――――第一章
      第五話 望まれる者







 アリアハン大陸北部地方に散らばる小村落群を総括し、統治するレーベ村の朝は早い。
 レーベ村はアリアハン大陸北部の政治的拠点としてだけではなく、近隣集落に物資を供給する中継地点としても重要であった。また、大陸北端にある港には年に数える程度の極僅かではあるが外の大陸…主にランシールからの貿易船が寄港し、様々な物資が齎されている。その為、王都への種々多々な物資を運搬する為に、数多の商人とその護衛の冒険者の往来が多く賑わっているのである。

 朝の清清しい空気と、日の光の下で今日も同じ日常が営まれようとしていた。






「じゃあ、この荷物はここに置けば良いの?」
 村の北方に位置する道具屋の脇に、一つの大きくも小さくも無い荷馬車が留まっている。
 その荷台の中から凛とした張りの有る、良く通る声が朝の軽い空気に響く。
「ええ、お願いね。ミコトちゃん」
 ミコトと呼ばれた少女は、荷台から道具類の入った木箱を軽々と抱えて店の裏口に運ぶ。清涼な空気を楽しむ様に天を仰ぐが、燦燦さんさんと輝く朝陽の眩しい光に思わず目を瞑った。

 少女は艶やかな漆黒の髪を左右で結い、その漆黒の髪の下で緑灰色の瞳が揺るぎ無い意志の強さを物語っている。それが凛とした彼女の雰囲気を更に際立たせていた。
 このアリアハン大陸で流布しているオーソドックスな武闘着とは多少異なる、民族装調の強いデザインの服に身を包み、その合間から覗く陶磁器のように白い肌…美少女という形容が相応しい少女であった。
 ミコトは健康そうな朗らかな笑顔で、この店の主であり今回の仕事の雇い主である中年の女性に向き直った。
「別に気にしないで。でも良かった。何事も無くレーベに着いて」
「それはミコトちゃんのおかげさ。護衛なんてもっと厳つい人かと思っていたんだけどねぇ」
 そう言われて苦笑しながら頬を掻き、ミコトは冒険者の事情を語る。
「はは、冒険者には色々な人がいるんだ。心の中に、色々なものを抱えてね……」
「そうらしいよねぇ。ミコトちゃんみたいな綺麗なお嬢ちゃんが冒険者なんて、何か理由があるのかい?」
「……それは」
 容姿を誉められて少し照れていたミコトは、続く店主の言葉に眼を伏せる。その緑灰の瞳に微かな影が走った。
「ああ、ゴメンよ。立ち入った事だったね。……さ、取り敢えず休憩しようか」
「済みません」
 ミコトのその反応に自分が何か悪い発言でもしてしまったのかと思い、店主は慌てて手を振り弁明を謀る。そんな彼女に要らぬ気を使わせてしまった事に気付き、ミコトも礼儀正しく頭を下げた。
 自身の事情に立ち入られる事は、冒険者にとって最も毛嫌いされる事の一つだが、冒険者以外の人間にとってはどうでもいい事である。そんな常識がミコトの脳裏を過ぎる。
 滑らかな頬を伝う汗を拭いながらミコトは軒下に設置されていた長椅子に腰を下ろし、店主からよく冷えた茶を受け取る。ひんやりとした陶器のそれが初夏の陽気の下では、酷く心地良かった。それを啜り、微かに動揺してしまった自分を落ち着かせる様に息を一つ長く深く吐いた。
 やがて店主もミコトの傍らに座り、二人は遥か蒼穹の空を流れる白い雲を見上げる。

「こんなご時世、護衛でも頼まないと行商にも出られないからねぇ……」
 しみじみと店主は憂いを帯びた目で空を眺め、呟いた。
 その様子にミコトは苦々しく眉を寄せながら、自分の見てきた世界情勢の一端を語る。
「私は色々な地を見てきたけど、魔物の脅威が及んでいない地は無かったよ。……でも比較的アリアハン大陸は平穏に近いかもしれないね。狂暴な魔物が生息している訳でもないから」
「まあ、ミコトちゃんみたいに外の大陸から来たんじゃそうだろうねぇ。……だけど半年前に王都に魔物の群れの襲撃があったんだよ。大勢の人がその事件で死んじまった……」
 快活に話していた店主の声に曇りが込められた様に聞こえ、その物騒な内容にミコトは眉を寄せ声をしぼめた。
「……本当?」
「でも魔物群は、あのオルテガ様の息子のユリウス様が全部追っ払ってくれたのさ。いや、流石は『勇者』様だねぇ。あの父にしてこの子有り、とは正にこの事だよ」
 打って変って殊更明るくなった店主を見て、先程までの憂いが微塵も感じられなくなった事にミコトは安堵の息を零す。店主の様子から『勇者』という人物によって、悲痛な過去があったにも関らず現在この笑顔が保たれているのかと思い至り、感心する。そしてミコトは『勇者』という単語を口内で反芻はんすうした。
「へぇ……、そうなんだ。すごいな……どんな人なの?」
「私は王都で遠くから見た程度だけど、男の子なのに可愛らしい子だったよ」
 恍惚とした眼で空を見上げ語る店主の様子は、『勇者』という存在に崇敬の念を抱いている敬虔な信者のそれであった。そんな店主の語る特徴は、ミコトの欲しかった情報では無かったので思わず間の抜けた声が零れる。
「はあ……。ルイーダの酒場に登録に行ったときは見かけなかったな」
「そうなのかい? ああ、だけどもうそろそろだったねぇ……。ユリウス様がオルテガ様の遺志を継いで、『勇者』として魔物退治に旅立つ日は」
 ミコトがルイーダの酒場に登録したのは数日前なのだが、旅続きの身であった為詳しい情報が得られなかったので、今回この仕事を引き受けたのであった。
「それなら知っているよ。だけど、詳しくは知らなかったからね。今から戻れば間に合うかな……?」
「ミコトちゃん、勇者様に同行するのかい?」
 驚いた様に店主は目を丸くして声を上げる。その様子にミコトは苦笑しながら返す。
「まあ、認めてもらえばだけど」
「大丈夫だよミコトちゃんなら。……そうだね、今から王都に戻るよりもレーベで待っていた方が会えると思うよ。アリアハン大陸から出るには、この村を通るからね」
「…そうなんだ。じゃあ、この近辺を散策でもしながら待とうかな」
 根拠の無い激励をする店主の提案に、陽気によって幾分か温まった茶を啜りながらミコトは頷いた。
(……果して、噂通り・・・の人物ならいいんだけど)
 悠然と空を流れる雲の様に、すんなりと事が運べば良いのだが…、と半ば願う様に空を見上げる。清清しい朝陽を抱く蒼穹の空。初夏のそれは嘲りを覚えてしまうくらい酷薄に見えた。








 初日の夜の一件以来、ユリウスとソニアの二人は一言も交わす事無く、黙々と王都とレーベを繋ぐ街道を進んでいた。王都周辺の平原に比べ、レーベ平原では予想以上に魔物との遭遇が多くなった。かといって平原地帯を進んでいる訳だから、奇襲を受けるわけでもないので戦闘は難なく去り、その喧騒が懐かしさを感じてしまうほどの静寂な時が二人の間を流れ続ける。
 ユリウスにして見れば何の問題も無い寧ろ望んでいた事なのだが、ソニアにとってそれは辛いものだった。
 ソニア自身も静寂を好み喧騒自体に良い思いはしないのだが、この重苦しく感じられる沈黙は到底馴染めるものではなかったのである。

 あの夜の一件以来、前方を歩くユリウスに対しての猜疑心が、更に膨れ上がっている事を自覚していた。それと同時に、僧侶の自分がこのような心持ちをしてはしてはいけないという、自責の念が生まれているのも、また事実であった。
 葛藤に揺れるソニアには草原を駆ける清清しい風の音ですら、遠く耳に突き刺さる金切り音の様に自身を苛み、聴覚が麻痺してしまうような耳鳴りが止む事は無かった。
 額からは玉のような汗が滲み、視界は揺らぎ、その足取りは重く不確かなものになって往く……。
 気が付けば前を歩くユリウスとの距離が、無限遠にも思えるような隔たりさえ感じてしまった。
 当然の如く、前だけを見て進み続けるユリウスにソニアのそんな様子に気付く訳もなく、事実二人の距離は離れ始めていた……。




 その後、数刻もしない内にソニアが疲労感から思わず膝を地に着いた時だった。
 周囲の空気が冷たく突き刺さるような…殺気に満ちている事に気が付いたのは。
 顔を上げて見ると、自分の周りにはその愛くるしい姿に似つかわしくない、鋭利な角を眉間から生やしている一角兎の群れに囲まれていたのである。
 遥か前方でユリウスが別の魔物の一団に囲まれているが、彼は難なくそれらを斬殺していた。

 ソニアは意識を自分に戻すとそれらに対抗しようとするが、膝に力が入らず立ち上がる事が出来なかった。手にしている杖を支えに再度立ち上がろうと試みたが、麻痺しているかのように腕に力が入らない。全身が鉛の様になってしまったのかと錯覚してしまう。
 肉体の疲労の為か、精神の疲弊の為か、魔法を使おうにもその集中さえ覚束無い状態であった。
 そんなソニアの事などまるで意にも介さずに、一角兎達はその鋭い角を獲物に向けて突進してくる。地を駆けるスピードは驚くべきものではなかったが、今のソニアにそれをかわす事は出来ないものだった。
 有機的な角の先端に太陽の光が反射してキラリと光り、その鋭さを知らしめる。それを見止め、覚悟を決めてソニアはきつく双眸を閉じ、歯を食い縛った。信仰している精霊神ルビスへの祈りの言葉を胸中で呟きながら……。




 飛び掛かってきた最後の大アリクイの爪をユリウスは半身でかわしながら、手にした鋼鉄の剣でその大アリクイを頭から串刺しにする。剣のつばのすぐ先で、大アリクイの頭が痙攣を起こしながら青い血を吹いている。
 躯が戦慄わななくのに応じてその血飛沫が噴水の様に吹き上げ、やがてそれすらも収まり、ユリウスは無表情にその物言わぬ躯を刀身から振り掃う。そして、懐から取り出した布でまだ生温かい血糊を拭い取った。
――と、その時。
「危ない!!」
 殺伐とした平原に、風と共に凛とした声が響き渡る。
 魔物の群れを全滅させたユリウスが、その声のする方を何事かと仰いだ。




 ソニアは来るべき筈の痛みが来ない事に訝しんで、恐る恐る眼を開く。
 眼前には、その鋭利な角を掴まれて宙で手足を虚しそうにジタバタ暴れさせている一角兎と、その兎の延髄に鋭い手刀をお見舞いして昏倒させている黒髪の少女の姿があった。
「……えっ?」
 ソニアはそう声を挙げるので精一杯であった。
 次々と襲い来る魔物を華麗な体術で打ち倒していく少女に眼を奪われて、ただその姿を追っていた。

「怪我はない?」
「え? ……あ、あの……私」
 颯爽と周囲に居た魔物を屠り、その両横で結われた艶やかな黒髪をおどらせながらミコトは振り返る。
 突然の事にソニアは暫し、茫然としていた。
「もう大丈夫。……立てる?」
 穏やかな優しい笑みを浮べて手を差し伸べてくるミコトに、ソニアも笑みで返す。
「は、はい。助けて頂いてありがとうございます」
 ミコトの優しげな感じに気を許したのか、ソニアはホッと息を吐いた。
「いいえ、偶々この辺りを散策していただけだから。私はミコト=シングウ。貴女あなたは?」
「私はソニア=ライズバードです。本当に助かりました」
 深深と頭を下げて礼をするソニアに、ミコトは照れを感じ、赤面しながら慌てて手を振る。
「気にしないで。貴女は一人――」
 ソニアの風体に似合わず、こんな場所で魔物に襲われているの不思議に思ったミコトは思わず質問を口にしようとする。だがこの問いは別の声に遮られる事になる。

「何をしているんだ、ソニア……」
「……ユリウス」
 さも何も無かったかのように、呆れたような顔をしてソニアの方に歩み寄ってくるユリウスに、ソニアは眉を寄せてその彼の名を呟く。それはとても小さく囁かれた為、すぐ傍に居るミコトでさえ聞き逃してしまった。
 ミコトにして見れば、飄々と現れては呆れたように溜息を吐く目の前の少年に、苛立ちを覚えたのも無理からぬ事であった。
「……お前、ソニアさんを放っておいて何をしていた! 連れなんじゃないのか?」
 ここでユリウスは初めてこの少女の存在に気付き、その漆黒の瞳でミコトを一瞥する。
「何だあんたは?」
「質問に答えろ! 何をしていたっ!」
 ユリウスはミコトの質問に答えずに逆に問い返す。ミコトは先程から、癪に障る態度の少年に掴みかかりそうな勢いであった。その様子にウンザリしながらユリウスは溜息を吐いて、意思の強そうな瞳をもつ少女を見据える。
「生憎と俺も魔物と戦っていたもので、手一杯でございました」
 シレッ、と自分を馬鹿にしている様に恭しく答えるユリウスの態度に、ミコトの不満がとうとう爆発した。
「早く片が着いたのなら、どうして助けないんだっ!!」
「……俺が行かなくてもあんたが助けたんだろ」
 あまりの態度にミコトはユリウスの胸倉に掴みかかる。
「お前!!」
「名乗りもしない人間に、非難される覚えは無いな」
 肩を竦めながら言うユリウスの言葉に、ミコトは鋭い睨みで返しユリウスから手を離す。そして不服そうな顔をしながら自分の名を名乗る。
「……ミコト=シングウだ。そう言うからにはお前も名乗ってもらう」
「……ユリウス=ブラムバルド」
 至極面倒臭そうにユリウスは名を告げる。
 その瞬間ミコトの眉が僅かに動いたのをユリウスは見逃さなかった。
「ユリウス!? じゃあ、お前が『勇者』なのか? お前のような奴・・・・・・・が……」
 信じられないといった態度のミコトを嘲笑うように、ユリウスは眼を細め口元を歪ませる。
「その辺に流れている噂でも聞いて聖人君子・・・・でも思い描いていたようだな」
「……ソニアさん、本当なの?」
 ユリウスの言葉を裏付ける様にミコトは狼狽しながら、傍に佇んでいたソニアに真偽を求める。話しを振られたソニアは苦虫を噛み潰したような顔をして頷いた。それを見てミコトは思わず頭を抱え、大きく嘆息する。
(……こんな奴が『勇者』?)
 目に見えて落胆の色を示すミコトにユリウスは肩を竦めた。
「……いきなり失礼な奴だな。勝手な想像をしておいて、事実が異なると幻滅でもしたか?」
「いや、それは……」
 弁明をしようとするミコトであったが、ユリウスの言う事が余りにも事実であるために言葉を繋ぐ事が出来ずに、しどろもどろしていた。
「……下らない」
 そんな彼女の様子を嘲笑う様に鼻で笑い、それだけ言ってユリウスは踵を返し、さっさと遥か前方に微かにその姿が確認できるレーベに向って歩を進める。
 その歩み去る後姿を唖然としてミコトは見つめていた。




「ソニアさん……」
 未だに動揺を隠す事の出来ないミコトは、隣を歩くソニアを力無く見る。彼女のそんな様子を察してかソニアは一つ微笑んだ。その微笑には同情と共感が込められていたが、ミコトは気付かなかった。
「ソニアで良いですよ、ミコトさん」
「じゃあ、私もミコトで良いよ。敬語も要らないから」
「……うん。わかったわ」
 柔らかな反応をして気分を和らげてくれるソニアにミコトは感謝の意を込めて笑う。暫くは無言で、先行するユリウスの後を付いていたが、意を決した様にミコトはソニアに尋ねる。
「ねぇ、ソニア。……あいつが本当に『勇者』なの? とても信じられないな」
 ミコトは前を向きながらポツリと零す。今までに噂で聞いた人物と似ても似つかないからであった。
「……そう思うのも無理はないわ。認めたくないけど本当の事よ。……それにオルテガ様の息子だからね」
 ソニアも同じ事を思いながら頷く。
 同じアリアハン出身のソニアがそう言うのであればミコトは納得するしかなかった。ここでふと、ソニアのように可憐な少女が旅に、それも魔王討伐という言わば死と隣り合わせの路を歩んでいる事に疑問に思った。
「そう……。ソニアも魔王討伐に同行しているの?」
「……私は、彼の監視をする為に王宮から……」
 言い辛そうにしている様子と、ソニアの言葉から『勇者』がアリアハンという国の看板を背負わされている、という事を何となく察したミコトは、敢えて深く追求する事を止め相槌を打つだけにした。
「……複雑そうだね。ねぇ、私も同行して良いかな?」
 突然のミコトの申し出にソニアは思わず素っ頓狂な声を挙げるが、その意味をミコトに確認する。
「ええ!? 私としては嬉しいけど、いいの? 魔王討伐よ?」
「ああ。ルイーダの酒場にも登録してあるし、ここで遭ったのも何かの縁だから」
 ここでソニアはルイーダとユリウスのやり取りを思い出して、確認する様に恐る恐る言う。
「……何か目的があるのね」
 瞬間ミコトの顔は強張り、俯いた。
「! ……ごめん。今はまだ言えないんだ」
「気にしないで。私は嬉しいわ! ……正直、彼と二人は辛かったから」
 自分の発言に後悔をしつつ、ソニアはミコトの手を取り純粋に喜び微笑んだ。その花の咲いたような笑顔にミコトも次第に笑顔になって往く。
 ソニアにとっても、ミコトの加入はまさに渡りに船を得るようなものであった。猜疑を向けている相手との旅路。それに長い間耐えられる程、ソニアの精神は成熟してはいなかったからだ。ミコトという存在を利用してしまうようで後ろめたさを感じてしまうが……。そんな思いが笑顔の裏に息を潜めていた。
「よろしく、ソニア」
「……よろしくね、ミコト」
 風に乗って流れてくる二人の少女の会話に、ユリウスは歩きながら大きく溜息を吐いていた。やがて、自分にその旨を伝えに来たミコトに了解したという意味を込めて右手を振る。……酷く、気だるそうにしながら。
 何時の間にか、日もその役割を終えたかのように西の空へと沈み始めていた。








 結局、ユリウス達がレーベに到着したのは、夜が更け始めた刻限であった。
 あの後、日が沈み闇夜が侵食するのに呼応するかのように魔物達が活発化し、幾度となくユリウス達に襲い掛かってきたのだった。
 ユリウスを含め、他の二人に疲労の色が見られた為に、一行は村に着いて直ぐに村の入り口付近にその居を構えている古びた宿に向う。疲れ切った身体を癒す為に死んだ様に眠りについて、夜を明かした。




 朝日が昇り、村の人々が各々の日常を営みはじめた頃、ユリウス達は宿の食堂で朝食を摂っていた。
 久々に地面の上ではなく、まともなベッドの上で寝られた為に昨日までの旅の疲れは殆ど回復していた。ソニアも僅かに疲労感がまだ抜けきってはいないが、昨日までの疲弊しきった様子ではなく、明るく新しく仲間になったミコトと談笑している。
 ユリウスはテーブルに並べられた温かい食事を黙々と食べた後、コーヒーを啜っていた。

「あのぅ、勇者様御一行ですか?」
 濃緑の魔術士のローブに身を包んだ気弱そうな青年が、ユリウス達に質問した。
「……そうだけど、貴方は?」
 瞑目したままコーヒーを啜っているユリウスを横目に、ミコトは簡潔に答える。
「ああ、よかった。昨晩到着したものだと聞いたもので……」
「……用件は?」
 カップを置き、ユリウスは面倒臭そうに言った。急かされて青年は慌てて本題を口にする。
「はい、実はバウル様が勇者様に用事があると仰いまして」
 出てきた名前を聞いて、ユリウスは項垂れながら深い溜息を吐く。正面の席では聞き慣れない固有名詞にミコトはソニアに小声で尋ねていた。
「ね、ソニア。バウルって?」
「えっ……とね、アリアハンに住む高名な賢者様で、……十三賢人って言えば判るかしら?」
 ソニアの説明に、ああ…と納得した様に相槌を打つミコト。

 十三賢人…世界最高魔導府であるダーマ神殿より称えられた十三人の賢者。ダーマ神殿が世界のどの国家にも属さずに、永世的中立を保っていられるのは彼らの力とその実績からである。その領地には一切の勢力の武力的介入を許さず、その地で修行に励む高僧達が神殿を守護している。その中立地帯の特質を利用して、ダーマ神殿は世界会議を行う際の会場に指定されており、その議長は代々のダーマ大神官が兼任しているのである。
 世界に散らばるその賢者達は、年齢層や性別も様々であり、国家首脳と言えどもその存在をないがしろに出来ない。
 国に従事する者、独自に弟子を取る者、世俗から離れる者、家庭に入る者…等、その行方は数の分だけ存在する。だが、魔王バラモスがこの世界に現れて以来、魔物と戦い命を落した者も数存在する。今では、その数は半数近くになってしまっていた……。
 そんな世界に名立たる賢者達でさえ、『魔王』という存在の前では霞んでしまい、『勇者』に対しての期待と羨望に一層の拍車を架けているのは紛れも無い事実であった。

 実の処ソニアの母もその一人に数えられているのだが、その口振りから本人は知らないようだ。
 灯台下暗しとはこの事だな、とユリウスは内心溜息を吐いていた。
 敬称だけが公に浸透して、その個と言うものが余り知られていない事は良くある事だ。そう思いながら口を開く。
「……今じゃただの偏屈ジジイだよ」
 ユリウスの余り発言にソニアは憤慨した。
「ユリウス! そんな言い方は無いでしょう!!」
 そんなソニアを無視してユリウスは青年に向き直る。
「で、その高名な十三賢人サマが何の用だ?」
「はい。何でも渡したいものがあるらしいのです」
「何を?」
 ミコトが首を傾げながら聞くと青年は首を横に振りながら答える。
「さあ、そこまでは判りません。直接会われないことには」
 その言葉にユリウスはうんざりして溜息を吐いている。ソニアとミコトは賢者の意図が判らずに首を傾げていた。
 そんな一行の様子を見て青年はローブを翻して踵を返す。
「確かに伝えました。では、私はこれで……」
「ちょ、ちょっと……。どこに行けば……」
 うろたえながらのミコトの質問に答えることも無く、青年は颯爽と宿から出ていった。唖然としているミコトとソニアは言葉を発せずに、暫し沈黙していた。
 ユリウスはユリウスで、面倒な事になったと渋面を浮べてコーヒーを飲んでいた。

「……どうすればいいんだ?」
 ミコトの言葉にソニアは首を横に振る。十三賢人として有名な存在であっても、どこに居を構えているかまではソニアは知らなかった。だから、ミコトの問いに答える事が出来ず済まなそうに眉を下げるだけであった。
 そんな中、ユリウスは残りのコーヒーを啜り、席を立つ。
「目的地は決まった。出発するぞ」
 そう言って部屋に荷物を取りに戻ろうとするユリウスにミコトは叫んだ。
「おい。決まったって……どこに?」
 ユリウスは至極面倒臭そうに、間を置いて答えた。
「……ナジミの塔だ」




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