――――序章
      第二話 去り行く日々







 乾いた金属音が静寂に包まれた空間にけたたましく響き渡る。
 厳格な印象を撒き散らす甲冑を纏った騎士の手より弾かれた剣が、鈍い光を反しながら緩やかな弧を描いて床に突き刺さった。
 兜の隙間から覗く騎士の驚愕に染められた表情は、彼自身が今の間際に何が起きたのかを理解できていないという意思を雄弁に物語る。
 しかし対する壮年の騎士とて突然に武器を失っただけで茫然自失に陥る程に生易しい存在ではなく、長年鍛え抜いた鋼の心胆で自らを鼓舞し、ただの一つの瞬きの内に自分を取り戻すと弾かれた剣を再び手に取らんと身体を動かし――間断無く喉元に突き付けられた剣先によって、硬直を以って今まさに走りださんとしていた全身を止める事を余儀無くされた。
 場に未だに満ちていた玲瓏の残響が、やがて深々とした静けさに染み渡る中。
 床に隙間無く敷き詰められた煉瓦を易々と打ち砕き、雄々しく突き立った剣の刀身が僅かに採光用の窓から射し入って来る陽光を反射させて、この状況を創り出した者に降り注ぐ。
 眩いばかりの鮮烈な光の祝賀の先には、無骨な空気が漂うこの場に相応しくない線の細い少年が佇んでいた。
 屋内に届く陽光の傾きの為に白く輝いていたが、時の移ろいと共に本来の瑞々しく艶やかな漆黒の髪が露らになる。その下で、光すら残さず吸い込んでしまうような深遠な闇を湛える黒曜石の瞳が、澱みなく正面を見据えていた。
 遠巻きに一見しただけでは少女と見紛ってしまいそうな端整さの少年が、凡そ感情が通っていないのでは無いかと思わせる無の相貌で、剣の切先を精強な壮年騎士の喉元に突き付ける。
 ある種の非現実感を見る者に思わせる光景は、燦然とする逆光の中で両者共に彫像の如く微動だにしない事も相俟って、泰然と立ち揺ぎ無く剣を構える姿は書に語られる神話の一場面の再現した荘厳な一枚絵に等しかった。
「……ま、参った」
 どれだけの間、静止した時が流れたのか。暫くして壮年の男が擦れた声を絞り出す。
 訓練用にと刃を潰されてはいるものの、それでもその鋭利な切先と鏡のように自らの姿を反す黒き双眸が、既に刃が失われている事実を超えて楽に喉笛を貫かんとする威圧を幻視さえ、騎士の錬鉄の精神さえをも踏み躙って抗し難い怖れの蔭りを生じさせる。
 降参の意思表示は、見る間に顔色を亡失させていく騎士の最後の気力だったのだろう。言葉が周囲を巡って自身の耳朶をそっと撫で付けると、纏っている鎧の金擦り音が微かに、次第に大きくなって静謐を打ち崩していく。
「そこまでっ! 勝者、ユリウス=ブラムバルド!!」
 呆気に取られていた審判役の騎士が高らかに勝利を宣言すると、今まで静まり返っていた周囲から一斉に歓声に沸き上がった。



 この場所は、嘗て世界同盟の長として世に君臨していた盟主アリアハン王国の王宮。その一角に設けられた騎士兵士達の剣闘修練場だ。
 市井の民草を護る事を本懐とする者達が日夜修練に努める厳格な場に、分不相応な喝采が沸き立つのには訳があった。
 二十余年前、何処からか現れた闇と魔を統べる存在“魔王”によって世界の平穏や調和均衡が崩され、魔物モンスター化した動物種が徒党を組んで人間世界に侵略を開始した。
 その脅威に対抗する第一刃としてアリアハンが世界に輩出した英雄オルテガ。
 彼の者が出立して以来。アリアハン王国では最初の“勇者”の輩出国として彼の者の後に続かんとする戦力の育成を標榜に掲げ、年に数回、城仕えの騎士兵士達の士気や意欲を向上させる為に剣闘大会が開催されているのであった。



(……騒がしいな)
 熱気が犇く周囲を酷く冷め切った視線で一瞥した後。大会を制したユリウスと呼ばれた少年は無表情に思う。
 面貌に掛かる影の様相によって見る者に少女の風体を思わせる程に中性的な線の細さの少年は、勝利の宣告と共に手にしていた銅の剣を腰に佩く鞘に収め、尚も鳴り止まぬ喝采を至極冷ややかに聞き流す。
 周囲がこれ程までに熱狂する意図が理解できず、ただ無為なるまま悠然と立ち尽くしていた。
「見事であったユリウスよ」
 周囲に対しての疑問を内心で呈していたユリウスの耳に、泰山の如き威厳に低く、それでいて良く通る声が掛けられる。声を受けてユリウスは弾かれたようにその主を仰ぎ、場に恭しくひざまずく。
 下げられた頭の先には、汗と泥が滲む殺伐とした修練場の雰囲気にそぐわない、豪奢で重厚な衣に身を包んだ現アリアハン国王ラヴェル十二世、ザウリエ=W=オケアノスが満足気な笑みを浮べ佇んでいた。
 ただそこに在るだけで身の引き締まる清冽な覇気を放つ眼前の王は、既に壮年の域に差し掛かっている取巻きの大臣よりも一回り以上若く、それ故に堅強な体躯を誇っている。平素であるならば無を保つだけで相手を萎縮させる彫りの深い精悍な顔も、今は幾分か緩んでいて彼が上機嫌である事を物語っていた。
「そなたに敵う剣の使い手は、もうこのアリアハンの地にはいないであろうな」
「恐悦至極に存します。この身はまだ若輩であります故、更なる修練が必要にと存じております」
 王の偉容に気圧された訳では無いが、必要以上に畏まってユリウスは答える。幾らこの城に従事している兵士では無いとはいえ、自身が住まう国家の主に憮然とした態度を明示する程に愚かではない。不敬という事で城下に暮らす家族に要らぬ迷惑が降り掛からぬよう、礼儀を重んじた対応を取っていた。
 そんなユリウスの心情など気付いてかいまいか、王はこの応答には相槌を打つだけだった。
「ふむ……そうか」
 一瞬、何かを思案したのか王は眉間に皺を寄せ真剣な表情になったが、すぐに先程と同じ緩やかなそれに戻る。
「では、例の物を」
 王は側に控えていた近衛兵士に目配せて何かを命じる。
 ユリウスも視線だけ動かしてその方向を見ると、王の声に応じた近衛兵士の腕には、白い布に包まれた長い棒のような物が抱かれていた。
 兵士は背筋を伸ばし、訓練された確かな力強い足取りでユリウスに歩み寄り、それを手渡す。
「これは……鋼鉄の剣ですね」
 王に目で促され、ユリウスは布を捲る。そこで露わになったのは、何の変哲もない鋼鉄の剣だった。もっとも、存在感を主張する剣の重みと重心の位置。鞘の仕上げや鍔の拵えは丁寧で且つ剛胆に為されている。揚げ足を取る気など毛頭無いが、どんな観点から鑑定しても店頭に置いてある量産品などよりは質が上だとユリウスは一目で判断した。
「それはこの勝利への褒美だ。宮廷騎士団御用達の武器職人に特別に鍛えさせたもの故、そなたもきっと気に入る事だろう」
 幾許か剣を鞘から抜き、鋭烈な光を放つ刀身を見つめる。この場所に射す陽の為だと解ってはいたが、鏡の様に磨き抜かれた刀身に映った自分の顔が少し綻んでいるように見えた。
 言わずもがな、剣を主体として扱うユリウスにとってこれはありがたい褒美だった。
「有り難く、頂戴致します」
 刃を収め、ユリウスはこの褒美に対して丁寧に礼を述べる。
 その一連の隙の無い動作を見下ろしていた王は、鷹揚と口の端を持ち上げた。
「しかし、実に頼もしい限りだ。齢十五にして我が王宮の宮廷騎士団長アルベルトを始め、屈強の騎士五十人を倒してしまうとはな……ここは騎士達の不甲斐無さを叱咤したいところだが、流石の“オルテガの息子”が相手とあってはこの結末は仕方あるまい」
 王は薄い金の顎鬚をもてあそび、遠く懐かしむような仕草で言う。その横で今の今までユリウスの相手をしていた騎士団長アルベルトが、申し訳なさそうに王に頭を垂れていた。
 対するユリウスは、跪いたまま王の誉め言葉を何の感慨も無く聞き流していたが、“オルテガの息子”という単語が発せられた時に、その無表情の上で僅かに目を細めた。
(……またか)
 一つ、誰にも気付かれないように溜息を吐き、同時にユリウスは思考を巡らせる――。

 正直なところ、今さっきまで行われていた試合など何の苦労も無い事だった。相手が本気でない事など、剣を交えた最初の一合で解りきっていたからだ。
 この勝利は最初から定められていた予定調和。恐らくは褒賞として用意した剣を公の場で不自然無く下賜し、その事実に纏わる装飾を施す為の舞台を整えたに過ぎないのだろう。つまりはこの大会は台本通りに進められた茶番に他ならないという事だ。
 それを演じきったからといって特に感慨を覚える訳でもなく。ましてや褒称に父の名が引き合いに出されるのはいつもの事だった。
(つくづく……どうでもいい事だな)
 心の底からそう思う。
 向けられる賛辞に価値など無く、讃えられる誉れに意味など無い。
 詠われる武勇に興味など無く、与えられた称号など……自分には関係無い。
 それら全ては“オルテガの息子”へ向けられしもの。そして“オルテガの息子”とは、ユリウスという己を微塵も介在していない、空虚な記号でしかなかった。

――視界を閉ざして迸らせた思考はいつも通りの帰結に落ち着き、ユリウスは瞼を持ち上げる。
 それは刹那の瞑目であった為、この場でユリウスの変化に気付く者は誰一人居なかった。
「いやはや、流石は我らが誇る“アリアハンの勇者”ですな」
「まったくです。どこぞの役立たずの魔女・・・・・・・とはモノが違いますなぁ」
 王の側に控えていた大臣ガイストと、宮廷魔術師長リグリアが上機嫌に高笑いをしている。
 一つ咳払いした王に一瞥され彼らは慌てて口を閉ざしたが、その表情から悪びれた様子は微塵も感じられなかった。
 そんな彼らを垣間見て、ユリウスはたった今賜ったばかりの剣を彼らの心の臓に突き立てて、切り刻んでやりたくなる衝動に駈られる。だが家族の顔が頭に浮かび強力な自制心を以ってしてそれに耐えた。
 ドクン、ドクンと強かに脈打つ自分の鼓動を鎮める為に深く長く息を吐き、代わりに侮蔑を込めた冷厳な視線を彼らに投げつける。その際、一瞬でも殺気が外に漏れ出してしまったかとユリウスは危惧したが、しかし幸いにして周囲はそれに気付いた様子は無く。
 今、周りの兵士達や大会を見に来た王宮に仕える女中達の間では、頻りにユリウス本人ではなく“オルテガの息子”への賞賛が続けられていた。
 歓声、賛辞、喝采、好奇。忙しなく無秩序に飛び交う言の葉の群。
 いつしかユリウスにはこの場に犇く全ての音韻から意味が消え、遠くから聞こえるただ耳障りなだけの金切り音と化していた。
 広く堅牢な修練場が、残酷なまでにその不快な喝采を響き渡らせ、不協和音を奏で続けていた。








 アリアハン城を後にしたユリウスは、城を囲む堀に掛けられている橋の丁度真中で大きく背伸びをした。やっと息苦しい所から開放されたと思うと少し気が楽になる。あの後、王が鷹揚と何かを言っていた気がするがユリウスの記憶にその足跡を残す事は無かった。
 開放感を全身に覚え、身体全体が軽くなって、駆け出したくなる自分がいる事に内心で苦笑する。
 昔から人が多く堅苦しい場所は苦手としていたが、それよりもそんな事を感じるだけのモノ・・が自分の中に未だ残っていたと言う事実に自嘲を禁じえなかった。
 王城を囲う深い堀に掛けられた橋を颯爽と渡りきり、夕焼けに彩られた王城前の並木道を表情無く進んでいく。時折すれ違う城下の人々から微かに名前や“勇者様”と囁かれるが、それら一切を悉く無視して石畳を踏み締める。
 夕日は既に沈みかけ、黄昏に染まっていた街並には薄い夜の帳が掛かり始めていた。街を彩る喧騒は次第に去り、人々がまばらに家路の帰途に着いている様子が見て取れる。
 ふと、遠巻きに見える街を護る為に築かれた城壁の方から、木槌で杭を打つ軽快な音が夕暮れの空に響いているのに気が付いた。しかし、その心地良い木琴の音色も夜闇の浸食と共に静まり、やがて潰える。
 大型の魔物の爪跡が深く刻み込まれた石畳。炎に焼き尽くされ木炭となった家屋の残骸。大きな力で砕かれ大穴を穿たれた城壁。王都を囲う城壁やその周辺家屋、街路には無残な破壊の痕跡が痛々しく浮かんでいる。それら何れもが半年前、このアリアハン王国を襲撃した魔物軍によるものであった。
 アリアハン王国は、過去二度に渡り魔物軍の襲撃を受けている。
 一度目の襲撃を退けたのは、嘗ての勇者オルテガ。そして、半年前の襲撃を退けたのは彼の息子であるユリウス。親子二代に渡る武勇は、このアリアハン王国では知らぬ者など存在しなかった。
 目が眩むような輝かしい英雄憚をこの国の人々は自分事の様に話し、過去の惨劇を忘れようとする。否、そうせざるを得ないのだ。
 市井の人々の間で直接的に“魔王”という存在は知られてはいなかったが、異形の魔物に襲われた恐怖を身近にある清冽な希望という光で覆い隠さねば、足元から這い上がってくる混迷と絶望は、やがて暴動という形となって発露しかねないものだったからだ。
 だが、盲目的に英雄という光に縋り崇める事は、その影として消えていった者達を忘れる事と同義である。
 それを肯定しながらこの国、アリアハン王国は復興の途を辿っていたのであった。
「平和、か」
 流れ往く人と、その変わらぬ日常。そして安穏とした平静の群像をどこか慄然とした表情で静観しながら、ユリウスは自嘲的な笑みを浮かべる。
 誰もが足を止め振り返りそうな程に整えられた笑みであったが、幸運な事に闇夜の侵食と残照の眩しさでこれに気付く者は無く。
「精巧に造られた張りぼての建物は、遠くから見る分には違いなど無く。触れさえしなければ気付く筈も無し、か……」
 誰に向けるでもなく虚空に呟く。そこには自然と嘲りが滲んでいたが、それもまた下らない感傷だ、と一つ溜息を吐いてユリウスは生家とは別の方向に踵を返した。
 向かう先では、未だ開かれたままの城門の奥に霞む夜闇が、ひっそりと自分達の時間の到来を待ち構えている。
(その裏側の骨子がどれ程の血と骸で組まれたものなのか……眼を背けるのは最早罪に等しい)
 眼前に続いている深淵への誘いを油断無く見据えていたユリウスは、その静寂の中へ少しも臆する事無く進み出し、まるで同化していくように溶け込んで行く。
 まだ肌寒さを残す夜風が吹き荒れる空の下。その背中には一抹の哀愁を漂わせていた。




―――ユリウス=ブラムバルド。運命の日より七つ前の日の事であった。




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