――――外伝二
       かずらの断想







 夏の終わりが近づいている事を示す肌寒い風が吹く空の下、紅く色付き始めた山々の面も今は夜の帷が降りていて、深い闇色に染まってその素面を隠している。
 人里から遠く離れている地に照る明りは夜の空に浮かぶ主たる満月、そしてそれに付き従うように寄り添う満天の星々のみ。地上の静暗さに反して空は明るく、暗紫の天球に所々に浮かぶ鈍色の雲が、風に流されては山頂の先の見果てぬ虚空に吸い込まれ、消えて往く……。その様は見る者によって、世の暗澹たる行く末を暗示させるものであったり、世に蔓延る悪意を根絶する希望の顫動せんどうであったりと様々だ。
「……嫌な雲行きだね」
 言葉とは裏腹に、その声色に憂慮さは微塵も無い。闇色に溶け込む様に染められた帽子から僅かに零れる銀の毛先を指で弄びながら、星々が犇く満天の夜空を見上げ、口元を覆うように深く羽織った外套の下で呟いていた。
(思っていない事を口にするのは、我ながら空々しいな……)
 自嘲的に口元を歪ませ、小さく溜息と共に頭を横に振る。
 チラリと目線だけ周りに巡らせると、そこには静寂に溶け込むように幾十人もの人影が、息を潜めながら佇んでいた。どうやら幸いな事に、その呟きは暗闇に阻まれて他の人間に見止められる事は無かったようだ。
 それに何処かホッとしながら、今度は身体ごと後ろに返り、腕を剣を振り下ろすが如く真っ直ぐ振り下ろす。言葉無いその仕草だけで、傍に控えていた幾つもの影が散ばり、夜風と共に駆け出していく。
 冷たい岩肌の崖を駆け下りながら、その先の、ただ一つこの闇にぼんやりと浮かぶ光を目指して、闇の中を影が舞う。

 澄み切った夜空には、星が流れ一筋の弧を描いて黒の世界を切り裂いていた……。






 霞む黒の天幕を引き裂く様に、その場所には朱色の灯りが明々と燈っていた。
 人里から離れ、ひっそりとしていた山間に築き上げられた堅固な砦。そこが灯明の源であった。闇の世界の中にポツンと切り取られたように明ける建物の内を、外を大勢の人間達が哭声を上げながら、或いは悦声を上げながら右往左往、縦横無尽に犇いている。
 好奇の目と下卑た薄ら笑いを浮べながら、人を守る任にある者の証たる頑堅な鎧兜を纏った兵士達が歳若い少女達を追い回している。どの顔も酒気によって醜く紅黒く染め上がっており、その血走った目からは正気を窺う事すら出来ない。酔いによる肉体の弛緩と、精神の昂揚で完全に理性の糸を切り離したケダモノのようによだれを撒き散らして、猛り迫っている。
 それを野で魔物に遭遇した時のような、絶望に満ちた眼で泣き叫びながら、少女達は入り組んだ砦の内外を逃げ回る。が、魔物が跋扈する街の外。そしてこんな辺境に有る砦の事など知る筈もない村娘に、狂った魔手から逃れる術は無かった。
 肉食獣に追い詰められた小動物の様に、少女達は常軌を逸した眼光の兵士達に捕まって、或る少女は力任せに乱暴に衣服を剥ぎ取られ、或る少女は強引に組み敷かれ、或る少女はその細い首をごつごつした岩のような手に締め上げられていた。人を守る為に存在している兵士達による蹂躙は、まだまだ世間知らずな年齢の少女達に絶望を与え、その怯え切った眸は兵士達にこの上ない快楽を与えている。
 この悪夢のような連鎖の中、喜悦に満ちた眸で少女に暴行を加えていた兵士が、乱暴に手で掴み上げているその細い首に、冷たい切先を突きつけようと構えていた。修道女らしき衣服を纏っていた少女は身体のあちこちを殴られ、蹴られ、その愛らしい顔も赤く腫れ上がってしまっている。その双眸にはもう絶望に染まり切り、意志の光を点してはいなかった。ただただこの現実を嘆き、己が信じている神の名を延々と擦れた声で呟いているだけだった。枯渇する希望に反して、止めど無く溢れてくる絶望色の涙が頬を伝って、冷たい石床に滴り落ちている。
 蹂躙に飽きた兵士が愉悦に醜く顔を歪ませながら、一気に剣を少女の細い首に突き刺そうとした。

――その時、一陣の銀色の風が闇夜の空から駈け抜けた。
 舞い降りたその銀風は瞬く間に、既に正気を失い暴虐の限りを繰り返していたその兵士の背後に回り込み、逆手に持った鋭く光る死の輝きを灯す刃をその首筋に一閃する。
 肉を深深と切り裂く音と共に、断たれた頚動脈から噴水の様に勢い良く噴き上がる紅き血潮。周囲にその生々しい鉄の香りと暖かさを残した飛沫をのっそりと広げていく。床や壁、周囲に飛び散ったそれは、闇夜でそれは深く混濁とした黒に塗り返られ、その夥しさを夜の中に潜ませていった。
 兵士の束縛から開放され力無く地に腰を落していた少女は、事切れ倒れ伏した兵士と入れ替る様に視界に入って来た人物に目を向ける。目の前で人が死ぬという凄惨な光景に、恐怖を擁いて唖然としたまま。その大きく見開かれていた瞳の焦点は今だはっきりしていないが、その視線の動きの早さは少女の裡の情動を顕著に表していた。
「大丈夫かい?」
 そんな殺伐とした場に在って、黒い帽子から零れている清潔感の在る白銀髪は酷く場違いではあったが、既に絶望に塗れていた少女には救いの白光だった。人としての優しい温かみが在る琥珀の双眸は少女に心底からの安心を与え、崩れ落ちていた少女はただただ先程とは全く別の涙を溢れさせながら、機械的に首を縦に振っていた。
 暴行され、少女が纏っていた衣服の殆どが剥ぎ取られているのを気遣って、銀髪の男…ヒイロは自身の纏っていた闇色のマントを、その震えている肩に覆い被せてやった。マントを覆い掛けてやった時に少女がビクンと大きく震えあがったのを見て、僅かに眼を細める。狭まった視界では、マントの裾がはっきり判るくらい震えている。
(こんなに若いのに……可哀想に)
 少女のその反応から、今までこの少女に降り掛かっていた事象を推測して、瞑目する。この場合、下手に接触するよりも少し落ち着くまで待った方が良いと判断し、ヒイロは少女から数歩離れる。
 その思索を肯定する様に、マントを受け取った少女は直にそれを羽織り寄せ、助かったという事実に嗚咽を零しながら冷たい風が吹く空の下で、自分の肩を抱き締めながら震えていた。
 暫し、少女の嗚咽だけが寒空の下で木霊していた。

 無機的にそれを眺めていたヒイロは、異変に気付いて背後に集まってきた兵士達を振り向いた。
 その誰もが仲間を殺された事に、愉しみの邪魔をされた事に怒り、剣や槍を手にして邪魔者であるヒイロを包囲するようにジリジリと散開していた。
(まるで獣…か、或いは魔物か)
 窮地に立たされているにも関らず、向けられる敵意と殺意の中、ヒイロは酷く落ち着いた面持ちで自問する。
(普通の人間なら、ここで烈火の如く怒るものなのかな……)
 そうだろうな、と結論に至り、自嘲気味に内心で嘆息する。思い至った結論とは裏腹に、自分の心の中は酷く冷静に、冷徹にこの急場を切り抜ける算段を組み立てていた。
 その心内の動きなど微塵も面に出さずに、ヒイロは包囲されつつある場を一瞥する。

 既に弄られ、陵辱され、殺された少女達。
 獣のように低く唸り、怒りに塗れ、涎を垂れ流す兵士達。

 ここで大きく溜息を吐く。既に事切れた少女達への憐憫と、これから下す兵士達の鎮魂をそれに乗せて。
 それを機として大勢の兵士達はヒイロに襲い掛ってきた。
 ヒイロは引かずに逆に前へと歩を踏み出して、一気に開いていた距離を詰める。
 両手に、逆手にダガーを構えたまま敵集団の中心に駆け出しては大きく翻り、舞いのような回転をしつつ相手の咽喉や頚動脈を流れるような手捌きで断ち、紅い血潮を夜空に舞い散らした。
 一気に数人の兵士達が、つぼみから開いた花弁の様に四方八方に次々と倒れる。
「な、何ィィ!?」
「こいつっ!!」
 その事に一瞬怯み、声を上げる他の兵士達。その声を聞いても眉一つ動かさずに彼らの懐に即座に潜り込み、ヒイロは間髪入れずに二つの刃を走らせる。
 月明かりの下、青白い光が半円を描いて三日月が瞬きのように舞っていた。
 次々と倒れ伏せていく仲間に愕然としながら、一人離れて槍を構えていた兵士は、それを投擲しようと大きく振り被る。ヒイロもその気配に気付いて踵を返すが、兵士の動作は思いの他速かった。大きく構えた腕を、一気にこちらに振り抜こうとした瞬間――。

――何かが貫かれる音が、何時の間にか静寂していた場に響き渡る。
 槍を構えた兵士の胸から、溢れる赤い血潮に塗れながらもその存在がはっきりとわかる、青碧色の剣が生えていた。否、頑健な鉄の鎧諸共その身体を貫いていた。倒れ逝く兵士の躯からスッと、人影が視界に入る。夜の空に溶け込むような濃紫髪の青年…三魔剣の一振り“雷神の剣”を繰る魔剣士、“紫狼”ゼノス=アークハイム。彼は呆れたような視線でこちらを見下ろしていた。
「油断したな、ヒイロ」
「ゼノス……、悪い」
 鷹揚とした声に苦笑しながらヒイロは、ダガーについた血糊を振り払う。そして柄を掌でクルクルと弄んでは腰に掛けてあった鞘に収めた。その暢達な仕草を呆れた様に半眼で見ながら、ゼノスはその濃紫髪を掻き回した。
「ま、気にすんな。……大体こっちは片付いたな」
 言いながらゼノスは愛剣を振って付いた血を除き、それを軽々と肩に担いで周囲を見眺める。するとヒイロの背後の壁で、彼のマントを羽織って震えながらこちらを見上げてくる…先程ヒイロが助けた少女を捉えた。
「お前、その女は?」
「いや、どうやら兵士に無理やり連れてこられたみたいだね。多分牢に捕まっている村人の中から…だろう」
「まだガキじゃねぇか。……腐ってやがんな、ここの兵士共」
 言いながらゼノスは転がっていた兵士の兜に力一杯剣を振り下ろした。それは何の抵抗も無く真っ二つに断たれ、二つに割れた残骸が虚しい甲高い音を秋の夜空に響かせた。彼の持つ剣の青碧色の刀身がぼんやりと淡く発光している。それは剣が彼の感情に反応した為であった。表向きに感情の激しさを顕してはいないが、ゼノスのその静かな憤慨振りに少女は小さく悲鳴を上げて竦んだのを見て、ヒイロは苦笑を零した。
(これが普通なんだよな……)
 そう考えると、何処か心が空虚になってくる。これは、そう考える事が出来ない自分への苛立ちなのか、それに対しての渇望なのか。自分ではっきりと判断する事が出来ない。ただジワジワと足元が崩壊していくような、不安を齎す焦燥感が胸の内で燻っていた。
「あ……。も、もしかして、あの“流星”の方ですか?」
「そうだよ」
「ああ……、良かった。本当に、助かりました……。太陰神ゼニス様のお導きに感謝致します」
 恐る恐る尋ねてくる少女に、ヒイロは心内での葛藤など微塵も載せずに、優しく笑みを湛えて頷く。その事実に安堵した少女は再び溢れ始めた涙を拭う事無く、黙祷して延々と仕える神の名を呟いては感謝の意を示していた。



―――こんな神のように畏敬を持って見られると言う事は、“流星”の面々と行動を共にするようになって、そう珍しい事ではなかった。それだけ、今のサマンオサ帝国という国そのものが病んでいるという事と、その解放者として動いている“流星”はその中で虐げられている人々にとって尊ぶべき、救いを齎す存在なのだと、改めて思い知らされる。
(そんな彼らの中に、自分がいる事は許されるのだろうか。果して自分には、その資格があるのだろうか……)
 自然と暗澹に向いて行く思考を止め、ヒイロは胸中で嘆息する。悩む事は、今するべき事では無い。そう自分に言い聞かせる。
 チラリと目線だけでゼノスを見ると、彼は周囲への警戒と、追いついた他の部下達への指示を出していた。それに従い、幾人もの影が周囲に散っていく。統制の取れた彼らの動きは速く、迷い無い様子のそれに、根底に有る信頼関係が垣間見られる気がした。




 助けた少女をヒイロは仲間に任せて先にこの場から去らせた。
 これからこの場で起こる事。自分達が起こす行動……。
 それはあの年端もいかない少女には余りにも苛酷だ。そして冷徹な言い方をすれば、足手纏いに他ならない。そう考え、同行していた“流星”の仲間である魔法使いと共に移動魔法で本拠地に帰らせたのだ。
 その青白い光の軌跡…地上から生れた流星の残滓を見送りながら、ヒイロはゼノスを仰ぐ。
「それで、ノヴァ達の方はどう――」
 ヒイロが言い終わる前に、ざわついていた夜の砦、その壁越しに勇ましい声が響き渡った。

『ブレナン! お前は近接戦部隊を率いて牢屋を探せ! 魔法、弓部隊は後方で援護だ!』
『ジーニアス! カンダタ!! お前達は俺に続けっ!!』

「……問題無ぇな。あの馬鹿、敵陣で大声出してどうするんだよ……」
 夜空に木霊する声を聞いて、素っ気無く肩を竦めて毒突くゼノス。別の場所で戦いに赴いているであろう親友達と、頼りになる目付け役。傍目からでも判る、仲間に対しての絶対的な信頼を垣間見られるその仕草を見て、何処かヒイロは目の眩む何かを覚えていた。
(この感じ…健羨か、或いは娼嫉か。……どちらだろうな)
 それに眩しそうに眼を細めていたが、一つ笑みを零して、闇に霞む四方に伸びる通路の端々を注視していく。
「…………じゃ、じゃあ予定通り、俺達はこのまま退路を切り開こう。向こうは囚われていた人々も増えるだろうから、敵はなるべくこちらで引き受けたい」
「ああ。おあつらえ向きに魔物なんかも出てきてやがるぜ」
 顎で指すゼノスにつられ、ヒイロはその方向を見る。
 見れば血の臭いに誘われたのか、野に蔓延る魔物までもが砦の塀を乗り越えて、暴れまわっている。敵対している“流星”の仲間達と帝国兵達。そして本能のままに両方に襲いかかっている魔物。混戦になりつつある戦場を見て、ヒイロは思わず乾いた笑いを上げてしまった。
「はは……。ゼノス、余り羽目を外すなよ」
「……その言葉、ソックリ返すぜ」
 互いに執るべき行動を確認し頷きながら、仲間達と敵兵、そして魔物の織り成す戦いの旋律の中に、ゼノスは、ヒイロは駆け出していった―――。






 嘗ての世界の盟主アリアハン王国と共に、世界同盟を支えていたサマンオサ帝国。
 もう一つの『勇者』を謳う国。
 二十余年前、世界に起きた一大異変『魔王』バラモスの降臨。
 そして彼の意に従う『魔』の軍勢によるサマンオサ侵攻。その脅威を退けたのは、彼の国の誇る屈強の帝国騎士団。そして、それを統べていた『勇者』サイモン=エレイン。

 帝国の矜持を受けて、『始まりの英雄』勇者オルテガと共に魔王バラモス討伐に赴いた彼は、二度と故郷の地を踏み締める事は無かった。旅先で魔物の奸計に落ちたのか、或いは不慮の事象に巻き込まれたのか、それを知る者は無い。ただ漠然と真実味の無い有象無象の噂が人々の間で囁かれた。
 帝国が誇る『勇者』の音信不通。それは国民に大きな衝撃と動揺を与える。だが不幸はそれで終わらなかった。
 突如、温和な賢帝として名を馳せていた皇帝がまるで人が変わった様に暴君と化したのだ。彼は、国民に一切の妥協の許さない莫大な重税を課し、理不尽極まりないで厳粛な法で人々から自由を奪い、そして異を唱えるものには情け容赦の無い冷血な制裁で縛る。恐怖と呼ぶに相応しい統治により帝都、そして数多に散ばる帝国領の都市村落から人々の笑顔や活気が失われていった……。

『勇者』亡き後の帝国の未来が暗澹に向っていったのは、もはや自然の成り行きといえる。
 だが、すべての国民が光を諦めた訳では無い。彼らには、狂気に塗れ、その皇帝の意志を体現し暴虐を尽くす嘗ての誇り…サマンオサ帝国騎士団から、自由と希望を与えてくれる存在があった。
 盗賊団“流星”…『勇者』サイモンが健在の時に、彼の率いる帝国騎士団と双璧を為して帝国の平和と繁栄に導いていた、民間人をはじめ貴富商人、下級貴族など身分を超越して集った遊撃騎士団“流星”の姿があったのだ。
 サマンオサ帝国が奉ずるのは、太陰神ゼニス。
 夜と静穏を擁く彼の名の下、夜空を流れる星の如く、自由と迅速さを以って国家に仇為す者を討ち、人々に希望の星光を運ぶ遊撃騎士団“流星”。……それが盗賊団“流星”の本来の姿である。






 サマンオサ大陸の東の外れ。帝国名でもある帝都サマンオサから遠く離れた辺境の地。
 この帝国の監視の眼が届いていない高原地帯に、“流星”の面々が集まって暮らしている隠れ里が在った。
 その集落では夜も更けたという刻限にも関らず、今は誰しも喜び、笑い、踊り、生きている事への感謝を実感しながら陽気に喚声を挙げている。静穏な夜が嘘かのように、集落全体が熱を帯びた様に活潤に満ち溢れていた。

 帝都から遠く離れた村々は次々と焼かれ、そこに住まう人間は帝都に送られては労働力として掻き集められている。この人狩りに遭い、帝都に送られた人間はまず返ってこないというのが、辺境に暮らす帝国領民の中で囁かれている現実だ。
 焼き払われた村落の住人はまず、要所要所の拠点に設けられた砦に集められ、ある人数以上が集まれば纏めて帝都に送致される。それまでの経緯で女、子供は既に正気を逸したような兵士達に弄ばれ、逆らえば殺される……。
 そんな魔物よりも残虐で、非人道的な卑劣極まりない行為が平然と国では黙認されていたのだ。

 今、この集落のあちこちで生きる事、自由への喜びを喜色満面に噛み締めているのは、そんな数ある砦の一つから“流星”の面々が助け出した人々である。その明々とした表情を見れば、捕えられていた砦でどのような仕打ちを受けて来たのか容易に窺えてしまう。
 人々が集まる広場を見下ろす位置に群立する一棟の建物の中、バルコニーの手摺に身を預け、そこから人々を見眺めながらヒイロは手にした琥珀色の液体を擁すグラスを傾けた。酒気を帯びて僅かに火照った頬を撫でる、冷たい夜の風がこの上なく心地良かった。
(これが、自分達の取った行動の結果か……。悪くないな)
 朗らかに笑い広場を駈け回る小さな子供達。母親と抱き合いながら喜びを噛み締める年頃の少女達。こんな場なら良いだろうと酒瓶を一気に傾ける血気盛んな少年達。家族の無事を知って抱き締め合う親子夫婦。それらを見眺めながら涙を拭う事をしない老人達……。確かにそこにいる人々の眼には、希望の灯が再び燈り始めていた。




 彼らは生きる事の大切さ、生きている事の貴さを知っているのだ。
 一度絶望を体験した彼等にとって、“流星”が齎してくれた光は希望への渇望と、それを求める諦めない意志を与えた。世に蔓延る驚異の魔物、そして有る意味それ以上の脅威といえる狂気に満ちた帝国。そんな暗澹たる世界を生きる上では必須のものを、“流星”は文字通り齎していったのだ。
 それを見止め、ヒイロは何処かホッとする。こんな時だけは、常に漠然と着いて回る焦燥感を忘れられる。直面しなければならない自身の何かから逃げているような気もするが、こんな夜はそれも許せるだろう。と自分に言い聞かせ、白翠の満月が往く夜空を懐かしそうに見上げる。
 周囲に鏤められた黄碧の星々が瞬くと、何故か胸の奥から上手く形容が出来ない何らかの感情が込み上げてきて、全身が冷水を打った様に震えそうになった。
(何なんだ、この感じ……)
 不可解なそれを誤魔化す為に、ヒイロは酒瓶からグラスになみなみと液体を注ぎ、一杯になったそれを一気に傾けて一飲みにする。喉、食道、胃…身体の内側から炎が滾るように熱くなるに反して、唇に勢い良く滑り落ちて触れる氷塊が酷く冷たく、どこか心から落ちついていくように感じられた。

 そのまどろみにも似た冷たさに眼を瞬かせていた為か、背後から来る気配に気付くのが一瞬だが遅れてしまう。
「ようヒイロ、どした? 随分と荒れた飲み方してるな。……らしくないぜ」
 低く、それでいて遠くまで良く通る声が背中に掛けられた。静かな夜ならまだしも、こんな喧騒が外から漏れてくるにも関らず、その声ははっきりと耳朶を打つ。
 既にそこにいるであろう人物達を脳裡に思い描いてヒイロは、見つかったか……、と内心で一人ごちた。振り返ると案の定、白金の髪を逆立てている青年が、余程飲んでいるのか顔を紅潮させながら佇んでいた。その背後には同じく頬を上気させ、酒瓶を持ったまま手近の椅子に腰を下ろしているゼノスと、そんな若者二人を呆れた様に見下ろしている薄金髪の大男が苦笑を浮べていた。
「……ああノヴァ、いや…何でも無いよ。……ところで、今日そっちの首尾はどうだった?」
「ん? ああ。お前の策のおかげで問題無かったぜ。ま、兵士共と一緒に魔物も襲ってきた時は、少しビビッたが、俺にかかりゃあ何でもなかったぜ」
 こちらの問いに、大袈裟に肩を竦めて余裕さを示しているのは、この盗賊団“流星”首領。“白鷹はくよう”ノヴァ=ブラズニル。自分とそう変わらないであろう年齢の彼が、この一大組織を束ねているのだから、その人望と実力は誰もが認めるものだ。尤も、無論それが彼一人の力だけでは無く、彼を支える脇の人間達にも恵まれ、この組織が目指すものがハッキリと統一されている事も要因である。
「はは……。それなら良かったよ」
 酒の所為で少しばかり気が大きくなっているノヴァに、ヒイロは苦笑を返した。が、横から落ちついた声がノヴァに釘を刺す。その声の主は酒は飲んでいないのか、しっかりとした口調で続けていた。
「おいノヴァ、今日の作戦…調子に乗り過ぎだ」
「あ? どーゆー意味だ?」
「少しは用心深くなれ。いつも後ろに仲間が居るとは限らないんだからな」
「んな悠長な事言っていられる状況じゃなかったろうが……」
 バツの悪そうに声を曇らせるノヴァに、大男は威厳を持って首をしっかりと縦に振る。こうしていると、二人の様子は父親が息子に注意している様にしか見えないので、ヒイロは内心で苦笑を零すしかない。
「そうだ。だからこそ、生き残りたければ用心深くする事に越した事は無い」
「だがな……」
「……経験からくる教訓だ。覚えておいて、損は無い」
 声の主は“金獅子”カンダタ=オデッサ。『勇者』オルテガと共に旅をしていた事がある彼は、ノヴァを真っ直ぐに見据えている。このように冷静に全体を見て、首領を制する事ができる人物が側に控えている事も、この組織の強みだと、他人事の様にヒイロは考えてしまう。
 諭されて、子供の様に唇を尖らせるノヴァに再びヒイロは苦笑し、カンダタに倣って真顔で視線を移した。
「……ノヴァ、カンダタの言う通り俺もそう思う。君は少し前に出過ぎる癖がある」
「ヒイロまでかよ……」
「ノヴァ。君は熱くなりやすいんだ。周りの仲間に恵まれていると言っても、それを過信しすぎるのは良くない」
「…………」
「だけど、俺にはそんな君の熱さが羨ましい……。俺にもそんな熱さが在ったのか判らないだけに、それを持つ君が羨ましくて堪らない時がある」
「……お前」

 しんみりしそうな雰囲気に、半ば傍観していたゼノスは絶妙のタイミングで口を開いた。
「……お前ら、野郎同士で見つめ合うな。端から見てるとこの上なく気色悪ぃ」
「……あのなぁ」
「野郎同士、思う事があるなら拳で語り合えよ」
 酒瓶を片手に、もう片方で握り拳を造るゼノス。その眼は明らかに酒による酔いで剣呑としていた。
「いや、それじゃ痛いだけで、思う事は伝わらないと……」
「つーかお前、他人の殴り合いを見て酒の肴にするつもりかっ!?」
「まあな」
「いや、否定しろよ。オイ……」
 バレたか…、と鼻を鳴らすゼノスに、ノヴァはがっくりと項垂れる。その様を見ていたカンダタは苦笑を零している。一気に変わった雰囲気に、いつしかヒイロも薄く笑みを浮べながら彼らを見眺める。そしてここにはいない、もう一人の親友の事を問いただした。
「そう言えば、ジーニアスは?」
「……ああ。酔いつぶれて今は死んでる」
「……ははは、彼らしいね」
「信じられねぇよ。酒瓶の栓を開けた瞬間に撃沈だからな……。弱すぎるにも程があるっつーの。アイツの母親は恐ろしいまでの酒豪なんだがなぁ……」
 手にした酒の入っている瓶の存在を主張する様に、ゼノスはそれを振る。閉ざされた器の中で波打つその液体が、彼らの気分を代弁する様に往々と躍った。
「あいつが酒に絶望的に弱いのは、父親の血だな」
 ふう、と溜息を吐きながらカンダタは零した。

 暫くの間、“流星”を束ねる者達の間で、乾いた笑い声が心地良い夜の空の下に響き渡っていた。





―――彼等と共にいる時間は温かかった。気を使わなくても良い連中だったから、酷く居心地は良かった。
 彼らの中では何よりも、人と人との繋がりを感じられる。強い絆がそれぞれを繋ぎ、まとめ束ねられている。
 それは彼らには愛すべき祖国であるサマンオサ帝国を救うという、確固たる信念と共通の大儀が存在しているからだ。その折れない意志は揺らぐ事は無く、ただただ前へ突き進む事が出来る為の強さの礎でもある。
 彼らが掲げる唯一の悲願。それを叶える為に迷い無く結束し、歩みを進めるそんな姿はとても眩しく、掲げられた意志の光は、輝く宝石の様に美しいと感じられていた。
 その光輝に満ちた中にいると、空虚な心が満たされる感覚を覚える。が反面、自身に欠けたものの穴は広がってゆくのも確かに感じていた。
“流星”の面々が持つ、時間によって形成された己の価値観。それを信じてどんな逆境だろうと彼らは戦い続ける。だが自分にはその基準たる価値観、自分が歩いてきた足跡の記憶すら、何も残っていないのだ。
 親がいるのか、家族がいるのか。自分は一体何者なのか。背負うべき何かを持っているのか。それすらも今の記憶には残ってはいない。或いは始めから存在していないのかすらも判らない。

 一体、自分は何者なのだろうか……。 果して、このまま自分は彼等と共に居て良いのだろうか。
 そんな焦燥たる思いが、空白の記憶と空虚な心に渦を捲いていたのだ。
(だからこそ俺は、俺自身を知りたい)
 いつからか、こんな渇望が自分の胸の内に生れ始めていた。






 その後、帝国との戦争をいくつも経て、本格的に“流星”討伐に行動を移した帝国騎士団の圧倒的な戦力の前に、帝国領土から撤退を余儀なくされた。
 今までに助けた帝国領民達は他国に亡命させ、盗賊団“流星”はその活動の場を遥かな海洋、そして外の大地に移しながら、今も帝国への抵抗を続けている。

 とある大陸の港町。幾つもの商船が埠頭に犇いている港で、ヒイロは大なり小なりの荷物を幾つかまとめていた。忙しなく手を動かしているその姿は、動きの妨げにならない丈夫な装束に身を包んでいる。いわゆる旅装というものだ。腰に括りつけられた鈍色の鎖の鞭が、射すような強い陽射しに照らされてキラリと光る。
「結局、行くのか? ヒイロ」
「ああ」
 一つずつ荷物の確認をしていたヒイロの背中に、ここ数年で聞き馴染んだ声が掛けられる。振り返るまでも無く相手は判る。“流星”首領のノヴァだ。
「別に俺達は気にしねぇんだぜ。お前が何者であろうとな。記憶の有無があろうが、お前はお前だろ」
「ありがとうノヴァ。でも俺は知りたいんだ。自分が何者なのか」
「お前の意思なら仕方がねぇ……。正直、お前が居てくれた方が、この先も灯明を得る事ができるんだろうがな」
「……」
 別れを惜しんでいる様子を見せるノヴァを、ゼノスが宥めた。
「そんな辛気臭い顔すんな。今まで居てくれただけでも感謝してる」
「ゼノス……」
「おい、ヒイロ! これだけは忘れるな。お前の過去が何であろうと、お前が何者であろうと、俺らは友だって事はな!!」
「わかってるよ、……ありがとう」
 朗らかに微笑んで固く握手を交わし、ヒイロは船を降りた。






――――あれから二年、か。
 未だに、自分という存在が何者なのか解らない。それなりに世界を周ったというのに、その断片すら出てこない。
 世界を観る視点が違うのだろうか。或いは、本当に初めから何も存在しないのか……。
 アリアハン王国では、もうじき彼の『勇者』オルテガの子息が旅立つという。
 彼に同行する事で、『魔王討伐』という大義を自分に課せる事で、新しい視点が、新しい何かが見えて来るだろうか……。試してみる価値はありそうだ。




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