――――第三章
      第一話 傷みのあと







 深淵と呼ぶに相応しい、昏い闇の中に佇んでいた。
 前に進んでいるのか、後ろに返っているのか。天に昇っているのか、地に還っていくのか……。
 ……果たして自分は生きているのか、死んでいないだけなのか。それすらも覚束無い。
 視識が捕える光も、耳識が捉える音も。鼻識も、舌識も、身識も外界の事象の移り変わりを知覚する事は無い。何も無いただ黒一色の世界。意識だけが鋭敏に、この闇の中に溶け交わろうとその翼を広げている。
 肉体と精神が完全に解離する事。死を迎え、意識が肉体の檻から解放されるというのは、このようなものなのかもしれない。これが、ありとあらゆる生のしがらみから解き放たれた結果、辿り着く境地だとすると、この闇はとても心地が良い。
 人間としての総てを形造る何もかもを破棄した者…人の形をした剱にとってこの場所はとても安らげる……。

 ふと、おぼろげな意識が“何か”を知覚する。
 肉体…五感を介していない分、その“何か”は思考意識、脳裡に直接叩き込まれてくる。
 光と音の無い、このまどろみのように穏やかな場所を壊すように、意識がその“何か”に揺り動かされて、脳裡に像を結び、旋律を奏で始めた……。




 生温かい風の声が頬と耳朶を撫でて行ったと、意識が捉える。
 それは大樹を取り巻く蔦のように、絡みついて離さない悲鳴にも似たざわめき。生者の断末魔の如きそれは、いつもどんな時も、自分の中で絶える事無く感じているものだ。
 一歩踏み出せば静謐に満ちた場所を粉砕するように波紋が広がり、高く響いてくる水音。小川の浅瀬程度の深さだと、皮の靴越しに感じていた。
 だが、そこに一つだけ決定的な違和感がある。
 滔々とうとうと水が往く川ならば、止まる事の無い流れは熱を留める事は無く奪いさらっていく。しかし今、分厚い丈夫な皮越しに感じるそれは、やけに生々しい温かさを自分に伝えてくる。意識を凝らしてしまえば、更にそれを求めようと自然に、鋭利に感覚が働いてしまうのが鬱陶しい。
 清流のそれではない水とは違う粘っこさ、重みを一歩踏み出す度に感じるようになってきた。暗闇で何も見えないが、急に鼻を突く蒸せ返るような臭いと、温かさが混じった靄が足元から立ち昇ってくる。業火に焼かれているような熱さと痛みが足元から這い上がってくる。

 それを感じてユリウスは唐突に、そして明瞭に理解した。



(ああ……、俺は今、血の海にいるのか)
 無機的に無感動にそう思う。
 闇色に満ちている為にその本来の色彩こそ解らないが、魔物特有の青で有れ、それ以外の生命の赤で有れ、自分にとってそれはどうでも良い事だ。闇の中を歩いている自分に取って、それが誰の物でもさして気にする事でも無い。
 ただ自分の総ては血に塗れている。その事実だけが判ればいい。それは自分の進むべき路をハッキリと認識させる。迷い無い方向へ誘ってくれる。

 それでいい。それが冷たい世界の中で、自分に唯一つ用意された道だ。
 これでいい。これが唯一つ、黒き光に照らされて選ぶ事が出来た路だ。







 いつもの単独行動。瞬間移動魔法ルーラでシャンパーニの塔からカザーブ村に帰還したユリウスは、頑健な丸太で幾重にも組まれた柵と門の前で立ち往生していた。夜の遅い時分に現れたとあって、門を守護する自警団員達の警戒心を煽る事になってしまったのだ。
 彼らの危惧に拍車を掛けるように、自分の外套のあちこちに滲んだ魔物のものではない紅い血痕。細かな傷により裂けたままの衣服。そして血を垂れ流したままの憔悴した顔……こんな夜中に、いかにも物騒かつ不穏な様相で現れたとあっては警戒されない方が可笑しい。
 この村は昔から、東カザーブ山地に根城を構えている山賊達の被害が相次いでいた為、夜分は一際警戒心が強まっているのであった。またユリウスが知る由もない事であるが、村の自警団には、つい先刻いさかいを起こしてきた盗賊団“飛影”の面々も参加しており、それが村人達に安心と勇気を与えている。その為、頼もしい彼らが後ろについている事の信頼が、村人達の一層の敵愾心てきがいしんに拍車を掛けていたのである。

 そんな背景もあってか、ユリウスは暫し門の前で待たされる事になってしまった。
 高くそびえる木の門の横に在る小屋…恐らくは検問所の周囲に、武器を手にした何人もの隆々した体躯の村人達が集まり、話し込んでいる。その他の村落の人間とは異なった物々しい雰囲気に、ここが“武闘家の里”である、という事をユリウスは思い出していた。村人の四人に一人は何らかの形で武闘に関わっているのだが、そんな彼らが武器を手にしている事から、それほどまでに狂気に満ちた賊徒や魔物というのは脅威なのか、と思う。
(……魔物など、恐れる程のものではない)
 野に在る魔物など、本能剥き出しで襲ってくるだけで、その戦いは至極単純な力と力のぶつかり合いだ。簡単な構図であるが故に、それへの対応もまた易い。極端な思考に走った人間が相手とてそれは同じ。本当に面倒で厄介なのは、影に隠れて策を弄する人間。そして……。
(旅の障害になりそうなのは、そんな処。だからこそ、敵は……殺さなければならない)
 自分の帰結はいつもそうである。そう考えながら、ユリウスは開いた門から見眺める事できる範囲で村の中を一瞥した。

 村のあちこちに設けられた松明の灯りは、月が沈み始めた空の下では目が眩みそうな程に酷く明るい。その鮮烈な灯りによってもたらされる村人達の表情の明暗からは、明らかな疑心が見て取れる。チラチラとこちらを盗み見るようにしている事からも、まず間違い無く自分の事なのだろうと、何処か他人事の様にそう思った。



(これもまた、無理からぬ事かもしれないな)
 昨今、このような状況は珍しい事では無い。
 他の地域がどうなのかは知らないが、今までの道程で訪れた都市村落では、魔物に対しての警戒から旅人にもその敷居への侵入に慎重を期していた。それは自分達の領域を護る為には必要性の或る事だと思う。その点を考えると、この村も例に漏れないようだ。
 そして太陽の昇っている間と違い、闇がひしめく夜は人間の陰と負の感情を昂ぶらせる。闇は際限の無い恐怖と疑念を呼び起こし、その結果として疑心暗鬼に囚われれた人は恐れ、惑い、牙を剥けて傷付け合う。この村の、世に絶望した人間…山賊という無法の賊徒に身を堕した者達に襲われている、という現実がそれを証明している。
 故に、この対応はさして気にする事でも無い。気にした処で何の意味も価値も無い。
(成り行きに任せるのが最善か。……或いは最良か)



 見張の村人達からは警戒心を露にした、敵意にも似た視線を受けたままユリウスは嘆息する。その思考行動の終了に合わせる様に、門番から村への侵入許可が下ろされた。





「清廉なる生命の光よ。傷つき伏せし者を癒せ。……ホイミ」
 言葉と共に掌から淡い白光の帯が生まれるが、間を置かずにそれは蝋燭の火のようにあえなく潰える。
 先程からホイミを施していたおかげで血止め程度は何とかなっていたが、所々の骨折はそれ程度ではどうしようもない。特に大きな怪我はシャンパーニの塔にいた折、僧侶ソニアに中級回復魔法べホイミを掛けてもらった事で、例え未だに腕が折れたままであろうとも、微かな疼くような痛みしか感じなくなってはいたが……。
 ユリウス自身回復魔法は得意では無く、自分の扱える魔力エーテルの性質上苦手な分類に入る。ベホイミを使えばまだ良い方なのだが、今自分にはエーテルは殆ど残っていない。故にそれよりも下級のホイミですら満足に発動させる事ができないのが現状だった。
「魔法は、……もう無理か」
 動きの鈍い掌を眺め、酷く落ち着いた他人事のような口調で呟く。

 これ以上、自分の中のエーテルを収束する事はできない。それはつまり、これ以上魔法は使えない事を意味する。
 人間の脳が、肉体が損壊しないように常に身体能力を抑えている事と同様、生命活動、精神活動に最低限必要なフォース、エーテルを消耗しないように、本能的に止められるのだ。
 エーテルのみの攻撃魔法、回復魔法だけでは無く、カンダタと戦った時に全身の痛覚を抑える為に高め続けていたフォース。そして何よりも、カンダタのウォーハンマーを斬った・・・際の反動で著しく自分の中のエーテルとフォースを消費してしまった。それが肉体と精神の疲労を色濃く残し、酷く消耗していると言う事を強く自覚させられる。

 そんなユリウスにとって、長時間待たされる事は億劫であった。が、無事に検問を突破して村の領域に足を踏み入れると、足早に宿を目指していた。
 既に夜も深まってきた時刻ではあったが、くだんの山賊や野に蔓延る魔物の恐怖からか、村の中では深夜でも明りが完全に落ちると言う事は無い。その為、自警団の村人達の休息所としても機能している村一軒の宿は常に戸を開いており、簡単に部屋を確保する事が出来たのであった。

 銀貨を数枚、フロントに無造作に置いてユリウスは鍵を受け取る。
 その鍵の札に記された番号の個室にさっさと入り、金の冠が入った荷物袋を気だるそうに、忌々しげにベッドに放り投げた。
 整えられた寝台の上を袋は所在無く弾み、やがて勢いが失せ沈む。袋の中の金の冠が、道具類と掻き回されて悲鳴の如く甲高い音を発てていた。それを鬱陶しそうに半眼で眺めた後、ユリウスは瞑目する。



 怪我による体力の消耗で、純金製のそれは酷く重く感じられていた。
 こんな扱いをしているが、丁重に扱えなどと言われていないので、気にしても仕方が無い。傷が出来ようが、形が変わろうが自分の知った事では無い。
 カンダタ達の話を真に受けるならば、国宝が簡単に民間人に盗まれるような愚鈍な管理体勢を執っている王家が愚かなのだ。その為に面倒事を押し付けられ、多大な労力と痛手を被った身としては、逆にこちらが不満を零してやりたい位だ。取り扱い云々について文句を言われる筋合いも無いだろう。
(結局、利用される形になってしまったか……)
 横柄に掌を反してきたロアリア王に対して、勅命以上の事を気にかける義理も意味も無いのだ。
 後はこれさえ届ければ、もうあんな国家に関る必要性は無い。援助といっても資金、物資援助。そして近隣諸国への通行証が主だろう。それ以上の事を望んでいる訳でもないし、逆に供なんてつけられたら迷惑な事この上無い。
(やはり、人間と言うのは面倒だな……)

 周りが自分…というよりも『勇者』という偶像に対してどのような思惑を抱いていようが、そんなものは自分には何の関係も無い。
 往々の思惑や価値観から勝手に『勇者』像を創り上げ、その抱いた理想と現実が異なった挙句、不服を申立てられる側としては、迷惑で身勝手はなはだしい事だ。今までも、そして恐らくこれからも。自分が存在する以上それは付いて回ることなのかもしれないが……。
「……下らない」
 吐き捨てるように呟く。
 ここでふと、塔に残したままの同行者達の顔が浮かんだ。どうして浮かんだのか自分でも解せないが、即座に頭を振ってその像を脳裡から掻き消す。
(あいつらのそれぞれが何を目的として着いて来ようが、俺には関係無い。気にする価値も意味も、必要も無い)



 そこでユリウスは、髪を乱暴に掻き回して思考を止める。面倒事へのそれそのものが無価値なものだと思い至ったからだ。

 文字通り肩の荷を下ろしたユリウスは、全身で大きく深く溜息を吐いて、ベッドに力無く腰を下ろす。どっと疲れが押し寄せてきて、足が棒の様に固くなり、鉛の塊が全身に圧し掛かっている様であった。
 何とか身体を動かして気だるそうに武装を外す。剣の収まった鞘を寝台の脇に立て掛け、外套を脱ぐ。所々破れ血に染まった濃紺と裏地が翡翠のそれを丁寧に折り畳んで、眺めながら思案に耽るように眉尻を下げた。
 未だ被ったままのサークレットの紅珠が、燭台に明りが灯されていない薄暗い部屋を照らす月明かりに反射して朗らかな暖色を部屋中に巡らすが、ユリウスの表情は変わらない。寧ろ生彩すらも消え失せている様であった。

 一つ溜息を吐いて気を取り直し、宿の主人から予め受け取っておいた水の張られた桶を床に置く。そして、億劫そうにユリウスは手袋を脱ぎ取り、ベッドに放った。
 露わになった細長い己の指を見つめ、握っては開く。腕そのものは骨折したままだが、掌は動く。例えその際に痺れるような疼痛が走ろうとも、それは自分の肉体の異常を認識する為の生体の機能に過ぎない。だからその痛みの事を気にする必要など無い。
 板床に膝を着いて、桶の真上からまるで水鏡を覗き込む様に視線を下ろした。水面に映る自分の顔には表情が無く、ただ疲労しているという事が傍目にもわかるだろう。そんな事を考えて、忌々しそうに唇を噛む。
「鬱陶しい、鬱陶しい……」
 ベッドの脇に立て掛けていた剣、その鞘を両手で掴み、一気に抜き去る。鋭く、澄んだ金属音が静穏に満たされていた部屋に鋭く響き、ユリウスはその抜き身の刃身を一旦桶に被せ置いた。
 光を灯さぬ漆黒の、虚ろな眸のままユリウスは、徐に二つの白い掌を水面の上で橋の様に掛っている刀身に近づける。やがてその冷え切ったそれを撫でるように指を這わせ、強く握りしめた。

 掌の中でプチプチと細胞が引き裂かれていくのを実感する。それに伴い火中に手を投じた時のような熱さを覚える。それらの感覚が鋭い痛みとなって、皮膚の下の神経を通して脳髄に響き渡ってくる。
 自分の中で生じているものを感じながら、ユリウスは微かに眉を動かし、だが表情を載せぬ面のままその掌を一気に刀身に沿って動かした。
 決壊した紅い流れは濁流となって、勢い良く外へ流れ出す。心臓の鼓動が高くなる度に、血潮が管を強かに打ち据える。
 透明な水牢には一匹の長い紅い龍がうねり上げながら生れていた。そこに更に勢い良く降り注ぐ紅い命の雨。それを浴びて龍は勢いと活潤を増して、大きく肥大し身動いでは桶の中を紅く朱色に染め替えていく。
「消えろ。消えろ。消えろ。消えろ……」
 呪怨のように延々とそれを呟きながら、ユリウスは尚も手に力を篭め続けた……。




 月が動いた為か、夜空を往く雲に隠れた為か、部屋を優しく照らしていた外からの朗らかな明かりが潰える。
 部屋に備えられてある燭台に火を灯していない以上、闇がそこに在る全てを包んでいく。
 掌から溢れ、刀身を伝わり、一定の間隔で滴る血雫の音が、闇色に染まっていくユリウスには酷く懐かしく、波立っていた自分の何かが静まっていくのを感じた。意識で捉えていたそれは、やがて肉体的な、今も掌から生じていた鋭い痛みの波を、どこか遠くからのさざなみに変えてゆく。
 掌から尚も溢れる血潮に反して、泡沫のように消えていった痛覚に、ユリウスは満足気に口元を持ち上げた。先程まで重苦しく身体を取り巻いていた何かが、スッと削ぎ落ちた気がしていた。



(これで、いい……)
 これは自分に対しての戒め。棄てた心が二度と戻らないように、心の還るべき場所を壊し続ける為の儀式。
 肉体の痛みが精神の傷みを思い起こさせる。精神の痛みが肉体の傷みを更に深く刻み込んでいく。
 ならばこの不毛な悪循環を断ち切る為には、肉体と精神をバラバラに切り離してしまえば良い。棄ててしまえば良い。殺してしまえば良い。
 そうすれば、もう何も感じない。
 そうすれば、もう何も迷わない。
 そうすれば、もう何も変らない。
(役に立たない心など、俺には必要無い)



 黒い双眸が更に昏くなり始めていた。
 吸い込まれそうな程に深い夜の空を彷彿させるユリウスの眼。だがそこには星々の瞬きも、月の煌きも存在していない。ただ静かな闇が在るだけ。
 儀式の仕上げに、ユリウスはザックリと斬られた両の掌をその桶の中の冷水に一気に落とす。
 赤い桶の水が、更なる深い紅に染まってゆく。浸した掌から手首、そして腕…。ジワジワと自分の総てが紅に飲み込まれて往くように感じていた。
「俺は、……ただ殺す為の剱」
 生まれている筈の肉体的な痛み、痺れるような水の冷たさ。
 それらをユリウスはもう感じる事はなかった……。





 儀式を完遂したユリウスは、ベッドに身を投げ出した。
 自分を深く堕していくような冷たいシーツの感触が酷く心地良く、そして、この上なく落ち着かない。
 醒めたままの意識とは裏腹に、自然と瞼が下がってくる。本能が酷使した肉体の療養の為、休息を求めているのだろう。その結果込み上げて来る猛烈な睡魔に襲われながら、ユリウスは顔を顰めそれに耐えていた。
 手入れの行き届いた清潔なシーツにその身を埋めたまま微かに身動ぎして、探るように腕を寝台に這わせる。すると指先がそれを捉え、一気に腕で捕らえ引き寄せた。
 疲弊しきった身体にはズッシリと重い、鞘に収められたままの剣に縋りつくように腕に、胸に抱いて身を縮める。
 頬に当たる柄の硬さ。腕に在る剣の重さ。それらの安堵からか、睡魔に抵抗していた意識が一気に揺らぐ。開いた視界が霞んで虚ろになっていく。
 このまま抵抗する事を止め、意識を手放して二度と眼を覚ます事が無ければどれだけ幸せだろうか……。
 そんな事を薄れ往く意識の中で思い描き、微かに口元を上げる。

 やがてその意思に倣うかのように、ユリウスは己の意識をその崖縁から手放した。
 足先に広がる一点の光も存在しない無意識の海。暗い昏い闇色の中へゆっくりと落ちていき、その壊れていくような落下感に安息を感じながら、周囲の闇に溶けて、跡形も無く消え去っていった……。




 数刻もしない内に、ユリウスの他に誰もいない部屋の中にはただ規則正しいリズムの寝息が微かに響いていた。 ほんの少し前に死闘を繰り広げた者とは思えないほど、安らかな寝顔。
 両腕に抱いた剣と被ったままのサークレット。それらがユリウスを守るように、また守られるように寄り添っている。

 僅かに開かれたままの窓。そこから射し入る三日月の冷光に塗れて、ユリウスは歳相応の幼さが翳る無防備なそれを、無人の部屋の中で晒し続けていた。






―――足元が浮いたような感じがする。……これが夢だと理解するのに、そう時間はかからなかった。
 四肢に纏わりつく、白虹色の靄のようなもの。それが視界を遮り、自らの情態を知る事を妨害する。ただ一方的にいつかの情景が意識に叩きつけられる。
 微かに視界が揺らぎ、光が射した。その光を受けて何かが自分の意識に流れ込んでくるのを感じる。
 徐々に形作られるこれは戻らない過去の事象なのか、それとも自分の中に在ったであろう願望なのか。自分では判断が出来ない。流れ込んできたものを認識して、それに意識を向けない限り、その全容を把握する事はできないのだから。
 光が強くなってくる。……靄が晴れて、その先がハッキリと見えはじめてきた―――。





――広大な敷地を有するアリアハン王宮の一角。領内の端に在る為、人の往来が極めて少ない広場にて、外から捕獲してきた野生の魔物を何度も何度も殺していた時の景色だ。
 本当に幼い頃…五歳位だろう。この場所で実戦戦闘訓練の為に自分は城仕えの兵士達に囲まれ、幼い身体には不似合いな重い銅の剣を両手で構えて、魔物と対峙していた。

 幼さゆえの未熟から、その訓練…魔物との戦いの末に自分は全身が血塗れになる程の痛手を蒙ってしまう。外から被った魔物の青き血と、内から吹き上げる自らの赤き血に塗れた鎖帷子はその対比を鮮やかに載せている。そのあちこちは魔物の爪牙による裂傷、刺傷の跡が生々しく残っていた。
 だが、その場にいる誰もがその事に目を向けない。ただ無残な物言わぬ魔物の骸を検分し、険しい表情でこちらを見下ろしてきた。
「技が荒いですよ。あの『オルテガの息子』ならもっと鮮やかに殺して下さい」
「『勇者』ならば、誰の手を借りてもいけません。だからこそ、手早く魔物に止めを刺すのです」
「殺し方は教えたんですよ。『オルテガの息子』ならばそれを正確に、的確に実行して下さい」
躊躇ためらってはいけません。魔物を殺すのが『勇者』であるあなたの使命なのですから」
 吐かれる言葉はいつも魔物の殺し方について。誰も自分を案じるような言葉は発してはいない。
 他の生命を殺す事。
 傷つけるのを躊躇わない事。
 真っ先に人の道徳と良識が翳す事とは真逆の事を、周囲の人間は強要してくる。
 それらの拒絶意志と温かみの無い言葉は、自己すら確立されていない幼心を貫いては切り刻む。やがてその傷口は腐り落ちて、残滓だけが塵のように積み重なっていく……――。





―――突然目の前の景色がぼやけ、遠近感も無くなり、目に映る景色に亀裂が入った。
(……!?)
 夢を見ている自意識がそこから急速に引き離されていくのを感じ、理解した。特にその夢に執着するつもりも無いから、ユリウスはその流れに抗う事無く身を任せる。
 再び、鬱蒼と靄が纏わり着くように自身を覆い、視界は遮られていく。
 自分に纏わり着く燐光を放つ白虹色の靄の中、ユリウスは微動だにせず変化が訪れるのを無表情に待つ事にした。






 部屋に備えられたカーテンを引かぬ窓からは、三日月の淡い灯りが部屋に射し込んでいる。その厳かですらある光の幕を全身に受けたまま、微動だにせずにユリウスは規則正しい寝息を寝台の上で刻んでいた。
 眠りの深海に沈む前と変わらぬ部屋の中でただ一つの変化。鮮烈さを醸しながらも、どこか安らげる白光を身に纏った女性が、暗い部屋にぼんやりとその光をひしめかせながら、剣を抱いたまま眠るユリウスを覗き込んでいた。
「……ユリウス」
 呟かれた声は水の無い湖のように静謐に満ち、その空虚さ故の寂寥せきりょうさを感じさせる。
 纏う白の燐光を差し引いても、その深雪で染め上げられたような純白の髪を指先で梳いて、僅かに伏せた暁を想起させる瞳からは、悲哀にも似た感情がユリウスに零れ落ちていた。
 白妙の外套に身を包んだ女性…ルティアはポツリと呟く。
「エーテルもフォースも……いいえ、マナそのものをかなり消耗してしまったのね……」
 青白い三日月の光の所為でもあるが、穏やかな寝顔の中でも、その消耗の激しさからか生彩が無くなっている。
 そんな憔悴しきったユリウスの頬をルティアは一撫でしようとするが、眠っている筈のユリウスが何かを呟いたような気がして、伸ばした腕は触れるや否やの位置で止められはばかれる。行き場の無い己の掌を握りしめては、それを哀しそうに一瞥して頭を振った。

「……この世界はあなたにとって、とても辛いものなのかもしれない。それでもあなたは“路”を、……進まなければならない」
 静かに、だがはっきりと抑揚のある呟き。それに伴って、纏う白光は彼女の感情に倣うようにその輝きを鎮める。
 それに眼を細めながら一つ深く息を吐いて、ルティアは光を添わせた細い指先でそっとユリウスのサークレット、その紅の宝珠に触れる。すると淡い白光が宝珠に移り、その裡で猛る炎のように力強く光を灯した。
「生命を司りし曙の女神よ。その恩寵たる慈悲の愛撫で、朽ち往くものを在るべき姿に還せ。…………べホマ」
 深深とした静寂の中、それは玲瓏のように高く澄んで響く。
 その紡がれた言葉に、サークレットの紅珠に宿る光は次第に強く眩く鼓動を始め、やがては太陽を想起させる光輝へと変わっていく。その光が一つ脈打つと、そこから零れた光がユリウスの頬に這っていき、残っていた傷痕を綺麗に跡形も無く消し去っていた。
 光はやがて四肢を、全身を覆っていき、淡く白い羽毛の中に擁くようにユリウスを包み込んで往く……。その光が広がる程に、先刻まで生彩が無かった面に、人らしい赤みが戻りはじめていた。
 その様子を哀しそうに、そして優しく微笑みながらルティアは見つめ、瞼を伏せる。細められた視界、帳のように降りてきた長い睫毛まつげが、瞳の奥から止め処なく溢れてきそうな感情を遮ってくれたのが、心底ありがたかった。
「今、私がしてあげられるのはこれだけ……」
 これ以上、此処には止まれない。そんな想いを顕すように、纏う白光が微かに揺らぎはじめていた。
 静かに両手を組み合わせ、膝を折って床に着く。そして、寝台に横たわるユリウスに子守唄を捧げるように、呟いた。
「……夢よりも深い無意識の大海で。あなたの魂に…束の間の安息が訪れますように」



 言葉の余韻が、僅かに開かれた窓から入る夜の冷気に乗って部屋中を掛け巡る中、淡い白光は泡沫の様に宙に溶けて去っていった。
 そこにはもう誰の姿も無く、ただユリウスの規則正しい寝息だけが、刻々と時と生を刻んでいる。
 被ったままのサークレット。その紅蓮の宝珠の中にだけは、鼓動を打つ光と共にそれが現実であった跡を残していた。






 再び靄が晴れ、先程とは別の何かが自分の中に流れ込んでくるのを感じ、目を細める。
 再び何かが始まるのだろうか。鬱陶しいと思うが、それに抗う術は無い。拒もうとするユリウスの意識とは裏腹に視界が明瞭になってきた―――。





――ここはアリアハン王宮にある、魔術師達が魔法研究を行う為に設けられた棟。その中でも、別格な地位である宮廷賢者の任に就いていた『彼女』の部屋だ。
 高く壁を覆うように敷き詰められた本棚。それを隙間無く占める古ぼけた魔道書。棚に収まり切らなかった本が山積みにされている机。潤沢さは無いが座り心地の良さそうなソファ……。書庫とでも言う程、本に溢れ返ったこの部屋は、今では決して見る事ができない、現実には無くなった光景だ。

 剣の修練を終えた後、魔法訓練の為にその扉を叩く。どんなに剣の修練で疲弊していたとしても、それは変わらなかった。
 ……あの時の自分にとって日々のサイクルであり、変わらない日常であり、それが全てだった。
 彼女に師事して以来、ここで魔法の事、世界の事、人としての事…本当に色々な事を学んでいた。

「いらっしゃい、ユーリ」
「! 怪我しているじゃないか! ……傷、見せてみろ」
「掠り傷でも、黴菌ばいきんが入ったら大変だ。処置は早い事に越した事は無いからな。何かあったら直に私に言うんだぞ。……死んで無い限り、治してやるから」
 彼女は、部屋の敷居を跨ぐ度、彼女は自分だけを指し示す言葉を言ってくれた。自分が頬にほんの掠り傷を負ったくらいで大袈裟に慌て、回復魔法まで掛けてくれた。心の底から自分の身を案じてくれていた。
 部屋に入った時、はにかむような自分に向けられる笑顔。治療の時、言葉と共に紡がれ生ず幾重もの光の帯。心配してくれた時、頬に触れた掌から伝わる体温。……それら全てが温かかった。
 壊した筈の心の残骸を癒して…否、その残滓の址から新たに産み出しているようであった――。





―――その温かな夢を観続ける事に耐え切れなくなり、今度は逃げるように自分から顔を背ける。
(一度目は壊した。二度目は棄てた……)
 すると突如、音も無くその世界は暗転する。
 温かい光に満ちていた世界から一転して、何も感じる事の無い無音の闇へ。その変化に少しも戸惑う事、抗う事無くユリウスはただ呆然と、双眸を伏せたまま立ち尽くしていた。
(三度目は無い。……光など、俺にはもう必要無い)
 広がるしじまを壊さぬように、静かに瞼を持ち上げる。
 深い闇色の双眸に映るのは伏せていた時と変わらない、黒一色の世界。何処までも深く虚ろで、何処までも続く果ての無い永遠の闇。
 つい先程まで感じていた、夢の傷み。
 その疼きだけが、何者をも知覚する事の無いこの世界で、自身の脳裡に警醒けいせいを与えていた……。




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