――――第三章
第三話 異端者二人
深く静かな夜を地上に齎していた帳は、時という世の理によって既に上げられている。
鮮烈な朝の陽射しは閉ざされた
瞼に照り、その暖かな光は眠りと言う闇に溶けていた意識を酷く鈍重に感じさせる。覚醒に向かう意識と、それを拒絶する意志。その二つの間の逡巡をまどろんだままの意思で自覚すると、自然と思考に明々な兆しが現れ、やがて爆ぜる。
意識を手放してから数時間後。人の、世に生きる生命の誰しもが感じる朝の訪れ。
僅かに開かれたままの窓からは、朝陽と冷風。そして、大空を悠然と舞う鳥達の
囀が聞えてくる。
流れ込む空気に、部屋の窓に備えられていたカーテンは清々しさを感じているのか、鳥が羽ばたくように大きく翻っている。それは窓から入る陽光を遮っては通し、光と影の
波濤はその場に在るものに分け隔てなく降り注いでいた。
(朝……か)
それを寝台に横になったまま、未だ閉じられたままの瞼の内からユリウスは感じていた。
瞼の裏で感じる断続的に訪れる光の圧迫感により、既に意識は覚醒を果たしている。だが、瞼を開いてしまえば、そこから入る燦然と照る光に身を焦されるのではないかという、妙な切迫感を覚えて開眼が
憚れていたのだ。
(いっその事、朝など来なければ……)
降り注ぐ光に、苦しそうに僅かに眉を顰めながら、ユリウスはそんな世の理に反した事を考えてみた。
朝の光は、人を眠りの園から引きずり出す。まどろんだ夢幻の時間の終焉を誘う。
重苦の悪夢を見ていれば、それから救う温かい慈愛の光に。
甘美な妄夢を見ていれば、それを引き裂く無慈悲の冷光に。
朝光も、見るものによってその価値も意味もいかようにも変容をきたす、虚ろなものなのかもしれない。
(自分にとっては、どうだろうか……)
そう自問してみる。が、答えなど既に解り切っている。
自分という意識を無くしていた貴い時間を奪い去る、忌むべきものだ。
眩しい朝陽など自分にとっては、最早清々しいものですらないのだ。
天地の理に唾を吐いたところで、意味も意義もまるで無いのは理解しているが、この眩しさは否応無しにそんな気分にさせる。
「……どうでもいいな」
実りの無い不毛な思考をそう呟いて遮り、上半身を起しながらユリウスは重い瞼を開いた。
霞む瞳で部屋の中を見渡すと、昨夜意識を無くす前と何一つ変わらない質素な宿の部屋だった。床に置いたままの桶、その内の赤い水も、ただただその場に座しているだけ。開かれた窓から入る朝の澄んだ冷涼な風によって、その水面に波紋が生じているが、それすらも穏やかさを醸すものだ。
高山地帯の肌寒い夏の朝。冷たく感じられる風とは裏腹に、地に降り注ぐ太陽の光は肌に刺さる様に鋭い。晒された肌がヒリヒリと悲鳴を上げるのを感じていた。
『魔王討伐』の旅としてアリアハンを発って、もう二ヶ月が経とうとしている。
遠い故郷での普段の目覚めを思い出そうとするが、もうはっきりと思い出す事は出来ない。意識が、無意識がそれを拒んでいるのは別として、それだけ時間、空間的な隔たりが確かに存在していた。
無感動にそんな事を思い浮かべながら、ユリウスはその陽射しを浴びて白く輝く髪を無造作に掻きまわす。そこで漸くサークレットを被ったまま、旅装束のまま眠りについた、という事に気が付き、その事実に無意識的に口元を歪ませていた。
観念したように肩を大きく上下させ、新鮮な冷たい空気を肺腑に吸い込み、吐いた。
やっと身体中の血の巡りが良くなったのか、ユリウスは寝台から下り、身体を大きく動かす。その時、ふと身体を動かしながら違和感を覚えた。
(……何だ?)
戒めたはずの掌の傷も。折れているはずの左腕も。体中にあるはずの打撲の疼きも。その痕跡すら見る事は出来ない。傷と共に、それに伴う痛みが完全に癒されて…否、初めから無かったかのように消えているのだ。そればかりか肉体的に、精神的にも満ち足りている感覚すら覚えていた。
昨日はあれほどエーテルとフォースを消費したと言うのに、ほんの数時間睡眠を摂っただけで、ほぼ完全に回復している。それも自分が自覚できる最も健全な状態に、だ。その爽快さがユリウスには逆に不信で不穏に思われた。
(……眠っている間に、何があった?)
失われた体力は休息によって取り戻す事はできるが、それがすぐに完全に戻る事など有り得ない。壊れた体組織を自然に修復する
賦活速度にも限度があるように、どんなに効率の良い休息だろうが、生じた歪は必ずどこかに根を下ろしており蓄積しているものなのだ。
肉体疲労だけではなく、精神疲弊の回復もそれに良く似た性質を示す。
たかが数時間の睡眠では考えられ無い事であり、今までにこのような事は無かった。だからこそ、今自分の身に起きている違和感が純粋に不思議でならなかった。
(誰かが……侵入したのか?)
表情の無い面、首を傾げながらユリウスは再び部屋を見渡す。
部屋の戸には鍵を掛けてある。それが開けられた形跡は無い。ベッドの脇には無造作に放られたままの、取り戻した金の冠が入った道具袋。傍らの椅子には丁寧に折りたたんだ外套と、その上に丈夫な手袋が揃えて置いてあり、部屋の中で動いた形跡が見られるものは何一つ無かった。ただ自身が纏う、血に塗れた空色の旅装束が黒く変色し、そこから鼻を突く、蒸せ返るような香りが僅かに漂ってきている。
これらを
鑑みると、部屋の中に誰かが侵入したという事実は考えられない。ならば、第三者による外的な要因では無いと言う事だ。
そうなると余計にこの現象が不可解なものになってくる。
仮に戸や窓から鍵を開けて人が来たのであれば、必ずその気配に気が付く筈だ。
自分はどんなに深い睡眠に落ちていようが、僅かな気配の動きで意識が覚醒するように、今までの習慣で身に染み付いているのだ。その為、何も感じなかった事から、その線はやはり考えられない。
世に満ちているフォースやエーテルを深く深く己に収束して、それを自分の肉体や精神の治癒に当てる、という術すべも世界には在ると言うが、自分はそのようなものを体得している訳では無い。そんな大層な技術、一朝一夕で出来る訳ではないし、無意識的にやってのけるなど在り得ない話だ。
眼を細め口元に手を当てて勘考していたが、やがて大きく溜息を吐いた。
「…………まぁ、どうでもいいか」
結局、ユリウスの思考はいつもの結論に至る。解らない事を考えた所で、時間の無駄に過ぎない事を充分理解していたからだった。
宿をチェックアウトして、村の中を縦横にはしる石畳を歩くユリウス。
瓦礫や戦闘で切り破られ、血塗れになった上着を処分して予備に持っていたそれを纏い、その上から外套を羽織っている。まだ着慣れていない所為か、何処となくぎこちなさを感じるも、すぐにそれは感じなくなっていった。
外套の上や髪に射す陽射しが酷く強く感じるのは、この村が高山地帯にあるからだと思い起こす。空気も薄い所為もあってか、それに含まれる陽射しを遮る水分も低地と比べて少ないからなのだろう。
村自体は山間の僅かな盆地に存在しているが、そのすぐ外は四方を高い山々に囲まれている。
空気の薄いそこで激しい運動をすれば、直ぐに息が上がるだろうし、この厳しい
勾配の地を駆け回れば平衡感覚が自然に養われるだろう。確かに己の肉体の極限を追及する“武闘家の里”としての鍛錬の地には申し分無い環境だった。
だが同時に、盆地に在るからこそ四方を常に警戒して、魔物や山賊などの異分子からの奇襲に備えねばならない懸念も存在し、まさにそれがこの村を覆う現状だ。
朝の怠惰な、ぬるま湯に浸かったようなまどろみを、名残惜しく噛み締めている時間も呆気無く過ぎ去り、人々が起きてその日常の活動を開始する時刻。それを示すようにポツリポツリと家から出て、道を歩く村人の姿が徐々に多くなってきている。
王都に比べ規模がそれほど大きくは無い村である為か、道ですれ違い往く村人達は異質を見るような怪訝に満ちた眼でこちらを盗み見しながら、コソコソと何かを話し込んでいた。
それを鬱陶しそうに見止めながら、外套に顔を埋めユリウスは大きく溜息を吐く。
(……まぁ、これが自然か)
己の生活圏の規模が小さくなればなる程、そこに住まう人は協調しあい、団結する。その中で、それぞれが一人一人の顔も見知っていて当然だろう。そんな共同体の中に異質が紛れ込めば、それを奇異の眼で見るのは人だけでなく他の生命にとっても至極自然な行動だ。
人間を始め、様々な生命は“異質”を怖れる。姿形は同じであろうが、その雰囲気だけで敏感に感じ取る。それが自分達の平穏を脅かす可能性を秘めたものなら尚更だ。
現在のこの村の事情を思えば、それは仕方の無い事なのかもしれない。
昨晩感じた警戒の視線。明らかに厄介な者を見る眼、その態度……。
(無法の賊徒と流浪の冒険者。……彼らにとって両者は同じなのかもしれないな)
そんな村人達を無感動に眺めながら、ユリウスは石畳を蹴る足を進めていた。
静かな場所を探しつつ村の中を歩いていたユリウスは、村の中央にある大池の
辺にベンチを見とめ、そこに腰を下ろして深く大きく息を吐く。暫くは目を伏せたまま、大空を自由に飛び交う鳥の囀りや、眼前の池が風に揺られて生れる漣の音に耳を傾けていた。
ゆっくりと時間が流れているような錯覚を覚える山間の村。ここに住む人間にとって現状はそれを許さないのだが、外から来た自分には関係無い。だが、その穏やかな雰囲気に酷く居心地の悪さを感じながら、ユリウスは瞑目し考える。
(さて、これからどう動くか……)
ロマリア王にこの金の冠を届ければ、この国から援助がでる。『勇者』などというお題目はどうでもいいが、その内容について、人的援助ならば旅の危険性を匂わせつつ断り、資金援助ならばありがたく賜る。要は旅の障害が少なくなればそれでいいのだ。人の世を渡るにはどうしても資金が必要になるし、こんな平和ボケした国だ。足手纏いなど付けられでもしたら邪魔にしかならない。
(こちらの希望としては、ポルトガへの紹介証……か)
この旅は徒歩だけでは
その場所には決して辿り着けないのは、旅に出る前から既に承知していた。
魔王が座すのは旧ネクロゴンド城。
その地は魔王降臨時の天変地異により断崖絶壁の頂上に在るという、言わば天に最も近い場所だ。そこに至る術など空でも飛ばない限り皆目検討もつかない。
だが、世界にはまだ自分の知らない事が多くある筈だ。それが魔法であれ、技術であれ、そこから何かしらの手がかりになればいい。
魔法、知識を求めるならばこのロマリアより続く東方街道の果て、遥か東の地に在る“魔導の聖域”ダーマ神殿。或いはアリアハン大陸の西の海に浮かぶ、精霊神ルビス教の聖地、聖殿ランシール。それら二つの古代神殿には、古からの知識が綴られた数多の蔵書が在ると言う。
魔導器に関わらず、機工技術を求めるならばロマリアより北西の海に浮かぶ、機工王国エジンベア。人類史の中で文明の発生と共にその名を連ね残している国ならば、今世界のどの国よりも進んだ技術が在るかも知れない。
(……或いは
あの男の足跡か)
一つ、溜息を吐く。
ダーマまでは陸続きであるため徒歩も可能だが、その距離を考えると徒歩だけでは現実的ではない。馬などの移動手段を得られれば話は別だが……。
エジンベアにしろ、ランシールにしろ共に島国である為、徒歩は不可能だし、そして何より今、頭に単語だけを並べて思い浮かべた存在は、世界を巡ったと謳われている。
どの道を取るにも、やはり船は必要だった。
旅の移動手段、その選択肢は多く手にしておく必要性がある。
そのため造船技術が世界一とされている海運王国ポルトガで、何とかして船を手に入れておく事が当面の目的だと考えていたのだった。
(真っ当な手段はそんなところだろう。……だが他にも術はある)
各地で魔の尖兵たる魔物を殺し続ければ、それを統括している階級の魔族が出てくるだろう。それを利用するか、殺し続ければ魔王も黙ってはいない筈だ。何かしらの行動を起こして来るだろう。
『魔王』が世で囁かれているように世界を滅ぼせる存在なら、それは単独でも充分の筈だ。それが徒党を組んでいるという事は、一人では力足らずで成し得ないか、他に別の目的があるかのどちらかでしかない。
魔王の考えなど知りようも得ないし、知りたくも無いが、降臨から既に二十年……。未だに在り続ける世界を考えると、そう思えてくる。だが、真実が何であろうと自分の行動には何ら変わりは無い。
(こちらから出向く手段が無いのであれば、向こうを引きずり出せばいいだけだ)
自分としては、これが一番手っ取り早く、望んでいるのだが、世界がそう上手くいかない事も充分承知している。だからこそ、色々と案を考えておかねばならなかった。
そこでユリウスは瞼を開いた。
深く沈んでいた思考に一段落がついたら、聴覚が周囲の音を拾えるようになった。木漏れ日と共に流れる涼しい風に乗って、周囲を歩く人々の話し声が耳朶を撫でてきた。
「聞いたかい? この村の外で、エルフが出たんだとよ」
「エルフって…。じ、じゃあこの村もノアニール村みたいに、呪われちまうのかい?」
「わかんねぇ……」
「冗談じゃないよ!」
「山賊と魔物だけで手一杯なのに、それにエルフだって!?」
普段ならば周りの人間の会話などどうでも良く、聞き止め
咀嚼する事など無いのだが、余りに珍しい単語にユリウスは目を細めた。
(……エルフ?)
以前、魔法の師だった賢者セフィーナや十三賢人バウルに聞いた事があった。
森と風に生きる妖精種で、人を遥かに超越する寿命と魔力を備えているという。だが種族の優性さに反して、その個体数は人間種に比べて圧倒的に少数で、人の干渉の無い地にて集落を作り住んでいる。
性格は温厚で、容姿は美貌に溢れている者が多いと言われているが、その閉鎖的な環境の為か排他的で、外に…他種族に対しては臆病とまでいえる警戒と、その裏返しか忌み疎んじる傾向が強いという事だった。
そんな彼らが人間の村に現れたという話など信憑性の無い事だと、ユリウスは思う。更にノアニールという村一つに何かしらの影響を与えるなど、信じられなかった。
どのような類の呪いかなど知る由も無いが、温厚とされる彼らが他種族を脅かすような行動を取るのだろうか。己の平穏を守る為に他種との交流を隔絶して生きている筈のエルフの行動とはとても思えなかったのだ。
(……所詮はただの噂だろう)
自分の中で早々に結論を出して、ユリウスはそれへの思考を終えた。
太陽も昇ってきて世界は更に明るみ始める。
それと共に村の中を往く人々は増えていった。人が増えれば自然と会話が多くなり、それは遠くからでも聞き取れる事が出来てしまう。逐一それらの内容にまで耳を傾ける気もユリウスは無く、颯爽と頬を撫でていく風のように、今も周囲でなされている会話をただの音としてしか捉えなかった。
そんな周囲の喧騒を意識的に遮断して、再び深く思惟の海に沈み込もうとした時だった。
「……!!」
ユリウスはハッとして横に立て掛けてあった剣を手にし、身体を後ろに振り向きざまに抜剣、背後に向かって振り抜く。
硬質な鋼がぶつかり合う甲高い音と、剣戟を織り成す時の手応えを感じる。鞘から解き放たれた剣は、朝の陽射しを全身に浴びて眩く煌いている。その刀身の半ば、自分のものとは別の剣がそこで交差し拮抗を保っていた。
こちらの体勢が悪いとはいえ、遠心力をつけた斬撃をこうも簡単に受け止めている。一体どんな相手なのか、その何者かの剣に沿ってその人物を視界に捉え見止めると、ユリウスは眉を顰めた。
冷たい鋼の先に居た人物は、シャンパーニの塔に同行した女剣士、アズサだった。
「……何の真似だ?」
「いやぁ…、探したぞユリウス」
地から響くように低く問うユリウスに対して、アズサは酷く間延びした口調で暢達に答えた。その様は不意打ちを、しかも真剣で行った事に対して何の気負いも無いようだった。そんな
強かな彼女を至極冷え切った眼で睨むように見据えながら、彼女が発した言葉に眼を細める。
「……何?」
「宿までお前を迎えに行ったら、既に出たという事じゃったのでな。こうして村中を探す羽目になった我等全員の気持ちを代弁したのじゃ」
「…………」
「ア、アズサ。そこまで思ってないよ……」
「……やりすぎだ。せめて鞘打ちに」
「…はは、ははは」
困ったような表情でアズサを宥めるソニアと、呆れたように溜息を吐くミコト。そしてただ乾いた笑いを浮かべているヒイロ。三人が三人ともアズサの言を否定しないところを見ると、少なからず彼女の言に賛同する意志があったと言う事だ。
それをヒシヒシと感じ取るが、ユリウスには何の変化も齎さない。ただ事の
顛末だけを求める。
「……で、何の用だ?」
「この村の役人が、ユリウスに用があるって言ってね。宿に泊まっているって聞いたから、呼びに来たんだ。だけど居なかったからね……」
「そういう事よ」
「…………」
鞘に剣を収めながら、ユリウスは後ろから来た四人に半眼を向ける。その針のような冷たい視線には、感情の灯火も見る事は出来ない。ただ酷く億劫そうな雰囲気を醸し出していた。
再び苦笑しながらヒイロは答え、ソニアも首を縦に振って肯定する。
それらを視界の端に捉えながら、ウンザリしたようにユリウスは大きく溜息を吐いていた。
カザーブ村の北西にある、村で一番大きな館を訪れ、中に通される。
山奥の村とは思えない
屹然とした佇まいの建物の内部もまた堅固さと共に、優麗さを保っていた。廊下の所々に安置されている調度品を眺めながら、恐らくはこの館はこの地方を統括する貴族のものなのだと考える。
やがて客間に通され、出された優雅な香りを醸す紅茶を啜りながら暫くその場所で待っていると、奥の間から女性が颯爽と現れた。いかにもといった、ロマリア人特有の緩やかに波打つ蜂金髪と澄んだ
瑪瑙眼を持つ女性。彼女は容姿に違わない落ち着いた澄んだ声色で、椅子に腰を掛けていたアズサを向いて軽く会釈をした。
「助勢、ご苦労様でした。レティーナ殿」
「いや、雇われた身として動いたまでじゃよ」
二人のやり取りに、ソニアとミコトは驚いたようにアズサに視線を送る。ロマリアからの協力者という事は出会った時に言っていた事だが、それが王から遣わされたものだと思っていたからだ。それにアズサはただ苦笑を零す。
そんなやり取りを眺めた後、その女性は真っ直ぐにユリウスを見据えた。その瑪瑙の瞳には強い意志の光が宿っており、整えられた柳眉がそれを更に際立てる。胸の上に座した銀のロザリオの輝きすらをも霞んでしまう程の強さだった。
「初にお目にかかります。『アリアハンの勇者』ユリウス=ブラムバルド様ですね?」
「……あんたは?」
「申し遅れました。私はロマリア王国北地方駐留武官、クリュ―ヌ=リンドブルムと申します」
以後御見知りお気を、と恭しく頭を足れる女性を、ユリウスは酷く冷め切った眸で見下ろしていた。
「『勇者』様。金の冠の奪還、ご苦労様でした。これであなたはこのロマリア王国においても、『勇者』と認められる事でしょう」
「……成程。監視の一つはやはりロマリアだったという事か」
「お気分を害された様でしたら、申し訳ありません」
僅かに瞳を伏せつつクリューヌ。
淑女然としたその
慎ましやかな仕草が、どこか演技めいて見えてしまう。それを鬱陶しそうに眼を細めて捉えながらユリウスは返す。
「いや、そんな事はどうでもいい。それよりも、わざわざ人を呼びつけたんだ。それなりに理由があるんだろう?」
「ちょっと、ユリウス……」
「判りました。本題に入りましょう」
横で、あくまでも泰然な態度のままのユリウスを、ソニアが宥めようとする。が、クリューヌはそれすらをも意にも止めていないようであった。
「実は、『勇者様』にお願いがあって、お越し頂きました」
(……お願い、と来たか)
ユリウスは内心で一人ごちる。そうなれば、後に続く内容は何となくわかってしまう。何かしらの厄介事を自分に押し付ける魂胆なのだろう。このロマリア王国に来て以来、そればかりのような気がしてならなかった。
「この村より北に山を下っていくと、針葉樹林帯が存在しています。その中に点在する集落を総括するノアニールという村があるのです」
「……ノアニール」
「その村は、このロマリアにおいての林業を支えていた村でありまして、日々増加傾向にある魔物から村を、町を守る為の外壁、破壊された家屋……などに利用され、重宝されてきました」
「で?」
先程村の中で聞いた地名を思い浮かべる。それと共に、その地についての話もまた脳裏を過ぎって来た。
「ですが、十数年程前からノアニールとの連絡がつかないのです。その為、周辺集落との執り成しも容易では無くなっていったのです。辛うじて幾つかの集落から、人々がこの地に流れてきますが……」
「十数年……悠長な話だな。今まで手を打たずに放置していたのか?」
「仰りたい事はもっともです。ただ、あの地に向かう為には魔物の跋扈する山道を下らねばなりません。ここ周辺よりも凶悪な魔物が生息しているという報告もありまして、市井の人間が赴くのは不可能なのです」
騎士団は王都の守護で割けませんし、と眼前の麗女は付け加える。
その白々しいまでの態応に、その厄介事の輪郭が露わになったという事をユリウスは理解した。
村の外から一歩でも出れば、凶悪な魔物が跋扈している。それは昔から変わらない。となると自然と人々の意識は保守的になり、危険を冒してまでそのような辺境に足を踏み入れようとはしなくなってゆく。それが年月を重ねるごとに肥大化してゆき、今は魔物と山賊への対応で手一杯。それで打ち捨てられるようになった。
(理由としてはそんなところか……)
「勇者様も魔法をお使いになるのであればご理解頂けると思いますが、あの地から齎される材木には、陽のマナが多く宿っております」
「! ……成程な。魔物から身を護るためには必要不可欠と言う事か」
「はい。ですが、近年山賊が横行している所為で、この村を含め周囲の村落の外壁も多く破壊されてしまいました。有志を募り村々で自警団を組織して巡回させておりますが、何分それにも限界があります」
「確かに、魔物には効力を発揮する外壁も、人間には通じないか」
口元に手を当てて、思案するようにユリウスは瞳を伏せた。
「……そもそも、どうしてノアニールとやらの地に、陽のマナを蓄えた木々がそれほどに存在しているんだ? 他の地では有り得ないだろう」
「確証はありませんが、この地方に古くからある伝承によりますと、かの森には妖精が住まうと云われています」
「妖精? ……エルフが?」
「そうです。事実、それを目撃したという証言も幾つかあります」
妖精種と聞いて、森を住処としているのはエルフしかいない。ホビット族はどちらかと言えば薄暗い洞窟を主な住居とし、人との交流もあるからだ。……飽くまでも妖精種の中では、という意味ではあるが。
(……となると、さっきの村の連中が話していた事が真実味を帯びてくる。一つの村に呪いを掛けた妖精種エルフ族。……ノアニールに向かうという事は、下手に立ち回ればエルフと事を構えるという事も考えなければならない、という事か)
ユリウスは誰にも気付かれないくらい小さく溜息を吐く。そして、次の発言に周囲の視線が集まっているのを感じ、重々しく眼を開いた。
「エルフ云々は抜きにして、連絡がつかないのは、そちらの不手際の所為だろう。俺がその尻拭いをする義務も義理も無いな」
「ユリウス、困っている人がいるんだ。何故手助けしようと考えない」
「そうよ」
ミコトとソニアが不服そうに声を上げてくるが、ユリウスはそれらに反応しないで聞き流す。だが眼前の麗女はそれにかぶせ言って来た。
「普く人々に希望を齎すのが『勇者』なのでしょう? お願い致します。この村にはあの村の縁者も少なくない。心配なのですよ。ただ今は時勢が時勢だけに直接訪れる事もままならない……、判りますか? その心苦しさを」
『勇者』という単語を強調するクリューヌ。長卓の上で両手を組んで、まるで懺悔をするように瞳を曇らせて弱弱しく語るその姿は、見る者の心に訴えかける。それは確かにミコトやソニアの心内に同情という感情を芽生えさせていた。
だが、それを目にしてもユリウスは揺らがない。眼前の女性の言動の全てが、どこか取り繕った空々しいものであると確信していたからである。これまでも言葉や態度で飾ってくる連中など、吐いて捨てるほど眼にしてきたのであるから。だから、その自分の直感に素直に従っていたのだ。
「俺は便利屋でも、ましてや
慈善活動をしている訳でも無い。そちらの国土内の問題はそちらで解決すべきだな」
「……ならば、依頼という形ではいかがでしょうか? ノアニール村の調査……何か問題が有ればその解決。その折に私個人から報酬を出すというのであれば――」
「既に金の冠は奪還した。これを王都に持ち返れば、王は援助を約束されている。わざわざ依頼を受ける必要は無いと思うな。それに、俺は他国の人間だ。あんたたち…いや、このロマリアという国にも在るのだろう? 他国に対する面目という物が」
クリューヌに全てを言わせずに、ユリウスは釘を射した。
(十数年も音沙汰無しならば、問題が無い筈が無い。……相手側も必死という事か)
完全に瞳を伏せ、震えるように呟いたクリューヌの言葉。ギュッとロザリオを握ったその白い手が震えているのが誰にでも認められた。
「……そうですか、残念です。嘗てこの地を訪れたオルテガ殿は、村人の頼みを快く受けて彼の地に赴いて下さったというのに……」
「! 待て、どういう事だ?」
その単語を脳裡に捉え、吟味するとユリウスは眼を細める。動揺したというほどその面に変化は無いが、明らかに今までと違って瞠目している。
弾かれたように顔を上げるクリューヌの口元が僅かに持ち上がっていたのは、もう気にはならなかった。
「……どういう、とは?」
「オルテガがそのノアニールという地を訪れた、という事だ」
「彼の地に、嘗てオルテガ殿も足を運んだと、当時の駐留武官の記録にはございます」
「それは紛れも無い事実なのか?」
「ええ、勿論です。正式な記録として残っております。ご覧になりますか?」
これもまた用意していたのだろうか、既に手元にその記録が綴られた冊子が置いてある。それをそっと恭しく差し出してくる様を見て、ユリウスは内心で舌打ちしながら、
栞の挟まれた頁を開く。
(……ご丁寧に目的の頁まで用意してあるとはな)
確かにそこには、丁寧な文字で、オルテガがノアニールに向かったという事実が綴られてあった。記録にはその時期は十五年前とある。
その記録書をパタンと大きく音を立てて閉じ、ユリウスは返す。
「…………いいだろう」
「それは依頼を受けて頂くと取って宜しいのですね?」
「……そう言ったつもりだ」
「ありがとうございます。『勇者』様」
嫌味なくらい『勇者』という言葉を強めて、クリューヌは微笑んだ。
その優雅な微笑を忌々しそうに一瞥した後、ユリウスはすっかり冷めてしまった紅茶を啜る。冷たくなってもなお、芳しい香りが口内に広がってゆくのを感じるが、ユリウスの思考は直ぐそれを認める事を止め、これから先の事への思案へと移っていった。
突然、答えを変えてその依頼を受ける事にしたユリウス。
先程まで散々拒否していた者とは思えない変貌振りに、隣に座っていたソニアは不思議そうにその瞑目した横顔を見つめていた。
「
恙無く事を運ぶには、現地を知る者が必要でしょう。こちらで用意させて頂いています」
そう言い残して一旦退室したクリューヌ。客間に残されたユリウス達は、入れ替わるように部屋に入ってきた女中達から新しい紅茶を注がれ、それを口にしていた。
「助かったね。こっちは誰もその地の事を知らないから」
うん、とヒイロ。情に囚われず今まで静観していただけあって、冷静に先を考えていたようだ。
(この周到さ……。全ての準備を整えた上で、一芝居をうったという事か)
狡猾な女だ、とユリウスは溜息と共に内心で毒突いていた。
そんなユリウスを横目で捉えていたミコトは、普段と変わらない様子を認めて大きく溜息を吐き、相好を崩す。
「……少し安心した」
「何の事だ」
視線に気付いてか、ユリウスはミコトを横目で見る。そして何ともいえない違和感を感じた。
ミコトから来るのはいつも猜疑か求責、疑念の篭められた視線だ。だが今の向けられている視線は、どこか柔らかい友好的なものですらある。それを逆に訝しみ、ユリウスは怪訝そうに目を細めた。
そんなユリウスの心中など知る由も無く、ミコトは続ける。
「お前にも、親の背中を追う心があったんだと思って。お前にも、人らしい感情があるんだと思ってな」
一瞬、言われた事の意味が自分の理解の
範疇を超えていたので判りかねていた。だから直ぐに言葉を継ぎ足す事が出来ずに、黙ってしまう形になった。
「…………、何を勘違いしている」
「え?」
「……今現在、最も『魔王』に近づいたとされる人間は、オルテガだ。ならば、その足跡を辿るのが自然な、最も近道ではないのか」
「!?」
返ってきた言葉に、今度はミコトが瞠目する。ミコトだけではなく、その場にいる全員が、と言った方が正しいが……。
「それに、先人の悪しき轍を踏まぬという教訓も在る。だから、ノアニ―ルでオルテガの足跡を調べるだけだ」
「それは……、父を悼む気持ちから来るのでは無いというのか?」
「父としての実感が無い者を、どう悼めという? それ以前にそんな感情、俺には無い」
「……」
誰かの手が震えているのか、手にしているであろう紅茶のカップが戦慄いて、カチャカチャと陶器が
嘶く音が響き渡っていた。ユリウスの視界の中にいるミコトは、ただ言葉を受けて呆然と眼を見開いているだけ。
それに肩を竦め、ユリウスは紅茶で喉を潤した。
「あの女は、オルテガの足跡を匂わせる事で、情を以って俺を動かそうとでも思っていたのだろうが、そんなもの俺には無い。ただ目的の為の手段の一つ、
そこへ至る道標の一つ。オルテガなど、俺にはそれだけの価値しかない」
「……お前」
誰もが言葉を無くし、沈黙がその場を支配する。
ただ、そんな様子を素知らぬ様相で、温かな紅茶を口にしているユリウスの、それを啜る音だけが厭に大きく響き渡っていた。
それから数刻もしない内に、客間の扉が開かれる。それにユリウス以外の誰しもがホッと息を零していた。
扉の先から、両腕を後ろで縛られた藍色の髪の少女と、蓬色の髪の少年が、縄を掴む大柄な男に促されて、押し出されるように部屋の中に足を踏み入れていた。その少年はビクッと震えて少女の影に隠れるが、少女は背後の男を険しく剣呑な目で睨みつけながら息を捲く。
が、縛されている身の上である事を解してか、チッと大きく舌打ちして部屋の中で自分に向かってくる視線を、忌々しそうに顔を歪めながら受けていた。
少女は、深い潤いを湛える藍色の髪と、同色の瞳を持っていた。臙脂の外套との色合いも相俟ってその青さを強く見る者に印象付ける。
少年の方は、朝露を湛える新緑の若葉の如く朗らかな蓬色をした髪と、澄んだ群青の瞳は弱弱しく周囲を見回しては揺れている。萌黄のローブの上からは、やはり動きを制限するように縄で縛られている。
さながら奴隷商人に売り飛ばされた少年少女の様相だが、二人にはもっと一目見た時から誰しもの注意を惹く特徴を持っていた。
「……耳が」
失礼だと判ってはいたが、思った事を口から言葉にしてしまうソニア。ミコトやアズサは言葉を無くして、ただただ絶句して二人を見つめていた。
そう、部屋に入ってきた二人の耳は、豊かな髪を貫いて天を穿つように尖っていたのだ。
それを見止めつつ、ヒイロはユリウスに耳打つ。本人に聞かれたら失礼だろうから、萎めた声量で。
「……どう見てもエルフだね」
「だが、髪の色が藍色のエルフなど聞いた事が無い。エルフ族は純粋な緑か、黄緑系。或いは銀や金赤系の髪しか持たない筈だが」
コソコソと話すヒイロに対し、ユリウスは極めて単調だった。言葉通り異色な様相のエルフを怪訝そうな視線で捉えながら。
「そうだね。大きく特徴から外れているけど……」
「エルフは種としては完成されている。だから偶発的に突然変異のような個体が生まれる事など在り得ないな」
「そうなのかい? じゃあ、彼女の方は一体……」
興味深そうにヒイロは眼を見開く。それにユリウスはただ首を縦に振るだけだった。
「……可能性としては、異種間交配の結果というのが挙げられる」
「それって、まさか……」
「……ハーフ、エルフ」
一旦言葉を溜めて、抑揚の無い言葉で呟いたユリウス。余りにも小さな言葉は、耳をそばだてているヒイロ以外には聞こえない筈だった。
が、今まで苛立たしそうに佇んでいた少女は、あからさまな嫌悪に眉を険しく顰めて、ユリウスとヒイロを見止め、二人に向かって叫びだした。
「そこの小僧共っ! さっきからごちゃごちゃと
五月蝿い! 言いたい事があるならはっきり言いなさいっ!」
「こ、小僧共……」
良く通る、その甲高い声はしっかりと鼓膜を突いて来た。
自分も含まれるのかな、と少々ズレた感想を抱いていたヒイロはただ乾いた笑いを浮かべ、エルフの聴力は人間とは比較にならないほど優れている、という事実を思い出してユリウスは大きく溜息を吐いた。
窓の外からの、新緑の枝葉の間から零れる木漏れ日が、この邂逅を優しく照らしていた。
back top next