――――外伝五
       斜陽を胸に







 聖王国イシス――灼熱の風牙が大地を蹂躙し、飢渇が活潤を蝕む苛酷な砂礫の大地。
 席捲する大自然の脅威の下、そこは凡そ生物が命脈を連ねるには余りにも適していない不毛の地なのだが、反して全世界に数万に及ぶとされる信者を抱えた太陽神ラー教団の発祥地として、信奉者達にとって心惹き寄せられて止まない、崇敬すべき遙かなる聖地だった。
 通年、熾烈を極める“太陽の参道”を越えて聖都イシスには人の往来が多い。
 砂漠越えという難関を前に、入念な事前準備と鋼の如き強靭な意志によって地道に自らの足を以って踏破して来る者あれば、移動魔法ルーラを行使可能な者が小規模の旅隊を随行して至る事もある。更には近年の魔導器技術の進歩によって広く流布し始めた『キメラの翼』や、商会ギルド保有の砂上船に便乗してくるという様々な手段、創意工夫、ありとあらゆる術を用いてでもこの地を踏み締めんとする者が数多存在していた。
 この事実は、魔法が人々の生活を良くする為の道具として有効に活用され、世界は開かれていると言えるだろう。そしてそれは魔王降臨という驚愕の事実があったとしても変わる事は無い。現に、魔物出現以降、旅の風に身を委ねる者達の数は世界的に見ても減少傾向にあったが、反してここイシスを来訪する人間の数は寧ろ膨れ上がっていると言い換えても良かった。
 暗雲漂う混迷の時代だからこそ、清冽に輝く曇りなき輝きに人は惹き寄せられる。その様は宛ら灯明の周囲を飛ぶ羽虫のように…一心不乱に舞うその姿は、一瞬一瞬の生を強かに実感しているからこその行動なのかもしれない。

“剣姫”アズサ=レティーナも、その中の一人。
 一見する容姿は、アズサが生粋のイシスの血脈にあらざる事を常々物語っていた。その髪や肌、眼の色彩などの人種的特長から東方の出身であると周囲は薄々感付いていたが、それより先へ追求の意識は続く事は無かった。
 イシスにおいて真相に至っている者はこれまでも、そしてこれからも唯の三人しかいない。真実はそれ程までに隠匿せねばならない程の秘事であった。
 全てを知る者の一人はイシス執政官であり、十三賢人“四華仙・律”のナフタリ=シャルディンス。
 一人はイシス王妹でラー教を動かす三司教が一人、“霊療ネフティス”イスラフィル=メウト=ソティス。
 そしてもう一人は、司教直属補佐神官であり外交特使…特務監査隊副隊長である養父、マーラ=レティーナ。
 この三人だけが異端児の真実を知っていた。そしてそれ故に彼らは、アズサの故郷が何処なのか、両親が誰なのか、その一切を語らない。少女が真実を手にする事で相対せねばならない宿命を、寄るべき確かな血の繋がりに纏わる因業に囚われてしまうのを恐れての事だった。
 後にアズサと名付けられる赤子は、生後一ヶ月にも満たない時分に、当時外交特使としてダーマ方面を訪れていたマーラによってこのイシスに連れて来られていた。
 十八年前の当時といえば、魔王降臨によって世界各地に出現しはじめた魔物の趨勢が加速度的に増大していた時期だ。ネクロゴンドを滅亡させてその地を乗っ取って以来、魔王バラモスはその瘴気によって原生生物を“魔”に取り込んでは次々と勢力を拡大し、魔物という一つの破壊の牙を世界に穿つ。世界に撒き散らされた牙は、人間を主とする生物やその生活圏を手当たり次第に破壊し、絶望の帳を強引に引き降ろしていった。
 当然、単純な天変地異による大地せかいからの排泄ではなく、明然と形有る存在による淘汰に対し、人は抗う。しかし、御伽噺や神話説話などによってのみ語られていた空想上の異形を相手にする事に手を拱くのもまた事実で、対策が後手後手に回る事を余儀なくされた。その結果、魔物の猛攻に耐えかねて壊滅する都市、打ち捨てられる村落。愛する我が子を奪われた親、両親の顔を知らぬ孤児が溢れ返るまでに世に現れるようになる。
 二十年前の現出より僅か三年足らずで世界の総人口の凡そ一割が減少した、とまことしやかに人々の間で噂されていたが、それも強ち誇張された虚言ではなく、真実味を帯びて信じられるまでに育まれていた。
 アズサも良くある不幸に遭遇した者の一人であると、周囲の誰もがそう思っていた。そして誰もがそれで納得し、それよりも先に思考を進めようとはしない程に、故郷も両親も失った赤子を教会が引き取る、というありきたりな悲劇はこの時代どこにでも転がっていたのだ。
 そんな経緯でイシスに迎え入れられたアズサは、周囲から些か無遠慮で押し付けがましいまでの同情と憐憫を一身に集めながら、マーラの庇護下、ラー教団の中枢と近しい位置で年月を過ごす事になる。



 アズサは、今の自分を築くまでには少なくとも三回、人生の大きな岐路を越えたと自認していた。
 一つは十六歳の時、“剣姫”の襲名。
 一つは十歳の時、先代“剣姫”への弟子入り。
 そして一つが“紫寂の夢”の発露、だ。
 このイシスでも養父マーラとイスラフィル、ナフタリしか知らないであろうアズサの特異体質が導く事象…“紫寂の夢”。それは親しき者、心を許した者…つまりはアズサ自身が自らの情の内側に許容した他者の記憶を夢に視る、という過去視の能力だった。
 記憶の共有と言えば綺麗に聞こえるが、しかし現実はそんな甘美な響きのまま織り成されるものではない。アズサ自身、誰のかこを視るのか自らの意思で選ぶ事も制御もかなわない。ただ唐突に自分の与り知らぬ過去の事象を突きつけられるだけだ。そしてこの現象の最も厄介だったのは、夢で投影される記憶はそのままアズサ自身の裡で像を残して結んでしまう点、つまり流入してくる記憶の持ち主と同じ認識で世界を追体験すると言う事だ。
“紫寂の夢”とは、ある種の幻覚作用なのだとも言える。だが厭くまでもそれは他者の視点から見た場合であり、実際に主観としてその記憶世界を捉えているアズサにとっては、どうしようもない現実に他ならない。そしてそれは、少しでも強く自身の意識を持っていなければ、容易く呑まれてしまいかねない危険なものだった。
 実際、この“夢”は幼い頃のアズサを容赦なく苛んだ。自己の確立さえまだ適っていない弱々しい自我が、その果てに崩壊さえ招かん程に……。
 この“夢”をアズサが最初に体験したのは六歳になった時だ。

 往古より連綿と受け継がれた厳粛なる戒律を軽々と踏み越える型破りな神官であったマーラの、愚直なまでに真っ直ぐすぎる愛情を受けてアズサは天真爛漫に育っていた。己が周囲のイシス人とは違う存在である事を疑問に思う事さえなく、活発で健やかな笑顔の絶やさない少々お転婆な少女だった。
 そんなささやかな平穏が続いていたある時。
 アズサは父マーラに、同僚の神官の不可解な行動を何気なく言った事があった。
 最初、愛する我が娘の言う事を神よりも重んじて全面的に肯定するマーラといえど、何の事かと首を傾げていた。だがそれもその筈。アズサ自身幼少の為に語彙が少なく、その説明は漠然としていてたどたどしく拙い。そして素行の不審を示された神官というのは若いながらも礼節を弁え、信仰心篤く清らかな印象を周囲に与える生真面目な人格だったからだ。
 アズサ自身が彼に良く遊びの相手をして貰い、随分と懐いている様子だったと嫉妬心を燃え滾らせながらマーラは思い返す。
 普通ならば一笑に伏し、穏やかに否定してから注意の一つでも呈するだろう事も、マーラは大人の常識で傍に追い遣る事無く、真摯にアズサと向き合って追求してみた。敬虔なラー信者であったアズサ曰く、その仲の良かった神官が度々教義に悖る行動を犯している、と言う夢を見たとの事だった。勿論、まだ六歳に過ぎないアズサに、どんな行為が不正に相当するかなどの判断はできる筈もない。
 アズサの視た夢の内容を受け止め、裏でマーラやイスラフィルが調査した結果、教団に入る多額の寄付金の一部に不可解な流出が発覚し、辿っていくと件の神官が敬虔だと思われていたとある上流貴族と結託して政治的不正を働き、その都度小さくない金額を横領するという、祭事を司る神官と政務に携わる貴族との癒着が明るみになった。
 当然その神官は破門となり大神殿、ひいては聖都イシスを追放させられていた。しかし事の経緯の詳細を知らされなかったアズサにとっては、親しかった神官の一人がある日突然いなくなってしまった、という悲しい事実が残るだけだった。
 以降も度々アズサは紫霧に覆われた夢を視る事になる。そしてその度に、他人が知る筈の無い事実を知り、自らが得る筈の無い経験を重ねる。普段接している人間が、平時に見せる顔と全く異質な顔を覗かせる事があれば、時には重度の心的障害になりかねない傷みを受ける事もあった。
 アズサは善悪無記に展開される記憶の波によって様々な人や物事に疑念を感じ、やがてそれらが鬱積して疑心暗鬼に囚われる。原因たる“夢”を忌むあまり自然と眠る事を怖れるようになり、心と身体の間で起こる不調和な軋みに意識が摩耗し、荒廃していく……幾度と無く自らに入り込む他人の記憶は、無垢で繊細で脆弱な幼い自我を徹底的に弄んだのだ。轟く波濤に押し流されて、小さな灯火など呆気なく潰えてしまうまでに、アズサは自己の確立さえ危ぶまれるまでに追い詰められていた。
 奔放で太陽のようだった笑顔は一変し、常に何かに脅え塞ぎ込む事が多くなる。極端に人前に出る事を拒むようになり、言葉数も激減した。単に対人恐怖症と判断を下すには余りにも度が過ぎる程に周囲の人間の眼を恐れる姿は、どこか犯してしまった罪の大きさに怯え震える咎人のようにさえ思えてしまう程だった。
“夢”はアズサに秘められた血の宿業に起因している事を知っていたマーラは、覚悟していた事とは言え怖れていた資質の発露に苦しむ愛娘を見ていられなかった。そこで、アズサを引き取った時に自らに決めていた禁…アズサの生地に関わる一切からの隔絶、を破る事を決意する。
 食事も睡眠も碌に取れず衰弱したアズサに、マーラは護符と称し一つの包みを授けた。その中身は、七つにもならない子供に与えるには余りにも不適切な小刀…つまりは凶器だった。
 それをアズサに渡す事はマーラにとって苦渋の決断であった。何故なら、アズサに渡した小刀は、アズサとアズサを捨てた故郷とを繋ぐ唯一の糸であるからだ。しかし、マーラはまだ見ぬ先の運命よりも、今苦しんでいるアズサの心身を護る事を優先した。それは誰よりもアズサの身を案じているからこその、父としての判断に他ならなかった。
 アズサは大きく目を開いて掌に乗る物を見つめる。幼心にさえ酷く重く感じられたそれは、艶やかな黒塗りの鞘に納められていた。木製でありながら濡羽の如き瑞々しさを誇る見事な塗装もさる事ながら、何よりも意識を惹き付けて止まなかったのは、柄に刻まれた “素戔嗚スサノオ” という不思議な紋様。イシスに古くから伝わる古代神聖紋字でもなければ、公用言語の文字でもない。意味深で、だが不思議な懐かしさを覚える記号。
 初めは怪訝そうにその紋様を見つめていたアズサだったが、何時の間にか自分でも気付かないうちに涙を流していた。それがどうしてかはわからなかったが、優しげな光を燈した刃を見ていると、夢に蝕まれささくれていた心が一気に解されたのだ。まるで、自分の裡に芽生えていた澱みの葛を断ち切ってくれたかのような感覚だった。

 その日以来、アズサは“紫寂の夢”を視る事が極端に減っていった。

 しかし、アズサ本人が“夢”による脅威から脱したとは言え、それによって周囲に齎された波紋は消える事はなく、着実に周囲の人々の間に影を落としていた。
“夢”の事を話したのは父とイスラフィルだけであったが、周囲の眼からすれば、いなくなった人々、裁かれた人々の周囲には必ずといって良いほど、異端の少女の姿がある。安易に原因をそこに帰着させてしまうのは、人の情理の面から考えて無理からぬ事だろう。
“夢”の呪縛から逃れる頃には、アズサは周囲の大人から忌まわれる存在になってしまっていた。そして特定の誰かに向けられる悪意の連鎖は、個性を尊ぶ人の業とでも言うべきか、その対象に対して揺らがぬ一定の距離を保ち、強固な円を形成する。それは悪意の円環であり、針のむしろという名の監獄でもある。
 大神殿に近しい自分を表立って害するでもなく、あからさまに避け、よそよそしさを隠しもしない大人達の悪感情は子供にあるがままに伝わり、それが各々の裡で敵意に変換されてアズサに向けられてくる。善悪の区別が未だ発達しきっていない子供の無垢なる淘汰は時に残酷で、余りにも無慈悲だった。
 昨日まで仲良く街中を駆け回っていた友人が、途端に掌を返して心が張り裂けそうになる侮蔑の言葉や石の礫を浴びせ、それだけには留まらず直接的な暴力で訴えてくる。それは時を置いて成長すればする程に過激なものとなり、同年代の子供から見れば全てにおいて異なるアズサはやがて排他の対象となってしまった。
 疎外に始まり、罵倒、嘲笑、侮蔑、暴力に発展するに至ったそれら自分に向けられる悪意と激情の全てが、自身の招いた行動の結果だと受け容れるだけ、アズサはまだ大人ではなかった。
 八歳を超えたある日の事。
 普段から少年のような風貌でいる事が多いアズサが、外出から血だらけになって帰ってきた。涙を湛えている眼の周りには殴られた痣がくっきりと浮び、頬には爪で引っ掻かれた痕が痛ましく残っていた。衣服もあちこちがボロボロになり、腕や足には擦り傷が無数にあり、そのどれもから血が滲んで滴っていた。
 一人を相手にして負うような傷ではない。明らかな、集団からの暴行によるものだった。
「あ、ああ……アズサっ!! どうしたんだその怪我は!?」
 そんな戦災にでもあったのかと言わんばかりの愛娘の姿に、この世の終わりに遭遇したかのような悲鳴を上げるマーラ。丁度祭壇の整頓で手にしていた聖典を床に放り投げ、即座に我が娘に駆け寄ってはアズサが開口する前に力いっぱいその傷付いた小さな身体を抱き締めた。
「誰にやられたんだ! 言ってみろ、パパがそいつらに神の鉄槌を喰らわせてやるぞっ! 二度とこんな罪深い事ができないように、ありがたい説教も付けてやるっ!」
「……ち、ちちうえ」
「人は一人で立ち向かえない時、より大きなものに縋り付く事だって許されている。長い物には巻かれろとはよく言ったものだ。さあ、アズサとパパの間で遠慮など必要無いっ! このパパを頼るんだっ!!」
「私の前で不道徳を説くとは良い心掛けですね」
 負の人道を熱弁するマーラの脳天に、今しがた拾った分厚い聖典の角を叩き落して微笑むイスラフィル。
 両手で頭部を押さえ蹲った部下を、ほうきで足元の小石を払う如くもう片方の手に持っていた錫杖で脇の長椅子の上に乱暴に突き飛ばした。そしてイスラフィルは膝を折ってアズサと同じ目線になり、一際痣が痛々しかった頬を優しく撫でながら回復魔法を紡ぐ。
「アズサ……また、虐められたのですね」
「……」
 哀しげに問うイスラフィルに、アズサは躊躇いつつもコクリと頷く。だが、言葉は発せなかった。回復魔法の効果か、それともイスラフィルの優しさか。温かさに包まれる身体に反して、アズサの心は冷えきっていた。
「やられたらやり返してもいいんだぞ、アズサ! 無理ならパパが代わりにそいつらに復讐してやるっ!」
 長椅子の上に突っ伏したままの情けない体勢でマーラは物騒な事を叫びながらジタバタと猛る。それが随分と鬱陶しかったのか、イスラフィルは立ち上がり冷絶な眼光でマーラを一瞥した後、手にしている錫杖の石突で床を一突きした。
 静謐に満ちていた礼拝堂に、ピシリと甲高く小気味良い音が響き渡る。
「マーラ……話をややこしくしないで下さい。少しお黙りなさいな」
 聖母の微笑でマーラを見下ろすイスラフィル。彼女の足元では、石畳に深々と突き立った杖を中心に蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。今しがた乾いた音を発てて飛び散った石の破片の一つがマーラの頬を掠め、赤い筋を引いていた。
 ひぃっ、と顔を青褪めさせて押し黙った父を見ず、アズサはイスラフィルを真っ直ぐに見上げた。胸の前で握った両手が小さく打ち震えていた。
「……イスラフィルさま。どうして皆、私を虐めるんですか? 私が何か悪い事をしてしまったんですか?」
「…………」
 悲痛な表情で思いを吐露するアズサの言葉を受け止めるも、イスラフィルは相変わらず優しげな眼差しを降らせるだけで、言葉は発しない。
 その沈黙に少女は不安になったのか、大きな双眸に涙を湛える。縋るように見上げるアズサの消え入りそうな儚さが居た堪れなくなって、マーラは蜥蜴のように這い寄り再度アズサを力強く抱き締めた。
「アズサは何も悪くないぞ! 例えラーがやる気を無くして朝が来なくなったとしても、アズサに非などある筈が無い!」
「でも……」
 父の腕の中でアズサは小さく身動ぐ。
 自分の信奉する神を貶めてでも愛娘を肯定する父。その姿勢はアズサにとってとても嬉しいものであった。不安に大きく揺れている時、自分を支えてくれる存在の大切さとありがたみをアズサはこの歳で既に理解していた。が、素直に喜ぶ事が出来ず、困ったような表情を浮かべたのはアズサもまた幼少からの敬虔なラー信徒であったからだろう。
 普段ならばこの場面でイスラフィルから父に鉄槌が落ちる。だが、今回はそれが無かった。
 そっとマーラの襟首を掴んで軽々と引き剥がし、再び膝を折って正面からアズサと同じ目線になったイスラフィルはゆっくりと綴る。
「強くなりなさい、アズサ」
「強く?」
「そうです。私達がここで手を貸せば、確かにあなたを害するような事を人々はしなくなるでしょう。ですがそれは根本的な解決には繋がりません。何故だかわかりますか?」
 少し考える素振りを見せ、わからない、とアズサは首を横に振る。イスラフィルはそんな少女を慈しみの視線を送りながら、そっとその頭を撫でてやった。
「強い力を持つ立場にある私達が、彼らに重圧を掛ける事は、集団で弱い一人を虐げる事と何ら変わりがないからです。行使されるのが権力か、暴力かの違いだけ。それは結局、陰であなたに対する悪意は肥大させ、あなたに返ってきてしまう事でしょう」
「では……わたしは、どうしたら?」
 大きな眸に涙を湛えてアズサは声を震わせる。八方塞で、何の解決策も見出せない状況が続く事を思うと絶望が胸中に浮かび、瞬く間に支配していた。
 そんなアズサの内心を見透かしたかのように、イスラフィルは静かにアズサの頭を撫でた。
「周囲に、あなたの存在を認めさせるのです」
「認めさせる……私、を?」
「そうです。あなたに向けられる悪意の根底には“夢”の事もありますが、実はあなたがイシスの血脈にあらざる事が大きく左右しています。人間とは自分とは違う異質を恐れるもの。人種の違いという些細な事であなたが辛い思いをしているのはとても悲しい事ですが、他人との差…個性を重んじる人の業からは、そう逃れる事が出来ないのもまた事実なのです」
「だから、私を……認め、させる」
 最初は何を言われたのかわからなかった。だが、自らの口にした途端、ドクンと自分の中で強く鼓動が脈打った。
 小さく震えながら両手を握ったアズサに、コクリと優しく微笑みながらイスラフィルは頷く。
「異邦人という見かけの器ではなく、あなた自身という人間を、です。しかしそれは生半可な努力では至りませんよ。何故ならあなたがイシスの血脈に在らざる者である事もまた動かない現実…ここイシスで生きていくには生来背負ったハンデは大きすぎる重荷になる事でしょう」
 緊張してゴクリとアズサが息を呑み込む音が聞こえる。イスラフィルは少女の小さな手を両手で包み込んだ。
「そして勘違いをしてはならないですよ。私が言っているのは強さとは、強い力を得て誰かを平伏させるのではなく、そう安易に動こうとする自身の心を戒める事の出来る…自分に負けないだけの意志の強さです」
「自分に、負けない……意志の強さ?」
「そうです。あなたは、あなたを虐げた者達に同じ痛みを与えてやりたいと思うのですか?」
「!」
 そう問われてアズサはドキリとする。強さと言われて先ず思い浮かんだのが、父ではないが自分をこんな眼に合わせた人間達に対しての仕返しだった。謂れが無いのに胸を裂くような言葉を浴びせられ、数を以って暴力に訴えてくる。理不尽という言葉をアズサはまだ知らなかったが、それがどういうものなのか日々実感していた。そして実感しているからこそ悔しくて、苦しくて、悲しい。自分をこんな気持ちにさせる人間達に、同じ境遇に合わせてやりたい、との思いが渦巻いていたのだ。
 そんな子供の心中など見透かしているのだろうか。だがしかし、イスラフィルの眼差しはそれを咎めている様子ではない。自分の何らかの答えを待っている湖水のように鎮まった双眸だった。だからこそ少し躊躇いを覚えた。本当に自分の胸中の在り方が正しいのかどうか。
 これまで何度も読み返した教義の本や常識。日常で交わした対話。それらを自分の中で展開して考え込む。
 先程イスラフィルが言った言葉。暴力は連鎖し、やがて自らに還る。想いのまま自分を虐げた者達を打ちのめしたとしても、次はもっと大きな数をもっての仕返しが来る事が簡単に想像出来た。自分はイシスの人間では無いからこそ、少数の味方さえ圧倒する大多数が反撃に回る。突飛な想像だが、妙な現実味を持つ予感だった。
 沈黙が耳に痛くなる程の時間を自問自答して、アズサはゆっくり首を横に振った。
「……殴られたら、誰だって痛いから嫌です。虐められたら誰だって苦しいから、嫌です」
 苦しさを滲ませ目尻に涙の残滓を湛えながらも、本心をアズサは綴った。仕返ししてやりたい気持ちも真実ではあるが、それ以上に他の誰かが自分と同じ目に合う場面に遭遇するのは嫌だと、そう思った。
 大きな緑灰の双眸に宿った輝きを見つめ、イスラフィルは微笑む。
「あなたは人の痛みが解る優しい子です。あなたなら、大丈夫です」
「イスラフィルさま……私、私っ」
 静かにアズサを抱き締めて、イスラフィルはその頭を撫でる。単調で優しいそれは、緩やかなまどろみを誘うようで。しかし渦巻く様々な思いは小さな心を容赦なく掻き回し、やがて嗚咽を零させる。
 子供には酷な選択だったのかもしれない、とアズサを抱擁しながらイスラフィルは思う。誰だって自分を優先したくなるのは人情…いや、本能というものだ。特に、虐げられた者にとって自分よりも他を慮る事を優先させるなど、大人にだって教え説くのは難しい。だが自分の負った傷みを他人に置き換えて考えが及んでこそ、他人の傷みを知る事ができる。真の優しさと強さを手にする事ができる。
 本来ならばもっと年月を重ねて、自分と他人の境界を明確に分別できるまでの認識が育まれてから問う命題だった。それを今必要に感じたとは言え、急き過ぎたかもしれない。今の場合は、同調こそがアズサの心に安息を齎す事を解りながらも、イスラフィルは敢えてそうしたのだ。
 こうして胸の内の行き場が無くなった反流が表層にまで噴き出して、荒れ狂った感情に変換されている。イスラフィルはアズサを包み込む腕に力を込めた。

「ちちうえ。イスラフィルさま。私……頑張ります!」
 イスラフィルの胸で思いっきり声を上げて泣いたアズサは、袖で乱暴に両目を擦って涙を拭う。
 アズサ自身、イスラフィルの想いに気付く事は無かったが、イスラフィルが万物斉同を地でいく人物であるのは知っていた。その公平無私な姿勢と、博愛主義から神の教えを説く司教として相応しい人格で、信徒、或いは同じ組織に類する神官達から絶大な信望を集めているのも知っていた。そして、そんな彼女の前では人種に違いがあろうとも、家柄が何であろうとも、魔法が使えようが使えまいが、その程度の差など意味を成さず人間を区別する事はしない事を。それ故に誰に対しても厳しく、そして真摯に接してくれる事を知っていた。
 家族と思っているイスラフィルが、目先の安易な解決策を良しとせず、真の意味での安息が得られるようアズサに必要な路を示してくれた。その道程がどれ程険しく厳しいものであったとしても、逃げ道は最初に切り捨てる事を言葉無く呈していたのだ。
 アズサの一方的な解釈かも知れないが、そう考えるとイスラフィルが自分を認めてくれたようで嬉しかった。たまらなく嬉しかった。
 その顔は先程まで泣きじゃくっていた子供とは思えない溌剌とした生気が、毅然とした強さの芽が萌していた。
「アズサ! パパも協力するぞ!! 今すぐ神官の仕事なんぞすっぽかしても良いんからなっ!!」
「マーラは少し黙りなさい」
 愛娘に笑顔が戻った事を、単純な感激の余りその周囲を狂喜乱舞するマーラ。それがいい加減鬱陶しくなったのか、イスラフィルは立ち上がって強制転移魔法バシルーラで入口付近の柱の一つに叩きつける。ぐふっ、とくぐもった断末魔を残し、大きく痙攣したマーラはやがて動かなくなった。
 この二人の関係など子供のアズサにとって見ればまるで解る筈も無いが、それでも悪いものでない事ぐらいはわかる。幼少の時より変わらずに続けられる日常的な応酬。それを見ているといつも心が温かくなる。疎外感など感じている暇は無かった。
「イスラフィルさま。ちちうえをいじめないで下さい」
 父が虐げられる様を子供に見せるには甚だ健全とは言えないが、それらが全て本気では無い事を解っているアズサは漸く弾けるような眩しい笑顔を浮かべた。



 アズサがどんな逆境に陥ろうとも天真爛漫で、細かな事をこだわらない性格になったのは大概にして周囲にいた人間…主に、父マーラやその上役のイスラフィルの影響は大きいといえただろう。子供の人格形成には環境が影響する事は昔より言われていた事だが、神官であるのに神官にあるまじき行動をとる破天荒な父と、信徒からは聖母とまで喩えられる事のあるイスラフィルの豪放大胆で遠慮無い直線的な行動に、アズサは救われて来た。
 馬鹿げたやりとりだと一笑に伏してしまえばそれまでだが、それでも、笑いを耐えさせてくれる事は無かった。常に自分を見守ってくれている二人は、アズサにとって紛れも無い確固たる絆で結ばれた…家族だった。
 この一件が剣を手にするきっかけにはなったのだろう。自らに負けない為に自らを鍛える為に何をすべきか考えた時。魔法の適正が全くといって良いほど無かった自分には、最早“武”を選ぶ以外の選択肢は無かった。
 数ある武の中で敢えて剣の路を選んだのは、イシスで最も旺盛だった武術であるからという理由もあるが、一番の理由は、嘗て父に連れられて参加した式典で見た“剣姫”の剣舞が瞼と心に強く焼きついていたからだ。
 その意志を伝えてからというもの、何故か城の騎士以上に剣の腕がたつ父の手解きを受け、“剣姫”の門下になる為の試験に向けて修行を始める。父の教え方が非常に上手かったのもあるが、元から本人にも才があったのだろう。海綿が水を吸う如く、見る間にアズサは吸収し心身の鍛錬に勤しんだ。それこそ、周囲からの罵倒の声など気にする暇ない程に濃密な時間が流れる。だがアズサとしても、余計な事に考えを廻らせる必要がないので願ったりだった。
 そして数年。
 アズサは“剣姫”セクメト卿の門下に入門する事を認められる。それは長いイシスの歴史を紐解いても先例の無い事であり、異質というレッテルで虐げられていた少女が、古式に凝り固まった慣習が続く晩照の王国に自分の存在を周囲に認めさせる確かな足掛かりを得た、新しき風が吹き入った瞬間であった。
 嘗てイスラフィルに導かれ、父に支えられ自分に掲げた目標。それは周囲の人間に、自分という存在を認めさせる事。生まれに囚われず、周囲に流されず、しっかりと自分という誇りを持ってここイシスで生きる事だ。
 それこそがマーラやイスラフィルの願いであり、それを全うする事が自分を支えてくれる二人に報いる事だと信じ、アズサは更なる高みを目指してその路を歩む。
 例えその先に、何が待ち構えていようとも。





――眼の前で自分に槍を向けている、無愛想な彼女は冷静を装っているが内心は大きく揺れている。本人は頑なに隠しているつもりであっても、付き合いの長い自分には判りきった事だった。
 懐に飛び込んで何度か切り結んだ後、再度距離をとって隙を探る。剣と槍の間合いでは、些細な見誤りが命取りになるのを、これまで何度も重ねた鍛錬の果てに互いに知れていた事だ。
 荒ぶる息を鎮めて慎重に間合いを計るアズサは、何時の間にか聖剣を握り締めていた掌が汗ばんでいる事に気が付いて、だがそれを無視する。そんな意思に反して、掌の皮膚の内側で神経が大きく動擾し、うねるように全身を駆け巡る血潮が燃える熱を、活力を漲らせている。紛れも無く昂揚している自らの手、身体、そして心。内なる流れは加速し、その脈動は聖剣に伝わって大きな歓喜を光として刀身に漲らせた。
(……孤児であった私以上に、家族との絆を切望していた奴が見え透いた挑発をっ)
 幼少期、よるべき縁から隔絶されていたアズサは、何時しか血と言う確かな繋がりを欲し、憬れていた。今の父やイスラフィルにそう感じていない訳ではない。現実にアズサは父をマーラだと言い切ることが出来るし、今でこそイスラフィルを母と呼ぶには余りにも畏れ多いと理解しているが、幼心より続く情に少しの揺らぎも無い。
 だがそれでも、近しい所にいるティルトやユラと、彼女達二人とナフタリの関係を見ていると知りたくなった。見かけの言葉や態度が無くても確かに伝わる心の音色。改めて自認するまでも無い、不可視でそれ故に眼に見えるものに惑わされる事の無い確固たる繋がり。それを間近で見ているとどうしようもなく知りたくなる。想いを馳せずにはいられなくなる。
 本当の親が誰なのか。自分は一体何者なのか。何故マーラに引き取られイシスに来たのか。“紫寂の夢”とは何なのか…疑問が尽きる事はない。
 勿論父は一切の口を閉ざしている。真実の開示で今の関係が壊れてしまうのではないかと危惧しているのだろうかとも思うが、アズサとしてはそんな事は無い、と声を大にして断言できる。だがその想いはアズサ自身の立場で、マーラの側から見るとそれを一概には言えない。マーラにはマーラで、頑なに秘匿としなければならない理由と背景があるのだろう。少なくともアズサはそれくらいの事を理解できるまでには大人だった。
 逸れた意識を懐に忍ばせている黒の小刀の存在に移す。この存在を意識する度に、自分の心は水を打ったように鎮まるのだが、今はその効力も充分に発揮できていないだろうとアズサは思う。
 今、少しでも平静を保とうと律している意識を弛ませれば、昂ぶる心に導かれて、視界の外側から徐々に浸蝕している紫の靄に一気に押し潰されそうだったからだ。
 現に刃を重ねた瞬間瞬間、断片的な永遠の回帰が意識を過去に押し飛ばしていた。
 培ってきた感情の制御に思わぬ隙があった事を新たに発見した思いだった。だがそれも仕方が無いだろう。こうして親友と敵対し刃を交える事になるなど微塵も考えていなかったのだから。余りの運命の酷烈さ、それを無意識的に受け容れんと動いている心情にアズサは自嘲的に口元を歪ませた。
 それを見止めたティルトが怪訝そうに問うた。
「……何を笑っているのです?」
「ふん。どこかの家出した馬鹿者が、帰るに帰れずまごついていた時の事を思い出してのぅ」
「…………」
 ティルトは不愉快そうに表情を歪める。言いたい事が伝わった証拠だ。本当にわかりやすい奴だとアズサは再認識する。
 スゥ、と大きく息を吸う音が厭に大きく聞こえた。ティルトはそうして自分を抑えようとしているのだろうか。
「お主は、この私と敵対すると解っていながらその路を選んだんじゃな」
「……もう何度も言いましたよ。同じ事を言わせないでください」
 若干苛立たしげに無理矢理抑揚を殺した声を発するティルトを見て、アズサは内心ほくそ笑む。自分の心はこれ程までに揺れているのだから、せめて同じくらいに揺れ動いてもらなわければ割に合わない。社会的な立場を無視して、只一人、ずっと昔から対等の人間だったティルトだからこそ……そう思って阻んだのだ。
 ささやかな企みが効を奏して、アズサは口の端を持ち上げる。だがそれを相手に覚られまいと、眦に力を込めて叫んだ。
「ならば私も覚悟を決めてお主を討つっ。“剣姫”として――」
 頑固で、融通が利かない奴。それは互いに何度も投げ合いに用いた罵倒。だがそれさえも両者を強く結ぶ絆に他ならない。
 想いを刀身に委ねる。長い時をかけて結んだ絆が、そう易々と断ち切れるものではない事を伝える為に。
(――お主の友…アズサ=レティーナとしてっ!)
 アズサは全力で邪を滅する聖剣を閃かせた。




top