――――序章
      第一話 在りし世界







 夜の到来を玲瓏の如く厳かに告げるふくろうの斉唱が、深々とした世界に響き渡る。
 霞み更ける闇の帳の下で我を強かに主張するは、燦爛と律動する生命の息吹。
 生い茂る木々を涼やかに梳いて喝采を起こすは、奏で流れる風琴の優美なる韻律。
 大地に生の爪痕を刻むは、静寂な夜も動擾の昼も絶え間無く流れ続ける川のせせらぎ。
 今ここに在りし世界は、久遠より連綿と続く遥かな未来に向けて、生者の証たる命の唱歌を奏で続けていた。



「乱れている。世界が……世界を満たす“マナ”の流れが」
 大気を通して確かに伝わってくる命の鼓動をその身で感じながら、『彼女』は眼下で鈍い闇色に濁った雲海を見据える。
 天の光さえも拒絶せんとする意思を幻視してしまう程に敷き詰められた鈍色の雲は厚く、仄昏い呻きを絶えず漏らしている。それはまるでその裡に孕んだ不穏の種子の萌芽が近い事を世界に知らしめる大喚のようだ。
 黒き血涙が白妙の布地に染み込んでいく様に、重苦しい雲が徐々に大地を覆い尽くしている中。
 微かに生じた雲間から、その遥か先にて煌々と輝いている人間の意志の証である光の燈明を垣間見る。それは今にも潰えてしまいそうな程に弱々しく、再びの熾猛を望む事すら儚さを誘う灯火を見て『彼女』は愁嘆に呟いた。
「植物も、動物も人間も。“マナ”から創られ、その摂理に縛されるあらゆる生命、普く意識……いいえ、全ての胎盤たる世界すらもその時・・・から逃れる事はできない」
 それは誰に聞かれる事もない孤高の独白。来たるべき崩滅の刻を予期しているからか、深い哀憐の色彩に染まっている。
 人間が通常知覚する事の出来ない異空にて、ただ一人そこに在りし『彼女』は世界を見下ろしていた。痛切に見つめる瞳には、ここからどれだけ手を伸ばしても決して触れられないという、冷然とした現実に幾度と無く打ち拉がれた諦念の感情に満ち満ちている。
 星々が散華する天球に茫洋とその姿を見せつける月の光。そして虚空を往く峻烈な風を浴びて月光色を反していた『彼女』の髪は揺らめく。それは深淵の夜空を劈く曙光のように鮮やかに映え、一瞬だが確かに暗静とした世界に優しい彩りを与えていた。
「でも……だからこそ。この世界には……必要、なのね」
 ポツリと呟かれるあまりに切なげな韻の言葉は、流れる風を伴奏にして鎮魂歌レクイエムの如く夜空に舞う。
 やがて、しっとりと冷たい風韻に身を委ねていた『彼女』は、深い思惟の海に堕ちる為に双眸を伏せた――。








 広大なこの世界には、様々な生命の形が存在している。
 一つ。竜種。
 それは最も古くから世界の覇者として席捲し、全ての生命の原生として他の追随を許さない絶大なる力を誇る至高の種。
 一つ。妖魔種。
 それは世界の構築する根源要素“マナ”の理に通じる叡智を持ちながら、欲望のまま誇示する事無く世の影に隠遁する事を選んだ誇り高き種。
 一つ。妖精種。
 それは世界の調和を司る女神の眷属としての矜持を胸に、自然の尊い秩序と平静を護る美麗なる種。
 一つ。動物種。
 それは決して定まる事の無い自然環境の変遷と共に相応の多様なる進化を遂げ、俊英に研ぎ澄まされた野性と本能の赴くまま自由奔放しなやかに生を育む躍動の種。
 そして一つ。人間種。
 それは個性を美徳としながらも、集団による共同体の歯車の一部となる事に安寧を覚えて独自の社会を築き上げ、今や世界全土に流布している自由の種。
 何れも世界の趨勢を担う一つの翼、そこから舞い落ちる一欠片の羽根だ。他にも世界には天地開闢かいびゃく以来数え切れない生命の容が産まれ、亡びまた産まれ、そして亡んでいった。



 創世した世界の土壌が何時しか萌した生命で満たされると、異なる器との接触を果たす事になるのは大いなる流れを巡るが故の必然。そこからそれぞれの世界が調律され、拡大し繁栄していくのは蓋然だった。
 だが、多様な種達が互いの存在を認め合い共存していたのは既に風化した悠久なる過去の説話。
 歳月と共に個体数が圧倒的に肥大した人間種は、やがて世界に己が領域を拡大させる事にのみ執着するようになり、その意思は他の領域を侵犯して留まるどころか逆に加速する。
 人間が我執のままに不毛な争いを繰り返し引き起すのは、人間の深域に刻まれた闘争を求める本質が潰えぬ限り終わりは無く。永きに亘る戦乱はこの大地に多くの血と憎しみ、悲しみを浸蝕させていった。
 一年、十年。百年、千年……時は無情に、無慈悲に重ねられ。
 最早どれだけの血と躯と悲劇を重ねたか判別できなくなってしまった末に、己が立つ地に改めて気付いた人間達は愕然とする。
 内なる欲のままに奪ってしまった生命の数々、犯してしまった数え切れない罪業。傲慢、浅慮、無知なるが故に世界に刻んでしまった惨憺たる傷痕の姿。
 慨嘆と怨嗟がとぐろ捲く焦土の大地は、あまりに大きすぎる後悔と苦しみをわかりやすく提示していた。



 目の前に放り出されたせかいの形。
 人間は、己の招いた負債の清算の為に知性と理性、言葉という道具を用い、かつてのような共存共栄の道を歩む為に和解の術を模索し、奔走した。
 新しいものを生み出す事に特出した人間種は、ただ頑なにその意志を貫かんとする姿勢故に、慙愧を翳しながらも決して後ろを振り返らず。それはさながら己が罪業から眼を背ける如く……それだけが自らを赦す浄罪の路だと信じて人は只管前にへと歩んでいった。
 だが、歴史は繰り返すもの。
 世界が廻天し昼と夜が不変に連なるように、自と他が運命という大きな環に繋がっている限り永遠に続く寸劇にすぎない。寄せては反す漣のように命の巡廻は淡く、儚い。
 永く永く続いた大地の覇権を掛けた争いの時代。未来永劫続くとも思わせる熾烈な生命の遷移螺旋せんいらせん
 時を数える人とその足跡を記す歴史の中で、人間だけが何の教訓も得ないまま繁栄と淘汰を、同じ歴史を延々と繰り返す。
 やがて人間とは比較にならない長久の寿命、強大な智慧と力を持つ種は、自分達にとって泡沫に過ぎないそれを解する事はできず、いつしか無常な争いの絶えない人間種に見切りをつけて彼等の前から姿を消していった。
 そして世界は、現在の形に落ち着く事で、ようやく平静の影を見せ始める。
 人間は、世界全土に普く流布し。
 妖魔は、世に紛れて共生を選び。
 動物は、人と自然の調和を取り。
 互いの領域を侵犯しない事。それが唯一学ぶ事の出来た教訓で、真実だった。



―――やがて時は流れ、生命は流れ、世界は流れた。








 書にすら遺される事の無い嘗ての世界の騒乱も、風に吹かれる砂塵のように人々の記憶から遠く忘れ去られる。
 そしてそれを赦すまでに、世は深いまどろみの中の平穏と安寧に満たされていた。
 世界という盤面の遥か南方に位置する島大陸、アリアハン。
 その地に座するアリアハン王国が築いた世界を纏める枠組み、世界同盟。それを統べる提唱者であり盟主の庇護下、人が意思ある人である限り小さな個同士での小競り合いは絶える事は無いが、共同体としての国同士の結び付きは強く堅固だった。
 そこに属する誰もが、平和という穏やかな時間が約束されているように思っていた。誰もがこの安穏とした時間がいつまでも続くものだと信じて疑わなかった。
 しかし、無情にもその願いは唐突に踏み躙られる事になる。
 世界を大きく揺るがした天変地異と共に、この世界に“魔”の存在が降り立ったのだ。
 それはいつしか世界から姿を晦ませていた“竜”でも“妖精”でも無い、昏冥にして純然たる悪意の権化……“魔王”。
 突如としてこの世界に降臨した魔王という負陰と闇を統べる存在により、在来種であり人との境界を侵犯する事無く或る種の共存状態にあった動物種は、その野性の高さ故に魔王の放つ禍々しい悪意の影響に抗えず、より凶暴さと狂気を増して彼の者の下僕……“魔物モンスター”と化し、徒党を組むようになっていった。
 海綿が水を吸い込む如く瞬く間に魔物を掌握し、自らの配下に組み入れる魔王。そして彼の者に付き従う邪悪に満ちた魔物群は、破壊と殺戮を至高の美食として貪るように人間世界に進攻を開始した。
 その勢力はただ圧倒的で、着実に人間世界の平安を蹂躙する。
 人は、世界はこの脅威に何の抵抗をする事もできず、ただ無慈悲に踏み躙られていく事を嘆き、世界を覆う恐怖に苦しみ喘ぎ、何も出来ない己に悲しみ憂う事しか出来なかった。



 そんな絶望が色濃く支配する闇の時間の中。
 世界に存在するどの国家も、いよいよ祖先が築いてきた輝かしい歴史に幕を下ろす斜陽の刻を覚悟しなければならない事を意識し始めていた。それは嘗て世界主要国家間で結ばれた世界同盟の盟主アリアハン王国とて例外ではない。
 だが崖際で結われるその悲愴なる覚悟は、現実のものになる事は無かった。それは彼の国から一人の人間が立ち上がった事に起因する。
 アリアハンの地を襲った魔物軍を悉く打ち破り、祖国を救い、稀代の英雄と称された男の出現。
 男の名は、オルテガ=ブラムバルド。
 オルテガは剛剣の使い手であり、類稀なる魔導の操者だった。
 彼はどんな逆境に在っても決して諦めず、希望を棄てない。そして何よりも彼は異形の魔物を、それらについて廻る死の影を少しも怖れはしなかった。
 やがて祖国で救国の英雄となったオルテガは、周囲に望みを一身に背負い、勇敢にも単身で世界を廻って破壊欲に取り憑かれた魔物を滅ぼし続けた。
 それは数多の宗教が擁している聖典に記述された、救世の光の到来に等しい現実だった。
 オルテガによってもたらされた希望は陽光と同等の価値と速さで世界を包み込み、くすぶっていた人々の勇気を大いに奮い立たせる。
 始まりに熾きた小さな灯火は風と共に燃え広がり、やがて大きな焔となって輝きを増していった。
 英雄という存在に触発され、やがて世界は、人々は手を取り合って次々と立ち上がり魔物軍への抵抗を開始する。その焔の猛勢は魔王、魔物という絶対的な人類の天敵に対して一歩も退かず。破竹の快進撃を続けて拡大する金赤の波濤は、遂に劣勢を五分まで押し返すに至った……その最中、数え切れない程の散っていった生命。その屍を乗り越えて。

 世界各地で獅子奮迅の活躍をし、勇気と希望の欠片を世界に撒いた英雄を人々はやがて“勇者”と呼んだ。



“勇者”とは希望の光。そして光によって立ち上がった人間達も数多く世界には存在する。
 始まりの英雄と謳われる聖剣士、アリアハン王国の勇者オルテガ。
 オルテガと双璧を成す聖騎将、サマンオサ帝国の勇者サイモン。
 往古よりの秘儀を継ぎし〈魔導の聖域〉ダーマ神殿に列せられる十三賢人。
 そして、世界各国の都市村落から数多の英傑達が立ち上がり、人知れず消えていった。



 しかし、数年後。希望に沸き立っていた世界に再び走る衝撃。
“勇者”の出現でようやく世界が立ち上がり、魔物に反撃の一矢を報いようとした矢先の出来事だった。
 それは何の前触れも無く世界に舞い降りる勇者達の訃報。
 勇者オルテガは苦難の末に突き止めた魔王の居城を目前に、凶悪な力を持つ魔物に阻まれて消える。
 勇者サイモンは魔王討伐の中、着実にその戦果を挙げていたにも拘らず、忽然とその消息を断つ。
 十三賢人は、或る者は大勢の命を護る為に自らの命を砕き、或る者は魔王の呪いで死生の檻に囚われ、或る者は魔王の地獄の業火でその身を焼かれる。
 相次ぐ勇者達の非業な結末。それは瞬く間に世界に広まり、巻き起こった恐慌は世を一気に絶望へと傾ける。
 皮肉な事に、勇者達によって齎された希望の光はそのまま転じて絶望の闇へと変わり、世界に浸透する速さは魔王降臨の時をも凌駕する程だった。
 この転換こそを魔王が狙っていたのだ、と囁かれるようになるのも時間の問題であった。



 時と共に嘗ての希望は夢幻の如く泡沫に消え去った世界。
 それでも亡き勇者達に与えられた勇気の残滓を少しずつ振り、磨耗させながら僅かな人間達は魔物軍に抵抗する。だがそれも飽くなき絶望と戦いの日々に淘汰され、駆逐され、蹂躙されて往く。
 心の支えを失い絶望に打ち拉がれた人は脆く、取り合っていた筈の互いの手さえ掃い除け、疑心暗鬼が世界を包み込み始めていた。
 猜疑に、戦いに疲れ追い詰められた人間達の脆い精神が灼き切れ、やがて病んでしまった世界そのものを自らの手で壊そうとする。
 それはまさに人間社会崩壊の序曲。最悪と思しき荘厳なる交響組曲。
“魔”が指揮する冥律が奏でられる寸前。晴れる事の無い鈍重な闇が再三眼前を覆い始めていた時、そこに一つの光明が射しかかった。
 それは世界にとっての小さく微かな、希望。
 かの始まりの英雄、勇者オルテガを輩出したアリアハン王国から彼の息子が成人と共に父の遺志を継ぎ、“勇者”として魔物討伐の旅に出るとの発表があったのだ。
 暗闇の中で見出された小さな光は、嘗て見た忘れえぬ光。燦然とした輝きは絶望に堕ちつつあった人に縋られるには充分過ぎるものだった。
 未だ見ぬ英雄の再来に人々はまたも期待し、だが決定的に異なっていたのは、人々は自ら立ち上がる意志を、抵抗という名のさじを投げ出していた事だ。

 アリアハンの勇者、オルテガ=ブラムバルドが魔王の居城である旧ネクロゴンド城を目指し、その目前。立ち塞がった魔物との戦いでネクロゴンド山脈の火山に消え去ってから、早十余年の歳月が流れていた―――。








「廻り廻る世界の歴史は、いつも同じ始まりと終わりを求め続ける」
 永く深い思案の淵から回帰した『彼女』は、指先で風に靡いている自身の絹糸のような髪の毛先を弄ぶ。
「……『あなた』は、この混迷な闇の路をどのように進んでいくのかしら?」
 どこか物憂げな声色で、それは淡々と発せられる。
 夜を優しく照らし見守る役目を終えた月が静かに傾いて、地平の彼方へその姿を潜め始める。そして入れ替わるように東の空から眩く温かい光が萌し、闇を貫きて世界を朱に塗り替えていく。
 光溢れる昼と、闇が満ちた夜の狭間。その僅かな黎明の刻に『彼女』の姿が暁光の下に晒される。
 目の醒めるような穢れ無き純白。大地に降り積もった新雪を思わせる静謐の髪は、明けの夜空と共にその色を鮮やかな暁色に換えて往く。
 光の波動を全身で感じた『彼女』は指先で弄んでいた毛先をスルリと放す。すると朝陽を孕んだ風が白色の糸の一本一本を丹念に梳き、その凛とした涼やかさに思わず口元を緩ませた。
「願わくは……『あなた』の行く路の先に、魂魄の安息が有らん事を」
 両の手を組んでそっと膝を折る。その祈りは刻々と高みへと昇る太陽と今は沈んだ月に向けられ、『彼女』が呟いた言葉が凛然と宙に響き渡った。
 明ける世界はその生彩を眩いばかりに燦々と放っている。
 その光の粒子が普く地に、空に、そして自分自身に降り注ぐ中。滾々と湧き出してくる活力の余韻に静かに伏せていた瞼を持ち上げ、その奥にある暁色の瞳で世界を眺めた。
「早く『あなた』に会えると良いわね……『勇者』」
 たおやかな笑みと共に発せられた言葉は光と風に溶け、そして何事も無かったかのように虚空にへと消えていった。




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