――――第二章
      第十話 黄昏に揺る







「おい、何なんだこれは……」
 回廊の真ん中で立ち尽くし、ミコトが呟く。握った拳が、行き場の無い程込み上げ渦巻いている怒りの為に、わなわなと震えていた。瑞々しい眉間に険しく皺を寄せ、怒気で顔を真っ赤にして奥歯を食い縛っている為か、頬が引き攣っている。
「いや…………」
 ソニアは目を瞑り、両手で口元を押さえながら小さく嗚咽を零していた。凄惨な状況に動揺し恐怖した為か思わず床に膝を着き、その細い肩をガタガタと震わせている。紅の眸に揺れる弱々しい光は、溢れ出しそうな涙を必至に零すまいと堪えていた。

 五階の、東側の開けた回廊はただ紅一色だった。
 床だけで無く壁にもその紅…血痕が飛び散っている。所々に物言わぬ躯が横たわり、その身を緋色に染めていた。柱が列ねられているだけの、外壁の無い見晴らしの良い回廊の先には、茜と藍。そして傾き始めた日に萌えている緑が視界いっぱいに広がっている。
 ナジミの塔でも感じたような地上より遥か高きで見出せる、壮麗さを誇る一枚絵。その現実離れした果ての無い世界から吹き流れてくる風は回廊を渡り、血生臭い紅い香りを捲き立たせる。それは否応無く、この場の状況が現実であると言う事を感じさせてしまう。
 いっその事、悪夢で済むならそれを享受したい気分に誰もがなっていた。どんなに酷い夢であれ一度覚醒してしまえば、それは明け往く意識の下に埋もれ、やがて泡沫の如く無意識の底に溶け消え失せるのだから。
 その中の一人に歩み寄り、ゼノスは膝を屈めて遺体を見、目を細めた。
「こいつらは新入りの奴らだな。……ったく、手は出すなって言ったのによ」
「……全員、斬殺されているな」
 愚痴の様に呟いては立ち上がり、髪を掻きあげながらゼノスはヒイロに振り向く。
 どの躯も、首を一閃して頚動脈や咽喉を断たれ、或いは心臓を貫かれ一刀の下に殺されていた。その際の出血によりこの回廊が紅一色に染まったのだと容易に想像できる。
 ゼノスの視線の意味を汲み、口元を抑えながら真剣な表情をして頷いて、ヒイロはポツリとそう呟いていた。
「傷口の深さを見るに、恐らくは即死だな。この分だと、痛みを感じる暇すらなかったんじゃねーか? 全員とは言わねぇが……」
 剣を扱う者として、腕の立つ剣士であるゼノスだからこそ、その傷口の角度や深さからそこまでの洞察が可能であった。それを聞きながらヒイロは思案する様に瞑目する。
(自分が死んだという事すら気付かなかった、か。それを救いととるか、惨いととるか……)

 夥しい量の緋色の血潮が外気に晒されて気化し、鼻孔を突く生々しい鉄分の臭いが漂っている。

 口元を固く結びながら僅かに目を細め、ここで何があったのかを状況から組み立てようと、あちこちに倒れ伏せた躯に近づいて観察していたアズサは、壁の無い吹き抜けに向かって、紅い血の筋が伸びているのを見つけた。何か大きく重い物…この場合は生き残った人間としか考えられない、を引き摺ったような血の跡が床の端…開かれた回廊の端で途切れていた。その先にあるのは見晴らしの良い景色。茜色に染まりつつある空と地上だ。
「……生き残った者がおったのか」
 言いながらアズサは塔の外に顔を半分出す。
 勢い良く吹き上がって来る風に身を捕られない様に、柱にしがみ付きながら遥か先の地面を見下ろすが、そこには何かが落ちた形跡は見られ無い。ただ塔の周囲を取巻く草原の緑だけだ。どの道この高さから落下したものならば助かる見込みは無いだろう。猛然と駈け上がってくる風に眼を細めながら、そう思った。
 アズサは再び仲間を見やると、血の海の前で肩を小刻みに震わせ、立ち尽くしているソニアを見止める。悄然とした様子の彼女に近づき、そっとその両肩に手を置いて安心させてやった。肩に置いた掌から伝わる彼女の震えは、明らかな恐怖と畏怖。それが判ってしまいアズサは、無理も無いか、と思う。
 僧侶として、回復魔法の使い手として実家である教会の奉仕で人間の怪我の治療を嘗てしていた、と先日ソニアから聞いていた。故に血には見慣れている筈である。だがそれは、厭くまでも生きている人間のものである、という事だ。目の前に広がる無音の血の海を前に、彼女の反応は普通の人間のものに違いなかった。
 このような死屍累々の場を前にして平然としていられるのは、こんな眼を背けたくなるような凄惨な状況に慣れている者か、厭くまでも他人事だからと完全に割り切っている者かのどちらかでしかない。
(……私は一体、どちらじゃろうな)
 ふと、アズサはそんな事を自問してしまう。瞑目して頬を掻き、自嘲した考えを捨て去る様に一つ溜息を吐いてから、意識を弱々しく立ち尽くしているソニアに戻した。
 涙を湛え揺れているその紅い双眸は、溢れ出てくる慟哭の感情を必死で抑えつけている事を物語っている。白い肌を更に蒼白にさせて自分を振り向いて来る面は、気遣われて幾分か落ち着きを取り戻したが、いつもの笑顔を見せる状況でも心境でも無いようだった。

 そんなソニアの肩越しの先で、ミコトはこの凄惨な状況を作り出したであろう存在…ユリウスに強い憤りを覚えていた。階下で自分達も同じ様な連中に襲われたと言え、一人の命も奪う事無く退けたというのに。……今、その彼らは夢の中にいる事だろう。その努力を、信義を真っ向から否定された気持ちで一杯だった。
 こんな結末、自分の正義にもとっている事は明らかだ。沸沸と込み上げて来る義憤による怒りをこの場で表に出すまいと、自分を落ち着かせる事が精一杯だった。肩を大きく上下させて空気を吐く姿が、その難さと彼女の実直さを醸している。やり切れない想いに、喉が枯れるほど叫び出したかった。

「はは…、“勇者様”ってのは魔物にも人間にも厳しいのかねぇ……」
 乾いた笑い声を上げるゼノスの口調は軽淡としたものだったが、目は笑っていない。
 カンダタ程この口ばかりの部下達に対して思い入れは無かったが、こうも無残な姿を晒しているとなると同情の一つも禁じえない。だが、それを面に出すような事は決してなかった。
 ヒイロも目を瞑り、無言で首を振っていた。

 先に足を進める事を忘れ、暫しの間、一同は茫然とそのしじまの中に立ち尽くしていた。






―――狂った様に笑い声を上げていたユリウスは、それ以降まるで別人の様だった。

 ウォーハンマーの一撃は必ずと言って良い程回避していたが、こちらの闘気フォースを込めた体術の連続攻撃を事もあろうか折れている筈の左腕で防御しているのだ。平然と顔色一つ変えずに攻撃を捌き、受け止め、こちらの隙をついて攻撃に転じている。
 それは普通の人間の常識では考えられない事だった。いくらフォースを高めて痛覚を鈍くしているのだとしても、繰り出し続けている連撃に押され募り、その効果は薄くなり長く続く訳が無い。そして体格的攻撃力の格差から、自分の攻撃はユリウスの防御を圧倒している筈だ。これらの現実の前にユリウスは圧されて然りなのだ。
 そんなカンダタの常識的見地に基く思考を嘲笑うかのように、対峙して一歩も退く事の無いユリウスは相変わらずの無表情で、漆黒の眼には人の持つあらゆる感情の全てを破棄し、ただただ冷たく黒い光しか浮かんでいない。
 ……兇刃。漆黒の、無機的で抜き身の刃のような視線から、そんな事を考えてしまう。
 良く見れば、先程まで僅かながらに無表情を崩し、その上に苦痛からか汗を流していたのだが、今ではすっかり引いてしまっていた。
 その様は明らかに異常だった。まともな人間のそれでは無い。それこそ、『勇者』などという肩書き等ではまるで説明がつかない。

――使い物にならないのならば、この場で使い捨てるまでだ。

 先程のユリウスの言葉が、カンダタの脳裏を過ぎる。
「イカレてやがる……」
 その尋常では無い様子の『勇者』の名を冠した少年に、カンダタはやり切れない何かを覚え、苛立ちを募らせていた―――。




 対峙するユリウスとカンダタは隙を窺い合う様に息を潜め、相手の一挙一動に深く意識を注ぐ。
 その為、遠く耳鳴りがするような沈黙が場を否応無く流れていく。互いの息の上がる音、昂揚する心音。空気の流れ捲く音、沈静化する粉塵の積もる音。……そんな静と動の音が聴覚に捉えられている気がしていた。
 荒れ果てた正方の部屋の中、互いの間合いを外す紙一重の距離を、円を描く様に抜き足で巡りながらユリウスは、カンダタは、その変化の機を待つ。

 獲物を狙う獰猛な肉食獣の牙と爪が、相対している者に剥けられ続ける。隙を見せれば即座に襲い掛る、そんなピリピリと肌に刺さる殺気と敵意が渦巻く部屋の中。
 カンダタは口腔から、鼻腔から大きく息を吸い、吐く。
 全身に闘気を纏うようイメージを脳裡に浮かばせて、呼気と吸気の旋律を整える。普段は筋骨隆々たる恵まれた体躯のおかげで、瞬間的な爆発的発揮によるフォースの局所集中でその消耗量を押さえていたが、今はそれを許せる状況では無い。不可解な点が多いが相手はフォースの扱いに練達していると同時に、それと等価にエーテルを繰る術をも身に付けている、と考えた方が賢明だ。
 長期戦は必至の状況下、この闘いに勝つ為の最善を尽くす。
 フォースの扱い方を変えるのは余り慣れている事では無いが、自分には少年よりも遥かに勝る経験がある。それを示す様に、満ち足りてきた肉体からは痛みの感覚が薄れ、沸沸と活力が湧いて来る。重症だった左腕の激痛も薄れ、拳を強く握りその感覚を確かめる。
(まだ、いけるっ!)
 カンダタは毅然と前に立つ少年を見据え、敵意を漲らせた。



 自分でも判るくらいに苛立っているのを、熱くなる脳裏の片隅で冷静に理解していた。
 面倒事を持ち込んでは来たが、彼らは部下だった。自分がそれを認めたのだ。それをこの少年は殺戮した。自分の信義を、この少年は踏み躙ったのだ。想定でき得る、最悪の結末になってしまったのだ。
 こんな事になるのであれば、初めから俺が下に降りて、金の冠あんなものを渡していれば良かった。新参の部下達に今自分達のいる世界を再認識させようと、この“飛影”に対しての考えを見極めようとした、自分の甘さに腹が立ってくる。言い出したのはゼノスだが、自分の中にも少なからずそんな考えがあったのは事実だ。だからこそ、それを認めた。故に責めを負うべきは首領たる自分なのだ。
(あいつなら、確実に大丈夫だろう)
 階下にいるであろう、ゼノスの事は信頼しているからこそ心配には及ばない。盗賊団“流星”の最強の剣士、“魔剣士”たる奴の実力は良く解っている。たかが冒険者程度に遅れを取る事など有り得ない。それが例え魔王討伐の為に集った勇者一行の相手にでも、だ。

 眼前の少年への怒り。甘い自分への憤り。
(それだけじゃねぇ……!)
 何よりも自分を苛立たせているのは、ただ一つ事実。それが火を捲く新鮮な風の如く自分を煽り、駈り立てる。
(許せないのか、俺はっ!!)
 靄が掛っていた心中が晴れる。自分に渦巻く激怒の感情の正体がはっきりその輪郭を顕してくる。
 嘗て見た戦友の顔が霞み浮かび、少年に重なる様に見えて、そして消えた。
(こいつが…。こんな奴が、あいつのっ――!!)



 次から次へと尽きる事無く、荒れ狂う波濤の様に押し寄せてくる赤い激情。それは自分を前へ前へと攻め立てる。
 心内での怒号と共にカンダタは武器を振るい、今までに無い速さと剛さをもってユリウスに襲いかかった――。

 カンダタは叫んだ。その咆哮に、空気が震える。
「認めねぇ! 俺は絶対、認めねぇ!!」
 降る轟鎚の鉄針が頬を掠め、右大腿が翻る切先に捉えられる。
「認める、認めない……。そんな事に一体何の意味がある?」
 開いた右肩に斬撃が入り、回し蹴りが左腕を痛烈に打つ。
「オルテガの…、あいつの血を引く息子が、貴様のような人間で良い筈が無いっ!!」
 豪腕から繰る裏拳が右肩を抉り、猛り昇る火球がマスクを焼き焦がす。
「そんなに俺が、オルテガの息子なのが許せないか? 馬鹿馬鹿しい」
 怯んだ隙をついて逆風に胴を浅く斬り裂き、返す鎚腹が左腕と共に半身を強打する。
「何だと!?」
 蛇の牙の如く鋭く伸びた刺突が左肩を掠め、巨腕の盛り上がった力瘤が処刑鎌のように細い首に炸裂する。
「オルテガとは何だ? オルテガとは誰だ?」
 唸る拳が腹部を強かに突き抜け、退く反動で蹴り上げた爪先が下顎を撃つ。
「あいつは――」
「弱きを助け強きを挫く。清廉潔癖にして、非の打ち所の無い聖人を絵に描いたような男か? 恐怖に怯える人間の妄念が生み出し、神格化された気高き勇者……。それがあんたの知るオルテガか?」
 カンダタを遮り、ユリウスは淡々とアリアハンで語られるオルテガという人物像について口にする。どこか嘲るような口調で早口に。それは亡き父を語る息子の憂いに満ちた目では無く、それどころか感情による揺らぎは微塵も載せてはいなかった。
 それを見て、聞いて半ば愕然としながらも、カンダタは反駁する。
「違うっ! あいつは、そんな偶像つくりものでは無い! ……あいつは人間だ。迷いもしていた。惑いもしていた。過ちを犯した事もある。それを悔い、償い、それでも返る事無く突き進んだ。家族を守りたい一心で立ち上がり、家族と穏やかな平和に暮らせる事を夢見続けて、ただただみらいを目指していた男だ!」
 どんな思いを抱いてカンダタが語っているのか、知る由も知りたくも無かったが、アリアハンという国では今までに聞いた事の無い、人間的な人格にユリウスは思わず、眩む様に眼を細める。
 何時の間にか血が垂れていた口元を手の甲で拭い、ユリウスは淡々と声色を下げて呟いた。
「…………俺は、そんな男の顔も知らない」

――ユリウスは自らの負傷も省みずに、一歩も退かず剣を繰り出しては反撃に転じていた。
 カンダタは目を血走らせた怒りの形相で、ユリウスは人形の様に冷淡無表情で、互いに互いの死力を尽くす。二人の足元には、夥しいまでの血飛沫が飛び散り、砂色だった壁床は紅蓮に染まり修羅場と化していた―――。





 陽光を照らし鈍色に光る甲冑。胸に刻まれたロマリア王国の章刻。厳格な印象を齎すそれは、国家に仕え揺らぐ事の無い忠誠を誓い、騎士道という精神的規範に従う者の証である。その輝かしい矜持を纏う壮年の騎士は、ゆっくりと崩れ落ち、草々の靡く大地に力無く膝を着いた。
「ここまでだな。ロマリア騎士団の長よ」
「……くっ!」
 戦斧バトルアックスの鋭利な刃先を鼻先に突き付け、カンダタは足元に跪いた形になっているロマリア王国騎士団長を見据える。
 その厳つく頑健な鎧は所々拉げ、泥に塗れている。が、全身が放っている気勢は自分に敵対する意思を覆さない。淡々と言う自分を見上げてくる眸は、敗色を過ぎらせてはいるものの、纏う騎士の誇りと言う甲冑がそれを表情まで及ばせない。疲労に震える腕で剣を大地に突き刺し、それを支えに片膝を立たせ、よろめきながらも立ちあがってくる。
「…………」
 その折れぬ意思は忠誠の証か、忠義の顕れか、とカンダタは驚嘆しながらも、これ以上争う気も攻撃の意も持たないので踵を返す。それを唖然と見上げながら、騎士は声を張り上げた。このまま止めを刺されると、思考が向いていた為に、想定外の行動にただただ呆気に取られていたのだ。
「!? 何故止めを刺さない……」
「本来ならば、貴公らと争う理由など、我々には無いという事だ」
「何を言っているっ!? 貴様等が金の冠を盗み出したからではないか!」
 フゥ…、とカンダタは溜息を吐く。当然来る言葉だと解ってはいたものの、改めて向けられると辟易せざるを得ない。
「返したいのは山々なんだがな。……あれを盗んできたのは、貴国の市民…少年達だ」
「何っ!? ……そ、そんな馬鹿な!? そんな事…信じられるわけが……」
 カンダタの言葉に、騎士団長は目に見える様に狼狽する。それに止めを刺すような気勢で、カンダタは冷厳に言い放った。
「事実だ」
 抑揚の無い言葉と共に、見下ろしてくる碧の眸は何の曇りも無く澄んでいて、嘘を言っているようには見えない。こんな眼をする人間が盗賊団なる如何わしい集団を率いるものなのか……。
 地に座す騎士団長は、そう思った。
「だが、今では俺の部下。……金の冠を返せば、事は円く収まるか? 彼等はどうなる? ……逆賊として、見せしめに殺されるのではないか?」
「……それほどまでに王はお怒りになっている」
 言葉を返さずに続けたと言う事は、肯定の意の顕れ。それを解し、カンダタは頭を振る。
「だろうな。……ならば、返す訳にはいかない」
「! 貴様はその少年達を守ろうとしているのか?」
 驚嘆し、愕然としながらながら見上げてくる騎士団長の言葉には答えず、続ける。
「……それに、貴公らは我等の討伐・・に派遣されたのだろう? ……ここで金の冠だけを返しても、諍いは止まぬ」
 そう言い切って降り返り、カンダタは塔の入り口へと踵を返す。
「だからこそ、“討伐”を目的とした貴公らには返せないのだ」
 戦斧を担ぎ、雄々堂々と去る背中は逆光の中で眩く映り、今だ唖然としたままの騎士団長の言葉に振り返る事は無かった。





―――攻撃を繰り出し、或いは躱しながら、カンダタの脳裡には数ヶ月前の日の事が甦っていた。
 ユリウスの鋭い斬撃がカンダタの鋼鉄の鎚柄に受け止められる。
 尚も前に突き出すユリウスの力と、それを受け止めるカンダタの力。そして互いのフォースが真正面からぶつかり合い、武器の触れ合っている一点で臨界を越え、音無く爆ぜる。不可視の奔流の衝突、その反発によって生じた衝撃で二人は互いに後方へと弾かれてしまった。

 土煙が舞い上がり、静寂した部屋を外からの風が翔ける中、カンダタは颯爽と立ち上がり、時を同じく立ち上がったユリウスを見下ろす。激昂した黄碧の眼差しには潰える事無く爛々と怒りが猛り、滾っていた。
 長時間の戦いの末、漸くここで疲労の色を浮かばせ始めたユリウスは、相変わらずの無表情のまま、埃に塗れた外套を翻しながら口を開く。
「……『オルテガの遺志を継ぐ勇者として、邪悪な魔物を殺せ』。『オルテガの遺志を継ぐ勇者として、平和を挫く魔王を斃せ』。あの国で誰かに顔を会わせる度にどいつもこいつも口を揃えて、薄ら笑いを浮べながらこう言う」
 構えた切先と、漆黒の視線は怯む事無くカンダタを貫く。
「現実から目を背けた人間が作り上げた偶像。過ぎる暗澹から絶望の考えを逸らす為の指標。そんな非人間的な、抽象的神格化されたものになれ? その為だけに俺は生れた? それだけが俺の存在意義?」
「……何を?」
「眼を塞いで、耳を塞いで現実から眼を背ける人間が、『オルテガと同じ絶対の強さを得る為に、沢山魔物を殺して強くなれ』だと? 馬鹿げている……」
 淡々と語り出したユリウスに、カンダタは思わず言葉を失くす。発すべき言葉が見つからなかったからだ。
「虫一匹も殺せないような修道女が、悲哀を尊び慈愛を説く聖職者が、『一匹残らず魔物を殺して下さい』だと? 馬鹿げている、馬鹿げている……」
 どこか自嘲しながら、どこか忌々しげに綴られる言葉。抑揚の無い声を聞きながらカンダタは、やはり解せ無いと言った表情のまま固まり、ただ身の内の怒りと共に脈動する血流の音が厭に大きく聞えていた。
「行き場の無い身勝手な恨み辛み掲げた浮浪者が、剣を握った事の無いような、安穏を享受して気楽に生きている連中が、『志半ばで倒れたオルテガの所為だ』、『世界が荒れているのは、もっと早くに生れなかったお前の所為だ』だと? 馬鹿げている、馬鹿げている、馬鹿げている……」
「…………」
「静穏無事に暮らしている閑雲野鶴の王侯貴族が、『早く世界を平和にしろ』だと? 馬鹿げている、馬鹿げている、馬鹿げている、馬鹿げている……」
「貴様……」
「それら総てが『オルテガの息子故だから』だと? 『オルテガの遺志を継ぐ次期勇者の責務だから』だと? 馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しいっ。……偶像崇拝もそこまでいけば、ただの害悪だ」
 頭を振りながら吐き捨てるユリウス。
 それを見てカンダタは或る一つの事が思い浮かんだ。彼の語る事。それはオルテガという偉大な父の影で受けてきた傷みなのではないか……。盲目的な偶像信仰…勇者オルテガの再来への渇望はそれを向けられた者、個の人格の完全否定に繋がる。水を打った様に徐々に冷め往く思考が、カンダタの口を開いて出ていた。
「……恨んで、いるのか? 父を、……オルテガを?」
 掛けられた言葉に一瞬、歳相応の子供の様にあどけなく目を丸くして瞬かせたが、直にそれをユリウスは冷たく嘲笑する。
「恨む? 馬鹿な事を言うな。見ず知らずの、影も形も無い人間に恨みなど抱ける訳が無い。そんな事を感じる心など、とうの昔に棄てたっ」
 剣を握った右腕を大きく振り被って、ユリウスは吐き捨てる。何処か反抗期の少年のような仕草ではあったが、その眼は人間の温かさなど微塵も載せていない。
 何処までも冷たく、何処までも昏く、その漆黒の双眸は鏡の様に対峙するカンダタの姿を捉えた。
「だからこそオルテガという人物など、俺にとっては見知らぬ他人に過ぎない。何かにつけて付いてまわるオルテガの名など、俺にとっては価値の無い名聞に過ぎないっ!!」
 剣の腹による殴打でカンダタの豪腕を打ち、そのまま振り下ろした斬撃が大腿を掠める。間髪入れずに半ば愕然と立ち尽くしている相手の脇腹に踵を叩き込み、勢いを殺さず背後に回り込んでは左に斬り上げた。相手のフォースを纏った防御が堅固な為か、切り裂いた傷から出血は思いの他少ない。
「……ふっ、ざけるなぁぁあ!」
 その人物を知る者として、忌々しく発せられたユリウスの言葉は、カンダタの鎮められつつあった意識を魂底から揺るがした。憤怒という感情を伴って、記憶の中にあるその人物の面影を揺らしながら。
 斬られた傷の痛みなど微塵も気にせずに、空気を揺らす激しい怒号と共に、カンダタは裂帛の後ろ回し蹴りを背後に回り込んでいたユリウスの腹部に捻り込んだ。
 もろにその烈蹴を受けたユリウスは後退し、その場に蹲る。ゲホッと咳込み吐血し、口端から零れる赤い筋が線の細い顎線をなぞり、重力に逆らわずに滴り落ちる。腹の中が急に熱く、蒸せ返るような不快感が充満していった。
「ぐっ……」
 どうやら、肋骨が折れて内臓を掠めてしまった様だ。フォースを纏っていたお陰で内蔵が破裂するような事は無かったが、消耗した身体にその被害は甚大だった。数回咳込んでは吐血し、膝を着いて項垂れるが、気力で剣を床に突き刺して倒れそうになる体の支えにする。
(フォースを使いすぎた。これ以上は無理か……)
 これ以上のフォースの集約は、生命の維持に拘わる事だ。それを理解したユリウスは、大きく溜息をつく。先程から背中に吹き出ている汗が衣服に擁かれ、酷く重く感じてしまう。冷たく背に張り付くそれに限界が近いのを感じていた。
 それを機としてカンタダは全身のフォースを漲らせて、大上段にウォーハンマーを構える。そして、隙のできたユリウスの頭部を狙って一気に振り下ろした。



 完璧なタイミングで振り下ろされている一撃。体勢の悪い自分にはもう躱す術は無い。
(これを食らえば死ぬ、な。…………まぁ、いいか)
 ユリウスは剣に掛けていた手の力を抜く。まるでこの時を待っていたかのように、持ち続けた渇望が満たされ往くのを悦ぶように。僅かだが口元を歪ませて、その漆黒の双眸を伏せる――。
(こんな状況ならきっと……、セ――)

『――それが貴方の望みですか? その意味を貴方は……――』

――瞬間、声が脳裡を掠めていった。消える事の無い過去からの言葉。
 それはユリウスの中で高く澄んだ玲瓏の様に木霊する。それは途絶える事の無い余韻を伴って自身の裡を駆け巡り、ユリウスと存在を構成する全ての細胞を切り刻んだ。
(!!)
 一つ大きく心臓が高鳴った。
 瞬間、ユリウスの眼は大きく見開かれる。夜よりも深い闇色の瞳孔は一点に絞まり、視界に映りこんでくる景色が急激に色褪せていく……。
 殺到する鎚。舞いあがる粉塵。飛び散る汗。滴り落ちる血飛沫……。彩の消え失せた世界は冷たく、命脈などそこには存在していない。視界には、全ての動くものの動作が酷くゆっくりで散漫に、無機質に見えていた。
「…………ギラ」
 そして迫る鎚を避け様とする事無く、強く剣の柄を握りしめながら、ユリウスはそれ・・を唱えた―――。






 朗らかな日に照らされて暖かさを帯びていた風も、蒼穹から紅蓮へと移り往く空の変遷に伴い、冷涼なそれへと姿容を変えていく。視界に広がる果ての無い彼方に引かれた水平線が、まるで水鏡のように空の様相を映し込んでいた。潮風は徐々に冷たさを増して、その潮の香りは滑らかに、艶かしく肌と髪を梳いては通り抜けていく。
 シャンパーニの塔、その雄大な全景を一望できる緑の丘の上。朱に塗れつつある世界にただ一つ取り残されたような鈍暗色に陰る古塔。
 その寂寥せきりょうたる黄昏の光の中の塔を何処か憐れむような、共感を込めた悲哀の視線で見つめた後、白妙の外套を潮風にはためかせているルティアは足下の草の絨毯に腰を下ろした。純白の髪が黄昏に眩く煌き、映えていた。
 その暖光の中で、懐から一冊の古めかしい本を取り出す。赤褐色の硬表紙に潤沢な金銀細工を惜し気も無く施され、知性を品位を醸す様に装丁された本。捲られる度に、年月に茶けた羊皮紙の切れ端が風に攫われて宙を舞っていた。それに気を取られること無く、白い膝の上でルティアは暁色の双眸を頁に走らせる。
「――混沌が支配する大地に穿たれた楔。その楔は揺る事を許されない宿命さだめにあった。それを自覚しながら穿たれた楔は、悠々と天を駈け回り、止む事の無い太陽と月の追走を見上げながら、独り大地に縛られる」
 呟く様に、詠う様にそれは綴られる。
「幾千、幾万……。逃れられぬ永劫の時を掛けて混沌の闇が犇く世界を導き、溢れる秩序の光で覆い尽くした。天と地、大海と大空、太陽と太陰。水と炎、風と土、光と闇、聖と邪……。変わり往く空蝉の中、大地に囚われた楔は何時しかそれに憧憬を覚え、揺る事が出来ず残され往く事に慟哭する」
 何度も読み返している為か、既にその頁の内容を覚えているのか瞑目して天を仰ぐ。頬を撫で往く潮風が、どこか艶かしく感じてしまうが、そんな感傷を何処か頭の片隅に追い遣りながら、ルティアは記憶に刻まれた言葉を手繰り寄せる。
「ついに、その慟哭は磔の大地を二つに割り、間から溢れ出した嘆きの涙海が全てを覆い充たしていく……。やがて、その楔は沈み往く地と共に暗く冷たい海中に没した。揺る事、選ぶ事。訪れた変革の刻に狂喜を覚えながら」
 一息ついて、頁を指でなぞる。文字の羅列された行群の中、読んでいる部位と寸分違わぬ行を指は走っていた。夕日に萌える草海が何時の間にか聴衆と化したように静まり返り、滔々と紡がれる言葉と共に吹き抜ける風がそれらを攫い乗せ、周囲に伝え広がっていく。
「……だけど、それでもその楔は揺る事が出来なかった。ただそこに在り続け、選ぶ事すら許されなかった。果てのない深き深き大海に没した楔は世界から忘れ去られ、揺蕩たゆたう世界はそれでも何事も無く在り続ける。来るべきユガに現れ、変化を齎した者。その存在の記憶を世界の内に押しやり、忘れ去られた時の渦中に封じ込めながら――」
 読み終え、パタンと音を立ててルティアは本を閉じた。
「生きる事、死ぬ事。在り続ける事、消え去る事。何一つ選ぶ事が出来ず、総てを迫られた。希望と言う光を背負わされ、絶望の路をただ独り往く……哀しき楔。世界に穿たれた人柱、英雄という矜持を貼られた贄」
 暖かさが失せ始めた風は、何処か悲哀と悲壮の感情を煽り立てる。真白な外套が夕焼けを映えながら虚しく翻っていた。
「……まるで『勇者』のようね。殺す事を望まれ、殺される事を畏れられる。世界にただ独りの人」
 ポツリと呟く。
 風に身を任せていたルティアは目を見開き、その暁色の双眸で哀に満ちた微笑を沈み往く夕日に向けていた。






 けたたましい程の金属音が部屋に鳴り響いた。
 止めの一撃を繰り出したカンダタは、何が起こったか理解できずに唖然としている。ただ、ユリウスの足元には不自然なくらい滑らかに切断されたウォーハンマーの半身が、独楽の様にくるくると回りながら転がっていた。鏡の様に滑らかに磨き抜かれたその切断面は、驚愕に眼を見開いている自分の顔を映し込んでいる。その先で、振り抜かれ、掲げられたユリウスの鋼鉄の剣が、鮮やかに赤く光り輝いていた。
 常識的に、鋼鉄の塊であるウォーハンマーを鋼鉄の剣で切り裂く事などできる筈が無い。いくらフォースを高めようとも、こちらもフォースを高めていた以上、元の腕力の差と武器の性質でこちらが競り勝つはずだ。運が良くても途中で斬撃が止まる筈。だが、目の前の光景はそのありえない筈の、常軌を逸した現象を実現していた。
「なっ……!?」
 信じがたい光景に我が目を疑い、カンダタは驚愕の声を上げるしかできなかった。
(一体、何が起きた……!?)

 何度目かの交錯の後、全身の傷から血が吹き出るのを厭わずに高らかと己の得物を振り上げる。そして、抵抗を諦めた様に俯き佇んだユリウスを、勢い良く振り下ろしたウォーハンマーが捉えた筈であった。

 眼を見開いたまま自問しているカンダタを嘲笑う様に、その右肩にユリウスはその赤熱化した刀身を突きたてる。
「ぐあああああぁぁぁぁっ!」
 カンダタの絶叫が部屋中に響く。
 傷口から肉が焼かれ、赤き血液が気化した黒い煙が、不快感を催す臭いと共に部屋中に充満していった……。
 纏った闘気の防御も打ち崩され、武器を掴む事も出来ず、脈動する激痛に顔を歪めながら両膝を床に着き項垂れるカンダタ。それを凍えた人形のような無表情で見下ろしながら、ユリウスは抑揚の無い声で呟いた。
「これで終わり、か。……残念だ」
 一つ吐いた溜息と共に赤光を放っていた刀身は、本来あるべき鈍色に戻る。その言葉がどこか遠くからのそれの様に耳朶を撫で、カンダタは自分の最期を悟っていた。
くう貪りて滾る炎よ。猛り昇りて力の刃とならん! メラ!」
 呪文が紡がれた刹那の後、高々と掲げたユリウスの剣に勢い良く炎が燈された。
 空気を舐め擦り焼く猛る音がその威力を物語っている……。

 頭に浮かぶのは、人の良い精悍な友の顔。目に映るのは、その血を引くという表情の無い端整な顔。
 死を眼前にして、カンダタは戦友オルテガの言葉を思い出していた……。
――カンダタ、お前の力、苦しんでいる人々を護る為に使ってくれ。
(……オルテガ、済まない)
 きつくカンダタは己の目を瞑る。
「じゃあな」
 ユリウスの冷徹な声と共に、その炎を纏った刃は振り下ろされた。




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