――――第一章
      第十一話 知る者達







 太陽がその日の世界の活潤を支える役割を終え、遥か西の地平線にその身を沈め始める。
 天からの光の恩賜と人が織り成す喧騒が時間と共に更けて行き、差し代わる様に宵闇と草木の間からの虫達の歌声は高らかと星々の普く夜空に響いていた。玲瓏たるその音色を飾る遠く澄んだ星々の大洋の中、地上に生きる全ての生命に優しい灯明かりと安心を分け隔て無く与える月は、今夜は何処かへと姿をくらませている……。

 星明りのみが煌く下で、休む事無く奏でられている虫達の斉唱は流れる夜の冷気を孕み、闇と共に街並をひしめいている。それと共に、建ち並ぶ家々に彩と命の灯火は翳り始め、深々とした静寂な世界が徐々に確実にその版図を広げていった。
 ……が、その天地の理に相反してその場所では既に日付が変わるであろうという刻限にもかかわらず、活潤を物語る様に燈された灯りは消える事無かった。そこだけが静寂な世界から隔離された異邦の様に、人々の朗らかな喧騒に賑わいを辺りに撒き散らし続けていた。




 アリアハン王国、王都の一角に居を構える冒険者達の集まる所…ルイーダの酒場。
『勇者』を世界に送り出してからと言うもの、市井の人々の話題の中心にはいつも彼等が誇る『勇者』がいた。
 その話題とは彼の活躍を期待するもの、彼の活躍を妬むもの、彼の活躍に博打ばくちを打つもの……玉石混淆であった。
 ただ、その誰もが『勇者』である彼個人を心配しているような素振りを持つ者は存在していない。

 …………極少数の彼に近しい者達を除いては。






 煙草の煙と酒気に賑わう酒場の一角。
 巡礼の旅の僧侶が纏う法衣の男と、厳つい鎧に身を包んだままくつろいでいる戦士の男がテーブルに座ってグラスを片手に、話し込んでいた。
「……とんでもねぇよ、あの『勇者』」
「あ? 何だよ、やぶから棒に……」
 僧侶の男が徐に、人目をはばかる様に声を萎めこそこそと言い出して、彼に対面する様に卓に座っている戦士の男は、訝しそうに眉を寄せる。
 僧侶が纏っている法衣は濃緑を基調にした布地に、大空を翔ける竜を模した銀糸の刺繍が施されている。この竜印はアリアハンで多くの人間が信仰している精霊神ルビスの物では無く、別の地…遥か北西の王国ロマリアで信仰されている自然三神の一人…大空神フェレトリウスのそれであった。それが、この僧侶がアリアハン大陸の人間で無い、外から来た冒険者である事を主張する。対している戦士の鎧も、所々に鋭利な物で穿たれたような傷痕が残されており、歴戦を潜り抜けてきた戦士で或る事を示していた。
 ちびちびと杯を傾けながら、口髭を生やした中年の僧侶…旅立ちの日にこの場所で、『勇者の供』である僧侶ソニアに絡んでいた男が、周りに聞かれないように警戒しながら続ける。
「…あの時、確かに酔っ払っていた俺も悪かったが、あの勇者の連れに声をかけた時、あの勇者のガキ、俺の首筋にナイフ突きつけやがったんだぜ」
「……マジか?」
「ああ…。俺も殺されるかと思ったぜ。それでいて、あのガキは涼しい顔をしてやがる……。特にあの眼だ。あの氷のような眼は、真っ当な人間が持ち得る物じゃねぇ……」
 そういえば、と戦士の男は記憶を探る。
 確かにあの時、勇者の小僧と眼前の相棒が何かを話していたが、突然震え出して、半泣きになりながら情け無い声で赦しを求めていた。それには、この様な背景があったのか、と思い至り絶句する。
 見ると、思い出した為に恐怖が甦ったのか、僧侶の男は身震いを始めている。手にしているグラスの中で、氷が小刻みに身動ぎながら酒の水面に波紋をてていた。
「成程ねぇ……。だから、最近は酒の進みが悪ぃのか」
「……ああ。あんな思いはもう御免だ。あんな悪魔に関わっちまったら命が幾つあっても足りやしねぇ……」
「悪魔って…。僧侶の言う言葉じゃねぇな」
 大空神フェレトリウスは、正義を翳す竜の神。彼の宗教の常識的には、神の相対者たる悪魔。そして、その名を口にする事は憚れている。敬虔な信者である筈のこの友人がそれを零してしまっていると言う事は、それ程までに動揺して、『勇者』によって植え付けられた恐怖心が尾を引いているのか、と考えてしまう。
「んだよ……。悪魔のような『勇者』よりはマシだろうが。……俺はあそこまで人として堕ちちゃいねぇ。あの日以来、悪夢には必ずあの『勇者』が出てきやがる……。どっちかってーと、あのガキが『魔王』なんじゃねぇか!?」
「……馬鹿野郎ッ! この国でそれ以上言うな! 面倒に巻き込まれるだろうが!!」
 震えの為か、やがて感情が昂ぶってきた僧侶の言葉を慌てて制する戦士の男。今の会話が誰かに聞かれていないか、うろたえながら視線を巡らせた。周りでは、アリアハンが誇る『勇者』の噂話で明朗に盛り上がっている。近くの卓やカウンターからの視線は感じないし、咎めてくる人間もいない。…どうやら、幸運にも気付かれている様では無かった。
 そう思い、戦士の男は大きく嘆息して、気が抜けた様に木製の椅子の背凭れに身体を預ける。
「あ、……悪ぃ」
「ま、でもよ当分ここには来ねぇからな。……もしかすると、もう帰ってこねぇのかもしれねぇが」
 周囲に聞かれない様に、卓の上に身を乗り出しながら。
「…………」
「……そんなに恐ろしい目にあったんなら、飲んで忘れる事だ。そうすりゃ、気は紛れるだろうよ」
「……だからな」
 自分の励ましに、未だに顔色を良くし無い友人に提案するも、その言には苦々しそうな視線が返って来た。
「……大丈夫だ。大陸外にゃ、ヤバイ魔物や野盗なんかがごろごろしてらぁ」
「誘いの洞窟の旅の扉で行き着く先はロマリアだったな……。確か今じゃ、盗賊団“飛影”の連中や、カザーブ東の山賊どもが横行してるんだったな」
「そうそう。魔物だってこっちのより強ぇ。あんなガキ一人、嬢ちゃん一人まともに生き抜ける訳があるまいよ」
 躊躇している所を見ると、悪酔いしたのがかなり身に染みたようだ。だが、酒場でしかも周りがこんな陽気な雰囲気であるのにも関らず、未だにグラス一杯すら開けていない男の様子は返って浮く。そして何より、顔を突き合わせて飲んでいる自分がつまらない。そう思いながら戦士の男は、凡そ周りに聴かれたものならば弾劾されるであろう内容を小声で話しつつ、僧侶の男を励ましていた。
「……わーったよ。飲めば良いんだろ?」
「そうこなくっちゃ! 酒場に来て酒を飲まねぇのは、冒涜だよ冒涜!」
「ああ!」
 熱弁する戦士の友人に、とうとう根負けしたのか僧侶の男は、いつも間にか注ぎ足されていた自身のグラスを一気に傾けた。

 彼らは知らない。あの後で旅慣れた頼もしき二人の同行者が増えたという事を。
 彼らは気付かない。自分たちの話を注意深く聴いていた、三つ・・の影を……。





「……ユリウスは何をしたんじゃ? ルイーダ」
 カウンターの端の席で、後ろの男達の話しに瞑目しながら耳を傾けていた老人は、この賑わいに満ちている酒場の主、ルイーダに訊ねる。老人は深い群青のローブに身を包み、重ねた年月を顕すように白く長くなった頭髪に顎鬚。開眼と共に叡智を宿した、澄み切った青眼がルイーダを捉える。十三賢人が一人、賢者バウルである。
「……遠くで判らなかったですけど。ソニアちゃん…大聖堂教会の令嬢が彼に絡まれているのをユリウスが助けたんですが……。私にはただ彼に肩を組んで、何か耳打ちしているようにしか見えませんでしたよ」
「ディナとラドルの娘か……」
 長年で培われた癖なのか、思考を巡らす時には必ずバウルは自身の顎鬚を弄ぶ。再び瞑目しながら、その瞼の裏には自身の弟子の二人の顔が思い浮かんだ。
「あの者の話じゃと、殺されそうになったと言っておるな」
「……ですね」
「……全く。何も知らぬ者共が好き勝手に言いおって……」
 重々しい口調で言うバウルに、ルイーダも自然と息を呑む。話題が周囲の様に朗らかに語られるものでは無い事実を差し引いても、それだけ老賢者の声色は穏やかならぬもので、普段の好々爺然としたものなど微塵も感じられなかったからだ。畏れ、という言葉が的確に符合する感情がルイーダの中に渦巻く。別に自分が咎められている訳では無いのだが、その老賢者の醸す雰囲気に思わず声を発することすらルイーダは忘れていた。
 喧騒に賑わう酒場の中で、異質な空気を形作っていたカウンターでは、重い沈黙が流れている。
 それを打ち壊す様に、第三者の声が場に響いた。
「随分不景気そうな顔をしているな。バウル」
 陽気な酒場にそぐわぬ、落ち着いた口調で声が掛けられた。
「イリオスか。珍しいの、お主がここに来るとは。……セシルはどうした?」
「もう休んでいるよ。私は、急に飲みたくなったからな……」
 ルイーダに紳士的に会釈をして、イリオスはバウルの隣に腰を下ろした。




 ざわつく喧騒を背中に、カウンター席に座り込んだまま、無言でグラスの琥珀色の液体を喉に通すイリオス。バウルもまた、黙したままグラスを傾ける。手にしたままのグラスの表面が、薄っすらと水分で滲んでいた。中の琥珀色の水面みなもに浮かぶ氷が、酒場の熱気に晒されて溶け始めている。
 二人の間の付き合いは既に半世紀を越える程の、長久なものであって、そこには心内の探り合いなど既に無意味であった。老獪ろうかいな手段として言葉による白々しい定義付けなど、自身や他者を欺く為の方便に過ぎない事を熟知しているからだ。だから互いに不要な言葉など黙して語らず、ただ時間の流れるさまに身を委ねているのであった。
 ルイーダは他の客に注文された飲食物を作る為に、今は席を外している。奥の部屋から、勢い良く何かが炒められている爽快な音が、周囲の喧騒に負けじと聞こえていた。
 時が経つにつれ、いよいよ客の中には気分が良くなったのか、軽快な歌声をだして唄い出す客もいる。それに合わせて場は盛り上がり、リズムを刻むように、また唄い出した冒険者を煽る様に拍子を取る者もいる。
 陽気な店内とは裏腹に、どこかそれを拒絶する様にイリオスは言葉を紡いだ。
「………ユリウスは、今どのあたりだろうか」
「城の者の話では、誘いの洞窟を越えたそうじゃ。もうじき、ロマリアに着く頃じゃろうな」
「……ロマリアか。遠いな…」
 孫を心配する祖父の顔で、イリオスは酒の表面に映る自身の顔を覗き込む。
「ユリウスは、これからどれだけの魔物と人間を斬っていくのだろう……。どれだけの悪意と敵意の中を突き進んでいくのだろう……」
「イリオス……、それは」
 悲哀に満ちた視線をグラスに落として、イリオスは語る。微かにグラスを握る手に力が篭ったのか、氷が身動いでいた。その様を横目にし、バウルは言葉に詰まった。
『アリアハンの勇者』という名目を背負っている以上、旅先では様々な困難が振りかかるであろう事は承知していた。魔物の襲撃、人間同士の損得絡みの策謀……。それらを退ける為に、力づくも辞さない時も有るであろう事を。それらが容易に予想できてしまう為に、バウルは言葉を発せず苦々しく顔を顰めるだけだった。
 ふと『賢者』になった頃の自分と、『剣聖』と称されていた頃のイリオス。半世紀程前の記憶が脳裡を過ぎる。

 暫し二人は黙し、グラスを空ける。
 鼻についていた煙草の紫煙と、芳醇な酒気が気になら無くなってきた。空のグラスの表面に付く水滴は、既に滴り落ちテーブルの上に小さな湖水を作っている。それらは時間の経過を否応無く感じさせ、その無為無常さは何も出来ない自身の無力さをひしひしと痛感させる。
「……何故、あの子なのだ。何故ユリウスでなければいけないのだっ……!? ユリウス、あの子は……」
「イリオス……」
 微かに抑揚を顕した声に、彼の心中での慟哭が聞えて来そうであった。グラスを掴む手が震え、既にその姿形を保っていない氷は激しく揺れてその姿を崩す。眉間に刻まれた深い皺に一層の力を込めてイリオスは瞑目した。
 隣で悲愴さを醸す今のイリオスに掛ける言葉は、バウルには思いつかなかった。憐憫など、この責任感の強い男にとっては嘲りにしかなら無い事くらい充分承知している。オルテガの訃報の時も自身の無力さを嘆き、今も自らを責め続け、迷い続けているこの男に何を言えば良いのか、長い付き合いのバウルすら解らない。
(セフィーナよ。お前なら…、その答えを指し示してくれたのじゃろうか……)
 嘗ての弟子を思いだしてバウルもまた瞑目し、嘆息する。




 やがて忙しなく店内を回っていたルイーダが、カウンターに座る二人の老人の元に戻ってきた。それを見止め、カウンターの隅に座っていたその人物・・・・は口を開いた。
「……マダム、お勘定はここに置いていきますね」
 周囲に響き渡る野太い笑い声とは全く異質の清らかな声色が、黙したままのバウルとイリオスを前に深刻そうな顔をして立っていたルイーダの耳に入る。
「え? ああ、どうも…」
 その主へ眼を向けると、店の中だというのにも関らず、白妙しろたえの長いマントに身を包み、同色のフードを深く被ったままの客がゆっくりとカウンターの席から立ち上がる。声色とマントの胸の辺りの膨らみから女性であることは判ったが、その表情はフードに遮られて覗く事はできない。ただ、隙間から僅かに零れている髪の先が、目の醒めるような純白であるという点が、その人物の印象を深く刻み込ませていた。
 そのような客が居た事を、今の今まで気付かなかったルイーダは不思議な感覚に陥る。
 カウンターに置かれた代金を確認して、ルイーダは艶やかな笑みを浮かべながらコクリと頷く。それをフードの奥から認めた女性は、礼儀正しく頭を下げ踵を返した。やがて、喧騒と共に酒気と煙草の煙に色めき立つ冒険者達の間を微風のように流淡とすり抜けて、店内を颯爽と去り行く。
 その様はまるで幻であったかのように、周囲の風景に溶け込んでその奥の、陽気に騒ぐ冒険者達の姿を霞ませて、砂漠の蜃気楼のように音も無く消え去った。……そんな表現が最も近いとルイーダは思い、暫し呆気に取られたままパチパチと目を瞬かせていた。
 唖然としたまま立ち尽くしているルイーダに気が付いたバウルは、声を掛ける。
「……ん? どうしたルイーダ」
「あ、いいえ…何でも有りません」
 我に返ったルイーダは慌てて取り繕い、どこか頭に引っ掛かるものを感じながらも、己の仕事に戻って行く。その思考も賑わう喧騒と伴う忙しなさに揺らぎ、やがて脳裡から掻き消えた。








 アリアハン大聖堂の裏手にある共同墓地。
 理路整然と並べられた墓碑の上に、僅かな星明りがその御影石を照らしている。昼に比べてその差がはっきりと顕れる夏の夜の空気は、この場所が霊域である事を改めて思い起こさせる。
 静寂が覆うこの場所に、夜闇を纏いながら佇む二つの人影があった。一人はこの大聖堂の司祭、ソニアの実父ラドル。そしてその傍らには、その妻ディナが黙祷を捧げていた。
『慧眼を以って真理を解し、慧敏を以って魔を隷する者。理慧の魔女セフィーナ=アルフェリア、ここに眠る』
 彼らの前に鎮座する墓碑にはそう刻まれている。
 墓前に飾られた花は夜の冷気を含む風に晒され、その身を寒そうに揺らしている。ディナはその束を拾い上げると、哀しそうに眉を下げ、両腕でしっかりと外套の上から抱き留めた。その様子を悲哀に目を細めながら見つめていたラドルは、無言で妻の肩を抱き寄せる。夜風に吹かれていて纏う外套は既に冷たくなっており、自然と掴む手に力が入った。

 この霊廟に流れる幽隠とした沈黙。
 それを破る様に、二人の後方にある墓地の入り口から、一定の間隔で石畳を蹴る足音が静まり返った場に響き渡る。それを耳にして、真夜中…しかも閉門している墓地に足を踏み入れるなど一体何者なのだろうか。そう胸中で嘆息しながらラドルとディナは振り向いた。
 今宵は月の無い夜だ。僅かな星明りのみではその人物の事をはっきりと目視する事ができない。そんな心情を肯定するかのように、二人の視線の先には薄っすらと人の形をした影が、悠然と佇んでいる。
 微かに、得体の知れない危機感が自身の内を駆け巡る。その動揺を外に出ない様に、毅然とした態度でラドル。
「……失礼だが、貴女は? こんな真夜中に、一体何の御用で?」
「ここが、『理慧の魔女』様の墓碑と訊いていましたので、墓参に」
 白妙のマントも今は闇色に染まり、周囲の景色に溶け込みながらも、はっきりと丁寧に彼女は返した。
 その真夜中に現れた参拝者に、不信を顕にしながら歩み寄るディナ。その強い意志に満ちた眼光は暗い闇夜の中を裂いて相手を捉える。
 義娘がそう呼ばれる事を好んでいなかった事を彼女は…否、その隣に佇むラドルも知っていた。だからこそ、世間に流れる敬称のみを強調する人間に対して、良い顔は出来なかった。陽が昇っている平時ならば、場所と立場と責任より、それは憚れるのだが、心に安寧を与える月が出ていない夜。それは不安と共に、人の悲愴的な情緒を煽る。
「……貴女はアリアハンの人間か?」
「いいえ、違います。………それが何か?」
「…いや、こちらの話だ」
 暗さで良く見えないが、首らしき部位の影が僅かに傾く。それを注意深く見止めディナは言い、その女性に墓前を譲った。
(…ならば、仕方が無いか)
 ディナは、そう胸中でひとりごちる。
「そうですか」
 軽く二人に会釈をして、来訪した彼女はそっと両手を組み墓前に跪いた。

 数刻の間、フードの彼女は黙祷したまま動かない。
 その様子は、まるで墓の下に眠る人物の事を知っている為、捧げる祈りの言葉や想いが次から次へと胸の内から込み上げて、気持ちの整理がつけられない人の様にも見えた。事実、背後でその来訪者を見下ろしていたラドルとディナには、そう映っていた。魔物が跋扈するこの時世……。その凶牙によって家族や愛しい者が奪われるという事は、日常茶飯事であったからだ。
(……違う。ここじゃない)
 フードの奥の双眸を閉じながら、そう思う。
 ここでは無いとするならば……。と直後ろに立っている二人にすら聞こえぬ程の声量で、フードの女性は呟いた。自分の心に何か引っ掛かるものを感じて思考を巡らせていたが、やがて意を決した様に開眼し、立ち上がる。
「それでは失礼致します。ラドル=ライズバード殿。十三賢人“三博士・理”ディナ=ライズバード殿……」
「!!」
 名乗ってもいないのに、自分たちの名を言い当てられた事に愕然とする二人。瞳には驚愕の色と共に、猜疑の色を浮かばせていた。それを薄く微笑んで眺めていた女性は立ち去ろうと、唖然として佇む二人の前を通り過ぎる。

 その時、一陣の風がこの墓地を駈け抜けた。
 その強風に女性の被ったフードは捲れ、その下の素顔が顕になる。
 月の無い夜であるが為に、それをはっきりと確認する事が出来なかったが、冷水を浴びせられた様に固まってラドルとディナは瞠目していた。風に靡かれていた髪は、闇色の空の下でも、ぼんやりと星明りを映し込んでいるようであった。その風に梳かれている髪を手で抑えながら、歩を進めようとする女性の仕草に、漸く我に返ったディナは慌てて口を開く。
「! …ま、待て。貴女は一体……」
 先刻までの毅然とした声色では無く、何かに怯える様に震え、擦れていた。
「私はルティア。……縁があれば、再びお目にかかる日が来るかもしれません」
 ルティアと名乗った女性は、半分だけ顔を傾けるとその口元に薄く笑みを作る。闇に阻まれたまま、暁色の双眸がその先でうろたえたままの二人を映し込み、そして瞼を閉じた。
 すると再び、群立する墓碑の間を縫って強風が駈け巡る。先程のものとは明らかに異なるのは、夜の冷たいそれでは無く、春風を彷彿させる温かなもの。
 その突然の風にラドルとディナは目を瞑る。全身を撫でる風に、纏った外套と髪。そして拾い上げた花の束が激しく靡き、聴覚と触覚のみが風の中で鋭敏に働いていた。

 風が収まりディナが目を開き顔を上げた時には、既にその来訪者の姿は無く、周りに鎮座する墓碑だけが星明りと虫の鳴声の下で幽然と佇んでいる。
「……消え、た」
 妻の呟きを耳にしながら、ラドルも茫然と虚空に視線を泳がせていた。








 再びフードを深く被り、ルティアは城下を出て南の森林を歩いていく。
 人のいない闇夜の森の中…自らのテリトリーに足を踏み入れた者に、度々魔物達が牙を剥く。が、彼女がその手を翳し、一言呟いただけで魔物達は深い眠りの園に落ちていった。
 静深とした森の中を続く道をゆっくりと歩んでいると、やがて森が終わり、満天の星々を翳す闇色の空と混濁とした漆黒の海が、視界一面に広がった。その昏黒とした闇を目にしても、ルティアには恐怖と言う感情は沸いてこない。寧ろ、どこかホッとするような不思議な感覚が心の中で掻き立てられていた。
 その先に有る場所…ポツンと世界から取り残されたように、空と海の狭間に立っている、木の十字架に歩み寄る。
「ここは……」
 物寂しいわね……。周りの風景の鎮まった様子を眺めながらルティアは呟く。それに応する様に、十字架に掛けられていた銀のサークレット…それにあしらわれている宝玉がキラリと光った。
「これは…! これで、やっと……」
 刹那、眼を見開いて、震える手を伸ばしてそれを取り、とても愛しそうに胸に抱いた。
 星々の明かりだけでも清廉に輝く蒼穹の宝玉を、その白い指先でそっと撫でる。感極まって、閉じられた双眸の端が僅かに潤み、一筋の雫がその白い頬を伝う。零れる言葉が微かに震えていた。
 瞑目したまま思案に耽る様に佇み、夜の海と空からの風を一身に受ける。僅かに身体が上気しているのか、その冷ややかさが心地良い。白妙のマントとフードがそれに乗るように靡き、再びその純白の髪が風に梳かれた。
 やがて、眼前の儚さと哀愁を醸す十字架の前に腰を下ろして、祈る様に瞑目したまま満天の星空を仰ぐ。
 風の音、漣の音、葉の音、虫の音……。それら自然の音色に乗せて、ルティアは透き通った声で唱えた。





此方こなたに囚われし哀しき意識よ。天律の下に、新たなる寂滅の旅路へ……」




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