―――――外伝一
        精霊の祝日







 千五百年の長きに渡る、アリアハン王国の歴史にその名を残す統一王。
 それは今より数える事およそ五百三十年。
 当時、建国千年期にあったアリアハン王国は繁栄の最中にあった。時の王は、その類希なる国力を背景に世界の主要七カ国…サマンオサ、ネクロゴンド、イシス、ロマリア、ポルトガ、エジンベア、そしてアリアハン―間の同盟結成に尽力し、その盟主としてアリアハンが世界を統べる一大王国として発展する礎を築き上げる。その前例の無い偉大なる功績をもって、長久のアリアハンの歴史の中で五指にも満たない人間しか背負った事の無い『勇者』の称号を得た。
 若きその王の名は、ラヴェル=クロイツ=アリアハン。

 後年に編纂された『統一王』という彼の偉業の総てを記した歴史書には、彼は勇猛果敢に剣を振り騎士の先陣に立ってそれを率いる勇将であり、卓越した話術と外交術に長けた智者でもあったと記されている。そして何よりも、彼を語る上で欠かせない事実は、彼は当時国教として定められていた精霊神ルビス教の敬虔な信者でもあった、と言う事だ。
 その彼が施した数々の制度、政策には、ルビス教の教えの端々が生かされているという事は紛れも無い歴史的事実であり、今に生きるアリアハン王国の人間ならば誰でも知っている周知の現実でもある。
 その彼が熱心に聴講していたと言う、精霊神ルビス教の聖典に謳われている一節。
『世に生きとし生ける総ての命を愛し、慈しみ、称えるべし。如何なる存在も、その霊魂の価値は等価である』
 勇者ラヴェル五世はこの教えの下に、その日は血を見る事を禁じ、それを想起させる如何なる活動も禁止する。 また、その日を安息日として、家族や友人、恋人と共に静かな時を過ごし、遥かなる地より人々を見守る精霊神ルビスへの無限の感謝と敬愛の祈りを捧げる日…“精霊の祝日”と定めた。




 盛者必衰の理の如く、月日の流れと時代は流れ、人の世は儚く蕩揺い続ける。同盟と言う大規模共同体の裡で着々と力を溜めていた各支配国は次々と独立し、次第にアリアハン王国はその実権を失っていった。
 だが、統一王の打ち建てたこの祝日は、各々の地域でその本来の意味と所以を変容させて、今日でも安らかな時を飾る為の安息日として、大きな痕跡を遺している。






 そのアリアハン王国に住む人間にとっての極めて日常的な行事。
 城下にその居を据える、神を奉ずる為の相応しい荘厳さと、その長い歴史を物語る優麗なアリアハン教会大聖堂。今日という日。ここに集った人々は終日、ミサを迎えていた。
 在る者を圧倒する芸術的な彫刻に飾られた祭壇に座す、優しい微笑みを湛え見下ろすルビス神像。思わず息を呑む事すら忘れさせてしまう、精巧な左右対称の調和の取れた空間には、冷涼に澄み切った空気が漂っている。宙に舞う微かな埃の動きは、ただそれだけで賛美歌を奏でているようにさえ感じてしまう。
 暗茶色の塗装が剥がれかけている木の長椅子は理路整然に陳列され、それらには老若男女問わない市井の人々が隙間無く犇き、腰を下ろしている。壇上で、この大聖堂の司祭ラドル=ライズバードが聖典を朗読し、熱心に聴聞している人々にその教義を説いていた。
 約五ヶ月前に甚大な被害を齎した、魔物群の王都襲撃事件の恐怖が未だに尾を引いている為か、司祭の説教を聴く人々は救いという光を求め、縋りつくように弱々しく、精彩を無くしている様であった。

 その礼拝堂の隣室…清潔感を醸す様に壁が白く塗装された部屋。
 それ程広くは無い部屋には、ミサに来た人々の連れの子供達、十数人が椅子に鎮座していた。
 礼拝堂から壁越しに聞える父の説教をどこか意識の遠くで聞きながら、ソニアは一冊の古びた本を手にして、自分を囲む様に座っている子供達に読み聞かせていた。
「精霊神ルビス様はこの世界を御創りになった時、初めに犇いていた混沌とした虚無から、光と闇を創りました。ただ、その間は不安定な虚空に満ちていた為に、次にその虚空に満ちた世界を、空と大地の二つに分けて秩序を齎しました」
 彼らは幼さゆえの純真な一途さを宿す瞳を煌かせ、その話に聞き入っている。語り手であるソニアの澄んだ声は、扉の向こうで後に予定されている賛美歌の斉唱、その前奏曲の様に部屋中を流れていた。
「ルビス様は、自ら創り出した世界を見て回る際、自身の分身である五色の供を引き連れて行く事にしました。まずルビス様の往く直後ろを赤が追い、白と黄がそれに続きました。その結果、光と闇とが昏迷に在った空には、赤碌に燃える太陽と白翠に輝く月。そして黄碧に煌くの星が飾り付けられて、普く世界には色彩が満ちていきました」
 自分も、嘗て何度も読み返したこの本の内容を思い出す様に、ソニアは一音一音ゆっくりと丁寧に綴っていった。これで日当たりが良ければ、単調に語っているそれは宛ら子守唄の様に響き、周囲で耳を傾けている子供達が安らかな寝息を発ててしまうのではないか……。そんな想像を浮べ、胸中で苦笑してしまう。
 この子供達位の年齢の時、自分はどうであったか、と記憶を探り出すが中々に見つからず、多分寝ていたんだろうな、と思い至り何となく可笑しくなってしまった。
 実際には、今いるこの部屋には直接に日の光は射してはいない。建物の南側に拵えられた窓、そして昼を過ぎた今の時間帯には、この窓から直接陽射しが入ってくる事は無いのだ。
 窓を覆う様に白いカーテンが引かれ、開け放たれている窓からは晩春の温かな光風が入り込んで来て、気分を穏やかなものにしてくれる。風に靡いているカーテンの隙間からは、夏になりきらぬ陽気が柔らかな光と共に部屋にいる者に分け隔て無く、安心という恩恵を与えていた。
 まさに精霊神ルビスの祝福に満ちた日だ、とソニアは手にした本の頁に目を走らせながら、そう思った。
「次に、その三色に遅れて黒が着いて行き、その黒曜の足跡からは、恵みを齎す雨水が絶え間無く大地に降り注いで、それは川となり、やがて生命を育む大海になりました。一番後ろをゆっくりと着いて来ていた青は、その青晶なる瞳で芽吹く命を眺めながら、他の四色の後を追って行きました」
 郷愁に耽りながら読み続けてきたとあって、それは戻らない過去を否応無く想起させてしまう。心の底から込み上げて来る感情を振り払う様に、ソニアはここで一つ息を吐いた。
「自らが創り上げた世界を見終えた精霊神ルビス様は、自身の寝所に供の五色を伴って、長い休息を取られました。ルビス様が休まれている長い長い間に、数多くの生命が産まれ落ちては世に広がって行き、世界は今のように生命に溢れていきました。…………これが、精霊神ルビス様の『天地創造』のお話です」
 パタンと両手でその本を閉じる。年季が入っていた為かその拍子に、本の表紙の装丁の一部がパラパラと欠け落ちて、吹き入る風に流されていった。

「どこか判らなかった処があるかな?」
「てんち、そーぞーって、なぁに?」
「ルビス様が、この世界を御創りになった、という事よ」
 挙手をして不思議そうに大きな瞳で見上げてくる少年に、ソニアはたおやかに微笑む。
「なーんで、五色なの? 六つでも七つでもいいじゃん!」
「色にはね、たくさんの意味や魔力が含まれているの。ルビス様にとって、とても所以の深い色がその五色なのよ」
「はい、はーい! ソニアおねーちゃん。理想郷って何ですかぁ?」
「それはね。ルビス様がその御身体を休めた地、争いの無い、穏やかな光に満ちた平和な地の事よ」
「そこは、何て言う所? お名前があるの?」
「ええ……。ルビス様の恩恵に預かりし約束の地……『アレフガルド』」
 子供とは無邪気で、それだけに鋭い直感を持っている。そう思いつつ、ソニアはその答えを重々しい口調で言った。理想郷という言葉に、憧憬と羨望を覚えながら。
「じゃあ、そこのアレフ…ガルド? に行けば、ルビス様にお会い出来るんだね?」
「ふふ…、そうね。ルビス様はその地で、いつも私達を見守ってくださっている。いつも善行をするように心掛けないといけないわね」
「う、うん。僕は大きくなったら、正義の『勇者』になって、沢山悪い魔物をやっつけてやるんだ!」
 木漏れ日の様に優しい笑みを零しながらのソニアの言葉に、質問した少年はギュッ、と小さな両手を握り締めながら、翳りも淀みも無い純粋な眼差しで自分を見上げてくる。その眼差しが、ソニアの心には痛かった。
「……そうなんだ。ルインくんは、『勇者』になりたいの?」
「うん! ユリウス様みたいに、たくさん魔物をやっつけて、クレアや皆を守ってあげたいんだ!」
「おにいちゃん……。こんな所で…、……はずかしいよぉ〜」
『勇者』と言う単語に、ソニアの紅玉の瞳に翳が走る。そのまま、瑞々しい青髪の双子の兄妹の微笑ましいやり取りを、何処か遠くの出来事の様に見眺めて、ソニアは胸中で自嘲的に嘆息した。
「そう……。だけど本当なら、そうなる前に、世界が平和になってくれれば良いよね」
「うん!!」
「…さぁ、皆。祈りましょう。彼の地から見守って下さる、精霊神ルビス様に」
「「「はぁい!!」」」
 そうしてソニアは子供達を伴い、その部屋にも飾られてあったルビス神像に向って黙祷を捧げた。
(ルビス様……。どうか私に真実を、お導きください……)

 やがて、ミサの終了を告げる鐘の音が夕、大聖堂や周囲の街並に響き渡っていった。





「ソニア。ご苦労様」
 既に日が傾き始めて数刻が過ぎていた。
 ミサで予定されていた行事も全て終わらせたラドルが、礼拝堂の隣室の中で片付けをしているソニアに労いの言葉を掛けながら、ゆっくりと入って来る。
「お父様……。いいえ、苦労なんて事は有りません。私が好きでしている事ですから」
「そうか……」
 何かを言いたい様に、何かを躊躇っている様に、ラドルは忙しなく視線を部屋中に泳がせている。ただその中で、娘と視線を合わせる事だけは無かった。それが無意識になのか、意識的になのか対面している自分には判断がつかない。ただ自分と同じ父の紅の双眸には、焦燥にも似た何かが浮かんでいる様であった。
 そんな普段らしからぬ父の様相に、首を傾げるソニア。
「どうかなさいましたか?」
「……話がある。こちらに来なさい」
「……はい」
 有無を言わさない父の言葉に思う事があったのか、ソニアは重々しく口を開き、父の後を追って行った。




 ステンドグラスから射し入る西日によって、礼拝堂は色取り取りの光彩に包まれていた。その荘厳な空間を演出するかのように、母ディナが祭壇の隣に座すパイプオルガンの鍵盤に指を走らせている。
 奏でられるオルガン曲は、天井に向って伸びているパイプを通して刻まれ、夜と共に冷え始めた空気と石造りの礼拝堂の壁に反響して、美しい音色をこの空間中に満たしていった。
 その麗らかな音色を、扉の前で立ち尽くして、ソニアは双眸を伏せて聞き入っていた。
(……哀しい音色)
 優雅に流れるそれを、ソニアはそう感じ取った。どこか圧倒されそうになる迫力と、その透明な音ゆえの空虚さがそう感じさせたのかもしれない。聴きながら何故か胸が苦しくなって、手を胸元で固く握り締め、瞳を伏せる。



(この胸の苦しさは、何なんだろう……)
 そう自問しても直ぐに答えが出る事は無い。音の荘厳さに気圧されている訳でもないのに、この責め立てられているように心がざわめくのは、一体何故なのだろうか。
 それを求め、更に思案を深く巡らそうとするけど、深静な夜に響く玲瓏の如く澄んだ音色に、胸の内が揺さぶられ、悲愴と悲哀の感情が昂ぶって、身体の内から自分を震えさせてしまう。思考を覚束無いものにしてしまう。
(哀しいと感じるのは、私の中で何かを求めているから。欲しているから……かな)
 打ち震える身体を両手で抱くように抑えながら、何とか纏まった思考。
(多分、そうなんだろうな……)



「……ソニア」
 ディナが切り出したので、慌てて開眼し、母を仰ぎ見る。
 オルガンの椅子に座ったままこちらを見つめてくる菫色の瞳は、強い意志の光を灯していた。長く黙考に沈んでいた為に、母が既に曲を引き終えたと言う事に気付くのに少し時間を要してしまった。
「お母様……。どうかしたのですか?」
「王から通達があった。お前、魔王討伐の旅に同行するのか?」
 どこか探るようなソニアの問い掛けに、ディナは間髪入れずに切り出した。その正しさにソニアは思わず言葉と息を呑んでしまう。
「…………はい」
「一体自分が何を言っているのか、本当に解っているんだな?」
「はい。承知しております」
 母親としての心配の色を浮べながらも意志を試すような言葉に、ソニアは負けじと姿勢を正し、その揺るぎ無い紅の双眸で母を捉えて、しっかりと頷く。
 既に決意した事。何があっても折れるつもりは無い。そう、その視線は物語っていた……。



―――私は旅立つ事を既に決意していた。あれは四ヶ月前。忘れもしない神官学校を卒業する、三日前の事。





 アリアハン王宮内を定時定刻に見廻る兵士達。
 変わり無い日常業務は、新たな刺激を求める貪欲さを心の中で塵の様に積もらせていく。やがて積み上げられた塵の山は、ほんの微かなきっかけさえあれば、すぐさま表面化して雪崩の様に敢え無く決壊する。そして、その残骸にまたじわりじわりと飢えを積もらせては、同じ事を繰り返す。
「なぁ、知ってるか?」
「何を?」
「……セフィーナ様の死因さ」
「魔物に殺されたんだろ? いつも偉そうにしていた割には使えないって、魔術師長と大臣が高笑いしていたぜ」
 言葉尻に篭められた軽薄さが、それが話題の人物への揶揄である事を表していた。
「それが、な……。どうも斬殺らしいぜ」
「? 剣を使う魔物がいたって事か?」
 話の要領を得ない兵士に、もう一人の兵士は首を横に振る。
「いや、実際に騎士団が着いた時には、『勇者殿』が全て終わらせていたらしい」
「さっすが、アリアハンの誇る『勇者』。魔物を殺す為だけに、生きているようなもんだからな」
「……でな。その騎士団の奴が言うには、その時『勇者殿』が手にしていた剣には、赤い血が付いていたんだとよ。魔物ってのは青い血だろ? ……例外無く、な」
 ようやくその意味に気付いた兵士は、僅かに声を振るわせて、真剣な顔つきになる。
「……おい、って事は」
「そういう話を、俺は他の奴から聞いたんだ」
「……かなりヤバイだろ。その話」
「…………特に、城下の人間に聞かれるのはヤバイな」
「だったら、こんな処で言ってるんじゃねぇ!」
「いや、何となく暇だったんでな……」
 アリアハン王宮は、市井の人間でも気兼ね無く入れる様に常に門戸を開いている。入れる場所は限定されているが、今自分達がいるのは、見学可能区画だ。どこに人の耳があるのかわからない。
 惚けた理由で余りに信憑性のあるそれを語った同僚に、その兵士は怒鳴り声を上げていた。




(……そんな)
 国中で盛んに復興作業が続けられる中、王立神官学校の卒業を三日後に控えたソニアは、校舎のある城内を同級の友人と歩いていた。その時、壁越しにこの話を聞いてしまった。
「ねぇ、ソニア……」
「…………」
 不思議そうに自分を見てくる友人の様子から、どうやら、彼女には聞えなかった様だ。それには胸を撫で下ろすが、頭の中が晴れない靄に覆われた様に、自分の思考を掻き乱していく。もともと白い顔からは血の気が失せていき、青白くなっていった。
(……ユリウスが、姉さんを!?)
「どうしたの、ソニア? ……ソニア!」
「えっ!? ……な、何?」
 恐る恐る顔を覗き込んでくる友人に、ソニアはビクッと身体を強張らせ、らしからぬ大声を上げてしまう。その意外な反応に、逆に声を掛けた友人も萎縮してしまった。
「何って……。あんた、黄昏るのはまだ早いわよ。卒業まであと三日もあるんだから、ね。答辞読むのはあんたなんだから、しっかりしてよね」
「え、ええ。そうね……」
「ほらほら、行こ」
「……うん」
 呆れた様に、半眼を向けて来る友人に苦笑を返しながら、ソニアは前へ歩き出した友人に続く。だが動揺の為、その足取りは不確かなものになっていき、上手く形容できない不透な感情が次々と心から涌き上がってくる。
(あんなに楽しそうに、嬉しそうに話していた姉さんを……、ユリウスが!?)
 初めて会って以来、ユリウスとは何度か面識があった。思い出されるのはいつも、姉にからかわれて憮然としながらも、何処か嬉しそうに返していたユリウスの顔。そしてそれを楽しげに、柔らかく笑って見ている姉の顔。
(そんな事って……)





―――ユリウスが私の事を覚えているのかなんて判らない。姉の葬儀以来、ユリウスとは一度も顔を合わせてはいなかったけれど、私の中では彼に対しての疑念が芽生え、確実に育み始めて、それは抑えようがなかった……。



「……済みません。何の相談も無く勝手に決めてしまいまして……」
 言葉通りに、自分一人で決めた事にソニアは申し訳無く思い目を伏せる。両親達は自分を大事にしてくれている。そんな二人に話さない自分が酷く勝手な人間に思えてくる。が、それでも決意は変わらない。
 そんなソニアの考えなど見越しているかのように、ディナは穏やかな声色で言う。
「その事はいい。ソニアも既に成人だ。一人の大人として自分の路を決めたのを母親として嬉しく思う」
「お母様……」
 母の優しさに、思わず涙腺が緩みそうになる。父もその横で、優しい眼差しを向けて来ている。
 魔王討伐の旅…それは死と隣り合わせの危険に満ちた旅。その意味を良く知る両親は、それでも自分の選ぶ道を認めてくれた。そこに、どんなに歳を重ね様とも自分はこの二人の子供である事には変わり無い、という事実を自覚させられて胸が熱くなった。
「ソニアの心はわかっているつもりだ。……『勇者』、ユリウス=ブラムバルドを監視する為だろう?」
 緩められていた表情を毅然なものにして、ディナは真っ直ぐにソニアを見つめる。
 そんな母と大好きだった姉が重なり、やはり姉は母に似たんだな、と思う。そして、また哀しい気持ちになり、伏せ目がちになってしまう。
「……その通りです」
 僅かに声の調子を落として、ソニアは断言した。



―――『アリアハンの勇者』ユリウス=ブラムバルド。国の名前と大義名分を背負う彼には、それを見張る役目が当然に必要だった。表向きは、彼の父オルテガ様の二の舞にはさせない為という事で、その役目は宮廷に仕える、宮廷魔術師、司祭の中から選ばれる事になった。





「……と言うわけだ。じきに旅立つ勇者殿の補佐を、申し出る者はおらぬか?」
 総勢百を越えるであろう、宮廷魔術師、司祭を一堂に集め、その総括者たる宮廷魔術師長リグリアは、部下達を一望しながら重々しく口を開いた。
「「「「…………」」」」
「……誰かおらんのか?」
 市井の人間に比べて現状把握ができているが故に、その発せられる意味を熟知し、誰もが口を噤んで沈黙を保っていた。それを見て、リグリアは眼を細めながら声を荒げる。
「この任務は、我等人類の輝かしい未来に光明を齎すものとなる。その先駆者としての栄誉を――」
「魔術師長様」
 変化の見られない部下達に、リグリアは人心を煽ろうと美辞麗句を並べ始めた。その効果を表すように、ただただ黙していた場には、微かに迷いと言うざわめきが起こり始める。
 その反応に内心で笑みを浮かべながら、尚もリグリアは続けようとするが、その時、広間に落ち着いた声色が響き渡った。歳若い、澄んだ麗らかな声だ。
 一同、その声の主を仰ぎ見るように視線を動かす。
 その幾つもの視線の先には、浅葱の長髪を宮廷司祭の白いローブの上に流し、対比する真紅の瞳を持った少女…ソニアが真っ直ぐと魔術師長を見据えながら佇んでいた。天窓から射す日の光を洗礼のように浴びて、揺らぎ無い毅然とした雰囲気は、透るような清廉さを醸し出していた。
「その任。私が引き受けたく存じます」
「名は?」
「……ソニア=ライズバードと申します」
 ソニアが名乗った途端、周囲で再びざわめきが起こる。城下にある大聖堂の令嬢という事もあるが、ここ王宮内で意味が違う。あの『理慧の魔女』の義妹…その意味の方が遥かに強かった。
 それを示すかのように、リグリアは見下すように、侮るように顎鬚を弄んでソニアを見据える。
「ライズバード? ……宜しいのか?」
「覚悟は出来ております」
「いいだろう。では、そなたに任せよう。詳細は、おって知らせる」
「はい」
 上司や先輩、同輩達からの視線を一身に受けても不思議と緊張は無かった。数ある視線の中からは、小娘が売名の為に名乗りを上げた、などと言葉無く投げかけてくるものもあった。だけど、そんなものなど微塵も気にもならなかった。
 自分にそんな頑なな一面があった事を認識して、どこか驚いてしまう。
 ソニアは酷く冷静な思考回路のまま、決意を示す様に凛として答えていた。





―――こうして、私は『勇者の供』として、彼の傍で監視をする事になった。
 彼の旅立ちは、彼が成人を迎えるという夏の日。その日まで私は、以前から励んでいた護身術、棒術。そして魔法の訓練に明け暮れ、『勇者』の足手纏いにならない様に準備を進めていった。



「ソニア……。決して、目先の感情に流されない様に……。その両の眼で真実を見極めてきなさい」
 今まで黙って母子のやり取りを見眺めていた父ラドルは、言った。
「! お父様……」
 見透かされていた。そうソニアは思い、いつのまにか俯きがちになっていた顔を、水に打たれたように上げる。
『勇者』を監視する任務。それを受けた動機が正義感や使命感、憂いに満ちた世を正そうと鑑みた結果によるものではない事を。精霊神ルビス教の信者として、慈愛と悲哀をもって世界の為に尽くすのでは無い事を……。
 ただ、自分は赦せなかった。
 あの噂が。「火の無い所に煙は発たぬ」と謳われる、その言葉の意味する処が。
 神に仕える僧侶たる自分が、このような心持ちをしてしまっている事が。
 自分自身の裡に、これほどまでに卑しい心が巣食っていたという事が。
 見れば、母も同じ様な眼をして自分を見つめている。その責めるでも無く、止めるでも無い。ただ娘の覚悟と意志を認め、それを受け入れると言う親の愛情に満ちた視線が堪らなく痛かった。
 少なからずとも、何かしらの咎めを受けると考えていただけに、その温かな視線は氷柱のように胸を貫いていく。半ば自己嫌悪に陥っていた中で受ける、優しさに満ちた視線は、酷く自分の心を揺さぶってくる。自身の矮小さが浮き彫りになってしまいそうで、涙腺は緩み、目尻には涙が溜まってしまっていた。
「わ、私は知りたいんです。どうしてあんな事になってしまったのかを……。どうしてユリウスが姉さんを……!」
 苦しそうに胸に手を押し当てながら、ソニア。握った拳が震えているのは、彼女の感情が大きく揺れている事を顕著に示す。
「何も言わなくていい。私達はお前の親だ。……ソニア、お前の努力は知っている。お前の気持ちも充分解っているつもりだ。だが…いや、だからこそこれだけは言わせてもらう」
 いつも、どんな時も優しく柔らかい父の瞳。自分と同じその紅の瞳が、今までに見た事が無い位強く自分を見つめてくる。そこに宿る意志の強さに、ソニアは気持ちが数歩後退するのを感じてしまった。
「……今のままでは、お前は決して真実に辿り着けないだろう」
「! どうしてですか!?」
「今のソニアは、感情が先走りしているからだ。感情的な性質は真実を見る眼を曇らせる」
「……お父様は平気なのですか? あのような噂が流れていて、それでも平然としていられるのですか!?」
「……ソニア」
 悲愴さに顔を歪め、捲し立てる娘が不憫でしかたがない。ラドルはそう感じながら語彙を強め、言った。
「聞きなさい。今、お前の中に渦巻いている悲しみ。その憂いに満ちた現状では無く、それを抱かせた原因子に眼を向ける事は、これから先の人生という長い路を進み続ける上で正しい事だと、私は思う」
「…………」
「だがな……、その原因に対しての追求する瞳が、恨みや疑念の感情によって曇っているようでは、問題の解決を阻む事に繋がるだろう。それでは決して真実を見極める事は出来ない」
「でも……、でも私はっ!」
「……今のお前に、恨みと疑念を抑えて大局を見つめる事ができるか? ユリウス=ブラムバルドと対峙した時、平静な心で彼と向き合えるのか?」
「それは……」
 父の言葉に、ソニアは詰まる。父の言葉は余りにも的確に、堅固に組み上げた筈の意志の隙間を縫って、心を捉えてきたからだ。
 動揺を隠そうと声と身体を震わせて、苦しそうに顔を歪めながらソニアは何か言おうとしたが、突然視界が闇に覆われてそれは遮られる。突然の事に息も出来ず、唖然として眼を瞬かせていた。自分の頬と頭を温かな感触が伝わる。自分の髪をゆっくりと梳く何かがとても優しくて、心が次第に落ち着いていく。
 そして現状を理解しようと意識を戻すと、父ラドルが、自分を無言で抱き締めていたのだ。
「……お、父様?」
 自分を包み込む父の腕は温かかった。その温かさに目の前が霞んで、喉の奥がカラカラになってきていた。
 幼い子供をあやすように、優しく自分の頭を撫でながら、父は言う。
「すまないソニア。私はお前を苦しめたい訳ではないんだ」
「わかっています。お父様が私の事を案じてくれているのは……、わかっています」
「迷ったら、泣き出しても良い。辛くなったら、逃げ出しても良い。……ただ、生きて帰ってきなさい。それだけが私達の願いだ」
「……はい」
 心からとめどなく込み上げて来る何かを、もう抑えられそうに無かった。
 震える声で二つ返事をして、ソニアは父の腕の中で堰を切った様に泣き始める。……父と母の優しさに申し訳無さを感じながら。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……そう心の中で叫びながら。

 祭壇から親子を見下ろす精霊神ルビスの神像が、暮れる夕日に照らされて、優しく微笑んでいた……。




―――そして私は、真実を見極める為に魔王討伐の旅に出た。
 頼もしい仲間も増えて、何とか着いて行けている。だけど、それに反してユリウスの事を見れば見るほど、解らなくなってしまう。
 躊躇無く魔物の生命を奪い、仮面の様に冷たい面。怜悧冷酷な眼光……。姉さんといた時の嘗ての少年らしい様相など微塵も感じない、浮かばない……。
 真実は、一体何処にあるのだろうか? それは、私に掴める事が出来るのだろうか?
 ……答えの見えない路を、猜疑と疑念を抱いたまま私は歩み続けている。




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