――――第一章
      第三話 安らかな檻







 ルイーダの酒場……。
 そこはアリアハンに住む者なら、一度は耳にする場所。
 アリアハンに住む少年達にとっての憧れの場所。
 まだ見ぬ未来に夢や希望を抱いて成人した者が、旅立ちの許可を得ると必ず立ち寄る場所。
 また、異国の旅人にとっても特別な場所。
 この酒場に名を登録することは冒険者にとって栄誉であり、一種の自己確立でもあった。

 この酒場が全世界的に有名なのはアリアハンの英雄オルテガの名声によるところが大きい。
 あの偉大な勇者を尊敬し、同時に自らもかくありたい、と望む者達が集う出会いと別れの場所。

 その酒場は、王都アリアハンの西の一角に悠然と佇んでいた。






 ユリウスは酒場の扉に手をかけ、一つ溜息を吐いた。
 無論、それは彼が緊張や不安などという幼稚地味た感傷を抱いているからではない。
 ただ単純に、中に入れば鼻を突く強烈な酒気が否応なく纏わりついてくる事が判りきっていたからだ。
 ユリウスは酒が嫌いではないが、とりわけ好きでもない。だから、自ら進んでこの酒場に足を運んだ訳でも無いし、改めて来よう等とは考えてもいなかった。

 新鮮な空気を肺腑に染み渡らせた後、観念して面倒臭そうにユリウスは木製の扉を押し開けた。





「――――」
 扉を開けた瞬間、外まで漏れていた酒場独特の喧騒は水を打ったように静まり返り、いくつもの視線が彼を捉える。こちらを見定めて来る挑発的な視線から、酒の力で気が大きくなっているのか嘲るような揶揄を篭めた視線……。
 数え上げたらキリが無いが、ユリウスにしてみてもこんな風に注目される事は予想していた。『勇者』が今日という日に旅立つと言う事を、アリアハン国王は既に世界に対して大々的に発表していたからだ。
 だが予想していた事とはいえ、実際に向けられる視線と感情の渦にユリウスはウンザリする。鬱陶しい事この上ないと思った。『勇者』なんて自称も自覚もした事が無かったが、世間的にはそういう事になっている。それをアリアハンの人間は自分事のように胸を張り、語る。
(馬鹿げている……)
 店内を見廻しながら、内心一人ごちる。
 いつまでも入り口で佇んでいても意味が無いので、ユリウスは奥のカウンターを目指し、歩を進めながら周りの人間…冒険者達を一瞥していった。
 ニヤニヤと不快な笑みを浮かべ自分を見定める戦士風の男。テーブルに突っ伏している魔法使いの衣を着ている男。既に出来上がって顔を紅潮させている僧侶など……。
(まだ昼前だろ……)
 いつ冒険者としての仕事で旅立つかも知れないと言うのに、既に酒を煽っている彼らに内心呆れ返ってユリウスは肩を竦めた。そんな彼らが居てこそ、この酒場は潤っているという内情を知っているユリウスにとって、現状を目の当たりにして溜息を吐かずにはいられなかった。

「あら、いらっしゃいユリウス」
「……ああ」
 つやのある声をかけて来た女性を見て、ユリウスはそれに従う。
 彼に声をかけたのはこの酒場の女将にして、冒険者ギルド長ルイーダその人であった。
 ルイーダというのはギルド長に就任した際に賜る襲名であり、彼女は初代から数えてもう二三代目になる。本名はカーラ=シャンティという名で、ユリウスの母セシルの自分が生れる以前からの大親友であった。故に幾度も家を訪れておりユリウスとも面識がある。
 ユリウスがこの酒場の下卑た内情を知るのは、彼女が母に愚痴を零していたのを聞いていたからに過ぎなかった。
 そんな彼女に促されるまま、ユリウスはカウンターの席に着いた。

「久しぶりね。誕生日おめでとう」
 妙齢の美女は艶やかな濃紺の髪を靡かせ、妖艶な笑みを浮かべて目の前の少年に声をかける。
「……どうも」
 ユリウスは素っ気無く、肩を竦めながら答えた。
 赤の他人に対してこの対応をすれば何かしら癪に障るかもしれない。ただ、その相手がルイーダだとわかってユリウスはそうしたに過ぎなかったのだった。
 ユリウスの語られる事の無い本心では、この女性に対して取り繕う必要など全く無い気安さを感じていた。それは家族の前では、必要以上に心配を掛ける訳にはいかないので、自演する必要があったからだ。夫を亡くした母セシルを気遣ってか、ルイーダはここや外での自分の事をセシルには言わない。それがユリウスにとってこの上なく有難く、それに甘えている節もあると自覚している。
 そういった意味で、ここは安らげる場所とも形容する事ができるだろう、と考えていた。尤も、周りの冒険者や酔っ払いが居ない時という限定ではあったが……。

「相変わらず素っ気無いわねぇ。顔は可愛いんだから、もっと愛想良くしたら?」
 ルイーダはそんなユリウスの性格を知ってか親友の息子をからかった。
「……どうでもいいな、そんな事」
 呆れた様に一つ溜息を吐いて、ユリウスは無感動に答える。言葉にいささか憮然地味たものを感じるのは、気のせいでは無い。
「何か飲む?」
「……コーヒー」
「はいよ」
 ルイーダは注文を受けると、既に挽かれてある豆でコーヒーを煎れ始めた。手際良くカップに注がれる赤褐色の液体は、芳しい香りを周囲に漂わせる。
 ユリウスはそんな様子を尻目に、カウンターに背を預け、再び背後の冒険者達を眺めていた。
「どうぞ」
 ユリウスは出されたコーヒーを無言で一口、いつのまにか乾いていた喉に通した。思いの他それが熱かったのか、ユリウスは一瞬目を見開き、口内を冷やす様に空気を貪る。
 そんな様子を微笑ましげに見ていたルイーダは、奥の棚に年代別に並べられてあった分厚い名簿群の中から数冊を取り出して、パラパラと捲り始めた。
「王様から勅命を賜ったのね。それで仲間を探しにきたんでしょ」
「そうでなければ、こんな時間にこんな場所・・・・・には来るわけがない」
 ユリウスは半眼でルイーダを見て、先程の仕返しと言わんばかりに口元を歪ませながら答えた。
「あんたね……、喧嘩売ってんのかい?」
 言葉とは裏腹に怒る訳でもなく、ルイーダは形の良い唇を持ち上げて微笑みながら、名簿をユリウスに手渡した。ユリウスは受け取ったそれを捲りながら茫然とページを眺める。
 名簿には名前、性別、年齢、職業が記されてある。
 冒険者としての割合が高い職である戦士や武闘家を始め、魔法使いや僧侶など名が所狭しと羅列されてあった。

(……遊び人?)
 リストを眺めているうちに、明らかに指向の違う職業が目に止まり苦笑を禁じえない。
(戦闘中に遊ばれなんかでもしたら、この上なく邪魔だな)
 そう思ってユリウスは自分の職業について改めて考え始めた。



 自分は望んでもいないのに『勇者』として扱われてきた。
『勇者』…一般に世間で認知されているのは、過去に偉業を成した人物に贈られる称号。だが、それはあくまでも敬称、名誉称号であって職業ではない。結果論より生まれた、ただの記号に過ぎない。
 父オルテガは旅立ってから世界中で人々に勇気を与えたと様々な人間が言う……。では、父の様に人々に勇気と希望を与える存在を『勇者』と定義するならば、……自分とは全く無縁の存在だ。
 或いは悲観的に捉えるのであれば、人の力の及ばない厄災に対して差し出される生贄。世界を守る為に捧げられる人柱。それを悟られまいとする為の虚偽の誉れ。
 現実的な見方をすれば、魔物を駆逐する者。生命を刈り取る殺戮者…と言うところか。
 何にせよ、曖昧で滑稽な存在に変わりは無い。……まぁ、どうでもいい事だな。



(勇者も遊び人も明確な定義が無い以上、似たようなものかもしれないな)
 そう考えたら何故か可笑しくなり、ユリウスは自嘲的に小さく嗤う。

「何人くらい連れて行くの?」
 自分の中でそう思案に耽っていたら、他の冒険者の接客をしていたルイーダが戻ってきて、カウンターから半身乗り出して、興味有り気に尋ねてきた。
 その明らかにこちらの反応を楽しんでいる様子に、下世話な人だな、と思いつつ、職業病だなと勝手に自分の中で結論付ける。そして大きく溜息を吐いた。
「俺は、一人がいいんだがな……」
「ふふっ、ユリウスって一匹狼だからねぇ。仲間になる人は大変ね……。同情するわ」
 このルイーダの悪戯っぽく笑いながらの発言に、ユリウスは目を細めたが反論しないことにした。ルイーダの言が確信を突いた事実であるのは充分承知しているが、ここで何かを言えば、手痛くしっぺ返しされるのが目に見えている。今までの人生で、この女性を出し抜くには自分の人生経験と語彙ボキャブラリーが絶対的に足りない、と悟らされていたからである。
(……年の功か)
 実に失礼極まりない事を、ささやかな反抗としてユリウスは胸中で呟いてみたりした。

「いっその事、ここにいる全員で斬り合って、生き残った奴だけを連れていくのが手っ取り早く済むし、楽なんだがな……」
 ボソリと酒場全体を無表情で眺めながら言うユリウスに、ルイーダは背筋の凍る思いをする。
「……あんた、物騒なことは言わないでくれないかい」
「冗談だ」
 無表情で更に抑揚の無い声でそう言われ、とても冗談に聞こえなかったのでルイーダの頬は引き攣っていた。そんな様子を歯牙にもかけず、ユリウスは表情を載せない顔で淡々と続ける。
「実は、面倒だが王宮からお目付け役が一人つけられている」
「へえ、そうなの。誰? 私の知ってる人?」
 すぐさまいつもの表情に戻り、再びルイーダは楽しそうに訊いてくる。
 ユリウスは無性にウンザリしてきたので何か言おうと口を開きかけた時、酒場の入り口の方が騒然とした空気に包まれた。




「嫌です、止めてください!」
 声を聞いて嫌な予感がしたのか、頭を抱えてユリウスは入り口に視線を移した。
 そこには案の定、宮廷司祭のソニアがいた。どうやら酔っ払った冒険者に絡まれているようだ。
「は、放して下さい!!」
「いいじゃねぇかよぉ。少しぐれぇ〜付き合ってくれてもよぉ〜」
 完全に出来上がってしまい、顔を真っ赤にした僧侶はソニアの腕を捉えている。ソニアは掴まれた腕を振り払おうとしているが、大の男の腕力に小娘が敵う訳が無い。抵抗は虚しく男の卑俗な下心を煽る結果となった。
 荒くれ者が行き交う酒場に入ってきた初々しい可憐な少女に、既に出来あがった酔っ払いが絡む。
 こんな取り合わせが注目を集めない筈が無い。事実、周囲の冒険者達の格好の酒のさかなと化していた。
「あ、あなたも神に仕える身なら、節度を持って下さい!」
「んだとぉ〜! 嬢ちゃんみてぇな小娘に神の何がわかるぅ!!」
 酒場の中に男の罵声が響き渡り、それを皮切りに他からも揶揄やゆや口笛、茶化す言葉が沸き上がる。言葉の意に沿うような下卑た視線、好奇の視線、卑猥な視線……。様々な注目の視線を浴びて、ソニアは遠くからでも判るくらいにその白い頬を紅潮して小刻みに震えていた。




「ねぇ、ユリウス。あの娘って、もしかして……」
「噂をすれば何とやら、か。……ああ、大聖堂の御令嬢のソニア=ライズバード。それで俺のお目付け役」
 酒場でこのような騒ぎは日常茶飯事である為に、ルイーダも逐一注意したりはしない。ただこれから共に旅立つ同行者として定められた者が悪漢に絡まれているというのに、その騒ぎを我関せずを決め込み他人事のように静観して呑気にコーヒーを啜っているユリウスに突き刺さるような冷たい視線を送った。
 ユリウスはユリウスで、ルイーダの視線に無視を決め込んでいる。その漆黒の双眸からは感情を窺い知る事は出来ない。
「……あんた、助けなくていいのかい?」
「………」
「ユリウス」
 ルイーダが声色を低くして来た事に居心地が悪くなったのか、ユリウスは大きく溜息をついて席を立ち騒ぎの現場に向っていった。酷く重い足取りで……。




「良いからこっちに来いよ〜」
 そう言って、出来あがった僧侶は強引に自分の席にソニアを連れていこうとする。その近くの席には、酔いが完全に廻っているように顔を赤くした戦士風の冒険者が、下卑た視線で足元から上へとソニアを見定めていた。
 嫌悪と羞恥でソニアは顔を赤くして、その紅の双眸は微かに潤み揺れていた。そういう反応が、更に彼らの下心を燻っている事にソニアは気付きもしない。
「離してっ!!」
 ソニアの悲痛な叫びを上げると、僧侶風の冒険者は更に顔をニヤニヤさせ、ソニアの腕を捕る手により一層の力を込める――事は出来なかった。
「オッサン。悪いが、こいつは俺の連れなんだ。絡むなら他の人間にしてくれないか」
「なんだとぉ……!?」
 そう言いながらユリウスは、ソニアの腕を掴んでいた僧侶の肩を組む様に腕を動かす。そして何時の間にか腰のベルトに括りつけてあった聖なるナイフが掌に収められ、その切先を男の首筋…酒の効果で血流が良くなって脈動している頚動脈の上をそっと沿わせる。
 当然ソニアからはユリウスが何をしているのか見ることは出来ない。

 勢い良く脈打つ血管の上を這う、異質な冷たい感触は酔いによって麻痺し始めていた男の脳髄に警鐘を鳴らさせるには充分であった。
 今、自身が置かれている現状を理解して男は背中に冷たいものを感じ、小刻みに震え始めた。
「わ、悪かった! もうこんな真似はしねぇ。だから……!」
 男は無表情で囁いてくるユリウスに、半泣きになり上擦った声で懇願した。
 震えが徐々に強まり額に大粒の汗を浮かばせているのを見て、ユリウスは微かに口元を歪ませる。
「俺は別に構わないが、……ソニアはどうなんだ?」
 ソニアにして見れば、突然の男の動揺振りは理解の出来ないものであった。急に話を振られて、目を瞬かせていたソニアは狼狽する。尤もユリウスが自分を助けたと言う事実の方に驚いていた。と、いうのが本音だが……。
「す、すまねェ嬢ちゃん。どうも悪酔いしてたみてぇだ。だから許してくれぇ!!」
 ユリウスに文字通り突き付けられた冷たい死の感触に、大の男の呻き声が悲鳴に変わり始めてきた。何が起こっているか理解できていないが、男の様相から流石にもう良いとソニアは思ったのでユリウスに頼む。
「ユリウス、……もういいわ」
 一つ溜息を吐きながらユリウスは僧侶の肩から自分の腕を離した。それと同時に手に忍ばせていたナイフを外套に隠し、腰のベルトの鞘に収める。この一連の動作は誰の目にも止まる事は無かった。
 死の恐怖に半ば涙目のその男は、そそくさと自分の席に戻って行った。




「……ユリウス」
 呆れた様に逃げ去った男の後を一瞥していたユリウスに、ルビス教徒が巡礼の旅の際に着る青い生地に十字の聖印が金糸で刺繍された法衣に身を包んだソニアが、俯きながらユリウスの名を呼ぶ。
 それに半ばウンザリした様子でユリウスは振り返った。
「何だ?」
「……あ、ありがとう」
 非常に不服そうに眉を寄せ、まだ羞恥が抜けていないのか頬を少し赤らめて、感謝を述べるソニアにユリウスは肩を竦めた。
「気にするな。ルイーダに言われたからだ」
「………」
「取り敢えず、カウンターあっちに行くぞ」
 何か言いたそうにしているソニアに、無表情で肩を竦めながらユリウスはカウンターに促す。ソニアも無言で頷いて、先行するユリウスの後を追っていった。





 カウンターに着いてユリウスは空々しく大きく溜息を吐いた。
 そんなユリウスの様子に苦笑しながら、ルイーダは未だに俯いているソニアに声を掛ける。
「災難だったね、お嬢ちゃん。…何か飲むかい?」
「……いえ。これから旅立つ身ですのでお酒は……。紅茶を頂けますか?」
 ルイーダに話しかけられ、柔らかく微笑む。その笑顔には先程のことがまだ尾を引いているのか翳りが見られたので、察したルイーダは敢えてからかうような事を口にした。しっかりと、横目でユリウスを捉えながら。
「あらあら……。酒場で酒を頼まない人・・・・・・・がまだいるとはねぇ……」
「……すみません」
「あはは、冗談だよ。気にしないで」
 またソニアは沈んだ様に俯くので、ルイーダは慌ててフォローをいれる。
 どうやらソニアは真面目な性格の様だとルイーダは思う。棚から茶葉を取り出して、ティーポットにそれを入れ、湯を注いだ。透明感のある茶の清涼な香りが漂い、辺りを満たしていた酒気が少し和らいだ。
 それを鼻腔で感じ、少し落ち着いた様相でソニアはふぅ、と溜息を吐く。

 横でそんなやり取りをしている中、ユリウスは気にも留めないで食い入る様に名簿を見ていたが、文字の羅列が鬱陶しくなったのか、わざとらしく音を発てて名簿を閉じた。
 その音に、話し込んでいたルイーダとソニアは顔を上げ、ユリウスを仰ぐ。
「どうかしたのかい、ユリウス?」
「いや、探すのが面倒になった」
「ユリウス……」
 受け取った紅茶のカップを両手で包み込む様に持ちながら、命を預ける仲間を探すと言うのに、面倒と言う理由でそれを放棄したユリウスに、ソニアは呆れたような、諌めるような視線を送る。
「誰かす奴がいるか?」
 ルイーダは冒険者ギルドの長であり、そこに登録されている冒険者の事を熟知している上、その人物がどのような器なのかを見極める鑑定眼を持っている。その為、ただ名簿を眺めてどんな人物かを思案するよりも、ギルド長のルイーダ自身に訊いた方が手早く済むし、効率的だとユリウスは思ったのである。
 そんなユリウスの考えなど露知らず、酒場に来る前と同じ様な、猜疑の目を向けてくるソニアに一つ溜息を吐いてから、ユリウスはルイーダに視線を移す。
「そうねぇ……。“あの”がいれば間違い無く推すんだけどね…」
 ルイーダは顎に手を当てて、思い出す様にしみじみと遠くを見つめながら言った。
「あの人?」
 ソニアは誰の事か直には判らなかったので不思議そうに首を傾げていた。
 その瞬間。
「っ!?」
 ユリウスはカップをカウンターに強く叩きつける様に置く。その衝撃で、中に残っていた僅かなコーヒーがテーブルに飛び散った。それと同時に射殺すような眼光でルイーダを睨みつける。
 その視線は荒くれな冒険者達を幾人も見てきた、ルイーダですら怯むような冷たく鋭い視線だった。
 ソニアはソニアで、このユリウスの様子に驚いて目を見開いている。
「ごめん……、口が滑ったわ」
 カップを叩きつけた時の音で、カウンターの近くの席に座っている冒険者からの視線を鬱陶しそうにしながら、ユリウスは一つ溜息を吐いてルイーダに再び尋ねる。
「……誰もいないのか?」
 改めて問いただしてくるユリウスに、いつしかルイーダも真剣な眼差しになっていた。
 いつもの快活で妖艶な酒場の女将の眼でも、親友の息子を可愛がる親愛の眼でもなく、ギルド長として冒険者という人間を見極める者の凛々しく、そして独特の鋭さが宿る眼に代わっていた。
「……二人いるわね。一週間位前にここに来て登録していったんだけど…、強さも知識も人格的にも問題の無い冒険者が」
 街で見かける同年代の少年よりも少し低い声を更に低くして、ユリウスは周囲を一瞥しながら訊く。
「……どいつだ?」
「だけど今はいないわ、二人とも」
 首を振りながら肩を竦めるルイーダに、ユリウスは思わず気の抜けた声を零す。その横では、ソニアも同じ様な反応を示していた。
「……もうアリアハンにいないのか?」
「いや、そういうわけじゃなくてね……。一人はミコト=シングウ。旅の武闘家で今はレーベ村から物資を仕入れに来た商人の護衛をしているわ」
 ユリウスとソニアの様子に苦笑しながらルイーダは続ける。
 手に持った帳簿には、冒険者にどんな依頼を斡旋したか事細やかに記されてあった。それをパラパラ捲りながら、ルイーダは目を走らせる。
「……それで、もう一人は?」
「ヒイロ=バルマフウラ。各地を旅している盗賊で古代遺跡に興味があるみたい。今はナジミの塔の調査に行っている筈ね。丁度、二人とも一昨日にここを発ったはずだよ」

 両者ともアリアハン大陸内に居る事と、二人の職業を聞いてユリウスは口元に手を当てて考える。
「……武闘家に盗賊か。まあバランスは悪くは無いな。……もう一つ」
「何?」
 人差し指を立てて訊くユリウスにルイーダは訝しげに眉を寄せる。
「そいつらは、何か旅の目的・・・・を持っているか?」
「さあねぇ…そこまで訊く義務も無いからね」
 そう言うルイーダの言葉は正しかった。
 冒険者ギルドに登録するのに必要なのは氏名、年齢、性別、そして職業である。出身地については昨今の世界事情の為、消え失せる地名が少なくないので、要らぬいさかいを回避する意味でも敢えて問う事を義務としていないのである。ここでの消え失せるというのは人の移ろいによる盛衰ではなく、魔物によって滅ぼされるという消滅を意味している。また、個人の旅の目的、または登録動機については問う事はしていない。
 ただ、ルイーダの酒場の知名度から‘名を売る’、'箔をつける’といった自己顕示など、ある程度の推察は可能ではあるのだが……。

「推測でいい」
 ユリウスは、ギルドのそんな細かな事情についてまでは知らなかったが、ルイーダに尋ねる。
 それは、ルイーダの人物鑑定眼を信用してのことであった。尤も、ユリウスがそれを口外することは、性格上絶対に有り得ないが……。
「……持っているだろうね。あの眼の色は」
「そうか……」
 ルイーダの推察に満足気な表情でユリウスはカップに口をつける。底に僅かに残っていたコーヒーは既に冷たくなっており、時間の経過を感じずにはいられなかった。




「……どうするの、ここで待つのかい?」
 別れの予感を感じ取ったルイーダにとって、無理とは判っていてもそう訊かざるを得なかった。
「いや、これからレーベに向う。運が良ければ会えるだろ」
「……悪ければ?」
 今までユリウスとルイーダのやり取りを、黙って聞き入っていたソニアは呟く。
「会えないだけで、そのまま先に進んでアリアハン大陸から出る手段をとるだけだ。会えたとしても、同行するかなんてわからないだろう。好き好んで、バラモス狩りに同行しようとする奴なんてそうはいないからな」
 ユリウスの言葉に、目的は違うとは言え魔王討伐に同行しているソニアは何となく居心地の悪いものを感じて、僅かに眉を寄せた。そんなソニアの様子を半眼で眺め、肩を竦めながらユリウスは席を立つ。
 城で用立ててもらった支度金の中から、二人分の飲食代をカウンターに置いた。
「……行くぞ」
「ええ……」
 ユリウスが呟くように言うと、ソニアも了承した様に腰を上げ、ルイーダに深深とお辞儀をする。踵を返そうとするユリウスに、ルイーダは今一度、彼の名前を呼ぶ。
「ユリウス……」
「……母さん達の事、頼む」
 別れを惜しむ様な表情のルイーダに、ユリウスは薄く笑みを浮べ別れの挨拶をする。
「ええ。絶対に死ぬんじゃないよ!!」
 ルイーダはただ一つの願いを激励の言葉にして、酒場を後にしようとユリウスに叫ぶ。営業中である事もあって、他の客は何事かとルイーダとユリウスを盗み見ている。そんな周りの思索を微塵も気にもしないで、ユリウスはルイーダの言葉に無言で微笑んだ。
 その張り詰めた氷のような微笑の中に、微かな哀愁を感じ取る事が出来たのは、生まれた時からこの少年を我が子の様に見てきたルイーダにしか出来ない事であった。
 それはルイーダは知っていたからだ。
 いつからかユリウスのおもてに現れる表情は、何処か冷たい無機質な物になってしまった事を。一切の心が篭められていない、ただ状況に準えてそれらを替えているだけの仮面に過ぎないという事を……。
 その結果、その表情を見る度にルイーダは自身の心を苛んでいるという事をユリウスは知らない。そして、ルイーダもユリウスにそれを悟られぬ様にしている。
 ルイーダにとってユリウスは親友の息子であり、また自身の『息子』でもあった。対して、ユリウスにとってもルイーダはもう一人の『母』だとすら考えていた。
 互いに互いのもう一人の『家族』を気遣い、欺き通す。互いに真実を悟られまいと、安らかな場所を保とうとするが故に……。





 ユリウスは、もう一人の『家族』に別れを告げて足早にカウンターを後にし、酒場の入り口に歩を進める。後ろから、ソニアが着いて来ているのは足音で判った。だが、決して振り向く事は無く……。
 その歩調のまま酒場の敷居を跨ぎ、右手前方に見える王都の城門に歩を進める。
 結局、アリアハンの城下街を出ても、ユリウスは後ろを振り返りはしなかった。




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