――――第一章
      第九話 暁光







 一行はアリアハン大陸東部にあるという、誘いの洞窟を目指してただ、ただ東に進んでいた。
 レーベ以東には大きな集落も無く、まともな宿すら取れない状況の中で、日が昇っているうちはとにかく先へ進み、傾き始めると安全そうな場所で野営の準備をする。東部地方には山脈が連なっているせいか小川が幾筋も平野に流れてきており、水に関しては何ら問題は無かった。
 休めるだけ休んで、魔物との戦闘をこなし、進めるだけ進む……。そんな日々が続いた。





「鬱陶しいな……」
 魔物の群れに囲まれている状況の中でも余裕からか、ユリウスは愚痴りながら執拗に飛び掛かってくるフロッガーに、左手に持った青銅の楯で強烈な当て身を食らわせ、空中で手足を虚しくばたつかせている処を右手にもつ鋼鉄の剣で上段から真っ二つに切り裂いた。分断された躯が地に落ちて、やがて音も無く消え去る。
 ユリウスの剣が一つ閃く度に確実に一匹、魔物は絶命していく……。
 その研ぎ澄まされた無駄の無い剣筋を、長い間旅をしているミコトでもそう見た事が無い。彼に同行してから数日しか経っていないが、その技量には目を見張るものがある。突進してくる一角兎に裏拳をお見舞いしながらユリウスの戦い振りを視界に捉え、その舞にも似た流れるような剣戟に内心舌を巻いていた。
 背後から突進してきた大アリクイの首を振り向きざまに真一文字に刎ね、その返す刃で頭上から襲ってきたさそり蜂を左に切り上げて一刀両断する。ユリウスは一太刀で襲いかかってくる魔物達を次々と斬殺していった。
 やがてこの戦闘の片がついた。
 ユリウスは剣に付着した血糊を振り払い、鞘に戻す。
 仕損じが無いか周囲を見渡した後、その様を横目に捉え、一息吐いてミコトはユリウスに歩み寄る。
「ユリウス。お前、その剣は誰に教わったんだ?」
「…………実戦で、常に魔物を殺し続けて来ただけだ」
 無表情に自分の掌を見つめながら、ユリウスは呟く。その戦闘の疲労をまるで感じさせない表情は、心の通わない冷たい仮面を想起させる。その言葉と表情にミコトの頬は微かに引き攣った。
 剣技だけで無く、瞬間瞬間での状況判断力。魔物を微塵も恐れない度胸。そして情動に捕われる事の無い程徹底した冷徹さ……。確かにそれらを養うには実戦を積む事が何にも勝る修練になるという事を良く熟練の冒険者達は口にするし、ミコト自身それを自覚していた。ただ、それを養う為に魔物と言えど他の命を奪う事を由としなかった自分にとって、淡々と語られるユリウスのそれはいささか癪に障り渋面を浮かべる結果となった。
 微かに声色を落し、昂ぶりそうになる気勢を抑え込んでミコトは続ける。
「……いつからだ?」
「さあ…。覚えていないな、そんな事」
 ミコトの視線と追求にウンザリして溜息を吐きつつそう言い、肩を竦めた後ユリウスは踵を返す。ミコトは納得いかないといった面持ちであったが、諦めた様にかぶりを振り追求を止めた。確かに、始めに訊ねたのは自分だし、その答えで気分を悪くしてユリウスに当たるのも虫のいい話か、と内心で思い至ったからだ。
 そして、自分の傍らで不安そうに二人を見ていたソニアに、心配無いよ、と優しく笑いかける。

 その様子を刹那、横目で捉えてユリウスは胸中で嘆息した。
 ミコトにはああ言ったが、実際のところユリウスは自分が初めて剣を握った時のその重み、初めて魔物を殺した時の震えを明瞭に記憶していた。だが、敢えて他人に話すような事ではないので誤魔化したのであった。
(他人に話した所で意味は無い、か)
 内心でごちりながら再び先頭に発ち、視界一面に広がる緑の草原に亀裂の様に走った煤けた街道を進み始めた。
 一連のやり取りを、一歩引いた形で傍観していたヒイロは無言で続く。ミコトもソニアを促しながら、戦闘の為に地に下ろした荷物を背負い直して歩き出した。
 ソニアは歩きながら先頭を往くユリウスに、猜疑と郷愁の入り雑じった複雑な視線を向けていた……。




 大陸東部に入り始めてから魔物の数が増し、度重なる戦闘に各自疲労の色が見え始める。
 それを見越しているように日も落ちてきた為、山岳地帯の手前の開けた盆地で何度目かの野営をする事になった。
 野営をする時は、決して火を絶やしてはいけない。
 小動物をはじめ、魔物も火を怖れる習性があるからだ。旅慣れたヒイロやミコトのアドバイスにより、ソニアにとって未だ数えるだけの経験しかない野営は、こうして穏やかに終えていくものだと感じられていた。

 その日は、ヒイロ、ミコト、ユリウス、ソニアの順で火の見張り番をする事になっていた。
 いつも野営で火番をするのはヒイロかミコト、ユリウスでソニアは旅に慣れていないという理由で気遣われていた。王の勅命で『勇者』であるユリウスを監視する任務を与えられた時からある程度の事は覚悟してきたつもりであったが、こう気遣われてばかりではいられないという事をミコトやヒイロに言って、今夜初めて火番をさせてもらえるようになったのだ。
 初めての体験だったので、多少心が浮かれていたのかもしれない。
 焚き火を見つめるその姿は、まるで新しい玩具を手に入れてはしゃぐ子供のように純真だった。揺らめく炎の赤は真紅の瞳を更に輝かせ、色の白い肌と浅葱色の髪を一層際立たせ彼女の美しさを引き立てていた。

 ソニアは焚き火に意識を投影しながら、もう決して戻る事の無い時間…過去の事を思い出していた。








 主よ……。
 大いなる精霊神ルビスよ……。
 その慈悲なる御心を以って、我等が罪深き人の子を救い給え……。
 その寛容なる御心を以って、さまよえる御魂に安息を与え給え……。
 その勇毅なる御心を以って、世に蔓延る悲しみと絶望を払い給え……。

 遥か東の空から昇ってきた太陽が、朝靄あさもやに霞む街中を優しく照らし始めている。
 明ける街並に、幽艶とその麗美な姿を現すアリアハン教会大聖堂。鎮まり切っていない朝靄を纏うその様は、その場所の神聖さと、清廉さを惜しみ無く醸し出していた。
 堂塔に備えられた鐘楼の鐘、ルビス教のシンボルを示す十字と円の聖印。そして煌やかな色彩を誇るステンドグラスに、昇る太陽の光が分け隔て無く降り注ぐ。
 光輝に満ちた外観に反して、その内は実に厳粛と広がる薄闇が支配していた。
 調和の取れた左右対象シンメトリーの礼拝堂。規則正しく並べられた木製の古ぼけた長椅子。遥か高くに構え優雅な彫刻が成された丸屋根ドーム。奥に厳かに佇む天蓋を翳した祭壇。そして、穏やかに微笑むような精霊神ルビスをかたどった神像。
 この薄暗さを醸す青と白の虚空に意識が吸い込まれてしまいそうな、荘厳さに寒気さえも覚えてしまうような静寂が支配する礼拝堂の中心。静けさの余り生れる耳鳴りが賛美歌の様に聞こえてしまう雰囲気の中、主と仰ぐ精霊神ルビスの神像に跪く様に膝を折り、両手を組んで祈りを捧げている者の姿があった。その者…少女は一心にその双眸を閉じて黙祷を捧げている。堂衆のシスター達が扉の向こうの回廊で慌しく行き来しているのが微かに聞こえてきた。

 やがて、朝陽の動きと共にステンドグラスの窓から射し入る色鮮やかな光が、洗礼の如く少女に降り注ぐ。その神々しい光を浴びて、浅葱の髪は麗らかに透ける。宙をゆっくりと舞う埃が射し入る光に煌き、少女がその光に温かさを感じ始めた頃、礼拝堂の端にある扉が開かれた。その木の軋んだ音がしたので少女はゆっくりと瞼を上げて、そちらへ紅い視線を移す。
「姉さん、どうしたの? こんな朝早くに……」
 その言葉と視線の先には、彼女の姉とも言うべき少女がこちらに気付かずに何かを考えているのか、俯きながら歩いていた。
 翡翠色の外套を羽織り、紫銀の長髪を背に流している。整った眉に、高い知性と強い意志を湛える夕日を彷彿させる茜色の眼。そして何より眼を惹くのは、彼女が被っている『賢者』に与えられる銀製のサークレット。額に位置する部位にあしらわれた紅蓮の宝珠が、薄暗い室内でもその存在を顕に主張している。
 手に賢者のみが持つ事を許された杖を握り、急ぐように大股で歩みながら、自身に掛けられた声に気付いた彼女は、凡そその端麗な容姿に似つかわしくない言葉使いで声を上げた。
「ん? ソニア。今日は随分ゆっくりだな……。神官学校は無いのか?」
「……姉さん、今日は‘精霊の祝日’よ」
 姉の言葉に、少々呆れた様に溜息を洩らしながらソニア。

 アリアハン王国に住まう殆どの国民が信仰している精霊神ルビス。
 その聖典の教えの中にある一節。
『世に生きとし生ける総ての命を愛し、慈しみ、称えるべし。如何なる存在も、その霊魂の価値は等価である』
 そのルビスの教えの下に、その日は血を見る事、触れる事を禁じられ、そしてそれを想起させる如何なる諸活動をも禁じている。
 そんな所以もあってアリアハン王国では、この日は安息日として、週に一度の国民の休日という制度が大昔から執られていた。この祝日を、大抵の国民…ルビス教徒の人間はアリアハン大聖堂を訪れて終日ミサを行い、ゆっくりと穏やかな一日を過ごす。…それが‘精霊の祝日'である。

 そんな実家での日常行事ともいえる事をすっかり忘れていたソニアの姉は、今更ながらに納得して頷いていた。
「ああ、そう言えばそうだったな……」
「姉さん、忙しすぎるんじゃない?」
 姉の恍けた反応に、苦笑を浮べながらソニアは心配する。
「そうでもないよ。これでも今は結構、暇なんだ。何分仕事が減らされて……」
 肩を竦めながら、彼女は呟いた。ただ、言葉とは裏腹に声色は嬉しい時のそれと同じであった事にソニアは首を傾げる。よわい十五で異例とも言える若さと早さで宮廷賢者の任に就いていた姉の、宮中での職務について詳しい話を訊いた事が無かったからそれ以上追求する事を止めた。
 そこで、本題である姉の行動について訊いてみた。
「……こんなに早くに、何処かに行くの?」
「まあ…そうだな。バウルがユーリ…いや、ユリウス、『勇者』を連れて来いって言っていたからな」
「え!? 姉さん、『次期勇者様』に会った事があるの?」
 彼女が『勇者』という単語を言う時、僅かに眼を曇らせていたという事に、ソニアは気付かなかった。ただ、言葉の内容に酷く驚いていたからだ。その為、姉がユリウスの名前を言い直した事も記憶には残らなかった。
 アリアハン王国が世界に誇る英雄、『勇者』オルテガの子息にして『次代勇者』として国中からその成長が期待されている少年。そして姉に並び、ソニアが敬意の念を抱いている名立たる十三賢人……。
 ソニアの興味は、既にそちらに動いていた。
 義妹の驚き様に苦笑しながら、義姉は言う。微かに、落したままの声色で。
「……言ってなかったか? 私は今、彼の魔法訓練を担当しているんだ」
「聞いてないわよ!!」
 そんな大事な事を、と付け加えソニアは姉を諌めた。
 義妹の剣幕にやや、押され気味になりながら。
「そ、そうだったか?」
「そうよ! ……ねぇ、『勇者様』ってどんな方? やっぱり噂通り素晴らしい方なの?」
 市井で流れている噂…容姿端麗で品行方正。清廉潔白で文武両道。まさに非の打ち所の無い完璧な少年。『次期勇者』ユリウス=ブラムバルドには、そんな夢物語にでも出てきそうな人物像が定着していた。
 何かに憧れる少女が持つ、特有の艶を真紅の双眸に載せながらソニア。その問いに、何故か苦笑が返って来た。
「どんな……そうだなぁ。まず無表情で無愛想。あまり感情の変化が顔に出ない」
 楽しそうに一本ずつ指を立てながら、義姉は続ける。
「一人でいる事が好きで、他人を寄せ付けない所もあるな。淡白そうに見えて以外に負けず嫌いで、何度も魔法で私に挑戦してくる。あ…あと、少し捻くれていて口も悪いな」
「え……。そ、そうなの? ……な何だか姉さん見たいね」
 姉の語る現実が想像とまるで違い、ソニアは抱いていた『次期勇者』の人物像を木っ端微塵に粉砕された気分になる。語られる特徴が姉のそれに酷似している事を思わず言ってしまって、慌てて口を抑えた。
「そうかなぁ? ……ってソニア、それはどう言う意味だ?」
 少しむくれて頬を膨らませている姉に、ソニアは笑い出す。
 家で会う時はそうでも無いのだが、宮中で擦れ違う時などの公の場では姉は感情を表に出さず、常に毅然と振舞っていて、周りに対して壁を作っている様に見えていた。だから、姉が他人の事をそう嬉しそうに話す事にある種の違和感を覚えながらソニアは続ける。
「ふふ……。でも、嫌いじゃないんでしょ? 『勇者様』の話をしている時の姉さんって、何だか楽しそうだし……」
「ま、まぁな……。じゃあ、行って来るよ」
「行ってらっしゃい、セフィーナ姉さん」
 そう言われて狼狽し、微かに頬を紅潮させながらセフィーナは入り口の扉へ歩き出す。
 その後姿をどこか羨望の眼差しで見詰めながら、ソニアは義姉セフィーナを見送っていた……。

――今から、約一年前の出来事だった。



 そして……、何もかもが変わってしまった半年前。魔物群による王都アリアハン襲撃事件。
 それを退けた功績を以って、ユリウスはアリアハン王国の救国の英雄として『勇者』の称号を得た。
 同時に、無為に散った『理慧の魔女』は‘役立たず’などという謂れの無い汚名を着せられて、『勇者』という栄光の影で、人々の記憶の中から追いやられていく……。

 アリアハンに住む誰もが、事件の真相を知らない。語らない……。
 宮廷に給仕する同僚達も、国家を護る騎士達も、事件の恐怖からか目と耳を塞ぎ、『勇者』の栄光に縋っている。そして何より実の両親でさえも、事件の真相を知らないと曖昧にし、私にその追求を止めさせようとする。
 ただ一つはっきりしている事。それは……。

――私の好きだった姉さんは二度と帰らぬ人になった……。








 回想から回帰したソニアは、夜の冷気に思わず身震いする。
 夏といえども真夜中は冷え込む。その為、旅用の丈夫な毛布を肩にケープの様に羽織り直し、焚き火の前で自分の膝を抱いて燻る炎に薪をくべる。
 パチン、と薪が鳴った。

 ふと、視線を上げるとソニアは仲間と少し距離を置いて休んでいるユリウスの姿を目にした。彼は焚き火に背を向け、毛布を被って横になっていた。そんな無防備な姿を見てソニアの脳裏にいつかの彼の言葉が甦り、木霊した。

――憎みたければ、憎めばいい。呪いたければ、呪えばいい。
 ハッとしてソニアは頭を横に振った。
(いけない…。神に仕える身でありながら、こんな事考えてはいけない)
 だが、彼は容認した。王宮内で囁かれているあの噂を……。
 自分がユリウスに猜疑の目を向けるようになったのは、神官学校の同期の友人と城内を歩いていた時に耳に入った噂話……。信じたくは無かった、自分にとって許す事の出来ない事。それをユリウスは認めたのだ。
(認めた…。つまり、姉さんは………)



 初めてユリウスに会ったのは、姉に無理を言って紹介してもらった時。
 いつか聞いた、姉の特徴と一致した人物で驚いていたけど、姉と共にいるその姿は、どこか楽しげで、優しげに見えた。姉も姉で、普段見た事が無いような柔らかい表情をしていた。



――殺したければ、殺せばいい。
 そんなユリウスの言葉が、またソニアの頭の中で響く。
(いけない…。復讐なんて、考えてはいけない)
 頭では理解できているけど、心は納得してくれない。そんな葛藤がやがて衝動に変わる。
 いつの間にかソニアはそっとユリウスに近づいていた。その白くしなやかな手が黒のハイネックに覆われた首に触れるや否やの瞬間だった。突然ユリウスが眼を見開いたのだ。
「………っ!!」
 傍から見れば、ソニアが横たわるユリウスの顔を上から覗き込むように前傾な体勢をとっている。対するユリウスは肘を地に立てるでも無しに、ただ地面に仰向けに横たわっている。二人は暫しそのままの体勢で見詰め合う。
 真紅と漆黒の双眸が間の沈黙の空間を越えて絡み合う中、焚き火の暖色を反している漆黒の鏡面に、大きく眼を見開いて驚いた顔をしているソニアの姿が何とも滑稽に映っていた。
 それに今自分が何をしているのかを覚り、ゴクリと息を呑み込む。その慟哭が呪縛を解いたのか、ソニアは驚いて後ずさり尻餅をつき、咄嗟に両腕を構えて顔を隠した。ソニアは咎められる事も、殴られる事も覚悟し目をきつく瞑り、歯を食い縛った。……が、いつまで経っても来ない衝撃に、ソニアは恐る恐る目を開く。
 ユリウスは眼前にいる自分のそんな様子を気にする事も無く、周囲に気を張り巡らせている。鋼鉄の剣は既に鞘から抜きはなたれており、鈍色の刀身が焚き火の温かな光を受けて金色に染まっている様に見えた。
「七……九匹、囲まれているな」
 そう呟くとユリウスは立ち上がり、自分の横の地面を蹴って闇に消えていった。
「えっ……!?」
 ソニアが唖然としていると、ユリウスが消えていった闇の方角から悲鳴にも似た魔物の断末魔の叫びが、生々しい血の匂いと共に夜風に乗って聞こえてきた。
 それを聞いてミコトやヒイロも飛び起きた。
「魔物!?」
 瞬時に二人は戦闘体制に入る。その辺はさすがに旅慣れた冒険者である。火元を守るように囲む。
 ソニアもやっと状況が飲みこめたのか、二人のそれに倣う。そうこうしているうちにも、次々と魔物の肉と骨が断ち斬られる音が周囲に響きわたる。




 やがて、その音と共に魔物の気配が止みユリウスの姿が闇から現れる。頬に魔物の青い返り血を浴びていた。焚き火の光が魔物の青い血を照らし出し、ユリウスの漆黒の眼は揺らぐ事無くその光を映していた。
「……もう、片はついた」
 それだけいうとユリウスは先程寝ていた場所ではなく焚き火の直ぐ側までやってきて腰を下ろし、懐から取り出した布で頬の血を拭う。
「よく気がついたな。寝てたんだろ?」
 気配を察知する事に長けた武闘家のミコトは感心した。それに対しユリウスは素っ気無く答える。
「……別に大した事ではない。ただ殺気・・を感じただけだ」
「こういうのに慣れているのか?」
 至極落ち着いた様子から言葉通りなのだと思う。ヒイロは興味本位で聞いてみた。
「まあな…」
 ユリウスは他人に気付かれないくらいの微苦笑を浮かべながら、焚き火に薪をくべる。炎に放り込まれた薪は、新鮮な空気を貪りながらパチパチと燻る音を発て、夕焼けのような紅蓮に染まり光を灯す。その様子を茫洋とした漆黒の眼で眺めていたユリウスは、火を挟んで前に座るソニアに視線を移した。
「もう休んでいいぞ。俺が火番をする」
 ユリウスの申し出にソニアは微かに震えた声を上げる。自分のしようとした事が後ろめたさとなって尾を引いたまま……。
「え、でも変わってからそんなに時間経ってないけど……」
「いい。何処かの僧侶サマに、寝込みを襲われるのは御免蒙る」
「なッ…!?」
 ユリウスの意味ありげな発言に二人の視線がソニアに集中する。三種の視線を受けて、ソニアの白い顔が見る見る赤く染まっていく。決して、焚き火のせいだけではないはずだ。
 自分の行動が看破されていた事と、語られる言葉にソニアは声にならない声を出す。やがて居辛くなったのかソッポを向いて俯いた。
 ミコトはソニアに何かを言おうとしたが、ヒイロが肩に手を置きそれを宥める。静観しろ、という意志表示だろう。
「言っておくが、あんなに殺気を漲らせていたら、俺でなくても気付く」
 続くユリウスの言葉にソニアは、ハッとして振り向く。焚き火の光加減のせいかユリウスの表情は穏やかに笑っているように見えた。それに一瞬見とれていたが、直ぐに頭を振って横になる。顔が火照っているのが自覚できた。
 余人には口の挟む込む余地の無い濃密な雰囲気に、そんな様子の二人を見てミコトは敢えて深く追求せずに横になった。
「じゃあ、頼む」
「ああ」
 ユリウスはそう返事をして焚き火を見つめた。






 東の空がほんの少し明るんできた気がする。それは闇夜を切り裂くには充分な程の光だった。
 焚き火を眺めながらユリウスは考える……。



 深淵な闇夜にも必ず朝が来て、陽光が差し込み光をもたらす。
 それが世の理であったとしても、自分の中の闇には決して光が差すことは無いだろう。それは自分でも、充分理解している。
 自分は闇に身を置くことを自身で望み、そして光を拒絶した。
 それは誰に強制されたでも無い、自分の意志。



 色付いてきた空の色は、暁光に染まる朱一色だった。
 そんな、空を茫然と眺めていると、フッと瞼の裏に焼きついた光景が広がる。





―――漆黒の夜空に浮かぶ満天の星々、その中で一際輝く翠白の満月。
 身を切る冷たい風に乗り、周囲に鳴り響く獣の遠吠え。
 月光に映え、青白く淡く輝く冷たい白き刃。
 滴る紅雫、巡る波紋。そして、狂い咲いた一輪の花。
 赤く、紅い、緋色の花……。
 冷たく地に横たわる、紫銀の髪と白い肌の少女の上に―――。





「っ!!」
 ユリウスは眼を見開いて思わず声を上げそうになるが、何とか理性でそれを押し止めた。
 爪が喰い込む程に力強く自分の両肩を抱きながら長く深呼吸をして、もう一度空を見上げると、それはあの時・・・の血のような紅一色に見えてしまう。
 咄嗟に両手で頭を抱え込んで、何もかもを拒絶する様に眼をきつく閉じる。動悸が激しくなっているのに眉間に皺を寄せて力を込め耐える。強く歯を食いしばり身体が震えた。視覚が閉ざされた分、聴覚が敏感になり同行者達の安らかな規則正しい寝息と、焚き火の燻る音が酷く大きく感じられる。頬をねっとりとした汗が伝わり、朝の冷気がそれをのっそりと、不快感を煽るように撫でていく。
 頭を抱えていた手の甲で汗を拭い、髪を掻き回していた指先がサークレットの額の上にある紅い宝珠に触れると、水を掛けられた様にユリウスはようやく平静を取り戻した。荒れていた呼吸も、血流も静かに淡々としたリズムを刻む。

 再び瞼を閉じユリウスは思案に耽る。



 この闇の路を歩み続けるには、自分は独りでなければならない。
 猜疑と欺瞞に満ちたこの世界、誰にも気を許さなければ進んでいける。闇の中で、光を求めて足掻こうとしない限り、この想い・・が絶える事は無い。決して、……絶やしてはならない。
 それに……、どんな理由であれ、王宮で流れているあの噂………。
 自分がソニアの義姉セフィーナを殺したのは、紛れも無い真実なのだから…………。





 黎明の時は過ぎ、色付いてきた薄い青空を鳥達が舞い始めていた。
 軽やかに歌われる鳥の唱歌は、どこか遠い昔に聞いた事が有るような気がした。




back  top  next