――――外伝三
       光闇こうあんの妖精







―――私は外を、光を知らなかった。
 燭台のではなく、純粋な世界に指す陽を。あまねく生命を優しく照らす光を。






 深い森と自然に囲まれたエルフの里アルへイム
 木々が群立する森の中に在って、それらに寄り添うように生活空間を造り上げて生きる、ライトエルフ達が住む静穏の地。周囲に悠然と立ち並ぶ木々のように長寿の為、時の流れによって文化様式は人間の歩む速度程度では変わらない。それは価値観も認識もまた然り。変わる事を恐れるように外に、異端に対して排他的、傲然とも言える人格が築かれるのも自然の流れともいえる。
 里を覆っている外と内を隔絶させている結界は、代々族長の任に就く者の所業。それはつまり、一族を統べる立場に在る者が負うべき宿業。
 世をあまねく流れるマナの流上…里の中央に位置している御殿に縛られる事で、半永久的に結界を張り続けている。己の自由を代価に、一族すべての安寧を築いている故に、同族内での身分意識が乏しいエルフ族において、尊ばれ、敬まれてきた。
 里を覆っている結界は、内から外に出るのは自由であるが、外から内へ至る事は先ず不可能な事だった。例外的にエルフに伴われて入るか、族長が闖入者を認めるという限定的な条件においてそれが叶う。だが実際には、そんな事例は殆ど皆無であり、外から此処に至る者など居ない。そんな公然の意識がエルフ族の中では普通であった。
 時代によってそのエルフ族長の考え方も違う為、長い歴史において微かな異種との交流を持っていた時代も在った。その外から入る新しい風によって、エルフの生活にも僅かながらに変化を齎す事もあったと、歴史を綴ったエルフ達の書には書き留められている。
 そして、今代。
 族長である女王ティターニア=エルダ=ディースの統治下にあって、外との交流は絶無であった。
 それは今より千年以上も前に在ったハーフエルフの件による処が余りにも大きい。エルフ族は長寿である為、その時の痛烈な記憶を未だに引き摺っている者も数多く居る。何よりもその事で最も心に深い傷を負ったのが女王その人であるという事は、その時を生きた者達にしか知れない事。今の若い世代には決して知られていない事である。
 痛みの為に、それを繰り返さぬように女王は完全に世界と里を切り離す。そんな心情を慮ってか老臣のエルフ達も外への意識を閉ざした。そして、そんな周りの意識が日常であり常識と認知するようになった若い世代のエルフ達もまた外への憧憬は忌むべき事として、意識の深くに刷り込むようになっていった。

 ここ近年、永く続いていた常識を根底から覆すような事件がエルフの里で起こった。
 記憶に新しいのは、族長の娘…王女アン=ソレイユ=ディースの失踪。それに伴うエルフの至宝“夢見るルビー”の紛失。
 自由奔放で、朗らかな王女の失踪。それは住まうエルフ達に確かな動揺を見せた。健気に支えあう仲の良い母子の姿は、エルフ達にとって貴ぶべき姿勢であった。それは外に対して攻撃的とまで言える排他性の裏返しか、同族に対しては驚く程に寛容な気質を生来に持っていた為でもあった。その象徴とも言える母子の姿に、里に住む誰しもが、かく在ろう、と思いを胸の内に生じさせる。二人は里の誰しもから深く愛されていたのだ。
 それだけに王女の失踪は、心を引き裂くような痛みをエルフ達に与える事になってしまった。女王の手前、表立った非を唱える者はいないが、影では「裏切り者」という汚名が囁かれるようになったのは、各々が抱いた傷みの具現でもあった。

 だが、それでも表立った非難が無いという事は、穏かとは言い難いが平静である事を示す。
 エルフの里の者にとって、その内への葛藤と抑圧すらをも超越させてしまう事象が、約百年前に起きていた。

 それはライトダークエルフ族において最大の禁忌を犯した咎人…永らく行方を晦ませていた者の帰郷。
 予言者として吉兆を占い、エルフ族の行く末を案じ示してきた女王の片腕とも言える存在。
 今より更なる昔、唐突に姿を晦ましていた信ずべき予言者は、忌むべき大罪人として一人の赤子を連れて帰ってきたのだ。
 両属エルフにとって、種が別たれてから誰一人として決して侵犯する事のなかった事。
 それは光と闇の交わり。エルフにとっての秩序が乱れた世に産み落とす混沌とした存在。エルフ達がハーフエルフよりも畏れる存在の誕生。
 咎人の抱いていた赤子の、異端過ぎる藍色の髪がそれを物語っていた。
 罪深き業の者の名は、マリエル=エルヴィラ。そして、その忌み子はミリアと名付けられていた……。






 エルフの里、集落の外れにある古木。その場所は他と違って、古木よりも身の丈が高い若木達に囲まれて日当たりが悪く、周囲から疎外された異質な場所だった。
 長い年月を過ごしてきたその幹は、鉄のように硬く、石壁のように堅い。和やかな雰囲気が悠然と流れている里の中にあって、そこはまるで牢獄のような侘しさを醸し出していた。
 その幹に備えられた頑健な門扉もんぴを足蹴に開き、躊躇無くミリアは奥へと足を進める。
 手を繋がれたまま必死でついて行くノエルの表情には、戸惑いが浮かんでいた。

 長く続く回廊。その先にある唯一つの部屋の扉を前に、ミリアは足を止めた。
 薄暗い中で不気味に栄えるその扉は、里を総じて共通しているような木の温もりを感じるそれではなく、全く別のもの。忌々しい何かを閉じ込めておくように頑健に、此処に至ろうとする者を遠ざけるように堅牢に備えられた、人間の世界で言う監獄そのものであった。
 魔法的な処置が施されているのか、この場所に踏み入ってから魔法を封じられているように魔力を紡ぐ事ができない。エルフの血が通っている為に、それは心身に息苦しさと居心地の悪さを与え続けていた。
 無言のまま一つ大きく溜息を吐いて、ミリアは忌々しげに眼前を隔てる扉を蹴り開けた。
「……変わらないわね、ここは」
 部屋の中は、個室と称するには些か広すぎる間取りの部屋だった。壁にあつらわれた琥珀の燭台は、今はもう灯を点していない。閑散とした空気が広がる中に、寝台と小さな箪笥、そして小さな卓。眼を見張るような物はそれしかない。それらを除いて、後はただ無為に広い空間が虚無を漂わせているだけだった。
 年月に削り落ちた天井の粉欠片が、塵となって床一面に積もっている。それが扉を開けた瞬間に流れ入って来た風に捲かれて盛大に舞い散った。躍るように宙を漂っているそれは、扉の隙間から零れてくる光に反射して薄暗い部屋の中にあって一面に煌き、まるで星々の海の中に居るような錯覚さえ覚えさせる。
 閉塞した息の詰りそうな場所にあって、その錯覚は返ってこの場所の窮屈さを思い浮かばせる。
 ノエルはミリアを見上げながら不思議そうに尋ねた。
「ねぇ、ミリア。……この部屋は?」
「……檻よ。咎人の子を閉じ込めておく為の、温かくて暗い牢獄」
「……ミリア?」
 ただ真っ直ぐに部屋の中を凝視しながら、ミリアはポツリと呟いていた。






―――私の世界はいつもこの部屋だけだった。
 変り栄えの無い部屋。いつも同じ天井と壁。壁に備えられた琥珀の燭台は、絶えず光を湛えていたが緩急の無い、変り栄えの無いそれは命の温かさを感じさせない。申し訳程度に造られた窓はこの深奥の部屋にあって光を通さず、ただ風の流れを造る為のもの。
 部屋と外を隔てる扉は、大きくて頑丈。小さな私にとってそれは絶望の壁だった。



 私の記憶の原初にあるのは、火。盛り燃える赤い紅い火。
 誰かがその中に居た。誰かがその中で微笑んでいた。
 火が風になぶられて揺らぐ。その間から火中の誰かの顔がはっきりと浮かんだ。
 あれは…………私にとって大切な人。慈しんでくれた人。愛してくれた人。
 燃え盛る炎によってその姿は掻き消え、確かにそこにいたと言う残滓が、私の心を粉砕した。
 泣き叫んだ。泣き喚いた。泣き暴れた。
 誰か見知らぬ人の腕に抱かれながら泣きじゃくる私を、その人は憐れんだ瞳と、その頬を流れる何かの煌きが見下ろしていた。

 咎人の行く末は火刑。両エルフ族全体の合意であるそれは、例え女王といえど止める術は無かったのだ。
 その日、私はこの穏かな牢獄に閉じ込められる事になった。



 この変化の無い牢獄。
 他人との接点が無いから感情の折り合いによる諍いからは絶縁の、安寧の檻。
 エルフ特有の体質である優れた聴覚は、厚い木の壁を透して外の音だけを伝える。木の葉のざわめき、川のせせらぎ、虫の輪唱、風の玲瓏。
 それらを胸に眠りにつき夢に外の世界を求めても、朝、目が覚めて入ってくるのは見慣れた天井と薄暗い闇。

 気が狂いそうだった。狂おしいまでに、外の光を私は欲していた。

 ここに入れられてどれだけの時間がたったのだろうか。
 世界は変わらずに朝が来て、昼が過ぎて夜になる。そしてまた朝が来て、それが延々と続いている。
 考える事自体馬鹿馬鹿しいと、九十九を数えたところで止めた。
 良すぎる聴覚は、外の自然の音だけでなく、周囲に生活する他のエルフの会話も捉えてしまう。
 自分は咎人の子なのだと知ったのも、そんな理由。
 自分は生まれてはいけない子供だと知ったのも、そんな経緯。

 闇に慣れすぎた私は、やがて光という存在すら、忘れかけようとしていた。




 ある日、扉の外が騒がしくなった。
 何事かと思って、息を潜めて耳を済ませていると、聞きなれない粗雑な音が不快感を呼ぶ。
 ガチャリという耳障りな音と共に、あろう事か絶望の壁が開かれたのだ。
「!」
 直接光が射した訳ではないのに、部屋に比べて何倍も明るい外。その眩しすぎる逆光の中に立つ人影。
 私はただ、目にした事の無いそれに怯え、広い部屋の隅の壁に張り付いて震えていた。
 光の中から、見慣れないそれは近付いてくる。薄暗い部屋の中を臆する事無く、鮮やかな緑色の髪を靡かせて、周りの咎める声も聞かずに彼女はズカズカと檻の中に入ってくる。
 部屋の様子を一瞥して少し表情が曇ったかと思うと、それは直に消えこちらを向く。
 壁際で震えながら見ていた私の視界を覆うように、前に立って覗き込んでくる。

 そして、彼女は優しく微笑んだのだ。手を、差し伸べてくれたのだ。




 その時、私が私として在りはじめてから、初めて光の下に出る事ができた。
 眼に映る鮮烈な光に、暫くは眼を開ける事もできずにただ圧倒されていた。
 肌に感じる光の温かさも、風に孕んだ木々の香りも、自分の手を引く柔らかい掌にも……。広がった世界の総てには、確かな生の鼓動が存在していた―――。






「ミリア?」
 鈴を鳴らすような声に、ハッとしてミリアは意識を戻す。どうやら過去に浸っていたようだ。
 視線を横に動かすと、ノエルが心配そうな瞳で見上げている。それに優しく微笑んで自分の動揺を誤魔化す。
「え? ああ、ごめんなさい。どうしたのノエル?」
「……ミリアこそどうしたの? 急にボーっとして」
「ちょっと昔を思い出してたの。……まぁろくな記憶じゃないけどね」
 少し呆れたようにノエル。それにミリアは自嘲気味に返した。
「ねぇミリアって、どんな子供だったの?」
「私の昔なんて聞いてもつまらないわ」
「そんな事ないよ。僕、ミリアの事好きだから、もっと良く知りたいんだ」
「!」
 はにかんで笑うノエルの顔に、遠くのそれが重なってミリアは眼を丸くする。次々と眼の奥から込み上げて来る熱を抑えきれなくなり、開かれた双眸からは止め処なく涙が溢れ出ていた。
「ミ、ミリア?」
 突然自分を見下ろしたままポロポロと大粒の涙を零し始めたミリアを見て、ノエルは慌てる。そんなノエルの髪を優しく撫でながら、ミリアはもう片方の手で目尻を擦り涙を掬っていた。
「……ホント、あなたってあの二人の子供ね。同じ顔で、同じ事を言うんだもの……」
「ミリア……」






―――闇の中にいた私に、光を与えてくれたのは、いつも貴女あなただった。

 貴女は花のように綺麗な人だった。眩しい程に彩鮮やかな緑髪、森の木々との調和がとても美しかった。
 貴女は鳥のように明朗な人だった。異質な容姿である事を気にもしないで、私に手を差し伸べてくれた。
 貴女は風のように自由な人だった。薄暗い部屋から、何の縛りも無い太陽の下に私を連れ出してくれた。
 貴女は月のように靜淑な人だった。いつもたおやかに自分を励まし、まるで母のように慈しんでくれた。

 閉じた世界。薄暗い闇しか知らない私を鳥篭の中から解き放ってくれた、まるで光そのもの。

 リーヴェとかいういけ好かない女と出会ったのも、外に出てすぐの事だった。
 あの女は、アンの護衛役を任せられていた奴で、エルフの古い慣習に凝り固まった融通の利かない堅物だ。
 はっきり言って気は合わないし、話も合わない。顔を見ればすぐに互いに悪態を尽きあう、犬猿もただならぬ仲だった。その様子を見る度に、アンは困ったように二人を等しく叱った。
 ただお互い、アンの事を絶対視してかたくなに彼女を案じている姿だけは共感が持てた。




 思えば、アンはとても好奇心が強くて、奔放だった。
 閉鎖的な里からこっそりと抜け出しては、外であった事を愉しげに話してくれた。
 そんな好奇心に満ちた彼女が外で人間の男と出会って、恋に落ちたという美談は、何故か妙に納得が出来た。
 それから間も無くだった。アンが話してくれる話題の中心が外の人間…スルーアの事になっていったのは。スルーアの事を話している時のアンは、本当に楽しそうで幸せそうだった。彼女の中で、彼の事が占められていく事に微かな嫉妬も浮かんだけど、アンの嬉しそうな表情を見ると自分のそんな思いなんて、とてもちっぽけなものに思えた。
 アンはずっとこの里に居て、傍に居てくれる。そんな身勝手な妄念に、私は完全に浸かりきっていたのだ。

 丁度その頃からだった。アンが度々女王と口論をする事になったのは。
 その詳しい内容は解らない。だけど、それがエルフと人間の種族差という事に起因しているのは何となくだけど判った。
 二人は決して互いを譲らずにぶつかり合う。普段は仲の良い母子でも、その時だけは違った。

「ねぇ、ミリア。私この里を出て行くわ」
 ある時、美しい緑の長髪を風に梳かせながら彼女は言った。僅かに瞼を下げ、長い睫毛まつげに覆われた群青の眸には、憂いという名の影が落ちている。他のエルフ共・・・・と違って、何時も優しく自分を見守っていてくれた眸が翳るのは、見ていてどこか心が苦しくなる。いつも彼女が自分にしてくれているように励ましてあげたい、と思うのは多分自分の素直な気持ちだ。
 だけど、発せられた言葉を頭で解して、それよりも先ず自分の心が動いてしまった。
「何でっ、どうして!?」
 半ば叫びながら、彼女の身体に縋りつく。萌黄色のドレスの上からその細い腕に爪を立てるように力を込めて、縋りついた。他のエルフ共とは違う、大きな藍色の瞳は溢れ出てきた涙で潤んでいる所為で、彼女の顔がぼやけて見える。太陽の光が、木の葉のざわめきで動く度に双眸の波は大きく揺れ動いて、それを助長させた。
「お母様はわかって下さらない……。いえ…認めるのが、想い出すのが怖いのね、きっと……」
 空を見上げながら彼女の独白は流れていた。だけど、自分には届かない。濁流に巻かれて、荒れ狂う海に飲み込まれていくような恐怖と不安が自分の中を支配していた為、その言葉の意味を汲み取る余裕すらなかった。
 アンの事を大事に思っていると自覚しながらも、ただ一心に自分の想いをぶつける。それがアンの想いの枷になる事であるとも知らずに、ただ泣き喚いていた。
「待って……! 置いていかないで! 独りにしないでっ!!」
 ただ、ただ切に自分の願いを零す。大きな珠のような涙を宙にばら撒きながら、吐き出していた。
 今にして思えば、多分いつも彼女の前では自分は泣いてばかりいた気がする。
 それを見て困ったように眉を寄せながら、彼女は微笑んだ。そっと頬に流れた涙を拭ってくれる手はいつものように温かい。普段ならばこの後で彼女は苦笑を零しながら、「貴女は相変わらず泣き虫ね……」と言って頭を撫でてくれた。他のエルフ共と違う藍色の髪を優しく梳いてくれた。

 だけど、その時だけは違った。

「ごめんね、……ミリア」
 本当に申し訳なさそうに。だけど決して自分の気持ちを覆さないような拒絶も、そこに秘められていた。
 途端に遠く霞んでゆく彼女の姿。私は走って走って追いかけても、決して届く事無かった。
 嫌だった。離れたくなかった。置いていかれたくなかった。そして何よりも……。
「アンーーーーっ!」
 私は、一人になるのが怖かった。再び、あの暗闇に戻るのがたまらなく怖かったのだ。




 アンがいなくなってから幾許か月日が流れる。里の連中は時が経つにつれて私に攻撃的になっていった。
 女王は何も言わない。今まで私が里を歩く事を黙認していた女王も、娘の失踪で心が一杯だったから、私なんかに構う余裕なんて無かった。そう言う風に後日思えるようになる。
 特に攻撃的だったのが、やはりリーヴェだった。
「貴様の所為だ! ミリア!!」
 里の中をあても無く歩いていた私を突き飛ばして、リーヴェは叫ぶ。
「貴様のような異端者が、あの方の傍に居たから! その穢れによってアン様は!!」
 彼女の事を案じている割りには、彼女の事を認めていないような身勝手な叱責。だけどそれを自分に責める権利は無い。自分もそうやってアンを困らせてきたのだ。
 吐気がする位に強烈な攻撃意思。侮蔑と嘲りを孕んだそれはやがて行動に移る。
 それに触発されて、他の連中も悪意を表に出して私に攻撃してきた。
 魔法すら使えなかった私には、抵抗する手段は無かった。ただ逃げ回り、泣き叫び、身体と心を蝕む痛みに喘ぐ事しかできなかった。




 私はいつもアンに護られてきた。アンの傍に居たから、他のエルフ共も表立っての攻撃意思を見せる事ができなかったのだ。
 連中がここまでの敵意を見せるのは、私が異端者だから。咎人の子だから。穢らわしい不浄な者だから。
「ここに私の居場所なんて無い」
 そう刹那的に思った時、私は里を飛び出し…いや、逃げ出したのだ。





 私はノアニール村の周囲の森を当ても無く彷徨っていた。この周囲の森には魔物とかいう訳のわからない獣の姿は現れる事は無かった。だからといって安全と言う訳でもないが、そんな事を気にする事も無い程に、私は虚ろな表情で歩いていた。
 ガサリと茂みから音がした。警戒に身を震わせると、その影から懐かしい、望んでいた顔が現れたのだ。
「ミリア!?」
 それは里を飛び出して行方を晦ませていた筈の、アンだった。
 アンは懐かしい気配を感じて探しに来てくれたのだ。戸惑っていたアンは、私が事情を話すと本当に済まなそうな顔を私に謝った。アンが謝る必要なんて何処にも無いのに、何度も謝ってきた。
 アンに連れられて、今アンが住んでいるという場所に連れて行かれる。
 アンや、アンが選んだ相手スルーアとその父のアルメイダは、アンの妹のような存在だった私を受け容れてくれた。
 私は、またアンの傍にいられる事がただ嬉しくて、自分の容姿が人の世にあって余りに異端だという事に気がつかなかった。




 それからまた少し時が流れた、ある日。ノアニールの外から人の一団がやってきた。
 魔物が徘徊している中、ここを訪れた訳だからそれなりに術を持った連中だった。
 そいつらは、私が一人村はずれで歩いているところを見つけると、喜々とした声を上げて近寄ってきた。
 手には袋やら、縄やら、鎖やら。見るからに物騒だった。人の世で言う、動物などの獲物を捕らえる為の捕獲用の道具を手に、醜く歪められた吐気のする笑顔がそれを確信させる。
 そいつ等は、私のエルフらしからぬ容姿の噂に巻かれてきた、人攫いの集団だった。
 アンからはあまり家から出ないようにといわれていたが、広がった世界に私の好奇心はそれを辞さなかった。

 私は森の中を逃げていた。息が切れても、足が挫いても逃げていた。
 追いつかれたら捕まる。最悪の場合、殺される。
 どれだけ走ったのか、逃げたのかわからない。意識が遠退きそうになるのを自覚したら、私は地面に倒れ伏していた。
「もう……体が、動かな…い」
 全身が疲労と恐怖で震え、もう動けそうもない。
「……私は、ここで死ぬの?」
 このまま下衆な人間に見つかったらどうなるのか。それがまるでわからない。見えない恐怖に自然と涙が浮かんできた。
(どうして、どうして……。私が何をしたの?)
 姉のように思っている親友の顔が脳裡を過ぎる。エルフでも、人間でもない私を認めてくれた。優しくしてくれた、麗しいエルフ。彼女の顔が浮かぶと、もう会えないと悟ってしまい、涙が頬を伝う。
「……ふふ、ザマぁ無いわね」
 ミリアは自嘲的に笑みを浮べる。もう全身の感覚が失われつつある。
 気配、足音が近づいてきた。……一人。単独だ。だが連中にしてみたら、獲物が抵抗もせずに転がっているのだ。これほどの機はないだろう。
(…嫌いよ。こんな世界……)
 うつ伏せに倒れている自分に、追跡者の影が覆う。もう終ったと、私は諦念に意識を閉じた。




「…お……い。……おい。おい!」
「…………え?」
 肌を撫でる温かい光と、優しい声を感じる。良く知る人のそれかな、と思うも絶対的な性質の違いが意識を醒ます。
 開かれた視界には逞しい肉体に精悍な顔、優しい眼差しで自分を見下ろす戦士の顔があった。
「大丈夫か?」
「ニンゲンが……、どう…して……?」
「……今は傷の手当てが先だ。……ベホイミ」
(………あたたかい)
 自分を包む白色の光に思わず気が緩む。柔らかな白の波動は憔悴しきり欠け落ちた心身の深奥にまで染み渡り、その闇の中に小さな活力の光を育む。それはやがて清冽せいれつな流れとなって全身を駆けてゆく。
 全身に満ちてきた力に、思考がハッキリしてくる。その顕れか、口を突いて出る言葉は警戒が篭められた慎重な声色だった。
「あなたは……、誰なの?」
「私は旅の者だ」
「旅? こんな、魔物がいる世界を?」
 エルフの里に居た時は全くわからなかったが、今、身を寄せているノアニール村や外の世界。そこは数年前にこの世界に現れたという『魔王』なる存在の所為で、その者の僕である魔物が世界各地を脅かしているという事を耳にした。そんな絶望の権化に対して、村の多くの人間は見て見ぬ振りをしている。自分達には関係が無い、そう己に言い聞かせて偽り現実を謳歌おうかしている。それが里に居るエルフ共と変わらない気がして、とても苛立たしかった。
 だからこそ、その中を単身で旅している事が信じられなかった。
 だが、戦士の目には嘘の色は載せてはいない。透き通った空のような蒼い眼が、真摯に自分を映していた。
「……私は、その魔物を打ち滅ぼす為に旅をしている。……君の事は、立ち寄った村である夫婦に頼まれて助けに来た」
「? 誰が……」
「アルフォルク夫妻だ。彼らに必死で頼まれたから、断ることができなかった」
「アン……」
 紡がれた言葉にホッとしたのも束の間。私は自分に降りかかっていた状況を思い出して身を強張らせる。
 私は追われていた。下衆な笑いを浮かべ醜く歪めている人間共に。
 怯えるように周りを見てみると、村にきた一団の何人かが赤い血に塗れたまま動かないで転がっている。
「あなたが、……やったの?」
「…………ああ。どうしても見過ごす事ができなかった」
 僅かに眉を寄せながら、声を低くして男は呟いた。
「私は、世界の調和を乱す魔物を許せないが、それに乗じて悪事を働く人間もまた、許す事ができない……」
 決意を胸に秘めた強い双眸だった。
 微かに揺らいでいる幾許かの後悔も、その意志を覆させるには至らない。美しい、瞳だった。
 思わず直視できなくて、私は伏せ目に逸らしながら尋ねた。
「あなたは、私を見ても何とも思わないの?」
「? どういう意味だ?」
「……私は、エルフ……いいえ、もしかしたらハーフエルフ…エルフでも人間でも無い、不浄な存在…なのよ。それもこんな異端の容姿の……」
 逸らした視線の先、緑の森の中で栄える藍色の髪が、枝葉の隙間から零れる陽光を浴びて艶やかに輝いている。男の優しい眼差しの中、その事がとても疎ましく感じられていた。
「……それがどうした? 君は君だ。そんなに自分を卑下にするものでは無い」
「!」
 弾かれたように私は顔を上げる。
「こんな混迷ともいえる時代だからこそ、疑心暗鬼に囚われず真実を見極める必要がある。何が正しくて、何が間違っているか。個人的な感情ではなく、ありのままの事実からそれを見定め、受け容れなければならない。だから君が何者であろうとも、君は君だ。それ以上の事は無い」
 アン以外の存在に初めて言われた自分の存在を認めるような言葉。それは胸の奥に深く温かく響き渡る。
 込み上げて来る何かに耐え切れなくなって、私は彼の胸に抱きついて思いっきり泣いた。思えば、あれはアン以外の他人に対して初めてだったかもしれない。
 男はまるで眠れない子供をあやすように、そっと自分の頭を撫でてくれた。それが余りに心地良くて私は、本当に眠ってしまった。極度の緊張と恐怖に曝されていた精神が、限界を迎えたのだ。
「……これで良し、と。……眠ってしまったのか?」
 傷の手当てをしていた男は、何時の間にか眠ってしまった私に一つ苦笑を零す。そして、男は眠った私の目尻に残った涙を指先で拭い、私を抱え村に向かって歩いていった。

 男の名はオルテガ=ブラムバルド。アリアハンという人間の国の『勇者』と呼ばれる希望の存在だった―――。






「オルテガさんかぁ……。僕は会ってるんだよね?」
「ええ。私とあなたは、オルテガと三人でダーマに向かって旅に出たのよ」
 ノエルの手を引きながら、ミリアは里の御殿の回廊を歩く。その度に琥珀の光によって生まれた影が躍る。
「でも僕、小さかったから覚えてないんだよなぁ……」
「あら、そうでもないでしょう?」
「え?」
 大きな眼を瞬かせて、首を傾げるノエル。
「オルテガは…ポカパマズよ」
「ホント!?」
 驚くノエルを見下ろしながら、ミリアはクスリと笑った。






―――運命のあの時・・・はもう間近に迫っていた。
 私はただ、一心に陰りの霊廟を目指していた。

 ノエルとアルメイダと、護衛をしてくれたオルテガの三人とカザーブ村の前で別れて、一人ノアニール村に立ち入った時、これが女王の魔法による代物だと言う事を知った。
 いつかアンに聞いた事があった。女王を始め多くのエルフ達はハーフエルフを恐れている。
 それがどんな理由でなのかは知らないが、その想いがこのような行動を起こさせたのだろうと、直に思い至る。
 寝静まった村を前にしながら私は考える。だが結論は予め用意された物のように即座に浮かび上がった。
『別に自分にとって、この村がどうなろうと知った事では無い』
 一時的に生活をした事もあるけど、周りの人間に言われる事など結局はエルフ共と何も変わらない。自分の容姿の異端さをただ無情に無慈悲に侮蔑され、誹謗され、結局行き着くところはやはり暴力による制圧だった。
 アルメイダやスルーアは良くしてくれたけど、今まで生きてきた年月の深さに刻まれた疑念の溝には、到底敵う事は無かったのだ。

 私はひたすらに森を西に向かって走っていた。
 日が昇って、天頂を経て傾き始め、沈んでは静寂を保ち、やがては昇って、また沈む。
 何度も繰り返す時間を走り続けていた私の心には、ただ一つの思いが渦巻いていた。

 もし私に力があれば……。
 もし私が魔法を操れる事が出来たならば……。
 そうすれば、今まで私を蔑さげすんで来たエルフも人間も皆殺しにしてやれると言うのに。
 何時もどんな時も私を目の敵にしてきた、あのリーヴェも。
 私を暗闇の中に閉じ込めた、あのエルフ共も。
 集団で暴力を翳して振るう、あの村の連中も。
 異端の容姿を珍しがって捕えに来た、あの下衆な人間ブタ共も。

 エルフの里に立ち寄ったとき、門前払いを喰らった時に発露した、自分の裡の深い所で芽吹いていた黒い感情。それが止め処なく溢れ出て、それが抑えられなかった。だけど思うだけでは決して何かが変わる筈も無く……。
 残ったのはただ虚しさだけだった。

 疲労困憊になりながら私は陰りの霊廟に辿り着く。近付いただけで、自分の中の何かが悲鳴を上げているのがわかった。目の前に広がる暗闇に恐怖しながらも、私は意を決してその中に飛び込んだ。
 霊廟の中にはどういう訳か魔物がたくさん出ると聞いていたけど、その時は不思議な事にそれらと遭遇する事は無かった。ただやはり魔物というものは存在しているのか、背後から見られるような、息を潜める様子などの仕草の音が、次々と聴覚に捕えられてきた。
 追い詰められているような極度の緊張と、歩く度に甦ってくる暗闇の恐怖。徐々に私の中から現状を認識する意識が欠け落ちて、虚ろになっていった。
 多分あの時、私は泣きながら歩いていた。何度も転んで足を挫いた。這い寄る闇に何度も叫び声を上げた。
 だけど、それでも前に進む事を止めなかった。ただこの先にアンがいる。それだけを心の灯にして私は暗闇の中を歩き続けた。

 何時の間にか、ここを訪れた目的が変わっている事に私は気付いていなかった。

 最下層に降りた時、ようやっと懐かしい顔に会えた。アンやスルーアが驚愕していたけど、気にはならなかった。ただ光アンに会えた事の安堵で、私の意識はようやく一息吐けたのだ。

 ……その後の記憶は無い。どうやって思い出そうとしても、闇と雑音に阻まれて辿る事すらできない。
 ただ暗雲に包まれて、自分が何処に立っているのかもわからない。身体の感覚は廃れ、意識だけが鋭敏にある状態。闇と同化したような錯覚で、無常に流れていく時間を数えるだけで、記憶など残りようも無い。

 暗雲が晴れて、最後に見たアンとスルーアは衰弱したような顔色で、弱弱しく笑みを作る。
 私にルビーの入った袋と、アンが掛けていた首飾りを託して、アンは半ば強引に迷宮脱出魔法リレミトを私に掛けた。
『先に戻っていて。ノエルとルビーを護ってね』
『後から、必ず行くから……』
 その言葉が、消える直前に耳の奥に何時までも残っていた。




 私はどれだけの時間を待ったのだろう。ただ洞窟の前に座り込んで、闇が犇くその奥へと視線を凝らしたまま石像のように動かなかった。ただただジッと前を見続けていた。明けていた空も朱に染まって、残陽の光が瞼を撫でつけて行ったけど、それも気にすることも無くただ、待った。

 結局、アンとスルーアがそこから現れる事は、二度と無かった。




 オルテガはカザーブ村で待っていた。一度関わった以上放っては置けない、と。一種の押し付けがましい事のような言葉を言っていた。自分の旅が逼迫ひっぱくしたものだというのに、その優しさからかそのまま旅に出る事ができなかったのだ。
 憔悴しきった表情の私を、オルテガはただ黙って抱きしめてくれた。
 その腕も、胸も温かかった。子供をあやすように頭を撫でる手があまりに優しくて、私は泣いた。ただずっと、魂が壊れるほどの嘶きに泣き続けた。




 その後、私はオルテガについていく事にした。
 あの場所に止まっていてはいつかノエルに危害が及ぶかもしれないし、何よりもあんな所に私自身がいたくなかったからだ。
 危険だからとオルテガは渋ったが、私も頑なに首を横に振った。
 放っては置けない、と言った手前、結局は折れてオルテガは承諾してくれた。アルメイダはノエルと離れるのを惜しんでいたが、自分の纏める村をそのままにしては置けない責任から、ノアニールに戻っていった。




 オルテガとの旅は楽しかった。
 ノエルが泣き出して止む気配が無い時、私とオルテガは二人とも慌てていた。
 訊けば、オルテガも産まれたばかりの幼子を故郷に残しているという。その事もあってか、彼がノエルを見る眼はとても穏かで、父親のような光を宿していた。
 それを見て、私の胸がチクリと傷んだ事もあったが、その傷みが何なのか当時の私には理解できなかった。

 当然の如く混迷の世の旅は生命の危険が伴うもの。その大半が見境無く襲ってくる愚鈍な魔物によるもの。
 戦闘になったらただの役立たずな私。だけどもそれすらをも跳ね返すように、圧倒的な力を持って敵をなぎ倒すオルテガの後姿は雄々しかった。
 オルテガは簡単な魔法を私に教えてくれた。私も、ノエルを護れるように、オルテガの力になれるように必死に覚えた。自分の力の無さがたまらなく嫌だったのだ。
 途中、騒がしい巨漢の盗賊も加わって、私はダーマに辿り着く。
 そこである人物・・・・が私達の身柄を引き取ったので、そこでオルテガ達とは別れる事になった―――。






 謁見の間にて。ノエルは唯一人で女王ティターニアと対面していた。ミリアはこの部屋の入り口の向こうで待ってくれている。
「あ、あの……僕は」
「ノエル……。私は、あなたの母の母、ティターニアです」
 緊張を全面に顕しているノエルに、ティターニアは玉座を立ち、ノエルの前で膝を折った。
 落ち着いているようで、複雑な思いが篭められているような声と表情でティターニアはノエルを見つめる。そうされると何故か身体が動けなくなって、ノエルはただどうしようかと視線を揺らす。
「…………」
「……アンは自分の子供にこの名を託す事で、種族の壁を……、過去に囚われた私に希望を与えようとしてくれたのですね」
 ポツリと零しながら、ティターニアはノエルの小さな手を取る。
「…………」
「あなたのお母さんの事……。全ては私の愚かさのせいです。本当に、ごめんなさい……」
 女王という身の上の者に頭を下げられて、ノエルは狼狽する。その為、声が上擦ってしまった。
「そ、そんな……。あの…おばあ様、聞いてください。……僕ははっきりとお母さんやお父さんの事を覚えていませんけど、愛されていたと言うのは、あの時わかりました。それに、ミリアもいつもそう言い聞かせてくれていました」
 ノエルの言葉の一つ一つを真摯に見つめながらティターニアは聞く。
「おばあ様にとって大切な人の名前を、お母さんは僕につけてくれました。それはきっと、お母さんがおばあ様の心を慮っての事だと思います」
「ノエル……」
 自分でも何を言っているのか良くわからないが、ただこれだけは伝えたかった。添えられた手に自分の手を重ねて、握る。
「僕は、この名前が大好きです」
 太陽のように眩しい、満面の笑みを浮かべるノエル。
 その朗らかな笑顔が、遠い昔に亡くしたそれに重なって揺れる。込み上げて来る熱は、視界を灼いた。
 ティターニアは耐え切れずにノエルを抱きしめる。
「ノエル……。本当に、ごめんなさい。…………ありがとう」
「おばあ様!」
 ノエルも温かいそれを感じながら、ティターニアの背に腕を回した。




 背にした扉越しに、ノエルと女王の泣く声が聞こえてくる。それを耳にしたままミリアは眼前でこちらを鋭く睨んでくるリーヴェに視線を移した。
「あなたにとっても、アンは大切な人だったのよね」
「当たり前だ! ……でも、でもあの陰りの霊廟ニブルへイムで見たアン様は、貴様を恨んではいなかった。そんな事はわかっている。……だがな、アン様がいなくなって哀しい思いをしたのは、女王様や貴様だけではない。私も悲しかった! 苦しかった! だからこの気持ちはどうしたらいい! この行き場の無い想いはどうすればいい!!」
「それなら、その矛先を私に向ければいいわ。今まで通り、ね」
 言葉にリーヴェは眼を見張る。
「!?」
「幾らアンが私を赦してくれたといっても、亡くした事に痛みを覚えているのは私だけじゃない。だから、それに伴う感情は私が全部受ける。それが私の業だから。今まで通り、ハーフエルフだの下賎だの、好きなように言えばいい。でもね……」
 ギュッと拳を握りながらミリア。
「……もしもノエルに同じような事をしたらその時は、…………殺すわ」
「……っ!」
 剣呑な光を双眸に滾らせるミリアを前にして、今目の前に立っている奴は誰なのだろう、とリーヴェは思う。
 嘗てこれほどまでに強く自分を睨み返してくる事があっただろうか。いつも怯えて、いつも泣いて、ただ震える事しか出来ない奴だった。だが今の双眸に宿る光は戦慄がほどばしる程に強く、それは単純な力から来るものだけでなく、もっと根源的な魂の輝きが在った。
「エルフは長寿だから意識の変革も時間が掛かる。すぐにわだかまりなんてとけないでしょう。だけどそれでも、ノエルに異端に対しての牙を剥いたら、私は絶対に許さないわ!」
 人の暦で十五年。長久を生きる自分達エルフにとってさしたる時間ものではない。たったそれだけの間で、こいつはこうも変わった・・・・というのか。閉ざされた世界と開かれた世界。費やした時間は同じと言えど培った時間、その差はこんなにも開いてしまったというのか。リーヴェはそう思わずにはいられなかった。
 それを認めてしまう事が癪だった為、鼻を鳴らして踵を返す。
「……フン、減らず口を」
 颯爽と回廊を行きながら、仕えていた主が外の世界に飛び出していった時の気持ちが、ほんの少しわかったような気がした。




 足早に去るリーヴェの後姿を見止めながら、ミリアは眸を伏せて考える。



 あの時からの十五年は、満たされた日々だった。
 だけど心のどこかで、言いようの無い何かに惹かれているように、あの場所の事がちらついていた。
 今思えば、一時的に怨念達に乗っ取られた私の中に何か染みのようなものが残り、それを忘れようと心の奥底に記憶を押し込めようとしている無意識が、それを広げていったのだろう。
 罪から逃れたいという意識と、罰を受けて解放されたいという意識が鬩ぎあって、それがあの場所への駆り立てられる衝動となっていた。
(ジュダは、それを見抜いていたのかしらね……)



 いけ好かないが、確かな力の在る自分の師を思い浮かべて、ミリアは肩を竦めながら開眼した。
「これでいいよね? アン」
 窓の外から見える木々が緩やかにざわめいていた。まるでその風の中でアンが微笑んでいるように見えて、ミリアもそれを空に返した。






 ――名前、教えてくれる? あなたの事、知りたいの。
「……ミリア。私はミリア=エルヴィラ」
 ――そう…、ミリアね。私はアン。アン=ソレイユ=ディース。よろしくね、ミリア。




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