――――第三章
      第十話 陰りの霊廟







 幾星霜もの隔たり、異なる器と魂の在り方。
 その垣根を越えて、それら両者にもなり得ない者達は生まれた。
 歪な穢らわしき者。理の背徳者。まがつ異端者……。
 彼等はハーフエルフと侮蔑され、人間とエルフから忌諱の目で見られ、両方の種にも招かれる事の無い不浄な存在として忌み嫌われ、理不尽にはらわれ続けて来た。

 彼等は惨憺たる嘆きに涙する。その涙はマナの流れを留め、悲しみと慟哭はよどみを生む。
『望まれて生まれた筈だった』
 彼等の嘆きの根幹は、己が存在を否定された事にある。
 だからこそ、己が生の意味を掴む為に、彼等は望む事をやめない。
 だからこそ、自分達の存在を護る為に、彼等は挑む事をやめない。
 ただ一つの正義。自らの存在定義を欲するが故に、彼等ハーフエルフはエルフと人間…両者に牙を剥いた。

 だが現実は余りにも無情に、彼等を打ちひしいでいく。
 生まれた事の意味も理由も与えられずに、彼等の夢は深い森の中の残照よりも儚く闇に消えていった。




 人の歴史に記されていない過去にこの地で起きた、ハーフエルフの大粛清である。






 清潔感のある白妙の外套を靡かせて、『彼女』はそこを歩んでいた。
 この洞窟の中の空気は、外を覆う清涼なものとはまるで違う。風の流れる音に混ざって醜悪な魔物の気配と咆哮が響き渡っている。ごつごつした岩肌に反響しながら広がる不協和音と、その冷たく背筋を撫でつけるおぞましさは外で遭遇する時の比ではない。この陰の気に満ちた空間が、魔物の凶暴さと邪悪さを増しているようだった。
 周囲に見渡す、深く被った真白のフードから零れる暁色の双眸は、薄闇が掛かった洞窟の岩肌に人為的に備えられた何かを見止める。眼を細め凝らしてみると、確かに燭台のような物が、岩壁に括りつけられていた。それも一つや二つどころの話ではない。洞窟の壁のいたる所には、明らかな意図をもって一定の間隔で備えられていた。それらは微かな魔力の残滓を、この深い闇に溶け込ませながらのっそりと広がっていた。
 大昔にあつらわれた、魔法儀式の名残のようなものだろうか。『彼女』はそれらを眺めながら思う。整然と並べられたそれには、明らかに自然の理から外れたような、青白い炎が幽々と揺らめいていた。
「陰りの霊廟……ね」
 ポツリと発せられた呟きは、何度も硬い岩肌に弾かれて闇の先へと運ばれていった。

 この深く昏い洞窟の中、他の通路よりも幾分か広い空洞。
 そこには小さな、この場所に似つかわしく無い程に清涼な水を湧き出している泉があった。その泉の周囲には、独特の魔法的幾何学紋様の意匠が施された敷石が、泉をけがれから護るように敷き詰められており、またその清潔な流れが辺りに等しく広がるように、簡易な水路を形成している。それがこのおどろおどろしい魔窟の中で、異世界のように切り離された聖域を形作っていた。
 この地に住まうエルフ達がかつて整えたのだろうか。
 そんな事を思いながらその中心の泉に足を運び、『彼女』は膝を折る。そしてその泉水の水面をそっと指先でなぞった。ひんやりとした冷たい水の感触と、この泉水に秘められた何か・・の確かな鼓動を感じた。
 それを見止め、ゆるりと眼を細める。そして何時の間にか静寂になっていた周囲を窺った。
 泉から広がる水路の果て、中心に座す泉を四方に囲むように石柱が建てられている。長い年月にも朽ちた様子の無いその柱には、人間には解読不可能である紋様…妖精言語で書かれている何かがあった。
「これは……」
 淡く白い燐光を己の周囲に湛えている『彼女』…ルティアはゆっくりとそれに歩み寄り、そっと右手で文字らしき紋をなぞる。掌から伝わる石の冷たさは、まるでこの地に縛られた者の深い呪怨を刻み込んでいるようだった。
 ルティアはそれから手を離し、左腕に抱えていた赤褐色の装丁の書物、その表面に何かを描くように指を大きく滑らせた。
『求めよ、されば開かれん。尋ねよ、されば示されん』
 呪文のように呟かれたそれに応じて、表紙に金細工で象られていた幾つもの眼のような意匠が一瞬淡く閃く。
 それにルティアは満足げに口の端を持ち上げると、再び石柱に視線を戻した。




―――マナの流れに綻びが生じた時。秩序を生み出す陽の光は、混沌を支える陰の闇に塗り替えられ、混沌を覆う陽の光は、秩序を律する陰の闇に転化した。
 小さく静かにだが、確実に世界の調和が乱れ往く中、我等エルフにも異変が生じた。
 元来エルフ族は光属、闇属などに分かれていなかった。だがマナの流転で生じた歪みの為、より自然に、よりマナに近しい存在であった我等エルフは光と闇に分断され、その生命の性質すらをも歪められてしまった。




―――完全なる反存在属性を宿してしまった両エルフは、互いにその存在をやっかみあい、憎みあい、殺しあった。それこそ、種が崩壊する速度よりも早く、種全体が滅ぶのではないかと言う程の、時間と規模で。
 果ての無い争いの中で消え逝く自然。自然とともに生きるエルフ両属もまた、滅びの途を辿るしかなかった。
 長く続いた争いの後。再びそれを防ぐ為に光と闇、両属は決して交わらぬように盟約による禁忌の制定と、結界を張ってこの世界から両者を完全に断絶した。




―――別たれた道。それが何時の事であるかすらも、記憶の中から流れ落ちそうになる程の時が流れた。
 闇は竜の庇護下に在りて平静を得、光は自然と共に在りて安寧を得る。
 だがエルフもそうであるように、世界もまた流れていた。
 あまねく世界に広がっていた人間と、事もあろうかライトエルフが接触する事で、その種の垣根を越えた存在が生まれ始めていた。
 それがハーフエルフ。光にも闇にも、妖精にも人間にも属さない混沌とした生き物。




―――ハーフエルフは、我等エルフと人間の両方の特性を併せ持っていた。
 嘗ての同族内での争い。記憶の端に追いやられていた悲劇の再来を恐れたライトエルフ達は、この地でハーフエルフ達を大虐殺するに至る。
 だが、それでも怨念と言うものが残った。それは強靭な自我を誇る人間の血潮に秘められた、尽きぬ欲望、渇望がもたらしたものかもしれない……。
 それを鎮める為に、ここに地下神殿が設けられた。大気と大地を流れるマナの流脈、その狭間にて魂鎮の儀の粋たる紅き宝玉を用いて、その不浄なる思念を永劫に圧し留める為に。




「妖精…エルフの、嘆きの歴史というわけね」
 東西南北という順で石柱に刻まれた碑文を解読したルティアは、何となしに呟いた。
「……ここは潺潺せんせんとした哀しみの色に満ちている。あなた・・・は、それに何を思うのかしら?」
 虚空に放たれた問に、応える者は未だここにはいなかった。






 澱んだ空気が漂う洞窟。ここのすぐ外にはあれだけ澄んだ空気が流れていたと言うのに、その清浄さを想う事は、ここではただ儚さを感じざるを得ない虚しい事柄だろう。
 ノアニール村から西に広がる大森林に入った途端に全く現れなかった魔物が、この洞窟には大挙して徘徊していた。外の陽のマナに充ちた清涼さの為か、ここから出る事の叶わない魔物達は、生き残る為に互いに互いを喰らい潰し合う。それ故に生き残った魔物は生への執着に貪欲で、外で遭遇するものよりも遥かに凶悪、禍々しい醜悪さを周囲の闇に撒き散らしていた。

 天然の岩屋の奥から、闇が凝るように現れたバンパイアの群れ。蝙蝠こうもりの如き羽で暗闇を自在に飛翔しながら鋭い喚声を上げ、果敢に爪牙を閃かせてくる。だが力無き者の末路は一つしかないこの地にて、それは虚しく岩肌に弾かれる断末魔に変わる。最後の一匹となった魔物を特に臆した様子も無く淡々と斬殺したユリウスは、前方で杖を構えていたミリアに淡々と声をかける。
「おい」
「……何よ」
「ここは本当に聖域なのか? こんな醜悪な魔力エーテル…いや、陰のマナが渦巻いている場所をエルフ族は聖域と称するのか?」
 周囲の闇に無感動な視線を這わせながらユリウスは言う。左手に持った松明の灯りが、その漆黒の髪を燈燈と照らして、面に深い影を落としていた。
 すすが昇り、薄っすらと闇と水分を湛えていた天井に吸い寄せられ岩肌に消える。
 その大きな流れと闇に呑み込まれ、終には消えてしまうような様子は、この洞窟の中での何かを暗示しているようで自然と意識が不安という暗澹に向かう。そんな取り留めの無い事を考えていたミリアにとって、ユリウスの超然とした様子は些か癪に障り、言葉無く態度で顕すように半眼で振り返った。
「……前から思っていたけど、エーテルやフォースって何よ?」
「え? ……えっと」
 この醜悪な洞窟内の気配にてられたのか、何処となく青ざめた顔色のソニアはしどろもどろに言葉を濁していた。この場合、エルフの情報について疎いのは自然で、ソニアの狼狽振りは至極当然の反応だと、振り広げていた鎖の鞭を手繰り寄せながらヒイロは思う。
 だというのに、ユリウスは小さく溜息を吐いてから言った。戸惑いも、迷いも無いはっきりした口調だった。
「……精霊スピリットの事だ」
「そう……」
 その一言で納得したのか、ミリアは視線を前に戻す。だが逆に、今度はソニアが困惑したような声を上げた。
「ユリウス。精霊って?」
「だからエーテルの事だ。エーテルとフォースは所詮は人が創り出した言葉。エルフ…というか妖精種の中ではエーテルの事を精霊スピリット、フォースの事をネガ精霊スピリットと呼んでいる」
「そうなんだ……」
「人間はいつもそう。何かにつけて原理やら定義付けやらの理詰めをしようとするのね」
 やはり、詳しすぎるユリウスの知識の深さ。それが一体どのようにして得た知識なのか、その特異性に興をそそられる。そんな事を考えながら、ヒイロは続けた。
「まあ、理屈や筋書きが欲しいんだろうね。自らを納得させる為には、そこに至るまでの確固たる足跡が必要不可欠だから。自分達の立ち位置が整然とした平静であればある程、人は迷い無く前に進めるからね」
「ユリウスはどうして知っているんだ? そんな…エルフでの事情まで」
「……お前には関係無い」
「また、それか。……いつもそれで相手が納得すると思うな」
 淡々としたユリウスの口調に、不満げに唇を尖らせてミコトは返す。その何処か強い口調には、これまでの道程で積もってきた不可解さもあるのだろう。
 真っ直ぐな視線を受けて、ユリウスは観念したように大きく肩を竦めた。
「以前、バウルに読ませてもらった書物に書かれていた事だ。魔法の原理やら、世界の理やら……。確かな真理が記されてあった」
「そんな物があるのか……。何て書物なんだい? そんな凄いものならば有名な筈だよね?」
 純粋な好奇心から、ヒイロ。この洞窟を支配する闇と、それに抗う松明の光に霞んではっきりと捉えられる事は無いが、確かに口元は持ち上がっていた。
「……絶対たる真理の聖櫃せいひつ、黄金の知識の源泉、永劫なる記憶の円環『悟りの書』。……その写本だ」
「! へぇ……」
 最後の言葉。最後の名前。それは自分の中でとても大きな波紋を残したと、ヒイロは自覚する。もしかしたら声にそんな感情を示すいろが乗ったかもしれない。
 そんな事を考えていると、声調の違いが耳に付いたのか、ユリウスは怪訝な眼差しでヒイロを捉えていた。
「? ……何だ」
「いや、まぁ…いつもの好奇心さ。気にしないでくれ」
 苦笑しながらの対応に、とくに追及する意志も無いユリウスは、大きく肩を竦めた。
 そこで当初の質問から話の矛先がずれている事に気が付いて、ユリウスは視線をミリアに移す。
「……で、どうなんだ?」
「聖域と呼ばれているのは、本当の事よ。だけどそんな言葉に意味は無い。要はこの場所を特別視する事で、エルフも人間も近づけさせないようにするのが本当の狙いらしいわ」
「成程。所詮は態のいい目眩ましと言う訳か」
 淡々としたミリアの返答に、ユリウスは無機的に頷いていた。





 洞窟を奥へと進む程、周囲の空気は重く感じる。
 その重さは不安と恐怖という感情を掻き立て、それは一つ一つの足取りをさらに鈍重なものにしていく。
 そんな悪循環に抗うようにソニアは、自分が信仰する精霊神ルビス教の経典にある文句を、心の中で唱え続けていた。意識しただけで自然と心の中に浮かび流れる程に繰り返してきたそれは、己の中に日常の灯を点し、それは不安という層雲が渦巻いていた自分の心を奮い立たせる種火となった。
 身体は重いままだったが、気分が少し楽になった。そう感じていたソニアの耳に、ノエルの鈴のような声が飛び込んできた。
「あれ? 何だろう……」
 左手でミリアの手を握りながら、視線でノエルは示す。その先の開けた空洞には、ぼんやりと青白い光を醸している何かが在った。歩み寄ってみるとそこは、一見して湖に浮かんだ小さな離島のようであり、水路と四本の石柱にた囲まれたその中心には小さな泉…そこから止まる事無く懇々と泉水が湧き出していた。
 周囲の薄暗さに反して、その泉は微かに淡く光を湛えており、その光は心身共に深い安らぎを与えるような優しい感じがした。
「あれは……瘴気も感じないし、丁度良かったわ。あそこなら休める」
 何処となく安堵の色が窺えるミリアの表情と声。この洞窟に入ってから妙に雰囲気を硬くしている彼女の様子から緊張をしているのだろうか、と思う。何せ、以前来た事があるといっても、その際の記憶があやふやという事は、何かしらの出来事があって心がそれを閉じ込めてしまっているのではないか、という推察を為すには十分すぎる要素がここには満ち溢れていたからだ。
 薄っすらと天球ドーム状になっている青白い光の膜をしげしげと見つめながら、ソニア。
「これ結界よね? それもすごく強力な……」
「そうだね。この泉から形成されている水路は、そのまま魔方陣になっているようだ。……これを聖域と称するのならば頷けるね」
「これもエルフの魔法技術って事か」
 興味深そうにそれらを見て鑑定するヒイロの説明に、ミコトが成程と頷いた。
「ああ。この泉が結界の中心で発生源なんだろうけど、それを差し引いてもこの水路による陣の補助効率は凄いな。これほどの物がたったこれだけの範囲で収まっている……。人の技術でこれを再現するとなると、より大規模な物になるだろうしね」
 しげしげと四方を囲む石柱を眺めながら、感嘆にふけるヒイロ。その実に愉しげな好奇に充ちた様子にミコトは呆れたように半眼になり、ソニアは困ったように苦笑を浮かべる他無かった。

 この場所の安全性を確認した上で、一行は暫しここで休息を取る事にした。洞窟に入ってからというもの、引っ切り無しに襲い掛かってくる魔物との戦闘で、疲労が蓄積されていたからだ。
 それぞれが緊張を解いた中、手袋を脱いでその清潔感を感じる泉にソニアはそっと手を浸した。ひんやりとした感触と、身体にこびり付いた病むべき何かがスッと削げ落ちる感覚がして、表情が自然と緩く穏やかになる。
「……気持ちいい」
 その柔らかな面と言葉が、誰しもの感情を代弁していた。





 石柱に背を預け、ユリウスは腰を下ろしていた。同行者達が泉の水を汲み、それを口に含んでいるのを見止めつつも、自分はそれに倣う気は無かった。いつでも抜剣できるように常に剣の柄に手を添え、今にも落ちて来そうな岩の天井を見上げた。それが単なる気分による錯覚に過ぎないと解っているだけに、忌々しささえ感じていた。
≪……リウス≫
(何だ?)
 ふと名前を呼ばれた気がして、ユリウスは広がる闇に眼を凝らす。遥か遠くから聞こえる魔物のつんざく咆哮ではなく、ただ自分の中に穏やかに染み広がる音色。それが聞こえた気がした。
 胸の内に沸いたこの解せない、何かに見られているような感覚。これがただの勘違いだとしたらとんでもない自意識過剰だな、と馬鹿げた事を頭の中で過ぎらせながら瞑目する。
(疲れている…訳ではないな。この程度の瘴気などに滅入る程、繊細なつもりは無いからな)
 自分の身体の状態を確認し、自嘲しながらフゥ、とユリウスは浅く息を吐いて瞼を持ち上げた―――。



「!!」
 視界に飛び込んできたのは、不可解な世界けしきだった。
 暗い洞窟の中に居た筈なのに、何時の間にか自分は深い森の中に佇んでいたのだ。
「な、んだ……? ここは……」
 天を覆う隆々とした幹と梢、そして深い茂みによって遮られ一瞬この緑の牢獄に閉じ込められてしまったのか、と考える。だがそれは辺りを見回せば杞憂に終った。唯一つ、その先が眩み見えなくなるほどの光が、ぽっかりと口を開けて来訪者を待っていた。他に進めるような場所は無く、このままここで立ち往生していても意味が無いから、ユリウスはそれに向かって歩みだす。
 これまで通ってきた森林とはまるで違う生気の無い、だがそれでいて確かな存在感を放っている木々。攻撃的ですらあるそれらは、自分をただ一つの道である光の先へと追い立てるようでもあった。

 眩すぎる光に目を細めながら進む。すると眼前には、白い飛沫を舞い上がらせている大きな滝と、開けた空が延々と広がっていた。その中でより一層白く輝いている球体…おそらくは太陽なのだろう。空に浮かんでいる雲は一向に風に流され動く気配が無く、轟音を立てて然りである筈の滝もまた無音であった。
 そして更に、この場所において決定的に現実ならざる感覚を自身に植え付けていたのは、この世界は総てが黒と白、灰色で構成されているという事だった。時間すらもが凍て付いたかのように、何一つ動くものは無い。絶対の静謐せいひつの中にある世界…まるで何もかもが眠りについたノアニール村のような状態だと言う事に気付いた。
 空に向かって伸びているような崖の先、もう眼前には歩む場所が無く、雄然と構える滝を最も在るがままの形で見る事ができるであろう場所に、誰かが佇んでいた。白と黒の世界では本来の色彩など知る由もないが、ただ何処までも白い、総てを塗りつぶすような淡い蛍のような白色の燐光を纏った、白妙の外套に身を包んでいる人影が在った。その纏っている外套の白さが深深と増し確かな生の鼓動を感じる。それは彩の無い世界からの乖離かいりを浮き彫りにしていた。
 その人物がゆっくりと振り返る。外套がかたどる輪郭に、その人物が女性である事を知った。
≪ユリウス≫
 眼前に立つ人物から発せられたであろう声を、聴覚ではなく己の全感覚で捉えユリウスは顔を上げる。
「! 誰だ……」
 絶えず耳鳴りがしていた。この異様な世界に迷い込んできてから、頭の中の脳の奥に絶えず響いている鼓動。それは疼く痛みと言葉には表せない焦燥感を掻き立てている。
≪…………≫
 振り向いたその人物は、ただ何も言わずにこちらを見つめてくる。深くに被られたフードに遮られて表情は判らないが、そこから僅かに零れる眼光がこの無彩の世界で唯一つだけ鮮やかな暁色に見えた。
 それに絡め取られてしまったのか、身体を動かす事が…いや動こうとする意志すら沸いて来ない。自分でも疑ってしまうような思考活動が巡る中、若干の警戒を持ってユリウスは発した。
「誰だお前は? これはお前の仕業か?」
 こちらの問には答えずに、眼前の彼女はただ世界の静謐を壊さぬようにゆっくりと返す。
≪嘆きの色に染まってしまったマナは、還る事無く永劫にそこに囚われ続けている。それは決して終る事の無い贖罪しょくざいの刻の中、闇の泥濘でいねいの中で光を求め足掻く事に同じ……≫
「……!」
≪……触れられたくないから、忘れる事を努めた。思い出したくないから、壊れる事を求めた。その傷みはあなただけの物。傷み解する事ができるのは、癒す事ができるのは、同じ物をそのままに知覚した事がある者だけ……≫
「! やめろ……」
 苛立たしげに顔を歪め、ユリウスは視線を背ける。それを優しげな瞳で見つめながら眼前の女性は続けた。
≪……あの泉は、たちどころにあらゆる身体の傷を治すと言う。だけど、それは心を癒すには至らず……。私には、あれは怨念の晴れない嘆きの涙にしか見えない≫
 あの聖域の泉の事を言っているのだという事はすぐに判った。だが何故それを自分に言うのかが解らない。何故そんな事を知っているのかも解らない。ただ純然な不可解さが自分の胸中を掻き回しているような気がした。
≪あの涙を流している者達こそ、最も癒しを求めているのかもしれないわね……。ユリウス。あなたには、どう見えるのかしら?≫
「何を……言っている?」
≪あなたなら、きっと……≫
 白妙の女性の、微かに覗く口元が緩やかに弧を描いていた。
 自分を捕えていた暁色の視線が、自分の後ろへと動いた。それに誘われてユリウスも振り返り視線を送ると、何時の間にか濃密な霧が犇いていた森の中に、影がひっそりと浮かび上がっていた。それは霧に阻まれて良く見る事ができないが、一歩一歩、大地に広がる草をしっかりと踏み締める音が聞こえてくる。近付いてくる度にその音は大きくなり―――。



「誰だ!?」
 立ち上がりつつ、ユリウスは叫んだ。
 突然のユリウスの奇行に周りの同行者達は呆気に取られ、ただ呆然と一人立ち上がっているユリウスを見上げる。
「……ユリウス?」
「どうした?」
「急に立ち上がって……気でも触れたのかしら?」
「!? ……いや、何でもない」
 岩肌に反響して未だに散乱していた自分の声が耳に捉えられる。瞠目しながらユリウスは視線を周囲に巡らすも、ただひっそりと漂う闇と、それに同調するような青白い炎の光だけ。あの意識すら遠のくような白き燐光など、どこにも見当たらなかった。
(白昼夢だとしたら馬鹿げている……)
 そんな事を考えながら、地面に腰を下ろした。
「飲むか?」
「いや……悪いが遠慮しておく」
 未だに怪訝な顔をしていたミコトは、泉から汲んで来た水を差し出してくるが、ユリウスは手でそれを制し断る。
 あんな事を聞いた後では、とてもそれを口にする気にはなれなかったのだ。
 そうか、と頷いてミコトは携帯していた道具袋にその水筒をしまった。それを視界の隅で捉えつつ、ユリウスは大きく溜息を吐いて瞑目し、思った。
(今のは……幻、だったのか?)
 乱暴に己の漆黒の髪を掻き回すも、答えが出る事は無かった。






 休息もそこそこに、一行は再び最下層を目指して洞窟を潜る。
 下層に行けば行く程に身体に絡み付いてくる闇の濃度と粘度は高まり、それに秘められた陰りの気は、精神こころに重く圧し掛かってくる。
(すごい、邪念だな……)
 松明を片手に、周囲の闇に視線を走らせながらミコトは思う。
 自分はこういった場所に慣れている・・・・・とはいえ、あまり長居したくは無い。慣れているのは厭くまでも我慢できる範疇の事であり、何の影響も無いという訳では無いのだから。
 そっと懐に忍ばせている小刀を握る。それだけで、少しこの重圧から解放された気がした。
 横を見ればソニアは少し辛そうだった。元々白い顔色が蒼白になっている。あの場所で休憩を取ったとは言え、やはりこう闇に覆われた場所を行く上では、どうしても気が滅入ってしまうのだろう。
 ヒイロも見た目には変化は無いが、口数が極端に減ってきた事から、相当応えているのだと考えられる。
 ユリウスにしてみれば、先程の小休憩の時から完全に閉口し、ずっと何かを考え込んでいるように難しい顔をしていた。急に立ち上がって叫んだ事…普段からは考えられない事だった。悔しくはあるがいつも恐ろしいまでに冷静沈着な態度は、見習うべき処でもある。それ故に、あの時の異様さは酷く印象に残っていた。
 前を行くノエルはただ不安げな表情を浮かべるだけで、平気そうであった。その少年と手を繋いでいるミリアについては一歩一歩、先に先に進む度にその表情が険しくなっていくのが良くわかった。
 それに何かしらの予感を覚えたミコトも、唾を呑み込んで自分の気を引き締めなおした。



―――聖域の泉での休憩の折、ミリアは藍色の双眸に泉を映しながら語った。
「……ハーフエルフ大粛清の話はしたわね」
「ええ」
「実際にそれが行われ、終結した地がここよ。……行き場の無いハーフエルフ達を纏め上げていた王が、ここで殺された……」
 ミリアは周囲を見回して、声をしぼめる。
「だけど、その後に問題が残った。ハーフエルフは人とエルフの種族間を超えて生まれた者達。彼らのその不安定さが、マナを侵食して澱みを築き上げていった」
「……この空気はその名残なのか」
 ミコトは納得したように頷いた。
「この瘴気とも言っていいマナに取り込まれて、次々と精神に異常をきたす動物、怪物達が相次いで現れたそうよ。酷い時にはエルフにすら影響を齎したとも言われているわ」
「エルフは人間よりも遥かにマナへの親和性が強い為に、それに抗う術は無かったと言うわけか」
 持てる知識と放たれた言葉を吟味ぎんみしながらヒイロが、淡々と述べる。
「……そこで、エルフ達は清廉なマナに満ちていた地底湖のあるこの地に神殿を創って、亡き者たちへの鎮魂を図る事にした。だけど、それでも彼等の怨念は晴れる事は無かった。そこで夢見るルビーを地下神殿の中央にある祭壇、そこに捧げる事で怨念をこの地に閉じ込めたの」
「つまり……」
 ゴクリと誰かが唾を呑み込む音がする。
 それに伴い広がった沈黙が、とても重く感じられていた。
「……ええ。夢見るルビーはつまり、この地のハーフエルフ達の怨念を抑えておく為のふたのような役割を持つ……私は、そう聞いているわ」
 確かに、これだけの怨念を祓う事など人には出来ないだろうとミコトは思う。より霊的な性質にちかいエルフですら、抑え込むのがやっとだと言う事実に、戦慄が背筋を這うようだった。
「そもそも、夢見るルビーって何なの? ……怨念を閉じ込める蓋の役割をしているのは判ったけど、ただの宝石ではないって事よね?」
「盗賊ギルドの間じゃ、エルフの至宝だという事で世界の四大秘宝の一つに数えられていたね……。確か、『ガイアの剣』、『黄金の爪』、『渇きの壷』、『夢見るルビー』…だったかな」
 指折りに数えるヒイロを横目で捉えながら、ミリアは淡々と続ける。
「人の世でどう囁かれているかなんてどうでもいいわ。……ハーフエルフ達の鎮魂の為の触媒に用いられた、ライトエルフの血の結晶よ」
「……血?」
 語られる事の仰々しさにソニアは僅かに口を牽きつかせる。
「……ハーフエルフを束ねていた王には、ライトエルフの恋人がいたの」
「え……!?」
「その王は最も力が強く、また遺した怨念も強大だった。彼の念を抑える為に、彼に最も縁のあったそのエルフの女性が、エルフに伝わる秘術…魂鎮たましずめの儀で自らの血と魂の半分を賭して鎮魂石を造り出した。それが夢見るルビーよ」
 惨憺たる事実に、思わず口元に覆うソニアと眼を大きく見開くノエル。
 語られる事が事実ならば、その結末もまた……。やりきれない想いと驚愕に眼を細めながらも、ミコトは気になった事を口にした。
「……そのエルフの女性は、それからどうなったんだ?」
「さぁ? 少なくとも私は知らないわ。血も魂も半分も賭したんだから、生きているとは思わないけどね」
 本当に知らないのか、ミリアは肩を小さく竦める。
 顎に手を当てて考えていたヒイロは、囲んでいる泉を琥珀の双眸で見つめながら呟いていた。
「成程……。夢見る・・・ルビー…その名前には、文字通りエルフ、ハーフエルフ。沢山の願いが篭められているんだね」
 懇々と湧き続けている泉水が、淡い光と共にその言葉を孕んで何時までも辺りに余韻を残していた。

「ところで、何で君たちがこの地に来たのは今なんだい? 話からするに、常にここに無いと危険なんじゃないかな?」
 おもむろに切り出すヒイロ。やはり一番気になっていたのはそこである。他の者達もそう思っていたのか、自然と視線はミリアに集中した。
「……アンが最後に封印したという事実は、微かに覚えている。それから十五年経って、つい一月程前。その封が切れかけている、とある人物・・・・に指摘されたからよ」
「ある人物?」
 鸚鵡おうむ返しにミコト。
「……とにかく。私は、アンにこのルビーを託された。だから、これを護らなければならない」
 だがミリアはそれには触れなかった。何処か憮然としている様子から、余り触れられたくないのだと訊き返したミコトは思った。
「護るって、具体的に何をするの?」
「…………わからないわ」
 今度は小さな唇を尖らせるミリア。それに危惧を覚えながら、ミコトは震える声で返していた。
「は? いや…、それじゃ余りに危険なんじゃ」
「仕方ないじゃない。これはエルフ族長の家系伝わる秘術の結晶なんですもの。その秘密なんか知る訳が無いわ。アンがこれをどうやって封印したのかなんて、どうしても思い出せないし……」
 言いながらミリアは懐から特殊な紋様の刺繍がされた袋を取り出す。恐らくその中にルビーが保管されているのだろう。袋の上からそれを見つめるミリアの目には、深い悲しみが浮かんでいた。
「とにかく! 行ってみない事には何も始まらないでしょう」
「まぁ、そうだけど……」
 微かに胸の内に暗澹たる気分が過ぎるも、ミコト達は頷いた―――。



(果たして…鬼が出るか、蛇が出るか。一体どちらなんだろうか……)
 手にした松明を力強く握り締めながら、ミコトは深い闇の先を見据えていた。






「着いたわ。ここが、陰りの霊廟ニブルへイムの最下層の地底湖フヴェルゲルミル……」
 細い通路、なだらかな斜面を下り、今までの場所とは比べ物にならない程、広い空間に出た。
 空気が急に軽くなったと感じたのは、恐らくここがとてつもなく広い空洞であるという事を裏付ける。湿り気を帯びた空気が、疲労を蓄積している身体や髪にしっとりと纏わりついて、不快な気持ちにさせた。
 硬い岩の地面のすぐ側に、深静と見渡す限りに広がる湖がある。この自然が気の遠くなるような年月をかけて作り出した絶景には、普段ならば何かしらの感嘆を零すのが情を持つ者の常なのだろうが、その湖水から発せられる禍々しい気に、それははばかれていた。
 やはりこの階層にも備えられている燭台が導く先、地底湖の丁度中央に位置している小島には、明らかに人為的な意図を以って橋が掛けられており、その小島には魔法儀式的に方位や位置を測られて建立こんりゅうされている神殿が、永年の沈黙を守ったまま静かに存在していた。
「凄いな……。これがエルフの文化によって築かれた建造物か。……ああ、これは―――」
「……ヒイロ、お前……」
 ヒイロは整然に座すそれを遠目に、声を躍らせる。自然と早くなる歩みをミコトが溜息混じりになだめていた。

 より近付いてみるとそれは見事な建造物だった。
 人間の文明のそれのように虚栄を誇る優雅さや、華やかさは無かったが、八方向に整然と並べられた天然の石柱は、天球状の天蓋を力強く支えている。石柱に刻まれた魔法紋字は、ぼんやりと淡い光を湛えていた。その様子は中に在る物を護っている堅固な要塞にも見えるし、災いを封じ込めておく為の棺箱のようにも見える。冷然とした空気が漂う中、神殿の中心に石で出来た祭壇が静かに、訪れる者を待っているかのように鎮座していた。
「ここに、これを……」
 高鳴る心臓の鼓動を感じながら、ミリアは祭壇に歩み寄る。そして懐から出した袋より件のルビーを取り出した。それは何処までも澄み切った紅い色で、見る者をただただ魅了する。宝石としての頂点に君臨すると言っても、決して言い過ぎではないそれを、何処か哀しげに一瞥しながらミリアは祭壇にある窪みにめ込んだ。

 キィィンという甲高い音がしたかと思ったが、何も起こらない。
 神殿の外でその様子を固唾を飲んで見守る一同も、緊張した面持ちでルビーの様子を窺っている。
 ふとうなじが逆立つような寒気が走り、警戒からかミリアは足早に祭壇から離れ、他の同行者達が待つ神殿の外に出ようとした。
―――その時だった。
 ルビーが強く閃いたかと思うと、その祭壇の周囲…いや神殿を覆う湖から濃密な青い闇が漂い始めた。それは瞬く間に祭壇のルビーに収束され、ルビーの紅い光によって、禍々しい赤黒い闇へと変貌する。闇を吸い込んだルビーはまるで自らの意志を持っているかのように祭壇から自然と宙に浮かびあがり、背筋が凍る程の醜悪な波動を周囲に放ち始めた。
「何だ、あれは! とんでもない瘴気だ!」
 ミコトは叫んだ。表情に戦慄を浮かばせて、いつでも戦闘に入れるように身構える。
「ミ、ミリア……どういう事?」
 背後でノエルが、この奇怪な現実に怯えながら声を震わせている。
「わからない……わ。前に見た時……、アンは確かにその祭壇にルビーを収めていた。その筈なのに……」
 下唇を噛み締めるミリア。焦りを感じているのは彼女も同じ…いや、最もそれが大きいのが彼女だった。
 頭痛がする。眩暈がする。耳鳴りがする。吐き気がする。寒気がする。自分の中の危機感が最大限に警鐘を鳴らしている。この場から逃げろ逃げろ、と競り立てている。
 圧倒的な、混沌とした闇と負の気配にミリアはただ恐怖していた。ゆっくりと後づさりながら、目の前の現象を注視する。胸の奥で誰かが悲鳴を挙げているような気がしていた。
 うろたえる一同を構わずに、ルビーは波動を撒き散らしては尚も周囲の闇を掻き集める。それはやがてルビーの背後の、虚空の一点に収束して実体化し始めた。
「!」
 散々だった闇は一つに固まり影となり、その影もやがては存在感を放つ人の形をとる。その圧倒的な威圧感は徐々に色彩を帯びていき、その姿が形作られ露わになった。
「あ、ああ……」
 ミリアは眼球が零れ落ちそうになる位に目を見開いた。蒼白にした顔色が、彼女の胸の内の総てを物語っていた。

 深緑の長髪を優麗に靡かせて、その具現した者はフワリと地面に降り立つ。
 伏せていた瞼をゆっくりと開け、その奥の澄んだ群青の双眸でこちらを見下ろて、微笑んだ。

「久しぶりね……ミリア」
「ア……、アン!?」
 記憶の中とたがい無い玲瓏れいろうの声。それを何処か遠くの出来事のように聞きながら、ミリアは無意識的に首から下げているエルフの御守を握り締めていた。




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