――――第三章
      第二話 見えざる暁







 暢達と天球を往く白翠の三日月が浮かぶ空の下。
 大平原にポツンと世界から取り残されたように佇み、その裡に古の記憶を留めるシャンパーニの塔。
 深く甘いまどろみをもたらす漣と、それを一層際立たせる玲玲に響く虫の音。それらがこの静謐に満ちた空と闇を深く包み込んで、数時間前までこの地で起きていた喧騒が夢か幻であったかのように思考を誘ってゆく。
 それに囚われまいと今を深く刻み付ける者達は、その代価として心に暗衣を纏わせていた……。






―――更けた夜が明けに向かう刻限の、深く澄んだ闇が覆う塔、その一室。
「精霊神ルビスよ。これより汝が御許へ旅立つ英霊達に、健やかなる安寧を与えたまえ……」
 祈りの言葉を呟きながら、ソニアは胸の前で翳した手を、右から左へ。下から上へ動かして十字を切る。ルビス教徒が祈りの句を紡ぐ時、そして自らを戒める時に執る行為だ。それにどのような意味があるのか理解している者は、当のソニア以外ここにはいない。
 ロマリア王国において最も多くの信者を集めているのは、大空神フェレトリウス。というのが一番の原因でもあるし、彼らは故郷を飛び出してこのような僻地に集った者達でもあるからだ。
 とはいえ、宗教の違い、信仰の有る無しに関わらずそれで人を差別するような事をソニアはしない。
 人それぞれ胸の内に秘めた想い、信じるものは様々だろうと昔から思っていたし、事実旅に出て以来そういう事を幾度無く目の当たりにした。風土、人種、言語、思想……。それらには確かな隔たりは存在するにしろ、人としての営みには何の違いも無い、と改めて思い直したのだ。目に映る世界が拡がった事により、『命は誰しも平等であり、尊いものである』という、今まで信じ続けてきた教義の誠実さをありありと実感して、更に信を深くしていった。
 それに背くという事は、自分の歩んできた人生の否定に繋がるので、自身の中で強く戒められている。だからこそ、背反する意志も意思も無かったのだった。

 彼女が祈りを捧げていたのは、眼前に整然と並べられた物言わぬ骸達。
 死者をこれ以上辱める事をしない為に、一人一人に布を被せているがその布も既に赤く染まっていて、彼らは既にこの世界から離別した事実。死という終焉を迎えたのだと言う事を、見る者達に否応無く突きつける。
 その彼らの前では、ほんの少し前まで変らなく接していた彼らの友が項垂れたまま膝を折り、或いはただ立ち尽くしている。嗚咽と共に涙を零す者、この現状を齎した者に呪怨を呟く者。突然の現実を受け入れられずに呆然とする者……様々だった。
 そこにいるそれぞれが、それぞれの反応をしていた。ただ、それらの反応の根底には悲しみの感情が存在している、という事だけは共通しているのが判った。
 痛々しい様相の彼らの最前で、その統括者であるカンダタは立ち尽くし、何時までも瞑目して黙祷を捧げていた。




 ソニアとしては、このような悲痛な風景を見るのは初めての事ではない。
 今は遠い故郷のアリアハンでは、半年前の傷跡が原因で帰らぬ人になった者も多く存在していて、その殆どの葬礼を執り行ったのは実家であるアリアハン教会である。だが幾度と無くこのような風景を見て来たからといって、決して慣れるものではない。
(ユリウス……。あなたは、こんな悲しみを広げる事すら、躊躇わないと言うの?)
 僧侶として、人間として例え敵対した彼らに対して、冥福の祈りを捧げる事には何の抵抗も無い。何故なら、相手は同じ赤い血の流れる人間なのだから。
 人を殺す事に躊躇いすら無い、と言った時のユリウスの漆黒の眼を思い出すと、背筋がゾッとしてしまう。純粋に怖れというものを覚えてしまっていた。
(……いけない)
 祈りの最中に逸れそうになる思考を、ソニアはぎゅっと唇を噛んで止めた。
 考えるのは今じゃなくて良い。今はただ死者への鎮魂の祈りを一心に捧げる事が、自分に出来る事であり、求められている事だ。十数年間僧侶として生きてきた自分にとって、それは誇りであり、自らを定義付ける意志なのだ。
「どうか、迷い無くいけますように……」
 その言葉はどちらかと言えば、自らに言い聞かせているようだった……。





―――最上階。ユリウスとカンダタの戦闘によって荒れ果てた部屋。
 穿たれた壁の残骸や、無残に返された床石。それらの隙間から、部屋にいる夜風に煽られて舞い上がる土煙。その幕中で、語らない時の残滓ざんしを真剣な眼差しで注視している人物がいる。
「よう、ヒイロ。何やってんだ? 壁と睨めっこか?」
 その人物…ヒイロに、部屋に足を踏み入れながらゼノスは声を掛けた。その声色はどこか間延びした、呆れているような色に満ちていた。それを聞きとめて、ヒイロは苦笑を零す。
「はは…、ただこの塔を調べていただけだよ」
「あー。そういや、お前って遺跡を調べるのが趣味だったよな……」
 言葉はどこか刺々しいが、嫌味に聞こえてくる事は無い。これはひとえに彼の性格からなのだろう。彼は言葉に態の良い取り繕いを付け加える事はしない。ただ自分の思った事を真っ直ぐに言葉にするだけだからだ。
(自分とは、大違いだな……)
 その事に、内心で一つ溜息を吐く。そして掌の上で、紋様の刻まれた石片をクルクルと弄ぶ。
いさご、長じていわおとなる……か。だけど、止まる事を知らない無常の流れの前には、如何なるものも抗えず、再び沙に還る……」
 石片を形作っていた砂塵が、自転による力に耐え切れずに掌の上で音無く崩れ去った。それを見て、ヒイロは寂しそうに琥珀の眸を細める。
「……この世界に遺された棺。裡に在った沙の片鱗が永い時によってその地から流れ去ったとしても、この場所に刻まれた記憶は廃れる事はない。ただ、求める人がそこに色々な想いを馳せ、限り無い世界を夢想する」
「……何時まで過去に囚われているつもりだ?」
「見つかるまで……、ね。それが俺の至上目的」
 どこか達観しているような、憂いに満ちた遠い目で、詩のように詠うヒイロ。それを呆れたように半眼で見つめながら、ゼノスは呟いていた。否、呟かずにはいられなかった。
「そうだったな。だがノヴァが言ってたぜ? 肝心なのは今であり未来だ。変えようの無い過去に縋ったって良い事なんて一つも無いってな」
「まあ、彼ならそう言うかもね。確かに、言いたい事はわかる。でも、俺にはそれがどうしても必要なんだ」
 ここにはいない相棒の名を出してはいるが、それは自分の言葉でもあるのだろう。自分を見てくるゼノスの視線にそれを感じて、ヒイロは僅かに視線を逸らす。掌に積もっていた砂塵が、何時の間にか夜風に乗って手中からさらさらと零れ落ちていた。




 暫くの間、沈黙が流れる。
 その間も、蝋燭の明りに照らされて荒れた部屋を影が躍るようにうごめく。
 舞踏会でのそれの如く、軽快にステップを踏み躍動している影を追って視線を動かしていたゼノスは、この凛と張り詰めたしじまを壊さぬようにそっと呟いた。
「……それで勇者クンに?」
「まあ……、そう言う事だね」
 いつものように波立たせずに、湖水のように深静にヒイロ。
「……お前のその何て言うか、…中庸さが、時々羨ましいと思うぜ」
「どうして? 俺はあんまり、好きじゃないんだけどな」
「……何事にも囚われない、というか。へこたれない、というか。揺らがない……強さ、かな」
 ゼノスの言葉に、大きく横に頭を振る。
「それは違うよ。これでもいつも不安なんだ」
「…………?」
「記憶とは自己確立の過程を記したもの……。意識、無意識でさえもそう。その根底を支える、満たされた柱に寄り添って人は生きている。それが空洞なのは、いつも不安がついて回るものなんだ。いつ崩れて、壊れるんじゃないかってね……」
「そういうもんか? お前じゃねぇから解らないが。あー、その……見つかるといいな」
「……ああ」
 濃紫の髪を掻き回しながらゼノス。どこかたどたどしい口調だったが、それを嬉しく感じ、ヒイロは微笑で返す。そして掌を反し、僅かに残った巌の残滓を、地に帰した。





―――夥しい紅も、今は闇色に染まって犇く黒に塗り替えられた回廊。
 この地方も夏になり始めたとは言え、まだまだ冷たい夜の風が容赦無く吹き入るそこを、アズサは歩いていた。
 開かれたそこから見渡す夜の大平原と、大海原は何処までも深く昏い。それらをただ見つめていると、自分の中にある何もかもが吸い込まれてしまいそうな感覚に陥ってしまう。
 それに抗う意味も篭めて、大きく息を吸った。微かな潮の香りが、夜気で冷えた鼻腔にはくすぐったい。

 列挙する柱の一つに背を預け、思案を広げながら闇色の眼下を一望する。暗紫の草原から獣の遠吠えが聞こえたような気がした時、そっと息を潜めて近づいてくる気配をアズサは背後から感じ取った。
「……ありゃ? 何でアズちゃんがここにいるんスか?」
「“月眼”? ……それはこっちの台詞じゃな」
 一応の警戒を篭めてアズサが頭を返すと、そこには暗緑色の髪と黒の外套に身を包んだ、盗賊団“飛影”の協力者コンスが影さながらに、闇にその姿を溶け込ませながら近づいてきていた。外から照る微かな光で表れる、驚いた面と言葉共々間延びした声とは裏腹に、その身のこなしには動揺は見られず、石床を蹴る足音すら立てていない。
 その様子を見止め、相変わらずじゃな、とアズサは半眼で見据えながら大仰に溜息を吐いた。
「俺は任務っスよ。同じ目的の為、“飛影かれら”に協力する事。……それが“魔姫”からの命令っス」
「ユラが? そのような話は聞いておらぬが……」
「ま、これもまた裏の仕事っスからねぇ……」
 緊張感が無いような仕草で、大袈裟に肩を竦めるコンスに、アズサは内心で苦笑を零さずにはいられなかった。
 この男の醸す独特な間は、否応無しに他人のペースを攪乱かくらんしてくるのだ。それを意図的にしているから更に性質が悪い。だからこそ間諜としては優秀なのだが……。

 自然と気疲れしてくる自分の思考を遮るように、コンスは確信を突いて来た。
「それでアズちゃんは何を? “剣姫”が他国に出張るなんて、普通じゃ有り得ないっスよ」
 言葉にアズサは真顔になる。その暗がりでもはっきりわかる緑灰の視線からは、強い意志の光が見て取れる。僅かの間だが、これまで同行していたユリウス達には見せた事は無い“剣姫”としての役割を持つ者の顔だ。
「私のは陛下直々の命じゃ。それに私一人がおらんといっても、何が変わるという訳ではあるまい」
「そういうもんスか? 常に『砂漠の双姫』が王前に揃ってないと、民が不安がると思うけどね」
「……で? 今ここにいる理由は?」
 真っ当な指摘をしてくるコンスに否定はしない。確かに考えられる事柄であるが、自分には使命を果たす義務と矜持があるのだ。だからアズサは反応せずに、話を流す。言い出したコンスにもそれが判っているのだろう。それを深く追求してくるような事は無かった。
「さっき物騒な旅人がカザーブに入ったんで、親分さんに一応報告にきたんスよ」
「物騒?」
「何かさー、聞いた話の容姿だと、『アリアハンの勇者』っぽいんスよねぇ。だから……」
「そうか。ユリウスは無事に着いたのか……」
 一瞬ピクリと眉を動かしたアズサは、ホッと胸をなでおろす。纏っていた凛とした雰囲気が和らぎ、心配していたのが誰にでも判るあからさまな態度だった。それを珍しいと思いコンスは口元を歪ませる。
「……て事は、アズちゃんの目的は勇者クンねぇ〜。これで話は繋がったっス。確かに、国に『勇者』を招くんなら、“剣姫”か“魔姫”を使者に遣わせるのが礼儀っスからね」
 その正しさを認めるようにコクリと肯いたアズサ。
 が、突如不敵に笑みを浮かべたのを見て、コンスは反射的に数歩退いた。この剣士として相手の隙を見透かすような顔をした時は、必ず何か自分にとって痛い追求をしてくる顔だ。付き合いが長い為、それが良く判った。
「……私も理解したぞ。“魔剣士”に私の事を教えたのはお主じゃな?」
「い…いやぁ、ゼノスって結構戦闘バトル好きでさぁ……。イシスで強い剣士の事教えろ、ってしつこくて。つい……」
 さっきまでの態度が余程癪に障ったのか、射抜いてくるように剣呑とした緑灰の双眸。良く見れば腰に下げている剣の柄に手が添えられている。内心で冷や汗を掻きながら、ただコンスは曖昧な笑みを浮かべ肯くしかない。
「つい、のぅ……。つい、で他国の人間に情報漏らすのか? お主は……」
「と、とりあえず落ち着こう、アズちゃん……。話せばわかる。うん、そうっス!」
 糸の切れた操り人形のように、ただコクコクと機械的に首を動かすその仕草を見て、溜飲が下がったのかアズサはフッと踵を返した。
「……さっきやりあったわ」
「へ?」
「お互い本気ではなかったじゃろうが、中々に楽しめた」
 虚を突かれたように威圧から開放され、ただパチパチと眼を瞬かせるコンスに、微かに服が断たれた肩口を強調しながらアズサは大きく肩を竦めて見せた。
「……あー、何だそれならここに残って見物するべきだったスねぇ。盗賊団“流星”の“魔剣士”と、我等が聖王国イシスの“剣姫”の戦い振りをさ」
「それは、残念じゃっな」
 今度は素で間の抜けた顔をしている部下に、呆れたようにアズサは嗤った。






 それぞれの時を胸の内に、再び一同に介す。
 隣室の円卓の間では、暫くの時をおいて幾許か落ち着きを取り戻した部下達にカンダタとゼノスが何かを話している。恐らくは今後の生き方…これからどのようにこの世界で生きて行くのかについてだろう。
 壁と扉に隔てられている為、はっきりと伺う事はできないが、特に荒立った様子も無い事から、話は静穏に続いていると感じる。
(……あっちは一応、解決したかな)
 流石に今は彼らの組織の一員ではないから、その場に居合わす事も口を挟む事もできないだろうし、するつもりも無い。敵としてではあるが一応関わった事でもあるから、彼らのこれからの事を聞いておくのも良いのだが、それは今でなくとも良いだろう。後でゼノスかカンダタに訊けば済む事だ。
(問題はこっちか……)
 ヒイロは内心で呟きながら、集まった仲間達…未だに晴れない表情をしたままのミコトに声を掛ける。
「どうしたんだい、ミコト?」
「私にはもう、わからない……」
 視線を下げ、何時に無く消沈した様子のミコト。いつもの溌剌はつらつさなど微塵も見られないその様は、何処か痛々しくさえある。
「……ミコト」
 そんな彼女がいたたまれなくなって、ソニアはただ弱弱しくその名を呟くのみ。ここで何かを言って励ましてやるべきなのだと、頭の中では判っていたが、自分も未だ晴れない霧中を彷徨さまよっているような心境なのだ。中々にその言葉が見つけられないので、己の無力さに眸を伏せてしまった。
「あいつは……」
 重く思案に耽ったソニアを普段ならば真っ先に気遣うのであろうが、今はそれすら叶わず、ミコトは自分に声を掛けて来たヒイロにキッと強い眼差しを送った。
「あいつ…ユリウスは人間の命を奪うのに何の躊躇いも無いと言い切った奴なんだぞ!? そんな奴、信じられる訳が……、これ以上ついて行ける訳が無い」
 搾り出すように叫ぶ。その言葉の重さからかやけに大きく部屋の中に響いて、各々の耳に捉えられる。
 それを考えるように口元に手を当てて聞きながら、ヒイロは酷く淡々と返した。
「それがミコトの意志なら、そうすればいいんじゃないか」
「ヒイロ!?」
「何……」
 弾かれたように顔を上げるソニア。その表情は、信じられない、という意思を顕著に物語っていた。
 そんな冷たく突き放すような言い方が気に障ったのか、言い出したミコトも眉を顰める。少なくとも、今まで共に旅をした仲間で、常に温和な物腰だったヒイロの言葉とは思えなかったからだ。
 感情に揺れる真紅と緑灰。それぞれの視線を受けても尚、ヒイロは極めて冷静だった。まるで二人がそういう反応をとるという事を見抜いているようでもある。
 今は帽子で隠れていない銀髪が恐ろしく鋭利なものに見えてしまうのを、ソニアやミコトは感じざるを得なかった。
「俺が同行を許して貰った時、彼は言ったよ。「着いて行くのも抜けるも俺達の自由だ」ってね」
「それは……」
 ほんの二月ほど前の事、同じ四方塔の中での事を思い出し、ミコトは口をつぐむ。
「ユリウスは、俺達の意志に委ねると言ったんだ。俺達の考えを尊重してくれたんだと思うよ。だからミコトがそう思うなら、それは仕方がないと俺は思う。……寂しくはなるけどね」
「……ヒイロ、どうしてそんな事言うの?」
 哀しそうな声色と表情でソニアは何処か懇願するような呟きを零す。確かに一番ミコトと仲が良くなっているのは他ならぬソニアだ。離れる事に不安を隠し切れない様子が、ヒシヒシと伝わってくる。
 そんな自身を見上げてくるソニアの肩に、ヒイロはポンと手を置く。兄が妹を宥めるような仕草で、穏やかに。
「俺はミコトの意志を尊重しているだけだよ。ただね……」
 刹那、言葉を溜めてヒイロはミコトを見据える。
「…………」
「ユリウスが君の理想の『勇者』と違って、幻滅しているんなら、それはどうかと思うな。自分の理想を押し付けて、違うとなれば非難する……。そんな資格、誰にもないと思うけどね」
「!」
 淡々とした言葉にミコトは眼を見開いた。まるで金縛りにでもあったように、身体が動かす事ができない。
「そりゃあ、好き嫌いはあるかもしれない。それは人としての感情だから仕方がないと思う。ただね、相手の事を知っているのと知らないのとでは、やっぱり見方も変わってくると思うんだ」
「……っ!」
 いつも穏やかで物腰が柔らかいヒイロの言が、酷く厳しく聞こえてしまう。声色は決して自分を咎めるようでも、責め立てるようでも無いのに、強く自身の心を打ち据える。
 隣でソニアも、同じような顔をして絶句しているのをヒイロは視界の端に捉えていた。
「ミコトは……、これは俺もだけど…ユリウスの事を良く知らないだろう? だからこそ彼の本質をしっかりと見定めなければならないと思う」
 何か説教臭いな、と思いつつもヒイロは言葉を止めない。自分の考えを押し付けている訳ではないが、このままではあまりにもユリウスが悪者になってしまう。
 人を手に掛けた事の有無にミコトは強くこだわっている。が、旅をしている魔物が跳梁跋扈する世界。嘗て自分が所属していた盗賊団“流星”…それらの経験は確かな世界の姿を自分に見せてくれた。だからこそ、ユリウスの言葉に、共通する考えはあれど頭ごなしに否定する気など毛頭無かったのだ。

 別にユリウスの弁護をしているつもりはないが、言葉が多くなってしまうのをヒイロは自覚し、それを止める気など無い。そして今まで同行して感じた、義憤に身を焦がしていたミコトが胸に抱いているであろう確信を突いてみる。
「……ミコト。君は何かしらの狙いがあって、ユリウス…というより『勇者』に同行したんじゃないのか?」
「!?」
「君はユリウスに、いや『勇者』に一体何をさせようとするんだい? 君が望んでいる『勇者』に何を求めているんだい?」
「……それは」
 あからさまな答えを顔に出してミコトは眼を見開く。そんなミコトを見止めながらヒイロは、やはり真っ直ぐだな、と微かな羨望を覚えながら苦笑を零した。
「あ、別に言いたく無いならいいよ。ただ、その決断を下すのはまだ早いと思うな」
 何となくだが、ヒイロはミコトに考えさせようとしているのだ、と思ってソニアはヒイロを向いた。
「……ヒイロはどうなの?」
「俺? そうだね…極論を言ってしまえば、俺がユリウスについて知っているのは、世間で流れているような噂しか知らない。噂なんて、幾らでも変容をきたすものだから真実であるとは限らない。だから、まだ彼の事は良くわからないといった方が正しい」
 ヒイロは瞑目して、深く考え込むように両腕を組んだ。
「彼は何も言わないし、彼が抱えているであろう何かは、彼自身が解決するしかない。今まで見た限りでは、ユリウスも色々なものを背負っている気がするからね」
「それじゃあ……」
「そう。ユリウス自身が口を開き、その事を話そうとしない限り他人には知り得ない事さ。感情だけで動いたら、見えるものも見えなくなる。そこに何かを求めているのなら、尚更ね」
 ソニアの言わんとしている事を察し、肯きながらヒイロ。
「…………」
 旅立ちの前に言われた父の言葉が、脳裡に響き渡っていた。その言葉がやがて、実家にある大鐘楼の音のように高く澄んできたのを感じ、ソニアはぎゅっと拳を握って小さく胸の前で十字を切った。
 そんなソニアの小さな行動には気付かずに、ヒイロは続けている。
「俺には俺の求めるものがある。そしてそれは、彼と共に行く先にあると信じている。だから俺は着いて行く。それだけさ」
 ヒイロの告白に、その迷いの無さにソニアは何処か羨むように見つめた。
 視線を感じ、一つ頬を掻いてヒイロは再び、俯いていて立ち尽くしていたミコトに言葉を掛ける。
「俺の話は終わり。もう一度聞くね。……ミコト、君はどうするんだい?」
「……少し、考える時間をくれないか?」
 ヒイロの言葉が心に深く染み渡ったのか、消沈した顔でそれだけを言い残し、ミコトは部屋を後にする。
 その後姿をソニアは見つめたまま、去った扉の先を向いて立ち尽くしていた……。




 部屋の壁に背を預けたヒイロの横に立ち、今まで完全に傍観していたアズサはポツリと呟いた。
「……ミコトはどうするかのぅ」
「本当に求めるものがあるのなら、感情では揺らがない。……いや、揺らいでいる暇は無い筈さ。それを求めようとする意志の根底が、崩れない限り」
「それにしても、お主は淡白じゃのう……」
 何処かからかうように、アズサは組んでいた両腕を解いて腰に当て、溜息を吐く。その仕草に、同じ顔でも性格が随分違うな、と失礼ながらにそう思って、ヒイロはただ苦笑するしかなかった。
「まあ……結局、俺は自分の為だけに動いているから、人に偉そうな事は言える資格は無いんだけどね……」
「いや、私もお主に同意見じゃ。他人と解り合うにはそれなりの時間と、真正面から向き合おうとする意志が必要不可欠じゃと思うからな」
 頭の後ろで両手を組みながら、ヒイロの横に立つようにアズサは壁に背を預ける。
「じゃが、少しばかりきつく言い過ぎではないか? か弱い私なら泣いておるぞ」
「……後悔はさせたくないんだ。後悔は迷いを生む。迷いは隙を育む。隙は戦いにおいて命取りになり、文字通り命を落としてしまえば、元も子もないだろう?」
 サラリとアズサの言葉を流しつつ、ヒイロは遠い眼をして語る。それを見てアズサは唇を尖らせた。
「お主……、なかなかに厭な奴じゃのう」
「はは、誉め言葉と受け取っておくよ」
 半眼で見上げてくるアズサに、苦笑しながらヒイロは返す。
「……それに迷っているのに、その揺らいでいる方向すら覚束無いなら、敢えてそれを揺るがして変化を与えてやるのもまた、仲間の勤めだとは思わないかい?」
 達観した深い琥珀の眼差しを見て、アズサは肯定するように双眸を伏せ、口の端を上げた。





―――重々しい赤銅の扉を押し開け、塔の外に足を踏み出す。
 次の瞬間、吹き掛かって来た夜風が思いの他冷たく、ミコトは眼を細めた。耳の上の両側で結っている髪が大きく靡いて、その風の強さを物語っている。
 夜露を孕んだ風が舞う中、颯爽と大地を歩くと、そのしっかりと自分を支えてくれるような感触が懐かしいとさえ思えてくる。今の今まで高く地上から離れた人工のそれを踏み締めていた為、それは強く実感させられた。
「…………」
 無言で、一歩一歩しっとりと水気を含んだ土と草を踏み締めていると、不意に故郷の地を歩いているような錯覚に襲われてしまう。その懐郷の念に想いを馳せながら、ミコトは思案に耽るように眸を伏せた。

 ユリウスの言った事が総てが正しいとは思わない。確かに人にそのような側面がある事は私も知っている。だけど、だからといって総てを汚れたようなものと決め付けていい訳なんて無いと思う。
「人はそんなに、……腐ってはいない」
 私はそう信じている。信じ通してきた。今までも、きっとこれからもそれは変わらない。だからこそ、ユリウスの言う事を真に受け止める事は出来ないし、するつもりも無い。
「だったら、どうして……」
 自分の心は理解している。自分の意志も揺らいでいない。自分の在り方に何の疑問も不満も無い。それなのに、どうして――。
「……どうして、こんなに気持ちが晴れないんだ」



 所々に開かれた窓からは、今も内部に灯されている燭台が光を齎しているが、やはり地上の全てを覆う薄闇を打ち払う事は出来ない。その暗さが、繰り広げている思考にまで影響を及ぼしてきて、その行く先は自然と暗澹を向いてしまう。
 それを振り払うように顔を顰め、ミコトは大きく頭を振った。
 その際に躍る二つの髪の房が視界に入り、それをわずらわしいと感じて、両の髪紐を同時に一気に引き解く。戒めから放たれた漆黒の髪が、風に梳かれ柳のように優麗に靡いた。
 白い首筋を撫でる冷たい風の感触と、髪の毛が触れるくすぐったさに下唇を噛み締め、両手で自分の肩を抱く。爪が緑色の武闘着の下、肌に食い込む位に力を篭め、大きく息を吸った。



 確かに、私はあいつに何一つ自分の事を話していない。あいつもそれを追及してこなかったから、それに乗じていたのかもしれない。そんな私があいつを非難するなど虫の良い話だ。
「……私には、あいつを非難する資格なんて無いじゃないか」
 唇を強く噛み締めて、自分を戒める。

 先程諭してきたヒイロの言葉は、自分の心に深いわだかまりを残していた。
「……幻滅? 失望?」
 どうしても、自分の悲願を果たす為には『勇者』の力が必要だった。だからこそ求める『勇者』という存在に、その高潔な精神の有無に、頑なになっているのかもしれない。
 だけど……。幼い頃、御伽噺のように聞かされた勇者オルテガの話。故郷を救ってくれたという英雄の話。
 その血を引く人間があんな…人を斬るのさえも躊躇いの無い人物である事が、許されていいのだろうか? それを認める事が、自分にはできるのだろうか?
「私は……」



 自分の懐から、二本の小刀を取り出した。
 全長が自分の両の掌を並べれば覆い隠れてしまう程度の刀だ。雅さを醸す艶やかなうるし塗りの、朱と白の二つの鞘が月夜に美しく映えている。
 朱い鞘のそれは故郷を旅立つ際に、故郷にいる姉から賜った物だ。“天照アマテラス”という銘が故郷独特の文字で柄に施されている。
 もう一本の白のそれは、自分が幼い頃から持たされて来た守り刀だ。こちらは“月読ツクヨミ”とある。
 祖国を建国した三人の人物にあやかった銘だと、国の知人から聞いた事があった。残りの一本も、姉が所持していると言っているが、それを見せて貰った事は無い。ただその事に触れると、姉は酷く悲しそうな顔をするので聞けなかったし、自然と聞かなくなっていった。
 心が晴れなかったり挫けそうになったり、迷いが自分を見失わせそうになると、自分はこのスラリと真っ直ぐに伸びたけがれのない双刃を見る事にしている。嘗てこの刃のように真っ直ぐに自分に誓った事、それを思い出して初心に返る為に。
 そして同時に、その誓いは遠く離れた故郷の姉を感じさせてくれる気がするのだ。いつも自分のやる事を認め、後押ししてくれていた姉。今、どうしているのか知る術は無いが、何事も無い事を切に祈っている。
「姉者……。私はただ押し付けるだけの傲慢な人間なのでしょうか?」

 月が西の空の果て、無限に広がる水平線に沈み始めた。やがて背を向けている東の彼方…故郷の在る方角から太陽が昇ってくるのだろう。だけど、一向に、その暁を見る気にはなれなかった……。






 深い夜の跡が未だ色濃く残る森の中。
 鳥や虫、あらゆる生命すらも眠りに落ちたような静謐に満ちた木々を縫って、駆ける影が二つ。
 静かにだが、力強く大地を蹴って進むその様は風のようにはやく、蜻蛉のようにかすかだ。
 突如その影の一つが立ち止まり、もう一つの影へと振り向いた。
「大丈夫?」
「あ……、うん」
 濃厚な果実種ワインのように深い臙脂えんじ色のローブから零れ出る、海のような潤いを湛える深い藍色の髪。強い意志の篭められた同色の眸が、地に膝をついていた少年に手と共に向けられる。
 それを掴んで、朝露の滴る若草を彷彿させるよもぎ色の髪の少年が、膝についた埃を払いながらはにかんで笑顔を見せ、萌黄のローブの裾を翻して立ち上がる。その表情からは疲労を隠し切れていないが、心配をかけないように強がって明るい笑顔を見せているのが健気で、何処か痛ましい。
 それを見止め、藍色の髪の少女は溜息を吐いた。そして蓬の髪をくしゃりと掻き撫で、微笑みを湛える。
「無理はしないで、少し休みましょう。……足、挫いたんでしょ? 見せなさい」
「う、うん。…………ごめんなさい」
「気にしないで」
 素っ気無く言いながら足に手を翳して回復魔法を紡ぐ藍色の髪の少女に、ますます身を縮こませる蓬髪の少年。怒られていると感じたのではなく、足を引っ張っている自分が申し訳無く思っていたからだ。
 優しい回復魔法の白光を足に受けながら、言葉を必死で探していた少年はおもむろに口を開いた。
「あの――」
「しっ!」
 少年の言葉を、少女は強く制する。声色だけでなく、今の今まで優しさを湛えていた瞳も、今は警戒と敵意に満ちていて、周囲の木々に眼と耳を傾けている。
 静寂が支配する中、癒しの光は徐々に失せ、しっとりとした闇が辺りを再び覆っていく。
 遠くから風が吹き、木々が一斉にざわめきを起こした。

「う、うわぁぁ!!」
 少年は叫ぶ。
 思わず地面に尻餅を着いて、手にした杖をぎゅっと掴んだ。
 醜悪な瘴気を放つ魔物の影が木々の陰から飛び掛ってきたのだ。魔物は真っ直ぐに蓬の少年に向かっていき、その鋭い爪と牙を剥いて切り裂こうとする。
 それに割り入るように藍色の髪の少女が立ち塞がり、手にした杖を魔物に翳し、叫んだ。
「汚らわしい愚物め! 焼滅なさい! メラミ!」
 言葉と共に顕れ出た大火球は、襲い掛かってきた魔物を易々と丸呑みにして、灰燼すらをも残さずに焼き尽くす。が、反して回りの木々には焦げた跡が一つも見られない。これは並ならぬ魔力によって高度に制御された魔法である事を意味している。
 少女は警戒に周囲を一瞥しながら、杖の先端の水晶をそっと撫でた。その内で精巧な細工のように埋め込まれた花が、キラリと煌くと淡い桃色の霞が内の花から流れるように現れ出て、森の風に乗って周囲の木々の向こうに吸い込まれていった。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫―――? 怪我は無い?」
「うん、ありがとう―――。ただちょっと驚いただけだから……」
「そう……。もう休憩は終りにしましょう。今のでしばらくは時間が稼げるけど、急ぐわよ」
 今の、とは杖から出た桃色の霞の事だ。あの霞に呑まれた者は、否応無しに眠りの園に堕されるのだ。
「もうじき夜が明ける。今を切り抜ける事だけを考えて」
「うん!」
 自らを奮い立たせるように、少年は大きく頷いた。




 前方、微かに明るんでいる木々の先から、松明を燃やす火の音が聞こえてくる。
 こんな時間にそれを訝しみつつも、朗らかな光に何処か安堵するように藍色の少女はホッと溜息を吐く。
 が、より光に近づいていくと、そこには武装した村の人間が何人も門を護るように固めていた。
「! あなたたちは、人間……」
 こんな夜中に、人間が大勢いる事に不信を表し、それが言葉に顕れる。それは相手にとっても同じだった。
「何だお前達は! これより先はカザーブ村の敷地。不信な輩を通す訳にはいかない!」
 掲げた掛かり火が、森から現れた二人を照らし出す。そこに現れた、それぞれ全身を覆うようにローブを纏った二人の容姿を見て、見張りの男達は見る間に顔色を青くしながら後ずさった。
「……お、お前達は!?」
 少女からすれば、このような反応など予見していた内の一つに過ぎなかった。だからこそ、いちいちそんなものに付き合っている暇も気も無かったので、苛立たしげに叫ぶ。
「通しなさい! あなた達人間なんかに構っている暇は無いの!」
「と、取り押さえろ! 魔封じの術を使える者をここに! 急げ!」
 村人の一人が、その屈強な身体に見合った声で叫ぶ。危険を感じている事が空気を伝って周囲に緊迫感を与えていく。
――その時。
「皆さん、下がってください」
「クリューヌ様!」
 見張りの村人達の一人…屈強そうな男達の中で一際目立つ、場と職務にそぐわない様相の麗らかな女性がゆっくりと現れた。その落ち着いた声色は、現在の場所と時間、そして状況には明らかに不似合いなものだった。
「あなたは…、あなた達は……」
「!」
 クリューヌと呼ばれた女性は、突然の来訪者に視線を向けて眼を細め、考え込むように口元を覆う。
 その仕草が気に入らなかったのか、藍色の少女は不快に眉を寄せ、杖を持つ手に力を篭める。
 一触即発の空気が二人の間で流れるが、第三の声がそれを打ち破った。
「ミ、ミリアーー!」
「! ノエル!!」
 死角から村の警備の村人が少年を掴み上げたのだ。
 両腕を掴まれて宙吊りにされ、足がバタバタと虚しく空を蹴っている。それを見て聞いて、一瞬ミリアと呼ばれた藍色の少女の注意が逸れた。その機を逃さずにクリューヌは、掌の下の口元で行っていた魔法構築を完成させる。
「放しなさい人間! メラ――」
 視線がノエルと呼ばれた少年に向き、彼を押さえつけている村の人間に向けて、手にした杖の先端を翳し、魔法を紡ごうとした瞬間を狙って、クリューヌは叫んだ。
「マホトーン!」
「!」
 その意味を耳と頭で理解して、ミリアは目を見開く。
 愕然としている中、自分の周囲を村人達が取り囲み、その間を詰めようと伺っていた。
「今だぁ!!」
「ノエ――!」

 伸ばした手と叫び声は、瞬間に吹いた強い夜風に掻き消える。
 明けはじめている筈の空も、枝葉の陰に隠れて一向に地に伏す者に光を齎さなかった……。




back  top  next