そう思えてくる。
 彼を派遣したのは王だが、あの愚昧王は自分の事しか考えない愚図だ。金の冠などと言う権威の象徴よりも、国民を脅かす山賊共を駆逐した方が国の為だというのに、余計な事をしてくれた。



(どいつもこいつも……)
 震えるほどまでに力を込めて握った拳が、熱くなるのをどこか頭の隅で感じていた。

「……少しは落ち着かれよクリューヌ殿」
 突如掛けられた言葉。ハッとして声の主を仰ぐと、そこには苦笑しながら壁に背を預け佇むアズサの姿があった。
「! レティーナ殿、まだ居られたのですか?」
 まだ興奮が冷めていないのか、向けられた瑪瑙の眸は鋭い。それを受けてアズサは内心で溜息を吐いた。
 何が彼女をそこまで憤らせているかなど知る由も無いが、その矛先を自分にまで向けられる筋合いも無い。早々に意識を逸らせなければ、とアズサは思う。
「……しかし、危なかったな」
「……何がですか?」
 首だけだったのをクリューヌは、今度は身体を傾けて真正面からアズサにまみえる。興奮の為か細々と息をしていたが、その感覚も長く静かになってゆくのを認め、アズサは口を開いた。
「その杖、もう限界だったのでは?」
 言われて片手に持ったままの杖を見やると、その意匠の部分に備われた青い宝玉に幾重もの亀裂が生じている。これでは、この杖の効力も満足に発揮できないだろう。今更ながらにそれを認め、クリューヌは溜息を吐いた。
「……まったく、エルフというのはやはり人外の化物ですね」
 この杖も量産品でたいしたことは無い、と付け加えて卓の上に置いた。
「それよりも、あなたは彼らに着いていかなくて宜しかったのですか?」
 問いに、何を今更……、とアズサは肩を竦める。
「……この国のごたごたに手を貸す気など更々無い。“飛影”の件は私にも目的があったから協力したまでじゃ。それに、今回こそ私が手を貸す事はそちら側に問題が生まれるのではないか?」
「当然です。イシスの“剣姫”などに我が国の問題に介入されては、ロマリアの立場が悪くなりますからね」
「それを『アリアハンの勇者』に頼むのもどうかと思うが……」
 椅子に腰を下ろし、冷たくなった紅茶で喉を潤してから、クリューヌは優雅に微笑んだ。
「普く人々に希望を齎すのが“勇者”という存在。そして遠く離れた島国よりも、隣国である貴国との体面の方が面倒なのですよ」
 その慎ましやかな仕草から、どうやら完全に気持ちが落ち着いたのだと、胸中でアズサは再び嘆息する。
「……しかし解せんな。何故、ああまでしてユリウスをノアニール村とやらに向かわせたのじゃ?」
「……今、勇者殿に王都に凱旋されては困るからです」
「?」
「山賊共は、今“飛影”が国家と潰し合っていると油断しきっている。そんな時に問題が解決されたら、相手側もその変化に気がつくでしょう。“金の冠”の事は一般には秘事ですが、人の口に戸は掛けられません。噂はどうしても流れてしまうでしょうからね」
「……先手を打ってこの村に攻め込まれる懸念があると言う事か」
 成程と頷く。確かに、それは考えられる事態だ。アズサはそう思った。
「そう……我等が足並みを揃えて先手を打ち、彼らを根絶させるまで、“金の冠の奪還”という事実は邪魔なのです」
「貴王は御承知なのか? 確か、金の冠の奪還は王の意向の筈じゃが……」
「あの愚昧王にそれを解する頭など在りません。王の個人的な意思など、この際どうでもいいのですよ。大臣閣下には既に通達してありますし、了承して下さりました」
「国全体の事を思えば、それが最善という事か」
 そういう事です、とクリューヌ。ピンと背を正すその仕草からは、何ら後ろめたさを感じない。
「憐れじゃな。忠誠を誓われている王も、ここまで家臣に蔑ろにされては……」
 言葉通りそう思うが、それは禁じえない。総ては王自身の身から出た錆、そして何よりも他国の事情なのだ。
 呟き程度の声量であった筈だが、クリューヌは綺麗な相好を崩して露骨に憮然とした表情を作る。
「誤解なきように。私が仕えているのはロマリアという国であって、王ではありません」
「?」
「あなたはイシス女王陛下の“剣”でおられるから、ご理解いただけないやも知れませんが……。我々は王の私兵では無いと言う事です」
「……そうか」
 己の立場を考えると余り理解したくは無いが、ここで反駁しても意味が無い。即座に思考を切り替えてアズサは話を戻す。
「すまぬ。話の腰を折ってしまったな」
「いいえ。……あのまま勇者殿に凱旋されては後に支障をきたしますから、足止めさせて頂いたのです。丁度良いところにノアニールの件と、二人のエルフがこの地に迷い込んでくれまして」
「その口振りからすると、ノアニールなどどうでも良いと聞こえるな」
「そう聞こえましたか? ですが、否定はしません。……今憂いに満ちたこの世。世界が壊れていく様を見る事無く、夢を見続けられるというのならば、その方が幸せなのではないでしょうか」
 ふと、言いながら窓の外を見つめるクリューヌ。その瑪瑙眼は何処か羨望さえ湛えている。
 そんな意味深な言葉や仕草にアズサは首を傾げるも、知りようが無い以上考えても仕方が無い。そう己に言い聞かせて話を進める。ただ、僅かながらに癪に障ったからか大仰に肩を竦めて見せた。
「とても神学を修めたものの言葉とは思えぬな。確かあなたは、ユラと共にダーマで学んでいた筈じゃが……」
「神を仰いだところで、一体世界の何が変わるというのでしょうか?」
 それにクリューヌは鼻で嗤った。
「…………」
「在るのはただ悲哀に生きて殺される人だけです。罪を犯すのも人、罰を受けるのも人。神などが入る余地は存在していませんよ」
「何がそこまであなたを駆り立てる。山賊の根絶に力を注ぐあなたの姿勢……私怨に満ちていると感じるのは、私の気のせいか?」
 アズサのその一言で場が凍った。
 シン、と静まり返った部屋、空気がピリピリと痛い。何か不味い発言でもしたかと、アズサは自身の言葉を脳裡で反芻してみる。
 だが思い当たらずに口を噤んでいると、表情を凍らせていたクリューヌは重々しく口を開いた。
「……ユラから聞いていませんか?」
「何をじゃ?」
 国を発つ前に会った親友の顔を思い浮かべる。彼女から眼前の女性の人物像については訊いていたが、それ以外の情報は無い。
 やはり解らずに眉を寄せていると、続いたクリューヌの言葉に、今度はアズサが凍りついた。
「……あなたも、大切な者を失えば判る事ですよ」
「! そ、それは……失言じゃったな。すまぬ」
「いいえ、私個人の事を抜きにしてもこの村の……いえ、山賊共に蹂躙された人々は彼ら許す事はありません。親兄弟、夫婦恋人を殺されておいて謝罪の言葉だけで済ますなど、彼らの怒りは収まりようも無いでしょう?」
「否定はせんが」
「もしもそれが魔物によるものであったのならば、その矛先たる魔物に対して力を持たない者は世に憂いその不満を胸中で消化する事もできるのです。「仕方が無い……」、「こんな時勢だ」……そう言い聞かせてね」
「…………」
 堰を切ったように滔滔と語るクリューヌ。その瑪瑙の双眸にはただ憎悪にも似た激しい感情が波打っていた。
 それに気圧されそうになるのを、アズサはジッと堪える。
「だけど、それが人によるものであるならば……。明確な矛先が自分達と同じ存在である以上、彼らの遺憾は的を逸れる事は無いのです。同時に山賊共もまた、拿捕されれば殺されると判っているからこそ退く事は無く、逆に徹底的に残虐非道な行為をとるのです」
「……不毛な連鎖じゃな」
「そうです。だからこそ、この錆び付いた環を断ち切る為にも、山賊共を完膚なきまでに駆逐する必要があるのです。そうして初めて、この地に住む人々は次へ足を進める事ができるのですから……」
「……あなたも、そうなのか?」
 すっかり気勢が削がれてしまったアズサ。眉尻を下げつつ緑灰の眸は悲哀に細められる。
「どうでしょう? 思いが強ければ強いほど遺恨は大きく、その根は深くにまで到達して過去に縛り付ける楔となります。それを取り払える者は果たして世に多いと言えるでしょうか?」
「……私には、わからんな」
「そもそもこのカザーブを貶める山賊共もまた、魔物、或いは他の賊徒に同じ事をされて鎖に囚われた者達。ですが、同情はしません。容赦無く断絶する事が、最善の策なのですから」
 クリューヌは窓の外の空に目線を移し、大きく溜息を吐いた。




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