――――第一章
      第七話 離婁りろうの老賢人







 最上階とおぼしき部屋に、その老賢者はいた。
 その部屋は他の階下とは明らかに異なり生活に必要な調度品、絨毯や卓、安楽椅子。壁一面を覆い尽くす程の本棚が持ちこまれており、隙間無く魔道書が陳列され、生活感に満ち溢れている。
 心地良いリズムを刻む安楽椅子が、この空間に安穏とした雰囲気を演出している。
 使い古され、年季の入った本棚に並ぶ古書のほのかなカビ臭さが、廉潔とした練達さを主張している。
 そして何より階下と異なるのは、邪なる魔物特有の、生物が生来併せ持つ危機感を煽る冷鈍とした気配が微塵もしない。そんな清涼さがこの部屋を満たしている。

 凡そ何かの研究の為に、思案と思惟に没頭する空間としては最適の環境が、そこには在った。
 ナジミの塔の最上階。世界に名立たる十三賢人の一角、『智導師』バウル=ディスレビの住処である。






「阿呆か、お主は」
 名立たる老賢者の第一声がそれだった。
 重々しい扉を開け、部屋の敷居を跨いだ途端に掛けられたこの言葉に呆気に取られたのは、ユリウス以外の三人であった。三人が三人共、開いた口が塞がらないといった面持ちで硬直する。
「……いきなり随分な言い様だな、ジジイ」
 いきなりの言葉に固まっている周りの様子を歯牙にも掛けず、横柄に返しながら部屋の中に進むユリウス。
「阿呆に、阿呆と言って何が悪い。全く、瞬間移動魔法ルーラで来れば一瞬じゃったろうに……」
「生憎、使う気分では無かったからな」
「お主の我が侭で三日位は損をした気分じゃ。生い先短い爺の貴重な時間をどうしてくれる?」
「……知るか。遅かれ早かれ、あんたがこの塔から出ないと言う事実は変わらないと思うな」
 言いながら肩を竦め、本棚の傍に有った椅子に腰を下ろしながらユリウスは言う。茫洋と書棚を一瞥して、目に付いた古めかしい魔道書を取り出しては、パラパラと捲る。微かな黴臭さが鼻を突いた。
 老賢者はそんなユリウスの行動を、穏やかな視線で眺めながら伸び切った白い顎鬚あごひげを弄ぶ。
「……お主、わしを何だと思っている。わしとて腹が減れば食し、酒も嗜む。英気を養う為に酒場にも出向くぞ」
(一体、何の英気なんだか……)
 鬚をきながらくるくると指を回し、飄々と語るバウルにユリウスは半眼を向けながら大きく溜息を吐く。が、その仕草には心なしか何時ものような冷淡な感じはしなかった。もっとも、他の三人は今までのユリウスと老賢者のやり取りに、刻が止まったかのように固まって立ち尽くしていた為、それに気付く事は無かったが……。

「まぁ、何時までもそこに立っていても疲れるじゃろう。席に着きなされ」
 ここで漸く、バウルの青い双眸は部屋の扉の前で屯したままの三人に向けられる。その声色は今の今までユリウスに掛けられていたものとは異なり、名立たる賢者としての威厳が篭った粛然としたものであった。
「…は、はい」
「失礼します」
 その重み有る声に気を取り直したミコトとヒイロは、促されるままに部屋の中央にある卓に歩み寄り、椅子に腰を下ろす。
「…………」
 唯一人、未だに扉の前で唖然と眼を見開いて、立ち尽くしているのはアリアハン宮廷司祭、僧侶ソニア。
「……ソニア?」
 普段らしからぬ様子に、首を傾げながらのミコトの声にも反応を返さないソニア。
 彼女の胸中では、眼前の余りにも俗っぽい老人に、憧れを抱いていた人物像が粉々に壊された気分でいっぱいだった。失礼だと頭ではわかっていても、素直過ぎるその表情は心の中を明瞭に映し出す。
 それに気付いてか、苦笑しながらバウル。
「想像とは違ったかの? 世に知れ渡っている人物像がどうであれ、これがわし・・という人間じゃよ。お嬢ちゃん」
「…………」
「ご、ご無礼をお許し下さい、バウル様!」
 咎める様子など微塵も感じられない穏やかなバウルの声に、ソニアは逆に身を竦ませてしまった。羞恥と自責でその白い頬を真っ赤に染めて、腰を折って深く深く頭を下げる。
 ミコトはミコトで先日、『勇者』であるユリウスと対峙した時の経緯を思い出して渋面を浮べる。あの時のユリウスの言葉が、遠雷のように脳裡を過ぎっていた。
「よいよい、気にしなさんな。わしもただ懐かしいやり取りをしたまでじゃ」
「?」
「…………」
 老賢者の言葉の真意が掴めずに、少女二人は首を傾げる。
 バウルの視線はユリウスに向けられたまま、遠く何かを思い出す様に眼を細めていた。
 ユリウスはそんな視線を受けながらも、魔道書の頁に目を走らせたまま合わせようとしない。ただ、ほんの僅かに眼を細めていたが、普段が無表情である為、その変化に気付く者はこの場には老賢者のみだった……。

「それで、呼びつけた要件はなんだ?」
「そう、急くでない。今、茶でも煎れよう」
 このまま昔話でも始められては堪らない、とユリウスはバウルの視線を無視して、話を進める。だが、あくまで自分のペースで飄々と語る老人に、イライラしてきたユリウスは語調を強めた。
「生憎と、あんたの長話に付き合ういとまはない」
「お主は、この塔に慣れておるからの。他のお仲間には少々きつかったのでは? のう、お嬢ちゃん……」
「は、はい。え? あの……」
 いきなり話を振られてソニアは思わず声を上げる。未だに緊張が解けていないのか、その声は上擦っていた。
「ほらのぅ…。焦りは禁物じゃて。そんなに急かすと何を言おうとしたのか忘れてしまうのぅ」
 してやったり、と云わんばかりに老人は深く刻まれた皺を崩し口元に笑みを浮べる。その好々爺然とした老賢者の仕草に、完全に手玉にとられている事が判ったユリウスは、他の人間にも聞こえる様に舌打ちをする。
「……クソジジイ」
 ユリウスはそう捨て台詞を吐いて、再び本に視線を戻す。
 このやり取りに半ば蚊帳の外となっていたミコトとヒイロは、ただ苦笑を浮べる他なかった。




 老賢者バウルの前にソニア、ミコト、ヒイロの三人が座り、それに距離を置いてユリウスは陣取る。
 老人の煎れた茶は不思議な事に、これまでの疲れを癒しているように感じられた。
「失礼ですが、老師とユリウスの御関係は?」
 ヒイロは丁寧にバウルに尋ねる。先程からのユリウスの反応から親しい関係にあるのは予想はできたが、いまいち掴み切れずにいた。その問いに苦笑しながらバウルは再び、長く伸びた白い顎鬚を弄ぶ。
「何、魔法の手解きを何回かしてやっただけじゃ。どちらかといえば、小僧の祖父と父との交流が深かったというだけじゃな……」
 懐かしむ様に視線を遠くに泳がせながら言うバウルの様子に、語られる言葉以上の感情が篭められているのをヒイロやミコトは感じ取った。それは孫の成長を見る祖父のそれに酷似していたからだ。
「……バウル様。私達に渡したい物とは何なのでしょうか?」
 想像していた人物像が壊れたとはいえ、敬意を抱いている事に変わりは無いソニアは賢者バウルと話す事ができて心底嬉しいのか、声は嬉々としている。
 ミコトはそんなソニアを微笑ましく、温かな優しい眼差しで見つめ、ヒイロは出された茶の効能に興味が沸いたのか、検分する様に啜っている。ユリウスは相変わらず魔道書を茫洋とした表情で読み耽ったままだ。
「ふむ、実はこれを渡そうと思っての。……お主に渡しておこう」
 そう言って来訪者達を一瞥し、バウルはヒイロに木製の古ぼけた鍵を渡した。
「……これは、盗賊の鍵ですね」
 ヒイロは渡された鍵をまじまじと見つめ呟いた。
「ほう、よく知っておるの。さよう、それは盗賊の鍵。盗賊バコタが作り出した、なんとも迷惑な代物じゃ」
「そうですね。たぶん、普通の錠なら、大抵開く事ができるんじゃないですか」
「そんなものを、何故貴方が?」
 ヒイロとバウルの会話に首を傾げたミコトが口を開いた。アリアハン国内でその名が知れ渡っている盗賊の名と、彼の者の所有物らしき物を眼前の賢者が持っている事に疑問を抱いたからだ。
 その質問に、年月によって刻まれた皺を一層深くしながら、バウルはにこやかに答えた。
「なに、あの盗人。こんなものを作ってわしの処に盗みに入ってきたからな。これを、取り上げて憲兵に突き出してやったんじゃ」
 そう言ってバウルは安楽椅子の背もたれに身体を預ける。朗らかな木の軋む音が返ってこの安穏とした空間に心地良く響き渡った。
「はあ…、さすがバウル様。でも、何故これを私達に?」
 敬意の念を向けている相手の話に、感心し切ったソニアは誰もが思っていたことを口にする。その言葉を待っていたかの様に老人はニッコリと笑みを作り、自身のカップに注がれた茶で喉を潤す。
「うむ。夢じゃ」
「夢?」
「予知夢を見たのじゃ。この鍵を必要とするお主らの姿をな」
 老人の答えにソニアは驚いた表情をする。偉大なる魔力をもつ賢者は未来を視る眼を持つ事が出来るのか……。ソニアの表情はそう物語っていた。見れば横に座るミコトやヒイロも同様の反応を示している。

「ハッ……、夢ね。年寄りの妄想に俺らは付き合わされた訳だ」
 周りの空気を完全に無視して、ユリウスは何の感慨も無く嘲笑うかのように声を上げる。これには流石に、今までの悪態を流してきたバウルも黙っていなかった。
「……小僧。お前は少し柔らかくなったらどうかの。その方が何事も穏便に済む」
「そんなものが何の役に立つ。……俺には必要無い」
 同行者達からその言葉が発されたのであればユリウスは聞き流したであろうが、バウルの言葉をユリウスは剣呑とした目つきで即座に否定した。
「そうかのぉ? 少なくとも以前のお主は……」
「五月蝿い」
 眼を細めながらのバウルに、座っていた椅子を勢い良く押し飛ばして立ち上がる。そしてユリウスは一切の感情を破棄した、冷え切った視線をバウルに送る。全てのものを拒絶する意志の顕れである、絶対的な冷たさを宿す眼。仲間達はその殺気にも似た冷たい視線に、思わず身を強張らせた。
「つまりは…そう言う事か……」
 賢者たる所以の、物事の本質を見抜く慧根えこんを宿した青い両眼でしっかりとユリウスを見据えながら、バウルはしみじみと納得する。そんな様子がユリウスの精神を逆撫でするであろう事を承知した上での事である。
「黙れ、それ以上言うな……」
 抑揚無く言葉を紡ぎ、バウルに近づきながらユリウスは腰の剣を引き抜く。そして、小さな窓から射し入る真昼の陽の光に反射する、その鋭利で冷厳な切先をバウルの喉元に突き当てた。眉を寄せ、黒曜石の眼には自身の内に残された一点の黒い光を爛々と宿らせて、ユリウスはバウルを睨みつける。
 射殺す様に鋭く、懇願する様に儚く……。抜剣の際の音の余韻がそれに拍車を掛けるように、鎮まり返った空間に響き渡っていた。
「わしは、お主に殺されるのは構わぬよ」
 喉元に突き付けられた冷たい切先と、抜き身の刃の様に鋭い視線にも臆する事なく、悲哀に満ちた視線でバウルはユリウスを見つめる。
 親しき者への親愛、そして許される事の無い罪への贖罪……。
 バウルの視線に込められた意味を知るのは、その視線を真っ向から受けている少年だけであった。
「……黙れ」
 二人の間の事情を知る由もない周りの三人は、言葉を発することすら出来ない。
「わしらの罪は消えぬよ。お主達二人・・に全てを押し付けてしまった、わしらの罪はな……」
「だ、まれ……」
 何時の間にかユリウスの声は普段の彼からは想像できない程に震え、消え入りそうになっていた。

 その変化に、やがて呪縛の解けた三人がユリウスを止めにかかる。
「ユリウス、止めろ!」
 ミコトが剣を握るユリウスの利き腕を掴む。心無しか彼は震えているのを掌から感じ、ミコトは訝しそうに眉を寄せる。
「とりあえず、落ち着くんだ」
「……ユリウス?」
 ヒイロが肩を掴みユリウスの体を後方に引き離し、ソニアがバウルとユリウス。その両者の間にその身を滑り込ませた。
 三者とも普段のユリウスらしからぬ反応に怪訝な表情をする。普段であれば、歯牙にも掛けずに無視するであろうと思っていたからだ。そんな訝しむ周りの視線に気付いてか、ユリウスはハッとして我に返り、拘束を解いて剣を鞘に納めた。
 振り向き様の刹那の間に意味深にバウルを一瞥すると、ユリウスは踵を返して部屋の外に出て行こうとする。何かを小声でブツブツ呟いて扉に手をかけ、開くと同じにその言葉を口ずさんだ。
「ルーラ!!」
 瞬間移動呪文を唱えたユリウスは燈々と脈打つ青白い光を纏い、一筋の光と化してその場から消え去る。流星の軌跡の様に、光の尾が余韻としてその場に残っていた。
 開け放たれた扉から、上空の冷たい風が部屋の中に吹き入ってきた。部屋の脇の小さな卓の上に無造作に置かれていた魔道書の頁が風でパラパラと捲られて、その音が沈黙していた部屋の中を虚しく響き渡る。風が止むまでその場にいる者達は声を挙げる事も、動く事も出来なかった……。




「……い、今のは?」
 ユリウスが唐突に消えたことにミコトは驚愕した。そんな目を見開いているミコトを宥めるようにバウルは部屋の扉を閉めて、口を開いた。
「今のが瞬間移動魔法ルーラじゃ。なに、行き先は知れておる。心配はいらん」
「ですが、バウル様……」
 ソニアは恐る恐る言葉を紡ごうとする。垣間見た悄愴と去るユリウスの姿は、何時ものように周りの事などに気にも止める事の無い冷然冷淡なものでは無かったからだ。彼に疑念を抱いていても、その様相の変化には唯ならぬものを感じて不安になる。
「とりあえず、落ち着きなされ」
 老賢者に促され三人はそれに従う。カップに注がれた茶は既に冷え切っていた。
「老師。今のは一体どう言う事なんですか?」
 二人の少女よりは幾分か冷静なヒイロは事の顛末…特に情感の乏しいユリウスの激昂の原因を尋ねたが、バウルからの返答はそれに見合う事の無い全く別のものであった。
「……今の小僧の中には闇しか存在しない」
 目を伏せながら語るバウルの言葉は、三人にはいまいち理解できなかった。しかし、ここで話の腰を折るような真似は誰もしない。
「人が元来持って生まれる光。手を伸ばせば誰にでも届き、掴む事の出来る筈のそれを奪われた者は、何を導として歩みを進めるのじゃろうか……。やがてその歩みすら否定された時、何処まで堕ちていくのじゃろうか……」
「……バウル様?」
 苦々しい表情で理解しがたい言葉を連ねるバウルに、ソニアは声を微かに発する事しか出来い。その重苦しい雰囲気にヒイロもミコトも固唾を飲んで聞き入っている。
「すまぬ……。わしにはこれしか言う事が出来ぬ。小僧自身の口から発さない言葉に意味は無いのじゃ……」
 バウルはテーブルに両肘を突き、眉間の上で手を組む。半ば神に祈りを奉げるような仕草で、ただ目の前の若者達に向き直っていた。その様は、まるで実家である大聖堂で司祭の父に懺悔をする者達…許されざる罪を犯した者の纏う後ろ暗さと、それに伴う感情に満ちているようソニアは感じた。
「……老師」
「すまぬ」
 額の皺を寄せ苦渋に満ちた表情をしながら謝罪の言葉を述べる老賢者に、誰一人言葉を繋ぐ事は出来なかった。ただ三人とも、知り得ない事情と感情が入り乱れている事だけは感じる事ができた。
「代わりのつもりではないが、お主等のこれから取るべき行動を示そう」
 皺を更に深く刻み込む様にきつく瞑られていた眼を開き、威厳のある声でバウルは言う。
 これからの道程……。それを既に理解していたミコトはバウルに尋ねる。凛とした淀み無い声で。
「……アリアハン大陸からの脱出についてですか?」
「うむ」
 バウルは力強く頷きながら、眼前の若者達を見据えた。




 老賢者バウルからアリアハン脱出の術を聞いた三人は、ほぼ同時に息を吐いた。
 すると先程から何やら俯いて考え込んでいたソニアが顔を上げる。
「バウル様……。先程のお話に出てきた、二人・・というのはユリウスと……姉さんですね?」
「……そうじゃ」
 ソニアは紅の瞳は、いつもの柔らかい物ではなく、強い意志の篭められたものであった。その視線をバウルは真っ向から受け取り、やはり来たか、と内心でごちりながら苦々しくそれを肯定する。
 隣に座るミコトは、いつものソニアらしからぬ様子に首を傾げながら、その人物の事を聞いた。
「ねえ、ソニア。貴方の姉上殿とは?」
「ええ、ごめんなさい。話していなかったよね……。姉さん…セフィーナ=アルフェリアという名前で、私の義姉あねなの」
 姓が違う事に違和感を覚え、ミコトは眉を寄せる。
「義姉?」
「うん。それで……」
 なかなか言い辛そうにしているソニアを見兼ねたバウルが苦笑しながら助け舟を出す。
「セフィーナという名は、アリアハンで知らぬものは居ない。が、この国の者ではないそなた等には馴染が無いのは当然じゃろう」
「はあ……」
 ミコトは力なく相槌を打ち、ヒイロも無言で頷く。
「じゃが、彼女にはもう一つ世界的に名の通った二つ名があるのじゃ」
「それで、その名とは?」
 ヒイロが尋ねると、バウルは一呼吸置いてその名を口にした。
慧眼けいがんを以って真理を解し、慧敏けいびんを以って魔を隷する者……。即ち“理慧の魔女”」








 海面から昇る水分を充分に含んだ潮風がしっとりと頬を撫でていく……。
 眼下では、断崖絶壁に打ちひしがれた波が白い飛沫となって、風に乗り軽やかに空を舞う。その一粒一粒の水晶が夕日の柔らかい光を受けて、金色の流星となり海に還る。
 この絶景と言い表すに相応しい地は、王都アリアハンの南に位置する岬。
 魔物が街の外に跋扈するようになってから、ここを訪れる者はほぼ皆無と言っていいだろう。
 その地の空に一番近く見晴らしの良い場所に、一つの十字架と一人の影が佇んでいた。
 茜色の夕日を浴びてもその漆黒の髪の色は変わる事の無い、ユリウスは十字架の前に立ち尽くしている。その茫洋とした表情は誰にも見せた事がない歳相応の弱々しいものだった。
 その眼前、枯れ木を十字に括り付けただけの十字架には、所々に黒ずんだ染みが侵食しており、雨風に晒されても尚、輝きを曇らせる事の無い蒼穹の宝玉をあしらった銀のサークレットが、十字架を護る様に、抱く様にぶら下げられていた。
 その蒼穹の宝玉が、動く夕日の光を受けて煌くと、共鳴しているかのようにユリウスの被るサークレットの紅蓮の宝玉も光を翳す。
(……ィ)
 ユリウスは胸中でその名を呟く。ただ、それだけで風の無い湖沼の様に自分が静まり返っていくのを感じる。

 一体どれだけの時間そうしていたのだろうか。
 既に夕日が水平線に半身を沈ませ、眼下の海は黄金の絨毯のように煌いている。
 ふと気がつくと、背後に人の気配がした。
「……バウルか」
 ユリウスは振り返るまでもなくその人物を言い当てる。ここに来る人間が自分以外でいるとすればその人物しかいない事を理解していたからだ。
「まったく、お主が出ていってから何時間経ったと思っておるんじゃ」
 ユリウス達が自分を訪れに塔に来たのは丁度昼を向えた頃。そして、今はもう夕日が沈み始めている。その間、ユリウスは微動だにせず、ずっとそうやって立ち尽して潮風に晒され続けていた。
 それが解ってか、バウルは呆れながら溜息と共に言う。夕日の眩しさと、悲哀に眼を細めながら……。
「お主の仲間には、キメラの翼を与えてレーベに帰した。そこで誘いの洞窟の封印を解く為の、魔法の玉を手に入れたはずじゃ」
「そうか……」
 ユリウスはただ、そう呟く。
「しかし、ここは相変わらずわびしいのぅ……」
「だからだよ。ここはセフィが好きだった場所。あいつも……俺と同じ・・だったから」
「……そうじゃな」
 穏やかな声でバウルはユリウスの言葉に頷く。
 夕日がその姿をほとんど水平線に沈ませ辺りに闇夜が侵食し始めた。
「……そろそろ戻れ」
「……ああ」
 眼を伏せたままユリウスは独り言の様に呟く。
「ここの事は心配するな。魔物除けの結界を張ったじゃろう」
「わかってる」
「そうか……」
 ユリウスは十字架に深深と頭を垂れ、踵を返す。バウルとすれ違うが闇夜に阻まれて互いにその表情を見る事ができない。二人は言葉を交わす事無く呪文を唱え、それぞれ異なる方向へ光の軌跡を残して去っていった。

 残された十字架の背後…暗黒の大空と大海より、闇夜の冷気を含んだ一陣の風が吹いた。
 寂しげで、哀しげな、儚く冷たい音色を乗せて……。




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