――――第一章
      第一話 戻れない日常







 夢を見ていた気がする――あれを夢と判断するのならば。
 現実にはない夢特有の浮遊感。意識と共に移る景色。それはどこか知らない場所――だが何故か落ち着く、懐かしい場所。
 誰かの声がした。優しく包み込むような不思議な声。酷く心地良く、そして懐かしい声――だが誰のものかは、わからない。
 何かを告げられた。とても大事な、忘れてはならない事を――しかし、何かは思い出せない。
 ただ一つ、覚えているのは光。安らげるような暖かい――ナツ、カ……シイ、ヒ……カ、リ。








「――ウス、ユ――ス。ユリウス、起きなさい」
 瞼の裏から突き刺さるような鮮烈な光を感じ、錆び付いた窓のような重い瞼を微かに開ける。
 焦点の定まぬ眼によるぼやけた視界の先には、逆光の中、呆れ顔で部屋のカーテンを勢い良く開ける母親の姿があった。
 突然部屋に入り込む光量が増えた為、眩しさに耐え切れずにユリウスは眼を瞑り、顔を歪める。
「おはよう、ユリウス。朝ご飯できているわよ。着替えて降りてきなさい」
 半開きの眼を就寝時に着た服の袖で擦りながら、低く擦れた声でユリウスは返す。
「…………おはよう」
 未だに惚けている息子に、優しく微笑みかけると母は部屋を後にした。
 去りしなに、母が僅かに眉を下げたのを見止め、先程の微笑みに心無しか蔭りが載っていたように感じられた。

(夢を……見ていた気がする)
 曖昧でハッキリと思い出す事ができない。でも何故か大切で、何処か懐かしい夢――。
(何かがあった気がするが……何だった?)
 夢を視たという感覚は残っている。しかしその余韻は何一つ意識の裡には見当たらなかった。
 思案に耽そうになる頭を大きく一つ振って立ち上がり、ユリウスは部屋の窓を開ける。爽快に流れ込んでくる初夏の、心地良い朝の新鮮な空気を肺腑に染み込ませながら、大きく身体を動かした。スラリと伸びる引き締まった四肢。細身ではあるが無駄の無い筋肉と若さを秘めた身体。そして、陽に梳かれ艶やかに黒く光る髪を擁す頭。
 力いっぱい全身の筋肉を伸縮させる事で、ユリウスの肉体は活動を再開する。身体の内を行き渡る血液の脈動が勢いを増すと同時に思考も鮮明になってくる。
 就寝時に着た寝巻きの袖で、惰眠を名残惜しく欲している瞼を擦って檄を打つ。少々寝癖の残った漆黒の髪を掻いて、最後に大きく深呼吸した。
「夢なら覚えてなくて当然か」
 胸に浮かんだ疑問を自らそう結論付けて、ユリウスは部屋着に着替えた。
 そこでふと、思い出したように自室の壁に掛けてあるカレンダーを見る。そこには、整然と並べられた数字の羅列の中でも、今日という日の数字が、遠くからでも注意を惹く様に朱色でマーキングされてあった。
 誰が見ても、そこに今日という日はいつもとは違う特別な日である、と見出すだろう。自分で印したにもかかわらず、ユリウスにはその朱色が血で描かれた様な禍々しいものに見えてしまい、思わず苦笑を漏らしてしまう。
「今日、か……そうだ。漸く、今日だ」
 ポツリと呟かれた言葉は誰の耳にも届かずに、窓の外の、高く澄んだ空の下で軽やかに歌う鳥の鳴き声に掻き消されていた。



 階下のリビングには、既に母セシルと祖父イリオスの姿があった。
 二人とも既に食卓に着いている。二人の前に並べられた食事が幾分か減っている事から、食べ始めていたのだろう。自分はいつも最後に起きて、食卓に着くから仕方が無いと言えば、仕方が無い。
 だがそれは、いつもと変わらない平凡な朝の象徴。しかし……今日は、決定的に何かが違う朝だった。
 階下に姿を現したと同時に感じた言葉に表す事の出来ない緊張を、当のユリウスだけではなくその場にいる誰もが感じていた。
「やっと起きたかユリウス。おはよう」
 既に高齢の域に達しているのだが、年齢を感じさせない程背筋の伸びた、衰えの見えない体躯を誇る祖父イリオスが健康的な肌に皺を作った顔で微笑んだ。一見すると人の良さそうな好々爺の祖父だが、若かりし頃は世界を廻っていた一流の冒険者でもあった。冒険者として、剣士としてその道で名を馳せていただけに、今もその日々の鍛錬は怠らない。故に彼の朝は早く、未だに寝惚け眼の孫の姿に苦笑を浮べていた。
 寝癖の残る髪を掻きながら、ユリウスは年季の入ったアンティークの壁時計に目をやった。いつもと何一つ変わらない時刻を示していた。
 やはり自分は気をいているんだ、とユリウスは改めて思った。
「……おはよう」
 充分な睡眠を取っていたのだが、未だまどろみが後ろ髪を引いているので首を一つ大きく回してユリウスは自分にあてがわれた席に着く。
 所狭しと食卓に並べられた朝食は、いつものそれと比べると幾分か豪勢なものだった。
 たちこめる湯気や芳しい香りが鼻腔をくすぐり空の胃を刺激して食欲を掻き立てる。
 やがて遅れて来たユリウスの分の配膳を終え、母も再び自身の席に着いた。
「ずいぶん多いな」
 率直な朝食の感想。その言葉に、母と祖父は一瞬身を竦めたのをユリウスは見逃さなかった。
(最後の晩餐、だというのなら、この上なく的を射ている気もするが……)
 さすがに内心で紡ぎ出された皮肉の言葉をそのまま声に出すほどユリウスは無神経でも親不孝者でもなかった。内心で苦笑しながらユリウスは自身の席に置かれてある木製の匙を取る。
「ほら、今日はあなたの誕生日でしょ」
 母は手を合わせ声を明るく上げて言う。緊張の為か、動揺の為か声が微かに上擦っていた。
「うむ」
 祖父が両腕を組み、力強く肯きながら言う。母とは対照的に酷く落ち着いた様が、逆にその強張りようを曝しているようであった。
 二人の祝賀の、その隠された意味を理解して少し眉が下がる。が、直にそれを悟られまいと、ユリウスは二人に薄く微笑みかける。誰に対面した時にでも用いる、仮面を換えただけのような乾いた冷たい笑顔で。
「ああ、そうだな。いただきます」
 内心を仮面の下に封殺した笑顔のままユリウスが言うと、それに気付かずか微笑んで二人も続けて食事を始めた。

(悲しくない、と言う事は無いだろうな。流石に)
 子と離れて悲しまない親はいない、という誰かの言葉が脳裡に浮かんだ。もしそれが、巣立ちという意味での別離であるのならば親としてそれは誇らしい事であり、悲しくもあるが嬉しくもある筈だ。
 だが、自分はどうであろうか……自分のこれから進もうとする“路”は――。
(その定義を是とするならば、俺は親不孝者とでも言うべきだな)
 同じ席に着いている母や祖父にとって最愛であり、誇らしい夫や息子であるオルテガと同じように、自分もその路に進もうと言うのだ。死と隣り合わせの果ての見えない路に。
(強い、と言う事か。二人とも)
 冷静に眼前の二人を見分しながら本心でそう思う。彼らは息子の自分には、決して弱さを見せたりはしなかった。
(それだけに、今日という日は辛いのものなのか、或いは待ち望んでいたのか……まぁ、今更どちらでもいいな)
 ユリウスは食を進めながら独白地味た思考を、極めて他人事のように繰り広げていた。

 平静を装ってはいたが、チラリチラリと自分を見る二人の視線が少し痛かった。途中食を進める手を止める度に、母や祖父がハッとした様に自分を見て沈黙するのには少々ウンザリしたが。
 いつもの様に、言葉少なく食事の時は穏やかに流れていった。








 食事を終え、自分の部屋で旅立ちの準備をするユリウス。
 頑丈な革のベルトに護身用に用意したの聖なるナイフを差し、耐久性を高めた濃紺の外套を羽織る。通気性の良い丈夫な生地の手袋に手を通しベルトで固定し、腰の道具袋に予め用意した薬草や非常食用にと保存の利く種や木の実を入れ、最後に、夕日を彷彿させる紅蓮の宝玉をあしらったサークレットをかぶる。
 それは不思議と心地良い程に自分の頭に被さり、力を秘めた紅い宝玉が額の真上に落ち着く。ふと壁に掛かった鏡を見て強張った自らの様にユリウスは苦笑してしまう。
「……やはり似合ってないな。まあ、いいか」
 簡単に自分の旅支度の評価をしたら、ユリウスは部屋の入り口の壁に立て掛けてあった長年愛用していた銅の剣に触れ、そしてその横にある真新しい鋼鉄の剣の柄を握り、その重さを噛み締める。自身の机に重ね置かれた古めかしい魔法書の表紙を懐かしむ様にそっと指先で撫でる。
 一通り自身が生活してきた部屋を闇色の双眸で眺めた後、楯を背負い深深と腰を折って一礼し、踵を返す。羽織った外套が名残惜しく靡いているのを無視して、二度と戻るつもりのない部屋を後にした。



 階下の玄関では母と祖父が待っていた。二人は先程とは打って変わって落ち着きを取り戻しているようである。
 もう諦めたのか、心配を掛けない様に振る舞っているのかユリウスは思案しようとした、が。
(前者なら俺も気が楽なんだがな)
 後者であることが痛い程に目に見えてわかったので、ユリウスは敢えて心の中で呟いた。
「気を付けて。あなたはオルテガと私の息子。あの人と同じ・・立派な“勇者”になるのよ」
 セシルはユリウスを勇気付けようと、おまじないの様にその単語を言った。幾度と無く言われ続けたその言葉を言う時、母のその深い藍色の瞳には、強い感情を宿す光が込められているのを自分は知っていた。
「……ああ。わかってる」
 その母の双眸に宿る光に半ば目を背けたくなる感覚に陥るが、ユリウスは極力表情に出さないように、一呼吸置き平静を保ったまま答える。
 どんな時でも母は自分を通して父を追っている事が既に理解していたから、表情には出ることは無かった。ただいつものように変わらない表情を向けて微笑む。
 そんな見ていて痛々しい孫の心中を察してか、祖父は真剣な表情で言った。
「お前は、お前自身の道を進むのだぞ。ユリウス……誰の為でもない、自分自身の為に。どんな状況に在れど、自らの裡に秘めた刃は折ってはならんぞ」
 祖父の口癖とも言えるその力強い言葉は、ユリウスの中で強く響き渡り、思わず唾を呑み込む。
 だが、表情に出す訳にはいかなかった。出してしまえば気分が軽くなるような気がしたが、それは母の気持ちを否定してしまいかねない……何となく、そんな気がした。
 そして、それだけはしたくないとユリウスは思ったので先程と同じように、ただ頷いた。
 祖父も、そんなユリウス反応を予期しての言葉だったのかもしれない。
「祖父さん。母さんのこと、頼む」
 ユリウスの言葉に、イリオスは無言で雄々しく頷く。
「……じゃあ、行って来る」
 玄関の扉のノブに手を掛けながらユリウスは言った。
「ええ、いってらっしゃい……」
 そういって母は息子を抱擁した。暫しユリウスは眼を瞑り、その温かさを噛み締める。
「行ってこい」
 祖父は母子の抱擁に眼を潤ませながら見ていたが、キッと真剣な眼差しで言った。
 セシルの背中を、そっと添えるような手で抱き返してからユリウスは離れ、再び扉のノブに手を掛ける。
 扉の隙間から射してくる光は鮮烈で、目を細めながら一気に開け放った。

 逆光で白一色に染まった視界が、徐々にその眩さに慣れ本来の色彩を取り戻す。朝の涼しい風を頬に受けてユリウスは空を仰ぐ。
 空はどこまでも高く蒼穹で、世界の憂いなど感じさせない程に澄み切っていた。
 その清々しい白光の中、ユリウスは首だけを薄暗くなった家の中で佇む二人に向けて、呟く。
「……“魔王”は必ず、俺が殺す」
 言葉にハッとして二人は顔を上げたが、外と内の光の明暗の為、彼らの表情を見る事は出来ない。見るつもりも無かったが、その事に僅かに感謝しながらユリウスは颯爽と歩み、生家を後にした。
 離れ往く家から母の、祖父の声が聞こえたような気がしたが、振り返る訳にも、それを聞く訳にもいかなかった。








「……行ってしまったな」
「はい。でもお義父さん……」
 追うように家の軒先まで出て、セシルとイリオスの二人はいつまでもユリウスの後姿を見つめていた。
「?」
やっと・・・行ったんです……あの人の、仇を討つ為に」
 振り向く事無く、ただ小さくなっていくユリウスの後姿を見つめながらセシル。その面には、この時を待ち望んでいたような満面の、優しい笑みが浮かんでいる。
 その様子を目線だけ動かして見つめながら、イリオスはきつく眼を瞑った。沸々と胸の奥から込み上げて来る想いに自然と眉間に力が入り、皺が寄る。
 暫しそのまま黙した後、イリオスはふぅと溜息を吐いた。
「……そうだな」
 既にユリウスの姿が遠く霞んで見えなくなっても、いつまでも、いつまでも……。二人はユリウスを見つめていた。

 ……十六年も昔、同じように旅立っていき、結局帰ることの無かった“勇者”にして、息子であり夫のオルテガ。彼の姿を追い求め、それをユリウスに重ねていたのかも知れない……。








 足早に、城下町の大通りを歩きながら、眼を細め深く息を吐いてユリウスは考えていた。

 母にも祖父にも感謝している。二人は真っ直ぐで、温かい愛情を注いでくれた。それが本心を隠した偽りの装丁であったとしても……それは確かに、返しても返し切れない程のものを自分に与えてくれたのだ。
 だからこそ……もう引き返す事はできない。引き返してはならない。
 自分に選択できるのは目の前にある闇の路をただ手探りで進んで行く事しかない。もしかすると直にでも死ぬかもしれないが……いずれにせよこの路には、まともな未来など在りはしないのだ。
 だからこそ、進むしかない。ただ前へ、ただ先へ、ただ闇へ……その果てへ。

 ユリウスはそう意識しながら、朝日によって白々と彩られ、鳥たちのさえずりが拍手喝采の様に響き渡っている王城前の石畳の道を踏み締め、その先……遠くに薄っすらと佇むアリアハン王城を見据えていた。
 ただその瞳の色はどこまでも深淵で、果てしなく昏い闇色だった。




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